――世界が滅ぶまで、あと十八日。
八月十三日。
静岡の海岸線を出て、豊橋を経由し、名古屋へと向かう。
隕石で破壊された道は多く何度も遠回りを強いられたけれど、車だったから旅のスケジュールに遅れはない。
人気のない廃墟のデパートやコンビニ、スーパーで日用品や食料、衣料を確保しながら先へ進んだ。
そのどさくさに紛れて、昴くんに見つからないように、化粧品売り場の棚から小さなアイシャドウとチーク、リップライナーを、心臓が跳ねるくらいドキドキしながらカバンに滑り込ませた。
生き延びるためだけの旅に、こんな余計なものは要らないはずなのに。
――初デートなのに全然かわいくない。
あの日から胸の奥で騒ぎ始めた女の子の私が、サバイバルに徹する私を押しのけて犯したルール違反。ちっぽけな秘密と、後ろめたさ。
昴くんに見つかったらどんな顔をされるか……いや、きっと「いいじゃん! メイクしてみてよ!」って言うんだろうな。
絶対にあきれたり、困惑したりしない。そういう信頼感が彼にはある。
だからこそ、いつか、もう一度だけ、彼の前で鏡を見られる自分になりたくて――
かわいいじゃんって、言われたいなって――
関ヶ原を越え、琵琶湖の南を進み、京都へ入る。
それでも、かかったのはわずか三日だった。
――こんな状況でも、人間の文明はまだ生きている。
京都にも小さな隕石がいくつも落下したようで、たくさんの古刹が破壊されていた。
修学旅行で行くはずだった清水寺や八坂神社なんかも、おそらく……。
そして、ついに大阪市内へたどり着いた。
けれど、住宅街にある中規模スーパーの側で車が動かなくなった。
ガソリンは残っていたから、なにかしらの不調らしい。
「楽しかった。ありがとな」
車から降りて、大きなリュックを背負った昴くんが運転席の屋根を優しくなでる。
「……ありがと」
私も彼にならい、旅を助けてくれた車にお礼を伝えた。
そして、たっぷりと膨らんだボストンバッグを肩にかけ、車に背を向ける。
水墨画みたいな曇り空のせいで、少し気が滅入る。
霧が立ちこめているから、かなりの湿度だ。
「雨、降りそうだな。早いけど、空き家を探すか?」
東京と違い、大阪市内は隕石による破壊は少ない。ただ、ゴーストタウンのようになっている。
体育館などの疎開場所に集まっているのか。それとも――みんな、薬を飲んでしまったのか。
「私、そこのスーパーに寄りたい。カセットボンベが残り少ないから」
料理をするのには必須アイテム。外でのたき火は危険だから極力避けたい。店内にあるなら、ぜひ確保したい。
「オッケー。んじゃ、行ってみよう」
中の様子を伺いつつ、スーパーの正面に回る。
入り口の自動ドアは閉じられ、奥は薄暗くて見えない。
「ゲームの中に入ったみたいだな……バイオ系の……」
また、私のわからないゲームの話をしている。
「……誰もいないみたいだね」
私と彼は自動扉の前に立つ。当然、開かない。でも、昴くんが手を添えて少し力を入れると動いた。
重たい金属が擦れ合うような、アナログで無骨な音が響いた。
薄暗い闇の中へ、私たちは足を踏み入れる。
「……鈴木。念のため俺の後ろに」
「う、うん……」
外の天気のせいもあって、なんだか怖い。空が晴れていたら、もっと奥まで見えただろうに。
「動くんじゃねぇ!」
強い怒りのこもった女性の声に、私はびくっと震えた。
奥の闇から私たちと同世代の女の子がひとり、ふたり……昴くんくらいの男子がひとり……。
そして、乱れたセミロングの茶髪にジャージ姿の、いかにもヤンキー……というか、不良っぽい女の子が、ぬぅっと現れた。
みんな私と同い年くらい。ただ、不良少女のお腹が大きい。妊婦さんだ。
「痛ててて……」
不良少女が、表情をゆがめる。
この子を含めて、全員が掃除用具を武器にして臨戦態勢に入っていた。
まるで天敵から子どもを守ろうとしている獣のような迫力。
今にも襲いかかってきそうで――怖い。
ここまで争いごとに巻き込まれることなく旅をしてこられた。
けれど、ついに遭遇してしまった。
「待ってくれ。お前らとやり合うつもりはないんだ」
昴くんが両手を挙げて、その意思を相手に伝えようとする。
私も彼を真似して両手を挙げた。
「動いたら殺す」
不良少女が言い放ち、他の三人はじっと私たちをにらんでいる。
よく見ると、中心となっている不良少女以外は震えたり、おびえるような表情を浮かべていた。
「あ、あの、私たち、カセットボンベを探してて。残ってるならわけて欲しいんです。そしたら、すぐ出て行くので」
「信用でけへんわ、ボケ!」
怒り、憎しみ、敵意、殺意……そういうものがぐちゃぐちゃに混じった感情を叩きつけられた。
私たち、なにもしてないのに……。
「ど、どうして信用できないんですか?」
「アンタらみたいに、人の良さそうなヤツラにアタシの彼氏は騙されて、ボコボコにされて――!」
この人達、本気だ。
下手をすれば――
私たちはここで死ぬ。
「は、早よ、帰れや!」
ひとりだけいる男子が震えながら叫ぶ。
「ウチのお願いやから出て行って!」
ふっくらしたショートカットの子が涙目で懇願する。
「私ら、いざとなったら容赦せーへんよ?」
落ち着いた子が私たちに静かな敵意を浴びせる。
「俺は心臓病なんだ」
カセットボンベを諦めようと思い始めたとき、昴くんは両手を挙げたまま優しげな口調で語りはじめた。
「だから、激しい運動ができない。お前らよりずっと弱いんだ。ほら、薬」
彼はポケットからピルケースを差し出す。
「信用でけへんって言うてるやろ!」
妊婦のヤンキー少女がモップをぶんっと振って威嚇する。
「――っ!」
昴くんは反射的に手を引っ込めた。
「すぐ出てけっつっ――……うっ」
不良少女がモップを手放し、からんと乾いた音がした。
彼女はお腹を押さえて苦しむ。
「こんなときに……痛っ、痛いっ……! 痛すぎ、やろ……!」
彼女はふらふらとバランスを崩す。
「未来ちゃん!」
「未来!」
ふたりの女の子が未来と呼ばれた不良少女を支える。
「……もしかして、産まれそうなんですか?」
「見たらわかるやろ! くそがっ! うぐっ」
未来と呼ばれた少女が絶望的な表情で、お腹を抱えるようにしてうずくまった。
「僕、なにしたらええの!?」
「ウチかて、わからへんよ!」
「私ら、医者じゃないし!」
「なんや、未来のジャージが濡れとる……」
うずくまっている未来の、お尻のあたりが濡れている。
これは間違いなく――
「破水してる……!」
もう後戻りできない。
「ねぇ、アンタさ! 私ら、どうしたらええのか、教えてよ!」
「え、えっと……破水したら、すぐに病院に連れて行かなきゃ……」
「病院なんか、全部不法占拠されてしもとるわ!」
「鈴木! あの本! 妊娠のなんとかってゆーやつ!」
懐かしい記憶が脳裏をかすめる。
――あとは『はじめての妊娠出産安心ブック』? えっ? 鈴木って、妊娠してんの?
「あっ」
ボストンバッグを下ろし、底に敷いていた『はじめての妊娠出産安心ブック』を慌てて取り出す。
「えっと、えとえと、陣痛が来たときは――!」
ページをめくる手が震える。
「ああっ」
本を落としてしまった。
「俺が持っててやる」
昴くんが私の代わりにページを開いてくれた。
「アンタ、看護師なんか……?」
うずくまる彼女が今にも消えそうな声で尋ねた。
「ち、違う……看護師はお母さんで、私はただの女子高生で、なにもできない……!」
「でも、その本を持ってるんやろ……?」
お母さんが家を出ていく前に残していった本。もしかしたら旅の途中で誰かを助けられるかもしれないなんて、淡い思いで持ってきただけだ。
お母さんみたいに誰かを救うことなんてできない。置いていかれただけの、無力な子どもなのに。
「いいから、アタシを助けろよォ!」
私が――助ける?
産まれようとしている命を?
もうすぐ地球が滅ぶのに?
「そんなの、私には無理、だよ……」
どうせ、あと二週間と少しで、すべてが終わる。
未来と呼ばれる子も、お腹の子も、昴くんも私も。
なら――
助ける意味なんて、どこにあるの?
「頼むっつってるやろ!? いぎっ!? なんやの、これ!? 無理、無理無理無理無理……!」
――怖い。
出産って、あんなにも強がっていた未来という不良少女が、正気を失うくらい痛いんだ
しかも、陣痛は長く続くはずだ。ときには一日近くも。
私の心が保たない。そんなに強くない。
呼吸が浅くなる。
「もうどうしたらええの!?」
ショートカットの子がパニックになって叫んだ。
私だって叫びたい。
唯一の男子は震えながら立ち尽くし、落ち着いた雰囲気の子は祈るように手を握っているだけ。
「俺、手伝うよ、鈴木」
「ウチも!」
「僕も!」
「私も」
なにを言ってるんだろう、このひとたちは。
全部私に押しつけて……好き勝手に言って……。
「……できないよ。責任が大きすぎる」
もしも赤ちゃんを死なせてしまったら?
未来という、このひとも死なせてしまったら?
きっと私はすぐにでも――
私はポケットに手を入れる。
小さな四角い銀色のシート。その尖った角が、逃げ出せと急かすように指の腹をチクリと刺す。
「いぃぃっ! 痛いたいたいたい痛い!」
赤ちゃんなんて私には関係ない。
今すぐにでも昴くんを連れて父母ヶ浜へ向かいたい。
「鈴木」
私を包み込むような、優しい声。
「お前ひとりに背負わせない」
温かくて力強い手が、私の手をぎゅっと握る。
「だから、やってみよう」
――昴くんが、そばにいてくれる。
呼吸が少し落ち着く。
「アイツ、もうおらへんけど、ひとりでも産むって決めたんや……アタシはどうなってもええから……」
敵意を剥き出しにしていた彼女の瞳から、ぽろぽろと涙が零れた。
「お願いや……この子を助けて……」
――私が、お腹の赤ちゃんを……。
目の前の光景が一瞬にして切り替わった。
縁側で寄り添い、手を繋いで穏やかに目を閉じていたお爺さんとお婆さん。
浜辺で横たわっていた若い夫婦の姿。
世界の終わりに去っていった人達と、明日世界が終わるとしても、この子を産んで生きようとする目の前の少女。
そして――
「「明日世界が滅びるとしても、今日私はリンゴの木を植える」」
――パァンッ!
私は両手で、思い切り自分の両頬を張り飛ばした。
「す、鈴木!?」
昴くんが目を見開く。
火が出るほど痛い。見なくても真っ赤になっているのが分かる。
けれど、その痛みのおかげで、震えていた手と呼吸がピタリととまった。
大きく息を吸い込む。
「――わかった。できるだけのことはやってみる」
みんなの瞳が希望の色に変わった。
失敗すれば死ぬ。最悪ふたりとも。
そんなの、わかっている。
――でも、逃げない。
「昴くん、本!」
「おう!」
私は『はじめての妊娠出産安心ブック』を急いで読み出す。
「ええっと、そこの男子」
「僕、継都……! 何したらええの!?」
「水を集めてきて! ここになければ近くの川から。折りたたみ式の水タンクが私のボストンバッグにあるから持っていって。できるだけたくさん!」
「よっしゃ! すぐ持ってくるわ!」
「あと、すっごい泣いてるショートカットのあなた」
「明日香、やで……」
「明日香ちゃんは段ボールと、ありったけのレジ袋を集めてきて。段ボールの上に敷くから。あと、毛布やタオルも」
「う、うん!」
「私、沙希。指示、出して」
「清潔なタオルある? 未来ちゃんの汗を拭いてあげて」
「ある。任せてや」
そして、昴くん。
「俺はなにをしようか、鈴木?」
――そばにいて。
そう言いたい気持ちをぐっとこらえる。
「昴くんはスーパーの中から鍋とカセットコンロを探して。継都くんが水を運んできたら、携帯浄水器を通して火にかけて、お湯を沸かしてほしいの。……走ったり、重いものを持ったりしないでね。胸が苦しくなったら、すぐやめること」
「任せろ。いざってときの俺の心臓は頼りになる。鈴木も知ってるだろ?」
強くうなずいて、再び本に視線を落とした。
どれくらい時間が経ったのかわからない。
同じ呼吸を、何度も、何度も繰り返していた。
外はとっくに真っ暗だ。
未来ちゃんは段ボールを敷いた手作りのベッドの上。
横向きで息を荒くしていた。
この姿勢で問題ない……はず。
未来ちゃんは片手にモップの柄を強く握る。
もう片方の手で、私の手を強く握る。
明日香ちゃんが未来ちゃんの汗を拭く。
沙希ちゃんは背中をさすっている。
継都くんが運んでくれた水を、昴くんが丁寧に浄水して沸かし、清潔なお湯を絶やさず用意してくれていた。
「っ……あああっ!!」
未来ちゃんは私の手を握る。
握りつぶされそうなほど強烈な力。
彼女の爪が深く食い込んで痛む。
でも、無事に産んでくれるなら、そんな痛みはどうでもいい。
「代わろうか、鈴木?」
鍋を火にかけ終えた昴くんが駆け寄ってくる。
私は彼を見ずに首を振った。
「……私がやらなきゃだめなの」
「ん」
彼を見なくても、理解してくれた気配が伝わる。
「大丈夫、大丈夫だよ、未来ちゃん。赤ちゃんも、ちゃんとがんばってる」
不安や恐怖を押し殺し、声をかけ続ける。
「ぎぎぎぃ……ぐっ、うっ!!」
「それじゃだめ。息、ゆっくり、私と合わせて」
「もうやめたい!」
「ここでやめたらだめ! ほら、ふぅー……」
「フゥー……、フゥー……」
未来ちゃんと目を合わせ、呼吸を導く。
何時間も前からずっと。
産まれるまでずっと。
「大丈夫、大丈夫だからね……!」
時間の感覚が壊れていく。
まだ終わらない。
まだ――終わらない。
気づけば、外が明るくなっていた。
「ぐぅ……いきみたい!」
未来が叫ぶ。
「血が混じったのがいっぱい出てきた! これでええの、花奈!?」
叫んだのは、赤ちゃんを受け取る役の沙希ちゃん。
「いいの! 子宮口が全開になって、赤ちゃんが下りてきてる証拠だから! もうすぐ出るよ!」
「下がってきてる感じや……!」
「頭が見える……!」
「少しずつ出てくるよ! がんばれ、未来!」
「もう少しや、未来……!」
「今、力入れて、未来!」
「うぐっ――……ああっ!!」
凄まじい力で私の手を握る未来。
その手から、力が、抜けた……。
――静寂。
時間がとまる。
誰も動けない。
「出てきたけど……動かへん……」
「死んで……しもたん……?」
沙希ちゃんが抱いているタオルの塊。
私が受け取る。
とんとんと叩く。
そこは赤ちゃんの背中。
……お願い、起きて。
ママが待ってるよ。
だから――お願い。
「オギャアアァ――」
小さな泣き声が静寂をぶっ飛ばすように響き渡った。
もうすぐ終わる世界で、ひとつの命がはじまった。
わぁっと歓声があがる。
手の中に重さを感じている。
なのに、まだ信じられない。
私が、命を守ることができた……?
震える手、落とさないようにと大切に抱く。
「……元気に生きてる」
ぐったりしている未来の胸元へ、タオルにくるまれた赤ちゃんをそっと横たえた。
彼女自らが産みだした小さな命。
確かに動いている。息をしている。
「……産まれたで、タカユキ。あんたに似てる……めっちゃべっぴんな女の子や」
赤ちゃんと未来のお腹を結ぶ、一本の青白い管。
トクトクと、最後の拍動を送り届けている命のライン――へその緒だ。
私は本で読んだ手順を必死に思い出しながら、昴くんを呼んだ。
「昴くん、救急セットのハサミと、縫い糸、お願い」
「おう!」
昴くんがライターの火でハサミの刃先を念入りに炙り、冷ましてから手渡してくれる。
私は煮沸消毒した木綿糸で、赤ちゃんのへそから数センチのところと、さらにその先を二箇所、固くきつく縛った。
「……切るね」
涙を浮かべた未来ちゃんが小さく頷く。
ハサミを入れ、糸の間を断ち切る。
パチンと小さな手応え。
血が滲むこともなく、赤ちゃんは未来ちゃんの体から独立した、たったひとつの尊い『個』になった。
温かいお湯で濡らしたタオルで赤ちゃんの体を拭き、乾いたバスタオルで優しく包み直す。
本の指示に従って胎盤が出るのを静かに見届け、未来の身体を拭いて横にならせた。
「私も抱っこしてええかな?」
おずおずと沙希ちゃんが尋ね、未来ちゃんが快く頷く。
「あ、あれ? どうやって抱っこするんやったっけ?」
沙希ちゃんに抱っこのやり方を教え、明日香ちゃん、継都くんと続く。
次は昴くんの番。
「お、俺はいいよ……!」
「せっかくだから」
「本当にいいのかな……」
命の短い自分が、赤ちゃんに触れていいのか……と昴くんは迷ってる。
そんなの、いいに決まってるよ。
「だ、抱き方、あってるか?」
昴くんは大きな腕でしっかりと赤ちゃんを抱いている。
「ははっ、すごいな……」
彼がそっと触れようとすると、赤ちゃんのほうから指をぎゅっと握った。
「すげぇ……力強くて、あったかい……」
「昴くん、気に入られたね」
「やば、泣きそう……」
そして、また私の番。
落ち着いて大切に抱き、昴くんの真似をすると、小さな手で指を握り返してくれた。
やわらかい。あったかい。そして、力強い。
小さな胸が呼吸に合わせて、膨らんだりしぼんだり。
きっと小さな心臓も元気に動いている。
「……………………」
昴くんが私を見ていた。いつもより少しだけ、優しい微笑みで。
「……鈴木ってさ」
「んー?」
「母親向いてると思う」
私は思わず、ふき出してしまった。
「なにそれ」
……母親、なんて。
笑い飛ばそうとしたのに、昴くんの視線があまりに真っ直ぐで、胸の奥がきゅんと跳ねる。
もしも世界が終わらず普通の日常があったなら――いつか、こんなふうに並ぶ未来もあったのかな、なんて。
柄にもない想像がかすめて、耳の先が熱くなる。
「私――」
――教室で死ななくてよかった。
私でも、誰かを助けられた。
それなら――
もう少し、生きてみたいな……。
「産まれてきてくれて、本当にありがとう」
赤ちゃんにお礼を伝えた。心を込めて。
「……鈴木。なんか変わったな」
「もう。こっち見過ぎ。ばか」
それでも昴くんは私を見ていた。
いつもに増して優しい光で。
……ちょっと困る。
「ママのところへ帰りましょうね」
私は赤ちゃんを未来の元へ返す。
そして、ポケットの中に手を入れようとして――やめた。
終わる世界で、命が生まれた。
だから、この世界は、まだ――
外から差し込む朝の美しい陽光が、私たちを祝福してくれているようだった。
ああ、終わった……やり遂げた……。
私の目の前がゆっくりと暗くなっていく。
「鈴木? おい、鈴木!」
身体中から力が抜けてる。
気づけば、昴くんに身体を支えられていた。
* * * *
まどろみの中、耳元で微かな音がした。
カチ、カチ……と、指先で液晶を叩く小さな音。
薄く目を開けると、朝の光の中、段ボールの脇に座り込んだ昴くんの背中が見えた。
「……送信」
ぽつりと呟いて、彼は画面を暗転させた。
また、あの届かないメールを送っていたのだろうか。
声をかけようとしたけれど、彼の横顔があまりにも静かで、祈るように澄んでいたから。
私は何も言わず、再び心地よい眠りの中へと落ちていった。
「もう元気だよ。ただの過労だったから」
丸一日、私は敷き布団代わりの段ボールで眠っていたらしい。
「いや、あと数日は休もう。日程には余裕あるんだろ?」
「車のおかげで、充分に」
というわけで三日間、ここで休むことに。
ショートカットの子、明日香。薄手のパーカーにショートパンツがかわいい。話してると、すぐ感極まって泣く。泣き虫さん。
落ち着いた雰囲気の沙希。白いノースリーブに揺れるスカートが大人っぽい。私と一番価値観が合う。
おどおどしてる男の子、継都くん。白シャツに紺のスラックス姿。ゲームが好き。昴くんとすぐ仲良くなって、一緒に携帯ゲームでずっと遊んでる。
そして、未来。赤ちゃんを産んだ英雄。凄い。とてもさっぱりした性格で友達想い。女子人気、すごく高そう。私もすぐ好きになった。
彼氏さんの、のろけ話を少し切ない表情で、たくさんしてくれた。
――終わる世界で、できた親友。
昔からの仲良しのように打ち解け、お菓子を食べながらお腹が痛くなるほど笑い合った。
みんなと同じ学校に通えていたら、なんて思ってしまうくらいに。
昴くんも継都くんとゲームしたりして。
ゲームばっかりしちゃだめだよって言うと、段ボールで大きな的を作って、ゴム鉄砲で射的ごっこしたり。
もちろん授乳の世話も、女子メンバーで喜んでした。
私たちは赤ちゃんにめろめろだった。
「名前をつけたいんや」
赤ちゃんにおっぱいをあげている未来が言い出した。
「花奈って、どんな漢字なん?」
「平凡だよ。草花の花に、奈良の奈」
ちなみに、沙希が未来の髪をくしでといている。
明日香はお菓子を食べている。
私は赤ちゃんを見ている。
みんな、したいことをしている。
「めっちゃええ名前やんか!」
「えーっ。どこにでもある名前だよ? 鈴木花奈、だよ? 日本一平凡だよ」
「それって、日本で一番ってことやんか」
「……あっ。その視点はなかった」
未来の考え方や価値観は、とても刺激になる。
「決めた。アタシの名前の未に、花奈の花の字をもらって、未花。どや?」
にこーっと無邪気に笑う未来。
「ええ名前やん、未来ちゃん!」
「私も賛成。未花ちゃん。ええね」
「わ、私の名前なんて使わなくていいよ……」
「花奈はアタシと未花の恩人や。恩人の名前をもらうのは、よくあることやろ? 遠慮なく使わせてもらうわ。異論は認めへん! ははっ!」
なんだか心がくすぐったい。
――未花。
未来の花。
もうすぐ地球が滅ぶのに、この子は未来へ向かって咲くのだ。
それなら……私も咲きたい。
なんて生意気にも思ってしまった。
幸せそうにお乳を吸う未花を見つめながら。
終わる世界で、それでも誰かが、リンゴの木を植えた。
そして、お別れのとき――
未花ちゃんを抱っこしている未来、号泣している明日香、涙目の沙希、笑顔の継都くん。
みんなに見送られて、私たちは出発する。
そんな私も、今にも泣きそう。
「これ……未来ちゃん、沙希ちゃんと一緒に作ったんや。もろてくれる?」
明日香が渡してくれたのは、手のひらよりも小さな赤ちゃんのぬいぐるみ。
「わっ、かわいい」
「へへ。旅のお守りにしーや」
「……ありがとう。大切にするね」
そして、この小さなぬいぐるみのモデルとなった赤ちゃんを見る。
「元気でね、未花ちゃん」
「へぁ」
返事をしてくれた。嬉しい。
そして、私の指をぎゅっと握ってくれた。
力強いこの手の感触を、私は絶対に忘れない。
「ううっ、もうずっとここにおったらぁ?」
明日香は鼻水まで流している。
「あかんって。花奈たちには命がけの夢があるんやから。応援したりーや」
「……うん。がんばってな」
「ありがとう、明日香。沙希」
継都くんと昴くんは、がははと笑いながら別れの言葉を交わしている。男の子らしいなぁ。
私は私を変えてくれた未来を見る。
「ちゃんと生きろよ、花奈」
「うん」
「ほな。またな」
「うん、またね」
二度と会えないはずなのに、私たちはつい、そう言ってしまった。
でも、互いに笑顔だ。
今回、私は知ることができた。
昴くんみたいに、ちゃんと前に進んでいる人が、ここにもいた。
そして、私と昴くんは四人と赤ちゃんに見送られて歩き出す。
彼女たちは、私たちが見えなくなるまで手を振ってくれていた。
「手、大丈夫か?」
今の私の手は絆創膏だらけ。
未来が出産のとき、ずっと私の手を握っていたからだ。
彼女の爪が皮膚に食い込んで、いくつもの傷ができていた。未来は驚いて謝ってくれたけど、そもそも謝る必要なんてない。
赤ちゃんを無事に産んでくれてありがとう。その気持ちでいっぱいだ。
「平気。これ、勲章だから」
そう、勲章。だから、とても誇らしい手になった。
「……そっか」
また昴くんが優しげに笑う。
……ちょっと困る。
とめられないくらい、ドキドキするから。
そんな私に気づかず、昴くんはスマホを取り出す。
車に乗っていたとき、シガーソケットから充電しておいた携帯ゲームとスマホ、そしてモバイルバッテリー。
だから、今だけ使えるようになっている。
「みんなで撮った写真、いい感じだぞ、ほら」
「歩きスマホはだめだよ」
「別にいいじゃん? 終末なんだからさ」
その画面には、赤ちゃんを抱っこしている未来、お菓子を食べてる明日香、未来の髪をといている沙希、そしてみんなの真ん中でくしゃっと屈託なく笑っている私がいた。
――画角の外で、誰かのSNSのために息を潜めていた、あの透明人間だった私じゃない。
誰かの物語のレンズなんかじゃなく、ちゃんと世界の中心で、愛されて笑っている私の姿。
昴くんが撮った写真には、他にもみんなでピースしているものや、私と赤ちゃんだけの写真もあった。
どれも楽しくて、幸せで、地球が滅んでも残したいって思えるような写真。
そんな中、昴くんは私が赤ちゃんを抱っこしている写真をじっと見つめる。
「やっぱり鈴木ってさ、ちゃんと“誰かを守れる人”だよな」
「えーっ、なにそれー?」
なんだかおかしくて、くすくすと笑ってしまった。
でも、その言葉で胸が熱くなった。ほんの少しだけ。
八月十三日。
静岡の海岸線を出て、豊橋を経由し、名古屋へと向かう。
隕石で破壊された道は多く何度も遠回りを強いられたけれど、車だったから旅のスケジュールに遅れはない。
人気のない廃墟のデパートやコンビニ、スーパーで日用品や食料、衣料を確保しながら先へ進んだ。
そのどさくさに紛れて、昴くんに見つからないように、化粧品売り場の棚から小さなアイシャドウとチーク、リップライナーを、心臓が跳ねるくらいドキドキしながらカバンに滑り込ませた。
生き延びるためだけの旅に、こんな余計なものは要らないはずなのに。
――初デートなのに全然かわいくない。
あの日から胸の奥で騒ぎ始めた女の子の私が、サバイバルに徹する私を押しのけて犯したルール違反。ちっぽけな秘密と、後ろめたさ。
昴くんに見つかったらどんな顔をされるか……いや、きっと「いいじゃん! メイクしてみてよ!」って言うんだろうな。
絶対にあきれたり、困惑したりしない。そういう信頼感が彼にはある。
だからこそ、いつか、もう一度だけ、彼の前で鏡を見られる自分になりたくて――
かわいいじゃんって、言われたいなって――
関ヶ原を越え、琵琶湖の南を進み、京都へ入る。
それでも、かかったのはわずか三日だった。
――こんな状況でも、人間の文明はまだ生きている。
京都にも小さな隕石がいくつも落下したようで、たくさんの古刹が破壊されていた。
修学旅行で行くはずだった清水寺や八坂神社なんかも、おそらく……。
そして、ついに大阪市内へたどり着いた。
けれど、住宅街にある中規模スーパーの側で車が動かなくなった。
ガソリンは残っていたから、なにかしらの不調らしい。
「楽しかった。ありがとな」
車から降りて、大きなリュックを背負った昴くんが運転席の屋根を優しくなでる。
「……ありがと」
私も彼にならい、旅を助けてくれた車にお礼を伝えた。
そして、たっぷりと膨らんだボストンバッグを肩にかけ、車に背を向ける。
水墨画みたいな曇り空のせいで、少し気が滅入る。
霧が立ちこめているから、かなりの湿度だ。
「雨、降りそうだな。早いけど、空き家を探すか?」
東京と違い、大阪市内は隕石による破壊は少ない。ただ、ゴーストタウンのようになっている。
体育館などの疎開場所に集まっているのか。それとも――みんな、薬を飲んでしまったのか。
「私、そこのスーパーに寄りたい。カセットボンベが残り少ないから」
料理をするのには必須アイテム。外でのたき火は危険だから極力避けたい。店内にあるなら、ぜひ確保したい。
「オッケー。んじゃ、行ってみよう」
中の様子を伺いつつ、スーパーの正面に回る。
入り口の自動ドアは閉じられ、奥は薄暗くて見えない。
「ゲームの中に入ったみたいだな……バイオ系の……」
また、私のわからないゲームの話をしている。
「……誰もいないみたいだね」
私と彼は自動扉の前に立つ。当然、開かない。でも、昴くんが手を添えて少し力を入れると動いた。
重たい金属が擦れ合うような、アナログで無骨な音が響いた。
薄暗い闇の中へ、私たちは足を踏み入れる。
「……鈴木。念のため俺の後ろに」
「う、うん……」
外の天気のせいもあって、なんだか怖い。空が晴れていたら、もっと奥まで見えただろうに。
「動くんじゃねぇ!」
強い怒りのこもった女性の声に、私はびくっと震えた。
奥の闇から私たちと同世代の女の子がひとり、ふたり……昴くんくらいの男子がひとり……。
そして、乱れたセミロングの茶髪にジャージ姿の、いかにもヤンキー……というか、不良っぽい女の子が、ぬぅっと現れた。
みんな私と同い年くらい。ただ、不良少女のお腹が大きい。妊婦さんだ。
「痛ててて……」
不良少女が、表情をゆがめる。
この子を含めて、全員が掃除用具を武器にして臨戦態勢に入っていた。
まるで天敵から子どもを守ろうとしている獣のような迫力。
今にも襲いかかってきそうで――怖い。
ここまで争いごとに巻き込まれることなく旅をしてこられた。
けれど、ついに遭遇してしまった。
「待ってくれ。お前らとやり合うつもりはないんだ」
昴くんが両手を挙げて、その意思を相手に伝えようとする。
私も彼を真似して両手を挙げた。
「動いたら殺す」
不良少女が言い放ち、他の三人はじっと私たちをにらんでいる。
よく見ると、中心となっている不良少女以外は震えたり、おびえるような表情を浮かべていた。
「あ、あの、私たち、カセットボンベを探してて。残ってるならわけて欲しいんです。そしたら、すぐ出て行くので」
「信用でけへんわ、ボケ!」
怒り、憎しみ、敵意、殺意……そういうものがぐちゃぐちゃに混じった感情を叩きつけられた。
私たち、なにもしてないのに……。
「ど、どうして信用できないんですか?」
「アンタらみたいに、人の良さそうなヤツラにアタシの彼氏は騙されて、ボコボコにされて――!」
この人達、本気だ。
下手をすれば――
私たちはここで死ぬ。
「は、早よ、帰れや!」
ひとりだけいる男子が震えながら叫ぶ。
「ウチのお願いやから出て行って!」
ふっくらしたショートカットの子が涙目で懇願する。
「私ら、いざとなったら容赦せーへんよ?」
落ち着いた子が私たちに静かな敵意を浴びせる。
「俺は心臓病なんだ」
カセットボンベを諦めようと思い始めたとき、昴くんは両手を挙げたまま優しげな口調で語りはじめた。
「だから、激しい運動ができない。お前らよりずっと弱いんだ。ほら、薬」
彼はポケットからピルケースを差し出す。
「信用でけへんって言うてるやろ!」
妊婦のヤンキー少女がモップをぶんっと振って威嚇する。
「――っ!」
昴くんは反射的に手を引っ込めた。
「すぐ出てけっつっ――……うっ」
不良少女がモップを手放し、からんと乾いた音がした。
彼女はお腹を押さえて苦しむ。
「こんなときに……痛っ、痛いっ……! 痛すぎ、やろ……!」
彼女はふらふらとバランスを崩す。
「未来ちゃん!」
「未来!」
ふたりの女の子が未来と呼ばれた不良少女を支える。
「……もしかして、産まれそうなんですか?」
「見たらわかるやろ! くそがっ! うぐっ」
未来と呼ばれた少女が絶望的な表情で、お腹を抱えるようにしてうずくまった。
「僕、なにしたらええの!?」
「ウチかて、わからへんよ!」
「私ら、医者じゃないし!」
「なんや、未来のジャージが濡れとる……」
うずくまっている未来の、お尻のあたりが濡れている。
これは間違いなく――
「破水してる……!」
もう後戻りできない。
「ねぇ、アンタさ! 私ら、どうしたらええのか、教えてよ!」
「え、えっと……破水したら、すぐに病院に連れて行かなきゃ……」
「病院なんか、全部不法占拠されてしもとるわ!」
「鈴木! あの本! 妊娠のなんとかってゆーやつ!」
懐かしい記憶が脳裏をかすめる。
――あとは『はじめての妊娠出産安心ブック』? えっ? 鈴木って、妊娠してんの?
「あっ」
ボストンバッグを下ろし、底に敷いていた『はじめての妊娠出産安心ブック』を慌てて取り出す。
「えっと、えとえと、陣痛が来たときは――!」
ページをめくる手が震える。
「ああっ」
本を落としてしまった。
「俺が持っててやる」
昴くんが私の代わりにページを開いてくれた。
「アンタ、看護師なんか……?」
うずくまる彼女が今にも消えそうな声で尋ねた。
「ち、違う……看護師はお母さんで、私はただの女子高生で、なにもできない……!」
「でも、その本を持ってるんやろ……?」
お母さんが家を出ていく前に残していった本。もしかしたら旅の途中で誰かを助けられるかもしれないなんて、淡い思いで持ってきただけだ。
お母さんみたいに誰かを救うことなんてできない。置いていかれただけの、無力な子どもなのに。
「いいから、アタシを助けろよォ!」
私が――助ける?
産まれようとしている命を?
もうすぐ地球が滅ぶのに?
「そんなの、私には無理、だよ……」
どうせ、あと二週間と少しで、すべてが終わる。
未来と呼ばれる子も、お腹の子も、昴くんも私も。
なら――
助ける意味なんて、どこにあるの?
「頼むっつってるやろ!? いぎっ!? なんやの、これ!? 無理、無理無理無理無理……!」
――怖い。
出産って、あんなにも強がっていた未来という不良少女が、正気を失うくらい痛いんだ
しかも、陣痛は長く続くはずだ。ときには一日近くも。
私の心が保たない。そんなに強くない。
呼吸が浅くなる。
「もうどうしたらええの!?」
ショートカットの子がパニックになって叫んだ。
私だって叫びたい。
唯一の男子は震えながら立ち尽くし、落ち着いた雰囲気の子は祈るように手を握っているだけ。
「俺、手伝うよ、鈴木」
「ウチも!」
「僕も!」
「私も」
なにを言ってるんだろう、このひとたちは。
全部私に押しつけて……好き勝手に言って……。
「……できないよ。責任が大きすぎる」
もしも赤ちゃんを死なせてしまったら?
未来という、このひとも死なせてしまったら?
きっと私はすぐにでも――
私はポケットに手を入れる。
小さな四角い銀色のシート。その尖った角が、逃げ出せと急かすように指の腹をチクリと刺す。
「いぃぃっ! 痛いたいたいたい痛い!」
赤ちゃんなんて私には関係ない。
今すぐにでも昴くんを連れて父母ヶ浜へ向かいたい。
「鈴木」
私を包み込むような、優しい声。
「お前ひとりに背負わせない」
温かくて力強い手が、私の手をぎゅっと握る。
「だから、やってみよう」
――昴くんが、そばにいてくれる。
呼吸が少し落ち着く。
「アイツ、もうおらへんけど、ひとりでも産むって決めたんや……アタシはどうなってもええから……」
敵意を剥き出しにしていた彼女の瞳から、ぽろぽろと涙が零れた。
「お願いや……この子を助けて……」
――私が、お腹の赤ちゃんを……。
目の前の光景が一瞬にして切り替わった。
縁側で寄り添い、手を繋いで穏やかに目を閉じていたお爺さんとお婆さん。
浜辺で横たわっていた若い夫婦の姿。
世界の終わりに去っていった人達と、明日世界が終わるとしても、この子を産んで生きようとする目の前の少女。
そして――
「「明日世界が滅びるとしても、今日私はリンゴの木を植える」」
――パァンッ!
私は両手で、思い切り自分の両頬を張り飛ばした。
「す、鈴木!?」
昴くんが目を見開く。
火が出るほど痛い。見なくても真っ赤になっているのが分かる。
けれど、その痛みのおかげで、震えていた手と呼吸がピタリととまった。
大きく息を吸い込む。
「――わかった。できるだけのことはやってみる」
みんなの瞳が希望の色に変わった。
失敗すれば死ぬ。最悪ふたりとも。
そんなの、わかっている。
――でも、逃げない。
「昴くん、本!」
「おう!」
私は『はじめての妊娠出産安心ブック』を急いで読み出す。
「ええっと、そこの男子」
「僕、継都……! 何したらええの!?」
「水を集めてきて! ここになければ近くの川から。折りたたみ式の水タンクが私のボストンバッグにあるから持っていって。できるだけたくさん!」
「よっしゃ! すぐ持ってくるわ!」
「あと、すっごい泣いてるショートカットのあなた」
「明日香、やで……」
「明日香ちゃんは段ボールと、ありったけのレジ袋を集めてきて。段ボールの上に敷くから。あと、毛布やタオルも」
「う、うん!」
「私、沙希。指示、出して」
「清潔なタオルある? 未来ちゃんの汗を拭いてあげて」
「ある。任せてや」
そして、昴くん。
「俺はなにをしようか、鈴木?」
――そばにいて。
そう言いたい気持ちをぐっとこらえる。
「昴くんはスーパーの中から鍋とカセットコンロを探して。継都くんが水を運んできたら、携帯浄水器を通して火にかけて、お湯を沸かしてほしいの。……走ったり、重いものを持ったりしないでね。胸が苦しくなったら、すぐやめること」
「任せろ。いざってときの俺の心臓は頼りになる。鈴木も知ってるだろ?」
強くうなずいて、再び本に視線を落とした。
どれくらい時間が経ったのかわからない。
同じ呼吸を、何度も、何度も繰り返していた。
外はとっくに真っ暗だ。
未来ちゃんは段ボールを敷いた手作りのベッドの上。
横向きで息を荒くしていた。
この姿勢で問題ない……はず。
未来ちゃんは片手にモップの柄を強く握る。
もう片方の手で、私の手を強く握る。
明日香ちゃんが未来ちゃんの汗を拭く。
沙希ちゃんは背中をさすっている。
継都くんが運んでくれた水を、昴くんが丁寧に浄水して沸かし、清潔なお湯を絶やさず用意してくれていた。
「っ……あああっ!!」
未来ちゃんは私の手を握る。
握りつぶされそうなほど強烈な力。
彼女の爪が深く食い込んで痛む。
でも、無事に産んでくれるなら、そんな痛みはどうでもいい。
「代わろうか、鈴木?」
鍋を火にかけ終えた昴くんが駆け寄ってくる。
私は彼を見ずに首を振った。
「……私がやらなきゃだめなの」
「ん」
彼を見なくても、理解してくれた気配が伝わる。
「大丈夫、大丈夫だよ、未来ちゃん。赤ちゃんも、ちゃんとがんばってる」
不安や恐怖を押し殺し、声をかけ続ける。
「ぎぎぎぃ……ぐっ、うっ!!」
「それじゃだめ。息、ゆっくり、私と合わせて」
「もうやめたい!」
「ここでやめたらだめ! ほら、ふぅー……」
「フゥー……、フゥー……」
未来ちゃんと目を合わせ、呼吸を導く。
何時間も前からずっと。
産まれるまでずっと。
「大丈夫、大丈夫だからね……!」
時間の感覚が壊れていく。
まだ終わらない。
まだ――終わらない。
気づけば、外が明るくなっていた。
「ぐぅ……いきみたい!」
未来が叫ぶ。
「血が混じったのがいっぱい出てきた! これでええの、花奈!?」
叫んだのは、赤ちゃんを受け取る役の沙希ちゃん。
「いいの! 子宮口が全開になって、赤ちゃんが下りてきてる証拠だから! もうすぐ出るよ!」
「下がってきてる感じや……!」
「頭が見える……!」
「少しずつ出てくるよ! がんばれ、未来!」
「もう少しや、未来……!」
「今、力入れて、未来!」
「うぐっ――……ああっ!!」
凄まじい力で私の手を握る未来。
その手から、力が、抜けた……。
――静寂。
時間がとまる。
誰も動けない。
「出てきたけど……動かへん……」
「死んで……しもたん……?」
沙希ちゃんが抱いているタオルの塊。
私が受け取る。
とんとんと叩く。
そこは赤ちゃんの背中。
……お願い、起きて。
ママが待ってるよ。
だから――お願い。
「オギャアアァ――」
小さな泣き声が静寂をぶっ飛ばすように響き渡った。
もうすぐ終わる世界で、ひとつの命がはじまった。
わぁっと歓声があがる。
手の中に重さを感じている。
なのに、まだ信じられない。
私が、命を守ることができた……?
震える手、落とさないようにと大切に抱く。
「……元気に生きてる」
ぐったりしている未来の胸元へ、タオルにくるまれた赤ちゃんをそっと横たえた。
彼女自らが産みだした小さな命。
確かに動いている。息をしている。
「……産まれたで、タカユキ。あんたに似てる……めっちゃべっぴんな女の子や」
赤ちゃんと未来のお腹を結ぶ、一本の青白い管。
トクトクと、最後の拍動を送り届けている命のライン――へその緒だ。
私は本で読んだ手順を必死に思い出しながら、昴くんを呼んだ。
「昴くん、救急セットのハサミと、縫い糸、お願い」
「おう!」
昴くんがライターの火でハサミの刃先を念入りに炙り、冷ましてから手渡してくれる。
私は煮沸消毒した木綿糸で、赤ちゃんのへそから数センチのところと、さらにその先を二箇所、固くきつく縛った。
「……切るね」
涙を浮かべた未来ちゃんが小さく頷く。
ハサミを入れ、糸の間を断ち切る。
パチンと小さな手応え。
血が滲むこともなく、赤ちゃんは未来ちゃんの体から独立した、たったひとつの尊い『個』になった。
温かいお湯で濡らしたタオルで赤ちゃんの体を拭き、乾いたバスタオルで優しく包み直す。
本の指示に従って胎盤が出るのを静かに見届け、未来の身体を拭いて横にならせた。
「私も抱っこしてええかな?」
おずおずと沙希ちゃんが尋ね、未来ちゃんが快く頷く。
「あ、あれ? どうやって抱っこするんやったっけ?」
沙希ちゃんに抱っこのやり方を教え、明日香ちゃん、継都くんと続く。
次は昴くんの番。
「お、俺はいいよ……!」
「せっかくだから」
「本当にいいのかな……」
命の短い自分が、赤ちゃんに触れていいのか……と昴くんは迷ってる。
そんなの、いいに決まってるよ。
「だ、抱き方、あってるか?」
昴くんは大きな腕でしっかりと赤ちゃんを抱いている。
「ははっ、すごいな……」
彼がそっと触れようとすると、赤ちゃんのほうから指をぎゅっと握った。
「すげぇ……力強くて、あったかい……」
「昴くん、気に入られたね」
「やば、泣きそう……」
そして、また私の番。
落ち着いて大切に抱き、昴くんの真似をすると、小さな手で指を握り返してくれた。
やわらかい。あったかい。そして、力強い。
小さな胸が呼吸に合わせて、膨らんだりしぼんだり。
きっと小さな心臓も元気に動いている。
「……………………」
昴くんが私を見ていた。いつもより少しだけ、優しい微笑みで。
「……鈴木ってさ」
「んー?」
「母親向いてると思う」
私は思わず、ふき出してしまった。
「なにそれ」
……母親、なんて。
笑い飛ばそうとしたのに、昴くんの視線があまりに真っ直ぐで、胸の奥がきゅんと跳ねる。
もしも世界が終わらず普通の日常があったなら――いつか、こんなふうに並ぶ未来もあったのかな、なんて。
柄にもない想像がかすめて、耳の先が熱くなる。
「私――」
――教室で死ななくてよかった。
私でも、誰かを助けられた。
それなら――
もう少し、生きてみたいな……。
「産まれてきてくれて、本当にありがとう」
赤ちゃんにお礼を伝えた。心を込めて。
「……鈴木。なんか変わったな」
「もう。こっち見過ぎ。ばか」
それでも昴くんは私を見ていた。
いつもに増して優しい光で。
……ちょっと困る。
「ママのところへ帰りましょうね」
私は赤ちゃんを未来の元へ返す。
そして、ポケットの中に手を入れようとして――やめた。
終わる世界で、命が生まれた。
だから、この世界は、まだ――
外から差し込む朝の美しい陽光が、私たちを祝福してくれているようだった。
ああ、終わった……やり遂げた……。
私の目の前がゆっくりと暗くなっていく。
「鈴木? おい、鈴木!」
身体中から力が抜けてる。
気づけば、昴くんに身体を支えられていた。
* * * *
まどろみの中、耳元で微かな音がした。
カチ、カチ……と、指先で液晶を叩く小さな音。
薄く目を開けると、朝の光の中、段ボールの脇に座り込んだ昴くんの背中が見えた。
「……送信」
ぽつりと呟いて、彼は画面を暗転させた。
また、あの届かないメールを送っていたのだろうか。
声をかけようとしたけれど、彼の横顔があまりにも静かで、祈るように澄んでいたから。
私は何も言わず、再び心地よい眠りの中へと落ちていった。
「もう元気だよ。ただの過労だったから」
丸一日、私は敷き布団代わりの段ボールで眠っていたらしい。
「いや、あと数日は休もう。日程には余裕あるんだろ?」
「車のおかげで、充分に」
というわけで三日間、ここで休むことに。
ショートカットの子、明日香。薄手のパーカーにショートパンツがかわいい。話してると、すぐ感極まって泣く。泣き虫さん。
落ち着いた雰囲気の沙希。白いノースリーブに揺れるスカートが大人っぽい。私と一番価値観が合う。
おどおどしてる男の子、継都くん。白シャツに紺のスラックス姿。ゲームが好き。昴くんとすぐ仲良くなって、一緒に携帯ゲームでずっと遊んでる。
そして、未来。赤ちゃんを産んだ英雄。凄い。とてもさっぱりした性格で友達想い。女子人気、すごく高そう。私もすぐ好きになった。
彼氏さんの、のろけ話を少し切ない表情で、たくさんしてくれた。
――終わる世界で、できた親友。
昔からの仲良しのように打ち解け、お菓子を食べながらお腹が痛くなるほど笑い合った。
みんなと同じ学校に通えていたら、なんて思ってしまうくらいに。
昴くんも継都くんとゲームしたりして。
ゲームばっかりしちゃだめだよって言うと、段ボールで大きな的を作って、ゴム鉄砲で射的ごっこしたり。
もちろん授乳の世話も、女子メンバーで喜んでした。
私たちは赤ちゃんにめろめろだった。
「名前をつけたいんや」
赤ちゃんにおっぱいをあげている未来が言い出した。
「花奈って、どんな漢字なん?」
「平凡だよ。草花の花に、奈良の奈」
ちなみに、沙希が未来の髪をくしでといている。
明日香はお菓子を食べている。
私は赤ちゃんを見ている。
みんな、したいことをしている。
「めっちゃええ名前やんか!」
「えーっ。どこにでもある名前だよ? 鈴木花奈、だよ? 日本一平凡だよ」
「それって、日本で一番ってことやんか」
「……あっ。その視点はなかった」
未来の考え方や価値観は、とても刺激になる。
「決めた。アタシの名前の未に、花奈の花の字をもらって、未花。どや?」
にこーっと無邪気に笑う未来。
「ええ名前やん、未来ちゃん!」
「私も賛成。未花ちゃん。ええね」
「わ、私の名前なんて使わなくていいよ……」
「花奈はアタシと未花の恩人や。恩人の名前をもらうのは、よくあることやろ? 遠慮なく使わせてもらうわ。異論は認めへん! ははっ!」
なんだか心がくすぐったい。
――未花。
未来の花。
もうすぐ地球が滅ぶのに、この子は未来へ向かって咲くのだ。
それなら……私も咲きたい。
なんて生意気にも思ってしまった。
幸せそうにお乳を吸う未花を見つめながら。
終わる世界で、それでも誰かが、リンゴの木を植えた。
そして、お別れのとき――
未花ちゃんを抱っこしている未来、号泣している明日香、涙目の沙希、笑顔の継都くん。
みんなに見送られて、私たちは出発する。
そんな私も、今にも泣きそう。
「これ……未来ちゃん、沙希ちゃんと一緒に作ったんや。もろてくれる?」
明日香が渡してくれたのは、手のひらよりも小さな赤ちゃんのぬいぐるみ。
「わっ、かわいい」
「へへ。旅のお守りにしーや」
「……ありがとう。大切にするね」
そして、この小さなぬいぐるみのモデルとなった赤ちゃんを見る。
「元気でね、未花ちゃん」
「へぁ」
返事をしてくれた。嬉しい。
そして、私の指をぎゅっと握ってくれた。
力強いこの手の感触を、私は絶対に忘れない。
「ううっ、もうずっとここにおったらぁ?」
明日香は鼻水まで流している。
「あかんって。花奈たちには命がけの夢があるんやから。応援したりーや」
「……うん。がんばってな」
「ありがとう、明日香。沙希」
継都くんと昴くんは、がははと笑いながら別れの言葉を交わしている。男の子らしいなぁ。
私は私を変えてくれた未来を見る。
「ちゃんと生きろよ、花奈」
「うん」
「ほな。またな」
「うん、またね」
二度と会えないはずなのに、私たちはつい、そう言ってしまった。
でも、互いに笑顔だ。
今回、私は知ることができた。
昴くんみたいに、ちゃんと前に進んでいる人が、ここにもいた。
そして、私と昴くんは四人と赤ちゃんに見送られて歩き出す。
彼女たちは、私たちが見えなくなるまで手を振ってくれていた。
「手、大丈夫か?」
今の私の手は絆創膏だらけ。
未来が出産のとき、ずっと私の手を握っていたからだ。
彼女の爪が皮膚に食い込んで、いくつもの傷ができていた。未来は驚いて謝ってくれたけど、そもそも謝る必要なんてない。
赤ちゃんを無事に産んでくれてありがとう。その気持ちでいっぱいだ。
「平気。これ、勲章だから」
そう、勲章。だから、とても誇らしい手になった。
「……そっか」
また昴くんが優しげに笑う。
……ちょっと困る。
とめられないくらい、ドキドキするから。
そんな私に気づかず、昴くんはスマホを取り出す。
車に乗っていたとき、シガーソケットから充電しておいた携帯ゲームとスマホ、そしてモバイルバッテリー。
だから、今だけ使えるようになっている。
「みんなで撮った写真、いい感じだぞ、ほら」
「歩きスマホはだめだよ」
「別にいいじゃん? 終末なんだからさ」
その画面には、赤ちゃんを抱っこしている未来、お菓子を食べてる明日香、未来の髪をといている沙希、そしてみんなの真ん中でくしゃっと屈託なく笑っている私がいた。
――画角の外で、誰かのSNSのために息を潜めていた、あの透明人間だった私じゃない。
誰かの物語のレンズなんかじゃなく、ちゃんと世界の中心で、愛されて笑っている私の姿。
昴くんが撮った写真には、他にもみんなでピースしているものや、私と赤ちゃんだけの写真もあった。
どれも楽しくて、幸せで、地球が滅んでも残したいって思えるような写真。
そんな中、昴くんは私が赤ちゃんを抱っこしている写真をじっと見つめる。
「やっぱり鈴木ってさ、ちゃんと“誰かを守れる人”だよな」
「えーっ、なにそれー?」
なんだかおかしくて、くすくすと笑ってしまった。
でも、その言葉で胸が熱くなった。ほんの少しだけ。
