『あの少女漫画のような空間に、誰が入れるっていうのよ!』
教室の扉の向こうから聞こえた言葉。そんなこと、俺が一番よく分かってるよ。
五時半を告げるアラームが鳴った。
ベッドを降り、ハンガーの制服へ着替える。
散らかった物を避けながら部屋を出ようとした時、足が漫画の山に当たり、床へ崩れ落ちた。
慌ててかき集めていると、一冊の表紙に目が留まる。
美少女たちが描かれたカバーがずれ、その下から全く毛色の違う表紙が現れた。
制服姿の金髪イケメンと、瞳の大きな女の子。
「捨てられ、ないよな」
過去を思い出しながら呟き、別のカバーで表紙を隠した。
洗面所へ向かい、顔を洗って歯を磨く。
髪を濡らして寝癖を整え、制服の襟を正した。
「よし。今日もオタクを出しすぎず、自然に頑張ろう。独り言とか心の中のポエムとか、本当にやめろよ……俺ぇ。イタいハーレムラブコメの主人公じゃあるまいし」
鏡の自分へ宣言し、キッチンへ向かう。エプロンを着け、毎朝恒例の弁当作りを始めた。米を炊飯器にセットし、仕込んでおいた鶏肉を揚げる。作り置きはしない。今、ここで揚げるのだ。ほかのおかずも同時に作っていく。
「……ぐへ、っフえへへ」
「おはよ、お兄」
独り言へ冷たい視線を向けながら、妹のツグミが起きてきた。
「おはよう、ツグミ。今日、早いな」
正気を取り戻し、冷静に応じる。
「うん。少しずつ、起きる練習をしようと思って」
「そうか」
それ以上は何も言わなかった。
ツグミはキッチンへ近づき、ニヤニヤしながら手元を覗き込む。
「今日も張り切ってるねぇ」
「まあ、な」
満面の笑みを残し、朝に弱い妹はソファへ移動した。
ぼんやり情報番組を見るツグミへ視線を送ると、頬杖をついて見つめ返してくる。
「お兄、お弁当作り終わったら、こっち来て」
「分かったよ」
おかずを作り終え、できるだけ多く入るように小箱へ詰める。今日は唐揚げを何個入れよう。無理にでも、あと三個ねじ込んでみるか。弁当を冷ましている間にエプロンを外し、ツグミの待つソファへ向かった。
「どうした?」
ツグミは勢いよく立ち上がり、俺を真ん中へ座らせる。昨日、散々正論で追い詰められたばかりだ。少し恐ろしい。
「ツグミさん。や、優しくお願いします」
震える声で頼むと、ツグミは吹き出した。
「昨日たっっぷり絞ったから。今日はお詫びも込めて」
笑い涙を拭きながら、背後からマジックのようにポーチを取り出す。
「本当は洗面所でしたかったんだけど、お兄、無駄に背が高いから」
「無駄にとは何だ、無駄にとは」
俺のツッコミを無視し、ツグミは髪へ触れた。
「じっとしててよ?」
真剣な目で、髪に櫛を通していく。
ストイックさを象徴するタコのある指先が、時折首筋に触れてひんやりした。同じ趣味を持つ同族で、普段は話題の尽きない俺たち。けれど今日は、ツグミも黙って作業へ集中していた。
十数分後、肩を一度叩かれる。
「はい、完成!」
後ろから差し出された手鏡を覗く。そこには、自分とは思えないほど見違えた姿があった。長い前髪は中央で分けられ、左右へ流れている。視界が開け、世界まで明るく見えた。
後ろ髪も丸いシルエットになるよう整えられ、少し長い襟足はくるりと巻いて遊ばせてある。
「これ、ドナタ?」
「私の兄、酒神昴です」
「マジデスカ」
「マジです」
ツグミは腰に手を当て、得意げに胸を張った。
「すごい、すごすぎる、ツグミ!」
「でしょう? お兄は素材がいいんだから! 髪形を変えただけで、こうよ!」
妹は満足そうに俺の肩を叩く。
この俺なら――。
「グイグイ攻めろって背中を押してもらったんでしょ? 私も同意。攻めるなら、まずはイメチェンでしょ!」
「提案は聞いてたけど……まさか、ここまで変わるなんて」
ツグミはさらに満足げに微笑んだ。残ったおかずを分け合い、朝食を取る。自分が自分ではないような感覚に、どこか落ち着かない。
無心で食べていると、ツグミが問いかけてきた。
「ねぇ」
「ん?」
「お兄って、本当にいいお兄ちゃんだよね」
「ありがとう」
「いいお婿さんになりそう」
「昨日散々絞っといて、好感度調整?」
「どうだろうね」
意味深に笑ったあと、ツグミは続ける。
「でも、あり得ない話じゃないでしょ? 私とお兄は、普通とは違うんだから」
思わず箸から唐揚げを落とした。
「それは……」
「私たち、普通の兄妹よりずっと相性いいでしょ。だから、こういう選択肢もあるって思い出してほしくて」
ツグミは俺が落とした唐揚げを素早く奪い、口へ放り込む。
飲み込んでから、悪戯っぽく笑った。
「お兄が幸せになるなら、この関係、利用していいからね?」
「……そんな」
気まずくなり、ツグミから目を逸らす。
「んふふ」
時計を確認して立ち上がり、弁当を布で包んで鞄へ入れた。
玄関へ向かうと、部屋着のままのツグミがついてくる。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
扉を開けようとして、手を止めた。
「なあ、ツグミ」
「ん?」
「……余計なお世話だと思うけど、さ」
そう前置きしてから、言葉を続ける。
「ツグミが俺の幸せを願ってくれるように、俺もツグミには幸せになってほしい。無理強いはしないけど、学校へ行きたいって思ったら、お兄ちゃんも力になるから」
「うん。ありがと」
ツグミは、どこかぎこちなく笑った。その笑顔が胸に引っかかり、もう一度口を開く。
「あと……」
続く言葉は、喉元で止まった。
「いや。これは、俺が言うことじゃないか」
ツグミの肩が僅かに揺れる。
「……分かってる。分かってるから」
逃げるように目を逸らした妹へ、それ以上は何も言わず家を出た。
***
校門を抜けると、すぐにグラウンドが見える。朝から練習に励む光たち。その中には、ひときわ眩しい太陽のような男がいた。新しい髪形を見られるのが妙に恥ずかしくて、気づかれないよう足早に校舎へ向かう。
それでも最後に一度、グラウンドを振り返った。
(今日も眩しいな……)
太陽の輝きを背に受けながら美術室へ入り、用具室のロッカーから屋上の鍵を取り出す。
そろそろ返さないと、あの人に怒られる。
そんな不安を抱きながら、美術室をあとにした。
「よし、今日も頑張ろ」
呟きながら屋上へ向かおうと、南校舎へ足を向けた時だった。
「お、そのネクタイ、二年生だな?」
俺の緑色のネクタイを見ながら、担任が声をかけてきた。
この学校では、一年生が赤、二年生が緑、三年生が青と、学年ごとにネクタイの色が決まっている。
「お前、何組だ?」
自分の担任するクラスの生徒なのに、全く気づいていないらしい。俺が陰キャすぎるのか。それとも、ツグミのイメチェン技術がすごすぎるのか。
「……二年三組の、さ、酒神です」
担任は訝しげに顔を覗き込む。
「二年三組……俺のクラスだが……え…………酒神!? 酒神昴か?」
「は、はい……」
「なんか……いい意味で、めちゃくちゃ変わったな」
褒め言葉として受け取り、心の中でツグミへ感謝する。
お辞儀をして、その場を去ろうとした。
「まあ、ちょうどよかった。お前を探してたんだよ。心当たりはあるよな? ちょっと職員室へ来てもらおうか」
口調は柔らかく、口元も笑っている。ただし、目だけは笑っていない。
担任に肩を掴まれ、俺の屋上への道は阻まれてしまった。
教室の扉の向こうから聞こえた言葉。そんなこと、俺が一番よく分かってるよ。
五時半を告げるアラームが鳴った。
ベッドを降り、ハンガーの制服へ着替える。
散らかった物を避けながら部屋を出ようとした時、足が漫画の山に当たり、床へ崩れ落ちた。
慌ててかき集めていると、一冊の表紙に目が留まる。
美少女たちが描かれたカバーがずれ、その下から全く毛色の違う表紙が現れた。
制服姿の金髪イケメンと、瞳の大きな女の子。
「捨てられ、ないよな」
過去を思い出しながら呟き、別のカバーで表紙を隠した。
洗面所へ向かい、顔を洗って歯を磨く。
髪を濡らして寝癖を整え、制服の襟を正した。
「よし。今日もオタクを出しすぎず、自然に頑張ろう。独り言とか心の中のポエムとか、本当にやめろよ……俺ぇ。イタいハーレムラブコメの主人公じゃあるまいし」
鏡の自分へ宣言し、キッチンへ向かう。エプロンを着け、毎朝恒例の弁当作りを始めた。米を炊飯器にセットし、仕込んでおいた鶏肉を揚げる。作り置きはしない。今、ここで揚げるのだ。ほかのおかずも同時に作っていく。
「……ぐへ、っフえへへ」
「おはよ、お兄」
独り言へ冷たい視線を向けながら、妹のツグミが起きてきた。
「おはよう、ツグミ。今日、早いな」
正気を取り戻し、冷静に応じる。
「うん。少しずつ、起きる練習をしようと思って」
「そうか」
それ以上は何も言わなかった。
ツグミはキッチンへ近づき、ニヤニヤしながら手元を覗き込む。
「今日も張り切ってるねぇ」
「まあ、な」
満面の笑みを残し、朝に弱い妹はソファへ移動した。
ぼんやり情報番組を見るツグミへ視線を送ると、頬杖をついて見つめ返してくる。
「お兄、お弁当作り終わったら、こっち来て」
「分かったよ」
おかずを作り終え、できるだけ多く入るように小箱へ詰める。今日は唐揚げを何個入れよう。無理にでも、あと三個ねじ込んでみるか。弁当を冷ましている間にエプロンを外し、ツグミの待つソファへ向かった。
「どうした?」
ツグミは勢いよく立ち上がり、俺を真ん中へ座らせる。昨日、散々正論で追い詰められたばかりだ。少し恐ろしい。
「ツグミさん。や、優しくお願いします」
震える声で頼むと、ツグミは吹き出した。
「昨日たっっぷり絞ったから。今日はお詫びも込めて」
笑い涙を拭きながら、背後からマジックのようにポーチを取り出す。
「本当は洗面所でしたかったんだけど、お兄、無駄に背が高いから」
「無駄にとは何だ、無駄にとは」
俺のツッコミを無視し、ツグミは髪へ触れた。
「じっとしててよ?」
真剣な目で、髪に櫛を通していく。
ストイックさを象徴するタコのある指先が、時折首筋に触れてひんやりした。同じ趣味を持つ同族で、普段は話題の尽きない俺たち。けれど今日は、ツグミも黙って作業へ集中していた。
十数分後、肩を一度叩かれる。
「はい、完成!」
後ろから差し出された手鏡を覗く。そこには、自分とは思えないほど見違えた姿があった。長い前髪は中央で分けられ、左右へ流れている。視界が開け、世界まで明るく見えた。
後ろ髪も丸いシルエットになるよう整えられ、少し長い襟足はくるりと巻いて遊ばせてある。
「これ、ドナタ?」
「私の兄、酒神昴です」
「マジデスカ」
「マジです」
ツグミは腰に手を当て、得意げに胸を張った。
「すごい、すごすぎる、ツグミ!」
「でしょう? お兄は素材がいいんだから! 髪形を変えただけで、こうよ!」
妹は満足そうに俺の肩を叩く。
この俺なら――。
「グイグイ攻めろって背中を押してもらったんでしょ? 私も同意。攻めるなら、まずはイメチェンでしょ!」
「提案は聞いてたけど……まさか、ここまで変わるなんて」
ツグミはさらに満足げに微笑んだ。残ったおかずを分け合い、朝食を取る。自分が自分ではないような感覚に、どこか落ち着かない。
無心で食べていると、ツグミが問いかけてきた。
「ねぇ」
「ん?」
「お兄って、本当にいいお兄ちゃんだよね」
「ありがとう」
「いいお婿さんになりそう」
「昨日散々絞っといて、好感度調整?」
「どうだろうね」
意味深に笑ったあと、ツグミは続ける。
「でも、あり得ない話じゃないでしょ? 私とお兄は、普通とは違うんだから」
思わず箸から唐揚げを落とした。
「それは……」
「私たち、普通の兄妹よりずっと相性いいでしょ。だから、こういう選択肢もあるって思い出してほしくて」
ツグミは俺が落とした唐揚げを素早く奪い、口へ放り込む。
飲み込んでから、悪戯っぽく笑った。
「お兄が幸せになるなら、この関係、利用していいからね?」
「……そんな」
気まずくなり、ツグミから目を逸らす。
「んふふ」
時計を確認して立ち上がり、弁当を布で包んで鞄へ入れた。
玄関へ向かうと、部屋着のままのツグミがついてくる。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
扉を開けようとして、手を止めた。
「なあ、ツグミ」
「ん?」
「……余計なお世話だと思うけど、さ」
そう前置きしてから、言葉を続ける。
「ツグミが俺の幸せを願ってくれるように、俺もツグミには幸せになってほしい。無理強いはしないけど、学校へ行きたいって思ったら、お兄ちゃんも力になるから」
「うん。ありがと」
ツグミは、どこかぎこちなく笑った。その笑顔が胸に引っかかり、もう一度口を開く。
「あと……」
続く言葉は、喉元で止まった。
「いや。これは、俺が言うことじゃないか」
ツグミの肩が僅かに揺れる。
「……分かってる。分かってるから」
逃げるように目を逸らした妹へ、それ以上は何も言わず家を出た。
***
校門を抜けると、すぐにグラウンドが見える。朝から練習に励む光たち。その中には、ひときわ眩しい太陽のような男がいた。新しい髪形を見られるのが妙に恥ずかしくて、気づかれないよう足早に校舎へ向かう。
それでも最後に一度、グラウンドを振り返った。
(今日も眩しいな……)
太陽の輝きを背に受けながら美術室へ入り、用具室のロッカーから屋上の鍵を取り出す。
そろそろ返さないと、あの人に怒られる。
そんな不安を抱きながら、美術室をあとにした。
「よし、今日も頑張ろ」
呟きながら屋上へ向かおうと、南校舎へ足を向けた時だった。
「お、そのネクタイ、二年生だな?」
俺の緑色のネクタイを見ながら、担任が声をかけてきた。
この学校では、一年生が赤、二年生が緑、三年生が青と、学年ごとにネクタイの色が決まっている。
「お前、何組だ?」
自分の担任するクラスの生徒なのに、全く気づいていないらしい。俺が陰キャすぎるのか。それとも、ツグミのイメチェン技術がすごすぎるのか。
「……二年三組の、さ、酒神です」
担任は訝しげに顔を覗き込む。
「二年三組……俺のクラスだが……え…………酒神!? 酒神昴か?」
「は、はい……」
「なんか……いい意味で、めちゃくちゃ変わったな」
褒め言葉として受け取り、心の中でツグミへ感謝する。
お辞儀をして、その場を去ろうとした。
「まあ、ちょうどよかった。お前を探してたんだよ。心当たりはあるよな? ちょっと職員室へ来てもらおうか」
口調は柔らかく、口元も笑っている。ただし、目だけは笑っていない。
担任に肩を掴まれ、俺の屋上への道は阻まれてしまった。
