ハーレムラブコメの主人公が最後に選んだのは友人キャラのオレだった。

体育祭最終種目。学年全体リレー。

各クラスの第一走者がスタートラインに並ぶ。
張り詰めた空気の中、スターターピストルが空へ向けられた。

「位置について、よーい——」
【バン!】

乾いた号砲とともに、選手たちが一斉に地面を蹴る。

「鈴川さん、頑張れー!」

第一走者の鈴川さんは、短距離走者らしい鋭いスタートを決めた。
無駄のないフォームで100メートルを駆け抜け、他クラスより一歩早く、第二走者へバトンをつなぐ。

「白百合さん!」

鈴川さんの呼びかけに合わせて、白百合さんが走り出した。
二人の手の間で、バトンが滑らかに受け渡される。

「ナイスパス!」
「白百合さん、速い!」

長いプラチナブロンドを靡かせ、白百合さんが颯爽とトラックを駆け抜ける。
その走りは力強いのにどこか優雅で、応援席から黄色い歓声が上がった。
そして、白百合さんが第三走者の待つテイクオーバーゾーンへ近づいていく。

「酒神くん!」

名前を呼ばれた昴が、緊張した面持ちで走り出す。
白百合さんが差し出したバトンを確かに受け取った瞬間、昴は一気に加速した。
綺麗なスタートダッシュを決め、後続との差をどんどん広げていく。

白百合さんからバトンを受け取った昴は、綺麗なスタートダッシュを決め、後続との差をどんどん広げていく。

「頑張れ~!」
「3組の子、速い! かっこいい!」

あちこちから黄色い声援が飛び交う。
オレが巻いた赤いハチマキが風に靡き、昴の額から滴る汗が陽光を受けてキラリと輝いた。

そうだろ、かっこいいだろ!
内心では、そんな声援に向かって鼻を高くしていた。

やがて、昴は練習でいつも減速していた200メートル地点に差しかかる。
グラウンドを揺らすような大歓声の中、オレも腹の底から声を張り上げた。

「昴! 頑張れ!」

その声に応えてくれたかのように、昴は勢いを止めることなく、さらに力強く地面を蹴った。

努力は報われる。
昴の走りは、まさにそれを体現しているようだった。

胸に熱いものがこみ上げ、オレは、こちらへ向かって走ってくる主人公の名前をもう一度呼ぶ。

「昴!」

オレの呼びかけに、昴がニコリと笑みを返した。
最後の直線。
あと数十メートルで、オレにバトンが渡る。

その瞬間だった。昴の足が、もつれた。

「あっ……!」

身体が大きく傾き、砂埃が舞い上がる。
その向こうで、昴は地面に膝をついていた。

オレの頭が真っ白になる。

ざわめきの中から、諦めたような声が耳に届いた。

「あぁ、3組、いい調子だったのに……」
「これは、もう無理だよな……」

けれど、倒れた昴はそんな声なんて気にしていなかった。
ただ、真っ直ぐで揺るぎない瞳を、ゴール(オレ)に向けていた。

「っ……まだ、あと、ちょっと……!」

潰れかけた声。
それでも自分を奮い立たせるような言葉が、微かに聞こえた。

そんな昴のひたむきさに、胸を強く打たれる。

「瑛……」

オレの名前を呟くと、昴は大きく息を吐き、ふらつく脚で立ち上がった。

「……昴」

痛みに顔を歪め、涙と汗でぐしゃぐしゃになりながら、それでも前を向いている。

「そこで、待ってて。行く、から。ぜっ、たい……!」

嗚咽の混じったボロボロの声で叫ぶ。
擦りむいて赤くなった膝を庇いながら、一歩ずつ、一歩ずつ、テイクオーバーゾーンへ近づいてくる。

そんな昴の姿を前に、オレは立ち尽くしていた。

なんで、そこまで頑張れるんだよ。
できなかったはずのことを、どうしてここまで克服できたんだよ。
ボロボロになっても、どうしてまだ立ち上がろうと思えるんだよ。

どこまで、かっこいいんだよ。
どこまで、オレの好きな主人公なんだよ。

『友人キャラ』なら、どうする?
がむしゃらに立ち上がる主人公を、腕を組んで見守るのか。
これも主人公に与えられた試練だと、ここから動かずに待つのか。

違うだろ。

苦しんでいる昴に、少しでも近づきたい。
今にも倒れそうな昴のために、できることをしたい。

キャラなんて関係ない。
これが、今のオレの本心だ。

「昴!」

オレはテイクオーバーゾーンの奥から、開始線ぎりぎりまで駆け戻った。
それ以上は昴の方へ行けない。
だから、バトンを受け取る手を、できる限り前へ伸ばす。

「あとちょっとだ! 頑張れ!」

オレの声に、昴の表情がほんの少しだけ明るくなった。

「すばる君! 頑張れぇぇぇぇ!」
「頑張れ、酒神!」
「頑張れ~!」

翔馬の声を皮切りに、亮介やクラスメイトたちの声が次々と上がる。
声援が重なり、大きな塊となって昴の背中を押した。

昴はよろめきながらも、必死に腕を伸ばす。

その指先に握られたバトンへ、オレも手を伸ばした。

昴の手から、オレの手へ。
指先が一瞬触れ、二人をつなぐバトンの感触が確かに伝わった。

「て、瑛……ごめ……」
「謝んな」

自分を責めようとする昴の声を、すぐに遮る。

「すげぇよ、昴。よくここまでつないだ」

昴の瞳から、一滴の雫がこぼれ落ちる。
それが涙なのか汗なのか、確かめている時間はなかった。

他クラスのアンカーたちは、すでに走り出している。
それでも、昴が最初につけた差のおかげで、まだ背中が見える距離だ。

バトンを受け取った拍子に、緩く結ばれていた赤いハチマキが昴の額からほどけた。
地面へ落ちる寸前、オレは空いている左手でそれを掴む。

「これ、借りる」
「え……?」
「昴の想いと一緒に走る。全部抜いてくるから、しっかり見といて」

ハチマキを素早く左手首へ巻き付け、右手でバトンを強く握る。

「瑛……!」

溢れ出しそうな涙を堪えながら、昴はオレを見つめていた。

「かっこよかったよ。練習の時から、ずっと」

最後にそれだけを伝え、昴の肩を一度だけ力強く叩く。

「じゃあ、行ってくる!」

昴に笑顔を向け、今度は応援席を指さした。

「お前ら! 最後までオレらを応援しろよ!」

「「「「「はい!」」」」」

これまで空気ばかり気にしていたオレなら、きっと口にしなかった命令口調の言葉。
けれど今は、心の底から溢れた本音を、そのまま叫べた。

地面を蹴る。

足裏に伝わった反発が、全身を突き上げる。
爆発したみたいに身体が前へ飛び、風を切り裂く音と、スタンドからの割れんばかりの歓声が一気に押し寄せた。

「てる、いっけぇぇぇ!!」
「まだいけるぞ! 抜けーッ!」
「瑛、頑張って……!」

視界の先には、前を走る背中しかない。

昴の想いを絶対に無駄にはできない。
絶対にクラスを優勝へ導いて、昴にMVPを取らせたい。
昴の願いを叶えたい。

あんなに必死に頑張ってきたヤツが、泣いて終わる展開なんて、オレは大嫌いだ。

変えてやる。
こんな展開、オレが変えてやる。

主人公が——いや、昴の頑張りが認められて、昴が笑顔になる展開しか望んでいない。

静かに見守る『友人キャラ』からは、逸脱するのかもしれない。
でも、そんな役割よりも、今は昴のために走りたい。

一人目を抜く。
二人目を抜く。

息が焼ける。
脚が悲鳴を上げる。

それでも、胸の奥で燃えるものが、オレの身体を前へ前へと突き動かす。

三人目の背中が近づく。
その横を抜けた時には、もう何人追い越したのかなんて分からなくなっていた。

ただ、先頭を走る最後の一人だけを見据える。

相手もオレの気配に気付いたのか、ゴールを目前にして、さらに速度を上げた。

苦しい。
脚が重い。
肺が張り裂けそうだ。

その時、左手首に巻いた昴のハチマキが、チラリと視界に入った。

昴は、あれだけボロボロになっても立ち上がった。
オレのところまで、バトンをつないでくれた。

なら、オレが止まるわけにはいかない。

「うおおおおおおお!!!」

残っていた力の全てを振り絞り、先頭の肩に並ぶ。
一歩。
もう一歩。

ゴールの直前で、その身体を追い抜いた。

視界が真っ白になる。
気付けば、オレは胸でゴールテープを切っていた。

一瞬の静寂。

その直後、耳を劈くような歓声とざわめきが、グラウンド全体を包み込んだ。

荒い呼吸を繰り返しながら、ふと、想いを引き継いだ場所へ目を向ける。

そこには、すぐに駆けつけてきたのであろう翔馬と亮介に肩を借りながら、オレを真っ直ぐ見つめている昴がいた。

オレは右手のバトンと、左手首に巻いたハチマキを高く掲げ、大きく振る。

すると昴は、赤くなった目を細め、はちきれんばかりの笑顔を見せた。

——オレはその時、昴から目を離せなくなってしまった。

速くなった鼓動は、きっと全力で走りすぎたせい。
熱くなる身体も、きっと全力で走りすぎたせいだ。

……きっと、そうだ。