窓の外が白く、その中で誰かが寄り添っていた。
冷たくて大きくてごつごつした手が額に乗り、優しく撫でる。
小さい頃によく見た光景に、順平は声を出す。
「父さん?」
瞬きをすると、父親が賢一に代わった。賢一は緑色の瞳を細めて、口角を上げる。
「あ、目が覚めた」
「ここは、どこだ?」
「大樹兄さんの持ち家だよ」
順平は体を起こし、幻覚を見たと眉間を揉む。もう一度、賢一の顔を見ると父親とは全然似ていなかった。どこにでもいそうなオッサンに対し、スペイン人の風貌がありながらも日本人らしい顔立ちを見間違えたなんて変な話だ。改めてみると、それなりの顔はしているなと、まじまじと見ていると賢一は照れていた。
「あ、あのね、兄貴たちが出ていった理由は……」
「2人ともストーカー被害から逃げるためだったんだろ?」
「聞いてたんだ」
「ぼんやりとな」
3人の声が聞こえ、なんとなく状況を理解した。そして、賢一がどう思っているのかも順平は何となく理解した。しかし、今は風邪をひいているのでやれることもない。傍に置かれていた水を飲み、一息つく。薬が置かれているので飲もうとしたが、袋に食後と書かれているのを見て手を止めた。賢一も理解したのか、「何か食べる?」と声をかけた。
「茶碗一杯の米に、お湯をかけてくれればいい」
「今、ご飯ないんだよね。蒸したジャガイモならすぐ出せるけど、食べられる?」
「1個ぐらいなら、多分」
「分かった」
賢一は、キッチンの蒸し器から皮付きの蒸し芋を取り出し、皿によそって軽く塩を振った。「どうぞ!」と賢一なりに丁寧に出したつもりだったが、スプーンがないことに気が付いて慌てて取りに行った。
「俺は、別に手づかみでもいいんだが」
「蒸したてだから熱いよ」
順平は試しに蒸し芋を掴んだ。確かに熱いが、触れないほどではない。そのままガブリと齧り付いた。
「旨い」
「うちで取れたやつだよ」
「そうか……」
食べなれた北海道のジャガイモの味。食べ過ぎて嫌になったほどだ。でも、今は美味しいと思う。酒を連日飲んでうるさい家から出て、まだ1週間も経ってない。それなのに、あの五月蠅い声が少し懐かしかった。
*
3日後、昼前に順平は目が覚めた。
体を起こして、襖を開けると大樹がスマートフォンで通話していた。言語は、イントネーションからして中国語だろうと思いながら、順平はトイレに向かった。用を足し、戻ってくると、通話を終えた大樹が声をかけた。
「起きて大丈夫なのか?」
「えぇ。少しだけなら動けます」
順平は、賢一がいないことに気が付いた。
「あの、保泉は?」
「うちは、全員保泉だぞ」
それもそうだ。
「あ、えっと、賢一くんは?」
「幸助と買い出しついでに、京都を見てくるとさ。動画撮影用のカメラ持ってったから、暫くは帰らないよ」
大樹は、台所で小鍋でお茶を炒り始めた。香ばしい香りがしてくると、炒ったお茶を急須に入れて沸かした湯を注ぐ。綺麗な琥珀色のほうじ茶を2人分淹れ、1つを順平に出した。
「動画撮影?」
「今の幸助の趣味だよ。富山と京都の各地を撮影して、様々な言語のナレーションを入れて、動画サイトに投稿したり、放送したりしてるよ」
「幸助さん、配信者だったんですか?」
「あぁ。元々は釣りの配信をやってたみたいだが、今の方が再生数あるらしくてな。収益化も通ったし、私も自分の仕事に繋がるから参加させてもらってるよ」
大樹はスマートフォンで、幸助のチャンネルを見せた。『こーすけ和本舗』というチャンネルで、登録者が20万人を超えていた。「に、にじゅう!?」と順平も驚きで声を上げた。動画の配信者なんて珍しくもない。しかし、20万を超えれば普通のサラリーマン並みに稼いでいる。
「もしかして、一緒に仕事する理由ってこれですか?」
「それもあるがね」
大樹は、ほうじ茶を飲む。一息つき、何も言わない。急に冷たくなった空気に耐えられず、順平もほうじ茶を飲んだ。
「このお茶、美味しいですね」
不器用な作り笑いを浮かべて褒めるが、大樹は何も言わなかった。
遠くで車が通る音、通り沿いの人の声、鳥の鳴き声。外の音と混じりながら、柱の古い時計の針のカチカチと音を鳴らす。カチンと大きく音が鳴った時だった。
「君、襲われた経験があるだろう?」
「っ!」
どうして知っているのかと立ち上がるが、大樹は静かにほうじ茶を飲む。
「言っておくが賢一から聞いたわけじゃない。私もそうだから」
「えっ」
丁度12時になったのか、柱の時計が鳴る。部屋に響き渡り、キツネのような大樹さんは順平に座るように目線で訴える。言われるがままに座ると、大樹さんはお茶を置いた。
「15の時だ。私と幸助は、夏休みに東京に引っ越した友人の家に泊まることにしたんだ。丁度、花火大会をして、友人の家族と私たち兄弟で見に行ったんだ。人混みが凄くてね。気がついたら、見知らぬ男にトイレに連れ込まれたんだ」
まるで他人事のような口調だった。
「当時の私は線が細かったから、抵抗できなかった。事を終えた後、男は写真を撮って去っていった。私はボロボロになって外に出て、探し回った幸助に合流した。その時、なんて言ったと思う?」
順平は自分の時のことを思い出す。
「何も、なかった」
「そうだ。私も『何もなかった』と言ってしまったんだ」
大樹さんの顔に影が差す。
「しかし幸助には嘘がバレてね。すぐに警察に連れていかれた。幸い、相手の顔は覚えてたし、私の体に証拠である体液が残ってたから逮捕されたよ」
逮捕されたから終わったと思うだろう。しかし、そのあとも生活は続く。秘密にしてしまったことや、当時の出来事を思い出して苦しむ。順平も苦しんだが、台風のような姉という存在が過去なんて思い出す暇がないほどの強烈な思い出で塗りつぶしてくれた。では、大樹はどうなのかと順平は思った。顔の影が、より濃くなる。
「鍛えるようにはしたが、気が付けば私は人の道を外れてしまったんだ」
「え?」
「私は、私の事を一番に理解し、助けてくれて支えてる人を好きになってしまったんだよ」
あいまいな表現ではある。だが、その対象を順平はすぐに理解できた。大樹は、理解していることを承知で話を続ける。
「当時はそれが形になっていたのが嬉しかった。でも、幸助はどうだったのかと思いたって止めるように彼女たちに言ったんだ」
祝福されない、叶わない、呪いのような恋心。
一時の気の迷いで形あるものになった幸せではあるが、長く続いてはいけないと終止符を打った。大樹は、窓の外から見える青空を見つめる。
「坂本さんは、理解してたのかもな」
過去の栄光だけじゃなく、叶わない恋をかなえてあげようとしたのかもしれない。大樹の申し訳なさそうな表情に、順平は首を横に振った。
「そうだとしても、付き纏われて他人に危害を加えるのは違うと思います」
どんな事情があったとしても、他人を傷つけてしていいはずがない。順平は、そう思って前を向く。
「確かにそうだな」
大樹は、柔らかく微笑んだ。
同じ傷を持っている者同士で話したかったのだろう。
この気持ちを誰かに言いたかったのだろう。
苦しみから救われたかったのだろう。
その結果の微笑だ。
「幸助と賢一には内緒にしておいてくれな」
「はい。幸助さんにも保……賢一君にも話しません」
「ありがとう」
大樹さんのスマートフォンに通知が鳴った。
「2人は外で食べてくるらしい。せっかくだから、おうどん食べるか?」
「はい」
大樹さんは、京都風のきつねうどんを作ってくれた。澄んだ出汁、刻んだお揚げ、九条ネギ。シンプルな料理だった。
「いただきます」
「いただきます」
北海道と違い、薄味ではあるが出汁が効いている。風邪の時にいいなと順平は思いながら食べていると、大樹のうどんの量が3倍ほど多いことに気が付いた。呆けていると、大樹さんは口元を隠して飲み込んだ。
「言っておくが、これでも私は他の兄弟たちよりも食が一番細いからな」
「あ、はい」
賢一は父方の叔母の子供なので、全く血が繋がっているわけじゃない。
保泉家の血筋を、順平は初めて感じた。
冷たくて大きくてごつごつした手が額に乗り、優しく撫でる。
小さい頃によく見た光景に、順平は声を出す。
「父さん?」
瞬きをすると、父親が賢一に代わった。賢一は緑色の瞳を細めて、口角を上げる。
「あ、目が覚めた」
「ここは、どこだ?」
「大樹兄さんの持ち家だよ」
順平は体を起こし、幻覚を見たと眉間を揉む。もう一度、賢一の顔を見ると父親とは全然似ていなかった。どこにでもいそうなオッサンに対し、スペイン人の風貌がありながらも日本人らしい顔立ちを見間違えたなんて変な話だ。改めてみると、それなりの顔はしているなと、まじまじと見ていると賢一は照れていた。
「あ、あのね、兄貴たちが出ていった理由は……」
「2人ともストーカー被害から逃げるためだったんだろ?」
「聞いてたんだ」
「ぼんやりとな」
3人の声が聞こえ、なんとなく状況を理解した。そして、賢一がどう思っているのかも順平は何となく理解した。しかし、今は風邪をひいているのでやれることもない。傍に置かれていた水を飲み、一息つく。薬が置かれているので飲もうとしたが、袋に食後と書かれているのを見て手を止めた。賢一も理解したのか、「何か食べる?」と声をかけた。
「茶碗一杯の米に、お湯をかけてくれればいい」
「今、ご飯ないんだよね。蒸したジャガイモならすぐ出せるけど、食べられる?」
「1個ぐらいなら、多分」
「分かった」
賢一は、キッチンの蒸し器から皮付きの蒸し芋を取り出し、皿によそって軽く塩を振った。「どうぞ!」と賢一なりに丁寧に出したつもりだったが、スプーンがないことに気が付いて慌てて取りに行った。
「俺は、別に手づかみでもいいんだが」
「蒸したてだから熱いよ」
順平は試しに蒸し芋を掴んだ。確かに熱いが、触れないほどではない。そのままガブリと齧り付いた。
「旨い」
「うちで取れたやつだよ」
「そうか……」
食べなれた北海道のジャガイモの味。食べ過ぎて嫌になったほどだ。でも、今は美味しいと思う。酒を連日飲んでうるさい家から出て、まだ1週間も経ってない。それなのに、あの五月蠅い声が少し懐かしかった。
*
3日後、昼前に順平は目が覚めた。
体を起こして、襖を開けると大樹がスマートフォンで通話していた。言語は、イントネーションからして中国語だろうと思いながら、順平はトイレに向かった。用を足し、戻ってくると、通話を終えた大樹が声をかけた。
「起きて大丈夫なのか?」
「えぇ。少しだけなら動けます」
順平は、賢一がいないことに気が付いた。
「あの、保泉は?」
「うちは、全員保泉だぞ」
それもそうだ。
「あ、えっと、賢一くんは?」
「幸助と買い出しついでに、京都を見てくるとさ。動画撮影用のカメラ持ってったから、暫くは帰らないよ」
大樹は、台所で小鍋でお茶を炒り始めた。香ばしい香りがしてくると、炒ったお茶を急須に入れて沸かした湯を注ぐ。綺麗な琥珀色のほうじ茶を2人分淹れ、1つを順平に出した。
「動画撮影?」
「今の幸助の趣味だよ。富山と京都の各地を撮影して、様々な言語のナレーションを入れて、動画サイトに投稿したり、放送したりしてるよ」
「幸助さん、配信者だったんですか?」
「あぁ。元々は釣りの配信をやってたみたいだが、今の方が再生数あるらしくてな。収益化も通ったし、私も自分の仕事に繋がるから参加させてもらってるよ」
大樹はスマートフォンで、幸助のチャンネルを見せた。『こーすけ和本舗』というチャンネルで、登録者が20万人を超えていた。「に、にじゅう!?」と順平も驚きで声を上げた。動画の配信者なんて珍しくもない。しかし、20万を超えれば普通のサラリーマン並みに稼いでいる。
「もしかして、一緒に仕事する理由ってこれですか?」
「それもあるがね」
大樹は、ほうじ茶を飲む。一息つき、何も言わない。急に冷たくなった空気に耐えられず、順平もほうじ茶を飲んだ。
「このお茶、美味しいですね」
不器用な作り笑いを浮かべて褒めるが、大樹は何も言わなかった。
遠くで車が通る音、通り沿いの人の声、鳥の鳴き声。外の音と混じりながら、柱の古い時計の針のカチカチと音を鳴らす。カチンと大きく音が鳴った時だった。
「君、襲われた経験があるだろう?」
「っ!」
どうして知っているのかと立ち上がるが、大樹は静かにほうじ茶を飲む。
「言っておくが賢一から聞いたわけじゃない。私もそうだから」
「えっ」
丁度12時になったのか、柱の時計が鳴る。部屋に響き渡り、キツネのような大樹さんは順平に座るように目線で訴える。言われるがままに座ると、大樹さんはお茶を置いた。
「15の時だ。私と幸助は、夏休みに東京に引っ越した友人の家に泊まることにしたんだ。丁度、花火大会をして、友人の家族と私たち兄弟で見に行ったんだ。人混みが凄くてね。気がついたら、見知らぬ男にトイレに連れ込まれたんだ」
まるで他人事のような口調だった。
「当時の私は線が細かったから、抵抗できなかった。事を終えた後、男は写真を撮って去っていった。私はボロボロになって外に出て、探し回った幸助に合流した。その時、なんて言ったと思う?」
順平は自分の時のことを思い出す。
「何も、なかった」
「そうだ。私も『何もなかった』と言ってしまったんだ」
大樹さんの顔に影が差す。
「しかし幸助には嘘がバレてね。すぐに警察に連れていかれた。幸い、相手の顔は覚えてたし、私の体に証拠である体液が残ってたから逮捕されたよ」
逮捕されたから終わったと思うだろう。しかし、そのあとも生活は続く。秘密にしてしまったことや、当時の出来事を思い出して苦しむ。順平も苦しんだが、台風のような姉という存在が過去なんて思い出す暇がないほどの強烈な思い出で塗りつぶしてくれた。では、大樹はどうなのかと順平は思った。顔の影が、より濃くなる。
「鍛えるようにはしたが、気が付けば私は人の道を外れてしまったんだ」
「え?」
「私は、私の事を一番に理解し、助けてくれて支えてる人を好きになってしまったんだよ」
あいまいな表現ではある。だが、その対象を順平はすぐに理解できた。大樹は、理解していることを承知で話を続ける。
「当時はそれが形になっていたのが嬉しかった。でも、幸助はどうだったのかと思いたって止めるように彼女たちに言ったんだ」
祝福されない、叶わない、呪いのような恋心。
一時の気の迷いで形あるものになった幸せではあるが、長く続いてはいけないと終止符を打った。大樹は、窓の外から見える青空を見つめる。
「坂本さんは、理解してたのかもな」
過去の栄光だけじゃなく、叶わない恋をかなえてあげようとしたのかもしれない。大樹の申し訳なさそうな表情に、順平は首を横に振った。
「そうだとしても、付き纏われて他人に危害を加えるのは違うと思います」
どんな事情があったとしても、他人を傷つけてしていいはずがない。順平は、そう思って前を向く。
「確かにそうだな」
大樹は、柔らかく微笑んだ。
同じ傷を持っている者同士で話したかったのだろう。
この気持ちを誰かに言いたかったのだろう。
苦しみから救われたかったのだろう。
その結果の微笑だ。
「幸助と賢一には内緒にしておいてくれな」
「はい。幸助さんにも保……賢一君にも話しません」
「ありがとう」
大樹さんのスマートフォンに通知が鳴った。
「2人は外で食べてくるらしい。せっかくだから、おうどん食べるか?」
「はい」
大樹さんは、京都風のきつねうどんを作ってくれた。澄んだ出汁、刻んだお揚げ、九条ネギ。シンプルな料理だった。
「いただきます」
「いただきます」
北海道と違い、薄味ではあるが出汁が効いている。風邪の時にいいなと順平は思いながら食べていると、大樹のうどんの量が3倍ほど多いことに気が付いた。呆けていると、大樹さんは口元を隠して飲み込んだ。
「言っておくが、これでも私は他の兄弟たちよりも食が一番細いからな」
「あ、はい」
賢一は父方の叔母の子供なので、全く血が繋がっているわけじゃない。
保泉家の血筋を、順平は初めて感じた。
