現の主人と影

「あ、あの……!」

私は一度、ぎゅっと手を握りしめた。

怖い。

けれど、それ以上に…
この人を、このまま帰したくないと思った。

「お願いがあります……」

震える声を、どうにか絞り出す。そして…

「わ、わたし、の…っ、私の影になってくれませんか……!」

口にしてから、自分でも驚いた。
思わず飛び出してしまった言葉に、喉が詰まる。

取り消さなければ。
そう思ったのに、声が出なかった。

男性は何も言わない。

沈黙が怖かった。

断られる。

きっと、そうだ。

私は膝の上で手を強く握りしめた。
それでも、どうしても伝えたかった。

「……少しの間だけ、でいいんです」

震える声で、言葉を続ける。

「あなたが……あなたの主人を探し出すまで」

一度、息を吸う。

「それまでの間だけ、私の影になってほしいんです…っ」

返事を聞くのが怖くて、私は顔を上げられなかった。
ただ、濡れた地面を見つめる。

雨の音だけが、静かに響いていた。

やがて、その音が少しずつ小さくなっていく。

しとしとと降っていた雨が、いつの間にか弱まっていた。

雲の切れ間から、淡い光が差し込む。
その光が地面を照らした、その瞬間だった。

ふいに、足元に影が落ちた。

顔を上げるとそこには、私の足元に跪き、私を見上げる影の姿があった。

「……え」

そして、ゆっくりと頭を垂れた。

「この如月、我が主人を見つけるまで」

低く、落ち着いた声が響く。

「あなたに忠誠を誓うことを約束する」

一瞬、何が起きているのか分からなかった。

ただ、目の前の影から目を離せない。

影は顔を上げる。

その影はまっすぐ私だけを見つめていた。

「現の我が主よ」