現の主人と影

「そんなに無防備やったら、すぐ取られてしまうで」

耳元で声がした。

驚いて振り返ろうとする。

けれど、その前に気づいた。
いつの間にか、多田くんが私の背後に回っていたことに。

さっきまで目の前にいたはずなのに。

一体、いつの間に……?

背後に立つ彼の気配に、身体が強張る。
振り返ることさえできないまま、私はただ、その場に立ち尽くしていた。

多田くんが、にぃっと口元を歪めた。

その笑みを見た瞬間、背筋に嫌なものが走る。

「影、ふ〜んだ」

からかうような声が耳元で響いた。

次の瞬間、私は反射的に彼から飛び退いた。

突然のことに、多田くんは一瞬だけ目を見開く。
けれど、すぐにその表情は、興味深そうなものへと変わった。

「……へぇ」

感心したように声を漏らし、彼は私をじっと見つめる。

「そんなこともできるんや。ほんまにおもしろいな、君の影」

まるで珍しいものを見つけたかのように、彼は目を細めた。その口元には、先ほどと同じ笑みが浮かんでいる。
けれど今度は、そこに隠しきれない好奇心が滲んでいた。

ゆっくりと距離を詰めてくる多田くんを前に、私は後ずさった。

これ以上、ここにいてはいけない。

そう思っても、恐怖で足が思うように動かない。
それでも、どうにか一歩を踏み出した。

「…っ、来ないでくださいっ…!」

震える声でそう告げると、私は彼に背を向け、教室を飛び出した。

廊下を駆けていく足音が、次第に遠ざかっていく。
その音が聞こえなくなると、彼は小さく息を吐き、口元を緩めた。

「あれ、怖がらせてしもたかな〜」

くすくすと笑いながら、彼は頭の後ろに手を回した。

「ははっ、かわええなぁ……瀬尾ちゃん」

先ほどまでりんが立っていた場所に目を向けると、ふと思い出したように首を傾げた。

「それにしても、取れたと思たのになぁ。手応え、全然なかったわ」

独り言のようにつぶやいた。

「なぁ〜。いろちゃん」

彼は誰もいないはずの背後へ、気軽な調子で声をかけた。

「いろちゃんより、力ありそうやなぁ」

次の瞬間、彼の背中に何かが当たった。

「って、叩かんとって(笑)」

笑いながら、叩かれた箇所を押さえる。

「あ〜、ごめんて、冗談やって」

悪びれる様子もなく笑いながら、彼は背後に視線を向けた。