現の主人と影

ただ、一つだけ例外がある。

雨の日だ。
雨が降ると、人はみんな空を見なくなる。

傘を差して、足元を見ながら歩く。

雨音が、街中の声を覆い隠す。誰かの視線も、雨粒の向こう側へ消えていく。

だから私は、雨が好きだった。

雨の日だけは、外へ出てもいい。
そう思えるから。

その日も、朝から雨が降っていた。

窓ガラスを伝う雨粒を眺めながら、私はゆっくり立ち上がった。

今日は、外へ出よう。

傘を手に取り、玄関のドアを開ける。
冷たい雨の匂いが、ふわりと鼻をくすぐった。

私は傘を開いて、外へ出た。
雨音と、自分の足音。ときどき、すぐそばを通り過ぎていく車の音。
それ以外には、ほとんど何も聞こえない。

私は、この静かな時間が好きだった。

雨の日に訪れる場所は、いつも決まっている。
家から少し離れたところにある、古いバス停。

もう使われていないのか、時刻表はすっかり色褪せている。屋根にはところどころ錆が浮かび、ベンチも少し古びていた。

それでも、私にとっては十分だった。
ここに来ると、まるで世界から切り離されたような気持ちになれる。

誰にも見られない。

誰にも、何も言われない。

私に影がないことを、誰も知らない。

 だから、私はここが好きだった。

ベンチに腰を下ろし、背もたれに身体を預ける。
雨が屋根を叩く音が、一定のリズムを刻んでいた。

しとしとと降り続く雨は、まるで私の存在を隠してくれているようだった。

私はそっと目を閉じる。

このまま、ずっとここにいられたらいいのに。

そんなことを考えていた、そのときだった。