愛せるのなら、君を

愛せるのなら、君を

1章 夏風に振り向くのは誰だ ― 樹姫 ―

俺は冷房でひんやりと冷えた鍵盤に指を置いた。右手で旋律を奏で始め、すぐに左手で低音の伴奏を重ねた。高音域を細やかに行き来する旋律が、さざ波のような音をほろほろと零しながら、緩やかに下っていく。両手で最後の和音をそっと置くと、ペダルで伸びた余韻が、ゆっくりとピアノ教室に溶けていった。
「だいちゃん……最高!」
 先生は昔よりだいぶ涙もろくなっていて、すでに目元をハンカチで押さえていた。
「やっぱりいいわ。だいちゃんのノクターン。今年こそ、コンクールに出てみない?!」
「悪いっすけど、俺マジでそういうのいいんで」
俺の名前は高野樹(だい)姫(き)、十七歳になったばかりの高校二年生だ。なんと十二年間もピアノとお付き合いしている。
 俺は赤ん坊のころからスポーツを見ることが好きだったらしい。ところが実際にやらせてみると、他の子どもが難なくできる動きが、俺にはまったくできない。それは今でも同じだ。走れば足がもつれ、泳げば沈み、跳べば転ぶ。母さんの腹のなかに運動神経を置き忘れてこなかったら、ピアノを始めることもなかっただろうに。人生、ままならねぇなぁ……。
俺は教室を出て、鞄を自転車のかごに突っ込むと、暑苦しいヘルメットをかぶり、アブラゼミの声が響く八月末の炎天下へこぎ出した。
 信号が赤に変わり、俺は自転車にまたがったまま、店先に落ちた日陰へ逃げ込んだ。ふと横を向くと、ガラスが鏡のようになり、ハンドルを握る俺の姿をくっきり映していた。そこに映った自分の顔を見た瞬間、俺は凍りついたように動きを止めた。
俺の顔が、一瞬だけ髪の長い女に見えて――。
 思わず瞬きをした。
……そんなわけがない。
映っていたのは、ヘルメットをかぶり、驚いたように目を見開いている俺だった。

 そして迎えた二学期初日。信号待ちをしているだけで向こうの景色が熱気でゆらりと歪む。教室に入って提出課題で膨れ上がった鞄を机に置くと、前の席のやつが振り返った。
「交換留学生くるらしいぞ」
「このクラスに?」
 俺は自慢じゃないが英語の評価は一に近い二だ。だがやつは「でも日本語はペラペラらしい」と嬉しそうに言った。それを聞いて「I am Daiki.」としか言えない俺は胸をなで下ろした。
「じゃあ、ただの転入生だな」
「聞いた話じゃ、見た目が――」
さらにやつが何か言おうとしたところで、担任の川野先生が教室へ入ってきた。みんなから「川やん」と呼ばれている先生は二十代前半くらいで、常時二日酔いなんじゃないかと思うほど気だるそうにしていた。
「うぉーーい、早く席に着け。そしたら、みんなが気になっていることを話してやるぞ~~」
 無精ひげを生やした川やんは、全員が急いで席に着いたことを確認すると、
「今日からみんなと勉強する仲間が増える。最初に自己紹介だけしてもらおう。お~い、入って!」
 と、廊下で待たせている転入生を手招きした。転入生が教室に入ってきたその瞬間、教室の空気が止まった。少なくとも俺は止まった。
 金髪に、これでもかというほど両耳につけられたピアス。うちの学校では珍しい格好だ。先生たちは夏休みを謳歌しすぎて、校則を印刷した紙までシュレッダーにかけてしまったんだろうか。
制服はというと、皺一つないシャツを着て、ネクタイをきっちり締めていた。俺より少し背が高く、鼻筋がすっと通っている。切れ長の目は、目尻がわずかに下がっていて、意外にも優しそうな顔立ちだった。
 彼は教卓の前で、凛としたまま四十五度の美しいお辞儀をした。そして自己紹介すべく彼が顔を上げたそのとき、俺と目が合った。
 あれはなんだ……? 茶色の瞳の奥が小さく光っている。
 そのときだ――。教室の音が突然かき消され、辺り一面に青空が広がった。
 足元には膝丈ぐらいの草が青々と茂っていて、それが見渡す限り広がっていた。風が遠くの山から吹くたび、青草は波のように一斉にその身を何度もなびかせた。
 私の視線の先には、袴姿の青年がいた。日に焼けた凛々しい横顔が目に入った。
……そうだ。彼は、こんな顔をしていた……。
手が届かない場所にいることがもどかしくて、私は痛む胸の前に手を重ねてぎゅっと握った。
こっちを見て。少しでもいいから。
 その思いが届いたのか、彼は私に気づいたように振り返った――……。
「おい、樹姫」
 誰かの声が突然聞こえた。
「大丈夫か?」
 目の前の景色が布のようにはぎ取られ、その下から川やんの顔と教室が現れた。なんだよ、これは……。頭の芯を揺さぶるような激しい眩暈とともに吐き気がこみ上げ、俺は反射的に口元を押さえた。
すると、ぬるっとしたものが手に触れた。何、これ……。手をどけると、血がついていた。あ、鼻血? それに加えて、目から温かいものが頬を伝って落ちてくる。どうやら俺は顔からいろいろと垂れ流しているらしかった。
「苦しい……」
 胸を押さえて机にうつぶせになると、川やんは血相を変え、教室の内線へ駆け寄った。
俺は前に目を向けた。ごめんな、君の自己紹介、聞けなくて。心配そうな彼と目が合った瞬間、茶色の瞳の奥に、あの不可思議な小さな光が見え隠れした。その途端、正体の分からない動揺が体を走り、胸を押さえていた指先が震えた。息を吸うだけで精いっぱいだった。

 俺はもうダメだ。
たとえ心電図や血液検査をして、不愛想な医者が『どこも悪くないですねぇ』と告げても、ダメなもんはダメだ。
 保健室へ向かう途中、何かの気配を感じて横を見ると、薄汚れた藤色の着物をまとった女が歩いていた。川やんが支えてくれてなかったら、俺は階段を転げ落ちていたに違いない。
そいつの胸元は大きく裂け、そこから流れる血が着物をどす黒く染めていた。思わず叫びそうになって、俺は慌てて口を押さえた。だって誰もこいつを見ていない。俺が凝視すると、そいつは一瞬だけ俺に目を向けたが、また何かを探すように視線を彷徨わせた。
保健室から母さんに連絡が入り、念のため病院へ連れていかれた。なのに、こいつはずっと俺のそばにいる。待合室、診察室、CT室。なんでついてくんの? X線、妨害されてない? CTちゃんと撮れてる?
 いつまでも顔色が悪い俺を心配する母さんは、家で休むよう勧めてきたが、母さんが仕事へ戻れば、俺はこれと二人きりだ。冗談じゃない。無理やり学校に戻ると、すでに昼休みとなっていた。こんな変なものを連れて歩いている俺に、クラスメイトが誰一人として顔色を変えずに「大丈夫?」と声をかけてくる。誰にも見えないのが、こんなにつらいなんて……。
よろよろと自分の席へ戻ろうとしたとき、転入生の姿が目に入り、思わず声が漏れた。
「嘘だろ……」
転入生は問題ない。金髪だろうがピアスだろうが、こいつは生きている。問題はその隣だ。腹に刀が刺さった鎧姿の武士が、彼の隣に佇んでいた。武士はこちらを見て、転入生が教室に入ってきたときにしたのと同じような美しい礼を女にした。だが俺の隣の女は挨拶されたというのに、微動だにしない。
 転入生が俺の視線に気づいたのか、呆然としている俺のほうへ歩いてきた。
「よかった。心配したんだ」
 派手な見た目に反して、柔らかく優しい声だった。本来なら『ありがとう』とか言うべきだと思うんだが、俺は転入生の隣の幽霊から目が離せず、声を出すことができなかった。俺の顔を見て察したのか、彼は声を潜めた。
「よかったら話さない?」
 俺は何度も頷くと、彼を新校舎の四階へ案内した。特別教室ばかりのこの階には、移動授業の時間以外ほとんど人が来ない。屋上へ続く階段の奥にある小さな踊り場へたどり着いたとき、とうとう俺の膝ががくりと折れた。
「おっと……」
 転入生がとっさに俺の腰へ腕を回し、抱き留めた。
「ありがとう、もう限界で……」
 彼は俺をゆっくりと床に座らせると、自分も隣に腰を下ろした。
「大丈夫? 持病でもあるの?」
「ないよ。俺は健康優良児。でもこの状況が……ごめんけど、君の名前教えてもらってもいい?」
「レオン・フローレス・アイハラ。『相原怜音』の方が覚えやすいなら、こっちで覚えて。君の名前は?」
「俺は高野樹姫」
 俺たちはそれぞれ、自分の名前の漢字を指先で床になぞって教え合ったが、相原君は俺の名前になぜだかいたく感心したようだった。
「美人さんだし、姫も連れてるし。名前の漢字、すごく似合ってるね」
 俺はだいぶ疲れていたので、彼の言葉をガン無視して、彼の連れていた幽霊の方へ顎をしゃくった。
「相原君、これ、なに」
「こっちは景近。俺の幽霊」
「俺の幽霊……。彼女みたいに紹介するんだな……」
「家族みたいなものだからね。俺が小さいころからずっと一緒なんだ」
小さいころから? 俺なら三日で精神を病む自信がある。武士は焼け焦げた鎧をまとい、腹に刀を突き立てられたまま、女の後ろに控えていた。
「おい、景近。その人が探していた姫だろ?」
武士は相原君にわずかに顔を向けたが、すぐに視線を姫に戻した。
「この幽霊たち、知り合いなのか?」
「景近は姫の護衛だったんだ。一番近くで姫を守ってた人だよ」
「なんで相原君、そんなに詳しいんだよ」
「……いや、逆になんで何も知らないの?」
「だって今さっき見えたばかりだから」
 彼は驚いたように目を見開いた。
「じゃあ、今まで……姫と話したことないの?」
えぇ……、こいつら話すの? 俺が眉間を押さえて「あるわけないだろ」とつぶやくと同時に、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。やばい、時間が圧倒的に足りない。相原君は立ち上がりながら、座り込んでいる俺を見下ろした。
「説明するよ。放課後空いてる?」
 話したいけど、こんな話を人に聞かれたら頭がおかしいって思われる。
「俺の家、学校からチャリで十分なんだよ。落ち着いて話したいから、俺の家で話してもいいかな」
 それを聞くと、相原君は羨ましそうな表情を浮かべて、口を開いた。
「樹姫」
 ――……『樹姫』
「家が近くていいね。俺なんかさ――」
 相原君の言葉は右から左へ清々しいほど流れて行って、ちっとも頭に残らなかった。ただ、彼の言った一言が、俺の琴線にぶち当たったからだった。
「……相原君」
 まだ話していた相原君の言葉を遮るように名前を呼ぶと、彼は「なに?」とでも言いたそうに、柔和な笑みを浮かべた。
「初めて俺の名前を呼んだな」
「ん? そうだっけ?」
 俺の中にも常識というものは存在するので、一瞬だけ迷った。だが、その間にも俺の口は勝手に動いていた。俺の本能は常識や理性より数段強かった。
「あのさ、俺の名前、もう一回呼んでよ」
 相原君は動きをぴたりと止め、先ほどまで浮かべていた穏やかな笑みを消してまばたきをした。
「なんで?」
彼の声の基調は低いラだった。彼が俺の名前を呼ぶとき、低いラから始まり、ほんの少しだけ音が下がる。一音弾いて、手首を返しながら次の鍵盤へ繊細に触れるような響きだった。
 彼は俺の返答を待っていたようだが、俺が何も答えずにいると諦めたのか、少しぎこちなく俺の名をゆっくりと呼んだ。
「樹姫」
 うん、やっぱり――。
「……ありがとう。授業に遅れるから行こうか」
「えっ……?」
 鳩が豆鉄砲を食ったような相原君は何か言いたそうだったが、俺は立ち上がり、歩き始めた。この手のことは、説明しようとするほどうまく伝わらない。
俺を呼ぶ彼の声は、柔らかく、不思議なほど澄んでいて……この人が口にする俺の名は、特別な響きを持っていた。

2章 彼らの事情 ― 怜音 ―

学校から歩いて十五分ぐらいで樹姫の住むマンションにたどり着いた。小一時間かけて学校まで通う俺としては羨ましくてしかたがない。
 家に入ると、樹姫の家族はミニマリストなのか、部屋の中の物が少ないように感じた。独立したキッチンの前にはダイニングテーブルがあり、奥のクリーム色のカーペットにはソファーが置かれ、その正面の壁にはテレビが掛かっていた。観葉植物がなければ殺風景にさえ見えるがらんとした部屋で、黒々と光るアップライトピアノは目を引いた。
「相原君はどこから来たんだ?」
 リビングの椅子に腰かけると、樹姫は俺の前に麦茶を置いてくれた。喉が渇いていたので一気に飲み干すと、彼はウェイターのごとく、俺のグラスへ再びなみなみと注いだ。
「フィリピンだよ。父方のひいじいちゃんが日本人で、相原はその人から受け継いできた苗字なんだ」
「フィリピンかぁ。遠いな」
 そうかな。比較的日本から近いと思うけど。樹姫の頭にはちゃんと世界地図が入っているんだろうか。自分の知性を値踏みされているとも知らず、樹姫は感心したように俺を眺めた。
「日本語、すごく上手だね」
「うちのじいちゃんは日本語話せるからね。土曜日は日本語学校行ってたし。あと、景近と二人でアニメとかドラマを見て勉強してさ。結論として、日本のアニメが一番だと思う!」
 そう、日本のアニメは最高だ! 俺は最近見たお勧めを力説したが、俺の熱量の一パーセントにも満たない声で樹姫は「へぇ~」とつぶやいた。
「そしたら、こいつらが何なのかも、詳しく教えてくれる?」
 樹姫が姫を指さした瞬間、地の底から這い上がってくるような声がした。
「誰に向かって指をさしておる……。祟られたいか……」
 姫が言葉を発するたび、裂けた胸の奥から空気が漏れるような、かすかな風音が聞こえた。樹姫はびくっと体を震わせると、何も言わず立ち上がって俺の隣に座り直し、テーブルに置いていた俺の腕を両手でぎゅっとつかんだ。
「マジで怖い」
 俺は彼を安心させるようにその手をぽんぽんと叩いた。
「安心していいよ。彼女の名前は白妙(しろたえ)姫(ひめ)。姫、あまり意地悪しないでよ」
「十七年もの間、わらわに気づきもせなんだ」
「分かりにくいな。俺、日本の昔の言葉、習ってないし」
 姫は鋭い目を俺に向けたが、俺が気にせず肩をすくめると、彼女は忌々しそうに言い放った。
「古文があるでしょ! 勉強しなさいよ!」
 現代の言葉が話せるなら最初から話せばいいのに。しかし姫は怒鳴った直後、景近の存在を思い出したように口を閉じた。
 この、ちょっと問題のありそうな白妙姫は、戦国時代のお姫様で、景近は彼女の護衛だった。きっと景近は毎日が大変だっただろう。そのあと戦で城が落ちたとき、二人とも命を落とした。景近が幽体となったとき、姫の姿はすでになかった。成仏することを断念し、四百年余り姫を探していたという。
「俺も知ってるのはこのぐらい。でも凄くない? こんなに長く一人の人を探しているなんて」
だが、樹姫はあまりそう思わなかったらしく、「そう?」の一言で感想を終わらせた。どうやら彼は、興味のないことには眉一つ動かさない性格らしい。ようやく落ち着いたのか、樹姫は俺の腕から手を放して、椅子の背もたれに寄りかかった。
「でも何で武士は海外に行ったんだろ。気分転換に旅行かなんか?」
「景近は、血のつながった人間にしか取り憑けないみたいでね。父方のひいじいちゃんに取り憑いたのはいいけど、ひいじいちゃんはフィリピンに移住しちゃったからさ。でも血がつながっているだけじゃ駄目らしい。魂の性質など、いくつかの条件が合う人間にしか取り憑けないんだって」
「魂の性質……?」
樹姫が心底嫌そうに姫に顔を向けると、彼女は顎をつんと上げて高飛車に樹姫を見下ろした。俺は二人の様子を見ながら、やっぱり気が合いそうだと内心思った。なんとなく、似た者同士、というやつを感じた。
「なんでこいつらが見えるようになっちゃったんだ……」
 樹姫の苦渋に満ちた声を聞きながら、俺は彼が倒れた日を思い出した。
「姫と景近が会って、何か覚醒したとか? 鼻血吹いてぶっ倒れたのは結構すごかったよ」
 すると、樹姫は伏せていた顔を勢いよくぱっと上げた。
「俺、そういえば相原君の武士に会った、と思う。草原みたいな場所にいて、袴を着た男を見た」
青い空と夏草のいい匂い、山から吹く風に揺れる草原、日に焼けた青年の横顔。彼はその日見た光景を、細かなところまで俺に話してくれた。
「すごいな。それ、姫の記憶だよね。それって感覚とかあるの?」
「あるよ。俺はもはやそこでは完全に姫だから」
「じゃあ俺も景近になれるかもしれないんだ」
 俺は期待を込めて姫の後ろに立つ景近に顔を向けたが、あいつはこちらを一瞥さえせずに姫の後ろに控えている。もともと口数はそこまで多い方じゃないし、口を開けば小言ばかりだから静かで問題はないんだけど、それにしても姫と会っているときは何で一言も喋らないんだろう。
「せっかく姫を見つけたのに、何か悪化してる気がする……。俺、何のためにここに来たんだろう……」
「もしかして留学の目的って、こいつの成仏?」
 驚く樹姫に、俺は深く頷いた。
「姫を見つけることが、未練じゃなかったのかも」
「何が未練なのか探し出すしかないな」
「手伝ってくれるの?」
 少し風変わりな雰囲気もする樹姫だが、自分一人でするより二人でする方が断然心強い。樹姫は当たり前だとばかりに頷いた。
「俺だって姫に取り憑かれてるんだから、他人事じゃない。俺も一刻も早くこいつに成仏してもらいたい。交換留学って、いつまで?」
「一年間。来年の夏にはフィリピンへ帰らないと」
「一年か……。まあ、何とかなるよな? 一年もあるんだから。よろしくな」
 樹姫が右手を差し出してきたので、俺は彼と固く握手を交わした。その瞬間、彼の瞳の奥で、小さな光がまたたいた。
俺は好奇心をくすぐられ、その光をのぞき込んだ。こんな輝きを持つ人は他にはいない。何が原因でそんな瞳をしているのかは知らないが、まるで『星の王子さま』じゃないか。白い肌と黒い髪。アーモンド形の瞳。ときおりする突拍子もない言動も、他の惑星に住んでいると思えば違和感はない。
「よろしく」
 俺は王子さまの手を握る手に、力を込めた。

3章 背中合わせ ― 怜音 ―

次の日の三時間目は体育だった。
「樹姫、休まなくていいの?」
昨日病院に行ったというのに、王子さまはグラウンドで準備運動を終えていた。
「しない日をつくると、次の時間、気持ちが負けそうだから」
「どういう意味?」
俺の日本語の力が足りないのか、それとも王子さまの言葉が難しいのか。彼は説明することもなく、憂鬱そうに俺に手を振って、ペアのもとへと歩いていった。
今月はサッカーで、授業の前半が練習、後半が試合だった。出番を待ちながらグラウンドを眺めていると、樹姫のすごい動きに目を奪われた。
なんで、あんなに一生懸命走っているのに遅いんだろう。腕も振ってる。脚もちゃんと上がってる。それなのに、全部の動きが少しずつずれている。右脚が出てるのに、上半身が後ろに残っていて、地面を蹴っているのに、腕の振りが戻ってない。 あれだけ無駄なく無駄な動きをできるのは、逆にすごい。
できることなら、そっと背中を押して重心を少し前にしてあげたい。
最後はサッカーボールを蹴ろうと足を振り抜いた勢いで、後ろへ転び、そのまま後頭部を地面にごつんとぶつけた。まるで手足につながれた糸を、それぞれ違う方向へ引っ張られている哀れな操り人形のようだ。
「樹姫はいつもあんな感じなの?」
保健室に向かう樹姫を横目で見送り、近くに座るクラスメイトに聞くと「そうなんだ。樹姫はスポーツ、全滅でさ」と、身も蓋もない返答が返ってきた。
だから、あえて体育を休まないのか。一度休んだら、次はもっとやりたくなくなるから。不憫に思いながら練習試合を見ていると、クラスメイトから声がかかった。
「相原君、俺たちの出番だ」
俺はズボンをはたきながら立ち上がり、軽く屈伸をしてからグラウンドに入った。サッカーはそんなにしたことがない。できるとしたら、前へ蹴ったボールを追いかけるくらいだ。
試合が始まってすぐ、味方が蹴ったボールが相手に当たって変な方向へ跳ねた。走ってボールに追いつき、そのまま前へ蹴ってゴール前まで運んだ。誰も追いつけない。俺の走る速度が速すぎる。全力で左足を振り抜くと、ボールはドンッと鈍い音を立て、キーパーの正面へ一直線に飛んでいった。
しまった、そう思ったが、キーパーは小さく悲鳴を上げて反射的に身をすくめ、ボールはゴールネットへ突き刺さった。
キーパーに当たらなくてよかった。だが、みんなは喜ぶより先に、唖然と俺を見ていた。俺が何かスポーツをすると最初は大体こういう反応になる。
そうだろ、景近。俺はそばに無表情で立つ景近を見た。陽射しが景近の体をすり抜け、俺を直接照らす。景近は日よけにすらならないのに……。
「スポーツしてるときは、離れるのが約束だったろ」
 景近は「……そうだったな」とつぶやいて離れられる限界まで俺から距離を置いた。姫に出会ってからあいつの言動がちょっとおかしい。
「相原君、マジですごいな」
 チームメイトが俺に声をかけてくれて、俺は照れたような笑顔を作った。
 どこまで俺がすごくて、どこから景近がすごいのか――誰にも分からないからしかたがない。

「頭、大丈夫?」
 氷囊を頭に当てながら次の授業へ向かう樹姫に、俺は声をかけた。彼にとってこれはいつものことなのか、気にすることもない様子だった。
「頭はいつも絶好調だよ。それより相原君、身体能力やばいな」
保健室から戻って見てたのか。景近がそばにいると、俺の身体能力が上がるように思えた。なかでも分かりやすいのが持久力だ。すぐそばにいれば、ほとんど疲労を感じることなく、長いあいだ体を動かし続けられた。
 自分の体だけで、がむしゃらに走っていた樹姫から褒められると、カンニングを見破られたような居心地の悪さを覚える。俺は言葉を濁して話題を変えた。
 音楽室に入ると、教卓を囲むように椅子だけが半円状に並べられ、ピアノは窓際に置かれていた。先生は教卓に向かって右側の席を俺に指定すると、チャイムと同時に授業を始めた。
 先生が「樹姫君」と声をかけ、目でピアノの伴奏を頼むと、彼は渋々立ち上がり、ピアノの椅子に腰かけた。
「発声練習がてら、『時の旅人』を歌いましょうか。相原君は、『時の旅人』って知ってる? こんな歌よ」
 彼が弾く曲に合わせて、先生の伸びやかな歌声が教室に響いた。
俺は先生の歌声を聞きながら、その伴奏をしている樹姫に目を向けた。信じられないほど退屈そうに弾いているのに、とても綺麗な音がピアノから流れていた。先生の歌が止まったので、俺は慌てて樹姫から目を逸らすと先生に頷いた。
「聞いたことがあります」
「それはよかったわ。そしたらとりあえずテノールに入ってね。知っているところだけ歌ってもらっていいから」
 先生が両手を広げて合図を出し、全員で曲の頭から歌い始めた。俺も歌い始めたが、声を出した途端、みんなの歌声が揺れて、何人かが俺にちらっと視線をよこした。
 俺が歌うと、いつもこんな感じだ。俺は歌が壊滅的に下手だった。周りに合わせようとはしているし、正直、頭の中ではちゃんと音程もリズムも合っているんだ。でも実際のところは違うらしい。
「やさしぃあ~めにぃう~たれぇ~~♪」
 誰かが喉を詰まらせたような音を漏らしたあと、ごまかすように咳払いをした。たぶん、笑いを押さえきれなかったんだろう。途中から樹姫は低音を強く利かせ、伴奏の音量まで上げていった。先生も思わず振り返って樹姫を見たが、彼はそのままの勢いで最後まで弾き切った。
 歌が終わった時、彼と目が合った。その瞳の中で、小さな光が煌めいていた。
昼休み、サウナのごとく暑い四階の踊り場で昼食を食べているとき、どうしても気になって俺は汗をぬぐいながら樹姫に尋ねた。
「ところで伴奏、突然大きくなったけどさ、あれって俺の声を隠そうとしたの?」
喉に食べ物を詰まらせた彼は、激しくせき込んだあと、慌てたように「違う」と手を振った。
「そんなことはしない」
「いいよ。下手なのは知ってるから。いつもみんな笑うしね」
 樹姫は食べるのをやめて俺の目を見た。
「音を大きく弾いたのはさ、灯台になりたかったんだ」
「灯台……?」
「そう、相原君が曲の中で迷子になってたから、こっちだよ、って俺のもとに来れるように灯台になりたかった」
 俺が歌うと、みんな吹き出すか爆笑するかのどちらかだ。どちらにせよ笑われるわけだけど、どんなに俺が心を砕いても、音程もリズムも何もかも合わないから仕方ないと諦めていた。『俺のもとに来れるように』って手を差し出してくれた人は今までにいなかった。
「光の代わりに音を出しただけ……余計なことだったかもしれないけど」
「樹姫って、そういう難しいこと、いつも真面目に考えてるの?」
「難しい? 灯台って聞いたことない?」
「そういう意味じゃないよ。歌には使わないでしょ」
「そうかな。相原君の歌声はセイレーンみたいだったから、あってるんじゃないか? 俺、テノールの練習のとき、なるべく伴奏の音を大きめに出すから。音が分からなくなったら耳を澄ましてみて」
「……樹姫のもとにおいでって?」
「そのとおり」
 彼の音でできた灯台を目指しても、俺の船は穴だらけで、到底たどり着けそうになかった。それでも、彼の音が行く先を照らしてくれるなら、俺は音楽の授業を耐えられるかもしれない。だが樹姫の言葉にふと引っ掛かりを覚えて、俺は再び箸を止めた。
「セイレーンって美声じゃなかったっけ」
「でも、耳をふさいでないと船が沈むからね」
「樹姫、それって……」
暗に、俺の歌を聞きたくないって言ってるんじゃないのか? 樹姫は不満そうな俺の顔を見ながら、ゆったりと唇を弓なりにした。
「俺のもとに来るのを待ってるよ」
その笑顔は思いがけず艶やかで、俺は驚いて箸を落としそうになった。そんなふうに笑うこともできるんだ。驚いた俺が面白かったのか、樹姫は少し目を細めると、何事もなかったように弁当を食べ始めた。

4章 彼女の頬を伝うもの ― 樹姫 ―

く、苦しい……。
はっと目を覚ました。ぐっしょりと汗で濡れた寝間着が信じられないくらい冷えていて、全身が寒さにがくがくと震えた。暗闇の中でカチッ、カチッ、と規則正しく音を立てる時計と、俺の浅い息遣いだけが部屋の中に響く。時刻を確かめようとしたのに、体が動かない。なんだよ、この状況は?! 焦って目だけを動かして辺りを見回したとき――。
「ぎゃあっ!」
 なんで俺の体の上に姫が正座してるんだよ! これ、金縛りじゃねぇか!
姫が見えるようになって一週間ほどがたち、俺はあの血みどろの顔にも、おぞましい姿にも慣れていた。それでも、真夜中に目を覚まして、腹の上に血まみれの幽霊が正座していたら誰だって叫ぶ。
「姫! どけよ! 重い!!!」
 体重がないのに、なぜこんなに重いのか。マジで不思議だ。姫は面白くなさそうにゆるっと下りると、退屈そうに俺を見た。
「ピアノでも弾く?」
「弾くかっ!!!」
 俺はベッドから起き上がって時計を見た。布団に血がべったりとついている。不吉すぎるだろ、これ。時計の針は午前四時を過ぎたところだった。シャワーを浴びようとして、俺は姫を振り返った。
「俺、シャワー浴びるから、ついてくんなよ?」
 幽霊にも頭に上る血があるのかは知らないが、姫はかんかんになって怒り始めた。
「行くわけないでしょ?!」
「だっていつもついてくるだろ」
「少しは離れられるのよ! いつもトイレとかお風呂とかついていってないでしょ?! あんた本当にバカなんじゃないの?!」
 ぷんすこ怒って姫はどっかに行ってしまった。シャワーを浴びて新しいジャージに着替え、水を飲むためにリビングへ行くと、姫はピアノのそばに立ちすくんでいた。
「弾いてもいいぞ。夜中の怪異みたいにさ」
 うちのリビングは防音もばっちりだ。だが姫は首を振った。
「怨霊や悪霊と一緒にしないでよ。私は物に触れないのよ」
 俺は首を傾げた。つい先日、姫は「前は取り憑いた人とよく一緒に弾いたのに、あんたはずっと無視して」と、昔ばなしに嫌味をブレンドして俺にぐちぐちと言っていたのに、触れないのであれば弾くこともできない。
「前の人とどうやって連弾したんだよ?」
「連弾じゃないわよ。中に入って一緒に弾くのよ」
ちょっと興味が出てしまった俺は、「じゃあ、俺の中に入って弾いてみる?」と提案してみた。
「別にいいけど、入ったとき、私の記憶が少し流れるわよ」
相原君が転入してきた日、武士を見たときの映像を俺は鮮やかに思い出した。そして俺が泣いて鼻血を出したのもついでに思い出した。
「あのとき、姫入ってなかったのに、なんで俺、姫の記憶見たんだろう」
「景近と会って暴走したのかもね。無理やり記憶が流れたからあんたの体が変になったんじゃない?」
 本当に大変だったのにあまりに軽くあしらうので、俺は流した本人に冷たい視線を投げた。もちろん、姫は一切意に介さなかったが。
「姫が入ったら俺、また鼻血出して泣くのかな……あんたの周波数が俺のと合わないのかも」
「知らないわよ、そんなこと。ちゃんとチューニングしてよ。前の子はそんなことなかったんだから」
「無茶言うなよ」
 もうベッドに戻ろうかとも思ったが、目がすっかり冴えていて寝付けれそうにもない。カーテンの隙間からは真っ暗な闇がずっと地平線の向こうまで続いていた。
「安全ならさ、俺の中に入って一緒にピアノでも弾く?」
今日は土曜日だから、少しくらい何かあってもどうにかなるだろう。
彼女は表情を変えずにピアノの横に立ち尽くしていたが、ふわっと浮かびそのまま俺の中に入ってきた。入られた瞬間、身震いするほどの冷気と、悲しみや悔しさが胸へ一気に流れ込み、自分が誰なのか分からなくなった。
すると視界がぱっと切り替わり、俺は焼けた木と血の臭いが充満する城の中にいた。燃え盛る炎が夜空を赤く染めて、逃げ惑う人々の狂気じみた悲鳴が聞こえた。
『姫様、お急ぎください!』
悲痛な声を上げる家臣に促されながら、私は一度だけ振り返った。
景近はまだ追いついてこない。……いや、来られないのだ。私たちを逃がすため、後方に残って追手を食い止めている。
そのときだった。前方の角から敵兵が飛び出すと、家臣が抜き身の刀を構え私をかばうように前へ出た。
怖い、助けて! 景近!
刃がぶつかり、怒号が響きわたった。
『姫様! お逃げください!』
忠義者の家臣の怒声に、私の体は鞭打たれたように動き出した。
私が怯えてどうするというの。私が逃げなければ誰も逃げることができないというのに――!
左に逃れようと駆け出したとき、横手から現れた敵兵が刀を振り抜いた。強烈な痛みに息が詰まったかと思うと、血が逆流するように込み上げ、口から噴き出した。
視界が白く光った途端、胸が熱くなった。声が出ない。
まだ何も言えてないのに。このまま死ねない。だが膝が崩れ、地面へ手をついた。まぶたが勝手に下りてくる。口惜しい……!
目の前が暗くなったとき、愛おしい人の悲痛な叫びが聞こえた。
『姫様! 姫様!!』
必死に名前を呼んでいる。泣かない人だったのに……。来てくれたのね……。
景近――……。
まぶたを上げると、リビングの床とダイニングテーブルの足が見えた。まばたきをするたびに、右目からこぼれた涙が鼻筋を横切り、左目の目頭へ流れ込んだ。俺はいつの間にか、リビングの床に倒れていた。斬られた胸の痛みと鉄に似た血の味が残り、俺は体を丸めた。
姫はまだ俺の中にいた。同じように記憶をたどるのか、俺の中で小さくなっているのを感じた。
 君に、会いたい。触れて、大丈夫だと言ってあげたい。景近――……。
荒い呼吸と震えが治まるのを待ち、俺はゆっくり立ち上がると、ピアノの鍵盤蓋を開けた。椅子に腰を下ろして楽譜を開くと、姫はショパンの《前奏曲第4番 ホ短調》を選んだ。
俺は指を鍵盤に置いたが、最初の音をしばらく鳴らせなかった。さっきまでの臭いが、悲鳴が、痛みが、まだこの身とこの空間に漂っているようだった。
 胸の中に渦巻く様々な感情を、俺はいつものように一つずつ胸の奥へ沈めようとした。手が負えない感情を落ち着かせるときに、俺がよくする作業だった。けれど、沈めきるより先に、俺の腕が動いた。手首から余計な力が抜け、最初の和音が静かに落ちた。
指を動かしているのは俺じゃなかった。
曲が終盤へ近づくにつれ、右手が堪えきれなくなったように旋律を歌い始めた。抑え続けていた感情が、音になって一気に部屋へあふれていく。
そうだったんだ……。
鍵盤へ涙が一滴ずつ落ちていく。
あんたはこんなにも景近のことを想っていたんだな……。

 自室に戻った俺は鼻をかんだあと、姫がこの前好きだといったJ-POPをかけた。
「姫が重いわけが分かった」
姫は失礼ね、とでも言わんばかりに簾のような髪の隙間から俺を睨みつけた。
「あんな記憶があればそうなるよ……姫と景近は、あのとき何歳だったんだよ」
 姫は視線を彷徨わせて考えていたが、やがて思い出したようだ。
「十七と二十二よ」
 姫とはまさかの同い年だった。
「なぁ、あんなに好きなのになんで景近と話さないんだよ」
「……景近は家臣よ」
「でも今はただの幽霊だろ?」
 姫は宙に浮いたまま、何か考えるように外を眺めていた。
「話しかければいいじゃん。景近がどう思ってるかは知らないけど、四百年も探してたんだからあいつも相当何かを思ってると思うよ」
「……怖いのよ、もし景近が今も父様の命だけで動いているのだとしたら」
「相原君は一年しかいないよ。今は好きな人に自分から話しかけたって、誰も何も言わないよ」
 姫は透明な着物を撫でるような仕草をしていたが、「はしたない」とつぶやいた。
「戦国時代じゃない。今は令和だよ」
 部屋に流れる軽快な曲が、重い空気を少しずつ押し流していくような気がした。カーテンを開けると、いつの間にか東の街並みの向こうから、ちょうど朝日が昇り始めていた。
「あんたが頑張るなら、俺も協力するけど」
姫は静かに視線を逸らすと、自信なさげに口を開いた。
「……そんなに簡単にできるとは思えない。景近は本当に話さないし」
「分かってるよ。何か考えるから。俺にだって頭の中に脳みそがあるんです」
「……私が景近を特別に思っているって、あの人に秘密にできる?」
 悪いけど笑ってしまった。どんな言葉を使ってもあんな感情を言い表せないのに、どうやって景近にそれを言えと?
白妙姫はしばらく俺の様子を窺っていたが、心細そうに「私にできるかしら……」とつぶやいた。血とすすにまみれた姿なのに、そのとき初めて、普通の女の子に見えた。

 週明け、足早に教室へ入ると、窓際の一番後ろの席で朝の準備をしている相原君が目に入った。俺は急いで彼のそばまで行って声をかけた。姫と景近が一緒に過ごせる時間を増やしてあげないといけない。
「相原く――」
 俺の声に反応して彼がこちらを向いたとき、俺は声を詰まらせた。瞳の中の光が、今まで以上に美しく色づいていた。一気に頭に血が上がり、頭の中が真っ白になった。
「おはよう」
 爽やかに笑って彼が挨拶をするが、それでも俺は声がまだ出ない。
「……? どうしたの?」
 不思議そうな彼に、俺は無意識に相原君を眺めていたことに気づき、慌てて無理やり声を出した。
「お、おはよう」
 喉に張りついたような声が出てしまって、俺は顔まで熱くなるのが分かった。はずっ。
「こ、今度一緒に勉強しない?」
 思い切り早口になった俺を、相原君はちょっと不思議そうに見てから答えた。
「それいいね。俺、現国がやばいから教えてほしいな」
 いや、やばいのは現国だけじゃないぞ。俺の様子も相当やばいぞ。俺は相原君の瞳の中に閉じ込められている小さな星のような光から無理やり目を逸らした。なぜずっと見ていたい気分になるんだ。
「……今日、放課後一緒に帰らない?」
「分かった」
 相原君の了解の声を確認すると同時に、俺は自分の机に鞄を置いて、ダッシュで四階の踊り場まで走った。
「姫っ! なんだよ、これは!」
「これって何よ。『これ』じゃ分からないわ」
「なんで俺が相原君見てドキドキしなきゃいけないんだよっ。しかもあの目、なに? なんで漫画みたいに光ってるんだよ」
 胸の中がざわざわしてたけど、軽い花粉症にかかったみたいなものだった。くしゃみが出そうで、出ない。そんな気持ち悪さだけだったのに、突然今日からときめきが止まらない。
「そうなの? あの子のことは見てないから分からなかったわ」
「……じゃあ、どこ見てたんだよ」
「……」
 あ~……。景近のことしか見てないんだな……。あれだけ好きなら分かるよ、分かるけどさ!
「あの光、絶対あんたらの『何か』だろ? あんなに心拍数が上がったままだったら、そのうち倒れる。どうにか消してくれよ」
「一応見てみるけど。私にはどうにもならないと思うわよ。だってあんたにもあるもの」
 嘘だろ? あんなのがあったらまた病院行きだよ! 俺は急いでスマホを取り出して、自分の顔を画面に映した。目を大きく開いて覗き込んでみるが、どこにも光なんて見当たらない。
「ないじゃん」
姫は俺の後ろから画面を覗き込むと、「私と一緒かもしれないわね」と言った。
「だって、私も鏡に映らないもの」
 とりあえずほっとしてスマホをポケットに戻した。だが全然解決には向かってない。
「相原君のも俺のも、どうしようもないってことか?」
「そうなるわね」
「だいたい、俺だって目に光があるんだろ? なんで俺ばっかりドキドキしてる感じなんだよ」
 すると姫はぴたりと動きを止め、途端に声を一オクターブ下げた。
「……きっとこの前、あんたに入ったから私の影響が出てるのよ。だから……」
 その先を言わなくても分かった。
 向こうは十六年も一緒にいるんだから、幽霊の影響は新米の俺よりずっと強いはずだ。なのに相原君が俺ほど動揺しないのは、景近の気持ちが姫ほど強くないから――つまり四百年の片思い。それはあまりに切なすぎる。
「……はあ~……しょうがないなぁ、応援してやるよ」
「……別にいらないわよ、あんたの応援なんて」
 ちっとも可愛げがない姫に呆れた視線を投げながら俺はふと思い出したことを尋ねた。
「なぁ、瞳だけじゃなくて、声にも影響する?」
「知らないわ。だいたい目のことも知らなかったんだから」
 俺があの声を綺麗だと思ったのは、姫が俺の中に入る前だった。
『樹姫』
 一オクターブ低いラ。
 俺は考えるのをやめた。あり得ないことがどんどん起きているんだ。これも一つの怪奇現象に違いない。

5章 背中を押すその手をつかむのは ― 怜音 ―

「姫とちゃんと話してよ」
 俺は樹姫のマンションに着くなり、傍らに漂う景近にもう一度念を押した。
「ずうっと探していた相手が見つかったのに黙ったまま後ろにいるって、それが景近のしたかったこと?」
エレベーターが最上階に着き、玄関の前に立っても、景近から返事はなかった。この期に及んでも沈黙を貫く景近の態度に腹が立ち、俺はやつの鼻先へ人差し指を突きつけた。
「今日、姫と話さなかったら、今後どれだけやかましく言われても、景近の言うことは何一つ聞かないよ」
玄関のチャイムを鳴らすと、白いTシャツにジャージという、普段着そのものの姿で王子さまが深緑色のドアを開けてくれた。樹姫は、地毛の栗色に戻した俺の髪をしばらく眺めた。
「……川やんが泣いて喜ぶな」
俺としては染めていたあの色がすごく気に入っていたから残念でならない。景近はというと、姫の五歩ほど後ろという定位置に、今日も律儀に控えていた。俺にあそこまで言われて何もしないなんてあり得ないよ。
俺がダイニングテーブルにつくと、樹姫は景近と姫を呼び寄せた。
「あんたら二人も授業に出てるんだろ。だったら四人で勉強しよう。勉強すると授業が分かるから、ただ取り憑くより楽しいだろ」
 景近は姫越しに俺たちを眺めているだけだったが、景近と視線が合った瞬間、嫌な予感がして、俺は勢いよく首を振った。
「無理無理。絶対に無理。景近はいろいろうるさいんだ。これで宿題の中身まで口出されたら俺、発狂するかもしれない」
 王子さまは勉強道具を机の上に置きながら、不思議そうに姫の後ろに立つ景近と俺を交互に眺めた。
「どんなことがうるさいんだよ?」
「野菜食べろとか、部屋を片付けろとか、身なりをしっかりしろとか――」
「……それ、ちょっと……まあ、いいや。景近、相原君の宿題には口出ししないって約束してくれよ」
 樹姫に何も反応をしなかったくせに、姫が誰にともなく「……勉強してみたいことがあるんだけど」と、恥じらいをにじませた声で言うと、景近はあっさり頷いた。
「わかった……怜音に口出ししないでおこう」
 俺はほっと息を吐きつつ、俺は姫に尋ねた。
「姫は何の勉強してみたいの」
 俺の質問に姫はつんと顎を上げ、「英語」と一言だけ答えた。へぇ、英語、ねぇ……。俺は景近へ目配せした。
「姫様……」
 数秒の沈黙のあと、景近はようやく口を開いた。
「私は、その言葉を少しですが話すことができます」
 景近は俺に憑いて学校へ通い、一緒に英語を習ってきた。話せるのは当然だ。樹姫が目を輝かせて「すげぇ! バイリンガル幽霊!」と叫ぶ一方、姫は名前を呼ばれたことに驚いたのか、固まったままだった。だが、姫は息を長く吐くと、小さな声で景近に尋ねた。
「……景近、どれくらい怜音の国にいたの?」
「……八十年ほどになります」
 景近はいつもどおりの低い声で、淡々と答えた。俺はふと思いついて、樹姫へ顔を向けた。
「樹姫は海外旅行したことある?」
 樹姫は、まさかと言わんばかりに首を横に振り、仏頂面で予想どおりの答えを返した。
「ない。日本語が通じないところで迷子になったら、もう帰ってこられないだろ」
「じゃあ姫も一回も日本から出たことないよね? 前に誰に取り憑いていたかは知らないけどさ。お前がフィリピンのことを教えてあげたらいいよ」
 景近は俺をちらっと見て、静かな吐息を一つつくと、「姫様、こいつの国はとても変わっておりまして」と、話し始めた。フィリピンと日本では、文化も気候も何もかも違う。景近の話はなかなか尽きず、姫は楽しそうに耳を傾け、ときどき変な質問をしていた。
二人の話を聞きながら、俺と樹姫は宿題を片づけた。終わるころには二人の会話も途切れなくなり、樹姫は安心したように奥のソファーを示した。俺はそこへ身を沈め、床に「疲れた」と言って伸びた樹姫に目を向けた。
「樹姫に言っておかなきゃいけないことがあって」
 俺が今日、ここに来たもう一つの理由。
「姫は琴の名手だったから、その……樹姫はピアノが上手なんだ。人より音楽の才能があるって、自分で思ったことない?」
姫が及ぼす樹姫への影響を説明にしに来たんだ。樹姫はわずかに目を見開き、俺から姫へ、そしてピアノへ視線を移した。
「そういうことか」
「言わない方がいいかもしれなかったけど、姫が成仏して急に弾けなくなったら、樹姫も困るだろうから」
ショックを与えたかと心配したが、樹姫は顔の前で軽く手を振った。
「別に困らないから、気にしないでいいよ」
 その声は、強がっているようには聞こえなかった。
「でも昔から弾いてるんだろ? すごく上手だって聞いたけど。一日何時間ぐらい練習してるの?」
「……たぶん、四時間くらい?」
 一日四時間も弾いている人間が、急に弾けなくなっても平気なはずがない。俺がかける言葉に迷っていると、樹姫は言い訳するように続けた。
「これで食べていこうとは思ってないし、人前で弾くのも嫌いなんだ。それでも十二年やめなかった理由が気になる」
 樹姫は一度言葉を切り、宙をしばらく見つめてから、俺に顔を向けた。
「自分が弾く理由を知りたい。……それが分かるまで弾くよ」
「……変わってるなぁ」
 考えていることは俺の理解を軽々と超えているが、そんな俺にも一つだけ分かることがある。
 樹姫のピアノは、とても綺麗だ。
「……一曲弾いてくれない?」
彼はちょっとためらったが、「四人ならいいか」と立ち上がった。
ピアノの前に座った樹姫は、鍵盤に手を置くなり一気に弾き始めた。なんでもない顔をしているくせに、十本の指は残像が見えそうなほど目まぐるしく鍵盤の上を走り回っている。俺は『風の谷のナウシカ』の王(オー)蟲(ム)の足を思い出した。
「すごい……。すごく上手。さすが自分を灯台だと言うだけある」
 王子さまは少し照れくさそうに微笑みながら頭を掻いた。
「この曲は何が言いたい曲なの?」
「怒り、だね。ショパンの《革命》っていう曲」
「あー、革命かぁ。言われてみたら、指が忙しく駆け巡っているもんね。樹姫は怒ってこれを弾いてたってこと?」
「怒らなくても弾けるよ」
俺には樹姫が怒っている姿は想像でなかった。樹姫は優しくて、少し不器用なぐらいがちょうどいいように思えた。
「もう一曲弾いてくれない?」
「いいけど、何を弾いてほしいんだよ」
「何でもいいかな。樹姫の弾く姿、格好いいよ」
「……あ、ありがとう」
 彼はどこかで聞いたことのあるJ-POPを弾き始めた。勢いがあるのに旋律は切なく、聴いていると胸の奥を掴まれるようだった。演奏が終わると、俺は曲の題名を尋ねた。
「『らしさ』って曲。勢いがなんとなく相原君っぽい」
「ふぅん?」
 スマホで曲を調べ、歌詞を目で追ううちに、自然と眉間に力が入った。
顔を上げると、樹姫は何食わぬ顔でこちらを見ていた。どこまで分かって、この曲を選んだんだろう。歌詞に並ぶ挫折と努力――どちらも俺の嫌いな言葉だった。

道は分かると言ったのに、樹姫は俺をわざわざ駅まで送ってくれた。線路沿いの公園に入って行くランナーをつい目で追うと、隣を歩く樹姫と目が合った。
「……俺の身体能力って景近に影響されてるんだって言ったら……信じる?」
幼いころ、景近のことをうっかり人に話して痛い目に遭ったので、もう二度と他人に言わないと決めていた。だが樹姫はすぐに頷いてくれて、俺は安堵の息を吐いた。
「子どものころから足が速くて、陸上大会の結果が地元紙に載るくらい、成績がよかったんだ。でも、景近のおかげかもしれないって気づいたら走れなくなった。どこまでが自分の力なのか、分からないから」
 樹姫は、ときどき小さく頷きながら黙って聞いてくれた。
「活躍できたとしても……それが本当に俺の力なのか、分からない」
 いっそ何も知らないふりをして、思いのまま走ればいい。でも景近が突然消えて、これまでと同じ走りができなくなったら、どうすればいいんだろう。まして大会直前だったら、期待してくれている人たちに、俺はどんな顔をすればいい?
 樹姫は同じようにのんびりと俺の横を歩いている。
「こう考えられない? 今の相原君が『景近込みの相原君』」
「……うん?」
「よく分かんないけど、人から受ける影響ってあるだろ? 景近もそういうこと」
「普通、人から影響を受けるって、考え方とかだろ? 能力まで変わったりしないよ」
 樹姫は何か考えるように前を向いた。遠くから、電車が陸橋を通り過ぎる音が聞こえてきた。長く聞こえていたその音が消えうせたころ、樹姫は口を開いた。
「その能力を使いこなして走ってきたのは相原君だろ。車だって、運転を覚えなきゃ乗りこなせない。それと一緒」
 かなり力業の説得だったが、俺は「確かに……」と思わずつぶやいていた。
「……でも景近が成仏して走るスピードが落ちたら、これまでの努力が全部、無意味になるんじゃない?」
 樹姫は「そんなことか」とでも言いたげに、あっさり答えた。
「無意味かどうか、それを知るために走るんじゃないの?」
 なんて要領の悪い考え方だ。そんなことをしていたら、どれほどの時間を無駄に――……。
 いや、樹姫はしていた。アホみたいに毎日四時間ピアノを弾いている。この前見たマリオネットのような走りと、さっき鍵盤の上を駆け回っていた指が、立て続けて頭に浮かんだ。樹姫の言葉に説得力があるのは、彼ができないことからも、できることからも逃げずに向き合っているからかもしれない。
「樹姫はそうかもしれないけど、俺はダメなんだよ。努力嫌いだし、誰かに認められないとやってられない」
「なら俺が相原君を褒めてやるよ。どうせ姫たち絡みで一緒にいることが多いから」
俺は樹姫と並んで駅の入口をくぐると、その横顔を見た。樹姫は、俺の言葉を何でも吸い込むブラックホールみたいだ。飲み込んだ言葉を、思いもよらない答えに変えてぺっと吐き出す。
「毎日俺を褒めるの?」
「相原君がそうしてほしいならそうするよ」
「樹姫って……優しいの? それともただ変なだけ?」
毎日褒めるって結構大変なことだ。でも、言うだけならタダだしね。本当に毎日続けられるとは思えない。だけど、俺は改札口へ向かいかけて足を止めた。
 振り返ると、樹姫はポケットに手を突っ込んだまま、さっきと同じ場所に立っていた。周りが流れていくのに、樹姫だけ川の中の石みたいにその場から動かない。君は普通じゃない。弾く理由も分からないまま弾き続け、俺にも走れと言い、褒め続けると約束する。
「樹姫、本気で言ってる?」
 人々が行き交う駅のざわめきのなか、樹姫は「うん」と頷くと真面目な顔をした。
「俺はいつでも本気です」
 なんで敬語なの。
「……俺、走るよ。言ったからには、ちゃんとついてきてね」
 口約束なら簡単だよ。本当に、本気で俺についてこられるのか、見せてほしい。

6章 靴底が土を蹴り上げるとき ― 樹姫 ―

「樹姫!」
 翌週末、俺は相原君の練習が気になり、立川まで足を伸ばしてみた。九月に入ったというのに、まだ真夏を思わせる眩しい日差しが川面を照らし、一面にきらきらとした網目のような模様を作っていた。
 俺が土手の上のランニングコースから河川敷へ続く階段を下りていくと、相原君が俺の元に嬉しそうに駆けてきた。
「ホントに来るとは思わなかった。遠かっただろ?」
 確かに毎日学校に通うにはちょっと遠い。頷くと彼は「満員電車が本当につらくてさ」と嘆き始めた。
「毎朝、四十分以上もすし詰めの電車に揺られて学校へ行くのは耐え切れないよ。手を上げてないと痴漢って思われるって聞いてから――」
「……怜音」
 景近が低く相原君を呼んだ。その意味は、『いつまで話してるんだ、コノヤロー』だろう。相原君は「はいはいはいはい」と投げやりに返事をしてから俺に手を振ると、先ほどいた場所に戻っていった。
彼は遠くから全力で走ってきて、ゴールするとまた元の位置に戻る、という苦しそうな練習をしていた。何本目か分からないけど、彼は再びスタート地点に立つと、軽く地面を蹴ってそのまま滑るように走り始めた。あんなに速いのに、上半身はほとんどぶれてない。前へ出した足が体の真下に着地したかと思うと、もう次の足が前へ出ている。
景近は相原君が走り始めると、影響をなるべく与えないように、遠くから大声で指示を出していた。何本か走り終えたところで、相原君はシャツの袖で額の汗を拭いながら俺のところに戻ってきた。
「樹姫、次の一本、タイム計ってもらえる?」
 俺も相原君がどれくらいの速さで走るのか興味があったので、返事する代わりに立ち上がり、彼が指定してきたゴール地点に立った。
「景近が腕を下ろしたら、そのとき押して」
 それだけ言って相原君が背を向けたので、俺は慌ててスマホにストップウォッチを表示させ、その背中に声をかけた。
「下ろし始めたとき? 下ろしきったとき?」
 彼は笑うと、下ろし始めたら、と言ってスタート地点へと走って行ってしまった。
景近は影響をなるべく与えないよう、相原君から距離を取りつつ、その斜め前に立った。相原君が片足を後ろへ引き、腰を落として身構えると、景近は高く上げていた腕を大きく振り下ろした。
「行け!」
俺が画面に触れるのとほとんど同時に、相原君は弾かれたように飛び出した。走ることが苦痛でしかない俺とは違い、相原君の体は走るためにできているように見えた。目の前を一陣の風のように通過した瞬間、もう一度画面へ触れた。止まった数字を確認していると、相原君が息を弾ませながら戻ってきた。
「何秒?」
「三十九秒七」
「サボってたからしょうがないけど……笑っちゃうね」
 彼は皮肉げに片方の口角を上げると、俺の手元のスマホを眺めた。
「これで遅いって言うのか? 何百メートル走ってるんだ?」
「三百。前は三十六秒台で走れたから」
 俺と彼は同じ人間なんだろうか。
「もう一回走るから、タイムよろしく」
 スタート地点へ戻るかと思ったら、景近のところへ走っていき、何やら相談を始めた。
「景近が選んだ子だけあるわね」
 いつの間にか俺の横に立っていた姫が怜音と景近を眺めた。
「景近は、城で一番足が速かったのよ」
「……そこが好きだったのか?」
「零点の答えね。『も』よ」
 景近がいないと、姫は何でも言えるらしい。相原君がスタート地点に戻って腰をかがめると、景近が再び腕を振り下ろした。相原君の体が滑るように前へ出た。陽光を弾き走るその姿は、どこまでも自由で、目を離すことが惜しくなるほど美しかった。
 彼が目の前を通過して、荒い息をつきながら戻ってきた。
「何秒だった?」
「……あ、ごめん、計ってなかった」
「えぇっ、なんで?」
 相原君が荒い息のまま、素っ頓狂な声を上げたので、俺は仕方なく本当のことを伝えた。
「見惚れていたから、押せなかった」
「……俺に?」
「大地から力を受け取って、そのまま風と一つになったみたいだった。俺の前を通り過ぎたときは、もう風になってたよ」
 相原君は「初めて聞く褒め言葉だなぁ」と満更でもない顔つきで俺を眺めた。
「なら、計ってなくても許すしかないね」
「俺の体感では、前より速かった」
 相原君は「信用できないストップウォッチだね」と吹き出し、俺の頭をぐしゃぐしゃにした。彼はまだ何本か走るらしく、俺は再び土手に腰を下ろした。
見ているうちに、胸の底から小さな嫉妬が湧いてきた。無理なものは無理だと割り切ったはずなのに、彼ほどでなくてもいい、ほんの少しでもまともに動けたら――そんな思いが、泥の底から浮かぶ気泡のように、ぼこり、またぼこりと音を立てて浮かび上がった。
その瞬間、頭の中にいくつもの声が蘇った。
『お前、その動き超おもしれー』
『何やってんだよ、そこどけって』
『お前のせいで負けたんだぞ! 足手まといすぎる!』
 ぐるぐると回り始めた記憶を抱えたまま、俺は一度目を閉じた。つらいとか、恥ずかしいとか、そういった感情をぐっと抑え込んだ。くだらない感情は処理に時間がかかるだけで、何の役にも立たない。腹の底を意識しながら、ゆっくりと深呼吸する。何度も繰り返し、胸の中で渦巻くものを、一つずつ奥へ沈めていった。二度と勝手に浮かんでこないように、深く、深く――。
「樹姫、何しているのよ」
 目を開けると、姫がそばに立って俺を見下ろしていた。
「また、気持ちを沈めている真っ最中?」
「……なんで姫が知ってるんだよ」
「初めてあんたの中に入ったとき、同じことをしていたから。やめなさいよ、それ。不健康よ」
「これぐらいで体は壊さないよ」
それよりも、目の前で走る相原君を見るたび、沈めたはずの記憶や思いが、また小さな泡になって浮かんでくるほうが問題だった。いっそ重石でも乗せた方がいいのかもしれない。そう考えていると、相原君が息を切らせながら俺のところまで走ってきた。
「樹姫、顔色がよくないね。大丈夫?」
「大丈夫」
相原君と少し話していると、景近の「怜音!」という怒声が飛んできた。
「ほんっとに、うるさいなぁ……」
文句を言いながら、背中に天使の羽がついているみたいに相原君は軽やかに戻っていった。
世の中には、どうしようもないことがある。
相原君は気づく必要なんてない。君はどこまでも走っていけばいいんだから。後ろを振り返っていたら他のやつに追い抜かされてしまうよ。

相原君は最後の仕上げに、土手の上のランニングコースをゆっくりと走り始めた。彼の姿が見えなくなると、俺は一層輝きを増した川辺に腰を下ろし、ゆったりと海へ流れていく川に目を向けた。横を見ると姫も正座するような格好で俺の隣に座り込んでいた。その血に汚れた横顔を見ながら、俺はふと相原君の言葉を思い出した。
一体姫は俺にどんな影響を与えているんだろう。彼女がいなくなったら、この指は鍵盤の上で一本も動かなくなるのだろうか。それとも何割かが残って、ある程度は弾けるのか。それとも――。
「何か歌わない?」
 口の端から血を滴らせながら誘ってくる姫を見て、俺は答えの出ないことに、無駄な時間を費やしていたのだと気づいた。先のことを考えて立ち止まるより、今、目の前にあることをその場のノリでやる方が、俺の性分には合っている。
「いいよ。何歌う?」
「アヴェ・マリア」
 姫はどこぞで耳にしたその歌にすっかりはまり、俺たちはドイツ語の歌詞をカタカナで表記したYouTube動画を頼りに覚えたのであった。二人で川辺に立ち、声をそろえて歌い始めた。
「ア~ヴェマリ~~ア~~……」
 姫と歌うカタカナのアヴェ・マリアは和風漂うヘンテコな歌だったが、それでも彼女の声の美しさは少しも損なわれなかった。伸びやかで透明で、どことなく幼いその歌声は、一緒に歌う俺の心も揺り動かす。川上から風が軽く吹いてきて、俺の髪を緩やかになびかせた。
 二番の途中で、ふと視線を感じて横を向くと、いつの間に戻ってきていたのか、相原君と目が合った。
「おかえり」
 戻ってきたなら声をかけてくれればいいのに。無心に歌っているところを見られるのは少し恥ずかしかった。
「……今の、アヴェ・マリア?」
「まぁね。和製だけど」
「……歌、すごく上手なんだね」
「姫は歌でも有名だったみたいだよ」
「樹姫の歌がすごく上手だった。姫も上手だったんだろうけどさ」
 カタカナで歌っているから上手とはとてもじゃないが思えなかったが、相原君の声にからかいの響きはなく、純粋に褒めているだけのようだった。だが、彼の様子がちょっとおかしい。まるで動くことを忘れたように、ずっと俺を見続けている。歌なんてとうに終わっているのに、彼だけがまだその場に取り残されているようだった。
「相原君? どうした?」
 俺が一歩彼に近づくと、彼ははっと我に返ったように声を上げた。
「特に何もないんだけど……」
 そう言うと彼は居心地悪そうに視線を逸らした。……あれ? もしかして……。俺は彼に近づくと、少し屈んで顔を覗き込んだ。頬はうっすら赤くなっているのに、目が合っても俺から視線を逸らさなかった。これって以前姫の影響を受けた俺のときと同じだよな? 俺がニヤついていると、相原君は少し腹を立てたようだった。
「……なに笑ってんの」
「いや、ようやく同じだと思ってさ」
 相原君はびっくりしたような顔をして「……同じなの?」と聞いてきた。
「うん」と頷くと、鮮やかな花が咲くようにその顔をほころばせた。そんな顔をされると、俺の心もかき乱されるんだが。
 だからきっと同じなんだ。俺たちはお互い彼らの影響を受けている。ようやく景近が姫のことを意識したのかもしれない。俺は姫に振り返って、よかったな、という思いを込めて微笑んだ。だが姫は不思議そうに俺をただ眺めていた。

7章 手は伸ばせず、ゆえに届かず ― 怜音 ―

 せっかく見に来てくれたんだから、と俺は樹姫を昼飯に誘い、一時間後に駅前で待ち合わせることにした。俺は三キロ先の家まで、ほとんど全力で走って帰った。樹姫を待たせる時間を、少しでも短くしたかった。
「お前……」
 景近はそんな俺を見て眉をひそめ、なぜか言葉を切った。
「忙しい、から、後でも、いい?」
 肩で息をついたまま浴室へ向かい、大急ぎでシャワーを浴びた。頭を洗いながら、河川敷で聞いたアヴェ・マリアを思い出していた。母さんのお気に入りで、たまに家でも流れていたその曲を、樹姫は高く澄んだ声でなぞるように歌っていた。その美しい歌声は、光る川面を渡る風に溶けていった。
 二人で歌っていたはずなのに、どうして彼の声だけを聞き分けられたのだろう。そう思った直後、樹姫と目が合った。夏の陽射しが川に反射して、その光が彼を輝かせた。
 胸の左側に小さな痛みが走り、その直後、心臓が激しく打ち始めた。まるで百メートルをもう一本走っているようだった。
俺は浴室を出て体を拭くと、急いで着替え、二階の自室へ駆け上がった。
「怜音」
 俺を呼び止める景近に足を止める余裕すらないのに、こいつはこういう時に限って俺の急所を突いてくる。
「……お前、まさかあの小僧に惹かれてるのか?」
 その言葉に、鞄を押し入れから引っ張り出していた手がぴたりと止まった。
「それが何か悪い?」
 俺はそのまま鞄に財布やスマホを放り込み、肩に掛けた。景近、お前が気にする必要はないって。俺が一刻も早く樹姫の所に行けば、お前も姫に会えるだろ?
「……怜音、その気持ちは……」
 景近らしくなく、言葉を濁している。
「別に、いとこにも同性の恋人がいるし、お前も知ってるだろ?」
 親戚には、ゲイもトランスジェンダーもいる。俺にとって、男が男を好きになることは、驚くようなことではなかった。
「俺が彼を好きになっても、おかしいことじゃないよ」
 準備ができた俺は玄関まで急ぎ足で向かった。
「……そうではない。俺が言いたいのは……」
「景近、お前の言いたいことは夜に聞くって。今は時間がない。海! 自転車借りていい?!」
 海の部屋から「いいよー!」と声が降ってきた。海の自転車に跨ぎ、まだ暑い九月の日差しの中、十分ほどの道を駅へ急いだ。
 早く、樹姫に会いたい。この気持ちが本物だと、君の笑顔でもう一度確かめたい。
駐輪場に自転車を停めると、待ち合わせ場所をぐるっと見渡して樹姫を探した。そのとき、色に溢れた世界の中で、たった一人、光って見える人がいた。彼は淡い光をまといながら、まっすぐ俺のほうへ歩いてきた。
「腹減り過ぎて先に食べようかと思った」
 樹姫は俺を見ると可憐に笑った。たったそれだけで、心を鷲掴みにされた。周りの音さえ一瞬聞こえなくなるほど、俺は目の前の樹姫に集中してしまった。その笑顔、その声、すべてが――……。
 俺の体はなんて正直なんだろう。
俺は樹姫に恋してる。
「……樹姫は何を食べたい?」
「今日はハンバーガーかな。ポテトがめっちゃ食べたい気分」
「なら、こっちにいい店があるよ」
 危うく、その手を取るところだった。だって、樹姫も「同じ」だと言っていた。でも、まだ互いの気持ちを言葉にしたわけではない。俺はどうにか我慢して、彼と並んで歩いた。
 店へ入る直前、景近を見ると、深刻そうな視線を姫の後ろから送って来ていた。どうして恋をしただけで、そんな顔をするんだよ。
その日の夜、俺は街を望む窓を開け、屋根に向かって小声で景近を呼んだ。
「景近、話があるんだろ?」
 俺は時計を見た。宿題を終わらそうと足掻いていたら、もう十時を過ぎていた。景近の話は十一時までには終わるんだろうか。明日のために早く寝たいんだけど。そう思っていたら、景近が天井から降りてきた。
「今日の昼、何が言いたかったの」
「……お前はおそらく俺の影響を受けている」
「そりゃそうだよ」
十六年も一緒にいて、影響を受けない方がどうかしている。
「そういう意味ではない」
 少し苛立ったように景近は俺の前に座り込んだ。
「お前は樹姫に、何かしらの特別な感情を抱いているだろう」
「何かしらの特別な感情……難しいな。恋してるってことでいいの? それなら当たりだよ。それが何か問題でもあるの?」
「だから、それが俺の影響だと言っている」
「影響……えっ! 景近、樹姫のことが好きなの?! だから反対してるのか!」
「そんなわけあるか!」
 じゃあ……あ、そうか。
「姫か」
 姫が何か一言言うたびに、景近はそれを最大限叶えようとしてきたじゃないか。あまりに二人の距離がありすぎて分からなかったが、気づいてしまえば明白だった。景近は肯定も否定もせずに黙っていた。
「姫はそれを知っているの?」
「知るわけがない。姫様は、知らなくていいことだ。そんなことはどうでもいい。問題はお前に俺の影響が出ているということだ」
 さっぱり分からない。俺が視線で先を促すと、景近は俺の顔を指さした。
「お前の目に浮かぶのと同じ光が、あの小僧の目にもあるだろう」
「あるね。星の王子さまって前に言っただろ。っていうか、俺にもあるの?」
 俺は部屋に置いてある鏡をのぞき込んだが、鏡に映る俺の瞳には、特別なものなど何もなかった。
「鏡には映るまい。あの光には、俺が関与しているのだろう。今まで弊害がなかったから放っておいたが……樹姫の光は姫様を表している。それを見て、俺の影響を受けたお前が反応しているのだろう」
「へえ? つまり『景近の影響で俺が樹姫を好きになった』と思ってるわけ?」
 景近はやはり何も言わなかった。
「別にそんなこと思わないでいいよ。俺は普通に樹姫のことが好きだと思うから」
 話は終わったと思って立ち上がると、景近は「待たんか」と苦々しそうに言った。
「お前はどうしてそんなに物事を軽く済まそうとするんだ」
「景近が重くするから……たとえそれがきっかけだったとしても、今、樹姫を好きなのは俺なんだから。景近がどうこう言うことじゃないだろ?」
 アイロン台を机の上に置き、立ったまま制服のシャツに手際よくアイロンを滑らせた。
「……樹姫も『同じ』と言っていたが、姫様の影響だけだとしたらどうする」
「姫がいなくなったら樹姫の気持ちも消えるってこと? ……それはちょっときついね」
 俺は黙ったままシャツにアイロンをかけ終え、ハンガーに吊るした。
「そこは俺が努力するしかないんじゃないの。俺自身のことを好きになってもらえるように」
「俺が消えるのと同時に、お前のその感情も消えるとしてもか」
「しつこいな。これは俺自身の気持ちなんだってば」
 景近は大きなため息をつくと、天井を抜けて外へ出ていった。どうしようもないよ。お前だって分かるだろ。どうしても、手放せない想いだから、お前もその胸の中に閉じ込めているんだろう?
 俺は窓を開けて屋根の上の景近に声をかけた。
「協力してくれよ。姫は俺に冷たいから、姫に頼ることもできないし」
「断る」
「お前まで俺に冷たくしてどうするんだよっ。せめて応援ぐらいしてよ」
「あの小僧は気に食わん」
「何でそんなこと……あ、もしかして……樹姫が姫と一緒にいるから?」
 上から何も聞こえなくなった。それで樹姫が何を言っても無視するんだ。
「お前、しょうがないくらい姫が好きなんだね。でもさ、俺が走り始めて、今も続けられてるのは、樹姫のおかげなんだよ。それでも気に食わない?」
 もう窓を閉めようかと思ったころ、ようやく景近の言葉が上から降ってきた。
「……もう、寝ろ。明日、遅刻しても知らんぞ」
どれだけ俺が景近のために頑張ってると思ってるんだろう。せめて少しくらい、俺のために力を貸そうとは思わないんだろうか。
「もういいよ。景近には何も頼まないから」
 俺は無性に腹が立ち、屋根の上へ吐き捨てるように言い放つと、窓をぴしゃりと閉めて鍵をかけた。あいつには何の意味もないけど。

8章 自由と不自由に縛られて ― 樹姫 ―

その後も相原君は走り続け、俺は彼を『大地讃頌』ばりに褒め讃えた。たたえよ、あいはら、ああ~~、たたえよ、あいはら、ああ~~~♪ そうしているうちに九月は過ぎ、気づけば十月に入っていた。
相原君曰く、「最近、褒めるの上手になってきたね」。
「今では、教室で樹姫がしゃべったら、どこにいてもすぐ分かるよ」
「セコム並みの人感センサー持ってるね。いつから発動してんだよ」
「随分前から……」
 彼は照れくさそうにしていたが、俺と目が合うと、くすぐったそうに笑った。相原君との距離が、以前よりずっと近くなったような気がする。
いつもの交差点で相原君と別れ、家へ向かっていると、姫が空を指さした。大漁を告げるようなイワシ雲の下を、一羽の鳥が飛んでいる。カラスでも鳩でもない。大きな茶色の翼を広げ、羽ばたくことなく風に乗っていた。
「あれ、なんの鳥か分かる?」
「たぶん、トンビじゃないかな。珍しいな、こんな町中に。食べ物に苦労しそうだ」
「いいんじゃない? 好き好んでここに住んでるんでしょ。不自由でも自由よ。私と違ってね」
「姫は成仏しないって決めてるから自由だろ?」
 すると姫は俺の横をふわりと浮きながら口元を皮肉げに歪めた。
「バカね。成仏するなら、とっくにしてるわよ。でも、死んだとき私はここに残ることを選んだのよ。だから今の私は、自由で不自由なの」
「何が違うんだよ」
 まるで漂う哲学者だ。俺には彼女の言いたいことがちっとも分からない。すると姫は相変わらずつんと顎を上げ、強気に言い放った。
「成仏なんてできないって言ってるの」
 いつでも成仏できると思っていた俺は、少し驚いて透明な姫を見た。独り言が多すぎる俺を、道行く人たちは怪訝そうに見ながら通り過ぎていく。あと数分で家に着くので、それまで我慢したかったが、話の内容があまりに気になった。
「じゃあ、未練が全部なくなったらどうなるんだよ?」
「消えるしかないわね」
「消える?」
「成仏とは違うわよ。ここにとどまる理由がなくなるんだから、魂そのものが消えるの。見たことがあるわ……」
 盆にも戻ってこられないってことだよな。本当にいなくなる。それは、俺が望むことではなかった。消えるぐらいなら、未練なんてもう晴らさなくていいんじゃないか。そう言おうとしたとき、姫の方が先に口を開いた。
「でも未練って、結構、業が深いわ……。やりたいことが、いろいろあるのよ。それなりにね」
 含みがある言い方で、俺は直感的に分かった。あまりにちゃっかりしていて、姫が消えるとは到底思えない。
「俺に頼みたいことがあるんだろ」
 姫は口角を少し上げた。髪の間から覗く瞳にはいたずらっ子のような光が宿っていた。

 翌朝、教室に着いて自分の席へ向かっていると、すれ違うクラスメイトが次々に驚いたような顔で俺を振り返った。
 姫、そこは俺の席じゃない。隣、そうそこ。鞄を置いて、中身を出して、机に入れて。そのあとは鞄を廊下のロッカーに入れるんだ。南京錠の番号は0812。俺の誕生日だよ。
 すべてやり終えた姫は、満足そうに俺の体を席へ座らせた。姫のやりたいこと、その一。
『学校体験』
 でも、俺にはもう、バレる未来しか見えなかった。
「だいちゃん……かっこよ」
 席に座っていると、仲の良い女子が俺の姿を見て、つぶやいた。姫が三十分かけてセットしたからね。
「どうしたの、めっちゃいい感じ!」
 わらわらと女子の方々が姫の周りに集まってくると、姫はすごく満足そうに「でしょ?」と一言言い放った。その声があまりに自然で、しかも俺が言いそうにない台詞だから、みんな一瞬ぽかんとしていた。
「本当にどうしたの、いつもと違うね」
「そう見えるのは当然だね。今日はレベルが違うから。でもみんなはいつもと同じくらい可愛いよ」
 ひ、姫? 何言ってんの? みんなは驚くのをやめて面白がるほうにシフトしたようで、姫の周りで楽しそうにたむろっていると、相原君が教室に入ってきた。
「おはよう」
 気づくかな――。姫がわくわくしながら相原君に声をかけた。俺もちょっとドキドキしていると、鞄を肩に掛けたまま、相原君は目を丸くして俺の顔を見つめ、しばらくしてぼそりとつぶやいた。
「……姫?」
おぉ。すごいな、相原君。「おはよう」の一言でよく分かったな。姫は片方の口角だけを上げた。たぶん、結構意地が悪い顔つきになっているんじゃないかな。
「樹姫って呼んでね、相原クン」
姫は相原君の後ろの景近に目を向けた。姫の記憶の影響を受けたのか、焼けただれた現在の景近に、生前の姿が重なって見えた。目を見開き、口を真一文字に結んだ顔には、驚愕がありありと浮かんでいる。姫は照れくさそうに景近から目を離した。
「だいちゃん、今日一緒にご飯食べようよ」
 女子の一人がそう声をかけると、姫はまだ景近の視線が気になるのか、はにかむような笑顔を彼女たちに向けた。
「いいよ」
 相原君は女子に囲まれて楽しそうにしている姫の姿を呆然と見ていた。

 俺の災難は、朝の会から始まった。川やんが「樹姫、お前今日おかしいな」と言うと「いつものことだから気にしないでいいよ」と女子高校生のノリであっけらかんと返した。俺は今まで先生にため口で話したことがないというのに。姫は誰に対しても、それが校長先生だとしても、公平にため口だった。
そのあとも体育を「休む」と言ってその時間に学校を散歩しようとして相原君に止められ、音楽では先生の代わりに指揮棒まで振った。そのたびに相原君は顔を強張らせて何とか事態を丸く収めようとてんやわんやだ。
 自由だ――……。自由過ぎる――……。
「お昼休みは女の子たちと食べようと思ってたのに」
 姫は文句を言いながら、弁当の中身を端から縦一列にきっちり食べ進めていた。どうも変なところで妙なこだわりがあるようだ。その横で、疲労をにじませている相原君は不機嫌そうに姫を睨みつけた。
「樹姫の体で変なことすんなって。だいたい樹姫がもとに戻ったとき、ハーレム状態だったら樹姫も困るだろ」
「困るのは怜音だけよ。あんただって女子に毎日囲まれているじゃないの。うちの樹姫がモテて何が悪いのよ」
 俺の意志は二人にとってあまり重要ではないようで、俺に聞くことなく二人は睨みあった。相原君はふんと鼻を鳴らし、さらに目を細めた。
「樹姫のイメージダウンが姫の未練ってこと? それだけで成仏できるとは思えないけど。今度は何する気だよ」
「何言ってんのよ。焼かないでちょうだい。それに私と景近は未練を果たしたとしても成仏できないわよ」
 相原君は姫の言葉に引っかかったようで、食べる手を止めて眉をしかめた。
「どういうこと?」
「景近には前に言ったけど、あんたは景近から聞いてないの? 未練を果たしたら、私たちは消滅するわ。実際に消えた幽霊を、前に見たことがあるの」
 相原君と姫は、そろって姫の背後に控える景近を見上げた。景近は無表情で二人の顔を見ると、ふっと目を逸らした。
「なにそれ」
 相原君はさらに不機嫌になって、景近を鋭く睨みつけた。
「そんなこと聞いてもないけど? いつも小言ばっかり言うくせに、大事なことは言わないのかよ」
 景近が無言を貫き通すと、相原君は、らしくもなく舌打ちして、「意味が分かんない」とやけ食いするかのごとく弁当をがつがつ食べ始めた。姫はしばらく相原君の様子を窺っていたが、やがて視線を逸らし、背筋を伸ばしてまた弁当を食べ始めた。
「私たちは成仏せずに残る方を選んだんだから、しかたがないわ。そのときは何もよく分かっていなかった。でも、残るって決めたのは自分だから」
「……よくないよ。消滅されたら、残された方がどう思うか考えたことある?」
 相原君は姫に言っているのか景近に言っているのか、判断がつきかねる調子で続けた。
「ずっと会いたかった人に会えて、もう俺なんかどうでもよくなったのかもしれないけど」
 何か言えばいいのに、景近は無言で相原君を見ているだけだった。けれど今は姫が俺の中にいるせいか、その表情が手に取るように分かる。意外と感情が顔に出る人なんだな。
 景近はとても困っていた。
 困るぐらいなら、ちゃんと説明すればいいのに。そう思ったところで、俺は自分も同じだと気づいた。できないよな。それができるなら、初めからしている。
「……私たちはどうでもいい人間に取り憑かないわ」
 姫は手を合わせ、空になった弁当箱へ「ごちそうさまでした」とおじぎをして片づけると、さっと立ち上がった。
「姫、待って! 俺まだ食べてる!」
「いいのよ、ゆっくり食べてなさいよ。私……用事があるだけだから」
 用事、という言葉を聞いて、相原君は何かぴんと来たのか、焦った声を出した。
「姫、トイレは男子トイレ使ってよ?!」
「なんで私が男子の方を使わなきゃいけないのよ」
 ちょっと待て! 俺が退学になるっ! 相原君は急いで立ち上がって姫のあとを追った。
「樹姫の体で女子トイレに入ったら警察沙汰だよ! そこは樹姫に任せた方がいいんじゃない?!」
 相原君が俺の手をつかむと、姫はむっとした顔で立ち止まり、しばらく考え込んだ。腰から頭へ、何かが内側をずずっと這い上がるような気色悪さが走ったあと、俺は本日一番、気苦労をかけた人に向き直った。
「……なんか迷惑かけてごめん」
 心の底から謝ると、相原君はすぐに姫が出ていったと分かったのか、俺の手をぐっと引いた。まさかと思う間もなく、そのまま力強く抱きしめてきた。
「よかった……本当によかった……」
 確かによかったんだがっ! 俺は両手を上げては下ろし、また上げて下ろして、数秒悩んだ末、相原君を力いっぱい押し返した。
「相原君、気を確かに」
 俺が数歩下がると、彼は目をぱちくりとさせた。
「お、俺はトイレに行ってきます!」
 俺は脱兎のごとく駆け出した。いや、単に漏れそうだっただけで、逃げたわけじゃない。だから全速力でトイレに飛び込んだんだ。
 なんて変なやつなんだ。

9章 踏み込むための一手 ― 怜音 ―

「お前、結構やばいやつじゃねぇか」
 空は英語の参考書から顔を上げて、俺から一歩遠ざかるように座り直した。
「学校で、男を抱きしめるって……しかも片思い?」
 そして最後に、「ドン引きだろ」と締めくくった。
「言い訳かもしれないけど、樹姫も俺のこと好きだって思ってたし、まさか逃げ出されるとは思わなかったし……」
 戻ってきた樹姫は、俺が一歩近づくたび、一歩後ろに下がった。相当、傷つく。何をどう思って、彼は以前「同じ」なんて言ったんだろう。期待させておいて、その態度はない。
「相手が嫌なことしなきゃいいんじゃねぇの? 怜音がその『樹姫君』が好きって分かったらクラスの男子は喜ぶだろ」
「なにそれ」
「怜音が女子の視線を独り占めしなくなるだろ? しかも男が好きって分かったら、女子も諦めるじゃん」
「せこい。あと俺は男が好きなわけじゃない。樹姫だからって言ったよね」
 心の狭い空は「そう言ってたな」と興味なさそうだ。
「好きだって思ったんだったら、ある程度そんな場面があったんだろ? 相手に嫌がられないように距離を詰めたらいいんじゃねぇの? 知らねぇけど」
 あっぱれなほど適当な空の言葉に俺はがっくりとうなだれた。
「そんなことより、ここの単語がなんでこの節にかかるか、教えろって。恋愛のノウハウも教えてやっただろ?」
 断じて教えてもらってないよ。俺は空が持ってきた文法書をのぞき込んで、首を振った。なぜ、英語をこんなに細切れに分解するんだろう。しかも、その用法のすべてに名前を付けている。俺はそんな用語を習ったこともなければ、英語を細かく分解して考えたこともなかった。
「無理、分からない」
 空は口をとがらして「えーっ!」と叫んだ。
「じゃあ、どうやって英語を話しているんだよ」
「そんなの知らなくても話せるよ」
 どうしてこの国は王子さまも英語も難しくなってしまうんだろう。どちらも一周回ってねじれているようだった。
 翌日、樹姫と学校で会うと、いつも通りの笑顔で「おはよう」と俺に声をかけてきた。
「……おはよう」
 俺は一番後ろの自分の席に着くと、樹姫を眺めた。彼は隣の席の女の子に頼まれたのか、一緒に教室を出ていき、何冊ものノートを抱えて戻ってきた。休み時間には、背の届かない女の子に代わって黒板の上の方を消していた。
 今まで気づかなかったけど、樹姫は女の子にすごく優しい。昨日の姫の振る舞いも影響したのか、今日はやたらと女子に囲まれていた。それでも本人は照れる様子もなく、至って普通に彼女たちと話している。もしかしたら男の俺に迫られたのが本当に嫌で押し返してきたのかもしれないぞ。いや、それにしては、この前の河川敷のあの表情は――。
 思考がハムスターの回し車のように同じところを巡っていると、樹姫から話があると声をかけられた。
「放課後、時間ある?」
「……あるよ」
「姫たちに、もう未練探しをやめようって言おうよ」
 その言葉に、俺は深く頷いた。結局景近に聞いてもまともな答えは返ってこず、喧嘩して終わっただけだった。俺一人じゃうまくいかない。樹姫も一緒なら、何とか未練探しを諦めさせられるかもしれない。
「樹姫の家に行く?」
「俺の家、今すごく散らかってるから、放課後に学校で話そう」
「あんなに物がないのに?」
 俺は殺風景な部屋を思い出した。あれ以上綺麗にするなら、ピアノのそばに置いてあった観葉植物を野菜炒めにして食べるぐらいしか思いつかない。すると、樹姫は「結構、物はあるんだよ」と首を振った。
「だから、月に一度、収納の中身を全部出して整理するんだ」
「お母さん、すごい綺麗好きな人だね」
「俺がするんだけど」
そんなアホな。そんなことをする男子高校生っているの?
放課後、俺たちは誰もいない教室で、姫と景近を交えて話し合った。夕日が教室をオレンジ色に染め、椅子に座って向かい合う俺たちの長い影を、床に二つ落としていた。
「未練はもう探さないでいいよな」
 俺が景近と姫にそう言うと、二人はほんの少し困ったように黙った。樹姫も姫に向かって断固とした口調で言い切った。
「俺も未練探しには反対だ。成仏と消滅じゃだいぶ話が違う」
 姫は「選んだって言ったのに」とぼそっとつぶやき、ため息のようなものを大きく吐いた。景近はその様子を見ていたが、やがて静かに俺たちに切り出した。
「俺は消滅しても構わん」
「俺が構うよ!」
俺は景近の言葉にかぶせて怒鳴った。なのに、景近の思いはまったくぶれないようだった。
「四百年、姫様を探すためだけに存在してきた。姫様に伝えるべきことを伝え、その果てに消えるのなら、それが俺の本望だ」
「……俺の気持ちは考えないのかよ」
「怜音、このままいくとお前の方が早く死ぬ。俺はその後もこのままか?」
 その言葉に、俺が返事に詰まると、珍しく姫は、わずかに声を和らげた。
「私も景近も何が未練なのか、まだ分からないの。すぐに消えるわけじゃないのよ」
「じゃあ、俺の中に入って景近の記憶を見せてほしい」
 景近はこれまで、一度も誰かに憑依したことがないらしい。自分にもできると知らなかったというが、試そうともしなかった、という方が正しいはずだ。これまで取り憑いてきた相手に、自分という人間をよほど見せたくなかったんだろう。
「消えるかもしれないなら、なおさら景近のことを知りたい。俺はお前とずっと一緒にいたのに、お前の人生をほとんど知らない。お前が先に消えるなら、俺がお前の記憶を持って生きる。もし俺が先に死んだら、今度は景近が俺のことを覚えててよ。どっちが先でも、残った方が持っていけばいいだろ」
 景近は何も答えなかった。
「危ないなら、すぐ出ればいい。駄目なら、もう二度と頼まない。だから一度だけ、景近が何を抱えてきたのか、俺にも分けてよ」
 景近はしばらく俺の顔を見ていたが、やがてため息をつき、渋々頷いた。
「お前がそこまで言うとはな……わかった。だが――」
 景近が言葉を切ると、音楽室の方から吹奏楽部の演奏が途切れ途切れに聞こえてきた。穏やかな曲が流れるなか、景近は物騒なことを言った。
「後悔するなよ」
「……後悔はしないけど……え、そんなに?」
 後悔? 入ってくるときに痛いのか、それとも、見せる記憶がそれほど凄惨なのか。固めたはずの決心がぐらりと揺れた。動揺する俺に、それまで黙っていた樹姫が声をかけた。
「そんなに怖がることないって。姫、ちょっと入るところ、見せてあげてよ」
 姫は「手がかかるわねぇ……」とぶつくさ言いながら、樹姫の中へすうっと入っていった。手品のように姫の姿が消えると、樹姫は目を閉じたまま、数分たってもぴくりとも動かなかった。
「だ、樹姫……?」
 恐る恐る俺が彼の名前を呼ぶと、樹姫はゆっくりとまぶたを開けて後ろにいる景近を見てから、俺に視線を合わせた。
「こんなもんよ。大した苦労じゃないでしょ」
 樹姫の声はそのままなのに、その顔に昨日さんざん見た姫特有の高飛車な表情が浮かんだ。背筋をぴんと伸ばし、生意気そうに口角を上げている。人を従わせるような圧を放っているのに、なぜか目だけは優しかった。見つめられていると、自分でも許せずにいる何かを、逆に許されているような気分になる。
 昨日、クラスメイトたちが一様に「いつもと違う」と感じたのも当然だ。怖いのか優しいのか、尊大なのか慈悲深いのか、俺にはまるでつかめない。
「怜音、今度の土曜日、ピアノのレッスンが入ってないから、樹姫の家に遊びにいらっしゃいよ。そこで景近に入ってみてもらえばいいじゃない」
「……分かった」
 姫が樹姫の体から抜けたあと、俺たちは学校を出た。帰り道、姫と樹姫が話している隙に、俺は景近へこっそり尋ねた。
「お前、姫のどこが好きなの?」
 景近はかすかに鼻で笑うと、「お前と同じだ」と言った。
「樹姫は姫ほど複雑じゃないけど?」
「だが理解できないだろう」
「……だから好きなの?」
「……どうだろうな。ただ、あの方はなぜだか不思議なことをお考えになる。あれほど目を離せない方を見たことがない」
 なんて苦労しそうな恋愛だ。俺はもっとシンプルに、楽しく恋愛がしたい。だが景近の言葉に樹姫を重ねた途端、自然と眉間に力が入った。変なだけで、中身は単純なやつだと思っていた。だけど、もしかしたら樹姫は、変な上に複雑怪奇なんじゃないか――。まるで姫みたいに……。そんなわけない。頼む。俺の勘違いであれ。

10章 あなたはこの想いを知らない ― 樹姫 ―

「姫、緊張してる?」
 朝っぱらから姫が不安そうに朝食を食べる俺の前をふわふわと飛びまわった。
「血を垂らしながら飛ぶなよ。パンに血が付いたんだけど……」
 気にせずに食べたが、味はただのパンだった。
「誰が不安ですって?」
 今日の午後、景近が相原君に憑依することになっている。鼻息荒い姫の気を逸らすべく、話しかけた。
「今日ぐらい髪を整えたらどうだよ。その髪型は恐怖マシマシだよ」
「できるならやってるわよ。死んだときの姿が強く残りすぎて、生前の自分の顔が思い出せないのよ。あの状況で髪をかき上げながら死ねるわけないでしょ」
「もしかして、見えない方がいいのかもしれないな。絶世の美女だって姫が言っても、誰も真実なんて分からない」
「あんたってホントに失礼ね」
姫は不安よりも苛立ちの方が強くなったようで、俺の横に仁王立ちになった。
「またあんたの中に入って学校に行ってもいいのよ」
「……何すんだよ」
「クラスで全部脱いでやるわ」
「……姫、自分は耐えきれるのか?」
「私の体じゃないわ」
「景近も見てるけど、いいのか」
「……」
 景近だけが姫の暴走を止められるのか。最近よく見る景近の面影は、現代でも通じるなかなかに男前の凛々しい顔つきだった。
「あんなに焦げてるのになぁ」
「景近は景近なのよ」
 身を焦がすような愛の果てに、本当に焼け焦げてしまっても、景近は景近だった。姿が変わり果てても、同じ人として思い続ける。それが姫の愛し方のようだった。

土曜日の午後一時過ぎ、相原君は珍しく、少し緊張した面持ちで俺の家に来た。両親はリビングでくつろいでいたが、俺は出るときにリビングに続く防音扉をしっかりと閉めた。俺の部屋で少しぐらい騒いでも、まず聞こえないはずだ。
景近はお世辞にも機嫌がいいとは言えなかった。むすっとして腕を組み、俺のベッドの横に仁王立ちしたままだ。戦に出る前の武士そのもので、俺たち三人は話しかけることもできなかった。相原君と気まずい沈黙のなかで三十分ほどお茶を飲み、景近の様子を窺っていたが、向こうから言葉を発する気配はない。
「そろそろいいかな……」
俺が恐る恐る聞くと、景近はしばらく動かなかったが、やがて無言でふわりと浮き、そのまま床に座る相原君の体へ吸い込まれていった。
 景近が入った途端、相原君の眉が苦しそうに寄った。
次の瞬間、目が大きく見開かれた。
「っ……!っああああああっっ!!!」
息を呑んだかと思うと、突然頭を抱え、悲鳴を上げて床へ倒れ込んだ。
「大丈夫か?!」
 俺は弾かれたように相原君に駆け寄り背中へ手を置いた。手のひらから彼の激しい震えが伝わった。
「相原君っ! 怜音!」
呼びかけても、反応がない。親を呼んだ方がいいのだろうか。でもどうやって説明をすればいいんだ!
姫が俺のそばに来たかと思うと、何も言わず勢いよく俺の中に入っていった。姫の記憶が蘇ると思った瞬間、無理やり視界を剥ぎ取られたような感覚に眩暈と吐き気がして、俺は床に手をついた。次の瞬間、俺の口から姫の切羽詰まった声が部屋に響いた。
「景近! 景近っ!!」
姫の声に反応し、相原君が顔を上げた。俺を見た瞬間、その体がぴたりと止まった。だが次の瞬間、獲物に飛びかかる獣のように起き上がり、俺の肩をつかんで押し倒した。
俺は、真上から俺を見下ろす相原君を見つめた。そこにあるのは相原君の顔のはずなのに、姫の記憶で見た生前の景近の面差しが重なって見えた。相原君でも景近でもない。けれど、どちらでもある顔だった。
姫の愛しさと切なさが、俺の胸へ一気に溢れた。
相原君、いや、景近は、何も言わなかった。ただ、肩で荒い息をついて、ひどく苦しそうな表情を浮かべ唇を噛んでいた。そのうち、ぽつり、と雨みたいな涙が真上から降ってきた。一粒、二粒と続き、やがて幾粒もの涙が零れ落ちて俺の頬を濡らしていった。景近は瞬きすらしていない。ただ、無言で涙が落ちてくるだけだ。
景近は震える手を持ち上げ、俺の頬へ触れて、手のひらでかすかに輪郭をなぞった。
「……景近」
姫が名前を呼ぶと、景近の手が痙攣するように震えた。彼は、姫の背中にゆっくりと手を回し、覆うように抱きしめた。
「……っ」
声にならない息が漏れたかと思うと、胸の奥から絞り出すような嗚咽が部屋に響いた。俺を抱きしめる指先が、触れた肌から分かるほど震えていた。
相原君は今、姫を失ったあの日を見ている――そんな気がした。
俺の目から姫の涙がいくつもあふれ、目尻からこめかみへ流れていった。俺の腕は姫の意志に引かれるように景近の背中へ回り、その体を強く抱きしめた。
どれほどそうしていたのか分からない。やがて俺の内側から姫の気配が薄れ、指先から冷気が抜けていった。姫が俺の体を離れるのとほぼ同時に、相原君の背中からも景近が現れた。
 支えを失ったように相原君の体が俺の体の上へ崩れ落ちてきた。俺は肩を支えながら、相原君を床へ横たえた。景近は床に倒れた相原君を一度だけ見下ろすと、耐えかねたように顔を背け、壁を抜けて部屋を出ていった。そんな彼のあとを追うように姫も同じように姿を消した。
「相原君、大丈夫か?」
相原君は荒い息をつき、床に横たわったまま呆然と宙を見ているので、俺はキッチンで温かい緑茶を二人分淹れ、急いで戻った。ローテーブルにお茶を置き、まだ床に横たわっている相原君の隣に座った。彼が正気になるのを待っていたが、姫が初めて俺に入ったとき、俺もそういえばこんな状態だったということを思い出した。
俺はお茶をすすりつつ、本を片手に取ると、読みながら彼が自分で起きるのを待った。十ページほど読み進めたころ、相原君がゆっくりと起き上がった。
「……相原君、お茶、飲まない?」
 まだ焦点が定まらないような視線を俺に向けてきたが、かろうじて「うん」という言葉が聞こえてきた。とりあえず、声が出たのはよかった。俺が湯呑みを差し出すと、彼は両手で受け取り、ゆっくり時間をかけて飲み、ようやく長い息を一つ吐いた。
「姫の最後を見たんだろ?」
 俺の言葉に相原君は頷くと「あと、俺の最後も見た」と付け加えた。まだ意識が混沌としているのかもしれない。空になった彼の湯呑みをもらうと、俺のものと一緒に机に置いた。
「景近だよ。相原君は生きているから」
 相原君は俺を見て、「あ、そうだった」と自分が『相原怜音』だったことを思い出したように頷いた。
「だいぶ、ひどい記憶だったみたいだな」
「……まぁね。戦だからね」
 俺は彼の隣に座りながら、景近がいつも腰に差している大小二本の鞘を思い浮かべた。焼け焦げた黒漆の鞘には、長い刀の柄がなかった。相原君はきっと、景近がその刀を振るう最後を見てきたんだろう。
「ひどい戦いだったんだな。もし話せそうなら聞くよ。言いたくないなら、言わないでいいから」
「……言えないかもしれない」
 顔色が青白く、唇の色さえ薄かった。俺はだいぶ迷ったが、相原君の手を握った。生気を感じさせないぐらい、氷のように冷えていた。
「相原君が生きてくれていてよかった。それだけ」
 彼の胸元だけが、呼吸に合わせてかすかに上下していて、上に着ている服が胸の動きに合わせるように揺れた。しばらくして、彼は目を伏せ、言いにくそうに尋ねた。
「……俺、今日、ここに泊まっていくの、ダメかな」
「……もちろん、いいよ」
普段だったらいろいろ考えるけど、考える前に口が勝手に開いて、今一番言わなきゃいけない言葉を彼に送っていた。大人に事情を話すのは、この後でもできる。少しだけ温かくなってきた彼の手を放そうとしたとき、相原君は何も言わず俺の腕を引き、そのまま強く抱き寄せた。
 彼の腕の中で動けずにいると、「樹姫」と彼がかすれた声で俺を呼んだ。顔を上げると、相原君と目が合った。
「嫌じゃない?」
「……嫌じゃないよ」
嫌じゃない。ちっとも。
相原君は泣きそうな顔になると、俺を固く抱きしめた。
「俺は、樹姫をあんなふうに失いたくないよ……」
バカだなあ、相原君は。この現代において、あんなことはまずありえない。でも、君を失うのは俺の方なんだ。君は来年にはもう自分の国に帰っている。
失いたくないのは同じなのに。
俺も相原君を失いたくないよ――……。
俺は迷った末に相原君の背中へ腕を回して、彼と同じくらい強く抱きしめた。

11章 月のもとではひときわあなたが ― 怜音 ―

 まさか、景近の記憶を見たことで、こんなことになるとは……。
 いつもなら真っ先に箸を伸ばす唐揚げを前に、俺は吐き気をこらえていた。血の生臭さと、人を斬った手応えがまだ体にこびりついていて、肉を口にできる状態ではなかった。
 景近が命を落とした戦はひどいものだった。何人斬ったのかも分からない。刀身には血と脂がまとわりつき、骨や武具にぶつかるたびに刃が欠けた。刀は三人切ると限界なのだ、と初めて知った。倒した相手の腰から新しい刀を奪い、それをふるう。だがすべてが無駄だったわけだが。
 俺は左右の親指と人差し指の間を、交互に揉んだ。刀の柄を握って何度も振るううちに、景近の皮膚が擦れて裂けた場所だった。肉を裂き、骨を断ったとき、柄を通して伝わった鈍い衝撃が、まだ両手に残っている。
 俺は中央の唐揚げには手をつけず、樹姫のお母さんが用意してくれた副菜だけをなんとか食べきった。
「ごちそうさまでした」
 俺が箸を置いて手を合わせると、樹姫のお父さんは優しく目を細めた。
「相原君は野菜が好きなんだね」
いえ、全然……。俺の野菜嫌いを知る樹姫は、隣で目を丸くしていた。まさか、人を殺したせいで肉を食べられないとも言えない。
「今日は野菜を食べたい気分だった」
 樹姫はますます訳が分からない顔をして俺を眺めた。無理なんだ。本当に。
お父さんは、俺たちのやり取りを微笑ましそうに眺めると、樹姫にピアノを弾かないのかと尋ねた。樹姫がピアノの前に座ると、部屋に流れていたクラシックの曲がぴたりとやんだ。
 彼は少し考えたあと、ゆるやかに弾き始めた。その音は、以前聴いた激しい曲とはまるで違っていた。
 艶やかな音がゆったりと重なり、まるで夜の窓辺で、恋人への思いを募らせているように聞こえた。俺を見てと、君が好きだと、伝えたくなってしかたがない。それは弾いている人が樹姫だからなのか――。
 いつの間にか体に力が入っていたらしく、俺は肩の力を抜いて椅子の背もたれに寄りかかった。彼の音が俺の痛みすら和らげてくれるようだった。
 この曲は、誰に向けて弾いているんだろう。たぶん俺に向けた曲じゃないはずだ。でも願わずにはいられない。俺に向けて弾いてくれていたらいいのにって……。

 俺がお風呂から上がると、樹姫はまだリビングでピアノを練習していた。邪魔をするわけにもいかず、俺は一足先に樹姫の部屋へ向かった。
 部屋には俺の布団も用意されていて、敷かれた布団を俺はしばらく眺めた。
 景近の記憶を見る前なら、こんな状況に動揺と期待で何も考えられなくなっていただろう。だが、人の生き死にをあまりにまざまざと追体験した今は、樹姫と同じ部屋で眠ることさえ、不思議なほど平静に受け入れられた。
 俺は窓を開けてベランダへ出ると、背後の窓を閉めた。ひときわ大きな満月が、穏やかな光で地上を照らし、その下には幾万もの街明かりが瞬いていた。
 手すりに両腕を乗せて街を眺めていると、後ろで窓の開く音がした。振り向くと、樹姫が素足でベランダへ出てくるところだった。彼は月光を浴びながら俺の横に立った。淡い光が肌を透き通るように輝かせ、黒い髪の一部を白銀に変えていた。
「綺麗だね」
 彼を見ながら、それだけしか言えなかった。樹姫は軽く微笑んで俺と同じように手すりに身を寄せた。
「樹姫、本当にピアノ上手だな」
「……ありがとう。姫込みの腕前だけどね」
 照れくさそうに笑うと、樹姫は景色に目を向けて黙った。俺もつられて、眼下に広がる街明かりの洪水へ目を向けた。視線を感じて隣を向くと、樹姫の黒く静かな瞳と目が合った。
「樹姫がさっき弾いた曲って何」
「……リストの《愛の夢》」
 俺の受け取った印象はあながち間違いではなかったらしい。
「あの曲って、意味があるの?」
「まあ……ある」
 樹姫は言いにくそうに口ごもった。
「なに?」
「『愛せるときに愛しなさい』……っていう曲」
 愛せるときに――……。鼻の奥がツンと痛くなり、俺は慌てて樹姫から目を逸らした。その人が目の前からいなくなれば、もう何も伝えられない。愛せるときに愛さなければ、意味がない。俺が黙っていたので、樹姫は居心地悪そうに聞いてきた。
「キャラに合わないって言いたい?」
「まさか。樹姫らしいよ。……景近に向けて弾いたってことだよね?」
「そう。もう四百年も耐えてるから。いい加減、自分の好きにしてもいいんじゃないかと思って。……よく分かったね」
 分かったというより、俺に向けて弾いたはずがないと思っただけだ。あの場にいた樹姫の両親と姫には、わざわざピアノで伝える必要もない。なら、残るのは景近だ。
 それでも意外なことに、別段落胆はしなかった。最初から俺ではないと分かっていたからかもしれない。
「すごくいい曲だったよ。……俺にも今度弾いてよ」
「いいよ」
俺の言葉に隠した本当の意味を知っても、樹姫は頷いてくれるんだろうか。まだそれを口にする自信はなくて、俺は今日の演奏から感じたことだけを伝えた。
「ピアノを弾く意味って分かった? 今日の演奏を聴いてたら、樹姫はもう分かってるような気がした」
 俺はあの曲を聴いて、君を抱きしめたくなった。すると樹姫はゆったりと微笑んで俺を見た。
「最近思ったんだ。俺が言葉で言えないことを音に乗せて伝えられないかなってさ」
「……弾く理由が分かったから、もう弾くのはやめるの?」
「どうかな……これを使って周りの人に気持ちを伝えるかも」
 言葉で話せるのに、どうして気持ちを音に乗せようとするんだろう。音で伝えるにしても限界があると分かるだろうに。樹姫の内面は、思っていたよりずっと複雑だ。
 もっと君を知りたい。何を考え、何を感じているのか。その瞳に俺だけを映して、君自身の言葉を聞かせてほしい。そして、できたら……その言葉を紡ぐ唇に、そっと指先で触れてみたい……。
 俺に、その権利が欲しい。
「……樹姫、大事な話があるんだ」
「何?」
「俺が前に樹姫に走れなくなったことを相談したことがあったよね。あのとき、俺が努力しているって言ってくれたから、走れるようになったんだ」
 彼は記憶を探るように、わずかに眉を寄せた。たぶん、この感じだと彼はすっかり忘れているんだろう。樹姫にとってこの世のほとんどのことは、大したことではなく、どうでもいいみたいだから。それが俺にとってとても重要だとしても。
「樹姫は褒めるとき、俺のタイムも、どんな大会に出たとかも聞いてこない。いつも俺がしていることだけを見ててくれる」
 樹姫にとっては、これもどうでもいいことの一つなのかもしれない。そう考えた瞬間、こんなに世界は光っているのに、ふっと周りが暗くなったように思えた。
 頼むから、どうでもいいなんて思わないでほしい。
「だから、もうみんなから褒められる必要がないんだ。たった一人でよかったんだ。……樹姫だけでよかったんだよ」
 俺はシャツに皺が寄るほど自分の腕を強くつかんだあと、手すりから身を起こして樹姫へ向き直った。
「俺は、できたら……」
 樹姫も俺が何を言おうとしているのか察したのか、緊張した顔で見返していた。二人の間の空気が、むせ返りそうなほど濃く感じられる。お願いだから届いてほしいと願いながら、俺は震える息とともに言葉を押し出した。
「愛せるのなら、樹姫を愛したい」
 月の光を一身に浴びる君を。
君を愛したい。
だが樹姫は、泣きそうな顔で俺を見つめ返しているだけだった。

12章 その心に巣くう恋心 ― 樹姫 ―

相原君は分かっているのだろうか。今日、この部屋で俺たちが一緒に寝るということを。それなのに、さっきの告白が嘘のように思えてくるほど、彼は淡泊にも、さっさと床の布団へ横になった。
「おやすみ」
「……おやすみ」
 俺が返事をすると、彼は布団の中から俺を見上げた。
「今度、返事もらえる?」
「……うん、近いうちに」
俺の返答に、相原君はかすかに口角を上げ、そのまま目を閉じた。俺は電気を消し、自分のベッドへ潜り込んだ。
今日は何も考えずに休みたかったのに、頭の芯が冴えて眠れなかった。右へ左へ体の向きを変えながら悩み続け、ずいぶん経ったと思って時計を見る。ベッドに入ってから、まだ一時間しか経っていなかった。俺はやるせない気持ちで、こっそり相原君をうかがった。
泣きすぎたからか、景近に初めて入られたからか、疲労困憊していた彼はすでに寝息を立てていた。
 俺は足音を忍ばせて窓へ近づき、そっとベランダへ出ると、背後の窓を閉めた。時間が過ぎたと分かるのは、月がさっきよりわずかに右へ移っていること、それだけだ。夜空よりもまばゆい光を放つ地上をぼんやり眺めていると、横から声がした。
「眠れないの?」
「……眠れるわけがない。俺たちの話、聞いてた?」
「聞かないわよ。プライバシーって大事よね」
 その通り。姫は気高くあれ。
「相原君から『愛したい』って言われた」
 姫は意外そうに、わずかに眉を上げて、「子どものくせに」と自分を軽々と棚に上げた。
「だいぶカッコつけた言い方ね。でもリストだからしょうがないわ」
 そして憂鬱なため息を一つついた。
「怜音くらい景近も口が動けばいいのに……」
「……何も言わないの?」
 姫は首を振って「景近だから」と諦めたように答えた。
 俺はリストの《愛の夢》の旋律を思い返した。最初の一小節奏でるだけでも部屋が色づくほど艶やかだ。弾きながら、景近を思った。
 四百年近く、耐えてきたんだろ。だったら、今想いを伝えないでどうするんだよ、と。
 俺はふさわしい言葉を選ぶのが得意ではない。言えないことや言いたくないことも、音に乗せて大事な人たちに届けばいい。
だが、俺が弾いた曲は、景近の口を閉ざし、その一方で、相原君の背中を押したようだった。受け取った側がどう思うか、悲しいかな、それは相手の自由だった。
「どうするの? あんたは何を言うの?」
「うまく説明できない。相原君が好きなのが俺なのか、俺の中にいる姫なのか、分からないんだ。俺の気持ちだって、どこまでが俺なのか分からない」
 相原君の瞳にある光は、俺の中にもある。俺が教室であの光にやられたように、彼にも同じことが起きているのかもしれない。
「だから……『デトックスするしかない』って言うつもり」
 男同士かどうかを考える余地もないほど、俺はすでに彼に惹かれていた。それが俺自身の気持ちなのか、姫の感情に押されているのか、分からないまま。それなのに今さら俺はデトックスをしても間に合いそうもない。相原君はどうなんだろう。間に合えばいいんだけど
「樹姫、それ……本気で怜音に言うの? あんたが毒素って言いたいわけ?」
「そうじゃないけど……」
『毒素は俺じゃなくて姫たちだ』とも言えず俺が口を閉じると、姫は理解できない、と言わんばかりに首を振った。
「ただ単に、怜音があんたを、樹姫自身を好きになったって思わないの?」
「これがどうしても気になって、相原君が俺を好きだって思えない」
 俺が自分の目を指さすと、彼女には見えているのか、しばらく黙っていたが静かに俺に尋ねた。
「なんでそんなに自分に自信がないのよ」
「週に三回も人から笑われてきた人生で『自分に自信あります』って自信満々に言えると思うか?」
体育は地獄だ。特に小学校時代がひどかった。できなくても笑われ、できても『動きが変だ』と笑われた。
「俺とずっと一緒だったっていうなら姫も知ってるだろ」
小学校のころは、体育の前の日になるとなかなか眠れなかった。運動会、スポーツテスト、持久走、水泳。至る所に俺の自尊心を奪うイベントが散りばめられていて、俺は笑われても何も感じていないふりだけが上手くなっていった。
「しょうがないんだ。無理なものは無理だからさ。誰かが俺を恋人として好きになる姿も、誰かと付き合う自分も、うまく想像できないだけ」
幼いころに言われた残酷で無慈悲な言葉の数々は、まだ俺の奥深いところに突き刺さったままだ。だが言った相手も幼かったし、俺があまりにもできなかったのも事実だ。もう昔のことなのだから、仕方ない。
何もかも知っている姫は黙った。
「……でもあんたは努力家よ」
「知ってるよ」
それしかないんだ、俺は。
「……明日、怜音に本当に『勘違いしてるよ』って言うつもり?」
 俺は黙って頷くと、姫に言葉を掛けずに部屋に戻った。窓を閉めて、部屋を見回すと、布団にくるまって眠る相原君が目に入った。きっと明日には、嫌われる。そうなれば、四人でこうして会うことも難しくなるかもしれない。その前に、景近と姫を俺たちの中に入れて、生きている体で何か一つでもやりたいことをさせてやらなければ。
俺は膝を折ると、彼の寝顔を眺めた。月明かりが窓から入り込み、電気をつけなくても彼の顔はよく見えた。まつ毛も眉毛も、髪と同じ栗色だ。鼻の形がとてもいい。唇は少し薄い。色も健康的なピンク色だ。肌の色は外を走っているから褐色に焼けていた。元の色は何色なんだろう。
彼の美しい髪を触った。柔らかくて、俺の手先からすぐにするっと流れるように落ちていく。そうやって手に残らないのが何よりも相応しいような気がした。
「俺って変態だな……」
 俺は彼から目を離してリビングへと向かった。ピアノでも弾いて時間をつぶそう。弾き始めてしまえば何も考えず朝になることは分かっていた。
 指を鍵盤に置いて、俺は目を閉じた。
 次に目を開けると、心地よい風が吹く青空の下に俺は立っていた。
目の前には菜の花が一面に咲き乱れ、侍女たちは少し離れた場所で花を摘んでいた。私の五歩後ろには景近が控えている。私たちの間には、今だけ誰もいなかった。
私は嬉しさを隠しきれず、景近を振り返った。
『綺麗ね』
春風が遠くの山から吹き、菜の花が一斉に右へなびいた。けれど景近は、花なんか見ていなかった。彼はただ私を見て、真剣にゆっくりと頷いた。私も何も言えずに、ただ彼を見つめ返していた。
――ねぇ、その瞳で一体私に何を言いたいの……。
 俺は目を開けた。昼間、流れ込まずに残っていた姫の記憶が、今になって現れたらしい。
『綺麗ね』か。
 その言葉は否応なしに、相原君の言った言葉を思い出させた。
『綺麗だね』
 何を言っているんだ、と俺はあのとき思っていた。
相原君の茶色い髪は満月に照らされて、輪郭が金色に光っていた。白い月明かりに浮かぶ彼の横顔が俺の方を向いたとき、その光もふわりと揺れた。
君が、綺麗なんだ。
俺の目の前に佇む君が。
それなのに、彼の瞳には今日の夜空に浮かぶ星が一つ、相変わらず閉じ込められていた。景近が入ってから、その星の光は明らかに強くなっていた。
俺は指を鍵盤に置いて、弾き始めた。
『愛せるのなら、樹姫を愛したい』
その言葉を口にしているのは、本当に君なのか。景近の記憶を引きずっている君なのか。俺じゃなくて姫に向けて言っているのか。それとも――。
俺には、分からない。あまりに分からなすぎて……泣けてくる。

13章 なりふり構わず動くのならば ― 怜音 ―

 樹姫は近いうちに返事をくれる、と約束してくれた。だが、彼は何て返してくるんだろう。この前は体を押し返され、今日は抱きしめ返してきた。俺と付き合ってくれる可能性は半々くらいだろうか。
 眠れるか疑わしかったが、目を閉じるとすぐに意識を失い、次に目を覚ましたのは普段の起床時間だった。ベッドを見ると、樹姫の姿がない。トイレから戻る途中、リビングの扉を何気なく開けると、ピアノの音が溢れ出てきて、俺は驚いて中に入り扉を閉めた。
 何という曲かは分からないが、相変わらず美しい旋律が彼の指先から流れ出ていた。だけど一体何時から弾いているんだろう。
「おはよう」
 俺が声をかけると、樹姫は勢いよく顔を上げて時計を見た。
「おはよう。何か飲む?」
「うん……いつから弾いてるの?」
「つい、さっきから。日本茶と紅茶、どっちがいい?」
 時計の針は早朝の五時を指していた。なるほど、こんな時間でもピアノを弾けるように、この部屋は防音になっているのか。俺は樹姫の家らしいと納得してダイニングの席に着いた。
「紅茶がいいな」
樹姫は手際よく紅茶を淹れ、自分の分も持って俺の向かいに座った。
「おいしい」
 俺がそう言うと、彼は嬉しそうにカップを両手で包み、ゆっくりと飲んだ。
「今日は姫と景近に体を貸してやろうと思うんだけど、相原君はそれでもいい?」
 よくはない。次の記憶で、さらにトラウマが増えたらどうしよう。だけど引き返すための道ももはや残されていなかった。
「ここまで来たら、頑張るしかないね」
「無理させてたらごめん」
「何で樹姫が謝るの。無理は……してるけど、景近のためでもあるからね。しょうがない」
 朝食後、俺は海と空に連絡し、午後三時に家で落ち合う約束をした。それまで景近と姫に体を貸してみよう、という話に落ち着いた。
 樹姫の部屋に座ると、姫はもう慣れたもので、さっさと樹姫の中へ入っていった。目を閉じた樹姫を横目に、俺はやるせない気持ちで景近に話しかけた。
「景近……。次見せる映像って何? ある程度覚悟してないと俺の精神が持たない。かる~いやつがいいんだけど」
「知るか。俺が見せたくて見せてると思うか?」
「はあ~~……分かったよ。もう、なんでもいいよ。とりあえず入ってよ」
 景近もため息をつきながら、俺の中へ入ってきた。その瞬間、全身を貫く寒気に凍え、息を詰まらせていると、ふっと景色が波のように押し寄せてきた。
御殿から庭へ続く渡り廊下に、青葉を揺らした湿った風が吹き込んできた。前を歩く姫はまだ幼く、小学校高学年ぐらいに見えた。
姫様が振り向いた――。気高く、つんと澄ましているようなお顔をしていた。
「景近、そなたが私のもとへ来て、もう一年ね。私の護衛など、ずっと嫌だったのでしょう」
 図星を突かれたが、俺はさも心外だという顔を作った。
「そのようなことはございませぬ」
「嘘ね。そなたは戦場で武勲を立てたいでしょう。私が父上に頼んで、お役目から外してあげてもいいわよ」
 よく回る口をお持ちだ。幼い女子に何が分かる。すると、姫様が俺を手招きなさった。
「ちょっと頭を下げなさい」
 わけも分からず頭を下げると、姫様はいきなり俺の額へ頭突きをした。ゴッ、と鈍い音と共に目の前に火花が散った。思わず額を押さえると、姫様は赤くなったご自身の額に手を当てながら、俺を睨みつけた。
「顔を見れば、何を考えているかくらい分かるわ。この痴れ者が」
 目を開けると、誰かの視線を感じて横を向いた。樹姫の顔に、記憶の中よりも成長した姫の面影が重なって見えた。途端に、胸の内側を叩くように心臓が激しく鳴り始めた。
 姫を見ると、景近はこんなふうになるのか。俺まで景近の緊張にあてられ、声が出ない。
 それにしても、予想通り姫は樹姫の原型みたいな人だった。あの幼さで護衛に頭突きを食らわせる姫君なんて、あの時代でも相当な変人だったんじゃないだろうか。
 そんなことを考えている間に、景近は俺の体を動かし、姫の方を向いて正座すると、深くお辞儀をした。すると姫も正座をして頭を下げ、そのまま二人は黙って視線を下げた。
 景近……、あと三分もしたら俺の足はしびれるんだけど……。
「さ、さ、さん、ぽ、し、ない?」
 緊張した姫の言葉に、景近はしばらくたってから一言返した。
「……はい」
二人はどちらからともなく立ち上がると、マンションの外に出た。後ろを歩こうとする景近に姫は声をかけた。
「か、景近……、……私の、横に」
 会話はゼロという壊滅的な短い散歩だったが、横に並んで歩けただけでも大きな前進だ。マンションの入り口に立って姫を先に入らせたあと、景近は俺の体から離れた。
「景近、家に帰ったら、作戦立てようよ。姫が頑張りっぱなしじゃ、お前の面目が立たないよ……」
「……」
 しかし景近は何も答えず、天井を抜けて姿を消した。
「はあ~……」
 景近、少しは自分で考えろよ。俺は俺で忙しいんだ。玄関のドアを開けると、まだ樹姫は廊下に佇んでいた。見回すと姫もいない。
 いいチャンスだ、と思った。今、この瞬間は俺が勇気を出さなければ。
「樹姫、俺も昨日のこと、聞いていい?」
「……いいよ」
 だが、これまでにない暗い影を宿した瞳を見て、俺は聞く前から答えが分かってしまい、身をすくめると同時に胸が耐えがたいほど痛んだ。

「相原君……デトックス、必要だと思う」
「……ん? なんの?」
どうやら告白の返事とは違う話が始まっているようだった。樹姫は少し考えてから、もう一度口を開いた。
「勘違いなんだよ。相原君の、その……気持ちが」
「……うん?? 今、俺の告白の返事を言ってるんだよね?」
 王子さまは大真面目な顔で頷いた。俺はこういう質問に関してはYESかNOが理想だと思っているけど、彼の返答は『友だちでいよう』といったような中間地点にすら到達していなかった。
「だからさ。その……俺の瞳に光があるだろ? それのせいで相原君がそう思ってる。見ると、『ときめき』状態になるんだ」
「……はあ」
「だから、デトックスがいる。俺から離れていれば、元に戻ると思う」
「……」
「最初は中毒みたいなもんだろうから、きついかもしれないけど、抜けてきたら大丈夫なんじゃないかと思う」
 何を言ってるんだ、こいつは。
「俺が好きなのはその目の中の光が原因って言いたいわけ?」
「まあ、そう思った」
 んなわけないだろ! どうして、そんな結論になったんだよ。
「目がきっかけだったのは確かだよ。そんなものを持っている人なんて、他にいないから。でも光を見て、樹姫が言うような『ときめき』状態になったこともない。俺は樹姫のそのわけ分かんない性格が好きなんだ」
「……わけ分かんない性格ってどんな性格なんだよ?」
「その『デトックス』って言っちゃう性格だよ。俺が悩まないと思った? 男とか女とか超えて樹姫は変だよ」
「……変だから好きになったのか?」
「それが長所でもあるからしょうがない。少なくとも俺には。今、俺が知りたいのは、樹姫が俺をどう思っているかなんだ」
 樹姫は腕を組み、顎に手を当てて考え込んだ。今になってその顔をする彼に、俺はがっくりと肩を落とした。
「俺は今すぐに答えがほしいとも思ってなかったけど、何も考えてないってひどいな」
「答えって何だよ」
「そこから?!」
 こんなに手取り足取り、告白の意味から何もかも説明しなければならないのは初めてだ。俺は彼の手を握ると、樹姫はびくっと体を揺らした。
「俺は樹姫と付き合いたいんだ」
 ぐっと手に力を込めると、樹姫の頬が少しだけ赤くなった。どうしてそういう反応を見せるのに、口は変なことばっかり言うんだよ!
「相原君ってゲイなのか?」
「今さらそれ聞く……?」
俺は頭痛がしてきて、大きなため息をついた。性別が問題なら、最初に聞くだろ。それなのに、どうしてデトックスが先なんだよ。
「前に彼女いたって噂だったし……」
「いたけど日本に来る前にもう別れてる。今は誰とも付き合ってない。樹姫が男だから無理って言うなら、それは理解できるよ。でも、そうじゃないなら、俺のどこを見て付き合えないって決めたんだよ」
 樹姫は俺の質問に答えず、困ったように口を引き結んでいた。
 言えないんだったら、その光はただの言い訳にしか聞こえない。
「樹姫って、俺のこと全然見てくれないんだね」
 二人とも黙り込むと、クーラーの低い音と、時計の秒針が時を刻む音だけがやたらと大きく聞こえた。それなのに、樹姫は口を結んだままだ。
「帰る」
 俺は立ち上がると、自分のものを鞄へ適当に投げ入れた。樹姫なりに真剣に考えた末の結論なのだろう。だが、何を言っても許されるというものではない。
 いっそ、『男だから無理』と言ってもらった方がよほど納得できるのに。
「お邪魔しました」
 平静を装いながら、リビングでくつろぐ彼の両親に挨拶をし家を出ると、大股に歩き続けた。ようやく誰もいない小さな公園を見つけ、ベンチまでたどり着くと泣きそうになりながら景近を呼んだ。
「景近っ」
「……なんだ」
「俺、走って帰る」
「何を言っているんだ、お前は……」
 俺は景近の言葉を聞かず、スマホで距離を調べた。約三十キロ。画面を見ていた俺の目から涙が流れ始めた。
「気持ちは分かるがやめておけ。明日は月曜日だ」
「……すごく、悔しい」
 理由は自分でも分からない。だがこんなに惨めに思ったことなど今までの人生になかった。景近はそんな俺の様子を黙って見ていたが、公園の時計を確認し、しばらく考えてから俺を見た。
「走れるところまでだ。約束できるか?」
「……できる」
「お前、その荷物持って走るのか」
「駅前でコインロッカーに入れる」
「海と空に連絡をしろ。あいつらと落ち合う時間はいつだ」
 俺は手の甲で、涙と鼻水をまとめて拭った。ちくしょう、俺、すごくかっこ悪い。
「三時」
「……間に合うか分からん。間に合わんとなったら早めに電車に乗るぞ」
「分かってるよ!」
 俺は公園の水道で顔と手を洗いながら叫んだ。
「財布とスマホは持っとけ。水がいる」
 俺はもう返答できなかった。駅前まで走り、荷物をコインロッカーへ叩きつけるように入れると、財布とスマホだけをポケットに突っ込んだ。
「言っても無駄だろうが……無茶は――」
「うるせぇ!」
 駅にいた人たちは、一人で叫ぶ俺を危ない人間だと思ったらしい。怪訝そうな顔で、俺から距離を取っていった。ありがたいよ。誰一人俺のそばにいてほしくない。俺はランニング用イヤホンを着けて走り出した。
何も考えたくなかった。目に映る景色をすべて後ろへ流して、走れるところまで走っていきたかった。

14章 秘密をともに ― 怜音 ―

「おー、おかえり」
 俺が玄関を開けると、ちょうど空が二階の自室へ戻るところだった。俺は玄関に座り込み、肩で荒い息をついた。空は俺の異変に気づくと、そばにしゃがみ込んだ。
「大丈夫か?」
 俺が息切れしながら頷くと、空は台所から水を持ってきてくれた。
「だいぶ走ったんだな。何キロ走ってきたんだよ」
 俺は何度かに分けて水を口に含み、ようやく呼吸を整えると、両手で三と○を作った。空は俺のジェスチャーを見ていたが、「三キロなわけねぇな。まさか……」と言葉を切った。
「三十キロ?」
 俺が無言で頷くと、「化け物かよ」と目を見開いた。玄関に置いてある小さな時計を見ると時刻は一時半だった。
「何時から走ったんだよ」
 俺がまた両手で一と○を作ると、空は感心しきった声を出した。
「マジか。三時間半かよ。やるなぁ、お前。ところで歩けるか?」
 立とうとしてみたが、脚に力が入らない。俺が首を振ると、空は少し悩んでから海に声をかけて、二人は俺の両脇から体を支え、台所まで運んで椅子に座らせてくれた。廊下で海と空が話している声が聞こえて、しばらくすると、海が「落ち着いたらシャワーを浴びたら?」と声をかけた。
「ごめん……」
 ようやく声が出た俺が謝ると、海は優しく笑った。
「いいよ。でもあとでちゃんと昨日の事情、話してよ。三時ごろまた来るから」
「……信じて、もらえない、かも」
「とりあえず話してみてよ。信じる信じないは置いといて」
 頷くと、海は手を振って自分の部屋へ戻った。一人になると、俺はテーブルへ突っ伏した。三十キロを走りきれたのは、景近がそばにいたからだろう。だが景近のことも姫のことも、彼のことも、何もかも考えたくなかった。
 三十分ほど休んでシャワーを浴び、重い体を引きずるように自室へ戻った。昨夜のことを景近抜きで海と空に話すにはどうすればいいだろう。だが景近の存在を伏せるとどうしてもうまく説明できそうにない。俺はやけくそ気味に全て彼らに話した。
「お前、何、言ってんの……」
空は猜疑心丸出しでそう一言呟くのみだったが、海は「幽霊のことはよく分からないけど、怜音が嘘をついてないのは信じる」と言った。
すると舌打ちしそうな勢いで空は海を軽く睨んだ。
「兄貴はそういうところ善人ぶってて気持ちわりぃ。信じないなら信じないではっきり言えよ。俺が悪者みたいになるじゃねぇか」
「お前が悪く見えるのは、お前が言いたいこと言ってるからだよ。相手の気持ち考えてないだろ」
言い争いの末、空は俺ではなく海を睨みながら、景近が俺に入るところを見せてくれたら信じると言い出した。
「実際見ないと何とも言えねぇ」
「……たぶん、頼めば入ってくれると思う」
 絶対的な自信があるわけではなかった。景近は必要以上に俺の中に入りたがらないはずだから。俺は窓を開けると、屋根の上の景近を呼んだ。
「景近、頼みがある」
 天井から降りてきた景近に入ってくれと頼むと、景近はじっと俺を見ていたが、大きくため息をつき、何も言わず俺の中に入ってきた。おぞましい寒気と吐き気のあと、陽を受けてきらめく池の水面を眺めている姫の後ろ姿が目に飛び込んできた。
 穏やかな風が吹くと、姫の背中まで伸びた髪もふわりと舞った。
 俺はどうしても気になっていたことを姫様にお聞きした。
「なぜ、あのとき頭突きなどなさったのです。俺を罰するのであれば、ほかにも方法があったでしょう。あれでは姫様まで痛い思いをなさいます」
 姫様は一瞬きょとんとしたあと、姫君らしく袖で口元を隠すこともなく、楽しそうにけらけらと笑った。
「上に立つ者は、同じ痛みを感じるべきなのよ。そうでなければ、下の者に何をしてもよいことになってしまうでしょう」
なんと変わった姫様だ。だが俺は姫様の言葉を考えていた。頭突きの痛みなど、とうに消えていたというのに――。
俺が目を開けると、片方の目から涙がひと筋こぼれた。これは景近の涙じゃない。俺の涙だ。しかも失恋の。俺の恋のきっかけになったのは景近だ。その景近の恋が始まるところを、俺は今見ている。
俺の恋は、たった今終わったというのに――こんなのあんまりだ……。
 海が心配そうに俺に声をかけてきた。
「怜音? なんかいろいろ大丈夫?」
「……こいつは大丈夫だ」
 俺の声なのに、声の質が違う。どこか俺よりも低く響き、ぶっきらぼうで、言葉のひとつひとつが重い。信じない、と言った空の方が野生の勘は海より強いのだろう。景近の声を聞くと、空の眉が一瞬、ぴくりと動いた。
「……演技?」
「そう思うなら、そう思えばいい。それとも」
 体はとうに限界のはずなのに、景近はそんなことなど知らないように踏み込んだ。脚に残っていた力を一瞬で絞り出し、空の腕を取る。力を掛けずに空の重心を崩し、流れるような動きで床へ組み敷いた。
「このような証拠がいるのか?」
「ちょっ……! 怜音、やめろって!」
 空が下から抗議の声を上げると、景近は鼻でふっと笑って手を放した。
「坊主。次からは、誰に口を利いているのか考えろ」
 俺からそんなドスの利いた声が出せるなんて知らなかった。空は床から起き上がると、急いで景近から距離を取った。その一連の流れを見ていた海が恐る恐る景近に話しかけた。
「あの……あなたが景近さん?」
「そうだが」
 景近は片膝を立ててその上に腕を預けると「それになにか問題でもあるのか」とこれまたひどく低い声を出した。証拠代わりに憑依しなきゃいけないのがたいそう不服なんだろう。なのに、なぜ何も言わないで入ってくれたんだろう。
「なんなら、二人まとめてかかってくるか? それがお前らのしたいことならな。手加減はせんぞ」
 横柄にも見える景近の態度に、海と空は顔を見合わせたが、どうしても納得できないのか空は疑わしそうに景近に尋ねた。
「……二重人格?」
「疑うことは悪くない。騙されるよりよほどいいからな」
 景近は鷹揚に答えたものの、その声には若干の面倒くささがにじんでいた。
「だが、もう一度同じことを言うならば、その喉元に手をかけてやろう」
物騒な物言いに、空がもう一歩後ろに下がるのを見たあと、景近は俺に話しかけた。
「怜音、もうよかろう。この体を休めろ。俺は出るぞ」
 腰から頭にかけて、何かが内側を這い上がるような気持ち悪さが走った。直後、体から力が抜け、俺は思わず床に手をついた。
 一息ついてから、景近がいるはずの屋根を指さした。
「暴れてごめん。あれが景近だよ。もう屋根の上に行っちゃったから、これ以上、二人に証拠として見せられるものはない。でも信じられないのも分かるよ。今まで誰も信じてくれなかったから」
 空と海は、しばらく何も言わなかったが、海は眼鏡を外すと、眉間を指でぐっと押さえた。
「誰も信じてくれないって言ってたけど……」
「樹姫に会うまではね」
「樹姫君に会う前は……誰かに話したの?」
 俺は肩をすくめた。あまり言いたくはなかった。景近が見えない以上、信じられなかったのも仕方がない。それでも、肉親にすら信じてもらえなかったことは、今もつらい記憶として残っていた。それを察したのかは分からないが、海はそれ以上聞いてこなかった。
やがて空が、ぽつりとつぶやいた。
「今までお前の独り言、すげぇデカいなって思ってたけどさ」
 空は俺の目を見た。
「……俺はお前が言ったこと、信じる。『信じない』って言って……悪かったな」

15章 知らないあなたの知らない顔 ― 樹姫 ―

次の日学校に行くと、相原君は明らかに俺を避けて、周りのみんなが「喧嘩したの?」と聞いてきた。俺は周囲に適当な返事をしながら、「全身筋肉痛」と言って歩くのもつらそうな相原君をひそかに案じていた。何があったんだろう。でも目が合うと相原君は俺を睨み、目を逸らすので、とてもじゃないけど声を掛けられる雰囲気じゃなかった。
「どうしよう……」
 既読にはなるものの、返信が一切ないスマホを見ながら自室でへたり込んだ。今回ばかりはピアノを弾いてやり過ごしても何も解決しそうにない。姫は思いあぐねている様子だったが、俺にノートとペンを持ってくるように言った。
「これでなにすんだよ」
「怜音の性格とか特徴、とりあえず書いてみたら? 『見ない』って言われたんだから、見たらいいじゃないの」
「どれくらい書くんだよ?」
「あんたが決めなさいよ」
 俺は顎に手を当てて、「五十?」とつぶやいた。
「五十?! どんだけ書き連ねたいのよっ」
「いや、やるんだったらそれぐらいいるかな、って……」
俺はノートに『相原君について分かったこと』と題をつけ、一行目に『1.優しい、かも』と書き入れた。そして2でもう詰まった。
「なあ、見た目も書いていい?」
「……あんた、1で終わったの?」
俺は『2.イケメン』と書き入れた。そして再びペンが止まった。
「これ、結構かかるかもしれない」
「……十個にしたら?」
「目標は高く」

 水曜日になったら項目は三十個になっていた。
『13.あまり近づきたくない人には、見えない一線を引く』
『24.いつも人に囲まれているのに、たまに一人で黄昏れている』
書き出してみると、明るくて分かりやすいと思っていた相原君にも、俺の知らない部分がいくつもあった。
「俺、ストーカーじゃないよな?」
姫は「だいぶ近いところにいるわよ」と俺のノートをのぞき込んだ。
「よくこんなに書けたわね」
「よく見たから」
「小学生のときした昆虫観察日記と、やってることが同じね。まぁ、いいわ。樹姫はいつも人のことばっかり考えてるから。ちゃんと自分の問題と向き合う時間が必要でしょ」
そんなに自分の問題を放置していたかと悩んでいると、姫はノートの一項目を指さした。
「これ、いいわね」
『29.声が聴きたい』
 いつの間にか俺の願いが入っていた。急いで消そうとすると、姫の透明な手がその文字の上に乗った。
「取っておいて。あんたの気持ちがよく分かるから」
許されるんだろうか。
俺の願いは声が聴きたい、という一つだけじゃなかった。
 
木曜日、俺が一人で踊り場に座り、相原君についての項目を、とうとう五十個すべて埋めると、姫が声を落として俺に知らせた。
「怜音が来るわ」
 大急ぎでノートを閉じてペンをポケットに入れると同時に、怒った表情の相原君が階段を上り切り、俺の前で胡坐をかいて腕を組んだ。まるで景近のような振る舞いだったが、景近は姫と一緒に屋上に続く壁をすっと通り過ぎていく。どうやら目の前に座る人は相原君本人のようだった。
「なんで毎日、俺をじっと見るんだよ」
 まさか相原君のことを分析していたとも言えずに俺が黙ると、相原君は限界とでも言いたそうに鋭い声を上げた。
「樹姫は史上最悪の言葉で俺をふったの自覚してる?」
 俺は首を振った。俺は、相原君が本来の自分に戻る方法を伝えただけだ。
「『デトックスしろ』ってあり得ないふり方だよ。俺の気持ち、完全に無視だからね。なのに毎日見てくるってどんな神経してるんだよ。景近と姫のことが気になっているんだったら、嫌だけどあいつらのために協力する。でもそれ以外は俺に関わるなっ!」
 反論する余地もなかったし、そもそも俺は動揺しすぎて、考えることさえままならなかった。彼を傷つけたという事実が言葉の端々から伝わってくるのに、謝罪の言葉さえ喉元に上がってこない。怒っている人を目の前にすると、どうしても頭が真っ白になってしまう。何か言わなきゃと思うほど、言葉が出てこない。
俺は『怒り』という感情がとても苦手だった。
「分かった?」
 吐き捨てるように言う彼の言葉に、俺は頷きかけた。けれど、ここで頷けば、もう二度と話しかけられなくなる。それは――。
『声が聴きたい』
 それでも自分の声は喉元に張り付いて出てこない。俺はノートを手に取り、彼の前へ差し出した。せめて見ていた理由だけでも分かってほしかった。彼は盛大に眉をひそめたが、俺の手がかなり震えてノートまで振動しているのを見ると、仕方なさそうに手に取って開いた。
 それと同時にこれまた相当腹立たしそうな声を上げた。
「はぁ? なに、これ。俺の悪口リスト作ってるわけ?」
 俺は急いで首を横に振った。断じて悪口ではない。分析した結果を書いているだけだ。相原君はまたノートに視線を落とした。
「『自己中心的』『我がまま』『景近に甘えすぎ』。どう考えても俺に喧嘩売ってるとしか――……」
 彼の声が途中で途切れた。俺は手をぐっと握りしめた。
「……俺のこと『努力できる』、『走ってるところが格好いい』……あと『笑顔が可愛い』って思ってるってこと?」
 まだ不機嫌そうではあったが、先ほどまで声の端々で爆ぜていた怒りは、急に鳴りを潜めた。代わりに、その瞳にはひどく疑わしげな色が滲んだ。だが俺はどの項目も本気で書いていたので、迷うことなく、無言で頷いた。
 笑顔が可愛い、と思う。その笑顔が俺を幸せにする、とも思う。確か、35番に書いてあったはず。
「あとさ、『声が聴きたい』ってこれはあんたがしたいこと?」
 『あんた』という言葉に俺はぐっと唇をかみしめた。俺は気づかないうちに、彼をふっていたらしい。下を向きながら、俺が頷くと、彼は嫌そうな声を出した。
「このノート、ちょっと怖いんだけど……」
相原君は心底呆れたようにノートを眺めたあと、俺を見た。
「……これだけ書いたくせに、ちっとも話さないね。『うん』とかでもいいから、何か話したら?」
 唾を飲み込む音が、喉の奥でいやに大きく響いた。ここは誠意を見せないといけない。俺はますます拳を握りしめて何とか声を出した。
「う、ん」
 ひどく声がひっくり返って、恥ずかしさのあまり頬が一気に燃えるように熱くなった。相原君は呆れているのか、それとも待っているのか、それ以上言葉を継ぐ様子がない。
「……ご、めん」
「何が『ごめん』なの。俺をふったこと? このノートを見せたこと?」
「……ちゃんと……相原君を、見なかっ、たこと」
 緊張のあまり息を変なところで吸って吐いたせいで、俺の言葉はぼろぼろになってしまった。
「これ、自分で書こうって思いついたの?」
 俺が首を振ると、彼は躊躇うように「姫?」と聞くので、俺は頷いた。彼はため息をついてしばらく床を見ていたが、そのうちノートを返してきた。
「……書いてみて、分かったんじゃない? 姫から言われて書いたんでしょ。でもここに書かれてあるのは姫の気持ちじゃないよね? ……俺だって同じだよ。景近やあの光がきっかけだったとしても、樹姫を好きになったのは俺なんだ」
自分が経験してきたことを考えると、その言葉をそのまま受け入れて納得することはできなかった。だけど彼の言おうとしていることも確かにその通りだな、と思えた。
「……わかった」
ひどくぎこちない沈黙が落ちて俺がいたたまれなくなったとき、相原君が膝を進め、俺との距離を縮めたのが目の端に映った。
「したいことって『声が聴きたい』だけ?」
 叶うのならば、一緒にいたいとも思う。下を向きながら首を横に振ると、俺の顔をのぞき込む相原君と目が合った。目が合うと、目がぐっと熱くなって涙が出そうになった。だが、俺はとにかく、目の奥に力を入れて涙を止めた。
「……さっきはちょっと言い過ぎた。……ごめん」
「……ん」
「でも、俺もすごく傷ついたんだよ……そこ分かってる?」
「……うん。……ご、めん」
「樹姫。じゃあ、抱きしめるけど……いいよね?」
『樹姫』
 ここ最近、俺は相原君と話していなかった。身勝手にも俺は胸が痛くなるほど、その声が呼ぶ俺の名前を待っていた。俺は彼と話さないともう日常生活すら不便だった。
無言で頷くと、彼は距離を詰めて俺の腕を引き、強引とも思える力で抱きしめた。
「……くそっ」
 相原君は耐えきれないように小さな悪態をついた。

16章 愛のある指導と愛のない演奏 ― 樹姫 ―

 相原君と仲直りした日から、姫のピアノの指導が厳しい。
「さっき、言ったじゃない……!」
 手があったら俺の首を締め上げそうな目つきだ。俺は姫が俺に取り憑いたころ、弾いていたショパンの《革命》をまた弾かされていた。
「音を制御するのと、感情を殺すのは違うわ。もっと叩きつけていいのよ」
「……俺、こういう曲は苦手だって知ってるだろ」
見上げると、姫は「だからよ」と言う。
「だから弾けるようになって」
 俺はため息をついた。俺にとって、この曲の中心にあるのは怒りだった。弾くためには、俺自身の怒りを音にしなければならない。だが怒ることを忘れてしまった俺はこの曲を弾くことができなかった。
「この曲じゃなくてもいいだろ? 発表会で弾くわけでもあるまいし、なんでこんなに……」
 怒ると、何かを思い出しそうだった。過去の思い出したくもない何か。俺は身震いをした。冗談じゃない。弾いてたまるか。そう思っているのに、姫は言葉を重ねていった。
「私と怜音のために弾いて」
「……はあ? なにそれ」
 俺が何を恐れているのか、俺にもいまいちよく分からない。でもこれだけは分かる。
「弾けないよ。たぶん俺、弾いたら死ぬと思う」
「そうよ」
 姫は静かに俺を見下ろした。
「一回死んでほしいの」
 俺は絶句してしまった。姫は無表情に俺を眺めて、「嫌いになってもいいわよ」とさらに無情なことを言い放つと、俺の部屋に引っ込んでいってしまった。
 なんてひどい姫様だ。嫌いになれないのも、死にたくないのも、すべて知っているくせに。俺はやるせない気持ちで鍵盤カバーをかけるとピアノの蓋を閉じた。もう今日は弾ける気がまったくしなかった。
 俺が悪いのだろうか。今度は姫に避けられ、もう三日ほど彼女と話していない。それが気になるのか、もうすでに楽譜を暗譜済みのショパンの《革命》がずっと頭の中をリピート再生していた。
左手の轟音に埋もれず、右手で曲の意志を示さなければならない。なのに、肝心の音に何も乗らない。それは当たり前で、俺はそんな情熱を持ち合わせていなかった。
「樹姫、まだ姫と喧嘩してるの」
「……見ての通りだよ」
 俺が真剣に探さないと見つからない場所にいつも彼女は隠れていた。俺と彼女の物理的な距離が心の距離を何十倍にも広げているようだった。
「そこまで喧嘩する原因ってなに? 本当に言い寄ったとかはないよね?」
 姫が『俺を殺す曲』を彼女と相原君のために弾け、と言ってくるのが原因なんだが、うまく説明できそうになくて俺は何も言えなかった。
「俺は幽霊を口説く趣味はないよ。俺、今日は一人で食うから」
 相原君の返事を待たず、俺は弁当箱を持って職員室に向かった。音楽の先生に「今度授業で使う曲の練習がしたい」と声をかけて音楽準備室の鍵を貸してもらった。
 俺は鍵盤蓋を開けて椅子に座ると、頭の中で鳴り続ける音と共鳴するように、弾き始めた。だがどの音にも怒りはなかった。ただ苛立ちだけが浮き彫りになる。
当たり前だ。俺は今怒っているわけではない――。
俺は目を閉じ、拳を握りしめると、左手で思い切り鍵盤を叩いた。悲鳴みたいな醜い不協和音が狭い部屋に反響し、やがて棚や壁に吸い込まれるように消えていく。
 俺は何もいらないのに。
 どうして、平穏な日々は続いてくれないんだ。
その日の夜、ベッドに入って目を閉じると、思い出したくないものを思い出した。
『お前、こんなだったぞ』
 小学二年生の頃だ。大学を出たばかりの若い先生が担任になった。
俺の真似をして笑い合う男子たちに先生が言った。
『樹姫君が可哀そうでしょう、やめなさい』
先生の言葉はドライアイスの煙みたいにあっという間に空気に溶け込んで、誰の耳にも届かず立ち消えた。俺が何をしても笑われて、彼らの言動は次第にエスカレートしていき、そこに存在するだけで俺は笑われるようになっていった。
 女子は男子と一線を引いていて、俺を可哀そうな人だと思っていた。徐々に男子が俺を無視して遊ぶようになると、彼女たちは『一緒に遊ぼう』と誘ってくれるようになった。
 ある日、昼休みに教室に置かれていた電子ピアノで音を出して遊んでいたときだ。
『樹姫君、ピアノ、弾ける?』
 俺がブルグミュラーの《バラード》を弾くと彼女たちは顔をぱっと明るくさせて『もっと!』と騒いだ。
『すごく上手だね!』
 俺は嬉しくなって、続けざまに二曲ほど弾いていると、ドッジボールから戻ってきた男子が女子に囲まれている俺を笑って指さした。
『とうとうこいつ男やめてる!』
 俺が小さくなって俯いていると、周りの女子が声を上げた。
『そんな言い方やめなよ!』
『なに、お前、こいつ好きなの?!』
 大笑いする男子を女子は冷めた目つきで見て、こっそりと『あいつらバカだから、気にしないでいいよ』と小声でささやいた。だがそのささやきは男子の一人の耳に届き、そいつは持っていたボールを力いっぱい俺に投げつけた。
 俺の頭にボールがあたると、俺は椅子から落ちてそのまま後ろに倒れた。軽く眩暈がして起き上がれずにいると、女子の一人が『先生!!』と泣きそうな声を上げて職員室に走っていくのが見えた。両親が介入してから、だんだんそういったことは少なくなっていったが、小学校時代は、体育の時間だけは俺への嫌がらせが続いていた。
硬く目を閉じると、俺は体を丸めて気持ち悪いこの感情が俺の心の底に深く沈んでいくのを待った。だが、それはいつまでも胸の奥でぐるぐると渦を巻き、ちっとも落ちていかない。俺は無力で、恥ずかしい存在で、その場にいることすら耐えられない小さな子どもだった。

 次の日の体育は今月の種目であるソフトボールだった。俺は守備で、なるべく打球の飛んでこない場所に立たせてもらっていた。だが、そういうときに限って、空へと打ち上げられたボールはまっすぐ俺の方に飛んできた。
 落下地点が分からず、ボールを見上げたままおろおろと後ずさった瞬間、両足がもつれ、そのまま後ろへ倒れた。直後、落ちてきたボールが俺の頭の上でぽこんと跳ねた。
 次の試合を待っていたチームの一人が、俺のところへ駆け寄ってきた。
「樹姫、今回の転び方は新しいな。起きられるか?」
 明るい声が上から聞こえる。嫌味でも何でもない。分かっている。分かっているのに、彼の苦笑交じりの笑顔が失笑しているように見えた。
「大丈夫。ごめん、顔洗ってくる」
 校舎裏の手洗い場で蛇口を最後までひねると、勢いよく水が出ている下に頭を突っ込んだ。こんなことで落ち込んだりしたら、本当に生きていけない。これは学生である限りまだ続くんだから。
 なのに、俺は今、心底消えてしまいたいと思った。誰にも見つからずひっそりといなくなりたい。惨めな気持ちになるのはもううんざりだ。
 生ぬるい水が頭全体から顔に流れ鼻先や顎から下に落ちていく。
しばらくしてから、俺は蛇口の下から頭を抜き、水を止めた。こんな感情は一時的なもので、いつもよりも時間がかかるかもしれないが、また折りたたんで沈めていけば穏やかになるはずだ――。
グラウンドに戻ろうとして体の向きを変えたとき、手洗い場に腰を下ろして俺を見ている相原君に気づいた。
「……なにしてるんだよ」
 相原君は何も言わず、自分の体操着を脱ぐと、タオルのように俺の頭を拭き始めた。
「汗臭かったらごめん」
 そう言って体操着を広げて一番綺麗そうなところを探すと、相原君は俺の顔を軽く拭いた。
 何事もなかったかのように濡れた体操着を着ると、相原君は「行こうか」と言って俺に背中を向けた。そのまま後に続こうとしたのに、俺の手は勝手に伸びて、彼の体操着の裾をぐっとつかんだ。どうしたのかと振り返った彼の顔がゆっくりと真顔に変わっていく。彼は一歩俺に詰め寄ると俺の頭を自分の肩に押しつけた。
 俺は下唇を噛んだ。体が痙攣しているのかと思うほど震えた。涙が止まらない。我慢しようとしているのにそれは次々と溢れてきて俺の頬を濡らしていく。
 ひきつるような声が喉の奥から出てきて惨めさに拍車をかけた。
 相原君は何も言わず、俺の頭を腕で抱え込むようにして、ただ自分の体へ引き寄せていた。

 土曜日にあった習い事もすべてキャンセルして、俺は取り憑かれたように土日の間ずっとピアノを練習した。地面から湧き上がるような低音が部屋を震わせるたび、苛立ちなのか、怒りなのか、判然としない得体の知れない感情が俺の中で暴れた。どす黒く、ひどく粘着質で、まとわりつかれること自体、おぞましい何か。
 吐き出してしまいたい。だが吐き出せない。
 そいつは俺の中に居座り続け、俺はそれに向かって鍵盤を叩きつけていた。
 傍から見ると狂っているとしか思えないのだろう。父さんは心配そうに、ときどき俺に声をかけたが、俺がまともに返答をしないので、諦めてリビングで俺の様子を見ていた。
「だいちゃん」
 俺はびくりと肩を震わせ、弾く手を止めた。
「晩御飯にしない?」
 外を見ると暗くなっていた。朝日が昇っていたはずなのに、いつの間に沈んだんだろう。腹が減った気がまったくしなかったが、母さんは俺を立たせると手を取って席に座らせた。
「食べたらまた弾いていいから」
 俺の好物ばかりが乗っている。俺は無理やり何口か食べると、「ごちそうさま」と席を立ってピアノを弾き始めた。飯はいらなかった。この感情ごと、俺は消えてしまいたかった。

 月曜日、俺は昼休みになるとすぐ、相原君に「聴く?」と声をかけた。
「何を?」
 不思議そうな相原君に、俺は顎でついてくるように示すと、相原君は怪訝そうに眉を寄せながら、後についてきた。相変わらず整理されていない音楽準備室のピアノの椅子に腰かけると、俺は素早く準備をして相原君の方に目を向けた。相原君は近くにあった椅子に座って、眉間に軽く皺を寄せて俺を見ていた。
 弾き始めると、音は低く唸るように床を這い始め、俺は苛立ちながら胸の奥で渦巻く何かを無理やり引きずり出そうとしていた。左手の音の一粒一粒がライフル銃で撃ちまくる弾丸のように飛んでくる。
 これで殺してしまいたい。誰を、俺を? いや――……、あいつらを。
 右手のオクターブを叩きつけると、誰かの叫びのようにつんざいて痛々しく響いた。
 あいつらが、憎い。
死にたいほど俺自身を憎むのと同じぐらい、憎くてたまらない。
怒らずにいるための理由なら、いくらでもあった。
幼かったから。
もうずっと前のことだから。
俺自身、できなさすぎたから。
だけど、俺は――。
 やつらに――俺の心を殺したあいつらに死んでほしい。今すぐに。
 全身の重みを鍵盤へ叩きつけると、断末魔のような音は次々と深い闇をえぐり出し、俺の感情をむき出しにさせていった。殺しているのか、殺されているのか。それは分からない。左手が奏でる一音一音は次第に膨れ上がり、主旋律を脅かしていく。それでも、押さえようとは思わなかった。
最後には、肩、背中、腰――体中の重みが一つになって鍵盤へ落ちた。
 最後の音の余韻が消えたとき、俺の荒い息遣いだけが音の消えた部屋に残っていた。肩で息をしながら宙を見ていた俺は、そこでようやく、相原君がいたことを思い出した。
相原君は相変わらず考え込むような顔をして、ただ俺を見ていた。その目を見てたら、俺は息を整えることもせずに、いつの間にか彼の前に立っていた。彼にかけるべき言葉など何一つない。ネクタイをつかんで、自分の方へ引き寄せた。
そしてそのまま彼にキスをした。

17章 声もまた音のひとつ ― 樹姫 ―

朝、目を開けると、天井の白いクロスが目に入った。カーテンの隙間から光が差し込み、ちらちらと天井に夜の名残を残した薄青い波を作っていた。瞬きをして起き上がり、背を伸ばして深呼吸すると、息が体の隅々までいきわたった。
 まだ早朝五時で、俺は顔を洗ってからリビングに行くと、弁当を作っている母さんと目が合った。
「……だいちゃん、おはよう」
 母さんは俺に微笑みながら目を細めると、ダイニングテーブルにお茶を置いてくれた。
「最近、大丈夫かな?」
 俺はお茶を飲みながら「うん」と頷いた。なんだか心がやたらと静かだった。
「なんかようやく吐き出せた感じがする」
「……そう、よかった。でも本当に大事なことだったら、ちゃんと話してね。私たちもどんなことしてもだいちゃんを助けるからね」
「……うん、ありがと」
 心は静かなのに、頭にはまだ薄く靄がかかっていた。ぼうっとしながら、俺は温かい湯呑みを握った。ずいぶんと怒ったような気がする。なんであれほどの怒りを学校で爆発させたんだ。学校で何があったっけ……?
母さんの入れてくれたお茶をすすった瞬間、昨日、最後に俺が相原君へしたことが頭に蘇った。その途端、俺は盛大にむせ返った。
俺……! 青ざめた俺はせき込みながら湯呑みをテーブルに戻した。
やばいって。相原君に謝らないと……!

「どうしよう……」
 チャリを自転車置き場に置いてロックをかけたあと、顎に手を当て、考え込みながら教室へ向かった。姫は俺の横で「話しなさいよ」とにっこり笑う。そうだろうか。俺はあのあと何の説明もせず、準備室を出る前に相原君へただ一言投げかけた。
『鍵かけるから出て』
 そして鍵を返しに職員室に行ってそのあと一人で教室に戻った。何も考えることができずに泥のように重い体で家に帰ると、着替えもせずにそのままベッドへ入り、起きたら早朝の五時だった。
『昨日は本当にごめん、嫌じゃなかったら話できる?』
朝一に送ったメッセージには既読だけがついて、返信はまだなかった。また俺は彼に怒られるのか……。自業自得なのは百も承知だが、本気で泣けてきた。
「樹姫の心にいっぱい溜まっているから……必要だったことよ。吐き出せてよかったわ」
 吐き出す必要があったのか、と俺が聞くと、姫は頷いた。
「怜音と一緒にいたいならね」
 俺にはまだ姫の言葉が分からない。姫は俺よりずっと年上の同級生だった。
「怜音には適当に言いなさいよ」
 景近もそうだが、どうも彼らは子孫にあたる宿主を何より優先するらしく、姫にとって、景近を除けば俺以外の人はすべて『その他の者』のようだった。
「いや、ちゃんと謝るよ」
 急にキスしてごめんなさい。
 やばっ。俺、やばいやつだよ。
 そしてそれを許してくれるかは分からない。許してもらえなかったら、俺はその場で膝をついて号泣してしまいそうだ。まだ登校していないのか、相原君は教室にいない。代わりに川やんが珍しく来ていた。俺を見ると、疲れたような顔に幸薄そうな笑顔を浮かべた。
「樹姫、お前、すごいピアノ上手かったんだな」
 俺は固まった。
「生徒会室まで聞こえたからな。ちょっと見に行ったんだよ。凄まじい迫力だったから誰かと思って見に行ったら、樹姫が弾いててさ。いやぁ、びっくりした」
 何か言うべきなのに、声が出てこない。そんな様子の俺を見て、先生は安心させるように笑った。
「上手だって言いたかっただけだ」
 そうなのか? それならいいんだけど……。
「あとな、演奏するなら扉ぐらい閉めろよ」
 やばい。消えたい。
「まぁ、あの鬼気迫るピアノの演奏料として今回は特別に見逃してやろう。あと、何かあるなら先生たちにも相談しろ。何かかなり悩んでるんじゃないのか。そんな音だったけどな」
 川やんは手に持っていた出席簿で、ポンポンと自分の肩を叩いた。俺の音はちゃんといろいろな人に届いているようだった。
「言いたくなったら言えばいい。傷つき悩むのが青い春の連中の仕事だからな。だがな、次同じことがあったらお前らは生徒指導と保護者呼び出しだ。ついでに学年主任の後藤先生も呼ぶぞ」
 先生は背筋が凍るようなことを宣告した。恐ろしくて俺が何度も頷くと、川やんは『分かればいい』みたいな顔で頷いたあと、やる気なさそうな声で「あ~、お前らに付き合ってたら気が狂うって……」と腕を天井に伸ばした。
 マジで気を付けないと。川やんは俺と目が合うと、ニヤッと笑った。俺は今年、本当に担任運がいい。

 相原君は遅刻寸前で走って教室に飛び込んでくると、川やんは「青いなぁ……」と俺にしか分からないコメントを疲れたようにつぶやいた。相原君は俺と目が合ったが、すぐに視線を外して自分の席に急いだ。
 昼休みに謝り倒すのが決定した瞬間だった。
それから昼休みまでの時間は、嫌がらせのように長かった。ようやく予鈴が鳴ると、俺は彼といつもの踊り場へ向かった。弁当を食べる前に俺は正座をして相原君の前に座った。
「ごめんなさい」
「……何が?」
「えっと。だから……」
 俺は顔が赤くなるのが分かった。
「~~……だから、キスしてごめん」
 相原君は俺をじっと見ていたが、「……何があったのか、教えてくれたら許すよ」と言ってきた。俺は散らばる言葉を頭の中でかき集め、何とか口にした。
「あのさ、俺、小学校の頃から、運動で……からかわれ続けてて……それが爆発した」
『昔のことを何言ってるんだ』とか『あの動きじゃ仕方ないよね』とか、そんな言葉を掛けられるのではないかと不安が体中を巡っていると、彼は「それはきつかったね」と言ってくれた。安堵のあまり、知らずに強張っていた肩の力が抜けていく。
「どれくらい言われてたの?」
「……小学校から中学一年ぐらいまで、かな」
「誰も助けてくれなかったの?」
「そんなこと、ない……。だけど……。みんな子どもだから、仕方ないのかもしれないけど」
「子どもだったからって、仕方ないことにはならないよ」
 叩きつけるような相原君の声に俺はびくっと体を強張らした。
「……納得しちゃうのは違うから。できる人もできない人もいるわけだろ? そこをどうこう言うって変だよ」
 まったくもってその通りなんだ。そして正論が、常にまかり通るわけでもないのも確かでさ。きっと相原君みたいな人には分からないんだろうな。
「俺には分からないって顔してるね」
 びっくりして顔を上げると、彼は居心地悪そうに座りなおした。
「ごめん。詳しい事情を聞く前に分かったようなこと言って」
「……どうして……?」
「俺が景近のことを説明するたび、みんな分からないって顔するんだよね。そういうのを繰り返していると、だんだんと『仕方ない』って思うようになっていって。今の樹姫がそのときの俺に似てた」
 幼い相原君が一生懸命、景近のことを説明している姿が浮かんだ。困惑する周りの大人たちは、きっと眉をひそめて、見えないものを語る幼い彼を心配したに違いない。
「いくつも病院に連れていかれたからね。誰に言っても信じてくれないし、親は泣くし、あのときはきつかった」
当時を思い出しているのか、眉間に険しい皺が寄ったが、俺と目が合うとその顔がゆっくりといつもの彼の表情へと変わっていった。
「樹姫は俺と逆? 誰にも言えなかった人?」
「……うん」
「誰にも言えなかったら、溜まる一方だよね」
 俺が何か言おうとしたとき、突然目から涙が零れてきた。
「……ごめん、泣くつもりじゃなかった」
 悲しいわけでもないのに、涙だけが次々と流れた。泣きたい感情なしに涙が流れることってあるんだな。その様子を見て、相原君は「だいぶ疲れてるんじゃない?」と言って俺を引き寄せた。
「最近、心がギブアップしてるように見えるよ」
 抱きしめられたその温かさに、俺は次々と涙をこぼしながら目を閉じた。背中に優しく添えてくれている手が温かくて気持ちがいい。
「疲れた……。笑われるのにも、取り繕うのも」
相原君は俺の髪を撫でて、額にそっとキスをした。いろいろとあったというのに、相原君はまだ俺のことを好きでいてくれているみたいだった。
「何か俺にできることないかな」
「……ありがとう。でも、特に今は困ってないんだ。いいやつらが多いから。ただ、前の記憶が抜けないだけ……」
「俺に話すと楽になる?」
「……なる……かも」
「いつでも聞くから、こんなになるまで一人で溜めないでよ」
 ピアノを弾いたからといって、急に何かが変わるわけではなかった。それでも、自分の中にあれほど多くのものが溜まっていたと気づけただけで、俺は少し楽になっていた。
「……姫に散々、樹姫のこと言われるのも嫌だし」
 俺が顔を上げると、相原君はうんざりしたような顔になった。
「別に俺は姫に言われなくても樹姫のこと見てる。この前の体育だって樹姫の所に行こうとしたときに、姫が俺のそばに来て『早く行け』って騒ぐんだよね。タイミングが最悪。だから俺には言ってほしい。俺は一番に聞きたい」
 相原君に躊躇なく言えるようになるんだろうか。ここまで弱いところを見せたなら、今さら取り繕わずに話せるような気もした。あとは俺の勇気があればいいだけの話なんだ。
涙が落ち着いてきた俺は、昼飯を食うタイミングを逃してしまったことに謝ろうとしたとき、相原君はきっと尋ねるのを我慢していた彼の本題を俺に尋ねてきた。
「俺にキスしてきたのはなんで?」
 聞かれると思っていたけど、いざ聞かれると一瞬フリーズした。明確な理由がないんだ。気づいたらしていた。強いて言うならば……。
「したかったんだ。すごく」
 案の定、相原君の手がピタッと止まった。
「俺になら何をしても許されると思ってる?」
そんなことは思ってない、断じて!
「すごく大事だと思ってる。本当にごめん、二度としないって約束する」
「……そんなこと言ってないよ」
 相原君は不貞腐れたように俺に回す腕の力を込めた。
「……『好き』って言えない相手に、なんでしたいって思ったのか知りたいだけ」
『好き』。なんでこんなにしっくりこないんだろう。『アイスが好き』。『猫が好き』。
そのラインナップに乗せていいんだろうか。相原君はもうアイスや猫よりも濃い気がするんだ。もっと『好き』より大事なんだ。口を開こうとした瞬間、ひときわ騒がしい笑い声が階段の下から聞こえてきた。やばい、特別教室に人が移動し始める時間だ。
俺は大急ぎで相原君を押しのけて、何歩かそのまま後ろに下がった。
「好きってちょっと合わないだけ……もっと濃いんだよ。濃縮してる感じなんだ」
「俺、その言葉は麺つゆでしか見たことなかったよ」
 言われればそれぐらい濃いかもしれない。
「そう、三倍濃縮タイプ」
 相原君は困惑したように「濃い、ということは分かった……」と、一言だけつぶやいた。
 彼からすれば、きっと俺は謎だらけだ。それでも構わないと、頼むから言ってほしい。
俺はまだ、青い春の真ん中で、君を想うこの気持ちの名前を探している。

18章 愛おしいと思う自由 ― 樹姫 ―

それから数日後、相原君からメッセージが届いた。
『日曜日、出かけようよ』
 姫は相原君のお誘いのメッセージを見ると、「テレビで見たような綺麗なケーキを外で食べてみたい」と言ってきた。
「つやつやのフルーツが乗っていたわ」
季節のフルーツタルトあたりだろうか。俺は快諾すると、ケーキを食べるときは姫が俺の中に入ることを、あらかじめ相原君に伝えた。ケーキを食べる前に記憶が流れて叫び始めたら大ごとだ。相原君にメッセージを送ると、すぐに返信を知らせる着信音が聞こえた。
『景近も入っていくらしいよ』
 最近のあいつならそう言うと思っていた。随分、あいつも変わったような気がする。
 日曜日、待ち合わせ場所の下北沢駅で待っていると、俺の中に入っている姫が駅近くのショップを見ながら不満げに俺に呟いた。
「樹姫、服買ってよ」
 俺は心の中で「無理。金がない」と返した。というか、姫、今女物の服を見ているよな? それ買って俺に着せる気?
「ビンボー……」
 大きなお世話だよ。だいたいケーキなんて、飲み物とセットで頼んだら今どき結構するんだぞ? 姫のために今月の小遣いの五分の一を――。
「分かったから、うるさい」
……俺ってやつは報われないなぁ。約束の時刻を五分ほど過ぎたころ、背後からやけに堅苦しい声が聞こえた。
「……遅くなって申し訳ございません」
 サラリーマン?
振り返ると、相原君ががちがちに緊張した面持ちで立っていた。ピアスもチャラい服装もいつもの彼のままなのに、表情と妙に伸びた背筋だけは完全に景近で、ちぐはぐさが半端ない。
「私も、今来たところ……です」
 姫まで緊張しすぎて敬語になっていた。幽霊の姿で会うのと、宿主の体を借りて実体を持った状態で会うのとでは、感覚の鮮明さがまるで違うらしい。景近の顔と、内側から伝わってくる動揺を考えれば納得だった。
「では、食べに参りましょうか」
 景近が姫に聞くと、姫はちらっと先ほどのショップに目をやった。……すっげぇ、嫌な予感……。
「あそこに先に立ち寄られますか?」
 聞くなよ、景近。あそこは女物のショップで――と俺が止める間もなく、姫はこくっと頷いた。ちょ、ちょっと! 姫が右足を踏み出したところで、俺は体重を移すのを止めた。前へは進めない。それでも姫が足を戻そうとしないので、俺の体は右足だけを一歩前に出した、なんとも間抜けな姿勢で固まった。
「……姫様?」
 景近の不審そうな声が聞こえたので、俺は顔だけを景近へ向けた。
「嫌だ! 俺は行かないぞ!」
「……樹姫、お前、姫様の邪魔するつもりか?」
 景近の目がすっと細くなると、予想以上の塩対応が返ってきた。
「当たり前だろ! 俺の体が着るんだぞ? お前だったら着るのかよ!」
「姫様がお望みなら」
 話になんねぇよ! てめぇは姫が望めばこの場で服すら脱ぐやつだ! 相原君、助けて! すると景近の顔が急に穏やかになって口元が震え始めた。
「みんな、落ち着いてよ」
 そう言ったそばから、相原君は堪えきれないように吹き出した。しばらく笑ったあと、ようやく息を整えて俺たちに話しかけた。
「姫、景近が選んだカフェに予約してるんだよ。行かないと間に合わない」
 姫はそれを聞くと「それならしかたがないわ」と体の力を抜いた。
 姫と景近は、白い壁の前に植木鉢が所狭しと並ぶ、こぢんまりとしたカフェに入った。席に着くと、姫はお目当ての、フルーツが山ほど乗ったタルトと紅茶を、景近はチーズケーキとコーヒーを頼んだ。
 しばらくすると、無言の二人の間に、優しい声の店員が、二人の頼んだ品を上品な手つきで並べていった。姫は宝石みたいに輝く色とりどりの果物を乗せたケーキを食べて感動したように一言漏らした。
「とてもおいしい」
フルーツの下には、しっとりとした香ばしい生地があって、確かにとてもおいしい。一つのケーキを二人で味わえるなんて値段以上の価値があるな、と俺がお得感に味をしめていると、姫はタルトを一口分切り取りフォークに刺すと、景近の前に差し出した。
「食べる? おいしいわよ」
 差し出された景近は完全に固まっていた。そりゃそうだろ。あの堅物にそんなことをするなんて……。だが差し出した姫の手は俺の目から見ても軽く震えていた。頼むから、景近。乙女の勇気を無下にするなよ。
 たっぷり五秒は固まっていた景近はゆっくりと上半身を前へ乗り出した。ぱくっと食べると、顔を真っ赤にして身を引き、背もたれに寄りかかった。
「……大変、おいしく……」
 そう言ってコーヒーに手を伸ばして、目を伏せて飲み始めた。姫の心は嵐が来たかの如く、いろいろな感情が吹きすさんで、俺は翻弄されないように体の中でじっとしていた。すると、突然ふっと体が軽くなって、俺は瞬きをした。
 俺は辺りを見回すと、俺からできるだけ離れた場所に座り込んでいる姫が目に入った。えっ。ここでチェンジするの? 前に目を向けると、顔を赤くさせながら、笑いをこらえている相原君が目に入った。
「景近は?」
 相原君は天井を指さしたが、どこにもやつの姿が見当たらない。
「たぶん、上。あんなに動揺した景近、初めて見た」
「……何言ってたんだよ」
「俺がむちゃくちゃ怒られるから言えない」
 相原君は笑いながらケーキを一口サイズに切り取ってフォークに刺すと、俺の前に差し出した。
「その代わり、これあげる。結構いけるよ」
 俺は景近のように固まった。目の前にはチーズケーキを差し出した相原君が、余裕すら感じるのん気さで待っていた。対して俺は、耳の奥で脈打つ音がやたらと大きく聞こえていた。なんで姫も相原君も外でするんだよ。すげぇ恥ずかしいじゃないか。
 だけど景近に食えって思っていた俺が食わないっていう話はあり得なかった。
 俺は体を前に倒すと、そのままケーキを口に入れ、すぐに身を引いた。ダメだ、緊張で味がしねぇよ! 俺はもごもごと口を動かしながら、満足そうに微笑んでいる相原君を見た。彼の周りだけ空気がまるで一、二度ほど温かく感じ、窓から差し込む光まで、そこだけ柔らかく見えた。
 その瞬間、俺は分かった。俺は彼への気持ちをどう言って表せばいいか、ずっと悩んでいた。ようやく、分かった。
姫は、長い間できなかったことをようやく一つ叶えて、あんなに動揺していた。でも俺は、相原君と何かを一つ叶えて終わりたいわけじゃない。今日だけじゃ足りない。明日も、その先も、こんなふうに相原君の向かいに座っていたい。
 俺は欲しいんだ。
彼の髪も、手も、目も、声も。心も、体も。相原君を形作っているものを、何ひとつ残さず全部。
俺は、彼の全部が欲しいんだ。

19章 零れたものを止めるには ― 怜音 ―

 翌日の放課後、俺は廊下の先を歩く樹姫に声をかけた。
「今から帰るんだよね? 相談があるから、一緒に帰ろう」
「いいよ」
 樹姫は薄いベールを一枚取り払ったような鮮やかな笑顔を俺に向けてきた。何を思って彼がこんなふうに笑いかけてくるのか、俺にはさっぱり分からない。
「景近のことなんだけど、昼休みの終わりに、ちょっと体を貸してほしいらしいんだ……体を持った状態で姫と話したいって」
 ふと景近の横顔を見ると、何かを決心した人のような強さが、以前よりもはっきりと浮かんでいた。嫌な予感しかしない。もしかして、消滅するつもりなんじゃないか。
 樹姫はそんなことを考えてもいないのか、のほほんと俺に答えた。
「相原君が放課後空いてるなら、うちでやった方がいいな」
その日から俺たちは放課後、樹姫の家で体を貸すことになった。ほぼ毎日体を貸し続けていると、景近の記憶の断片が少しずつ繋がっていった。
 彼らは緊張しながらも話せるようになり、気づけば手を繋ぐことも増えた。最初は目を合わせることすらできなかった二人だ。そう思うと、ちょっと感慨深い。俺たちが授業を受けているとき、彼らはどこかに姿をくらますようになった。
 嫌な予感がどんどんと増していく。わざわざ俺から離れて一体姫と何の話をしているのだろう。普通に付き合っているだけなら、別に構わないはずなのに、彼らが近づけば近づくほど、景近の望みが叶い始めてしまう。
それから何日か経った木曜日、景近が「話がある」と言ってきた。俺は寝る直前に明日提出すべき数学の課題を思い出してしまい、机に向かって格闘していたが、静かにペンを置くと景近に向き直った。
「明後日の土曜日、体を貸してくれ」
「……いいよって言いたいけど、すごく嫌な感じがするから嫌だ」
 ここ数日、何度も俺の体を借りたせいだろうか。景近は生前の感覚を取り戻したように、床へ腰を下ろして片膝を立てた。
「勘が鋭い。勉強も大事だが、生き残る上で一番大事なのは直感だ。それ、磨いていけよ」
「……言い方もかなり嫌な感じだよ。まるでいなくなるのを前提に話してる」
 景近はふっと「そうだな」と少し寂しそうに笑った。
「お前の言うとおりだ。俺は土曜日、姫様に俺の気持ちをお伝えしてそのまま消える」
「なら絶対に貸さない」
「怜音、俺はおそらく、お前の体を借りなくても姫様にお伝えできる。そして消滅できる」
 俺は眉をひそめた。これははったりなのか、本気なのか、どっちだ?
「なら俺の体はいらないよね。なんで借りようとしてるんだよ」
「万が一を防ぐためだ。俺だけが先に消滅し、姫様がこの世に残されることのないように。もし俺だけ消滅したら、姫様は一人でずっと彷徨うことになる」
「……姫の未練って何か分かってるの?」
 心臓が不吉な予感にじわじわと追い詰められたように音を立て始めた。景近は男前のその顔に穏やかな笑みを忍ばせた。
「あらかたな」
「そうなら、もう少し先に伸ばしてよ。俺が帰るのは来年の七月なんだ。その直前に――」
「お前は同じことを来年言うだろう。違うか」
 違わない。たぶん、俺は同じことを言う。俺は樹姫がいるこの国に戻ってくる方法を探し出すだろう。ならば消滅はもっとあとでもいい。
「本末転倒だな。何をしにここまで来た。……一人で走るためじゃないのか?」
 俺の目から勝手に涙が溢れ始めた。確かに一人で走るためだけど。
「でも俺は景近を消滅させに来たんじゃないよ。俺がしたかったのは景近を成仏させたかったんだ。どこへ行くかは知らないけど、死後の世界で幸せになってほしかった。俺が死んだあと、もう一度会えるなら俺は全然平気だった――」
 ぼろぼろと流れる涙なんてどうでもよかった。もう走れなくてもいいから、残ってほしかった。消滅なんてあんまりだよ。雨粒が窓にうちつける音だけが部屋に響いた。土曜日は頼むから雷雨であってほしい。
「……すまない」
 景近は涙なんて一滴も流さず、顔を曇らせて俺を心配そうに見るだけだ。
「……お前を赤ん坊のころから見てきた。俺がいなくなったあとが心配だ」
「それなら残ってよっ!」
 俺はティッシュを勢いよく何枚もつかむと、思い切り鼻をかんだ。
「俺は一人が苦手って知ってるだろ!」
「知っている。だがな、人は普通一人なんだ。お前は俺がいたから、一人を体験していないだけでな。それはお前のためにならんだろう」
「それは景近のせいじゃないか。なら最後まで責任持つべきだろっ」
 くそっ! 本当に涙が止まらない。こんなの悲しすぎるよ。ずっと一緒にいた家族同然の景近が消えていくのに、俺は何もしてやれない。いなくなったあとも、祈ることすらできないなんて。安らかに眠る魂がないのに、どうやって祈れというんだ。
「……すまない。それを言われるとどうにも弱い。だが言っておく」
 景近は言葉を切って俺の目を見た。
「俺が選んでお前に取り憑いた。お前の性格と、その速さで、お前にしたんだ。俺はお前を選んだとき、もはや姫様を探すことを不可能だと思っていた。せめて取り憑くのであれば、俺が何か育てられるものを持つ者に取り憑きたかった」
 景近がこんな話をするのを俺は聞いたことがなかった。俺は鼻をかむことすら忘れて呆然と景近を眺めた。
「走るための全てをお前に託しているつもりだ。無理を承知で頼む。俺をお前から解放してくれ。そして姫様を一人にさせないようにお前の力を貸してほしい。万が一、姫様がただ一人、この世に取り残されることは、俺自身が消滅するよりも恐ろしい」
 景近は微かに笑って、瞳の光から視線を外すと、俺自身を見た。
「お前なら分かるだろう」
 分からないよ。俺は平和な時代に生まれたただの子どもで、お前のように戦国の根性も気力も備わっていないんだ。嗚咽が口から漏れ、俺は両足を椅子の上に引き上げると、膝を抱えて顔を腕に埋めた。そんな俺に、景近の穏やかな声が降ってきた。
「……俺が育てたんだ。今に分かる」

 土曜日は俺の胸の内とは真逆の穏やかな天気で、台風を呼んでほしかった俺は全知全能の神を心から憎みながらベッドから起きた。
「景近、本当に行くの?」
「……怜音、三十六回目だ」
「……なにが」
「お前が俺にそれを聞くのが昨日の夜から三十六回目だ」
「嫌味なところも最後まで同じなんだね」
「もう泣くな。それ以上目が腫れたら俺が歩けん」
「まだ泣いてないよ」
「そう言いながら、昨日も散々泣いただろう。もう体を貸せ。あと五分もせんうちに、お前はまた泣く」
 同意した覚えなどないのに、景近は問答無用で俺の中へ入ってきた。いつもどおりの冷気と吐き気が全身を駆け巡る。泣きすぎたせいもあるのか、頭の中がぐらりと揺れ、俺は思わず壁に手をついた。
秋も深まった夕暮れ、姫様の居室に面した廊下には、庭の虫の声と琴の音が静かに流れていた。
 交代のため俺が席を外すと演奏は途切れ、戻って腰を下ろした途端、止まったところから再び始まった。
「なぜ、俺が戻るまでお待ちになったのです」
「だって、これはそなたに聴かせるために作った曲だもの。そなたはいずれ戦場へ行くのでしょう。遠くへ行っても、この曲を覚えていれば、帰る場所を間違えないと思って」
「……」
 武功を立てたいと願い続けていた俺が、初めて帰りたいと思った場所は、姫様の琴が聞こえる、この廊下だった――。
記憶が途切れ、意識が戻ると、景近はさっさと薬箱を開け、頭痛薬を取り出した。
「見ろ、泣きすぎでひどい頭痛だ」
 それから目薬を差し、冷たいタオルをしばらく目元に当て、シャワーを浴びて着替えた。
景近は今も、帰りたいと願っている。あの曲を聴いた廊下へ。姫のもとへ――。
 景近がキッチンへ降りていくと、海と空の挨拶する声が聞こえてきた。
「おはよう」
 二人とも学校へ行くのだろう。制服姿の海と部活着の空は、すでにテーブルに着き、適当な朝食を食べていた。
「……おはよう」
 だが景近の声を聴いた途端、二人はびくっと肩を震わせ、勢いよく景近を仰ぎ見た。
「……お久しぶりですね、景近さん」
 海がひきつった笑みを浮かべると、空が口の中のパンを無理やり飲み込む音を立てた。
「ちょうどよかった。お前たちに頼みがある」
 景近は冷蔵庫を開けて卵を取り出すと、コップに割り入れた。一緒に入った殻を適当に取り出すと、テーブルに出ていた醤油を二、三滴足して、口に含んで飲み込んだ。景近の前世は蛇だったんだろうか。
「……焼くっていう方法もありますよ」
 学習能力が高い空は、ちゃんと教育されていて口の利き方を学んでいた。
「俺は火を使ったことがない。俺がお前らに会うのは、これで最後だ。今日、俺は消える」
海と空が眉をひそめる間に俺の目から涙が溢れだした。
「怜音、いい加減にせんか」
 景近は目に意識を向けると、俺の涙を問答無用で後ろに引っ込めた。
「目が腫れるわ。それでなくとも泣きすぎで頭がぼうっとしているのに、これ以上阿呆になったら使い物にならん」
 俺の両親は悲しいときは泣くようにと俺を育てたんだよ。景近はため息をつきながら席に着いた。
「海、空」
 彼が二人の名前を呼ぶと、二人はこれまた驚いた顔で景近を眺めたが、海が穏やかな声で尋ねた。
「なんでしょう」
「俺がいなくなったあと、愚弟をよろしく頼む。こいつは今まで一人になったことがない。その上、頼りない」
 愚弟、と言われて俺はまた泣きそうになったが、これまた景近がぐっと涙を止めた。そして「涙の止め方を今覚えろ」と俺に言ってきた。
「ともかく、怜音はしばらく今までよりもさらに阿呆になるだろう。そのときに支えてやってくれ」
「……今日、本当に消えるんですね?」
景近が頷くと、海は真剣な面持ちで深く頷いた。
「分かりました。俺たちができることをします」
「……悪いな」
 景近はほっとしたように息を吐くと、じっと台所に目を向けて腕を組んだ。
「何をどうすればいい。腹が減ったんだが……」
「……今、準備します!」
 二人は弾かれたように立ち上がると、景近のために朝ごはんの準備を始めた。

20章 彼らの流儀 ― 樹姫 ―

土曜日は雲ひとつない穏やかな天気だった。柔らかな陽射しが街を包み、きらめく光があちこちにあふれている。姫はこの前買ってもらった淡い藤色のシャツと黒のズボンを合わせて、その上から母さんに内緒で借りた薄いベージュのロングカーディガンを羽織った。
「待たせてすまない」
振り返ると、相原君よりもずっと大人びた笑みを浮かべた景近が立っていた。アクセサリーは一つもついていなかった。白いロゴTシャツにジーパンというシンプルな格好で、ブルゾンを羽織っている。俺は無意識に手を胸に当てた。これは大丈夫か? 姫の動揺がまともに流れ込んでくる。あんなに練習してたのに、本番これか。
姫は努めて笑顔を作った。
「今さっき来たばかり」
 景近はぎこちなく笑って、「行こうか」と姫の手を取った。握られた瞬間、姫の震えが俺の胸の奥まで伝わり、心臓を細かく震わせた。姫がそっと握り返すと、景近の手が強張った。
 出会った瞬間からこうなら、俺も相原君も最後まで耐えられるんだろうか?

 国営昭和記念公園は俺が思った以上にバカでかくて、姫が行きたいと言っていた花畑を彼らは目指して歩き始めた。花畑は、辺り一面、黄色い花で埋め尽くされていた。
「レモンブライトだそうだ」
 景近は花畑のそばに立つ説明板を読んだ。花言葉は『幼い恋心』。
小さな花が地面を覆っているものだと思っていたが、意外にも背が高く、姫の胸元あたりで咲いている。陽を受けた黄色い花々は、見渡す限りずっと先まで続き、風が吹くたび一斉に波打った。道に沿って花の中を歩いていく。顔を上げると、景近は口を一文字に結んで遠くを見ていた。
何を見つめているのだろう。視線を感じたのか、彼は姫に視線を戻した。
「綺麗だ」
 その目は、やっぱり花なんて見ちゃいなかった。ただ一人、目の前の人だけを見ていた。
「……言ってよ。何が綺麗なの」
 ありったけの勇気を込めた姫の言葉に、景近は一瞬だけ遅れて言葉を返した。
「白妙。あなた様が」
 陽の光も風もすべてが止まったように思えた。長い間、その言葉を聞くためだけに、待っていた。涙が目から溢れ、幾筋も伝った。
「不甲斐なくて……すまない」
 景近は揺れる声を絞り出すと、姫を抱きしめた。
私は、もう、何もいらない、と思った。これ以上のものはこの世に何一つない。
姫たちは別の花の道へ入り、園内をのんびりと時間をかけて巡った。簡単に食事を済ませ、しばらく休んだあと、再び最初に見た花畑へ戻ると、沈みかけた太陽の光を受けて、黄色い花がうっすら赤く染まっていた。
 閉園時間が近づいたのか、徐々に人が帰り始めたが、姫たちはその流れに逆らうように、花の中心部分へと歩いていった。広くとられたスペースに、フォトスポットらしい青いドアがぽつんと置かれていた。
「ドアの向こう側には何があると思う?」
 姫が景近に聞くと、景近は軽く首を傾げた。
「俺には……同じ花畑があるようにしか見えないが」
 堅物の景近はこういった問いかけが苦手そうだ。
「白妙、あなた様には何が見える?」
 姫は微かに微笑んだ。
「何もない世界が見えるわ。でも景近とならそれもいいわね」

沈みかけた太陽が空を朱色に染め、夕日を受けた雲の縁だけが黄金色に輝いていた。刻一刻と夕日はさらに燃えるように赤くなり、姫と景近が借りている俺たちの体まで、赤く染めていった。景近は姫の前髪を不器用にかき上げた。姫がくすぐったそうに笑うと、彼は静かにその唇へ自分の唇を重ねた。重なっていたのは数秒で、景近は静かに離れると、姫を力強く抱きしめた。
「白妙……。昔も今も、愛している」
姫の喜びが、俺の胸の中へ流れ込んできた。
私は初めて知った。
嬉しくても涙が溢れるということを。
これほどまでに愛おしいと思うことができることを。
抱きしめ返せるこの瞬間がいつまでも続けばいいのに――。
 でもそれは無理な話よね……。
俺の体からふっと力が抜け、姫の気配が俺の内側から離れ、それと同時に相原君の背後から景近が姿を現した。急に体の主導権を戻されてよろめいた俺を、相原君がとっさに抱き留めた。
 俺は相原君の腕の中から抜け出すと、ドアの前に立つ姫と景近を見た。姫と景近の透き通った体は夕陽を浴び、淡い朱色に染まっていた。
「樹姫、私、もう何もいらないみたい」
 姫はそう言うと景近を見上げた。
「もう世の中のすべてを手にしてしまったわ」
喜びにひとかけらの悲しみを滲ませるその顔と声に、俺は何も言えずに姫を見返していた。
「あなたたちが最後で悪くなかったわ」
 姫はそう言うと相原君を見た。
「樹姫を大切にしてあげて。その子は強くて脆いの」
 相原君は呆然と聞いていたが、我に返ったように景近に目を向けた。
「景近……」
「お前はわがままをほどほどにな」
 景近は兄が弟に言うように続けた。
「食べることも寝ることも大事なことだ。いい加減、自分でしないと。あと、樹姫」
 景近は俺を見てニヤッと笑った。
「お前もあまり怜音を悩ますな。こいつは悩むと寝れなくなるんだ。どうしようもないことをずっと夜中考えている」
 相原君は何も言ってこなかった。ただ景近を見ているだけだ。
「これで最後なのかよ……?」
 俺が震える声で聞くと、姫は悲しそうに微笑んだ。
「そうね。あなたたちも死ぬとき気をつけなさいよ。私たちみたいにならないように」
二人の足元から、蛍のような黄色い光が浮かび上がった。
「でも消えていくのも悪くないわ。もう思い残すことはないもの」
俺は何か言おうと口を開いた。
でも、何も言えなかった。涙だけが勝手に落ちる。止めようとしても止まらない。小さな光は一つ、また一つと増えていく。蛍のように揺らめきながら俺たちの周りを舞い、夕焼けに染まった花畑を優しく照らしていく。そして二人は徐々に、下から薄くなっていった。
「怜音」
景近が相原君を呼んだが、相原君は何も言えず、景近を見ていた。
「ようやく走れるな。お前の中に残るのはお前が積み重ねてきたお前自身の力だ」
 二人の姿は、もう腰ぐらいまで消えかけている。相原君の瞳から涙が零れ始めた。
景近が笑って相原君を見ていたが、その視線を姫に移した。姫は涙をこぼしながら、でも幸せそうな笑みを浮かべて景近を見上げた。
二人は何も言わなかった。
――ありがとう
そう聞こえたような気がした。
けれど次の瞬間には、黄色い光だけを残し、二人の姿は消えていた――。

俺たちは駅の改札口前の壁に寄りかかりながら目の前を通り過ぎていく人たちを見ていた。様々な人たちが集う駅の喧噪を聞くともなしに聞いていたが、俺は壁から身を起こした。
「帰ろう」
 相原君は腕を組んで壁に背を預けていたが、泣きはらした目を俺に向けた。彼の瞳は、まるで鳥が飛び去ったあと、空になってしまった鳥かごのように、そこに宿っていた光だけが消えていた。
だけど彼の目は光がなくても十分美しかった。
相原君の家は立川駅から歩いて十五分ほどだと聞いていた。
「ホストの家まで送るよ」
 彼は背を壁から離すと、首を振って、俺を安心させるようにわずかに口角を上げた。
「一人で大丈夫」
 ちっとも大丈夫じゃなさそうな相原君は、俺の頭を何度か愛おしそうに撫でると彼の家に歩き始めた。俺は彼の姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。こんなときぐらい、送らせてくれてもいいのに。
 だけど一度だけ俺を振り返って手を振ったあと、彼は一人、俺に背中を向けて自分の家へ歩き去っていった。
俺が家に帰ると、姫が俺の目の前に現れる前の生活が待っていた。
「おかえり」
穏やかな両親の温かな声。おいしそうな夕飯。だが、今日の夕飯は味がしないうえ、誰からも『ピアノの時間ね』と言われないのに、もはや習慣になってしまったのか、俺はピアノの前に座った。姫が現れる前は、俺は八時ごろから弾き始めていたのに、今や常にピアノの前に座っているような気がする。
 俺は弾きなれたショパン《幻想即興曲 嬰ハ短調 作品66(遺作)》の楽譜を手に取った。
 恐ろしいだけの幽霊だったはずなのに、いつの間にか俺の日常に溶け込んでしまっていた。そしてどうしてだか、俺の大事な人となってしまっていた。
『消えないで』と言えばよかったのか。こんなに胸が痛く、会いたくてしかたがない。
 でも、きっと、『いかないで』と言っても無意味だった。
 あのまま、ずっと漂っているよりも、景近と消える方がよほどよかったのだろう――。
 甘く穏やかな中間部を弾き終え、ペダルを踏み替える。ひと呼吸置いて、再び冒頭の激しい旋律へ戻った。右手が鍵盤の上を駆け出した、その瞬間だった。
 親指のくぐりが、ほんのわずかに遅れた。
 一音だけ間隔が開き、左手の三連符との噛み合わせがずれる。けれど指はすぐに追いつき、演奏は何事もなかったように流れていった。それでも俺は、数小節も進まないうちに両手を止めた。
 ――あり得ない。
 弾き込んだこの曲で、指がこんなふうに遅れたことなどいまだかつてなかった。俺は驚いて右手を目の前に掲げた。
姫は、俺の腕前そのものを格段に引き上げていたわけではない。俺が練習して身につけた技術を、迷いなく引き出せるよう手伝ってくれていたのだろう。
 俺は知らないうちに、その恩恵にずいぶん頼っていた。
 一度『間違えるかもしれない』と思ってしまうと、指の一本一本が急に他人のもののように感じられた。これまで無意識に指へ任せていた動きを、一つずつ頭で確かめながら弾く。一つを確認するたび、別の何かがおろそかになる。
 こんなに不自由な演奏で、理想の音を出せているのか。俺の気持ちを、きちんと音に乗せられているのか。姫に聞けば、明確な答えが返ってくるだろう。
 けれども、彼女はもういなかった。

21章 いてもいなくても ― 怜音 ―

「ただいま」と「いってきます」の間はたった五分ぐらいしかなかったと思う。ホストの家に戻った俺は、海にひどく心配そうな顔をされたが、ランニングウェアに着替えると、すぐに外へ出た。
「いつ帰ってくるんだよ」
 空がいつものように聞いてきたから、俺は「十一時までに帰る」と言って引き戸を閉めた。
軽くジョギングしながら河川敷に向かったが、いつも練習しているところは暗すぎて全力疾走するには危険に見えた。景近がいたら、絶対に走らせてくれなかっただろう。だが、俺は土手の階段を降りると、月明かりを頼りにいつもの場所へと向かった。
走路に障害物がないことは分かっていた。空にぽつりと浮かぶ月はやけに遠く、その光だけでは少し心もとなかったが、しばらく川辺に座って目を慣らしてから、俺は黒と灰色の世界にぼんやりと浮かび上がるスタート地点に向かった。
『行け!』
声を上げて手を振り下ろすやつもいないから、俺は何の合図も待たず、勝手に全力で走り始めた。一本目、二本目と走り続けるうちに、五本目あたりで苦しくなってきた。ふくらはぎも重く、スタート地点に戻ったあと、軽くジャンプしてみた。こんなに足が重くなったことはなかった。それでも、俺は六本目を走り始めた。
『最後まで腕を振れ』
『顎を上げるな』
『足元を見るな。前を見ろ』
 景近の声だけが、記憶の中から次々と聞こえてくる。六本目を走り終えたときには、膝に手をつかなければ立っていられなかった。
『脚が流れている。今日は終わるぞ』
俺は走りたいんだよ。乱れた呼吸を無理やり整えると、七本目のスタート地点に立った。暗闇へ向かって走りだす。すぐに脚が重くなった。それでも無理やり地面を蹴り、腕を振った。中盤を過ぎたあたりで、右足が思ったほど上がらなくなり、つま先が地面を擦った。
体が大きく前へ傾く。立て直そうと左足を出したが、その脚にも力が入らない。次の瞬間、俺は肩から地面へ投げ出されていた。
息が止まった。遅れて掌と膝に焼けるような痛みが走る。暗い空の下、俺は地面に這いつくばったまま、しばらく動けなかった。
『阿呆。だから言っただろう』
俺は奥歯を噛み締めた。目の奥には熱だけが残り、涙はこぼれなかった。そのまま仰向けに転がり、腕で目を覆った。
「……うるさいよ」
今はもう、何も言ってくれないくせに。
目を閉じると、まぶたの裏には何も映らず、真っ暗な世界が広がっているだけだった。あいつの向かった先はこんな感じなんだろうか。
なんにもない世界。苦しみも悲しみも、喜びも愛もなにもない――。
 歩いて家に戻り、玄関の引き戸を開けると、廊下の明かりがまだついていた。
「二分前」
 階段に腰を下ろしていた空が、玄関の小さな時計を見ながら言った。俺は靴を脱ぎ、いつものように揃えようと屈んだが、掌の傷が痛んで顔をしかめた。動きがいびつだったから、すぐに空は何かあったか分かったようだった。
「お前、転んだのかよ」
「……少しだけ」
 空は俺の膝と掌を見て眉をひそめると、立ち上がってリビングへ向かった。
「しょうもねぇなぁ。おい、兄貴。救急箱!」
「はいはーい」
 奥から海の声が返ってくる。帰ってきたら寝ていると思っていたのに、二人とも起きていた。
「自分でできるよ」
「その手で?」
 いつもよりもぶっきらぼうに空に言われ、俺は何も返せなかった。
 俺も椅子に座ると、空が俺の前にしゃがみ、消毒液の蓋を開けた。
「痛かったら言えよ。といっても、言われてもやめねぇけどな。ガシガシいくぞ」
 空は宣言どおり、消毒液をぶっかけるような勢いで傷を処置していく。容赦なく傷口に染みて、俺は奥歯をくいしばった。
「ちょ、空。マジで痛い」
「そんなもんだ。懲りたら夜に走りに行くのはやめろよ」
 俺は掌と膝に絆創膏を貼る空のつむじをぼんやりと見つめた。
「……寝ててよかったのに」
「心配かけてるやつが何言ってんだよ」
 テーブルを挟んで、海の穏やかな声が聞こえた。
「今度、景近さんの話、聞かせてよ。今さらだけど、あの人のこと、もっと知っておけばよかったって思うんだ。面白い人だったからさ」
空は立ち上がって大きく背伸びをすると、「俺にも聞かせろよ」と言った。
「せっかく待ってやったんだ。なんなら今からでも聞くけど」
 二人は『どうする?』みたいな顔をして俺を見ている。
「……明日、話すよ。でも……話すと長いかもよ」
 それを聞くと、海は朗らかに、空はちょっと斜に構えて、軽く笑った。
「つきあうって。俺たちには時間がすげぇあるじゃねぇか」

 週が明け、学校に着いた俺が席に座ってぼんやりしていると、「おはよう」と樹姫の声が頭上から聞こえた。
「おはよう」
 挨拶を返すと、彼も元気のない声で尋ねてきた。
「ちゃんと眠れた?」
「眠れてるよ」
 嘘をつくと、彼は俺の前の席に座った。互いに気づいていた。俺たちの瞳からは、揃ってあの光が消えている。樹姫は星の王子さまを卒業して、今日からただの王子さまになった。
 樹姫に向けていた俺の気持ちも、彼が俺に向けていた気持ちも、今はどうなっているのだろう。失った悲しみがすべての感情を鈍らせていて、自分でもよく分からなかった。
「……相原君、あのあと走った?」
 俺は首を横に振った。今は何も話したくなかった。彼は俺の掌の絆創膏に一瞬目を向けたが、特に何を言うでもなかった。
「樹姫は弾いてみた?」
「うん。弾けることは弾けるけどね。姫の魔法が解けたから、弾きなれた曲も集中が切れると指の運びがずれることがあるよ……だいぶ手間が増えた感じがする」
「そっか……」
 樹姫の言っていることは、俺にもよく分かった。
 集中するには、気力と体力がいる。意識しなければならないことが増えれば、それだけ判断も増え、以前よりも早く、気力と体力の両方を消耗する。
 俺も同じだった。走っている最中に意識しなければならないことが少しずつ増え、自分の体なのに、以前よりずっと不自由に感じられた。いや、体だけじゃない。何もかも、以前より不自由だった。
 俺はその週の金曜日の夜、樹姫に短いメッセージを送った。
『日曜日の十時ごろ、前に来てくれた河川敷に来られる?』
 すると、樹姫からすぐに短い返信が送られてきた。
『行くよ』

 十一月に入った河川敷は、すっかり寒々しい景色へ変わっていた。夏には青々と茂っていた草も、地面にその茶色く枯れた体を横たえ、冬を感じさせる冷たい風が川面を渡って吹いていた。
俺が準備運動を終えるころ、ちょうど樹姫が姿を見せた。
「何本か走るから、見てて」
「褒めればいい?」
「今日は、見てるだけでいいよ」
 表情をつけることもなく、俺はそれだけ言うと、スタート地点に向かった。
 一本目は、以前とほとんど変わらなかった。地面を蹴ると体が滑るように前へ出て、上体をぶらすことなくゴールを駆け抜けた。軽く走ってスタート地点へ戻り、呼吸が整うのを待ってから二本目に入った。だが六本目の後半に入ると、明らかに脚の動きが鈍った。七本目、八本目と最後まで走ったが、最後の方には、すっかり限界を迎えていた。走り終えた俺が膝に手をつき、荒い息を整えていると、樹姫がそばへ歩いてきた。
「……分かった? 前と違うって」
「前より、疲れやすくなってる」
 よく見てくれている。その通りだった。
「前なら、あれぐらいの休憩を挟めば、八本目でもほとんど動きは落ちなかったんだ。終わったあとに坂ダッシュができるくらい回復してたのに」
 俺は他人の足のように感じる自分の足に目を向けた。
「自分の体なのに、他人の体みたいだ。なのに陸上ってコンマ一秒で争う競技なんだよ。……分かる? この意味」
 樹姫は何も言わなかった。運動と距離を置いている彼には、もしかしたら分からないかもしれない。
「……続けるべきかどうか、悩んでる」
 その言葉を聞くと、樹姫は納得したように頷いた。
「走り続けてたら、感覚つかめるんじゃないか?」
「かもしれないけど……元に戻らないかもしれないのに、そんな苦労をするの?」
 情けないかもしれないけど、俺は無駄な努力をするのが嫌いだった。報われないかもしれないと思うとどうしてもやる気がでない。だが樹姫は俺とは正反対の人間だった。
「俺も同じだよ。前は弾き慣れた曲なら、指が勝手に動いた。でも緊張するときとか、間違えちゃいけないって思ったりすると崩れる。でも、弾けなくなったわけじゃない。姫がいなくなっても、俺が練習してきたものは残ってる。相原君も同じじゃないか? 前より疲れやすくなっても、走り方も速さも、ちゃんと相原君に残ってる」
「……そうかな」
 あいつの残り火で走ったその先に何があるんだろうか。
「俺、これが知りたくて日本に来たはずなんだけどな……」
 景近がいてもいなくても、俺は走ることを迷っている。
「おかしいよね。あいつが言うとおり『ようやく走れる』のに。……一人で走るのってこんなにきついんだな」
 俺は結果を求めているだけじゃなかった。結果を手にしたとき、あいつの言葉も欲しかった。何も言ってもらえないかと思うと、走っていてもただ苦しくて、無意味に感じてしかたがない。
「相原君にとって、走る意味って何」
「……速かったから。走れば結果が出たし、それで景近もいろいろ言ってきたから。それ以上ないような気がする」
 すると、樹姫は意外なことを言ってきた。
「走らないっていう選択もあるけど」
 樹姫はいつも通り、なんてことなさそうにあっさりと提案してきた。俺はようやく彼のこのなんてことなさそうな態度に慣れてきた。どうでもいいと思っているわけではなさそうだった。
「……景近は俺に全部託したって言ってた」
「勝手だな。気にすることないよ。相原君の好きにしたらいい」
 樹姫は俺に一歩詰めると、素っ気なく言葉を続けた。
「俺はピアノを弾くけど、姫が言うようにコンクールには出ない」
「姫は出てほしかったんだ」
 それは初耳だ。樹姫はおかしそうに笑った。
「姫も俺がスポットライトを浴びるのを見てみたかったんじゃない? そう思ってくれるのは悪い気はしないけど、大きなお世話だよ」
 彼は誰よりもいろいろなものから自由でいたいようだった。自分の好きなことを自分の好きなようにするのが一番彼に合っていた。
俺は彼から目を背けて深緑色に見える重たげに流れていく川面に目を向けた。
「……俺が走らなくなったら、樹姫は嫌じゃない?」
「なんで?」
「ノートに書いてただろ。走ってるところが格好いいって」
 樹姫が変な声を出したので俺が彼に目を戻すと、彼は口元に手を当てて小さな咳を一つした。
「相原君は今も別に格好悪くないけどな」
「無理に褒めなくていいよ」
 俺は拗ねた声を出した。絶対さっき、笑ったよな。樹姫は寒いのか、ポケットに手を入れて、俺に優しい視線を送った。
「前と違うって分かってるのに、それでも俺を呼んで、見せてくれただろ。相原君にとっては、絶対に見られたくないことだったはずなのに。やめても走っても、相原君は格好いいって思うぞ」
 景近がいたころ、俺はずっと秘密を抱えて生きてきた。本当のことを話しても信じてもらえず、やがて話すことを諦めた。周りにはいつも誰かがいたのに、ふとした瞬間、誰にも理解されない自分がひどく孤独に思えた。景近がいなくなった今、隠すことは何もない。それなのに、あのころよりずっとつらい。
 景近のいる俺を初めから受け入れ、いなくなったあとの痛みまで同じように知っているのは、樹姫だけだった。
俺はずっと、たった一人を探していたのかもしれない。景近がいた俺も、いなくなった今の俺も、全部ひっくるめて「俺」として見て、そばにいてくれる人を。
 俺は一歩、彼に近づくと、彼の肩に自分の頭を置いた。
「……やめても走っても格好いいって、本気で言ってる?」
「マジです」
「……そう」
 俺は頭を起こし、彼の背中に腕を回して抱きしめた。樹姫は最初、びくっと体を強張らせたが、しばらくすると、彼もポケットから手を出すと、俺の背中へそろそろと手を回した。
瞳の光が消えても、俺たちの気持ちまですべて消え去ったわけではなかった。樹姫はもう星の王子さまじゃない。それなのに、腕を緩めたら、遠い星へ旅立って、二度と戻ってこないような気がした。
彼は自由を愛しすぎている。
俺は目を閉じ、彼の背中へ回した腕に力を込めた。
 ――どこにもいかないで。俺のそばにいてほしい。

22章 愛おしいという距離 ― 樹姫 ―

 翌週の放課後、俺たちは学校を出て、途中まで同じ道を歩いていた。相原君は駅へ、俺は家へ帰るところだった。ふと誰もいない小さな公園が目に入った。風が吹くたび、色づいた葉が舞い落ちている。あの広い河川敷で、弱った相原君が俺を抱きしめたときから、俺はずっとこの気持ちを伝えたいと思っていた。だけど、いつ、どこで、どうやって伝えるかを考えているうちに、すでに一週間が過ぎていた。
「相原君、話があるんだけど」
 たぶん、ここだ。ここで伝えないと、俺は一生言えないような気がする。俺は足を止め、公園を指さした。
 そこは黄色いイチョウの葉と赤く染まった葉が、公園をカーペットのように覆っていた。足を踏み入れると、落ちたばかりのイチョウの葉が、柔らかな感触を足裏へ返してきた。彼が不思議そうに青いブランコへ腰を下ろしたので、俺はその向かいにある冷たい銀色に光る柵に座った。これから話すことを口にするには、ものすごく勇気がいった。口の中は乾き、喉の奥から声を押し出すだけでも一苦労だった。
「あの、今さら、なんだけど、聞いてほしい」
 俺はジャケットを脱いだ。暑すぎる。
「あの、前に……あの……」
『俺のことを「好き」って言ってくれたけど』と言いたかったけど、その言葉は恥ずかしくて到底俺が言えるとは思えなかった。
ダメだ。そこは飛ばそう。心臓が暴れて、これ以上唇が震えたら話すことすらできなくなってしまう。
「あの、俺……」
 相原君は、真剣な顔で黙って俺を見ている。
「だから……つまり、君は……」
 耐えられなくて、下を向きながら俺はつぶやいた。
「世界で一番、愛おしい、です」
 それが、彼への気持ちを表すのに一番ふさわしい言葉だった。君の一挙一動も、存在も、声も、すべてが――愛おしい。この世界の色がこんなに鮮やかなのも、音が軽やかに跳ねて俺の耳に届くのも、全部君がそばにいてくれるからだ。この世界すら、君がいるからさらに愛おしくなる。
 俺が黙ると、どこかから五時を知らせる電子チャイムが聞こえてきた。古いスピーカーから流れる旋律は少し割れ、風に流されて近づいたり遠ざかったり、まるで鬼ごっこをしているように聞こえた。
 相原君はブランコから立ち上がると、俺の前に膝をつき、火照った俺の顔を見上げた。穏やかな夕日が、通りに面した木々の間から差し込み、相原君の顔を柔らかな橙色に染めた。
「やっと言ってくれたね。諦めた方がいいのかなってずっと思ってたよ」
「……ごめん」
 諦められる前に言い出せてよかった。
「相原君、だから……俺は相原君が、ほしいので、俺と、お、お付き合いを、してもらえませんか」
 俺はとりあえず一年分ぐらいの勇気をかき集めた。相原君は立ち上がり、俺のすぐ横にくっついて腰かけると今日一番のきらきらした笑顔を浮かべた。
「はい」
そのたった二文字が、俺にはこの世で一番尊い言葉に思えた。弾んだ声とは裏腹に、相原君の瞳にはみるみる涙が溜まっていった。予想外の反応に、俺は大慌てでポケットからハンカチを取り出し、彼の手に握らせた。
愛おしくて、切なくて、思わず俺は言葉を詰まらせた。
「あ、あの、嫌じゃなかったら……怜音、って呼んでもいい?」
 相原君はしばらく黙っていたが、嬉しそうに「遅いぐらいだよ」と目元を押さえて答えた。俺は肩の力どころか、全身の力を抜いて、イチョウのカーペットを踏んでいる自分の足元に視線を戻した。
それにしても、人生とは摩訶不思議なものだ。彼に会う前は、俺の人生に「彼氏」なるものができるなんて考えたこともなかった。冷たい風が吹くたび、黄色い落ち葉に交じって、真っ赤に色づいた葉が音もなく舞い落ちている。それでも、服越しに伝わる彼の体温のせいでますます暑くなり、俺は燃えるように火照った顔を伏せた。怜音はそんな俺にこの上なく優しい声で話しかけてきた。
「告白されて、ほしいって言われたのは初めてだよ」
「……そう?」
 みんなはどういったふうに告白するんだろう。俺も一応、俺の言葉選びは変だという自覚は芽生えていたので、チャットに聞いておけばよかったと後悔をした。ちゃんと通じる言葉選びをしたかった。
「変だったらごめん」
「いや、樹姫らしいよ……それに、すごく嬉しかったし」
 今回の言葉は怜音の好みに合っていたらしい。こんなふうに、合っているのか、合っていないのかを検証しながらことを進めるのは、とても大変な気がした。俺は慎重に言葉を選びながら、怜音に伺いを立てた。
「今度の週末、デートしませんか?」
「すごくしたい。行きたい場所はあるの?」
 明日は怜音の誕生日だった。以前、姫が教えてくれたのだ。景近がわざわざ姫に伝えていたらしい。
『怜音のうちは毎年誕生日を祝うみたいよ』
 羨ましそうに言うからちゃんとお祝いしようと思っていたのに、おめでとうなんていう前に彼女は消えてしまった。姫が消えた瞬間から、誕生日をわざわざ祝おうとしなかった俺は、もう過去のものになった。今は、目の前にいる怜音の誕生日を、毎年欠かさず力いっぱい祝いたい。
 でもなんで彼は何も言ってこないんだろう。誕生日にはかまってほしいと全力で迫ってくるはずなのに、景近を失って性格が変わって、俺がちゃんと祝うのかを試すようになったんだろうか。
 ならば間違うわけにはいかない。俺は怜音が見たがっていた映画を思い出していた。
「映画でもいいですか?」
「ちょうど見たいのがあるんだけどいい?」
 怜音はにこりと笑って、最近よく聞くアニメの映画のタイトルを挙げた。よく昼休み、彼はアニメの品評会を繰り広げるので、最近は俺もアニメについてだいぶ詳しくなってきていた。だからといって見たいわけじゃないけど、その映画を見終えたあと、きっと怜音は、感動で頬を赤くしながら延々と感想を話すだろう。それが至上を超えた幸福だ。
「怜音はそのアニメが見たいって言うと思った」
「樹姫は前作見た?」
 俺が首を振ると、彼は断固とした口調でそれがよほど悪いことのように言い放った。
「それは見ないと。あれは傑作だから。今から樹姫の家で見る?」
 俺たちが家に着いて、ちょっとすると母さんが帰ってくるだろう。『樹姫と付き合い始めました。今日から友だちじゃなくて彼氏になります。今後もよろしくお願いします』と怜音が美しい四十五度のお辞儀を母さんにするところを俺はまざまざと想像できた。
「学校でちょこっとずつ見ていこう」
 怜音は残念そうに口を尖らした。その可愛い口で誰に何を言うのかが俺は怖い。
その日の夜、俺は十一時五十七分からずっとベッドの上でスマホを眺めていた。十一時五十九分の表示が、零時零分へ切り替わった瞬間、俺は怜音に電話をかけた。
 怜音は分かっていたのか、秒で出た。
「おめでとう」
 なんてめでたい日だ。心を込めてそれだけ言うと、彼は『知ってたの?』と驚いたような、だが絶対に嬉しく思っているだろう声を出した。
「前に姫が教えてくれた。景近が姫に伝えておいたみたい」
『……そっか。……あいつらしいなぁ』
 たぶん、景近は怜音が寂しくないように、いろいろと考えて根回ししていったんだろう。
『樹姫の誕生日はいつなの?』
「八月」
 君が帰った後だ。怜音も同じことを思ったのか、一瞬黙ったが、『ずっと気になってたんだけど』と切り出した。彼のこの手の質問はあまりいいものがない。だが誕生日の人の疑問を断るわけにもいかない。
「なんでしょう」
『樹姫のファーストキスっていつ?』
 やっぱりろくでもない質問だった。どうして俺の誕生日からその質問に飛んだんだよ。しかもその言葉、俺はすごく嫌いだ。聞いていると恥ずかしくて虫唾が走る。だけど彼にそれを言うわけにもいかず、俺は至って普通に答えた。
「怜音にしたとき」
『……はあ、あれがかぁ……』
 なんだってんだ。
「ごめん」
 俺がむすっとして言うと、彼は慌てて否定した。
『違うよ。手慣れてたから初めてとは思えなくて。でも、付き合った人はいないって聞いてたから、どうなってるんだろうって思って。だけど……』
 怜音はしばらく黙ったが、
『あれがファーストキスなのは、とても樹姫らしいね』
と、この上なく理不尽な結論で終わった。最近、なんでも怜音は『樹姫らしい』という言葉で終わっているような気がする。俺は生まれた時から高野樹姫なんだから、樹姫らしくて当たり前だった。
『プレゼントは、同じものでいいよ』
「そんなのプレゼントにならないよ。いつでもできるだろ?」
『樹姫もロマンがないね』
『も』? 誰のことを話しているんだろう。ロマンってことは、前の恋人のことを話している? おかしいな。喜んでもらいたくてかけた電話なんだけど、なぜか結構腹立たしい。
「ともかく、おめでとう。また学校でな」
『ありがとう……』
 電話を切ると、夏に撮った多摩川の河川敷が、待ち受け画面に現れた。画面の中の輝く川を見ながら、俺は顔をしかめた。何だろう、このしっくりこない感じは。
 翌朝、学校へ行くと、朝っぱらから怜音は他クラスの女子に囲まれていた。俺は見つからないように前方のドアからそっと教室に入ると、準備を終わらせて鞄を持って廊下に出た。
 さすがに怜音は俺に気づき、彼女たちの間を縫うように出てくると俺に挨拶をしてきた。
「おはよ」
「…………おはよう」
 声を出すと、俺の眉間に皺が寄ったのが分かった。朝っぱらからご機嫌な怜音がとても腹立たしい。俺は鞄をロッカーに入れ込んだ。
「何話してたの」
 自由って言葉はなかなか手に負えない。消え去ることも、走らないって決めるのも、怜音が女子に囲まれて鼻の下を伸ばすのも、全て自由だった。自由の前では、俺の気持ちなんて、空気中を漂うほこりよりずっと軽いように思えた。
「誕生日おめでとうって言われてただけだよ……もしかしてさ、焼いてる?」
 ずいぶんと嬉しそうな怜音に俺の眉間の皺が五ミリほど深くなったように感じた。怜音は相変わらずの糖分過多だった。
「甘すぎて胸焼けを起こした」
「……はい?」
 俺が教室に戻ると、怜音は俺の後ろから不思議そうに尋ねた。
「苦手なのに、朝から甘いもの食べたの?」
「うん。もう苦手じゃなくなったからさ」
「胸焼けおこしてるくせに?」
 君を食べて絶賛胸焼け中。俺は机に肘をつき、手のひらに顎を乗せると、隣の席に座った怜音を眺めた。少しは他の人にその甘い香りをまき散らすのを控えてほしい。

23章 相槌は誠実に ― 樹姫 ―

 週末の映画館はかなり混んでいたが、チケットを予約しておいたので、苦労することなく席に着けた。怜音は主役の声優が気に入っているらしく、「すごく楽しみ」と上映前から興奮を隠せずにいた。そんな顔を見ながら、俺は彼にプレゼントをいつ渡すべきか、考えていた。帰り際? それともこのあと、お茶を飲んだあたり?
 上映が始まると、怜音は真剣そのものの顔でスクリーンを見ている。上映時間は二時間半と、なかなか長めで、俺は自分の手を握ったり開いたりしていつ手を握ろうか、スクリーンに顔を向けながらずっと悩んだ。おかげでちっとも内容が入ってこない。一時間経ったころ、俺はそっと怜音が腹の上で組んでいた右手を取ると、肘掛けに置いてその上に自分の手を重ねた。映画を集中して見ているであろう怜音の手を握るのは、いかがかとも思ってはいるんだけど、もう半分近く我慢したからいいような気もした。
 隣から怜音の小さな笑いが聞こえたが、彼の指がするっと動き、俺の指に絡んだ。予想外で、しかも怜音の乾いた指が撫でるように俺の指の間を滑っていくから、手の感覚だけが異常に鋭くなってしまい、俺の手はびくっと震えた。ちらっと左を見ると、いたずらっ子のような笑顔を浮かべた怜音も俺を見ていて、俺は何とも言えない気持ちに耐えかねて、目を逸らしてスクリーンを見た。
 でも見たところで、怜音の手の温かさと生々しさに俺の全感覚は持っていかれて、内容なんて一つもつかめない。主人公の名前以外、何一つ覚えられないまま、エンドロールが流れ始めた。俺たちは映画館近くの老舗みたいな古くて味のある喫茶店で注文を済ませると、怜音のとどまるところを知らない早口の感想発表会が始まった。怜音の感想を聞けばあらかた内容が分かるかとも思ったが、怜音が感動した場面と声優の演技力と原作である漫画との比較で、映画の全容は到底理解できそうになかった。
運ばれてきたケーキと飲み物がすべてなくなるころ、彼はようやく一通り話し終え、満足そうに締めくくった。
「すごいよかった……」
 俺は頷くことしかできなかった。ここで「見てなかった」と白状すれば、怜音は怒るだろうし、その上間違いなく来週も怜音と同じ映画を見る羽目になる。
今は喫茶店の赤いベルベット張りの席でくつろげているからいいが、身動きの取りにくい映画館の椅子で二時間半を過ごすのは、やはり苦痛だった。
「最後、主人公があの子と一緒にいるために、進む道を変えたよね。あれは夢を諦めたんじゃなくて、好きな人といられる道を選び直しただけだと思うんだよね」
そうなんだ。俺は「うん」と答えた。
「俺も、ああいうときは同じことをすると思う。でも樹姫もそれでいいって思わない? 一緒にいられるのが大事だよね」
「そうだね」
怜音は俺の反応を満足そうに眺めると、飴色に磨かれたテーブルへ腕を乗せ、少し身を乗り出した。
「ところで樹姫の進路ってどうなってるの」
 進むべき路と書いて、進路。俺はもう前からだいたい決めていた。
「理工学部の建築学科に行きたいって思ってる」
「えっ! 音大じゃないんだ」
 音大は興味がない、と言うと俺の家族ですら驚愕した。たぶん俺をよく知る人は全員『えっ!』って声を上げるんだろう。そんなに俺は音大に行きそうな人間に見えるんだろうか。とても不思議だ。
「人前で弾くなんて嫌だよ。俺は大事な人たちに伝えたいだけだから」
「ぶれないなぁ。でもよかった。音大じゃ俺、行けないから」
 どういう意味だ? 怜音は笑いながら、「俺、樹姫と同じ大学に行こうって思ってるから」と言った。彼が日本にまた来てくれる可能性があると分かると、嬉しさが全身からにじみ出ていくのが分かった。俺もフィリピンの大学を一応調べたが、ホームページを開いた時点で英語に土下座し、そっとタブの×を押した。ページごと翻訳するという手もあったが、入学したらこれに立ち向かわなければならないのだ。渡航初日に泣きながら日本へ逃げ帰る未来しか見えない。
 俺はスマホで志望校のホームページを開いて見せた。私大マンモス校だからたぶん怜音が興味ある学部もあるはずだ。
 案の定、怜音は「すごいいっぱい学部があるね」と驚いたような声を上げた。
「キャンパスも日本中にあるんだ」
 学部によっては、怜音が他県のキャンパスに通うこともあるだろう。それでも週末や連休を使えば、フィリピンよりずっと会いやすい。進学先によっては、俺も運転免許を取った方がいいかもしれない。俺が教習所に通う費用と時期を考えていると、怜音は不服そうにつぶやいた。
「学部が違うとここまで距離があるんだ」
 俺がスマホから顔を上げると、怜音は日本中にキャンパスを散らばせた地図を見ながら顔をしかめていた。
「いっそ同じ学部にしようかな……」
 ん? 
「怜音、建築学に興味があったのか?」
 そんなふうには見えなかったけどな。
「俺は建築学の中でも、建築音響を勉強したいんだ。ホールの中で音がどう響くのかとか。怜音も興味あるのか?」
「いや、ない」
 ないって。俺も彼の言いたいことが、だんだん分かってきた。
「もしかして自分のしたいことないのに、俺と同じ大学に行こうとしてる?」
すると怜音は朗らかに笑って、こともあろうことか頷いた。
「樹姫のそばにいることも、俺のしたいことの一つだからさ。同じキャンパスへ通える学部だってあるよね? そこから選んでもいいし」
「もし俺が北海道の大学に行くって言ったらどうすんの? 雪国だよ? 怜音、寒いの苦手って言ってたよな?」
「北海道って、家の中は逆に温かいらしいよ。それにそこまで遠いなら、なおさら俺も北海道に行くよ。せっかく日本の大学に行くのに、離れて暮らしたら意味がないよ。そしたら一緒に住めるね」
一緒に住むのは素敵だけどさ、その進路の決め方はだいぶ怖い! 俺を物差しにして、君の進路を決めないでくれ。
「そんな選び方したらダメだよ。俺は、怜音の人生の責任まで取れないよ」
俺が慌てて手を振ると、彼は意外そうに瞬きをして、困ったように眉をひそめた。
「責任を取れって言ってないけど? なんの責任なの?」
「そんな理由で大学を選んで、万が一、俺たちが別れたらどうするんだよ。なんのために行ってるのか分からないじゃないか」
怜音は『別れたら』というところでちょっと不機嫌な顔になって俺を軽く睨んだ。
「別れないようにするんだろ? 付き合って一週間も経ってないのに、『別れたら』ってひどいよ」
「ごめん、それは俺が悪い。別れないように俺は死ぬほど努力するけどさ。でも『別れる』って可能性はゼロパーセントにならないだろ」
俺の言いたいことが伝わらない。怜音も俺と同じように理解してもらえないもどかしさがあるのか、少し声が苛立ち始めた。
「その考え方って『別れる』っていうのを前提にしてるよ。樹姫は離婚前提で結婚するわけ?」
同性だから結婚できなくない? いや、そうじゃない。そんなことが言いたいわけじゃなくて。
こんなに平行線になるってある? まずいな。怜音がだんだん腹を立て始めている。でも俺も引くに引けなくなっていた。俺は彼に自由に生きてほしかった。だって君の背中には天使の羽が生えているんだから。
「俺は怜音のそばにいたい。でも、夢は一人でも追えるものでないと駄目だよ。誰かに頼って決めたら、その人がいなくなったときに、何もできなくなるから」
そばにいたいとは願っている。でも、将来何が起こるか分からない以上、「絶対」なんてあり得ない。俺の言葉を聞くと、怜音はひどく暗い顔になった。
「それって俺の陸上のこと、言ってる?」
予想外のことに驚いて思わず俺は言葉を詰まらせたが、すぐさま首を振った。だが彼の表情は変わらなかった。
「頼る人って景近のことじゃないの」
「全然、そんなことは思ってない」
「何もできなくなってるよって言いたい?」
「違うって。そうじゃなくて俺は怜音が心配――」
怜音は苛立った声を俺の言葉に被せた。
「自分がしたいときはキスして、俺を『ほしい』って言うのに、俺がそばにいたいって言ったら『責任は取れない』って言うんだ」
怜音のこの怒り方はやばい気がする。胸の奥がひやりと冷えた。付き合い始めて一週間弱で、人生初の愛しい人をかなり怒らせている。しかもすごく『まったくその通りでございます』的なことを言われてしまっている。
目の前の愛しい人がこんなふうに怒るのは今回が初めてではなかった。怜音は苛立った顔に傷ついたような色が浮かべた。
「さっき、樹姫はそれでいいって言ったのに」
「……え?」
 何がなんだか分からずに思わず聞き直すと、怜音は俺を睨みつけた。
「映画の話のとき。好きな人と一緒にいるために道を選ぶって、それでいいって言ったよね」
「……」
とても気まずい。きっと道を選ぶこと、という前に何か出来事があって、映画ではそうなったんだろうけど、見ていないから何ともコメントできない。だが今さら見てませんでした、とも言えなかった。俺が二の句を継げずにいると、怜音は「もういいよ」とぴしゃりと言い放った。
「樹姫が俺に対して、そんなにいい加減だとは思わなかった」
いい加減に考えたことなんてないよ。頭の中では慌てて右往左往しているのに、俺の体は動き方を忘れたように固まっていた。そんな俺を見て、怜音は冷ややかな声を出した。
「だったら、俺が樹姫のもとを離れるって決めても、それは俺がしたいことだからオッケーなんだよな?」
「えっ……」
全然オッケーじゃない。反射的に首を振ると、怜音の顔は怒りを通り越して無表情になった。
「……自分で決めていいって言った癖に、自分に都合の悪いことは駄目なわけだ」
彼は立ち上がって鞄を肩に掛けると、俺を冷たく見下ろした。その視線だけで俺は凍ってしまいそうだ。
「話したくないと思うのも、俺の意思だから。それも認めてよ」
「怜音、俺は――」
「じゃあ、付き合いたくないって言ったら?」
ショックのあまり俺が言葉を失うと、彼は伝票をつかんでレジに向かい始めた。俺の分まで会計を済ませた怜音は店を出ると、街中だというのに、人波の隙間を縫うように駆けていった。もちろん、俺に追いつけるわけがない。そもそも、走ろうと一歩俺が踏み出したそのときには、もう彼は手が届くような場所にいなかった。
初デートでここまで言わせてしまう俺って一体……。立ち尽くした俺の鞄の中には、渡すタイミングを失った誕生日プレゼントが、間抜けなことにそのまま残っていた。
俺は重い足取りで家へ帰ると、リビングのソファーへ倒れ込んだ。のろのろと鞄からスマホを取り出し、家のステレオにつないでロックミュージックを流した。姫がはまっていた曲だ。当時の俺は嫌いだったのに、何度も聴くうちに好きになっていた。
そう、俺は変われる。怜音を傷つけてしまった今からでも、変わった姿を彼に見せられるはずだ。
ただ、どう変わればいいのかが分からない。怜音の『樹姫ファースト』と、どう向き合えばいいのかも。
俺は姫たちに思いを馳せた。あんなにも美しく去っていった二人に比べ、俺はなんと見苦しく、人生をじたばたともがいて生きているんだろう。それでも、これから怜音とぶつかるたびに悩み、無様に彼の後を追いかけていく未来しか見えなかった。
でも怜音。頼むから、物理的に走って逃げないでほしい。それでは俺は一生捕まえられない。
ロックギターの、鉄がこすれ合うような重い音が、今日はやけに身に染みた。

24章 彼なりの向き合い方 ― 怜音 ―

 散々だった初デートから帰ってくると、俺はベッドに横になり、天井を見上げた。シーリングライトのカバーの中に、小さな虫の死骸がいくつか落ちていた。光に引かれて入り込み、出口を見つけられなかったのだろう。樹姫なら、これに気づいた瞬間、カバーを外して洗い始めるんだろうけど、別にそこまで気にならない俺は、虫の死骸を眺めながら、ぼんやりと樹姫の言葉を思い出した。
俺は彼の一番そばにいたいし、できるだけ多くの時間を一緒に過ごしたいと思っているのに、樹姫はどうやら違うようだった。
俺は、今何か真剣に打ち込みたいと思うことがない。どんな学部に行っても、それなりに楽しく過ごせる自信があった。だからこそ、樹姫との関係を一番に考えたのに、『怜音の人生の責任まで取れない』とまで言われてしまうなんて。
再び腹が立ってきて、俺はライトのリモコンを手に取ると、これ以上虫たちが光に恋焦がれて自ら身を滅ぼさないように電気を消した。暗闇の中でじっとしているとなんだか全部があほらしく思えてきて、俺は目を閉じた。なんだってこんなにいつも樹姫と話すとうまくいかないんだろう。
 しばらく俺は樹姫と話さず学校で過ごした。前回のように樹姫は俺を見てくることもなく、淡々と学校で過ごしているように見えた。
『責任取ってよっ』
 俺が泣きながら言った言葉に、あいつは『すまない』と言った。樹姫も『責任まで取れないよ』と言う。彼はこのまま俺に話しかけず、本当にあいつみたいにいなくなっていくんだろうか。
 水曜日にもなると、俺はだいぶ落ち込んできた。もっと詳しく樹姫の言いたいことを聞けばよかったのか、と後悔するも、平行線で喧嘩がエスカレートする予感しかしなかった。
 四時間目の音楽で俺はすでに椅子に座ってクラスメイトと話していたが、あとから樹姫が教室に入るのが目に入った。俺は極力彼を視界に入れないように気を付けながらそのまま話していたが、彼の少し大きな声がピアノの方から聞こえてきた。
「あの……みんな、俺、ピアノ弾いてもいい?」
 あの樹姫がみんなの前でピアノを弾く? 遂に気でも狂ったんだろうか。樹姫の場合は、ありえないことではない。クラスメイトも違和感を覚えたのか口々に彼へ言葉を返した。
「どうしたんだよ。今までどんだけ頼んでも弾かなかったのに」
「リクエストしてもいいの?」
 樹姫はちょっと照れくさそうに微笑むと「弾くの決めてるから」と俺が聞いたことのない曲を弾き始めた。なんだか躍動感がある曲だった。低い音から高い音へと何度も上がっていく。緊張感もあるのに曲自体が明るくて、俺は彼はいったいどんな気持ちをこの曲に込めているのかと不思議に思った。
 姫がいなくなって弾くのが下手になったと言っていたが、いざ聞いてみると俺からしたら何ができなくなったのかがさっぱり分からないほど樹姫の演奏は相変わらず完璧で、俺は思わず顔をそむけた。最後、勢いよく音を響かせて弾き終わると、音が消えた一秒後に拍手が起こった。
「すご……」
「だいちゃん、上手だなぁ!」
「この曲なんて言う名前?」
 樹姫は「シューマンの《飛翔》」とそれだけ言った。俺は先生が入ってくるはずの教室のドアが動く気配がないのを苛立ちとともに眺めた。先生が怠慢なせいで、彼がどこかへ旅立ってしまう予感までしてきた。
「あの、もう一曲弾いていい?」
 少しためらうような樹姫の声がまた聞こえ、俺は『全然聞きたくない』と心の中で答えた。それなのに、みんなは嬉しそうな歓声を上げ、再びうんざりするほど美しいピアノの音が響き始めた。
俺は顔を伏せて聞いていたが、どこかで聞いたことがある気がして、つい顔を上げた。窓から差し込む白い光が、黒いピアノの表面に細長く伸びている。その向こうで、樹姫が俯くように鍵盤へ向かっていた。
 とても甘い、まるで恋人をダンスに誘うようなその曲は――。
あの夜の満月と光が溢れかえる世界がよみがえった。その曲をここで弾くのか。目を背けようとした瞬間、樹姫が顔を上げて俺を見た。数秒間見つめ合うと、彼は鍵盤へ視線を戻した。その後も彼は弾きながら、何度も俺に視線を送ってくる。何が言いたいんだよ、それは――。
途中で先生が教室に入ってきたが、樹姫が弾く様子を見ると、先生まで椅子に座って鑑賞し始めた。たぶん、それぐらい彼らにとって上手なのかもしれないけど、何度も顔を上げるからか、それとも集中できていないのか、俺にはこの前弾いたときより、少し下手に感じた。樹姫は赤く染まった顔を苦しそうに歪め、曲を最後まで弾ききった。いつも『なんでもない』ようにピアノを弾く彼には珍しい、余裕を失った表情だった。
「ラブロマンスみたいな曲だね」
「その曲、聞いたことある」
クラスメイトが口々に感想を述べる中、赤い顔をそのままに、樹姫は無言で勢いよく立ち上がり、突然大きな声を張り上げた。
「これはっ!」
その声と表情が怒っているようにも見えて、みんなが困惑して一瞬黙ると、その静けさのなか彼はここ一番の大声を出した。
「……あ……相原君に弾きましたっ!」
あの樹姫がこのタイミングで俺の名前を出すなんて……。何を言えばいいのか分からない俺に樹姫はちらっと視線を送ったが、彼も声を出すことができないのか、それとももう言うことがないのか、樹姫は崩れるようにピアノの椅子に座り込んだ。クラスのみんなは何とも言えない顔で俺と樹姫を交互に見た。
「あの、だいちゃん。……曲の題名は何?」
 女子の一人が躊躇いながら聞いたが、樹姫は膝に肘をついて顔を伏せ、息を整えるだけで精いっぱいの様子だ。そんなにダメージ食らうなら演奏なんてしなきゃいいのに、そう思ったのに、俺の口は知らずと弓なりに上がっていた。
 この曲を俺に向けて、みんなの前で弾く。それが樹姫にとってどれほど勇気のいることか、分かっているのは、きっとこの場で俺だけだった。
「……《愛の夢》。曲名は《愛の夢》っていうんだよ」
 俺が代わりに答えてあげると、教室にはみんなの叫び声が響き渡った。先生が我に返ってみんなを鎮めるまで、音楽室はちょっとしたお祭り騒ぎだった。

25章 繋ぎとめるなら一緒に ― 樹姫 ―

「極端なんだよ、樹姫は」
 いくらかお怒りが収まったのか、怜音は俺にそう声をかけてから、「いただきます」と几帳面に手を合わせ、弁当箱を持ち上げた。俺は食欲が完全に萎えて、いつもの四階の小さな踊り場の壁に背中を預けた。
「……俺の気持ちは本物だって怜音に言いたかっただけ……そばにいてほしいって」
 誰に何を言われても、俺は怜音と一緒にいたい。その覚悟を演奏にして、怜音に見せたかった。
「でも最初の《飛翔》も怜音に捧げたんだよ。自分の道を選んでほしくて」
その気持ちは少しは怜音に伝わっている……と思いたい。そうじゃなかったら自主的に、かつ積極的に行った公開処刑になってしまう。
「だから……大学なんだけど――」
「もういいよ」
 怜音が俺の言葉に被せてきて、俺はまだ彼が怒っているのかと思って向き直った。
「怜音、聞いてくれよ。大学の件、言い過ぎてごめん。俺の言い方も悪かったし」
 彼は何も言わず、箸を置いて俺をじっと見ている。
「俺はもし怜音が俺から離れていくとき、『樹姫と付き合わなきゃよかった』って言われそうで怖かっただけ。俺のために大学選んだのに、どうしてくれんだよって……」
「俺のこと、分かってないね」
 怜音はそれだけ言うと弁当を再び食べ始めた。怜音は俺と違い過ぎて、正直分かりにくい、と内心思ったが、これをそのまま言うのはよくないと、だいぶ学んだ俺は口を閉ざした。そんな俺を見て、怜音はまた箸を置いた。
「樹姫のためじゃないってこと。俺のために、樹姫のそばにいたい。でも樹姫が言いたいことも考えたから……ちゃんと俺のやりたいことを探すよ」
 怜音にしては素直な言葉だった。こういう喧嘩のあとは大概拗ねるのが怜音なんだけど、と思っていると、「そしたら日本に来れないかもね」とやはり拗ねてそっぽを向いた。
「そのときは、俺が夏休みにフィリピンへ行くから」
 冬休みも春休みも、全ての休みをつぎ込むよ。
「樹姫は遠距離恋愛、舐めすぎ」
 怜音はまだ少し不機嫌な声で答えると、弁当を食べ続けながら俺に冷めた視線を送った。
「どれだけ頑張っても、目の前にいなかったらどうしてもうまくいかなくなるんだよ」
「……経験談?」
「うん。そうなりたくないから、ああ言ったんだ」
「なら、そう言ってくれればよかったのに」
「責任取れないって言ったの、樹姫だろ」
 俺はうっと詰まったが「ちゃんと、取ったよ」と答えた。
「怜音を愛おしいと思ったことを、俺なりのやり方で」
 怜音はじっと俺を見ていたが、ほんの少し微笑んだ。
「それがみんなの前での告白?」
「告白じゃない。あれは演奏。みんなの前で言ったのは講評。でも……君が世界で一番愛おしいって気持ちを込めたよ」
「……違いが分からない」
 怜音は軽く笑うと俺の弁当を指さした。
「食べなよ」
俺は弁当を大食漢の怜音に渡した。
「怜音が食べてよ。俺は食欲ない」
 すると彼は仕方ないな、とでもいうように、弁当を開けると、ご飯を一口分箸でつまみ、俺の口元へ差し出した。
「はい。俺が責任もって食べさせてあげるね」
「……怜音の責任って何?」
「俺は樹姫と一緒にいられるようにするだけ。それを責任なんて言葉にしたくないな」
 俺は差し出された飯をぱくりといただき、もぐもぐと口を動かした。俺たちは、なんて真逆の人間なんだろう。たぶん、また喧嘩する。そんな予感をしながらも、俺はポケットから小さな箱を取り出した。
「誕生日、おめでとう」
 ようやく渡すことができて、俺は肩の荷が下りたように感じた。
「ありがとう。開けてもいいの?」
 俺が頷くと彼は小さい箱の包装を取って箱を開けた。中に入っていたピアスを手に取ると、怜音は耳に当てて「似合う?」と笑いながら聞いてきた。
「すごく」
 怜音と出かけたときに、彼が長い間見ていたピアスだったので外れがないはずだ。彼にしては珍しい、薄い藤色のかわいらしい小さなピアスだった。
「俺がずっと見てたの、気づいてたんだね」
それはもう。
「なのに、映画は全然見てなかったんだ」
 俺はぐっと詰まった。
「あの、あれは……どこで手を繋ごうか、と……それで、見られませんでした。だから内容も分からず……」
 怜音は俺があげたピアスを彼の耳につけていた。学校でつけると怒られるよ、と言いたかったが、彼の目がまだ俺の目から外れないので、俺は平身低頭で言葉を続けた。
「そして……そう言うと、怜音にまた同じ映画に連れて行かされそうで……言い出せませんでした」
「ひどいね」
「おっしゃる通りで……」
「ちゃんと言ってよ。俺も無理やり連れていくことはしないから」
「はい……ごめんなさい」
怜音の耳には今や、小さな花のような薄紫のピアスが、すまし顔でちょこんと居座っている。怜音はそのピアスを指さした。
「俺がこのピアスを見ていたのは、樹姫に似合うって思ってたからだよ」
……え。
 俺がハニワのような間抜けな顔をしたんだろう。怜音は吹き出すとおかしそうに笑い始めた。
「樹姫は薄紫色のイメージなんだ。だから買ってあげたいって思って見てた。ね? ちゃんと言わなきゃ分からないだろ?」
 うわぁ。俺やらかした……。いつもどおりとはいえ、あまりの失敗にガクッと肩を落とすと、怜音は優しい声を出した。
「でも俺にも似合うって思ってるんだったら、それでもいい。似合ってるんだよね?」
「……ファンクラブができそうなぐらい似合ってるよ」
彼は俺の耳に手を伸ばし、耳たぶにそっと触れた。
「樹姫に買わなくてよかった。樹姫が女子に囲まれてるとすごく腹が立つから。でもさ、ピアス、開けないの?」
「痛いの嫌だから。……あんまり触らないで」
 今日の騒動は確実に川やんに届いているだろう。いつ先生が見回りに来ても大丈夫なようにしていたかった。川やんと学年主任と生徒指導室で『相原と何してたの?』って聞かれるのは地獄だろ。怜音が悲しそうな顔をするので、俺は慌てて「そういう意味じゃない」と言葉を重ねた。
「先生が見回りに来ると思う。見つかったら俺も怜音も磔の刑に遭う」
 こういった俺の勘は間違いなく当たるんだ。すると怜音は納得したように俺に微笑んだ。そう、俺に足りないのは、こういった言葉なんだ。いちいちチャットに、俺の言葉が彼にきちんと伝わるかどうかを聞いている暇なんてない。怜音が困らないぐらいには、脳みそにあるものを言葉に変換して、口から出せるようにならないと。
「怜音、ピアスをつけっぱなしにすると、先生に没収されるよ」
 彼はぶつぶつと日本の学校制度に文句を言いながら、両耳のピアスを外した。自分の思い通りにならないと他人のせいにするのは相変わらずだ。
「今日一緒に帰れる?」
 数日ぶりに怜音と話せるようになったばかりで、もう少しその声を聞いていたかった。だが、怜音はあっさりと首を横に振った。
「無理」
 あぁ……。てっきり「いいよ」と言ってくれると思っていた俺は、ガクッと首を垂れた。怜音はそんな俺を見ながら弁当箱を片づけ、言いづらそうに切り出した。
「今日は陸上部に顔を出してみる」
 意外な言葉に俺が顔を上げると、怜音はいつもの優しい目で俺を見ていた。
「なんで陸上部? 走るの……嫌そうだったけど」
「嫌だよ。今の自分がどれくらい走れるのか、確かめるのは怖い」
「それでも、行くのか?」
「あの《愛の夢》の演奏を聞いたらね。前に俺が告白した夜も、同じ曲を演奏してくれたよね。あのときの方が上手だったと思う。今日は、樹姫が緊張していたのがすごく伝わってきたから」
 彼は俺を愛おしそうに見つめた。
「でも、俺にとっては今日の方がずっとよかった。たまに俺のことを見ながら弾いてくれてるのが、一番うれしかった。だから、俺も完全じゃなくていいから走ろうって思ったわけ」
「そっか……」
 そんなことを言ってくれるなら、また彼のために弾こう。今度は誰もいない、二人きりの場所で。
「樹姫」
 怜音は俺の名前をゆっくりと呼び、この上なく幸せそうな笑顔を顔に浮かべた。
「……前に、付き合いたくないって意地悪なことを言って、ごめん」
 彼は距離を詰め、俺の耳元でささやいた。耳にかかる吐息がくすぐったくて、俺が小さく笑うと、怜音は目を細めた。
「大好きだよ」
 そう言うと、彼は俺にキスをした。