ハーレムラブコメの主人公が最後に選んだのは友人キャラのオレだった。

文化祭当日。
昴は早朝に身体を起こし、ある目的のため、調理器具と保存容器を鞄へ詰め込んだ。
そして、太陽が顔を出す頃に家を出ようとする。

「お兄」

声をかけられて振り返ると、そこには制服姿の妹・ツグミが立っていた。
少し緊張した面持ちで、それでも真っ直ぐ昴を見つめている。

いつもかけていた眼鏡はなく、今日はコンタクトにしているようだ。
昨日までのおさげ髪も、高い位置で結んだツインテールに変わっている。

そんな妹の姿を目にした瞬間、昴の顔に自然と笑みがこぼれた。

「ツグミ! もしかして……」

ツグミは少し照れたように目を逸らし、ツインテールの毛先を指先でくるくると弄りながら答える。

「うん。聖ちゃんに誘われて、文化祭、行ってみようかなって」
「そっか」

昴はそれだけを呟いた。
優しい声は、涙を堪えるようにわずかに震えていた。

「私が勇気を出さないと、お兄の背中も押せないから!」
「すごいな、ウチの妹は」
「でしょ。だから、お兄も頑張れ」
「うん」

小さな拳を握りしめたツグミの言葉は、昴にとって、とても強いエールになった。

兄妹はそれぞれの勇気を胸に、家を出る。

こうして、文化祭の日が始まった。

***

鏡の中に映る自分の姿に、オレは思わず目を細めた。

緩く編まれた長い金色の三つ編みが二つに分かれ、両肩へ垂れている。
肩口を飾るフリルと、黒いスカートをふわりと膨らませる白いエプロンが、全体に柔らかな印象を与えていた。

「やっば。ウィッグ付けたら、マジで美少女じゃん!」
「可愛すぎんだろ!」
「さすが、うちのクラスのビジュ担当」

オレは、翔馬や亮介をはじめとする男子たちから、野太い歓声を浴びていた。

穴があったら入りたい。

チラリと隣へ視線を向ける。
そこにはオレと同じくメイド服を身にまとった、正真正銘のヒロイン・白百合さんがいた。

華やかさと清楚さを兼ね備え、プラチナブロンドの髪と白黒の衣装が恐ろしいほど似合っている。

そんな彼女にまで、

「てる君、とてもお似合いです!」

なんて言われ、オレの顔は引きつった。

その一方、教室の反対側では、女子たちの黄色い声が上がっていた。

「そして……治安悪めのすばる君、マジでヤバくない?」
「黒いTシャツの袖を肩まで捲り上げてるだけなのに、なんであんな沼男になるの?」
「何だろう。他の男子たちは調理実習をする男子小学生(ガキ)みたいなのに、一人だけ初恋泥棒の海賊がいる。絶対、心を奪いに来てる」
「メロ……」

黒いTシャツの袖を無造作に捲り上げ、腰にはエプロンを巻いている。
無造作に見えて、計算され尽くしているようなラフさだ。

水仕事で濡れた腕。
無駄のない筋肉。
何気ない仕草一つにまで女子たちが息を呑むのも、よく分かる。

かくいうオレも、昴の姿に見惚れてしまっていた。

ふいに昴と目が合う。
すると彼は、ニコッと無邪気に笑った。

「瑛」
「ん?」

オレの方へ駆け寄ってくる昴を見て、数人の女子が小さな悲鳴を上げる。

「瑛君は亡国のお姫様で、今は身分を隠してメイドとして働いてるんだよね」
「マジで解釈一致。そこへ海賊が攫いに来るんだ」
「海賊とメイドが邂逅した。エグい」
「絵になりすぎる。最期に見る走馬灯はこれがいい」

まるで劇でも見ているかのように、勝手な設定で盛り上がる観客たち。
集まる視線が痛い。

そんなオレの様子に気付いたのか、昴が周囲の視線から守るように手を取った。

「……場所、変えよっか」
「う、うん」

手を引かれるまま、教室を抜け出す。

笑い声と喧騒から遠ざかるにつれ、胸の奥にこびりついていた熱が、少しずつ冷めていった。

オレたちが自然とたどり着いたのは、誰もいない屋上へ続く階段だった。
古びた扉を前に、以前のように二人並んでもたれかかる。

隣に立つ昴は、何かを考え込んでいるようだった。

扉の隙間から差し込む朝の光が、昴の横顔を照らしている。
その姿に見惚れていると、昴が不意にこちらを向いた。

互いの息がかかりそうなほど、顔が近づく。

突然の距離に、心臓がうるさく跳ねる。
そんなオレの動揺に構うことなく、昴は落ち着いた声音で唐突な質問を投げかけてきた。

「ラブコメマスターの瑛に聞きたいんだけど、幼なじみって、どこまでだと思う?」
「……え? そうだな。小学校入学くらいまで?」

オレの答えを聞くと、昴は何かを確かめるように目を細めた。

「へぇ。そっかそっか」

含みのある笑みを浮かべ、オレの正面へ移動する。

そして。

「じゃあ、友人の瑛に相談がある」
「じゃあって、何!?」

ドンッ、と昴の腕がオレの頭上へ伸びた。

これは、世に言う壁ドンだ。

至近距離から、昴の切れ長の瞳がオレを見下ろしている。
いつもとは少し違う野性的な風貌。
伏せた目元から覗く色気。

心臓が痛いほど鳴り響く。

「幼なじみが可愛い件について」
「えっ」
「フフッ」

昴はオレの金色の三つ編みを一房だけ手に取り、悪戯っぽく微笑んだ。
そして、甘さを帯びた声で続ける。

「何かアドバイスはある?」

オレは思わず昴から視線を逸らし、下を向いた。

……オレが照れてどうする。

これは、あくまでナノさんについての相談だ。
あんなにクールな彼女の可愛い一面を知った昴へ、いつものように助言しないと。

そう思うほど、胸の奥が引き裂かれるように痛んだ。

昴はオレを『友人』として信頼し、こうして腹を割って相談してくれている。
それなのに、オレはこんな気持ちを抱えてしまっている。

何も言えず、口をつぐむ。

数十秒ほど経った頃だろうか。
オレの頭上に伸びていた手が引かれ、身体を包んでいた圧迫感が和らいだ。

「……っ、あぁ、そう、だな。えっと……」

それをきっかけに、ぐちゃぐちゃになった頭を何とか回転させる。
言葉を探しながら、昴を見ようとゆっくり顔を上げた。

その時。

「はむっ」

唐突に、温かい唐揚げが口へ放り込まれた。

香ばしい匂いと肉汁が口いっぱいに広がり、思わず声が漏れる。

「美味しい?」

階段に置いていた鞄から取り出したのだろう。
昴は左手に、たまらない香りを漂わせる保存容器を持ち、右手には爪楊枝をつまんでいた。

ニコリと微笑みながら、オレの反応を待っている。

「……うんまい。めちゃくちゃ美味い」
「良かった」
「ていうか、なんで唐揚げ?!」
「瑛がメイドさんを頑張れるようにって。さっき家庭科室を借りて揚げてきたの。正真正銘、揚げたてガチ唐揚げ」
「っ!」

本当に、オレのために作ってくれたんだ。

その事実を理解した瞬間、喉の奥がぎゅっと詰まった。

でも、きっとこれは『友人』としてオレを励ますための優しさで。
それ以上の意味を期待してはいけない。

クスリと笑った昴が、保存容器をオレへ差し出す。

「お互い、今日一日頑張ろうね」
「……うん」

唐揚げよりも、胸の内側の方がずっと熱い。

オレはこの気持ちを誤魔化すように、絶品の茶色い宝石を次々と口へ運んだ。

『これより、蘭歩高校文化祭を開催します!』

スピーカーから流れた開始の合図が、二人だけの時間を現実へ引き戻す。

まだ心臓がバクバクとうるさい。
オレは視線を落とし、拳を小さく握りしめた。

昴の優しさを『友人として』受け取りたい本心と、それ以上を期待してしまう本心。
二つの気持ちが、また胸の中でぶつかり合っていた。