セカイが終わるその日、ぼくらは永遠の環を結んだ

 ――世界が滅ぶまで、あと十四日。

 八月十七日。
 夜の線路は、二度と電車が走らない道だった。
 その先はどこまでも闇に吸い込まれ、星々の輝く夜空へ続いているかのように錯覚してしまう。
 見上げれば、群青の空に淡い紫と緑のオーロラが揺らめいていた。
 隕石の衝突が繰り返され、地球の磁場が乱れているからだとぼんやり思う。
 息を呑むほど幻想的で、狂おしいほどに美しい。
 世界を静かに覆い尽くしていく、死神のカーテン。
 線路の石を踏む、ふたり分の足音だけが夜に響いていた。
 足元がふと明るくなる。
「……あっ、隕石」
 頭上をいくつかの小さな隕石が流れていく。
 まるで宝石が零れ落ちるように、命の短い光跡を星々のキャンバスに描きながら遥か遠くへ消えていった。
「北の方だな」
 遠くの空が一瞬赤く光った。音は聞こえない。
 少しの間をおいて、わずかな地響きが靴底を伝う。きっとまた誰かが死んだ。
 それでも、私たちは歩く。
「……行こう、鈴木」
「……うん」
 私たちに悲壮感はない。
 揺らめく光のカーテンの下、その覚悟が夜空に静かに溶けていった。

 * * * *

 翌日の夕暮れ時。
 静まり返った住宅街に、金属の打ち合うリズミカルな音が響いてきた。
 坂道を上がると、見晴らしのいい小学校の校庭に行き当たった。
「わっ……夏祭り?」
 校庭の真ん中には盆踊りの櫓。紅白提灯のロープが張られ、手作りの屋台から炭火の煙が立ちのぼっている。
 廃墟ばかりを通ってきたから、祭りの喧噪がオアシスのように胸に染み渡る。
「こんちは。見かけへん顔やなぁ」
 人の良さそうなおじさんが小走りでやってきた。『町内会長』のタスキをかけている。
「あ、こんにちは。東の方から旅をしてまして」
 昴くんがキャップを取ってちょこんとお辞儀をした。
「旅かいな? こんな終末にか? 若い子はほんま元気やなぁ」
「でも、みなさんこそ凄いです。こんなときに夏祭りだなんて……」
「今夜やるんや。よかったら寄っていきぃ! 人は多い方が喜ぶで」
「なら、俺、準備手伝います!」
 即決すぎる。せめて私に確認して欲しい……。
 でも、車で時間を稼げたおかげで日程には余裕がある。
「私も、なにかできることがあれば」
「うれしいわぁ! ほな、にいちゃんは櫓の設営頼むわ。お嬢ちゃんは屋台のほう手伝うてくれるか?」


 オーロラ揺れる満天の星空の下、ソースの焦げる匂いが腹ペコの子どもたちを引き寄せる。
「おねーちゃん、かえしたって!」
「いいよ。はい、いくよー」
 鉄板のお好み焼きにコテを差し込み、手際よく裏返す。
「東京モンやのに、めっちゃうまいやん!」
「群馬だけどね」
 思わず笑いながら答える。
「じゃあ、はい、昴くん」
「任せろ」
 昴くんが紙皿へ切り分けて乗せ、ソースと青のりを散らす。
「まいどあり!」
 子どもたちからおもちゃのような千円札を受け取り、満面の笑みでお好み焼きを渡す。
 キャップを脱ぎ、クシャッとした黒髪にねじり鉢巻きを巻いた昴くん。
 制服の半袖シャツに鉢巻きという出で立ちは妙に様になっていて、威勢のいい看板息子みたいだ。
 一方の私は、夏用セーラー服の上から三角巾をかぶり、白いエプロンを結んでいた。
 チグハグな格好のせいか、隣のおばちゃんたちから「お似合いの夫婦やねぇ」と冷やかされ、顔から火が出そうだった。
「ふたりとも、おおきに! あとはワシらがやるから休憩しーや」
 そこへ町内会長さんが上品な女性を連れて戻ってきた。
「かいらしいお嬢さんやねぇ。あっちの教室で浴衣の着付けしとるから、着てみはったら? よう似合いはるわ」
 ……浴衣。
 思いがけない言葉に、胸がトクンと跳ねた。
「俺、鈴木の浴衣、見たい!」
「……えっ、着て欲しい?」
「もち! 絶対似合うよ!」
 ねじり鉢巻きの下で、太陽みたいに眩しい笑顔を向けられる。
 そんな顔で言われちゃあ、着なきゃいけないよね……うん。


 屋台が一段落したタイミングを見計らい、教えてもらった教室へ向かう。
 校舎の壁際には乗り捨てられた車が並び、バッテリーから引き出された太いコードが提灯の列へ這わされていた。
 屋台のプロパンガス、備蓄の小麦粉、校庭の家庭菜園のキャベツ。
 電気もガスもないはずの終末に、これだけの日常を人力で再構築してしまう人間の図太さに圧倒される。
 歩いていると町内会長さんの姿が見え、ふと気になって声をかけた。
「あの……会長さん。どうしてこんな終末に、夏祭りをしようと思ったんですか?」
 会長さんは眉を少し下げ、優しく笑った。
「あぁ……そら、怖いからや」
「怖い、から……?」
「滅ぶんは、誰やって怖いわ。国からあの銀色の薬――“白昼夢”が配られたとき、怖さに耐えかねて真っ先に飲んでしもた連中もぎょうさんおった。せやけどな、ポケットにあれが入っとると思うたら、逆に居直れたんや。『いつでも痛い目見んと終われるんやから、ギリギリまでいつもの日常をやったろやないか』ってな」
 校庭を走り回る子どもたちに目を細める会長さん。
「みんなな、ポケットに薬忍ばせたまま、焼きそば焼いて、踊っとるんよ。怖いからこそ、当たり前の夏を最後まで抱きしめたいんや」
「――――っ!」
 息が詰まりそうになった。
 ――いつでも終わらせられる、最終安全装置。
 自分の弱さと生き延びてしまった理由が、胸の奥に痛いほど突き刺さる。
 ポケットに薬を忍ばせているのは同じなのに、この人達は“今を笑顔で生きるため”に持っている。
 私は……この世界から逃げ出したくなったときのため……。
 同じなのに、理由が全然違う。
 でも、今夜だけは。
 今だけはその弱さに、負けたくない……。


 カーテンの引かれた教室には幾つものロウソクが揺らめき、色とりどりの浴衣がかけられていた。
 深い紺色に繊細な藤の花が咲く一枚を選び取る。
 かすかな衣擦れの音を立てながら制服を脱ぎ、薄い肌着の上から冷たい綿の布地を重ねた。
 ひやりとした感触が、火照った体を静かに引き締めていく。
 深い朱色の帯をきゅっと締めると、自然と背筋が伸びた。
 ボストンバッグの内ポケットから、ハンカチに包んでいたものを取り出す。
 心臓が跳ねるのを抑えながらカバンに忍ばせた、小さなアイシャドウとチーク、リップライナー。
 ――初デートなのに、全然かわいくない。
 車のミラーを見て落ち込んだ、あの日。
 胸を張って鏡を見られる自分になりたくて。
 かわいいじゃんって言われたくて――
 日焼け止めの上に軽くパウダーをはたく。まぶたにほんのり薄い影を落とし、チークをふわりと乗せ、薄紅のリップで血色のない唇に色を灯した。
 最後に、少しうつむいて髪をひとつにまとめる。
 手のひらに取ったのは、藤の花の木製かんざし。
 田んぼのそばで穏やかに旅立っていった、お爺さんとお婆さんの笑顔が鮮やかに蘇る。
 ふたりが託してくれた、命のバトン。
「……お婆さん。私に、少しだけ勇気を貸してね」
 結い上げた髪にかんざしを挿し、小さな鏡を覗き込む。
 そこにいたのは、死にたがりの透明人間だった私じゃない。
 血が通い、誰かのために綺麗になりたいと願う、ひとりの女の子だった。


「……お、お待たせ」
 校庭の子どもたちを眺めていた昴くんに声をかけた。
 彼ならきっといつものテンションで、大げさに褒めてくれるのだろうと――
「あ、鈴――……」
 振り向いた昴くんが、ピタリと固まる。
「……っ……ぁ……」
 夜の明かりの中でもはっきり分かるくらい、昴くんの顔がみるみる真っ赤に染まっていく。
 慌ててそっぽを向くと、両手で口元を覆い隠した。首筋や耳の先まで火がついたように赤い。
「……かんべんしてくれ。かわいすぎるだろ」
 掠れた小さな声。嬉しくて飛び上がりそうだ。
「……俺、鈴木のこと、まともに見れない」
「そ、それは困るよ……」
「ちょ、ちょっとだけ待ってくれ」
 背を向けたまま深呼吸を繰り返す。何度も何度も息を吸い込んでいる。
「よし、そっち向くぞ!」
 ようやくこちらを向いてくれた昴くんの姿に、私は目を丸くした。
「昴くんも、浴衣なんだ」
 彼は落ち着いた深い紺色の浴衣をまとっていた。
 いつものラフな格好よりずっと大人びて見えて、思わず胸の奥が熱くなる。
「ああ、これ、会長さんが着せてくれたんだ」
「すごく似合ってる。かっこいいよ」
「へへ。でも鈴木には敵わないよ。めちゃくちゃ似合ってる。本当にかわいい……あっ」
 彼の視線が、髪元にとまる。
「そのかんざし……爺さんたちの」
「うん。ふたりが託してくれたから、今日、つけてみたの」
「そっか……。すごく大人っぽいな。びっくりした」
「私だって、やるときはやるんだから」
「ははっ。俺の心臓と同じだな」
「うん」
「鈴木のうなじ、色っぽいな……」
 ぽつりと零された言葉に、胸の奥が一瞬跳ねた。
「思ってても口に出さないの、ばか……」
 照れ隠しに唇を尖らせるけれど、何を言われても全部嬉しい無敵のモードに入っていた。
「んじゃ、見て回ろうぜ」
 提灯の暖かい光の下、耳に届く太鼓とお囃子の音。
 ああ、これって日常だ。どこにでもある日本の夏の夜。
 もうすぐ地球が滅びるのに。
 みんな、ポケットの中にあの銀色のシートを忍ばせているはずなのに。
 この瞬間を惜しむように笑って生きている。
 逃げるための薬をお守りにして生き延びてしまった私も、今、ここにいていいのだろうか。
「鈴木」
 ふいに、隣から優しく名前を呼ばれた。
 彼が名前を呼んでくれるたび、誰の視界にも入らなかった透明人間の私が、世界に輪郭を与えられていく。
「手」
 昴くんが、ぽんと右手を差し出してくる。
「……繋ぐの?」
「……人混みではぐれたら困るだろ?」
「そこまで混んでないけど……」
「……そう……だよな」
 からかうように言うと、昴くんは分かりやすくしょんぼりして手を引っ込めようとした。
「じゃあ、はい」
 今度は私から、彼の手のひらに指を重ねた。
「ちゃんと私を捕まえていてね」
「おう! 任せろ!」
 きゅっと、手のひらに温かい力がこもる。
 そうやって、私の心ごと捕まえていて……。


 冷たいかき氷を半分こしたり、射的に本気になって悔しがったり、どこにでもある普通の高校生のような時間を過ごした。
「これって、完全に浴衣デートだよな……?」
「あっ……そう、だね……」
 改めて言われると、心臓の音が耳の奥でうるさく響く。
「ありがとな、鈴木」
「えっ、なにが?」
「この旅で、俺のやりたかったことが全部叶った。女子に名前で呼んでもらう、水着の女子と水遊び、女子とドライブ、そんで浴衣の女子と夏祭り!」
「全部女子がついてるじゃん」
「男子高校生なんてそんなモンだろ?」
「……全部、相手が私で残念でした」
「ばか。鈴木だから嬉しいんだよ」
 照れもせずに真っ直ぐな瞳で言われてしまう。
 反則だ。直視できるわけがない。
「ただ……どうしても叶えられない夢が、ひとつだけあるけどな。まあ、それはいいや」
「どんな夢?」
「秘密。へへっ」
 悪戯っぽく笑う昴くんの横顔の奥に、ほんの一瞬、遠くを見つめる影が差した気がした。
 残された時間の少なさと胸の病の重さを思い知らされるようで、私はそれ以上踏み込めなかった。


 手を繋いだまま歩くうちに、校庭の端にある最後の屋台にたどり着いた。
 裸電球の下、プラスチックでできたおもちゃの指輪が並んでいる。
 その中に、透明な緑色の四つ葉のクローバーの指輪があった。
「……なんだか懐かしいな、これ」
「こういうの、持ってたのか?」
「ううん。小さい頃、本物のシロツメクサで指輪を作ろうとしたことがあったの。お父さんにプロポーズするんだって言って」
「へぇ。じゃあ、俺が買ってやるよ」
「い、いいよ! 恥ずかしいし……」
「あっ、あったー!」
 遠慮する私たちの前に、小さな男の子と女の子が駆け込んできた。
「おれが買ってあげる!」
「わぁ、ありがとう!」
 ふたりが小銭を差し出し、クローバーの指輪は女の子の指へと収まった。
「……よかった」
 私なんかがもらうより、あの子たちのほうがずっとふさわしい。
「じゃあ、俺はこれを鈴木にプレゼントする」
 昴くんが屋台のおじさんから受け取ったのは、小さな真鍮の鈴がついた根付けストラップだった。
「……あ、もしかして『鈴』木だから?」
「大正解。いいだろ?」
「安直すぎるよ。でも……ありがと」
 指に引っ掛けると、ちりんと澄んだ涼やかな音が鳴った。
 ここに立っていることを、小さな音色が肯定してくれるようだった。
「よし、踊るぞ! 盆踊り!」
「えっ!? 無理だよ、踊ったことない!」
「適当に真似すりゃいいんだよ!」
 ぐいっと引かれた手のぬくもりに焦りながら、鈴のストラップを帯の隙間に挟み込んだ。
 そのまま櫓の周りの踊りの輪へと連れ出される。
 手と足が一緒に出て慌てる姿を見て、昴くんが大笑いした。
「いいぞ、鈴木! 上手い上手い!」
「もう、全然踊れてないってば!」
 悔しいけれど、つられて私も笑ってしまう。
 子どもも、お年寄りも、みんなが手を上げて輪になって笑っている。
 怖いからこそ、今を精一杯生きる。
 死のうとしていた私だったけれど――今は、この手を繋ぐ昴くんの命を少しでも長く守りたい。
 そのために、私ももう少しだけ、明日を生きてみたいと思った。


 輪から離れて息を整えていたとき、夜空の彼方で、パァンと乾いた破裂音が響いた。
 見上げれば、頭上に大きく広がった金色の光の花弁。
 次から次へと赤、青、緑の光が夜空一面を鮮やかに塗り替えていく。
 火薬と導火線さえあれば、電気のない江戸時代から打ち上げられていた夏の華。
 どうせ世界と一緒に燃え尽きるなら、今夜全部咲かせてしまおうと誰かが火をつけたのだ。
 まるで、これが最後の咆哮だと叫ぶように。
「地球最後の……打ち上げ花火……」
 呟くと、昴くんが手をぎゅっと握り返してくれた。
「……ありがとね、昴くん」
「ん、なにが?」
「未来の出産を手伝うって決めたとき、昴くんが手を握ってくれた。あの温もりがあったから、逃げ出さずにすんだの」
「お、おう……まあな」
 空一面に咲き誇る大輪の光を見上げながらだと、恥ずかしい気持ちも素直に言葉にできた。
 ふと視線を感じて横を見ると、昴くんはじっと私の顔を見つめていた。
「……なに? 花火、見なくていいの?」
「鈴……じゃない、は……は、な……」
「花火? うん、すごく綺麗だね」
「……っ……ああ…………本当に、綺麗だ」
 喉に言葉を詰まらせたような、掠れた声。
 彼はそれ以上何も言わず、ただ私の手を痛いくらい強く握りしめた。
 空のてっぺんで、巨大な金色の枝垂れ柳が音を立てて広がり、夜の闇へと静かに溶けていく。
「……昴くん。私、こんな素敵な夏、生まれて初めて」
「……俺もだよ」
 繋いだ手のひらから、力強い体温が伝わってくる。
 たとえ、もうすぐ世界が終わるとしても。
 この夜の光と、鈴の音と、彼のくれた温度だけは、絶対に消えない。
 絶対に――