愛せるのなら、君を

プロローグ 夏のとこしえから修羅の国へ ― 怜音 ―

 俺は見つけなければならない。隣を漂う幽霊が幾年月も探している姫を、一年以内に。
「俺、すごく頑張ってるって思わない? 見つけるのって結構大変だよ。そう思うだろ?」
 幽霊――景(かげ)近(ちか)――は、「だから無茶をせんでもよいと言ったろう……」と、これ見よがしに大きなため息をついた。
「そしたらお前、俺が死ぬまでずっと取り憑いたままだろ」
俺の横を通り過ぎようとした人が、いぶかしげな表情を浮かべた。残念ながら、彼には景近が見えないのだろう。わざわざ俺から距離を取り、すれ違いざまに、正気かどうかを確かめるような目でこちらを見た。俺は慌ててイヤホンをつけ、通話しているふりをしながら、もう一度景近に話しかけた。
「なあ、景近。成田行きって、ゲート何番って言ってたっけ?」
「ちゃんと聞いておけ。百十五番だ」
「聞いてたけど、家族との別れですっ飛んじゃっただけ」
 彼が顔をしかめると、焼けただれて赤黒くなった顔の一部が、すすとなって空港のつるりとした白い床に落ちた。
「ホントに姫って日本にいるの?」
「……分からん」
俺は出国手続きを済ませると、足早に搭乗ゲートへと向かった。
 日本に行こうと決めたのは、景近を成仏させるためだった。成仏したくないからか、何が未練なのかという話になるとこいつの口はやたらと重くなる。
ようやく聞き出せたのは、こいつが四百年ぐらい姫を探していることと、城主から命じられた「姫を守れ」という役目を果たせなかったことぐらいだ。なら、姫を見つけてもう一度会わせてやれば、四世紀かかった捜しものもようやく終了。さあ、ここで成仏タイムだ。バイバイ、景近。俺が死んだらあの世でまた会おう。
景近は俺に取り憑いているため、行動範囲は俺の周辺に限られる。だからこそ俺がせっせと働きアリのごとく動いているのに、本人は『分からん』ときた。
「お前も適当だなぁ……ところで、景近」
 俺は通路が二手に分かれているところで足を止めた。
「ゲート何番だっけ?」
「……百十五」
 確認しただけなのに、随分と景近の視線が冷ややかだったので、俺は「サンキュー」とウインクを飛ばした。俺はだいぶ景近のために動いているはずなのに、やつはうんざりしたように天井を仰いだ。

 飛行機を降りると、日本は灼熱地獄だった。卵のような体形のホストマザーが人のよさそうな笑顔で迎えに来てくれて、一緒に空港を出るところまではよかったんだ。だがいったん空港を出ると、殺人的な陽射しが否応なしに俺の全身を照りつけた。バス乗り場へ向かう途中、電光掲示板を見ると、気温は三十六度。
「……あの、お母さん」
 バス乗り場の列に並んだとき、俺は汗をぬぐいつつ扇子で仰ぐホストマザーに声をかけた。
「僕の国より暑いんですけど、日本の夏は、いつもこんなに暑いんですか?」
「そうなの。近頃は猛暑が当たり前になってて。湿度もあるから余計暑く感じるのよねぇ」
 俺の頬を一筋の汗が伝い、コンクリートへ落ちていった。だが、濡れて黒くなった汗の跡はあっという間に白く消えて、ものの数秒で元通りになってしまった。……地獄だ、ここは。
 俺、レオン・フローレス・アイハラ。フィリピンから来た十六歳の高校二年生。姫を探すために日本へ留学してきたのに、俺は早くも祖国へ帰りたくなった。
ホストファミリーの家は、立川というところにあった。門には松の枝が美しく差しかかり、その奥には引き戸の玄関が見えた。白い壁に灰色の瓦屋根。まるでアニメに出てくる日本の家そのもので、俺は日本に来て初めて気分が上がった。
この家で、お父さんとお母さん、十七歳の海(かい)君と十六歳の空(そら)君、そして交換留学生の俺、この五人で一年間暮らすことになる。
「よろしくお願いします」
俺は玄関先で一礼した。そこでは、お父さんと、まるで双子のようにそっくりな年子の兄弟が迎えてくれた。挨拶を済ませ、脱いだ靴を揃えて家に上がると、体格のよいお父さんは感心したように腕を組んで頷いた。
「怜音(れおん)くん、行儀がいいな。靴を揃えて入ってくる留学生は初めてだ」
 それは景近のせいである。あいつが後ろから「靴をそろえろ」と不気味な声で言うから。日本に来た瞬間から、なんだか前よりも口うるさくなった気がして、俺はぞっとした。これ以上小言が増えたら俺は気が狂うかもしれない。
 リビングのテーブルに全員腰を下ろすと、海君は屈託のない笑顔で眼鏡の中央を人差し指で押し上げた。
「日本語、めちゃ上手だから、心配いらなさそう。イケメンだから、彼女もすぐにできるかも。でもその金髪は先生に怒られるよ」
空君は「絶対染め直せって言われる」と言うと少し前のめりになり、人差し指を宙で動かしながら、俺のピアスを数え始めた。
「すげー。両耳で九個も開いてる。かっけぇ。でもやべぇな。絶対それも先生からなんか言われるぜ」
学校の規則が厳しそうで、俺は表面上はにこやかに相槌を打ちながら、内心では早くも鬱々としていた。お母さんは二階にある俺の部屋に案内すると、クーラーの使い方を教えてくれた。
「晩御飯は六時だから、好きに過ごして。クーラーは部屋を出るとき消してね」
俺はお礼を言って頭を下げると、ベッドに腰かけた。クーラーが効き始めるまで部屋がサウナ状態だ。これは耐えられないと思って窓を開けたら、窓を開けた途端、むわっとした熱気が流れ込んできた。
「景近! 東京ってマニラより緯度が高いんだろ? なんで俺の国より暑いんだよ!」
「こんなもんだったか……とりあえず我慢しろ」
「できないって! なんで来る前に教えてくれなかったんだよ!」
 景近は呆れたように、「俺が日本を何十年前に離れたと思っているんだ」と正論を吐いた。だが正論が腹立たしさを押さえられるわけがない。
俺は日本で一年間、やっていけるんだろうか……。俺が再生してやった動画を見ていた景近は、延々と続く俺の愚痴に耐えかねたように口を開いた。
「いい加減にしろ。言っても何も変わらないだろう。少しは走って気分転換したらどうだ」
「この暑いのに? 嫌だよ。お前はYouTubeばっかり見てるくせに、なんで俺にばっかり、ああしろこうしろって言うんだよ」
俺も景近のそばに行ってのぞき込むと、画面では、ランナーたちが理想的なフォームでゴールを目指して走り抜けていた。
言われなくても走るって。姫を見つけてお前を成仏させたあとに。
どんなに暑くても、一人で、走ってみるよ。
景近は何か言いたそうに俺を見たが、出てきたのは相変わらずの小言だった。
「寝る前に、明日の打ち合わせの準備しろよ」
俺はため息をついてシャツをつかんだ。夏休み中に一度学校へ行くことになっていて、明日は担任の先生との顔合わせの日だった。お母さんにアイロンを貸してもらわないと。俺は階段をリズムよく下りてお母さんに声をかけた。皺のついたシャツなんて着たら景近に殺される。