愛せるのなら、君を

エピローグ 愛せるのなら、君を ― 樹姫 ―

怜音が陸上部に入って、二週間が経った。
十二月を目前にした土曜日、年末の多忙に追われた父さんと母さんはそろって出勤し、家には俺と怜音だけが残っていた。二人とも六時ごろまで帰ってこないだろう。
昼食を食べ終え、怜音の空いた皿を片づけると、俺は彼用の湯呑みに緑茶を注いで、ダイニングテーブルへ置いた。
「ありがとう。陸上部に入って気づいたんだけど、景近って超スパルタだったんだね」
「だろうね」
 俺は知っていたよ。あの記憶を持つ彼らが、生半可な指導を俺たちにするわけがない。
「三百メートルのインターバル走が終わったあと、次へ行く前に普通は休憩を取るらしいよ」
 そりゃそうだろ。陸上部員はサイボーグではないので、普通に休憩がいるものなのだ。鬼コーチの景近に鍛えられていた元サイボーグの怜音はそんな当たり前を知らなかったようだ。怜音、人間の世界へようこそ。
「でも、そのおかげか、陸上部の練習には意外と余裕でついていけるんだよね。休憩がちゃんとあるからさ」
「結局、短距離にしたんだよな」
「うん。短距離も長距離もハードルも向いてるって言われたけど、やっぱり一番好きなのは短距離だったから」
怜音は嬉しそうに笑うと、湯呑みを両手で包んだ。自分のやりたいことを探すと言った怜音が、自分で選んだ答えだった。一時期の自信喪失から立ち直ったらしい。よかったと思う反面、彼がマゾ気質になっていないか俺は心配だ。
 俺は姫のスパルタ指導を思い出してげんなりした。いなくて寂しいし、悲しい。会いたい。姫の美しい琴の音と景近の本気の走る姿が俺の脳裏に浮かんだ。姫から受け取った数々の記憶はいまだ俺の中で生き続けている。でも朝から晩まで続く指導はもうお腹いっぱいだった。
 怜音も景近を思い出したのか、その顔に寂しそうな影を落とした。だが、すぐに気持ちを切り替えるように顔を上げた。
「樹姫も毎日褒めてくれるし、頑張れそう」
「それは怜音が『褒めて』って来るからだよ?」
 俺はとうとう『褒めことば辞典』なるものを先週本屋で買った。二百八ページの辞典を駆使しても彼は乾いたスポンジのごとく俺からの賞賛を吸収し、明日にはまたからからに乾いてしまうのであった。
「試合に出るのか?」
「日本国籍じゃなくても出られるなら出るよ。今先生が調べてくれてる。ただ、出るならペース配分ちゃんと考えないと」
 怜音は湯呑みを持ち上げる俺の手を見た。
「樹姫は? なんかコンクールに出るとかないわけ?」
「ないね」
 そもそも出たくて弾いていたわけじゃない。だが、俺は『好きではない』と思っていたピアノを、意外と気に入っていたのかもしれない。触るとひんやりした鍵盤の感触、踏み込むときのペダルの重さ、それに応えて伸びていく余韻。何よりも、自分の指先から生まれる音色。
 誰に向けるでもなく弾く意味も、俺の中にちゃんと存在していたらしい。
「伝えたいことがあれば、ピアノで周りの人に伝える。あとは……気が向いたときに、自分のために弾くのも…まあ、悪くないかもね。それだけ。それに、俺がコンクールで、知らない人たちに向けて弾くところを想像できる?」
「今の樹姫ならできると思うけどな。俺は樹姫がスポットライトを当てられながら弾くのを見てみたいよ。それに気持ちを伝えるって言いつつ、最近は口でも言ってくれるから嬉しい。樹姫、ちょっと変わったね」
そう。口で言うことが増えた。その一つとして、一世一代の『相原君に弾きました』である。
あの演奏のせいで、俺たちは今や学年初の同性カップルとして認定され、学校中で大変有名になっていた。あからさまな嫌がらせやいじめはなかったが、何人かの男子との間には、見えない壁ができたように思う。あれ以来、トイレは新校舎の人目につかないところを使い、着替えはなるべく一瞬で終えるように心を砕いている。
なんでも口に出せばいいというものではない。言葉にした責任は、着実に俺の自由を奪っていった。それでも、言わなければよかったとは思わない。怜音に届いたのだから、多少不自由になるくらいは仕方がない。自分で選んだ不自由なら、案外悪くない、なんて強がりは言えないけど。
怜音に誕生日プレゼントを渡したあのあと、本当に噂を聞きつけた川やんが見回りに来た。キスの十秒後という実に危ういところだったが、怜音は座ったまま、苦虫を噛み潰したような川やんをにこやかに見上げた。
『彼氏からの初プレゼントに感動してました』
怜音、その火に油を注ぐような報告を川やんにする必要、あった? 翌日、あの踊り場へ続く階段には、『立ち入り禁止』と書かれた紙を貼った三角コーンが置かれていた。
 だから、触らないで、とお願いしたのに。俺たちは自分自身の首を絞めるのがうますぎる。
 俺はスマホを家のステレオにつなぎ、怜音おすすめの洋楽を流した。来年の七月に彼が帰国したあと、俺はフィリピンへ遊びに行くつもりでいる。この前買った『中学英語をひとつひとつわかりやすく』という参考書は、もう二周目に入った。
 だけど、英語の歌詞は何一つ聞き取れない。
「今の歌、何て言ってる?」
キッチンでジュースを用意しながら尋ねたのに、怜音から返事はなかった。不思議に思って顔を上げると、すぐ横に怜音が立っていた。
「いつもあなただけを愛してるって言ってる」
本当か? そう言おうとしたけど、怜音は顔を近づけると、俺の唇へ軽く音を立ててキスをした。目を開ければ、いつもの優しい笑顔が、手を伸ばすまでもない距離にあった。
 どうしてかな。大好きだって言うわりに、怜音のキスはいつもおとなしい。優しく唇を重ねられるたび、俺だけが心の中でじたばたしてしまう。
 俺は怜音の手を取り、ソファーまで連れていって座らせ、その隣に、身体を彼へ向けて腰を下ろした。怜音の髪をかき上げて額に触れ、頬に手を添え、指で唇を撫でた。触れるか触れないかというほど、そっと。俺まで怜音を壊れ物のように扱ってしまう。怜音がいつも優しいキスしかしない理由が、何となく俺にも分かった。
 でも、それだけだとやっぱり欲求不満になっちゃうからな。健康に悪いだろ。
 世の中にはピアニッシモだけじゃなくて、メゾピアノやフォルテッシモ、いろいろな強さがある。君のピアニッシモも大好きだけど、なんとなく俺は今日はフォルテの気分だった。
息を弾ませてお互いが離れると、怜音は驚いたような、切ないような顔で俺を見ていた。
 彼の瞳には、もうあの光はない。でもその代わり、彼は光って見えた。姫たちが消えたあと、それが分かったときは本当に驚いたんだ。今度は何が俺に取り憑いたんだろうって。
 でも違った。
何も取り憑いていなくても、君を見るときは、こんなふうに光って見えるんだな。
淡い光を怜音はまとったまま、困惑した表情で俺に問いかけた。
「……樹姫、本当に誰とも付き合ったこと、ないの?」
「ないよ……怜音に出会わなかったら、俺はこんなことをしてないと思うけど」
 本気でそう言うと、怜音はしばらく真面目な顔していたが、ぎゅっと俺を抱きしめた。
「ホントに好き。大好き」
「……怜音、俺の名前を呼んでよ」
 すると、怜音は顔を起こすと、「俺のことを好きって言ってくれたら呼ぶよ」と言ってきた。
 不思議だな。なんでそんなに『好き』って言わせたいんだろう。
「『好き』だよ、怜音」
 とりあえず、言ってみる。たしかに言うとしっくりくるかもしれない。本が好き。YouTubeが好き。怜音が好き。
薄いけど。
 怜音は俺の服の下に手を入れると、俺の素肌にその大きな掌でゆっくりとまさぐるように撫でた。やばい、何も考えられなくなる。完全に息が上がって怜音を見ると、彼はどこか余裕がないような、それでいて幸せのような笑みを浮かべていた。
「……もういいよ。諦めた。俺のことをどう思ってるのかは、樹姫の言葉で言って」
 完全に諦めたらしい怜音は「それで、ここから俺とどうしたい?」と、聞いてきた。俺も怜音の服の下に手を入れて、その体の一つ一つを手で撫で上げて形を確かめた。腰は細いんだ。筋肉がよくついている。肌の質感はなめらかだ。怜音は荒い息をつきながら、でも俺の答えを待っていた。
「まだ決めてない」
「……こんなに誘っておいて?」
 俺の本能は常識よりも理性よりも数段強かった。
「勢いです。マジで何も考えてません」
怜音は吹き出すと、俺を服の下にいれた腕で強く抱きしめた。
「じゃあ、この先は一緒に決めようか」
まだ時間があるからゆっくり決めたらいいよな。
「怜音」
俺はもう一度、彼の名前を呼んだ。
「愛してる」
こっちの方がしっくりくるよ。怜音は驚いたように目を見開いた。それから、これまで見たどんな笑顔よりも幸せそうに笑った。
もし俺に誰かを愛せるのなら、君を。
君を、愛したい。