ハーレムラブコメの主人公が最後に選んだのは友人キャラのオレだった。

「さあ、聞かせてもらおうかしら」

美術室の静けさを破るように、ナノの声が落ちた。
そこへ白百合とツグミも加わる。

「ねぇ、昴クン」
「酒神くん」
「お兄」

三人は獲物を追い詰めた猫のように、楽しげな笑みを浮かべていた。

「「「後夜祭、誰を選ぶの?」」」

逃げ道を塞がれ、昴の背筋に冷たい汗が伝う。
けれど、その口から飛び出した答えには、一切の迷いがなかった。

「俺は――瑛が好きです。愛してます。瑛しかいないに決まってます」

一瞬、美術室が静まり返る。
やがて、ナノが満足そうに薄く笑った。

「そう言わなければ、校内放送でキミの無様なオタク語りを流すところだったわ」
「すごく怖い」

怯える昴に、白百合とツグミが笑いかける。

「頑張ってください」
「お兄、頑張れ!」

二人からの声援に、昴の胸が熱くなった。

そんな彼へ、ナノがふと思い出したように告げる。

「ああ、そういえば。先日、有真瑛くんが生徒会室に来たのだけれど」
「えっ」
「MVP特権を何に使うと言っていたかしら……」
「お、教えてください!」
「プライベートなことを、どうしてキミに教えなければならないの?」

意地悪く笑うナノを前に、昴はゴクリと唾を飲み込む。

「そうね。じゃんけんで私に勝ったら、教えてあげるわ」
「え、あ、え!?」
「特訓の成果を見せてもらうわよ」

ナノは右手を構えた。

「じゃんけん、ぽん」

***

ナノの特訓は、走り込みだけではなかった。

『リレーのメンバー争いは、恐らくじゃんけんになるわ』
『じゃんけんの特訓もするんですか!?』
『キミの激弱豆腐メンタルでは、心理戦に勝てないでしょう?』
『その通りなんですけど、酷すぎる』

それから昴は、体力づくりの合間に、ナノと何度もじゃんけんを繰り返した。

指の動きから相手の手を読み、瞬時に勝てる手を出す。

夢にまでグー、チョキ、パーが現れる地獄の日々を経て、昴は一つの悟りを開いた。

――じゃんけんは運ではない。先読みと瞬発力の勝負だ。

***

昴はグー。
ナノはチョキ。

「えっ……勝った!?」

勝負は一瞬で決まった。
ナノは差し出された昴の拳を見つめ、薄く笑う。

単純にグーを出したのか。
それとも、自分の指の動きを読んだのか。

どちらなのかは、ナノにも分からなかった。

「鍵を借りたいと言っていたわ」
「鍵……?」
「ああ、でも、どこの鍵だったかしら」

ナノがわざとらしく小首を傾げる。
しかし、それだけ聞けば昴には十分だった。

「ありがとうございます!」

昴は深々と頭を下げると、すぐさま踵を返した。
その背中を見送り、ナノは白百合とツグミを振り返る。

「さて。ツグミ、聖。美術室(ここ)は自由に使っていいから、二人の時間を楽しんで」
「「ありがとうございます!」」

二人を残して廊下へ出たナノは、胸元の無線機へ手を添えた。

「放送スタッフ。最後の打ち上げ花火は、グラウンドからが一番見やすいと伝えて」
『承知しました』

これで、屋上へ近づく者はいなくなる。

「私も、私の好きな人のところへ行きましょうか」

ナノは窓の外へ目を向け、静かに微笑んだ。

――舞台は用意したわ。
自分で決めつけた役に振り回される、二人の迷い人。
あとは本心を告げて、その窮屈な殻を破るだけよ。

***

その頃。
美術室を飛び出した俺は、あの場所を目指して一直線に走っていた。

廊下を駆け抜けながら、これまでのことを思い返す。
ハーレムラブコメが嫌いだった。

いや、正確に言えば、少女漫画が好きだった俺にとって、それは押しつけられた代用品だった。

父はいつも仕事で忙しく、家を空けることが多かった。
だから、幼い俺は母にべったりだった。

母は教育熱心な人で、いつもたくさんの育児本を読んでいた。
本から得た知識を実践し、俺のためにできることは何でもしてくれた。

俺は母に大切にされている。
そう信じていた。

俺のために一生懸命で、優しい母が大好きだった。
だから母なら、俺の好きなものを何でも認めてくれると思っていた。

「昴。欲しいものはある?」
「この漫画が欲しい!」

無邪気に指差したのは、少女漫画の新刊だった。

颯爽と現れてヒロインを助けるヒーローがかっこよくて、大好きで。
初めて読んだ瞬間から、俺はそのキャラクターに心を奪われていた。

けれど、表紙を見た母の顔は、みるみる青ざめていった。

「昴は、このキャラクターが好きなの……?」
「うん!」
「……普通じゃないわ」

頭を殴られたような衝撃に、言葉を失った。

「男の子が女の子向けの漫画を読んで、男のキャラクターを好きになるなんて……普通じゃない。そんなことを周りに知られたら、笑われてしまうわ」

『普通じゃない』

その言葉が、鋭い刃物のように胸へ突き刺さった。

「男の子の昴には、こっちの方がいいわよ」

代わりに母が持ってきたのは、可愛い女の子が大勢描かれたハーレムラブコメの単行本だった。

俺は、それを黙って受け取ることしかできなかった。

「俺、算数苦手」
「男の子なら、算数が得意なのが普通じゃない?」

「俺、料理がしたい!」
「男の子なんだから、そんなことよりパソコンを覚えなさい。将来、役に立つから」

本音を言えば、否定される。
好きなものを口にすれば、『普通じゃない』と言われる。

気づけば、俺の言葉は少しずつ心の奥へ沈んでいった。

それでも、小学一年生の時。
自分の中に芽生えたある気持ちだけは、母に聞いてほしかった。

「学校にね、かっこいい子がいてね……」

その時の俺は、きっと頬を赤らめていた。
それまで母が俺に抱いていた違和感が、確信へ変わってしまったのかもしれない。
いつの間にか、リビングには大量の育児本が積み上げられていた。
母が俺のことで悩んでいるのは、子どもの俺にも伝わっていた。

そして、その日。
母が胸の内に溜め込んでいた不安が、一気に噴き出した。

「……その子は、男の子なの?」

俺が頷くと、母は声を荒らげた。

「昴、嘘よね!? 嘘だと言って!」

その叫びを聞いた瞬間、俺の胸の奥でも何かが崩れ落ちた。
好きなものだけじゃない。
俺という人間のすべてを、否定されたような気がした。
その日から、俺は本音を胸の奥へしまい込んだ。

***

それからほどなくして、両親は離婚した。

俺は母から逃げるように、父について行った。
けれど、母から離れても、本音を否定されることへの恐怖までは消えてくれなかった。

ねぇ、瑛。覚えてる?

瑛と初めて話した時、俺の算数の答案を見て「マジか」って言ったよね。
最初は、なんて酷いことを言う子なんだと思った。

でも、そのあと。
授業中に俺が当てられそうになると、こっそり答えを教えてくれた。
計算のコツを書き込んだ教科書を、俺のものとさりげなく交換してくれた。

そんな優しさを、たくさんもらっていた。
きっと瑛は、覚えていないだろうけど。
そんなところが、俺の大好きな少女漫画に出てくる王子様(ヒーロー)みたいだったんだ。

小学四年生の時。
憧れのヒーローと、また同じクラスになった。
席が隣になって、言葉を交わして、たくさんの優しさに触れた。

そうして、いつの間にか。
俺の憧れは『好き』に変わっていた。
それでも、想いを伝えようとは思わなかった。

俺は、瑛のいる眩しい世界には入れない、陰キャのモブだ。
友人になるなんて夢のまた夢で、知り合いでいられるだけでも十分だと思っていた。

そんなある日。
朝の読書の時間に瑛が本を忘れたと言ったから、俺は持っていたライトノベルを貸した。

瑛はきっと、『普通』の男の子だ。
それなら、可愛い女の子がたくさん登場するハーレムラブコメを渡せば喜んでくれる。

そう思って選んだのが、母から勧められた『トリせつ』だった。
予想以上に瑛の反応はよく、それをきっかけに俺たちは話すようになった。

母から押しつけられたハーレムラブコメが、俺と瑛を繋いでくれた。何とも皮肉な話だ。
瑛は『普通』に、物語に登場するヒロインたちが好きなのだろう。

内心ではそう思いながら、嫌いだったハーレムラブコメの話を続けた。
瑛ともっと話したくて、続きを読み、感想を交わした。
そうしているうちに、トラウマの象徴だったハーレムラブコメは、瑛と繋がるための大切なものへ変わっていった。

いつの間にか、嫌いではなくなっていた。
俺の深い傷を、こんなふうに塗り替えてしまう。
やっぱり瑛は、俺のヒーローだった。
瑛と『友人』になってみせると言い出したのも、初めは虚勢にすぎなかった。

自分と同じように、周囲には理解されにくい恋心を抱えた義妹。
学校へ行けなくなってしまったツグミを、少しでも励ましたかった。

『モブの俺だって、学校の王子様(ヒーロー)と友人になれるんだ。すごいだろ!』

そう言って、俺は瑛との距離を縮めようとした。
もちろん、瑛を好きだという気持ちは、ずっと前からあった。
けれど、その想いを口にしようなんて考えたこともなかった。

本心を告げれば、否定される。
そんな恐怖が、今も心の奥深くに根を張っていたから。

それなのに。
瑛と一緒に過ごし、これまで知らなかった弱さに触れた。
怖くても自分の本心をさらけ出そうとする勇気も、誰かを助けるために迷わず動ける優しさも、たくさん見てきた。

知れば知るほど、好きになった。

『友人』でいられれば、それでいい。
そう自分へ言い聞かせていたはずなのに、その気持ちは少しずつ薄れていった。

もっと瑛のことを知りたい。
もっと近くにいたい。
『友人』よりも、もっと深い関係になりたい。

そんな欲を、抑えられなくなっていった。

ツグミや白百合さん、ナノさんにその想いを打ち明けると、彼女たちは呆れながらも、臆病な俺の背中を何度も押してくれた。

けれど、いざ瑛を前にすると、本心を言葉にできない。

瑛が、自分自身を主人公に相応しくないと思っていること。
圧倒的な王子様(ヒーロー)なのに、なぜか俺を主人公に見立て、『友人キャラ』としてそばにいようとしていること。

それには、薄々気づいていた。
俺と同じだ。
瑛もまた、自分で決めた役に閉じこもっている。
けれど、その奥にどんな本心を隠しているのかまでは、俺には分からなかった。

だから俺は、テンプレラブコメ風の遠回しな言葉で何度もジャブを打った。
瑛の反応を探り、期待しては勝手に落ち込み、そのたびに瑛を翻弄して、振り回した。

正面から本心を告げる勇気が、どうしても持てなかった。
男の俺が想いを告げれば、きっと瑛を困らせてしまう。

瑛は『普通』だから。
昔、母から向けられた表情が、何度も脳裏によみがえった。

『オレは主人公が好きだから』

そんな時、瑛が何気なく口にした言葉に、ハッとした。
瑛は、男のキャラクターを好きだと、何のためらいもなく口にした。
かつて母が『普通じゃない』と否定したことを、瑛は当たり前のように肯定していた。
俺もまた、瑛を『普通』という言葉で括っていたのかもしれない。

瑛の本当の気持ちを確かめることもせず、男だから可愛い女の子を好きになるはずだと決めつけていた。
かつて母が俺にしたことを、俺も瑛にしていた。
トラウマは消えていない。
本心を否定されることは、今でも怖い。

それでも。

そんな恐怖なんかより、瑛を好きだという気持ちの方が、何倍も、何百倍も強い。

――瑛が俺を主人公だと言うのなら、最後くらい、その期待に応えてやる。

瑛が『友人キャラ』になろうとするのなら、主人公として、俺がその役から引っ張り出す。

ハーレムラブコメの主人公は、最後にたった一人を選ぶ。
そして、自分の言葉で告げるんだ。

『好きだ』と。

俺が選ぶ相手は、最初から決まっている。

俺の好きな人(ヒロイン)であり、俺の王子様(ヒーロー)。

『友人キャラ』という立ち位置から、今度は俺が舞台の中央へ引っ張り出す。
ずっと好きだった、瑛だけだ。
俺は勢いよく古びた扉へ体当たりし、屋上へ足を踏み入れた。