セカイが終わるその日、ぼくらは永遠の環を結んだ

 ――世界が滅ぶまで、あと十三日。

 八月十八日、朝。
 昨夜の夏祭りの熱が肌に残っているような、少し気恥ずかしい朝だった。
 町内会長さんが用意してくれた空き家で休み、昴くんの体力もかなり回復したはずだ。
 私は洗面台の小さな鏡の前で、ボストンバッグからメイク道具を取り出す。
 いつもなら日焼け止めだけで終わり。
 けれど今朝は、それだけじゃ嫌だった。
 浴衣姿をかわいいと言ってくれた昴くんの顔が、まぶたの裏から離れないから。
 色つきのリップを唇に馴染ませ、薄づきのチークを頬にぽんぽんと乗せる。
「……よし。これくらいなら、不自然じゃないはず」
 深呼吸をひとつして、リビングに戻る。
 準備を終えていた昴くんが、リュックを持ち上げながら振り返った。
「……あれ? 鈴木、なんか今日……いつもと違わないか?」
「えっ? そ、そうかな……」
「……浴衣のときとも、ちょっと違う感じで……すげぇ、かわいい」
 ……やったっ。
 心の中で小さくガッツポーズをする。
 顔が熱くなるのを誤魔化すように、わざとらしく両手を叩いた。
「そ、それじゃあ! 町内会長さんに挨拶して出発しよっか!」
「お、おう」

 * * * *

 八月十九日。真昼。
 丸一日移動して岡山県へと足を踏み入れた私たちは、瀬戸大橋のルートを確認するため寄り道をしていた。
「完全に真っ二つだな……」
 眼下の瀬戸大橋を見下ろし、昴くんがつぶやく。
 鷲羽山の展望台から雄大な姿を一望できる。けれど、視界に飛び込んできたのは無残な姿だった。
 巨大な橋の道路部分が分断されている。
 ケーブルを支えていた勇壮な主塔は、東京タワーがそうであったように、頂上から半分くらいのところで二つ折りにされていた。
 人類の巨大建造物さえ、隕石は容赦なく破壊する。
「ワンチャン通れたらって思ったけどなー」
 昴くんの白いパーカーが瀬戸の風に揺れる。
 カーゴパンツのポケットから手を出して、彼がキャップを脱いだ。
 私も強い風に白い日傘をたたむ。
 真っ白なワンピースの裾がなびいた。
 夏祭りの翌朝、学校に残された支援物資の中からいただいた一着だ。群馬からのセーラー服を洗ってバッグにしまい、今はこの風通しのいい服を選んでいた。
 まだテレビが映っていた頃、明石海峡大橋の崩落や、直撃で大穴が空いた淡路島の大観覧車が報道されていた。
 ここを渡ることができれば、父母ヶ浜は目と鼻の先だったのに。
「しまなみ海道が使えることを願うばかりだね」
 今日を含めて残り十二日。
 しまなみ海道を渡ることができれば、父母ヶ浜まで徒歩だけでも五日でたどり着ける。
 あと一週間で瀬戸内海を渡らなければならない。
 とにかく、しまなみ海道の起点――尾道へ行く。すべてはそこからだ。
「たださ……」
 渡れなくて残念なはずなのに、昴くんは微笑んでいた。
「綺麗だな、この風景。俺、この海を好きになったよ」
 穏やかに波打つ瀬戸の海。
 抜けるような夏の蒼穹。
 海の青と空の青が、遙か遠くの水平線で淡く混じり合っている。
 境目がない、薄い空色のグラデーションに吸い込まれそうだった。
「……うん。綺麗だね」
 これが普通のデートだったらよかったのにな……。
「来てよかった。この景色を、鈴木と一緒に見られたから」
 最近の昴くんは、ちょくちょくこういうことを言う。
 ……困る。顔中が熱くなるから。
「んじゃ、先を急ぐか!」
 駐車場で待つ赤い車へ向かう。
 ショートカットのお姉さんが、たばこを吸いながら待っていてくれた。
 黒のぴったりTシャツに膝上のショートデニムがよく似合っている。
「デートはもうええのー? もう満足したん?」
 お姉さん――まさみさんが透き通った声で呼びかける。
「で、デートじゃないです」
 さっき、そうだったらいいなって思ってしまったけど。
「あははっ。ほな、行けるところまで送ったるわ。乗りやー」
 助手席に昴くん、後部座席に私、運転席にまさみさん。
 丸くてレトロな車で鷲羽山を降り、尾道方面へと国道を西へ走る。
 昨日姫路市で出会ったまさみさんは元看護師で、私を置いていったお母さんと同じだった。
 私たちの旅を応援すると言って、ここまで車を出してくれたのだ。
「そういや、あんたら四国に渡るんやろ? 微弱な電波拾うたんやけど、香川の災害拠点病院に全国から腕利きの医師や医療チームが残って、不眠不休で治療を続けとるらしいで」
「香川の、病院……?」
「インフラが死にかけとるのに自家発電回して、運び込まれる怪我人を手当てしとるんやて。『最後の瞬間まで、ひとりを救う』ってな。アタシには無理や」
 ……最後の瞬間まで。
 でも、そこで働く人達の家族は……?
 最後まで一緒にいたいと思わないのだろうか……?
 お母さんは私を置いて病院へ向かった。立派だと思うし、尊敬もしている。
 けれど世界の終わりを前にして、母が選んだのは私ではなく見ず知らずの患者たちだった。警察官の父も同じだ。
 その寂しさとやりきれなさは、胸の奥に冷たい棘のように刺さったままだ。
「今ちょっと思てんけどさー。港で漁師さん探して、船で四国まで送ってもろたほうが早いんちゃう?」
 もちろんそう思って港で探したこともあったが、軽油が枯渇して動かせる船はどこにもないと口を揃えられた。
「ほな、しまなみ渡るしかあらへんね。夕方なんかエモいで? カップルには最高やわ」
「か、カップルじゃないです」
 後部座席から指摘すると、助手席の昴くんが子どもみたいにしゅんとした横顔を見せる。
 それがなにを意味するのか、想像はできるけど……。
 本当にそうなのかな……私の勘違いじゃないのかな……。
 でも、すぐにいつもの明るい昴くんに戻り、小一時間ほど走って線路の側で車はとまった。
 外に出るとエアコンの涼しさから一変、夏の熱気に包まれる。
「山が近くて、海も近くて、瀬戸内って自然がお得だな!」
 昴くんらしい感想に、くすりと笑う。
「ここまでしか送られへんねん。悪いなぁ。旦那の元から離れたないんよ」
 車内ではずっと旦那さんののろけ話を聞かされていた。素直にいいなと思えるほどに。
「ひとりで“白昼夢”を飲んでもうて……卑怯やんなぁ。でも、愛してるんよ」
「えっ」
 私も、昴くんもぎょっと息を呑む。
「変な空気にしてもうてごめんなー。なんか、ふたりが妬けてしもてな」
 まさみさんは運転席から降り、すたすたと昴くんのそばに歩み寄った。
「これ、お詫びな」
 彼女は昴くんの頬に、ちゅっと短いキスをした。
「あっ」
「もっとぐいぐい行かなあかんで、お嬢ちゃん。昴くん取ってまうでー? なんてな♪」
「ま、まさみさん!?」
「あははっ。それじゃあ――また、いつかどこかで」
 最後だけ真面目な顔になり、まさみさんは姫路へ車を走らせていった。
 隣の昴くんを見る。
 顔が赤いのは絶対に暑さのせいじゃない。
「……柔らかかった」
 そんなつぶやき、聞きたくない。


 山際を走る夏の線路は、まぶしい光の中で遠くまで続いていた。
 昨夜歩いたあの静かな闇とはまるで違う、太陽に灼かれた道。
 抜けるような青空まで続いているかのよう。
 夏の陽光を浴びた緑が、両側で私たちを迎えるように輝く。
 線路の石を踏むふたり分の足音は、盛大な蝉時雨にかき消されていた。
 清々しい世界なのに、胸の奥にどろどろした気持ちがたまっていく。
 それがなんなのか、自分でもよくわからない。
「なぁ、鈴木ー」
 後ろから情けない声が届く。
 まさみさんと別れて約一時間。
 頬にちゅーされて、でれでれしていた昴くんが頭から離れない。
 本当はでれでれしていなかった。ぼーっとしていただけ。
 でも、思い出すと、でれでれしてる昴くんで再生されるのはなんで……?
「鈴木ってばー」
 私は白いワンピースがなびくほど大股で歩く。
 黒のボストンバッグが肩へ食い込んで痛いけれど、イライラが勝っていた。
 白い日傘で彼から顔を隠す。
「なぁ。怒ってるのか?」
「別に」
「機嫌直してくれよ、鈴木」
 むかむかして、気持ちが落ち着かない。
「もしかして、すねてるのか?」
「……すねてないし」
「あっ」
「……なに?」
「まさみさんが俺にキスしてくれたから、それで嫉妬してるのか?」
「はぁ!?」
 痛いところを突かれて、昴くんへと向き直る。
「でも、俺たちはめちゃくちゃ仲がいいけど、恋人じゃないわけでさ……」
「そうだよね。恋人じゃないから嫉妬する権利なんてないよね。どうせ、私になんて」
 ああ、我ながら面倒くさいやつだなぁ。
 でも、この気持ちを抑えられない。
「……嫉妬っていうのなら、俺も嫉妬してたよ」
「えっ……?」
 思わず変な声を出して立ち止まる。
「いつ? どこで? 誰に?」
「……鈴木が出産を手伝ってたとき」
 えっ、どういうこと?
「……あいつの名前を呼んでた」
「あいつ?」
「継都くんって……」
「呼ばないと指示出せないじゃない」
「だからって、下の名前で呼ぶことはないだろ……」
「継都としか教えてくれなかったんだもの」
「あ、今度は呼び捨て」
 彼のほうが面倒くさい状態になっている。
「昴くんのことだって、下の名前で呼んでるじゃない」
「くん……はいらない」
「ふぅん……」
 急にもやもやが晴れていく。
 それどころか、私……嬉しい。
「昴くんは、昴くんでしょ?」
 わざと意地悪に返してみる。
「もういいよ……」
 もっとすねてしまった。でも、それが愛おしい。
「しょーがないなぁ」
 息をひとつ吐き、三歩だけ進んで彼を覗き込む。
 そして、たっぷりと気持ちを込めて――
「昴っ」
「――っ!?」
「これでいい?」
「もっかい呼んで欲しい!」
「すーばーるー」
「ち、違う! さっきみたいに、こう、かわいい感じで……!」
「すばるぅ~?」
「それも違う! わざとやってるだろ!?」
 どうしよう。すごく楽しい。
 ただ名前を呼んでいるだけなのに、背中に羽が生えたみたいに身体がふわふわする。
「――昴っ」
「お、おう……」
 普通に呼んだだけなのに、彼は真っ赤だ。
「どうせ、女子に昴って呼ばれるの、夢だった……って言うんでしょ?」
「なんでそれを!?」
 彼のことなら、もうお見通しだ。
「これからは昴って呼ぶね」
 だから、私のことも――
「私のことも……」
 花奈って呼んで欲しいな……。
「……わかった」
 恥ずかしくて言えなかった言葉を、彼は汲み取ってくれた。それがたまらなく嬉しい。
「じゃあ、呼ぶ、ぞ?」
「うん」
 胸が高鳴る。
 嬉しさと恥ずかしさと期待で、心がぎゅっと鳴った。
「は……は……………………な……」
「えっ? 今、呼んだ?」
「は……は………………ごめん!」
「昴こそ、ふざけてる?」
「俺……女子の下の名前、呼び捨てで呼んだことないんだ……」
「私が最初ってこと?」
「……そうなる」
 どうしよう。すっごく嬉しい。
 名前を呼んでくれるだけでも心弾むのに、昴にとって私が最初だなんて。
「でも昴、早くしてくれないと地球が滅びちゃうよ?」
「が、がんばる」
「期待してる」
 また前を向いて歩き出す。
 線路の幅が狭く、並んで歩けないのが少しもどかしかった。

 * * * *

 八月二十一日。
 青空の下、尾道港で釣りをしていた無精ひげのおじさんに、しまなみ海道について尋ねた。
「通れるで。お嬢ちゃんらなら自転車で二日もありゃ向こうまで渡れるじゃろ」
 漁師は見つからなかったけど、貴重な情報を得た。
「通れるってよ、鈴木!」
「……よかった。じゃあ自転車を探そう。徒歩で渡るのは大変だから」
「電動のやつなら駅にあるけぇ。電気がのうなってだいぶ経つけど、バッテリー残っとるじゃろ」
「ありがとな、おっさん!」
 そのとき、近くのビルの窓ががたがたと揺れはじめた。
「昴、隕石!」
 西の空から巨大な光の筋が向かってくる。
 ――間に合わない。
「鈴木!」
 昴が私を包み込むように抱きしめた。
 直後、腹の底に響く轟音とともに、対岸の島の向こうから水煙が空高く噴き上がる。海底火山の噴火のようだ。
「落ちたん、因島か!?」
「海です、たぶん!」
「おっさん、逃げるぞ!」
「はっ、えっ!?」
 昴はおじさんの手をつかんだ。
「津波が来ます!」
 すぐそばのテナントビルへ駆け込み、階段を四階まで駆け上がる。
 衝撃波で割れた窓から見下ろすと、津波こそ免れたものの、急激な高潮で浮き桟橋や大型船が陸へ押し上げられていた。
「……こえぇのぉ。あそこにおったら波にさらわれとったわ」
 おじさんは震え、私と昴は言葉を失った。


 一気に階段を駆け上がったせいで昴の呼吸が急激に荒くなり、胸をかきむしるような発作が始まった。
 震える手でリュックから水筒と薬を取り出し、必死に背中をさする。
 薬が効いて落ち着いたあと、港に集まっていた人たちに話を聞いた。
「そんな……」
 昴が肩を落とした。
 しまなみ海道の二番目の橋、因島大橋が破壊されたという。
 日数に余裕はあるが、四国へ渡る道が絶たれてしまった。
「漁師のひとを探そう、昴」
「……だな。行動あるのみだ」
 すぐに前を向くのが昴の強さだ。
「なんじゃ、漁師探しとるんか」
 避難を共にしたおじさんが声をかけてきた。
「そうなんです。船を出せる知り合いはいませんか?」
「そりゃあ、なんでじゃ?」
「俺たち、どうしても四国へ渡りたいんだ」
「……ほぉ」
 おじさんは腕を組み、ひげをつまんだ。
「お嬢ちゃんらは命の恩人じゃけぇの……。よっしゃ! 今治までは無理じゃが、手前の大島までなら乗せちゃるわ」


「気持ちいー! 私、漁船、初めてです!」
 潮風を受けて髪とワンピースが後方へ引っ張られる。
 息を吸い込めば、海の匂いが喉の奥を満たした。
 船の甲板は思っていたよりも低く、波打つ水面がすぐそこにある。
 船外機のガガガッという震えが胸の奥まで響き、身体を小さく揺らす。
 手すりをしっかりつかんでいればバランスを崩すこともない。
「楽しんでくれて、なによりじゃわ!」
 操舵席でカッコよく舵を握るおじさんの後ろに立つ。
 ここが一番揺れないのだそうな。
 でも、私はもっと揺れてもいいなぁって。
 だって、すっごく面白い。
「波も風も、ええ感じじゃわ!」
 釣りをしていたおじさんは元漁師で、漁をサボっていたから燃料が残っていたと笑っていた。
「わぁ!」
 船べりからのぞき込むと、背後に真っ白な道が伸びていた。
 静かな海をひと筆で描いたような泡の航跡がきらきら光る。
 他に航行する船はなく、この美しく雄大な瀬戸の風景を独り占めしていた。
「ねぇ、昴! 見て! すっごく綺麗!」
「お、俺は怖くないぞー!」
 じゃあ目を開けてほしい。壁に抱きついたまま強がるところはかわいいけれど。
「怖い、無理! 早くついて、大島ぁー! かもーん!」
 あ、強がるのをやめた。なんとか耐えて、昴。
「あと一時間くらいで着くけぇの!」
 しまなみ海道は六つの島に橋がかかっていて、四国に最も近いのが大島だ。
 自転車なら二、三日はかかるはずの距離を、漁船ならわずか一時間。
 しかも、十分走れるバッテリーが残った電動アシスト自転車まで譲ってもらえた。
 大島からなら、上り坂だけアシストを使えば一時間半ほどで四国へたどり着ける。
「お嬢ちゃんら、あれが多々羅大橋じゃけぇ!」
 遠くからでも、その大きさがわかる。
 多々羅大橋の“脚”。
 私たちは上下に揺られながら徐々に近づく。
 その白い塔は空に向かってまっすぐ伸びていて、その先端が陽の光を受けて金色に光っていた。
 まるで海の上に、山がそのまま立っているみたい。
「下を、くぐるけぇの! ちぃと速度、落としちゃるけぇな!」
 漁船が巨大な影に入った。
 見上げれば、空を切り裂くように伸びる巨大な“道”。
 まるで海を跨ぐ巨人の骨組みの下を、静かにくぐり抜けているみたいだった。
「……本当に人間が作ったの?」
「でけぇ……」
 昴も見入っている。
「……こんな体験、終末じゃないとできないな」
「終末も少しはいいことあるね」
「俺はいっぱい、いいことあったけどな。鈴木のおかげで」
「……そ、そう」
 無邪気な褒め言葉、今は反則だ。


 島々の間を縫うように波を蹴立てて走り、夕暮れ前、素朴な佇まいの大島の港に着いた。
「おじさん。本当にありがとう」
 地面の確かな感触に安堵する。海の上も楽しかったけれど、やっぱり安定しているほうが落ち着く。
「いやぁ、こっちこそじゃわ。こんな世の中で女子高生に会える思わんかったけぇな。あんな薬で死なんでほんま良かったわ」
 あんな薬と言われて、どきりとした。
 私のポケットには、まだ――
「お嬢ちゃん。最後におじさんの頬にキス、ちぃとだけ……」
「お、おお、おっさん!」
 昴は私を守るようにして、おじさんとの間に立つ。でも、まだ乗船時の恐怖の余韻で、足が震えている。
 かっこいいんだか、悪いんだか。
 まあ、でも……うん。
「ははっ! 冗談じゃけぇ!」
「でも、なにかお礼をしたいです。貴重な燃料を使ってくれたので」
「だからって、鈴木が頬チューすることはないだろ!? もっと自分を大事にしろ!」
 違うお礼のつもりだったのに、勘違いして怒る昴が少し嬉しい。
「お礼は命の恩人からもらうもんじゃねぇしの……そもそもお嬢ちゃんらと出会えたんがありがたいけぇ、やっぱりいらんわ」
 私と昴が疑問に思っていると、おじさんは話を続ける。
「十年以上前に別れた女房がこの島におるんじゃ。地球が滅ぶ言うても会う勇気が出んでの。でも、あんたらを乗せたんも海の女神様が背中押してくれたんじゃ思うてな」
「なんで今まで会わなかったんだよ。こんなに近くにいるのに」
「大人には、いろいろあるんじゃ……」
「おじさん。そういうのに大人も子供も関係ないですよ。地球はもうすぐ滅ぶんだから」
「そ、そうじゃな。お嬢ちゃんの言う通りじゃ」
「おっさん、俺をスルーして鈴木の言うことばかり聞いてる……」
 拗ねる昴の足の震えは、もう止まっていた。
「よっしゃ! 今から会いに行ってくるけぇ!」
「がんばって、おじさん」
「がんばれ、おっさん!」
「……お嬢ちゃんが海の女神様じゃったんじゃな。旅の成功祈っとるけぇな!」
 手を振って去っていくおじさんを見送る。
「私、海の女神様だって」
「美人だもんな、鈴木は」
「……そういう褒め言葉、禁止」
「えっ、なんで!?」
 私はぜったい美人じゃない。
 でも、昴からはそう見えてるんだ……そっか……。
「行こう、昴」
 照れ隠しに急かすと、彼は電動アシスト自転車にまたがった。
「後ろに乗ってくれ、鈴木」
「えっ? 運転するのは私だよ」
 最近心臓の調子はよさそうだが、無理はさせたくない。
「夢だったんだよ。女子を後ろに乗せてふたり乗りするの」
「またぁ? 昴の夢って無限にあるんじゃない?」
「ほとんど全部、鈴木が叶えてくれたんだ。ありがとな」
 背を向けた彼の耳が赤いのは、夕陽のせいじゃないと思いたい。
「……じゃあ、残りも私が叶えてあげないとだめかー」
 ボストンバッグを後ろに回し、荷台に横向きで腰掛け、昴のお腹に腕を回す。
 筋肉質で細身のお腹……初めて触れた。
 すると、私の手を包み込むように、温かくて大きな手が重なった。
「しっかり捕まってろよ」
「……うん」


 私たちは自転車に乗り、しまなみ海道へ合流する螺旋の坂道を上っていく。
 電動アシストが力強くペダルを押し出してくれるおかげで、昴の息も乱れていない。これなら心臓への負担も抑えられそうだ。
 周囲の景色が徐々に足元へ落ちていく。
 そして、ついにしまなみ海道――来島海峡大橋へたどり着いた。
「すげぇ……」
 海がずっと下に見える。見上げれば空が近くて、青に包まれそうだ。
「……綺麗」
「……だな。でも、ここから先はもっと綺麗だぞ。しっかり捕まってろ!」
「待って、無理しないで、ゆっくり進んで――」
「無理!」
 昴はアシストのスイッチを一気に強へ押し込み、強くペダルを踏み抜いた。
 モーターが唸りを上げ、ぐぅんと急加速する。
「きゃあ」
 どんどん加速していく。
 髪と白いワンピースのスカートが風に引っ張られる。
「怖い怖い怖い! 怖いよ、昴!」
「船に乗ってたときと逆だな! しっかり捕まってれば大丈夫だ! 俺は鈴木を落としたりしない!」
 でも、こんなの、怖い――
 ぎゅっと彼に抱きついた瞬間、はっと気づいた。
 彼の胸に回した私の手のひらで――どくんどくんって――
 規則正しく、力強く――どくんどくんって――
 あっ、ああぁ……涙がとまらない。
 昴は生きてる。昴が生きてる。元気に、嬉しそうに、楽しそうに。
 心臓が悦びの声を響かせている。ううん、叫んでる。
 嬉しい。ただ元気に生きていてくれる。
 それだけで、こんなにも嬉しいなんて――
「すげー、気持ちいー!!」
 どこまでも瀬戸の海が広がっている。
 夏の夕日を受けて、金色の水面がダイヤモンドのようにキラキラと輝いている。
 空の色が変わっていく。
 山吹色から少しずつ深い紺色へ。
 一番星が私たちを祝福するかのように輝いていた。
 美しくも雄大な自然と、人類の偉大な建造物が生み出す、息を呑むような光景。
 その中を、私と昴が――“私と昴だけ”が自転車で走る。
 風を切るこの速度が気持ちいいけど、この手のひらに伝わる“もうひとつの彼”が心配だ。
「ねぇ、昴! 心臓、大丈夫!?」
「すっげぇ楽しい!!」
 昴はこっちを向いて叫んだ。
 澄んだ横顔が見えた。
 私を一瞬だけ見て笑った。
 手のひらには、ずっと彼の鼓動が響いている。
 昴は今こそ生きている。
 世界が滅ぶとわかっていても、まっすぐに前を向いて。
 せいいっぱい生きて。
 世界を楽しんでいる。
 安楽死の薬を今も持ち歩いている私とは違う。
 昴はカッコイイけど、それだけじゃない。
 一人の人間として、私は彼を心から尊敬している。
 だから、昴はセカイで一番素敵なんだ……。
「鈴木ー!」
「なにー!?」
 こんなときでも鈴木呼びなんだ……と少し寂しくなった。
 寂しくて、昴の身体にぎゅっと抱きついた。
「今から、鈴木に、言いたかったことを言うぞー!!」
 自転車の速度がさらに上がる。
 まるで、昴の鼓動そのものみたいに。
「ま、待って! なにか言うなら、もっと速度落として!」
 なのに、私の言葉を全スルー。
 昴の背中越しに、息が少しだけ震えているのがわかった。
 言葉より先に、緊張が伝わってくる。
 そして、もっと速度があがって――
 風の音を切り裂くように――
「俺はーーーー! セカイで一番! 花奈が! 好きだぁーーー!!」
 ――セカイで一番。
 ――花奈が。
 ――好き。
 ウソ? ホント?
 心臓が、喉から飛び出るかと思った。
 あまりの衝撃に、頭の中が真っ白になる。
「ね、ねぇ昴! 今、なんて言ったの!?」
 私はずるい。
 もう一度聞きたくて、聞こえていないフリをした。
「何回でも言ってやる! 星加昴は、鈴木花奈が! 花奈が! 大好きだ!! 俺と付き合ってくれー!!」
 胸が、ぎゅっと苦しくなる。
 でも、幸せな苦しみ。
 再び浮かんできた涙が、風に消えていく。
「花奈ーーー! 俺の彼女になってくれーーー!!」
 私は息を吸った。
 世界が終わる音よりも、昴の鼓動のほうが大きく聞こえた。
 ――どくっ、どくっ、どくっ、どくっ、どくっ、どくっ。
 さっきよりも鼓動が早い。
 それは昴が疲れてきたからかな。
 それとも、私の返事を待っているから?
 私の返事を急かしているのかな?
 わかったよ。
 今すぐ返事をするからね。
 ちゃんと聞いててね。
 ――私は。
 瀬戸の海の空気を――
 胸いっぱいに吸い込む――
「鈴木花奈はー! 星加昴の彼女にー! なるーーーー!!」
「やったあああぁぁぁーーー!! 心臓病の俺に、彼女ができたぞぉーーー!!」
 心臓病であることなんて、彼という人間のハンデにならない。
 むしろ、その不器用でまっすぐな生き方こそが、たまらなく愛おしい。
 すぅーっと自転車がとまる。
 昴が降りて、私も降りる。
 彼は肩で息をしていた。
「大丈夫、昴!?」
「大丈夫。ヤバくなる前にとまっただけ。ははっ」
 たくさん汗をかいているけれど、顔色はいい。
 真夏の太陽みたいにまぶしい笑顔を浮かべている。
「ちょっと休憩するか。ふぅ……」
 昴は遠くの海を見て目を細める。
 青空のような彼の横顔をもっと近くで見たくて、私は昴の腕にぎゅっと抱きついた。
「うおっ、おおっ!?」
 心臓に触れていなくても、昴の体温だけで胸がいっぱいになる。
 同時にその鼓動から彼の緊張が伝わる。
 私もすっごく恥ずかしい。でも、離さない。
 ただ、間が持たなくて瀬戸の海を見る。
 夕日が瀬戸の海へと沈んでいく。
 金色の光を水面が反射して、宝石箱をひっくり返したみたい。
 綺麗なのに、胸がぎゅうっと苦しくなる。
「……瀬戸の海、綺麗だね」
「父母ヶ浜はもっと綺麗だぞ。でも、瀬戸の海も俺は好きだ。好きになった、絶対に忘れない」
「……うん。私も」
 そして、私は大切なことを伝えるために昴から少し離れる。
「あ、あれ? 鈴……じゃない、花奈?」
「こっち向いて、昴」
 海を見ていた昴が、私と向き合ってくれる。
 柔らかな瀬戸の海風がふわりと背中を押す。
 私は手のひらを、昴の胸にそっと押し当てた。
 ――どくん、どくん、どくん。
 その音が、“生きたい”という彼の意志そのものみたいで――胸が痛いほど嬉しかった。
 温かで切なくなるような鼓動がはっきりと伝わる。
「私も、昴が――好き。大好きだよ」
「……花奈」
 昴は泣きそうな表情で私の名を呼ぶ。
「昴のことも、昴の心臓も大好き。あなたの心臓ごと――あなたが好き」
 昴の唇がふるふると震えている。
 ブラックオパールのように綺麗な瞳が涙でゆらめく。
 昴は自分の心臓に触れている私の手を、自らの手で包み込んだ。
「……ありがとう、花奈。世界で一番優しくする。世界で一番大切にする。だから、これからもずっと――俺の恋人でいてください」
「私は昴の恋人で、昴は私の恋人だよ。たとえ世界が滅んでも」
 昴がぎゅっと私を抱きしめる。
 ああ、なんて温かくて、切ない。
「はは……信じられない……俺に彼女ができるなんて。また夢がひとつ、叶ったよ」
「また? 夢、いくつあるの?」
「いくつあってもいいだろ?」
「……そうだね。多い方が、ないよりもずっといい」
 夢なんてなくて、すべてがどうでもよくなって、死のうとしていた私。
 そんな私に恋人ができた。
 セカイで一番素敵な恋人が。
 ポケットの中の銀色のシートは、もうただの“過去”だった。
「……花奈?」
 私は彼の優しい腕から離れた。
 そして、ポケットに手を入れる。
 ずっと持ち歩いてきた、小さな四角い銀色のシート。
 指先で触れると、いつも私を刺していたあの角は、なぜかもう痛くなかった。
 長くコイツとつき合ってきた。
 私が苦しくなるたびに、心を落ち着かせるお守りとして。
 いつでも死ねる。苦しみから解放される。
 それは私にとって必要な“逃げ”だった。
 ――今までありがとう。
 心の中でお礼を伝えた。この銀色の相棒に。
 昴には見られたくないから、ぎゅっと握ってポケットから取り出す。
「なにを握ってるんだ?」
「乙女の秘密」
 夕暮れの風が、私たちの間を吹き抜ける。
 私は野球のピッチャーみたいに思いっ切り振りかぶって――
 瀬戸の海へと、小さな相棒を放り投げた。
 後ろから吹いた強い追い風に乗って、銀色のシートはふわりと舞い上がった。
 夕陽の金色の光をいっぱいに反射して、キラリ、キラリと、まるで小さな星のように瞬きながら遠くへ飛んでいく。
 風に揺れながら瞬くその銀色の光が、私に「ばいばい」と手を振って笑っているようで――ほんの少しだけ、寂しかった。
 でも、もう迷わない。
 遠ざかっていくあの光に届くように、私は大きく息を吸って――
「私はーーー! 生きるぞおおおぉぉぉーーーーーーー!!」
 私は叫びすぎて、息切れ。
 きょとんとしている昴。
「花奈はずっと立派に生きてるじゃん」
 ……もう、ほんと好き。
「今のは独り言だから」
「盛大な独り言だなぁ」
「女子にはいろいろあるの」
「そっか。で、なにを投げ捨てたんだ?」
「乙女の秘密」
「女子にはいろいろあるんだなぁ……」
 教えてもらえなくて、しょんぼりする姿がかわいい。
 くすくすと笑う私。
 それにつられて笑う昴。
 そして、またふたりで夕日が沈みゆく瀬戸の海を見つめる。
 もう半分くらい沈んでいる。
 遠くの島が霞がかっていて、幽玄の世界にいるよう。
「……すごいよね。地球がもうすぐ終わるのに自転車で海渡ってる」
「世界中で俺たちだけだよな」
「絶対そう」
 また、ふたりで笑う。
「あ、そうだ。大事なことを忘れてた」
「へっ?」
「じっとしてて、昴」
 ――ちゅっ。
 昴の頬に私は甘い音を響かせた。
「は、花奈!?」
「上書き、してやった」
 まさみさんのキスを。
 昴は意味を理解して真っ赤になった。
 ――よし。
「そ、そういう上書きだったら、いくらでもして欲しいなぁ!」
「調子に乗らないの。ばーか」
 私は笑って自転車の荷台に腰掛けた。
 昴は、もっかいして欲しいなぁ……なんてつぶやきながら自転車に乗る。
 そして、私たちだけのしまなみ海道を駆け抜けていった。
 世界が終わるその日へ向かって、ふたりで――