セカイが終わるその日、ぼくらは永遠の環を結んだ

 ――世界が滅ぶまで、あと二十四日。

 八月七日。
 この旅には鉄則がある。『午前十時から午後二時までは移動しないこと』。
 日焼けは体力を奪い熱中症を招く。心臓に爆弾を抱える昴くんにとって、日差しのピークを廃墟や木陰でやり過ごすのは命を守る絶対のルールだった。
 私は日焼け止めとリップを素早く塗る。可愛く見せるためじゃない、生き延びるための作業だ。
 冷夏とはいえ肌を刺す日差しを避け、私たちは道端の大きなクスノキが作る濃い木陰に身を寄せていた。
「ふぅー……生き返るな」
 クスノキの幹に背中を預けた昴くんが、キャップを脱いでふわりと髪を揺らした。
 冷夏とはいえ、じりじりと照りつける日差しの中を歩いてきたのだ。
 私は水筒を取り出し、フタのコップにぬるくなった水を注いで手渡す。
「はい。ちゃんと水分取ってね。喉が渇く前に飲むのが鉄則だから」
「ありがとな。鈴木もしっかり飲んでくれよな」
 わかってる。でも、昴くんが優先だ。
 私の水筒は残り少ない。昴くんの水筒にはまだ残っているけれど、それは彼のために取っておかなきゃいけない。だから、私はほんのひと口だけ。
 それに、もっと進めば川があるから、そこで水を確保できる。やっと洗濯もできるはずだ。
「……なんかさ、鈴木といると俺、完全に面倒見てもらってるよな」
 水をごくりと飲み干した昴くんが、申し訳なさそうに頭をかいた。
「日焼け止めも塗ってもらって、休憩のタイミングも決めてもらって。男として、ちょっと情けないかも」
「私は旅のナビゲーターなんだから当然でしょ。昴くんは心臓を大事にするのが最優先なんだから」
「そりゃそうだけどさ。……いつか俺も、鈴木に頼もしいところ見せたいんだけどな」
「期待しないで待ってる」
「うわ、冷たい! そこは『楽しみにしてるね』だろ?」
 ふふっ、と木陰に小さな笑い声がこぼれる。
 カサカサと鳴る梢の影で息を潜め、最も日差しのきつい時間帯をやり過ごす。
 午後二時を過ぎ、太陽がわずかに西へ傾き始めたのを見計らって、私たちは再び立ち上がった。


 ――けれど、現実は甘くなかった。
 抜けるような青空の下、誰もいない荒れた道路が地平線の先まで続いていた。
 両側には枯れた畑が広がり、その向こうに薄く青みがかった山が見える。
 家や納屋などの家屋が全くない。
 どこまでも広がる欧州のワイン畑を連想した。
 世界に私と昴くんだけが取り残されたような錯覚さえ抱く。
「日本に、こんな場所があるんだな……」
 私も昴くんと同じ気持ちだ。
 刺すような夏の陽光を遮るものは、私の白い日傘と昴くんの帽子だけ。
 半袖のセーラー服から出た腕の皮膚にまとわりつく熱気。
 荷物は減って軽くなっているはずなのに、足が鉛のように重い。
「この先に川があるから、そこまで行けば休めるよ……」
 早くたどり着かなければ……。
 もしも、ここで昴くんが倒れてしまったら……。
 それは……旅のナビゲートをしている私の……ミス……。
 ……あ、あれ? 頭がぼうっとする。
「鈴木? おい、鈴木!」
「……ん、なに?」
「凄い汗だぞ!」
「あ……そっか……ごめん……熱中症だね、私……」
 汗が目に入り、視界がにじむ。
 インナーが背中に張りついて気持ち悪い。
 目の前がふらふらして、大地が揺れる。
「日陰は、ないか……! くそっ」
「汗が出てるから、まだ軽いほうの……はず……」
「いいから、まず水筒の水を飲め!」
 昴くんが私の水筒を開けて水を飲ませてくれたが、症状は治まらない。
「鈴木をおんぶするからな」
 ふらふらしている間に、彼は自分のリュックを前に回して、私を背負ってくれた。
 昴くん、力持ちなんだね……。
 彼の汗の匂いが近いのに全然不快じゃない。
 私の乱れた息遣いが耳元に届いているはずで、恥ずかしいけれどどうにもできない。
「……どうするの?」
「この先に川があるんだろ? そこまで走る!」
「だめっ」
 意識が一瞬だけ覚醒して、背負われたまま昴くんをとめる。
 なのに、私の言うことなんて聞かずに彼は走り始めた。しかも、速い。
「昴くん、発作……起きちゃう、からっ」
「今は調子がいいんだ……! このくらい平気……!」
 ……このひと、絶対に無理してる。
 心臓病なのに……すぐ不整脈を起こすのに……私のために……。
「鈴木、意識はあるか? 鈴木!」
「……うん。大丈夫。気を失うほどじゃないよ……だから、無理、しないで……」
「平気だって言っただろ……! それに俺だって、少しくらい頼りがいのあるところ見せたいんだよ……!」
 昴くんは息を切らせて強がる。絶対、強がりだ。
「ムキになるなんて、子供みたい……」
 我ながら失礼なことを言ってしまったと、ぼうっとしながら後悔した。
 でも、昴くんはきっとこのくらいじゃ怒らないんだろうな……。
「いいから、しっかりつかまってろ……!」
 死ぬのは怖くないと思っていたのにな……。
 昴くんの声が遠くなっていく。
 それが少しだけ怖かった――

 * * * *

 その夜。
 私たちは川沿いの土手上にある木造平屋の空き家に身を寄せていた。
 昼間、川水で熱を冷ましてもらったあと、昴くんが見つけてくれた民家だ。ブロック塀と雨戸に囲まれ、門扉に防犯センサーを仕掛ければ安全は確保できる。
 元気を取り戻した私は、ハンカチを巻いて減光した懐中電灯を頼りにサバ缶のトマト煮を作り、フライパンごと夜風の抜ける縁側へ運んだ。
 並んで腰を下ろすと、布越しの柔らかい光が手元を照らし、板張りの冷たさが素足に心地いい。
「めっちゃいい匂いがする……」
 私は子供が使うようなプラスチックのお皿に盛りつける。
 そして、昴くんに手渡した。
「めっちゃ美味そう……」
「サバ缶とトマトがあったから、サバ缶トマト煮だよ」
 トマトはお爺さんとお婆さんがくれたもの。
 おかげで旅の食事がとても豪華になった。
 天国で安らかに過ごしてくれてたらいいな。
 そして、私たちを見守ってくれてたら……。
「鈴木」
「あ、ごめん。考え事してた」
「いつも思ってたけど、この皿、子ども用っぽくない?」
 無邪気と無神経は紙一重だなと、昴くんを見てると思う。
「軽いし、割れないからいいの」
「ああ、だから小さい子が使ってるのか、こういうお皿」
「昴くんは子どもみたいだから、ちょうどいいでしょ?」
「俺ってそうなの!? 今日は頼れるところを見せられたと思ったんだけどなぁ……」
 確かに、頼れる男子って感じだった。


 昼間、私が熱中症になってしまったとき――
 私を背負った昴くんは、息を切らしながら川辺まで運んでくれた。
 そこで私を川の水に浸してくれた。
 熱がゆっくりと引いていく。視界の端が白く滲んで、昴くんの顔だけがはっきり見えた。
 そして、彼は濡らしたタオルで、私の頬や額を一生懸命拭いてくれた。
「鈴木! 死ぬな! 死なないでくれ! お前がいないと、俺は、俺は――寂しい! だから、生きてくれ……!」
 声が裏返って、最後の言葉はほとんど息だった。
 濡れた前髪の隙間から落ちる雫が、汗なのか涙なのかわからない。
「……おおげさ。ちゃんと意識、あるから」
 そう言ったのに、昴くんは首を振った。
「俺はそうやって強がって、翌日に死んじゃった人を、入院中にたくさん見てきたんだよ……!」
 震える声。
 私のために泣いてくれている。その事実が胸の奥をじんと熱くする。
「俺の分の水も飲んでくれ!」
 昴くんの水筒の水を、昴くんに飲ませてもらう。
 ……ああ、これ、間接キスだ。
「もっと飲んで、いや全部飲んでくれ!」
 ああ、“生きてほしい”と願われることが、こんなにも温かいなんて――
「……昴くんこそ、大丈夫? 激しい運動、よくないのに」
「苦しくもなんともない。いざってとき、この心臓はちゃんと俺の言うことを聞いてくれるんだよ」
「……そう。よかった」
 あのときの昴くんの涙を思い出すだけで、胸の奥がきゅっと苦しくなる。


「……うん。今日の昴くんはかっこよかったよ」
「だろ~!? いつも助けてもらってばかりだからな。たまにはな。へへ」
「いいから早く食べて。冷めちゃうでしょ?」
 カチャッと軽い音が響く。
「私も……いただきます」
「これ、うま…」
「簡単に作っただけだけど」
「いや普通にうまい。薄味なのに、めちゃうまっ」
 はふはふしながら食べる姿がかわいい。
「身体にいいからね」
 昴くんは自分の心臓に手を当てて、そして私に微笑んだ。
「ん、ありがとな」
 昴くんの飾らない言葉が、また私の胸をきゅっと苦しめる。
 なんだろう、これ……嬉しいのに、苦しい。
 ふたりで並んで縁側に座っていると、あのお爺さんとお婆さんの姿を思い出す。
 あんなふうに、誰かと静かに寄り添って生きる時間が、こんな私にも訪れたのかもしれない。
 照れくささを誤魔化すように話題を変える。
「このサバ缶トマト煮も、料理レシピの本を見て作ったんだよ」
 昴くんは、なにが言いたいんだろう……といった様子で食べながら私を見る。
「私の本が役に立ってる」
「ああ。いやでも、妊婦さんの本とか、ローマのなんとかはいらないだろ……」
 呆れるように言ってから、また、はむっと食べる。
「いずれ役に立つときがくるんだから」
 そう強がりつつ、私もサバ缶トマト煮を食べる。
「あ、美味しい……」
 私は自分の腕前を心の中で褒めつつ、しっかりと食べきった。


 食後、昴くんは携帯ゲーム機を弄っていた。
 隣に私がいるのになぁ。
「あっ」
 昴くんの小さな悲鳴に、画面を横からのぞき見る。真っ暗だ。
 とうとう充電が切れたらしい。モバイルバッテリーも空だ。
「それ、ここに置いていったら?」
「いや、どっかで充電できるかもだから持っていく」
 充電……どこで?
 そう思ったけれど軽いものだし、本人が望むなら別にいいか。
「なんか、おしゃべりするか」
「一応、私、地図を見てるんだけど?」
「ちょっとだけ。な?」
 男子がおしゃべりしたがるなんて、普段なら珍しい光景かもしれない。
「……それで、どんな話がしたいの?」
「あー……じゃあ、鈴木の家族の話とか。きょうだいはいるのか?」
「私、ひとりっ子」
「お父さんの職業は?」
「警察官。お母さんは看護師」
 まだ警察機能が生きていて、電気やガスがかろうじて使えていた頃、ふたりとも毎日仕事へ行っていた。
 しかし、あるときから帰らなくなった。ふたりとも、同じ日に。
『広域災害医療支援(DMAT)要請先:瀬戸内・観音寺ブロック』
 というお母さんのメモだけ残されていた。お父さんは行方が全くわからない。
 今、生きているのか死んでいるのか。
 そんな話をさらりと昴くんに話した。
「……ごめんな」
「えっ、なんで?」
「鈴木の家、誰もいなかったもんな」
 旅立つ前に、私の家で荷物の準備と確認をした。
 なんだか、もう遠い昔のようだ。
「鈴木のお父さんとお母さんに、なにかあったってことくらい想像つくのに……。俺、ほんとバカだわ。嫌なこと聞いてごめんな」
「ううん。ひとりで抱えるより、誰かに聞いてもらったほうが気持ちが楽になるから。ありがと」
「……鈴木は神か」
「なんでよ」
「めちゃ優しい」
 昴くんのほうがずっと優しいよ……。
「んじゃ、お詫びってわけじゃないけど、俺の家族の話をするよ」
 昴くんはリュックから小さなフォトアルバムを取り出した。
「それ、見るなって言ってたやつじゃ……?」
「ああ。気が向いたら教えてやるって言ってたやつだ」
「いいの?」
「話しておかなきゃいけないって思ってさ」
 彼は目を細める。
 はっとするほど大人びた表情になった。
「ほら、これ」
 アルバムの中の写真を、昴くんは見せてくれた。
 ウユニ塩湖みたいに鏡面の海。水面には夕暮れの空と、男の子の影が綺麗に写し出されていた。
 昴くんだ。小学校低学年くらい。アップの写真もある。
 かわいい……なにこれ、ほんとかわいい。
 ご両親と昴くんが一緒に写っている写真もたくさんある。
 三人とも笑顔で、とてもいい雰囲気。
 ご両親だけが仲良く腕を組んで写っている写真もある。
 きっと、幼い昴くんが撮ったんだ。
 心温まるような写真が何枚もある。
「この頃はすごく仲が良くて、俺も心臓病じゃなくて、楽しかったんだ」
「……うん」
 昴くんは、この頃は、と言った。
「でも、俺が心臓病になってからは金銭的負担とか、父さんと母さんのどっちが病院へ連れて行くか……で、ケンカが増えた」
 容易に想像がつく。
「父さんは育て方が悪かったんだって母さんを責めて、母さんは父さんの遺伝子のせいだって責めて……めちゃくちゃだよな」
 そんなことを子供の前で言うなんて信じられない。
「見てらんなくてさ。よく部屋に閉じこもってたよ。それでも聞こえるからずっとゲームしてた。そしたら母さんが部屋に入ってきて、こんなときにゲームだなんてって怒るし」
 幼い昴くんは肉体的にも精神的にも胸の苦しみを抱えながら、ゲームをすることで自分を必死で守っていたんだ。
「結局、父さんと母さんは俺が中学のときに離婚した。父さんが先に家を出て、母さんもあんまり帰ってこなくなって……。生活費はテーブルに置かれていたから、食べるものには困らなかったし。激しい運動さえしなきゃ、薬をちゃんと飲んでれば普段は部屋で普通に過ごせたからさ」
 淡々とした表情の昴くんを見ていると、あまりに胸が痛む。
「俺が中学に入ってからは、毎月の通院も、薬局で薬をもらうのも、全部ひとりで行ってたよ。……大きな検査の同意書にサインがいるときだけ、母さんが嫌な顔しながら病院に来てくれたけど」
 心の奥底に、ふつふつと怒りが湧いてくる。
 病気の身体を抱えながら、ひとりぼっちで病院に通い、薬の時間を守って生き延びていた中学生の男の子。
 その隣にいてあげるべき大人は、誰もいなかったんだ。
「全部、俺のせいなんだ。俺が……俺の心臓が、家族を崩壊させたんだ……」
 自嘲気味に笑う昴くん。
 そんな笑顔、見たくない。
「それは違うよ、昴くん……」
 彼の生気のない顔が私を見る。
「絶対に違うよ……だって、昴くんはすごく優しい男の子だから……そんなひとが原因なわけないよ」
 声が震え、目の奥が熱くなる。
「明るくて、生きる気力に満ちあふれていて、病気になんて絶対に負けない強いひと……」
 今もポケットに銀色のシートを忍ばせている私とは全然違う。
「心臓病になったのも、両親が離婚したのも――絶対に昴くんのせいじゃない!」
 旅の途中で休憩するとき、私が汗を拭いてあげると、ごめん……ごめんな……っていつも苦しそうに謝っている。
 気にしなくていいって何回も言ってるのに。
 ……ずっと責められてきたんだ。
 そして、彼を責め続けた両親は離婚し、ふたりとも去った。
「昴くんのせいなわけないじゃない……」
「……鈴木、泣いてるのか?」
「泣いてないっ」
 私の頬を雫が伝って落ちた。
「泣いて、ないんだからっ」
 昴くんが隣にやってきて、背中をさすってくれる。
 手のひらの熱が伝わってきて、ますます涙がとまらなくなった。
 どうしてこんな優しい人が、自分を責め続けなきゃいけないんだろう。
「……ごめんな、鈴木。俺の話を聞いて欲しくなったんだ。嫌な気持ちにさせてごめん……」
「お願いだから、これ以上謝らないで。自分を責めないで……」
「でも、泣かせたのは俺だから」
「違うよ。そうじゃないよ」
 私は涙を拭いて、戸惑う彼をしっかりと見つめる。
「私が昴くんの汗を拭いているときも、ごめんねって言う……今だって、ごめんねって……。そんなの聞きたくない」
「じゃあ、なんて言えばいいんだ……?」
「ありがとう……って言って」
 昴くんが、はっと息を呑む。
「汗を拭いてくれてありがとう。話を聞いてくれてありがとう。そっちのほうがずっと嬉しいよ」
「……さっき鈴木は言ってたな。聞いてくれてありがとうって」
「どうだった?」
「鈴木は神かって思った」
「ぷっ。あははっ。このタイミングで笑わせる、普通?」
「笑わせるつもりはなかったんだけどなぁ」
 昴くんのおかげで涙がとまったので、私は教師のような態度で彼に呼びかける。
「星加昴くん」
「お、おう?」
「私になにか言うことは?」
「……いつも汗を拭いてくれてありがとな。あと、さっき話を聞いてくれてありがとな」
「わかればよろしい」
 昴くんが笑って、私もつられて笑う。
 そんな私たちの目の前――縁側のすぐ脇、雨水が溜まったまま放置された大きな睡蓮鉢や庭石のくぼみ、生い茂る下草の間から、ふわりと光の粒が現れた。
 ひとつ、ふたつ、みっつ……。
「……鈴木、ライト」
「あ、うん」
 カチリと懐中電灯のスイッチを切る。
 途端に視界は深い夜闇に沈み、昴くんの顔も見えなくなった。
 けれど次の瞬間――川風に乗って、光の粒が一斉に舞い上がった。
「……蛍だね」
 手入れをされなくなった水辺に棲みついていたのだろう。
 光の粒は次々と数を増やし、縁側で並ぶ私たちを包み込むように漂っていく。
 真っ暗な庭を照らす無数の蛍と、頭上に広がる星空。
 息を呑んで見惚れた。
「私たちを慰めてくれてるのかな」
「そうかもな」
「蛍の光って、死んだ人の魂だって話があるよね」
「だったら、みんな、綺麗な魂だったんだな」
「きっと昴くんも、こんなふうに綺麗な魂だよ」
「それを言うなら、鈴木も、だろ?」
「……どうかな」
 独り言のようにつぶやいた言葉は夜闇に吸い込まれた。
 昴くんはポケットから、真っ暗な画面のスマホを取り出し、ぼんやりと夜空にかざした。電波も届かず、灯りも点かない、ただの黒い板。
「なぁ、鈴木。パラレルワールド……マルチバースって知ってるか?」
「多元宇宙論のこと? 量子力学の……」
「さすが物知りだな。ざっくり言うと、SFやアニメの話じゃなくて、最先端の物理学で真面目に議論されてるやつ。俺たちが住んでいる宇宙の外側に、少しずつ異なる宇宙が無限に存在しているって理論だ」
 彼は暗闇の中、黒い画面に星と蛍の光を反射させながら言った。
「宇宙が無限にあるなら、可能性も無限にある。どこか別の宇宙の地球では、俺たちはこんな旅なんかしてなくてさ。普通の高校生として、放課後に教室でだべったり、スマホでくだらないメッセージを送り合って笑い合ってるような世界も存在するんだって」
「スマホで、メッセージ……」
「『今日のアイス何味にする?』とかさ。そういう、どうでもいいやつ」
 昴くんが少し照れくさそうに笑う。
 私は小さく息を吐いて、苦笑いを浮かべた。
「……物理学って言われても、なんだかオカルトみたい。別の宇宙に別の私たちがいるなんて、信じられないかな」
「夢があっていいじゃないか、マルチバース」
「私は現実主義なの」
 けれど、不意にそれを想像して、胸の奥がきゅっと疼いた。
 制服のまま、放課後の夕焼けの教室で、昴くんから届いた他愛のないメッセージを見て笑っている私。
 そんな当たり前の青春が、異なる宇宙の地球にはあるのかもしれない。
 そこには透明人間じゃない私。せめて普通のモブになれている私。もしかしたら――誰かと一緒に笑って、少しだけキラキラしている私がいるのかもしれない。

 でも、この世界の私は――

 残酷なほどに美しい蛍の光。
 無情に輝く夜空の星々。
 この光の中に混ざれたら、少しは綺麗になれるのかな。
 私は、ポケットの中の“それ”に触れる。小さな四角い銀色のシート。尖った角が指先にツンと小さな痛みを残す。
 死のうとしていた自分は、こんなに綺麗じゃない。別の地球の私みたいに、無邪気に笑う資格なんてない。今だって、いつでも死ねるって思っているから……。
 ずっとポケットの中で、銀色の角を指の腹でなぞり続ける。痛いのに、ずっと。
 光はあんなに綺麗なのに、私の中は濁っている。
 どうして私は昴くんみたいに思えないんだろう。
 それでも、明日は来る。
 それでも――私は、進まなきゃいけない気がした。

 * * * *

 八月十日。
 薄い曇り空の下、海辺の道を昴くんとふたりで歩く。
 右側には空き家がぽつぽつと並び、左側は腰までの高さの防波堤、その向こうには美しい砂浜。
 陽光がないからか、水面の揺れが優しく感じる。
 道中で拾った自転車もパンクして徒歩に戻ったが、老夫婦の家で休めたおかげで昴くんの体調はいい。あのかんざしは最後まで大切に持っていこう。
「すげー鳥!」
 真っ白なカモメが驚くほどたくさん飛んでいる。少し怖いくらいの数だ。
 ふと前方に、停まっている一台の車を見つけた。
 警戒しながら、ふたりでそっと近づく。足音に気づいたカモメたちが、白い翼を広げて防波堤のほうへ飛び去っていった。
 車内に人影はなかった。
 ただ、キーが挿さったままで、ドアにも鍵はかかっていない。
 助手席に置かれた写真立ての中では、薬指に指輪をした若いカップルが幸せそうに笑っていた。
 でも、そのそばには銀色に光る四角いアルミシートが転がっていて、すでに中身はない。
「……鈴木。海の方」
 防波堤の階段の先で――人がふたり、仰向けになって倒れていた。
 そういうことなんだ……。
 世界の終わりが近づくにつれて、こうして静かに眠りにつく人達が増えているのだろう。
 彼らと同じ場所へ行くための四角い銀色のシートは、今も私のポケットにある。
 指先を伸ばせば、あの冷たい角に触れる。
 あのふたりは、まだまだこれからだったはずなのに。
 私たちは波打ち際のふたりに向かって、静かに手を合わせた。
 胸を衝く重たい沈黙を払うように、昴くんが小さく息を吸い込む。
「……行こう。ふたりの分まで、乗せてもらおう」
 運転席へ乗り込んだ彼に倣い、私も助手席のドアを開けた。
 キーを回すと計器が灯る。ガソリンは半分以上あった。
「……ふぅ。よし」
 昴くんは自分に言い聞かせるように呟き、突き出たシフトレバーを握った。
「マニュアル車だ。レースゲームをずっと手動設定でやり込んでたから、クラッチの感覚は頭に入ってる」
「……安全運転でお願いね?」
「任せろ。ゲームの腕前を見せてやるから、しっかりつかまってて」
 少しだけ口元を緩め、彼はエンジンを始動させた。
 波の音とカモメの声だけの世界に、ブルンと低いエンジン音が響き渡った。
 久しぶりの大きな音に、私も少し驚く。
 両親と車で海へ出かけたときの記憶がかすかに脳裏をよぎった。
 少しだけ苦しくなったから、私は昴くんの横顔を見る。
「ギアチェンの音、気持ちいいな」
 ペダルを踏み込みながら、昴くんの左手がカチッとはまる場所を探るようにレバーを動かす。
 そのたび、指先の骨ばったラインと血管がちらりと見える。
 ペダルを踏みかえる動きに合わせて、車体がほんの少し揺れた。
「確か、こうして……ギアを……と」
 なんだか目が離せない。
 うまく言えないけれど……運転している昴くんは、いつもより大人びて見えた。
「前にでかい裂け目があるから、いったんバックするぞ」
 昴くんはギアを慎重にRへ入れた。
 そして左腕を助手席の背もたれの後ろへ回し、振り返る。
 腕、肩、真剣な横顔。……そして、匂い。
 全部が突然近くなる。
 急にドキドキさせるのは、本当にやめて欲しい……。
「あ、あのさ、昴くん……」
「ああ、こうやってバックさせるの、ドラマかなんかで見たんだ。かっこいいだろ?」
 昴くんは平然としている。それがなんだか悔しい。
 いつもは無邪気な子供のくせに、突然こんなかっこいいところを見せるなんて。
 車はゆっくりと後進する。
「わっ、すごい……本当に運転できてる……」
 頼れるアピールなんかしなくても、充分頼りがいがあるのに。
 車はいったん停車し、昴くんが前を向いてギアを1速へと入れ直す。
 車輪がアスファルトを捉え、ゆっくりと前へ進み出した。
 徐々にスピードが上がっていく。……本当にドライブしているんだ。
「リアルの車、いいなぁ……あ、ラジオ、つけてみてもいいか?」
「放送なんかしてないでしょ」
 昴くんは運転しながらカーステレオのボタンを押した。
 手慣れた様子が悔しいくらい様になっている。
『地球最後のラジオ番組――終末で会いましょう。もうずっとこの放送をしてるわけですが~』
「わあっ」
 まだ放送している人がいることに驚いた。
『聴いてくれてる人、いるかな? お便り欲しいんだけど。メールでも手紙でも。まあ、どっちも無理か。ハハハ!』
「……なに、これ」
「ラジオだろ? でも、聞いてるの、俺たちだけかもな」
「リスナーが私たちだけのラジオ番組……」
「贅沢だなぁ」
 ラジオから、平和だった頃に流行っていたラブソングが流れ始める。
 渋谷で昴くんが口ずさんでいた曲だ。
「おっ! 俺の好きな曲だ」
 昴くんは歌い始める。運転を悠々とこなしながら。
 なんだか私まで楽しくなってきた。
「また夢が叶ったよ、鈴木」
「どんな夢?」
 このやり取りも定番になってきた気がする。
「助手席に女の子を乗せて、ドライブデート!」
 ……で、デート。
「こういうの、普通ならデートだろ?」
「……そう、だね」
 恥ずかしさと、“普通なら”という言葉の重みに、少し言葉を失う。
「ちょっと暑いな。エアコン、つける?」
「ガソリンを節約したいから窓、開けよ」
 スイッチを押すと、静かな低音とともに窓が下がっていく。
 潮の香りと柔らかい波の音が入り込んできた。
 湿り気を含んだ風が頬を撫でていく。
 寄せては返す波の音が、エンジンの低い唸りやラジオの声、カモメの鳴き声と混ざり合う。
 まるでひとつの美しいハーモニーみたい。
「人生初デートが世界の終わりって、だいぶレアだよな」
 昴くんは楽しげに運転している。
 けれど突然、あーとか、うーとか言い出した。
 言いづらいことを話そうとしているような、そんな感じだ。
「……なあ、鈴木」
「ん?」
 彼は前を見つめたまま、柔らかく微笑む。
「……鈴木がいてくれて本当によかった。一緒に旅してくれて、ありがとな」
 心臓がとまるかと思った。
 旅の初日に言ってくれた「助けてくれてありがとう」とは違う。
 役に立ったからじゃない。
 昴くんが、私の存在そのものを肯定してくれたから――
「ごめん、じゃなくて、ありがとうって言ったぞ? ははっ」
 あのときの言葉をちゃんと覚えていてくれた。
 澄んだ横顔。一度見てしまうと、目が離せない。
 ――もっと見ていたい。
 胸の奥が、理由のわからない熱で、じんと満たされていく。
 昴くんがちらりとこちらを向き、目が合った。
「っ……」
 息を呑んだ変な音が漏れて、とっさに窓の外を見る。顔が熱く、耳まで赤くなっているのがわかる。
「……なんで今、それ言うの」
「だって初デートじゃん? 普段言えないことを言ういい機会だろ? まあ、お礼はこれからもたくさん言うけどな」
 ……昴くんは私でもいいんだ。
 彼がありがとうと言ってくれるたびに、私の輪郭が濃くなる。
 死の淵にいた私が、少しずつ息を吹き返していく。
「……ありがとう、昴くん」
「ははっ。なんで鈴木が礼言うんだよ」
「……なんとなく」
「変なやつ」
「昴くんに言われたくない」
「ひどっ~! ははっ!」
 昴くんは、とっても楽しげに笑う。
 だから、私もつられて笑う。
 ……どうしよう、空を飛んでいるみたいに楽しい。
 熱くなった胸の居心地が悪くて、照れ隠しに助手席の日よけ――サンバイザーを下ろす。
 小さなミラーに映る、日焼け止めを塗っただけのすっぴん。潮風と汗で髪も少しぼさぼさだ。
 死ぬつもりだったときは、どう見られたって構わなかったのに。
 ……初デートなのに。
 ……全然かわいくない。
 隣で運転する昴くんの綺麗な横顔と見比べて、急に胸がちくちくと痛んで、私は慌ててバイザーをパタンと元に戻した。
「んー? また裂け目がある。ちょっと迂回するわ」
 速度を落として右へ曲がった瞬間、ガクンと車内が大きく揺れた。
「きゃっ」
 エンジンがとまる。
「わ、悪いっ! エンスト! 恥ずかしすぎる……!」
 昴くんが真っ赤になって額をハンドルに当てた。
 ……めちゃくちゃかわいい。
「はぁ……ごめん、鈴木」
 これは、情けないところを見せて……の“ごめん”だ。
「あっ! ごめんって言っちゃった!」
「今のはいいよ」
 ありがとうって言い換えられるタイミングじゃないし、なんだか聞けて嬉しい“ごめん”だった。
「そ、そっか。難しいな、いろいろ」
 本当に、心から楽しい。
 こんなドライブデートができるなんて……あ、そっか。あの若い夫婦の――
 そして、次に私はお爺さんとお婆さんを思い出してしまった。
「今度こそ、エンストしないぞ」
 車が再び動き出す。
「……鈴木」
「……どしたの?」
「俺、やっと自由になった気がする」
 ハンドルを握る横顔は、病気や病院に縛られていた過去を脱ぎ捨てたように晴れやかだった。
 ……昴くんは、ずっと我慢してきたひとなのだ。
「自由になれて、よかったね」
 心からそう思う。
「終末もいいもんだな。夢がどんどん叶っていくし」
「うん。それもよかった」
 助手席の窓から吹き込む潮風が、私の髪を優しく撫でていく。
 隣で笑う彼の夢が叶うことが、いつの間にか私の喜びになっていた。
 こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
 死ぬつもりだったくせに、そんな図々しいことを願ってしまうくらいに――