現の主人と影

何も考えられないまま家に帰り、自室にたどり着いてからも、私はただその場に立ち尽くしていた。

頭がうまく回らない。

どうして、気づかれたのだろう。
なぜ、あの人は私の影を奪おうとしたのだろう。

考えようとすればするほど、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。

「……りん。大丈夫だ」

不意に、如月の声が聞こえた。

その穏やかな声に、張り詰めていた心がわずかに緩む。

「何があっても、私はきみの側から離れることはない」

静かに告げられたその言葉が、今の私には何よりも心強かった。
少しずつ、止まっていた思考が動き始める。先ほどまで何も考えられなかった頭にも、ようやく余裕が戻ってきた。

「……今、話をしてもいいだろうか?」

如月の問いかけに、私はこくりと小さく頷いた。

すると、目の前に如月(影)が姿を現す。

如月は私の様子をうかがうように、ゆっくりと口を開いた。

「先ほどきみが会った、多田という男だが……あれも、自分自身の影ではない」

「……え?」

思いがけない言葉に、私は思わず顔を上げた。

「契約の印が見えた」

「……印?」

聞き慣れない言葉に、思わず聞き返す。

「ああ。影を持たない人間と、影が共に過ごすためには、契約を交わす必要がある」

如月は、私の反応を確かめるように一度言葉を切った。

「契約を結ぶきっかけとなるものは人それぞれだ。そして、その証となる印もまた、形は一つではない」

そう言って、如月は再び話を続けた。

「多田と影を繋いでいたものは、糸だった」

「……糸?」

「ああ。簡単に言えば、一体化するために、互いを繋ぎ合わせるものだと考えてくれればいい」

如月の説明に、私は小さく頷いた。

糸が契約の印になるなんて、考えたこともなかった。

ふと、ひとつの疑問が頭をよぎる。

「……じゃあ、私と如月は?」

私たちを繋いでいるものは、一体何なのだろう。

そう尋ねると、如月はわずかに目を細めた。

「私の場合は、名前だ」

「……名前?」

「ああ。先ほども言ったが、契約の方法は一つではない。私ときみを繋いでいるのは、私の名前そのものだ」

思いもよらない答えに、私は思わず目を瞬かせた。

名前が、契約の印になる。

その言葉を頭の中で繰り返していると、如月は静かに言葉を続けた。

「だからこそ、この名を他者に口外することは、あまり勧められない」

いつになく真剣な声音に、私は思わず背筋を伸ばした。

「仮に誰かに知られたとしても、私とりんの契約が簡単に解けるわけではない。だが、用心するに越したことはないだろう。余計な危険を招かぬためにも、覚えておいてほしい」

その言葉に、私は改めて自分と如月を繋ぐ契約の重さを感じていた。