唇のしたは、きみだけが知っていて


 航は矛盾を愛しているのだと思う。
 例えば、俺が学校で色々噂されたり、野次を飛ばされたりするのはすごく嫌いだ。生徒会役員という役職を盾に、一年の頃から先輩にも堂々と注意をしていたらしいし。
 らしいというのも、俺は全くもってそれを知らなかった。つい四カ月? 前まで。これもつぅに教えてもらった。風紀が乱れるどうのこうのいってめちゃくちゃ注意してたって。
 それでかってなったもん。これのせいで余計に嫌われたのかって。一時期凄かったもん。

「いたっ」
「あっごめんごめん」

 偶然を装って脇腹を肘で掠めた。座っている航の足の間に入り抱え込まれ、一緒に漫画を呼んでいる。最悪なことに収まりはいいどころじゃない。
 何も言わずにまた読み耽ることに熱中し始めた航の盗み見しながらまた考えを巡らせる。

 まぁしかし? それによって俺が孤立するのはすごく好きだと思う。変な虫がつがなくて済むだなんて思っている。独占欲がものすごく強い。
 ついでで言うと、とにかっく俺がつぅと一緒にいるのがいや。感謝というものがないのかっ! とか考えないわけじゃないけど、なんやかんやつぅの誕生日のプレゼントちゃんと買うし。
 ……すんごい苦虫を噛み潰したような顔は、するけど。
 それでもちゃんと見定めて、レジに行って、自分の小遣いで、きちんとプレゼントを買っていた。今もそれは継続中。大量のバナナグッズをこさえている。だから多少の感謝はしていると思う。
 もちろん、俺がやりたいだとかしたいなとか言ったこともモチベーションのうちには大いに入っているとは思う。でも実行に移しているし金銭も発生しているし、嫌いでは、確実にない。
 だから今回もそんな矛盾を愛してしまっているのだと思う。だってそうじゃなきゃ、

「……航が抱かれる側ってそりゃないわぁ」

 薔薇が舞い散る漫画を読みながらやっぱりそう思う。ビジョンが、想像が、全くできない。こいつが俺に組みしだかれているのを。
 おれが、こいつを、航を、組みしだいているのを。

「ないわぁ~~、」

 首を九十度に傾けてしまう。
 そんな俺の言葉に反応したのか、サラッサラの絹みたいな黒髪が俺の首筋に嫌な主張をしてきた。お互いお風呂に入りたてでラクトフェリンの香りが高い。
 俺と全く同じ時間に同じ湯船に浸かって、同じシャンプーコンディショナーボディソープを使っているのに、なぜこんなにも香りがちがうように感じるのだろうか。その人本来の匂いっていうのはやはりあるのだと、お風呂上がりは特に思う。

「うるさい。ちゃんと読んでるんだから邪魔しないで」
「だってこれも、これもこれもこれもっ!! ぜんっっっっぶ!! 抱かれている方の子はお前とはとてもじゃないが似つかないぞぉ?」

 部屋の本棚にある薔薇漫画、薔薇小説を指で突き刺し、背後霊かのようにびっしりと俺にくっついている男に大声でそう主張する。

「……この、黒髪メガネの生徒会長なんて僕にそっくりじゃないかっ!?」
「いやこの子は抱く方だろ?」
「え゛っ」

 俺を押しのけ、俺の手元にあった漫画をひっぺがすように奪い取って血眼になって読み進める。目にに血豆でもできちゃうよ。

「あっ、」

 俺の予想は的中したみたいだ。該当のシーンを見つけたのか項垂れて漫画が手からこぼれ落ちる。相当声はか細かった。漫画をひょいっと掴み取り、口元を隠しながら甲高く「ヒャ~」と叫ぶ。

「いやぁ激しいですねぇ。バチバチに攻めてるじゃないですか!」

 体育倉庫で拘束されながら激しく交接が繰り返されていた。紐で縛られてる抱かれている方の子はやっぱり長髪で、やっぱり天使の輪があしらわれている。麗しい銀髪だ。多分というか、絶対先輩だろ。紙から生暖かい風が吹いて前髪が浮いた。
 実際は航のため息だけど。そのくらいの熱情がむわりと感じられた。

「絵もすんごく綺麗。若干顎尖ってるし。平成だわぁ」

 久しぶりに見るThe平成ボーイズラブストーリーにウキウキする。ここ最近は薔薇漫画も薔薇小説も令和生まれのものを読んでいた。
 昭和末期ほどではないけど、どうしたって耽美の色が濃く残る平成のものは現実味がかなり少ない。実際に航と交際している自分にはとっては、どうしたって笑いが溢れ出てきてしまう。
 だからめっきり読む機会は減っていたのだが、久しぶりに読むと「これがBのLだよね!」って感じがしてやっぱり面白かった。

「でたぁ『身体から俺を叩き込んでやるっ!』。最初に体を落として心を落とすやつ!! 今こういう話出したら炎上するんだろなぁ」
「それはそうでしょ。これは……ダメでしょ。縄で縛って無理やり拘束してるし、暴力もなにもかも……。これが双方、同意をしている行為なら問題ないけど。こういうことが好きな方々だっていらっしゃるでしょうし。でもこれはそうじゃないでしょ? 性的同意どころじゃない。犯罪だよ」

 バカ真面目な航くんには刺激が強すぎたみたい。BのLはファンタジー、って言葉知らないのかな? 俺は実際にタコ入れられたんじゃないかってくらい聞かされ続けた言葉だけど。
 伏し目がちな目に艶めく黒髪がカーテンをかけている。もっとうまいこと眉間に寄っているしわも隠してくれたらアンニュイな感じになれたでしょうに。残念なことに武士の出で立ちだった。

「てかそれにしてもこれ、俺が好きな〈粗野なるものの耽溺〉にちょーー似てるんだけど。どこの本棚にあった? まさか……お母さんのとこ入っちゃった?」
「いやいやまさか入んないよ!? 自分で買ったやつ。これをすごくすごく推してる書き手さんがいてそれで……。それにこれ、〈粗野なるものの耽溺〉だからね」

 顔も手も全力で振って全身で拒絶を表す航。相当な冤罪をかけてしまったらしい。だからその手を取って俺も全力で返した。

「え゛っっ!! うっっそだぁ!?!? 絵柄全然ちげぇよ!? あらできはもっと顎が鋭利なの。人をお陀仏できちゃうんじゃないかってくらい鋭利なの!! 氷月(ひづき)の方、……抱く方の肩幅はアメフト選手かってくらいひんろいし、手も足もバカデカすぎる。バスケットボール片手で掴めるくらいなんだから。それに氷室(ひむろ)先輩、抱かれる方の子の腰はもっともっとすんごぉい細いの。骨格無視もいい加減にしろ!! 甚だしいっ!! ってレベル。腰細ぉ、とか、手に余る、とかになるやつなの!!!!」

 さっきまで昔のBがLする作品の独特な世界観についていけずに切腹顔だった航が、今は思わず背後に振り返りきった俺の勢いに押されて、犯人追及顔になっている。どちらも眉間にしわが刻み込まれている点は同じだけど。

「……リメイク版、らしいよ、」
「リメイクばぁ゛ん?」

 人様におメンチを切らせていただくときのような語尾になってしまった。航は犯人を追及する側なのに俺が追及しちゃってる。ドラマとかだったらそのドラマ屈指の名場面のところだと思う。クライマックスだ。

「しらない。知らなかったぁ。そうなの、そうなんだぁ。……内容も変わったりするんかなぁ。これっていつ出た?」
「去年? じゃなくて今年だ。今年の一月? の中旬くらいだったと思う。調べものしてたときにこれをすごく推してる書き手の方がいて、それで調べたらリメイク版が発売されるって知ったから買ってみようって、」
「えっ! 言ってよぉ」
「そんなに好きだなんて知らなかったんだよ。知ってたら言ってたし全巻買ってたよ」
「それもそっか。旧版家にあった気がするんだけど……、お母さんの部屋だからなぁ。隠し部屋。勝手に入るのも悪いし、買っちゃおっかな!「それなら買うよ、誕生日プレゼントってことで」
「相変ぁわらず間髪入れないなぁ。いやもう貰いました。貢ごうとしないでください。そんな人間じゃないですぅ。というかバイトもしてないのになけなしのお小遣いで俺に何でも買おうとしないでくださぁい」

 そう。あんな話をされる前にちゃっかりと貰っていた。……たかぁい、コルセット風のトップスとチョーカー。
 六月のライブの衣装にってことなんだけど、それにしても……高い。学生が簡単に手を出せる金額ではない。それに入手困難だ。どっちもいい皮を使っているから販売をしている数が少ないのだ。それをどうやって……。お金も……。
 考えたくはないが、…………申し訳ない。

「……うちの学校、バイト禁止なんですけど、」 
「あっ、」

 目と目が合う。音楽はやっぱり流れない。

「……やっぱりわたくしぃ↗ そういう人間でございますぅ↗」
「はぁ、」
「あなた様! あたくしのフィアぁンセじゃありませんこと〜〜?」
「…………フィアンセ、」

 はにかむ。航は唇を少しアヒル口にして、それをすぐに手で隠した。少し俯くと当然、目も髪も伏しがちになる。航の長いまつ毛に航の黒髪がぶつかって離れた。
 あっ、と。航に触れるはずだった指先が視界の端に触れる。航より幾分か色白でミニマムで節々を感じない指先が主張してくる。航が自分で髪を耳にかけてしまった。すこし、残念。
 機嫌を取るために、喜んでもらうために、わざと喜ぶような言い方をしたが、こんな反応をされるとは思わなかった。下心ありきの優しさ。それが気持ちの悪い理由がなんとなくわかった気がした。

「――――ずっと思ってたんだけど、いつからBL好きなの? ……っていうか、お母さんの部屋って……?」
「あっ! ああ、それは、薔薇ねぇ、その……」

 ごめんなさい。お母さん。おもっくそ、ボロを出しました。必死に隠しているものを今から全部、全部全部言います。すいません。
 でも、航は家族みたいなもんだから……いいよね?

「その薔薇っていうのもなに? なんで頑なにBLって言わないの? BLって言ったかと思えばBのLで、間にの、入れるし。他にもなんか色々違う呼び方するけど、なんか言っちゃダメみたいな家訓でもあるの?」
「うん。ある」
「え?」

 確実に冗談で言ったことがまさかの事実で、航の目が四白眼になっている。元々三白眼気味だったことも合わさり、鋭い四白眼だ。
 もう言い訳をした状態の俺は強かった。なんでも答えてやるって意気込んでる。別に言ったってことをお母さんにバカ正直に言う必要はないし。べつにねぇ、

「お母さんが古タイプだったから。そりゃもう英才教育みたいな感じでねぇ」
「……古タイプって?」
「ああ、だから……これが好きなの。ずっと昔から」
「あのお母さんがっ!?」

 口まで空いちゃった。手に持っているそやできを指さしながらそう答える。
 この中に指入れたらどうなるんだろ。どっかで見た子猫の動画みたいに驚いて加えてくれるかな?

「あっ、咥えては……、くんない」

 航がここまで驚くのも無理はない。俺のお母さんはいわゆるのほほん系というか、お淑やかでか弱い感じだ。髪をサイドにまとめ、派手すぎないフリフリをあしらった服をいつも着ていた。下ネタなんて一切知らない。俺も姉ちゃんも本当はコウノトリに運ばれてきたんじゃないのか? と思ってしまうほどに雰囲気が気薄だ。アニメによく出てくる余命いくばくもない主人公のお母さんと言えば想像つくだろうか。そんな感じだった。
 だからそんなお母さん。外身のつくられたお母さんしか知らない航にとっては目ん玉が飛び出るくらいの衝撃なのだろう。顎が極限まで開かれていた。それをそっと閉める。

「それに俺のお母さんって古タイプのうえに闇属性でさぁ、とにかくバットエンド。何がなんでもバトエンで、たまぁにメリバがあったかな? っていうか、耽美がとにかく好きでそればっか家にあった。だから俺、ボーイズラブストーリーって最終的に片方どっちかが死ぬか、両方一緒に死ぬ心中エンドしかないと思ってたもん。だから後々BのLがハッピーエンド主義だって知ってびっくりしたもん。だぁからこんなに古いのばっか持つってんだって腑に落ちた」
「へぇー」

 一点病を発症した子どものような姿に歯がむき出しになる。これは航が好きな俺の笑顔だった。目がなくなって頬と口角を限界突破させるような笑顔。ひまわりみたいって言ってくれる笑顔。だから俺も自分もこの笑顔が好きだった。だから、つぅの話はしなかった。
 航の意識がはっきりしていたらキスのひとつでもかましてくれていたかもしれない。そう考えたらなんだかちょっと残念な気もするけど、思い耽る? 航の表情なんて滅多に見られるものじゃない。勉強中でも見れないんだから。
 さらに衝撃に沈めてやろうと背中を押したが、俺が思った以上に深かったらしかった。全然浮いて出てこない。これはなんも理解してないな。

「……それにしてもなんで? なんでびぃえ、……そういう呼び方するの?」
「はっ、別に航は言っていいよ」

 もうほとんど出かけてた。なんがなんかはわからないけどうちのことを尊重してくれようとしているらしい。

「昔はさぁ、今みたいにお腐りもうしている方々というか、オタクの方々は強い世間の偏見に晒されてたらしいの」
「偏見?」
「『オタク=犯罪者予備軍・気持ち悪い存在』みたいな?」
「えぇ、」

 心底ドン引きした航の姿に、これをお母さんは悪い方向ので味わってきたんだなって思うと、過剰とも言えるこの教育は本当に俺を守ろうとした結果なんだなと思った。

「だから『隠れて隠れて生きる』のが絶対的な暗黙のルールだったらしい。お母さんの時代はネットもそこまで普及してないでしょ? でも好きだったらさぁ、誰かと語りたくなるじゃん? だから同士を探すんだよ。薔薇好きの方とか同人誌好きの方は、同人誌即売会とかに行ってコソコソと。大体は部活の大会とか旅行とか嘘をついて参加する人が大多数だったらしいよ。お母さんはなんか、バードウォッチングしに行くとか言って行ってたらしいけど」
「バードウォッチング……」

 呆然とバードウォッチングと口に出す航を見て、ちょっとぷっ、て声が出た。当時小学生の俺もこんな感じだったのかなっ、てちょっとお母さんの気分を味わえた気がする。

「チョイス謎だよね。でも、ちょうどよかったらしい。早くても遅くても鳥が見えたから、見えなかったからって言えばいいから。遠出しても、そこにしか見えない鳥が見たいからとか言って無理やり泊まってたらしい」
「だから海翔のお母様って鳥に詳しかったんだ」
「そう。ボロが出たら終わりだからねぇ。だからちゃんと勉強はしてたらしい」

 小さい頃に一緒に公園で遊んでいた時、指す鳥指す鳥全ての名前と特徴を答えられていたから鳥婦人とか言われてたっけ? それで自然を愛しましょう会の会長によく絡まれてたなぁ。
 お母さんの壮大な隠し本棚の中に、ひっそりと鳥の図鑑があるのを見て、姉ちゃんと一緒に涙を流しながらお腹を抱えて笑った。だって、ほんとうに膨大な数、圧倒される数の薔薇の本に紛れ込めないほどに大きい図鑑があるから。ほんっと、今でも笑ってしまう。

「会場周辺でも、もちろん家でも。例のブツが見えないように黒い袋で隠したうえでトートバックに入れて持ち帰って、部屋まで持ってて鍵して。……ドュフドュフしてたらしい」
「ドュフドュフ……」

 初めてそこの光景を見た時、子どもながらに見てはいけないものだということを悟った。そして俺に気がついたお母さんの悲鳴は、たぶん、航も聞いていたと思う。

「そう。ドュフドュフ。でもぉ、そんだけ頑張って隠してもお母さんのお母さん。おばあちゃんだけにはバレちゃったらしくて。酷く失望されたらしい。お母さん末っ子で、結構愛されてたからすんごいショックだったらしくてさぁ」
「……しつぼう」
「それでよそよそしくなっちゃって疎遠になって。未だに俺お母さんの方のおばあちゃんには会ったことないだぁ」
「……」
「だからほんとは、俺たちにも隠そうって思ってたんだって。教育に悪いから。自分が見てるのは特に。ほんとにびっくりするから。俺も最初、びっくりっていうか、何してんだろって思ってどんどん読んじゃったみたいな感じかな。……正直ちょっと怖かった」

 実は、お母さんが俺たちにそういう話をしてくれる前から俺は薔薇園を見たことがあった。絶対にお母さんの部屋には入っちゃいけない、だなんて言われて入らない子どもはいないと思う。もちろん入って、それを見た。隠し本棚で隠していたが、それも暴いて。

「初めて読んだのが、〈粗野なるものの耽溺〉だったんだ」
「だからあんな反応」
「ごめん。びっくりさせたよな」
「いや、海翔がああいう反応するの音楽だけだと思ってたから。なんかしれてうれしい」
「……そう、」

 こういうのを言う時は照れないから困る。本当に思ってくれてるんだって、ふっと、息を漏れ出すみたいに言ったことなんだってわかっちゃうから。わかっちゃって、おれが勝手に恥ずかしくなるから。ひとりで。

「でも初めて読んだのが〈粗野なるものの耽溺〉はそりゃあびっくりするよね。小学生なんでしょ?」
「うん、すんごく。なんでこんなことするのっ! って、この人嫌って言ってるのになんでやめないのっ! ってひとりで怒ってた」
「海翔らしいね」
「そうかも。でも顔がさぁ、全然嫌じゃなさそうなんだよ。だからなんでっ! ってなってずっと読んじゃって……、みたいな感じかな?」
「それで、お腐りもうした、と」
「腐っては……腐ってんのか?」
「え?」

 繋いでいる手を揺さぶられて再度「え?」と言われる。「え?」顔でちゃんと「え?」っていうから笑っちゃう。

「ちがうの? ずっとそうだと思ってた、こんなにBL本あるし。僕、海翔がそうだと思ってたから、あんなことできたのに……」
「ん? どゆこと」
「ほらっ、……この家に」
「? あ~~、そゆこと!!」

 こんなひょんなことから謎が解けるなんて思わなかった。
 航と俺は同時期に家族に置いてかれて一人暮らし? になった。言っても俺は、中学生の頃から両親に「澄乃(きよの)が大学生に、海ちゃんが高校生になったらお母さんたち世界一周の旅に出るから」と、前々から聞かされていた。お母さんたちふたりの夢なんだって。
 だから家のことをひとりでひと通りできるように教え込んでもらったし、ずっと言われ続けられたもんだから心の準備もバッチリだった。姉ちゃんが京都の大学に行って、家から出ていくことは計算外だったけど。それでも、両親は何もかも準備をしてくれていたうえで海外へと飛び立って行った。
 でも航はちがう。ある日いきなり翔(かける)、弟の留学について行くって置いてかれた。うちはいい意味での放任主義。航は悪い意味の放任主義。何の準備もない。
 だから料理をして火事を起こしたりする。
 あの時、人間って、本当に驚いたら声も出ないだって知りたくもなかったことを知った。お母さんたちを空港に、姉ちゃんを駅まで見届けた後だった。消防車も来て、近所にも人だかりができていて大惨事に見えた。結果的には単なるボヤ騒ぎだったけれど、航の部屋はダメになったらしい。だからお母さんが諭して俺の家に転がり込んで来たんだが……。

 それは、嘘らしい。

 そりゃあ、そうだ。当時の俺は火事という惨状とはじめての一人暮らしという未知の出来事で気が動転していたのだ。料理をしていたのに航の部屋が燃えるはずがない。航部屋、単体が。
 現実でこんなことが起こるだなんて思ってもいなかった。でも、すんなりと入ってきてしまったのだ。それは航の言い訳がよかったのか、それともそれまでの出来事が所以か、はたまたその両方か。
 とにかくっ!! 丸め込めれた!!

「なんか部屋ん中ぐるぐる歩き回りながら本読んでると思ったらベッドにダイブして。なんだと思って気になって調べたら薔薇小説で……」
「え? なんて作品?」
「〈夢裡(むり)に生きないで〉」
「えぇ~~!! よんだっ!?!?」
「読んだよ」
「ヒャ~~!! 読んだんだ読んだんだっ!! どうだった? あっ、ドラマはっ!?」

 あの名作を航は読んでいたなんて……はっ、

「そやできをすんごく推してた書き手さんって……」
「そう。〈夢裡に生きないで〉の作者さん」
「くぅぅ~~~~」

 点と点が繋がる快感は気持ちがいい。もっと浸っていたかったけど、目に見えて航が押されてあるからやめておく。おれはっ! きちんと隣にいる人間のことが見える人なので。
 むりいきについてのこととかいっぱい聞きたいけど、これからいっぱい聞けるだろうし、だろうし。だいじょぶ。

「……海翔さん。この体勢はちょっと……」
「あっ、ゴメンナサイ」

 押し倒してた。めちゃくちゃ押し倒してた。めちゃくちゃ攻めてた。
 思わずしていた床ドンという体勢に、動揺を隠せない。飛び起きるように上体を起こした。思わず床ドンするっておかしな話だが、俺と航なら有り得てしまうのが困る。

「…………それはそれはっ、だいぶ勇気出したんですねぇ。……それにしては、でしたけど……」
「すみません」
「はは」

 ……同居を開始して半年くらいはお互い口も聞いていなかった。無視だ無視。目も当てられない状況だった。それを、つぅが、どうにかしてくれたんだ。

「……ほんっっっっとに!! つぅに感謝しろっっっっよ!!」
「…………はぃ、」
「なんでだよっ!!」

 無理があるかもしれないけど、無理しなきゃいけないときって、人間誰しもあると思う。それが今だ。元々脱線しまくってたんだから列車を破壊したってべつにわかわんない。わかっんない。

「腐ってんのかって聞かれたら……どうなんだろ。わかんない。だって別に薔薇だから読んでるわけじゃないから。ひとつのラブストーリーとして読んでる。だから少女漫画、異性愛も見るし、薔薇とか百合とか、同性愛も見る。ただひとつの作品。でも好きなのは事実だし……腐ってんのかも」
「そうなんだ。ほんと、に、海翔らしいよね」
「おれらしい?」
「……うん、」

 いきなり呆然し始めた航に俺も呆然としてしまう。流石に急ブレーキ急発進だったか? ついていけていない航の姿を見て流石に反省する。
 でも、今さらどうしようもないから無理やり元に戻す。「お母さんの話ね」って前もって一応の付け足しして。

「でも、隠しても隠しても家族にはバレちゃった、ていう経験がお母さんにはあるからさぁ。実際に俺にはバレちゃったし。それなら隠さずに子どものうちから私はこういうのが好きで、でもそのことをお母さんは隠してて、だからふたりもこのことは秘密ねって。姉ちゃんと俺に。そういう風な教育にシフトチェンジにしたんだ。ちょっと過剰だった気もするけど……。だからお母さんが薔薇が好きだなんて知らなかったでしょ?」
「……」

「ひかる?」

 相槌だけは微かにできていた航がついには固まって動かなくなった。話についていけてないだけなのか、それとも、そういう世界を知らない人にとってはこれは酷いことなのか。
 ……なんか、ショックを受けて。あっ、

「あっ、お母さん初恋だって言ってたもんね。だぁからショックだったんだ!!」「ちがう」
「え?」

 飲み込む勢いの大被せに率直に驚く。

「……ちがうわけはないけど……、その……」
「なに? 別にいいよ。初恋が俺じゃないから申し訳ないとか思ってんの?」

 いきなり活動を再開させた航が口ごもらせながらも返してきた。
 元々知っていたことだし、今さらだ。はじめての方がうれしいはうれしいが、別に航みたいにそこまで固執しているわけではない。だってこれからは全部俺のだから。

「……ぼくの初恋は…………、ちゃんと、……かいと、だよ」

 嘘のつけない顔色で、ほんとうのことを言っているのだとわかってしまった。頬を潰してタコさんの口を作れば、ゆでダコの完成だ。そんなことできる余裕なんてないけど。

「……え?」
「そんなこと、本人には言えないだろ」

 あまりにもな投げやりで、悪いことはしていないはずなのに、悪いことをしてしまっている気分になった。子どもにはじめてのお菓子をあげちゃった時みたいな、そんな感じの、背徳感。

「……言ってんじゃん。いま、」
「ぅるさいよ、」

 「へぇ、そうなんだ。そうなんだ……」なんて言葉しか出てこない。今の今まで薔薇とかの、話をしてたはずなのに、ほんとに俺たちの間で薔薇が咲いちゃった。自分から咲き乱れさせようと意気込んたやつじゃないから、小っ恥ずかしい。
 お付き合いに関してはまだ日は浅いが、一緒にいる歴は年齢とイコールだから、こういうほんとに、花が咲くような空気感はまだ恥ずかしい。温度差も激しいし。……湿っぽいのはいけるのに。

「…………まぁ薔薇はファンタジーですからっ。これお母さんの口癖ね? あっ、薔薇はBのLの隠語! っ的なぁ……?」
「BのLはファンタジー……」
「そうそう……」

 航に対峙していた体勢だったのを対峙前の体勢に戻した。元に戻すということはバックハグされに行くということなのだが……。顔を見ちゃうよりはマシだから。

「そうそう! 現実と混同しないようにしましょうね。俺たちは特に!!」
「はい、」

 なんか勉強しているらしいから知ってそうだけど一応言っておいた。……言うべきだし。だって航昔、少女漫画を参考書にしてたし。なんか夢見がちだから。

「…………やっぱり、ぼくがやるべきだね。受け止める方」
「なんでぇ?」

 我ながら間抜けな声。
 花たちが、飛び散って行った。もう花畑荒らしだろ。っってきり、航も恥ずかしがってくれてると思ってたのに。受け止める時間だと思ってたのに。
 ……物理的に自分が受け止めること考えてたの?
 口に出さずにぐっと堪えられてよかった。口から出てしまっていたらきっと、拗ねたのが丸わかりだったし、胸ぐらを掴んでいたと思う。

「さっきの漫画でもあったけど!『生徒会長・メガネ・黒髪』という属性の組み合わせは、BのLにおける王道コマンダー・ドS・執着系の攻めの典型的なテンプレートなの! 抱く方といえばこれなの!! 表向きは容姿端麗・成績優秀で厳格な生徒会長だ け ど!! 裏ではドS。あるいは抱かれる方の子にだけ激しい執着心や独占欲を見せるってやつ!! お前にぴっっつったりじゃん!? てかお前じゃん!?!? そんなお前が抱かれるのぉ!? ありえないありえない意味わかんない、解釈違いですっ!!!!」

 ここで一息。帰宅部の日々の怠惰が、哀れさが、とめどなく氾濫を起こしているけど気にしてなんていられなかった。不様な声が響く。あぁっ、夜だった。
 航を見下ろしていることに気がついてやっと自分が立ち上がっていたことにも気がつく。ベッドを背に、というか、航を背にしていたのに。
 さっきから動揺しかしていない自分を航が見つめている。家なのに家に帰りたかった。

「……俺は生徒会長じゃなくて生徒会書記だし、普段からずっとメガネをつけてるわけじゃない。知ってるでしょ? 学校の授業中だとか、寝る前にきちんと海翔の顔を見るためとかでしかつけない。それにさっきBのLはファンタジーだって海翔が言ってたじゃん」
「~~それはっ、そうだけど……」

 口がとてつもなく回らない。目も合わせられないし、かといって逃げ出すこともできない。丹念からがっしりと根が張られちるみたいだった。硬直。表情、身体、心。すべて。
 自分の性質的にきっと攻められる側は向いていないんだと思う。
 でも、それでもだって、

「なにより。例え自分が抱く方に回ったとしてもあんな抱き方はしない。ぜっっっったいに、」




「――――……~~キャーーーー!!!!」