セカイが終わるその日、ぼくらは永遠の環を結んだ

 ――世界が滅ぶまで、あと二十七日。

 八月六日。
 夕暮れ間近の田園風景が広がっている。
 黄緑色の稲穂が強い風を受けて規則正しく波打つ。
 彼らは、まだまだ伸び盛り。
 隕石なんて落ちてこなければ、今年も黄金色に育ったはずだ。
 その向こうには雄大な富士山がそびえ、私と昴くんを見下ろしていた。
 昼間の蝉の声は引き、夕暮れを告げるヒグラシが郷愁を誘うように鳴く。
 そんな日本の原風景を、私たちは学校の制服姿で歩いていた。
 ボストンバッグや日傘、リュックに帽子と、この風景に対して違和感満載だけど。
 川で水洗いしてきた制服も限界が近い。モールを見つけたら新しい服を見繕おう。
「……はぁ……ふぅ」
 昴くんの表情に疲れがにじむ。
 すぐそばに木造の古いバス停が見えた。あそこで少し休もう。
「鈴木、空……!」
 田んぼの水面が映す空を、巨大な隕石が切り裂いていく。
 西の彼方へ消えた直後、空が光り、大地が激しく揺れた。
「きゃっ、わっ」
 あぜ道のスズメが一斉に飛び立ち、夕暮れの静寂を破る。
「鈴木……!」
 昴くんがぎゅっと手を握ってくれた。
 揺れは十秒ほどで収まる。
「……ごめん、鈴木」
 昴くんが膝をつき、握る力が驚くほど弱まった。
「苦しい……少し、休みたい……」
「ごめんなさい! 私が無理させてしまったから……!」
 私がペース配分を間違えたのだ。
「鈴木は悪くない……さっきまでは普通に……疲れてるって感じだけだったのに、いきなり発作が……」
 荷物を置き、肩を貸してバス停のベンチへ座らせる。
 額に浮いた大量の汗をタオルで丁寧に拭った。
「悪いのは俺だから……ほんと……ごめん……とりあえず、薬、飲む……」
 座っているだけでは胸の苦しさは治まらないらしい。
 昴くんがピルケースを取り出す。
 私は水筒のカップに水を注ぐ。
 彼はそれを受け取って、頓服薬を喉の奥へと流し込んだ。
 それを見つめながら、私はスカートのポケットの中、銀色のシートに触れる。
 指先に刺さる角の鋭い痛み。
 安らかな死へ導く薬――
 彼は薬を飲んで必死で生きようとしているのに、私は薬でいつでも死ねる……なんて今も思ってる。
 どうして逆なのだろう。
 生きたい人こそ、健康な体であるべきなのに。
「二、三十分で落ち着くと思う……」
「昴くんは休んでて。晩ご飯の用意をするから」
「……今日、なに?」
「工夫はするけど、レトルトのお粥だから期待しないで」
 こんなにも疲れている彼には、もっと美味しくて元気が出るものを食べさせてあげたい。せめて夏野菜があれば……と思う。
「……鈴木が作ってくれるだけでプレミアだよ」
 自分が苦しいのに、どうしてそんな冗談が言えるのか。
「鈴木だって疲れてるのに……ほんとごめん……」
 今度はがっくりと肩を落として謝り始めた。
 まだ息も整っていないのに。
「私は昴くんを助けるためにここにいる。それが私の存在意義。気にしないで」
「鈴木は優しいな……」
 そんなことない。
 優しいのは昴くんだ。
 それは重い病を背負っているからか、生来のものなのか。
 ……きっと両方だろうな。
 他人の痛みがわかるひと。
 だから、他人に優しくできるひと。
 昴くんの無邪気さの向こうには、そんなぬくもりがある。
「……優しくないよ。利害が一致してるだけ」
 もう一度彼の汗を拭い、落ち着くのを待とうとしたその時――
「……鈴木。誰か来る」
 昴くんが足音に気づいた。
 法の消えた終末世界。瞬時に緊張が走る。

「おやまあ。若い夫婦さんじゃんねぇ」
「おぉ、ほんとだらぁ。こりゃあ、こりゃあ」
 現れたのは人のよさそうな老夫婦だった。
 私は自然と警戒を解く。
「バスはもう動いちゃらんよ。世界の終わりだもんで」
 心配そうにお婆さんが尋ねてきた。
「……俺たち、ふたりで旅をしてるんです」
 少し回復した昴くんが答えた。
「へぇ~! どこ行くんだねぇ?」
 今度はお爺さんが興味津々に尋ねる。
 香川県の父母ヶ浜へ向かっていること、その美しい風景を最後に見たいこと。
 素直に話しても大丈夫そうだと判断し、手短に説明した。
「偉いねぇ。わしらなんて、ただ田んぼやってるだけだよ」
「……えっ。ってことは、稲作をしてるんですか?」
 自慢げに笑うお爺さんに、私は驚いて尋ねた。
「ここら一帯、うちらの田んぼよ」
 答えるお婆さんも誇らしげだ。
「こんなに広いのに全部、爺さんと婆さんがやってんのか。すごいな……」
「やだねぇ。イケメンにほめられたもんで、嬉しくなっちゃうねぇ」
 お婆さんがかわいく照れる。
 老夫婦の話によると、田植えはもう終わったらしい。今は田んぼに水を張ったり、抜いたりと、様子を見守る作業ばかりなのだとか。
「でも、どうして稲作をしてるんですか? あと一ヶ月で地球が滅ぶのに……」
「明日で終わるとしても、今日を雑にしちゃあいかんよ。なぁ、婆さん」
 きょとんとしてお爺さんが答える。
「のんびり過ごして死にたいもんだねぇ、爺さん」
「当たり前の幸せが大事っちゅうことよな、婆さん」
 ふたりの会話から年月を重ねた絆を感じる。
「こんなときでも腹は減るし眠くもなる。人間って案外しぶといもんだねぇ」
「明日死んでもおかしくない歳だけど、ふたりで笑ってられるその日まで生きてみせるよ」
 仲良しの老夫婦……いいな。
 そんなひとと出会えたら。
 そして、ずっと一緒に生きられたら。
 まあ、世界はもう終わるのだけれど。
「リンゴの木を植える人と同じだ……」
 昴くんが尊敬のまなざしで見つめている。
 呼吸は落ち着いていて、胸をなで下ろした。
 草彅先生の授業が淡く胸によみがえる。

「「明日世界が滅びるとしても、今日私はリンゴの木を植える」」

 この老夫婦の生き方と、言葉が重なる。
 ――リンゴの木を植える人の気持ち……どんなのかなって……。
「よかったら、うちに泊まっていきなぁよ」
 その声に思考から引き戻される。
「うちの米と野菜で作った夕飯、ご馳走するでねぇ。豚肉もあるよ」
「――肉!?」
「野菜っ」
 前者が昴くん、後者が私。
 ……塩分控えめにしなきゃいけないのに。そこは私が調整しよう。
「泊めてもらおう、鈴木」
 危険はなさそうだし、なによりお風呂を借りられるならありがたい。
「あの、私は鈴木花奈で、彼は星加昴といいます。ぜひ甘えさせてください」


 案内される頃には茜色が濃くなり、日が暮れかけていた。
 お爺さんが庭のコンロで炭をおこすと、心地よい音が立ちのぼる。
「ば、バーベキューだー!」
「そんなに叫んで大丈夫?」
「このくらいへーきへーき!」
 そう言いながら深呼吸するあたり、ちゃんと自分のケアをしているようで安心した。
「鈴木だって、このいい匂い……楽しみだろ?」
「……っ」
 正直言って、めちゃくちゃ楽しみ。
 お爺さんがトングでネギやタマネギを丁寧に焼き、このあと豚肉まで出てくるのだから。
 でも、昴くんの前では少しすましたい。
「まあ、普通に楽しみくらいかな」
 そのとき、お腹が盛大に鳴った……私のばか。
「あははっ! 腹、減ってんじゃん! めちゃくちゃ楽しみじゃん!」
「わ、笑いすぎー!」
 そっぽを向き、肉が焼けるコンロを覗き込む。
 炭のはぜる音と香ばしい匂いが夕暮れに溶けていく。
 煙が上がっていく向こうで、富士山はゆっくりと青に沈んでいく。
 その稜線だけが夕陽の名残をすくうように、淡く金色に縁取られていた。
 山吹色から桃色、薄紫へと溶ける空に、雄大なシルエットが静かに浮かんでいる。
 ――こんなに綺麗なのに。
「……この風景が終わってしまうなんて信じられない」
 呟くと、昴くんが首を傾げた。
「腹の音が鳴ったの、誤魔化してる?」
「……最っ低!」


「焼きトマト、初めて食べた……すっごく美味しいです!」
 お爺さんとお婆さんの畑で採れた新鮮なトマト。
 裂け目から果汁が煮え立ったところに、塩と胡椒をさっとかけただけ。
 冷ましながら口に含むと薄い皮が弾け、驚くほど甘く瑞々しい果汁が広がる。
 飲み込んでしまうのがもったいないくらい、生きた味がした。
「丹精込めて育てたトマト、気に入ってくれて嬉しいねぇ」
 富士山の湧水と火山灰土のおかげで抜群の味になると、お爺さんが誇らしげに教えてくれる。
「焼きトウモロコシも、めっちゃうめぇぞ、鈴木!」
 昴くんはこんがり焼けたトウモロコシを頬張っている。
 塩分を気にしてタレは控えめだが、素材の味が引き立って充分美味しいはずだ。
「……懐かしいな」
 ぽつりと昴くんがつぶやいた。切なげな横顔が気になる。
「……夏祭り。毎年必ず行ってたんだ。俺が病気になる前だけどな」
 私は彼の言葉に耳を傾ける。
「その頃は両親も仲が良くてさ。金魚すくいとか、射的とか、かき氷とか……右手には父さん、左手には母さん。三人で並んで歩いて……そういうのを思い出しちまった」
 胸がぎゅっとなった。
 私は思わず、昴くんの空いている手をそっと握ってしまう。
 昴くんが少し驚いて、こっちを見る。
 かける言葉は見つからない。ただ、彼の瞳を見つめる。
 焼きトウモロコシの香りが呼び覚ました幸せな記憶――それは、もう二度と戻らない。
 でも――
「……この旅を、とびっきり楽しい旅にしようね、昴くん」
「……そうだな。ふたりでな!」
 せいいっぱいの言葉を、昴くんはしっかりと受けとめてくれた。
 ……すごく嬉しい。
「肉、焼けたよー!」
「肉ぅー!」
 ……元気になるのが早すぎて雰囲気が台無し。でも、いつまでも落ち込んでいるよりはずっといい。
 昴くんが差し出した紙皿に豚肉が載せられる。私はすかさず特製のタレを少しだけかけた。
「もうちょっとかけて欲しい、鈴木……」
「だめ」
「どうしてだい、花奈ちゃん?」
「俺、心臓病なんです。だから塩分控えめじゃないとだめで」
 迷う私に代わり、昴くんが率直に明かした。
「なんだい、わしの仲間かい!? わしはベテランだぞ」
 お爺さんが豪快に笑う。
「で、でも、病気で農作業ってできるんですか? かなりハードですよね……?」
「薬飲んで、ちょいちょい休み入れりゃあ、軽い作業くらいはまだやれるでねぇ。きついのは近所のモンや息子夫婦がやってくれる」
「……爺さん、すげぇな。めっちゃリスペクト」
「わしができとるんだ、昴くんだって父母ヶ浜へ絶対たどり着ける。太鼓判押すでな! このタレは塩気控えめで生姜を利かせとるから、もう少し多めでも大丈夫だ」
 ベテランのお墨付きをもらい、私はタレを少し足してあげた。
「肉、うめぇー!」
 はむはむと豚肉を頬張る昴くん。……ちょっとかわいい。
 私も一口食べる。その瞬間、豚肉の甘い脂がふわりと広がった。
 氷室で大切に保存されていたという箱根のブランド豚。重くなく、生姜の香りが上品だ。
「……おいしい」
「よかった。美味いもん食べて、田んぼを見守りながら最後の日まで生きるのが夢だでな」
「最後の日には、キッスでもするかねぇ?」
「あ、あのっ! お爺さんとお婆さんに聞きたいことがあって……」
 お婆さんが優しく微笑む。
「……もうすぐ地球が終わるのに、生きる意味ってありますか?」
 お爺さんとお婆さんは――リンゴの木を植えている。
 あと一ヶ月で滅ぶというのに、なぜ?
「意味なんてなぁ、あとからついてくるもんだよ」
「後から……」
「でも、最後くらい綺麗な景色を見て死にたいとか、ないのか?」
 昴くんの問いに、お爺さんが答える。
「毎日見とる景色も、なかなかええもんだでよ」
「……でもねぇ、夜はちぃっと怖いんだよ」
 お婆さんが声を潜めた。
「赤ちゃんの泣き声みたいなのが遠くから聞こえて、だんだん近づいてきてな……」
「ひぃ! 怖い話はやめてくださいー!」
「はははっ! 鈴木って幽霊が怖いのかよ」
「悪い!?」
 ただでさえ終末で不安なのに、幽霊まで怖がってたら昴くんに呆れられると思って我慢していただけだ。
 涙目で睨む私を、昴くんは楽しそうに笑い飛ばす。
「だって、夜は平気そうじゃん」
「平気なフリをしてるの!」
 楽しげな笑い声が、夕暮れの庭先に響き続ける。
 なんだか富士山にまで笑われたような気がした。

 * * * *

 お爺さんとお婆さんの家は、懐かしい匂いのする和風の一軒家だった。
 私が強く望んでいたお風呂もあって、ありがたく使わせてもらった。
 太陽光発電と家庭用の蓄電池が備わっているらしく、蛇口をひねるとあたたかいお湯が湯船を満たしてくれた。久しぶりに浸かるお湯の温もりに、手足の芯から強張りが解けていく。シャンプーと石けんの清潔な香りに包まれて、ようやく人間らしく戻れた気がした。
 脱衣所で濡れた髪をどうまとめようか困っていると、お婆さんが小さな桐の箱を持って声をかけてくれた。
「よかったら、これをお使いな、花奈ちゃん」
 開けられた箱の中には、細工の施されたふたつのかんざしが並んでいた。
 ひとつは、淡い紫の小花が涼やかに零れる藤の花。
 もうひとつは、清らかな白い花びらが凛と咲いた桔梗の花。
「若い頃にね、爺さんに買ってもらった大事なもんなのさ。……花奈ちゃん、どっちが好きかねぇ?」
「えっ、でも、こんな綺麗なもの……」
「いいから、遠慮せんで選んでごらん。花奈ちゃんみたいな、かわいいお嬢さんに挿してもらったほうが、かんざしも喜ぶでねぇ」
 そう言って目を細めるお婆さんにうながされ、私は迷った末に藤の花を指さした。
「……こっちが、すごく大人っぽくて素敵です」
「そうかい。花奈ちゃんによく似合うよ。持ってっておくれ」
 お婆さんは慈しむように、私の髪へそっと藤のかんざしを挿してくれた。
 ……けれど、こんなに大切な思い出の品、いただくわけにはいかない。
 今夜だけありがたく使わせてもらって、明日の朝、出発するときにきちんとお礼を言って箱に戻してお返ししよう。心の中でそう決めた。
 そして、縁側を歩いて昴くんの待つ和室へ向かう。
 外を見ると、他の家の灯りが遠くに見えた。
 あてがわれた部屋も夜なのに明るい。扇風機が静かに音を立てて、涼しい風を送っていた。
 ……ただ、敷かれたふたつの布団が隙間なく並んでいる。
 出会ったときに「若い夫婦さん」と言われて、否定しそびれたままだったことを思い出した。
 けれど、お爺さんに借りた大きめのTシャツとハーフパンツ姿の昴くんはまったく気にする様子もなく、充電器を繋いだ携帯ゲーム機をごろごろしながら弄っている。一日一分と言っていたくせに、電気が使えると知った途端これだ。
 まあいいかと、私も隣の布団へ潜り込んだ。旅に出てから、ずっと一緒に夜を越えてきたのだから、今さら気にするのもおかしい。
「昴くん」
「んー?」
 充電しながらゲームに熱中して、気の抜けた生返事。
 ちょっとむかむか。
「充電できたからって夜更かし禁止。寝坊も禁止。おっけー?」
「んー」
 もう、わかってるのかな。
 ぷりぷりしながら布団を被って横になる。
 清潔なシーツの柔らかさに包まれると、カエルの大合唱を聴く間もなく、心地のよい眠気の海へ沈んでいった。


 ――ふと、目が覚めた。
 まだ夜。
 田んぼのほうからカエルの低い声、その奥から聞こえる細いコオロギの音が重なっていた。
 障子が開かれていて、外には見惚れるような夜空が広がっている。
 右側だけが膨らんだ若い月が寂しげに浮かび、満ちるにはまだ遠いその光は、星の瞬きも森の闇も邪魔しない。
 ただ静かに、世界の輪郭をやわらかく照らしている。
 ――どうして障子が開いているんだろう?
 寝るときには閉じられていた。
 隣を見ると昴くんがいない。
 枕元の蚊取り線香から、灰色の煙が一本だけ、開け放たれた夜の闇へと流れていた。
 まさか――最悪の結末が一瞬だけ脳裏をかすめて、すぐに首を横に振った。
 そんなはずはない。彼は自ら命を投げ出すような人じゃない。……私とは、違って。
「……昴くん」
 音を立てないようにゆっくりと歩いて、障子のそばに立つ。
 縁側の先――庭の真ん中に、彼がいた。
 生い茂る夏の草を踏みしめ、夜空を見上げながら月光を一身に浴びている。
 そして、遠い星々を手のひらに閉じ込めるように手を伸ばし、ぎゅっと握りしめた。
「……宇宙、行きたかったなぁ」
 夜風に乗って、小さな呟きがこぼれ落ちてくる。
 彼の表情は、私から見えない。
「宇宙飛行士……なれると思ってたのにな。病気なんかに、ならなきゃさ。どこまでだって行けたのに」
 なんだか自分のことのように苦しくなって、息が詰まる。
 見ていられなくて、たまらず声をかけようとした、そのとき――
 彼は両手を組んで、祈りを捧げるようにうつむいた。
 そして、両膝を地面についた。
「……どうして俺だけこんな病気に……死にたくない、死にたくないよ、ちっきしょぉおぉ……!」
 彼の声が、か細く震えている。
 ――見ちゃだめだ。
 わかってる。でも、でも……。
「……どうせ死ぬなら、せめて、父母ヶ浜へたどり着かせてください」
 胸が痛いほど締めつけられる。
「俺の心臓をもたせてください。お願いします、神様……!」
 昴くんの全身が震えている。
 強く強く、祈っている。
 夜空の星々に、細く冷たい月に、そしてどこかにいるかもしれない神様に。
 私も両手を組んで、ぎゅっと目を閉じた。
 ――私もお願いします、神様……どうか、昴くんを父母ヶ浜へたどり着かせてください。
 ――私ならどうなってもいいから。
 ――私の未来なんていらないから。
 一度、死ぬことを選んだ私の命でよければ捧げます。
 だから、どうか、昴くんを――

 この願いが届いたのかどうか。私たちに知る術は当然――ない。

 * * * *

 翌朝。
 玄関の外でお爺さんとお婆さんが送り出してくれた。
「たくさんの野菜、ありがとうございます」
 丹精込めて作られた極上の野菜を、袋一杯にわけてもらう。
 廃墟のコンビニやスーパーから食品が消えた今、塩分控えめの食事を心がけている私たちにとって、これほどありがたいものはない。
「旦那さんに美味しい料理、作ってあげて」
「だ、旦那さん……」
 昴くんを見ると、頬を赤くして嬉しそうに笑っていた。
 このタイミングでその笑顔は反則だ。
「じゃあ、爺さん、婆さん。お世話になりました!」
 昴くんが帽子を取って深々と頭を下げ、私もならって礼をする。
「気ぃつけるんだでな」
「必ずたどり着ける。わしが保証しとるでな!」
 心強い言葉をもらい、何度も頭を下げながら故郷のような家を離れた。
 ふたりはずっと見送ってくれていた。
 泣きそうになるのをこらえ、前へ進む。
 昴くんと一緒に――
 あぜ道を歩き、ふたりの姿が見えなくなる角を曲がったところで、ハッと足をとめた。
「ごめん、昴くん。私、かんざし借りたままだった……」
「もらってていいんじゃないか? 似合っててかわいかったし」
「はっ? えっ?」
「だから、かわいかったからそのまま使えば?」
「だ、だめだよ! ちゃんと返さなきゃ……」
 嬉しいけれど、あんな大切な思い出の品、やっぱりもらいっぱなしにはできない。
 お婆さんは持っていってと言ってくれたけれど。
 向きを変え、見送ってもらったばかりの家へ戻った。
 恥ずかしさを抑えて玄関を開ける。
「あ、あの……! かんざし、返し忘れたので戻ってきました!」
 返事はない。
「…………」
「どうした、鈴木?」
「……なにか変」
 靴を脱いで廊下を進む。
 居間のふすまは開いていたがお爺さんとお婆さんの姿はなく、座卓には片付けられた急須だけが置かれていた。
 触れると、まだかすかに温かい。
 さっきまで、ここに確かに生活があった。
 隣の部屋の閉ざされたふすまを開けようとして――手が震える。
 ……開けられない。
「鈴木。俺が開ける」
 昴くんがゆっくりとふすまを開けてくれた。
「……お爺さん、お婆さん」
 ふたりは縁側に寄り添って座っていた。
「あ、あのお婆さん。かんざし、やっぱり返そうと思って……」
 ……返事がない。
 それに、ふたりが着ているのは――
「……鈴木」
 緊張感のある声で昴くんが私を呼ぶ。
 私よりもずっと多く、人の死に触れてきたであろう昴くんが――
「……外に出て縁側に回ってみるぞ」
 心臓をぎゅっとわしづかみにされながら、彼の後ろについて行く。
 そして縁側へ回った瞬間、足がとまった。
 呼吸を忘れるほど、その光景に視線を奪われた。
 快晴の空から強い陽射しが降り注ぎ、田んぼの緑が青空の下で目が眩むほど鮮やかに波打っている。
 そのまばゆい光の真ん中――縁側の陽だまりの中に、ふたりが並んで腰掛け、ただ静かに夏の風を浴びていた。
 けれど、朝の野良着姿ではない。
 お爺さんは背筋をすっと伸ばし、漆黒の羽二重に身を包んだ凛々しい紋付き袴。年季の入った黒は陽光を吸い込んで凛と引き締まり、深い皺の刻まれた顔立ちを驚くほど気高く見せていた。
 息を呑むほど、かっこいい。
 寄り添うお婆さんは、やわらかな若草色の訪問着を纏っている。白髪混じりの髪はきれいに結われ、その耳元で白く涼やかな花びらが光を弾いていた。
 日焼けした穏やかな横顔の唇には、艶やかな紅が引かれている。誰かに施された死に化粧なんかじゃない。
 生涯で一番愛した人の隣に並ぶために、自分でおめかしをしたのだとわかる、とても優しくて綺麗な色だった。
「……桔梗の、かんざし……」
 私の唇から、かすかな声が零れた。
 昨夜、お婆さんが見せてくれたふたつのかんざし。私が選んだのは藤の花で、桐の箱に残されたもう片方が、あの白い桔梗だった。
 無意識に、制服のポケットへ手を滑り込ませる。
 指先が触れた藤のかんざしを、ハンカチごとそっと取り出す。
 薄い布を開いて現れた藤色の花を、胸の前で包み込むように握りしめた。
 昨夜お婆さんが髪を撫でてくれた温もりが、まだ残っている気がした。
 ――持ってっておくれ。
 そう言って笑った顔が蘇る。
 最初から、返す必要なんてなかったのだ。お婆さんはこれから旅立つ自分の髪に桔梗を挿し、私にこの藤を託してくれたのだから。
 夏の風が吹き抜け、お婆さんの桔梗のかんざしがチリリと小さく光の粒を零した。
 お婆さんの頭はお爺さんの肩へ静かに預けられ、膝の上では節くれだった手が互いを慈しむように重ね合わされている。
「……お爺さん? ……お婆さん?」
 かすれた声に、ふたりは答えない。
 ただ気持ちよさそうに目を閉じている。風が着物の裾を揺らす以外、胸元が上下することは二度となかった。
 ふたりの足元には、ふたつ並んだ湯呑みで端を押さえられたメモ用紙が置かれていた。
 震えのない達筆の墨文字で、たった一行だけ。
『すべてに、ありがとう』
 その横には、“白昼夢”の銀色のシートがふたつ、寄り添うように置かれていた。
 ――ああ。
 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
 世界の終わりに怯えて逃げ出した姿なんかじゃない。
 このふたりは、自分たちが愛した日常のなかで、一番愛し合っていた姿のまま人生を美しく完結させたのだ。
 どちらかを世界にひとりに残すこともなく、ともに生き、ともに旅立つために。
 もしかしたら、お爺さんの心臓はもう限界が近かったのかもしれない。
 どちらかが先に倒れ、終わっていく世界に最愛のひとを独り取り残してしまうくらいなら――ふたりで笑い合えるうちに、一番幸せな姿のまま幕を引く。
 昨日語ってくれた『最後の日まで生きる』という言葉は、きっとそういう意味だったのだ。
 あまりにも清らかで尊い幕引きに胸を打たれ、瞳から熱いものがひとすじ、音もなく頬を伝い落ちた。
 右手には託された藤のかんざし。
 そして――反対側のポケットに手を滑り込ませる。
 指先に触れる、小さな四角い銀色のシート。尖った角がチクリと指の腹を刺す。薄いアルミの向こうにある、真白な薬の膨らみ。
 逃げるために命を手放そうとしていた私と、人生を愛し切り、誇り高く旅立ったふたり。
 降り注ぐ光の中で、ふたりの横顔は神様のように眩しく輝いていた。
 なのに私は――
「……かっこいいな」
 隣に立った昴くんが、ぽつりと呟いた。
 昨夜、土に膝をついて泣き叫んでいた彼とは思えないほど、静かで澄んだ声だった。
「……昴くん」
「爺さんも婆さんもさ。最後まで自分たちの人生を自分で決めたんだ。隕石に強引に終わらされるんじゃなく、自分たちで終わりを選んだんだ」
 それは素晴らしく尊い選択だ。
「今頃、ふたりであっちへ向かってるよ。あんなふうに、ちゃんと手を繋いでさ」
「……うん。きっとそうだね」
 昴くんが私の手をぎゅっと握ってくれた。
 温かで優しい手。
「急にごめんな、鈴木。なんでかわかんないけど、こうしなきゃいけない気がしたんだ」
「……ありがと」
 昴くんはゆっくりと帽子を取り、ふたりで深く頭を下げた。
 そして、顔を上げる。
「……かんざしは返さなくていい。ふたりが鈴木に託してくれたんだから」
「うん」
「よし、行こう。俺たちも、ふたりに胸張れる旅をしなきゃな」
 強く頷いて――
「お爺さん、お婆さん。行ってきます――」
 故郷のような家を出て、前へと進む。
 けたたましい蝉の喧噪。
 田んぼに注がれる水の音。
 若い稲をなびかせる風の音。
 この稲はお爺さんとお婆さんが亡くなったあとも育ち続ける。
 すべてはいつも通り。地球最後の瞬間まで、いつも通りなんだ。
 彼は私の手を握ったまま離さない。
「……昴くんは強いね」
 昨晩の涙も、強い人だからこそ流す涙だ。
 いつでも終わらせられる“白昼夢”を後生大事に持ち歩いている私とは違う。
「俺、強いかぁ? こんな病気で、身体の弱い男子なんてだめだろ?」
 昴くんは苦笑する。
 そういう強さ弱さの話ではないけれど、上手く言えそうにないので返事はしなかった。
 私は昴くんの隣を、黙々と歩き続けた。