のこり5日、ロスタイムなし

翌朝、庄司は仕事が急に入ったとのことで家を出ることになった。賢一は寝ぼけ眼で、兄を見送る。

「ショウ兄は、今日も仕事?」
「普通の大人は毎日仕事だ」

靴を履く庄司に、エプロンをつけた順平は紙袋を手渡した。

「あの、よければコレ持ってってください」
「何これ?」
「弁当です。昨日の食材の残りを使って、すき焼きの具入りの白菜おにぎりにしました。片手で食べられるので、運転中でも食べられると思います」

紙袋の中を見ると、ラップにくるまれた塩漬けした白菜のおにぎりが3つ入っていた。

「おぉ!サンキュー!助かるわぁ」

賢一が「えぇー!」と声を上げる。

「僕の分は?」
「お前の分は朝食だ。あっちに用意してある」

テーブルの上に置かれたおにぎりを見た賢一は、いそいそとテーブルに着いた。庄司は何を思ったのか、ニヤニヤと笑う。

「なんだか、お前たち夫婦みたいだな」

どんな反応をするかと見守るが、順平は「はぁ」と反応が薄かった。

「どちらかといえば夫婦というより、親子じゃないですか?」

料理を作る親と食べる子供。「確かにそうかも」と庄司は呟き、外に出た。その時、あることを思い出し、部屋に戻って「おーい」と呼んだ。

「2人とも、空港方面には行かないようにしてくれよ」

賢一が、おにぎりを飲み込んで「どうして?」と返した。

「詳しくは言えないが、面倒ごとに巻き込まれたくなければ市内で大人しくしといてくれ」

バタンと扉を閉めて、出て行ってしまった。賢一は、「どうする?」と順平に声をかけた。順平はスマートフォンで検索して、プランを考えた。

「それ食べ終わったら、松山城と道後温泉入って、ミカンでも食うか」
「いいね、行こう行こう!」

江ノ島以来の2人だけの観光地巡りは、なんだか久々な感じがした。



*



松山城は、何度でも蘇る不死鳥のような城である。創設者の加藤嘉明が関ヶ原の戦いの功で大名になった時、正木城では手狭になったと考えて、城を築くことにしたそうだ。しかし、工事の途中で加藤嘉明が転封という現代で言うところの転勤みたいなものとなり、蒲生忠知が入封。見事に完成したものの蒲生忠知が亡くなった。それからは、徳川家康の甥である松平定行が来て、14代世襲したのだが、問題も多かった。天守が落雷にあって焼失したり、三之丸と二之丸が焼失したり、廃城処分になったり、公園になったり、放火されたり、ロープウェイ開通したりと紆余曲折ありながらも、2006年に修理工事完了した。

「なんだか凄くザックリとした案内じゃない?!」

順平の説明を聞いて、賢一はツッコミを入れた。順平は案内用のパンフレットを閉じて、ポケットにしまった。

「そもそもお互いに知ってるんだから、別に説明は必要ないだろ」
「それもそうだね。日本史の教科書に載ってるもんね」

2人は場内を散策し、スマートフォンのカメラに収めていく。順平は日本の歴史が何よりも好きというわけではないが、過去の人たちの生活はどんな風だったのかと考えを巡らせることは好きな方だった。梅の花を見ていると、賢一の方からシャッター音が聞こえた。

「上手く撮れた」

見せてくれたのは、白肌に真っ赤な口紅をした順平が赤い梅の花を流し目で見つめているような写真だった。順平は唇をこする。

「なんか俺の口が赤いな」
「クランベリージュース飲んでた影響じゃない?」
「あー、そうかも」

それから城内の展示品を見ながら、天守閣に登る。松山を一望できる場所に「おぉー」と2人は声を上げた。そしてお互いに写真を撮り合うと、他の観光客から「2人一緒に写真を撮りましょうか?」といわれ、ご厚意に甘えて並んで撮った。順平は写真を母親に送ると、「楽しんでるね!」というスタンプが返ってきた。

城を一通りした後は、道後温泉に向かった。
道後温泉といえば、黒い瓦の古めかしい屋敷というイメージがある。だがそれ以外にも別館というのが2つあって、なんと3か所回れるチケットまである。料金所で説明され、「じゃあ、それで」と1日で風呂に3回はいることが確定した。

泉質は、アルカリ性単純温泉。ぬるりとしているが、含有成分にクセがなく入りやすい温泉だ。旅の疲れが解けていくような感覚だと息を吐くと、何もかも大きな男が隣に来た。腕をやさしく掴み上げて、もみもみと揉んでいく。

「なんだかお疲れのようだね」
「運転手様ほどじゃないさ」

心地よく揉まれ、うとうととしてきた。

「体の調子はどう?」
「ぼちぼち」
「本調子じゃない?」
「ちょっと寒気がしてたが、この温泉入ったら元気になりそうだ」

賢一と一緒に風呂に入ったのは、フェリーの時以来だなと順平が屋上を見上げる。すると、ぽたりと冷たい雫が頬に落ちて、流れていく。気が付けば、旅も終盤に差し掛かっている。

「この旅が終わったらさ、俺たちどうなるんだろうな?」

ぽつりと呟いた。しかし、他の音にかき消されたのか、「え?なんだって?」と賢一が聞き返した。

「なんでもないよ」
「それならいいけどね」

賢一に腕を掴まれて、揉まれている。それなのに、全然嫌な感じはしない。父親でさえ、時々嫌だなと感じるのに変だなと思った時だった。賢一の親指が脇に触れた。

「ひぅ!」

体が跳ねて、変な声が出た。突然のことで驚いている賢一から腕を振りほどいて口を押えているが、抑えていないと色々と出てきそうだった。全身が沸騰しそうだ。

「さ、先に行ってるからな!」

慌てて外に出て、すぐにトイレに籠った。頭を抱え、沸騰しそうな思考回路を正常に戻す。だが体が変な風に反応していて、簡単に元に戻らない。

「なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ!」

声に出して考えるが、答えは出ない。
それなら、膨らんだものをどうやって落ち着かせるかを考えた方がいいと理解したのは、大分後になってからだった。


*


温泉から出た後、順平は近くのカフェで瓶サイダーをガブ飲みしていた。賢一がオレンジジュースを飲みながら首を傾げた。

「大丈夫?」
「ぷはぁ!え、あ、まぁな!大丈夫!うん!」

忘れたいが忘れられない。
このまま帰りたいが、帰るには賢一の運転が必須である。
じゃあ、どうすればいいのか?

順平は、試してみようとある提案をしてみた。

「なぁ、俺に触れてみてくれないか?」
「なんで?」
何でと思うのは当然だろう。順平は瓶サイダーを一口飲む。

「手に触るだけでいいから、頼む!」
「そんな頼むほどのことじゃないでしょ。ほら」

賢一は、言われるがままに手に触れた。恋していると人は触れられただけでドキドキすると順平は漫画で得た知識を試してみた。しかし、触れられてみてもそんな感情は一切起きない。では、あれはなんだったのか?と考え、答えが出て力が抜ける。

「はんかくさいべや。単純に弱いだけかぁ」
「何が馬鹿らしいの?」

脇が弱い。
そう言おうとしたら、順平の顔がみるみる赤くなっていく。

「言えるか、そったら恥ずかしいこと!」
「訛ってる訛ってる」
「分かったから、それ以上聞くな!!」

残ったサイダーを飲み干し、代金を払って店を出た。もう帰った方がいいと駐車場に向かっていると、「ねぇ、君たち」と若い女性が肩をたたいて呼び止めた。派手な格好をした大学生ぐらいの男女が、ビール缶をもって路上で飲んでいるのが見えた。

「あっちで、一緒に飲まない?」

酒臭い息で媚びられても、全然嬉しくない。順平があからさまに嫌な顔を見せようとしたので、ニコニコ顔の賢一が前に出た。

「いや、僕たち未成年なんで、すみません」

そのまま去ろうとしたのだが、順平の体が後ろに引っ張られる。振り向くと、酒飲みグループの中にいた男が順平の後ろの襟をつかんでいた。女性が叫んだ。

「うわっ。この子、思ったより細い!つか、白い!」

酒飲みグループがぞろぞろと寄ってきて、順平の人の背中をじろじろと見て、腕に触れたり揉んだりしてきた。

「あの、あんまり触らないでもらえます?」
「いいじゃない。減るもんじゃないし」

気力が減ってるのだがと順平が思った時、誰かが脇に触れた。

「うっ」

気持ち悪いと思った瞬間だった。


「手品をします!」

賢一が叫び、「お、いいね」と酒飲みグループが食いついた。賢一は、自動販売機でコーヒーを買い、一気に飲み干す。そしてその空き缶を片手で掴み、「ふん!」と指先だけで小さくして見せた。

「なんだ、つまらない」

と誰もが一瞬だけ思った。実は、缶コーヒーは高温で殺菌するのでスチール缶が大半である。そして、スチール缶を潰すのにかかる握力は50㎏以上ではあるが、指先の力のみで潰すとなったらそれ以上だろう。それにいち早く気が付いたのは、順平の襟をつかんだ男だった。賢一は解放された順平を小脇に抱えて、頭を下げる。

「以上です。ご清聴ありがとうございました」

足早にその場を去っていく。順平が「お前……」と賢一に声をかけた。

「お前、マジで人間離れしてないか?」
「これでもトヨ兄より弱いから、まだ人間だよ」
「なんでお前より上がいるんだよ。てか、そろそろ下せよ!」

「忘れてた」と賢一は順平を下した。周辺を見ると、駐車場ではなく商店街がある駅の方に来てしまったようだ。「逆方向じゃね?」と順平は、地図アプリを起動して確認する。順平の勘は当たっていたようだった。商店街を通って、来た道に戻る。順平はため息をついた。

「せっかく温泉に入ったのに、変なのに絡まれたり、スチール缶潰したり、逃げたりと忙しいな」
「これも旅の醍醐味じゃない?」
「何でも醍醐味にしたら、最終は雑味になりそうだな」

もう帰って、何も考えずに一旦横になりたい。そう思った時ほど、次の苦難が降りかかる。

「どうしたの?」

賢一に言われるまで、順平は足が止まっていることに気が付かなかった。

あの目、あの喋り方、あの視線。
あの放課後の教室で感じた嫌な熱。
その全てが、五感で感じ取れた。

「ここに居る」

自分を汚して、壊した奴が、近くにいる。

「うっ、ごっ、げぇええええ!!」

腹いっぱいに詰めたサイダーが口から吐き出てきた。
自分の体から出た透明な液体が、地面を汚していく。


*


順平が吐き続け、ぐったりと動けなくなった。賢一は、すぐに庄司に連絡を入れた。偶然、庄司は近場にいて、すぐに現場へ駆けつけた。涙と震えが止まらない順平に庄司は救急車を呼ぼうとしたが、病気とは違う何かを感じた。

「こうなる前に、何かあったのか?」
「さっき、酒飲みグループに絡まれて、突然止まったんだ。それからずっと『怖い』『嫌だ』『やめて』って言い続けてる」

庄司は今まで見た顧客たちに、同じような反応をする人が浮かび上がった。

「PTSD」
「なにそれ?」
「心的外傷後ストレス症だ。何か彼にそういった症状があると聞いてたか?」

賢一は、今までの旅を振り返る。

「2つ上の先輩に告白されて襲われかけたって聞いた」
「……そうか。専門医に連絡してみるが、この時間だから厳しいかもしれん」

順平は震える手で、あることを思い出した。

「ダ、ダ、ダシュ……」
「ダシュ? あぁ、ダッシュボード!」

理解した賢一は駐車場に止めておいた車のダッシュボードから、姉から渡されたファンシーな布袋を取り出した。中を開けてひっくり返す。庄司が一つずつ確認していく。

「現金の入った封筒、ひざ掛け、それに何だこの布人形?」

オレンジ色の丸い顔にへろへろの髭が何本も付いた手作りの人形。順平は震えながら、手を伸ばす。

「サニデーマン……」

しかし庄司は他にないのかと袋の中を見ているので、代わりに賢一が人形を渡した。順平はぎゅっと握り、呼吸を整える。すると、庄司が「薬があった!」と叫ぶ。

「PTSDの薬って書かれてるけど、これがそれか?!」

順平はうなずいて、飲もうとするが手が震えて取り出せない。「口を開けてくれれば、薬を入れる」と庄司に言われ、口を開けると薬が落ちてきた。水がなくても飲めるようになっているので、簡単に飲み込めた。すると、徐々に体の不安がじわじわと解けていく。温泉とは違い、視界がくらくらしている。

「落ち着いたようだな。大丈夫か?」

大丈夫と言おうとしたが、声が出ない。

「今は何も考えなくていい。少し休みなさい」

目をつぶろうとした時、賢一の表情が見えた。
いつもの笑顔ではなく、不安に押しつぶされそうな顔をしている。
何度も申し訳ないと言いたかったが、いつしかそんな考えも解けていった。