ハーレムラブコメの主人公が最後に選んだのは友人キャラのオレだった。

文化祭翌日の朝。

夜の冷たさがまだ僅かに残るグラウンドで、オレは朝練を終え、首に掛けたタオルで汗を拭っていた。

「瑛~、朝練お疲れ!」

声に振り返ると、翔馬がこちらへ駆け寄ってくる。

「ねぇねぇ、聞いていい? 昨日、どうなったの?」

その顔は好奇心に満ちていて、オレが答える前からニヤニヤしていた。

「え~……」
「水臭いじゃん! 友達でしょ、僕ら!」

言い渋るオレの横腹を、翔馬が指先でツンツンとつついてくる。

「……その。今から彼氏と、屋上に行ってくる」
「へぇ、そっか~! 屋上いいね~! 彼氏と……彼氏と!?」

言葉の途中で重大な事実に気づいた翔馬は、目を大きく見開き、勢いよく身を乗り出した。

そんな翔馬の反応に、思わず笑いがこぼれる。

オレは、背中を押してくれた恩人であり、大切な友人でもある彼に告げた。

「うん。全部、言えたよ。ありがとう、翔馬」

好きな昴の恋を応援したいという気持ちも。
それでも、自分を選んでほしいという気持ちも。

矛盾しているように思えた二つの本心を、どちらも隠さず伝えることができた。

翔馬は一瞬驚いたあと、満面の笑みを浮かべて大きく頷いた。

「そっか! よかったね、瑛」

そして今日もまた、彼はオレの背中を押してくれる。

背中に触れた友達の手は、とても温かくて、心地よかった。

***

屋上へ続く階段を上ると、古びた扉にもたれながらオレを待っている昴の姿があった。

「瑛、おはよう。朝練お疲れ様」
「おはよ、昴。ありがとう」

昨日とは何もかもが変わったはずなのに、昴はいつもと変わらない笑顔を向けてくる。

ただ、その笑顔を見ただけで胸が高鳴る理由を、今のオレはもう知っていた。

風音会長は、鍵の返却は今日の朝で構わないと言ってくれた。
この時間が終われば、鍵を返さなければならない。

きっと、これが最後の屋上だ。

昴が右手を差し出したので、オレは古びた鍵をその手へ預ける。

昴は錆びついた鍵穴へ鍵を差し込み、全体重をかけながらドアノブを捻った。
もうすっかり慣れた手つきだ。

ギィッと音を立て、古い扉が開く。

昴は先に身を屈めて入口をくぐると、オレの手を取り、屋上へ招き入れた。

僅かに冷たい秋風が、二人の間を吹き抜ける。

春の頃と変わらない校舎。
屋上から一望できる、見慣れた街並み。

以前と同じように壁際へ並んで座ろうとした、その時だった。

「わっ!」

不意に昴から腕を引かれ、半ば強制的に彼の膝の上へ座らされる。

背後から両腕を回され、身体ごとぎゅっと抱き締められた。

「オレ、朝練終わりだから汗臭いけど」

照れ隠しにそう言うと、昴はオレの首筋へ顔を埋め、深く息を吸った。

「むしろ助かる」
「え、えぇ……」

思わず身じろぎすると、耳元へ甘い吐息がかかる。
くすぐったいのに、不思議と嫌ではなかった。

その時、以前昴が言っていたことを思い出す。

「今なら、昴が言ってたこと、分かるかも」
「ん?」
「罪悪感とか、優越感とか。生徒たちを見下ろしながら、こんなことするの……イケないことしてる感じがあるっていうか。それが逆に、ドキドキするっていうか」
「でしょ?」

後ろにいる昴の表情は見えない。
けれど、弾んだ声から楽しんでいるのは間違いなかった。

オレを抱き締める腕に、さらに力がこもる。

「ねぇ、瑛」
「ん?」
「キミに相談があるんだけど」
「また?」
「俺の彼氏が、最強すぎる件について」

昴はオレの肩に顎を乗せ、耳元で囁いた。

「……あの」
「何かアドバイスはありませんか、友人キャラさん」
「……その気持ち、ちゃんと伝えたら、き、きっと喜ぶと思います、よ」
「ふぅん。いいこと聞いた。ありがとう。頼りにしてるよ、友人キャラさん」
「根に持ってんだろ……」
「……持ってないよ」

振り返ると、昴は子どものように頬を膨らませていた。
その姿が可笑しくて、思わず笑ってしまう。

大きな秋風が吹き抜ける。
二人の髪を揺らした風が止むと、昴は真っ直ぐな声で告げた。

「ねぇ、瑛。好きだよ」
「……うん。オレも……好き」

震える声で答えると、背後から奇妙な音が聞こえた。

「ダッ゜」
「どこから出たんだよ、今の声……」
「何だろう……心?」
「心って、そんな音するんだ」

動揺している昴がおかしくて、愛しくて。
オレの口元は自然と緩んでいた。

ここで、昨日ツグミちゃんからもらった助言を思い出す。

オレは大きく息を吸い、昴へ呼びかけた。

「なあ、主人公さん」
「……何?」
「大変申し訳ないのですが、オレ……『友人キャラ』は卒業します」
「……え。あんなになりたがってたのに」
「……ヒロインになりたいから。その、『友人キャラ』じゃ……もう、満足できません」

一瞬、沈黙が流れた。

「は……っ。そう来たか……!」

昴はオレの肩へ顔をグリグリと擦りつけ、その場で悶絶し始める。

どうやら、ツグミちゃんの作戦は成功したらしい。
オレは心の中でガッツポーズをする。

しかし、昴の次の一言で、あっという間に形勢は逆転した。

「ねぇ、顔を見せて」
「いや、待って。今、すげぇ顔してるから」
「見せて」
「ちょっ――」

抵抗する間もなく、身体をぐいっと引き寄せられる。
気づけば、昴と至近距離で向かい合う体勢になっていた。

昴は熱を帯びた瞳で、恍惚としたようにオレを見つめる。

「確かに。これは、ヒロインだ」
「っ!」
「可愛い。可愛すぎるだろ、俺の……王子様(ヒーロー)」
「え。なんでヒーロー?」

思わず問い返すと、昴が不思議そうに首を傾げた。

「なんでって。瑛は俺のヒーローだから」
「オレは、その……ヒーローって柄じゃ」
「はぁ? 本気で言ってんの?」
「え?」
「瑛は、少女漫画のヒーローすぎるでしょ」
「しょ、少女漫画……?」
「実は俺、少女漫画が大好きでさ」
「えっ!?」

初めて聞く告白に、目を見開く。

昴は照れくさそうにオレの胸へ顔を埋めると、くぐもった声で続けた。

「みんなに優しくて、誰かのためなら迷わず行動できて。瑛があまりにも少女漫画のヒーローすぎたから、自分みたいなモブ陰キャが、その隣に立てるわけないと思ってた」
「……う、うん?」
「だから、モブの俺は、何とか瑛の友人になろうとしてたんだ」
「……昴も、オレと一緒だったの?」
「そう」

昴がゆっくりと顔を上げる。

互いの視線が重なった瞬間、どちらからともなく吹き出した。

「……本当に、空回りして遠回りしたな」
「意外と似た者同士だったのかもね、俺たち」
「だな」

オレは昴を物語の主人公だと思い、自分はその恋を応援する『友人キャラ』でいいと思っていた。

昴はオレを少女漫画のヒーローだと思い、自分はその隣に立つ『友人』でいいと思っていた。

互いを眩しい物語の中心に置いて、自分だけを舞台の外へ追いやっていたのだ。

同じ場所で、同じように臆病になり、同じように本心を隠していた。

「ていうか、少女漫画が好きなら教えてくれよ。オレも読みたい」
「本当に?」
「……好きなヤツの好きなものを知りたいって思うのは、当たり前だろ」

昴の瞳が大きく見開かれる。

「これからは、いろんな本音を言い合っていこう。隠し事はなし――」

言葉の途中で、不意に唇を塞がれた。

触れるだけの短いキス。
すぐに離れた昴の顔には、幸せそうな笑みが浮かんでいた。

「そういうところ、本当に好き」
「……急にキスすんなよ」
「瑛は俺にとって、最高のヒーローであり、最高のヒロインだなぁって」
「なんだよ、それ」

オレは、好きな昴の恋を応援したいと伝えた。
昴が選んだ人と幸せになるところを、一番近くで見届けたいと伝えた。

それと同時に、誰にも昴を譲りたくない、自分を選んでほしいとも伝えた。

相反する二つの本心。
どちらかを口にすれば、もう一方を否定することになると思っていた。

けれど、昴はどちらも否定しなかった。

昴の幸せを願ったオレを『ヒーロー』と呼び。
昴に選ばれたいと願ったオレを『ヒロイン』と呼んだ。

二つの本心を話したら、二つとも肯定されて返ってきた。

「要するに、瑛が最強ってこと。だから、俺の彼氏が最強すぎて困ってるの」

やられっ放しなのが少し気に入らず、オレは昴の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

「その言葉、そのままお返ししてやる」

昴は堪えきれないように、満面の笑みを弾けさせた。

「オレさ、『友人キャラ』でいいと思ってた」

昴が、黙ってオレの言葉を待つ。

「主人公になれないオレにできるのは、昴の恋を応援することくらいで。それで大好きな主人公が幸せになれるなら、十分だと思ってた」
「俺もだよ」
「え?」
「俺も、『友人』でいいと思ってた。モブの俺がヒーローの友人になれて、そばにいられるだけで、十分幸せだって」

二人とも、それ以上を望むことが怖かった。

だから、自分で決めた役に隠れた。
その役に満足しているふりをして、互いの本心から目を逸らしていた。

「でも、もう『友人キャラ』じゃ満足できない」
「俺も、瑛の『友人』だけじゃ嫌だ」

昴の熱を帯びた瞳が、オレを捕らえて離さない。

「瑛、大好き」
「オレもだよ。昴が大好き」

迷うことなく返すと、昴の顔が幸せそうにほころんだ。

そのまま吸い寄せられるように、唇が重なる。

深く、長く。
時間の感覚さえ忘れるほどに。

――主人公(ヒーロー)が最後に選んだのは、『友人キャラ』のオレ《俺》だった。

それが、ここまでのオレたちの物語だ。

互いを『主人公』だと思い、自分はその隣に立つ『友人』でいいのだと言い聞かせていた。

けれど、オレたちはここでようやく、自分で決めつけた役に区切りをつけた。

『主人公』も。
『ヒロイン』も。
『ヒーロー』も。
『友人キャラ』も。

どれか一つに選ばなくたっていい。
いいとこ取りでも、欲張りセットでもいい。別に選ばなくたっていい。

昴は昴で、オレはオレ。
互いの本心を伝え、ありのままの相手を選んだ二人として歩いていく。

決められた役も、用意された筋書きも、もう必要ない。
これからは、オレたちだけの物語を始めよう。

(終わり)