――世界が滅ぶまで、あと三十日。
八月一日。夕方。
私と昴くんは、自転車に乗って一時間ほど幹線道路を進んだ。
アスファルトがひび割れ隆起していたけれど、走行に支障はない。
日が傾き、街が濃い橙から紫へと沈んでいく中、私たちは初めての夜を過ごす宿を探すことにした。
閑静な住宅街。
ヒグラシの声がかすかに届くだけで、あとは自転車の軋む音しか響かない。
「実際どうするんだ、鈴木? 適当な家に突撃すんのか?」
「住人が避難して完全に空き家になっている家を探すの」
ボストンバッグから取り出した『どろぼうの手口、すべて教えます』を片手に、一軒のモダンな住宅の前で足をとめた。
門扉を押し開け、敷地に足を踏み入れる。
「ここに泊まるのか?」
「……静かにして」
庭の雑草には踏み倒された跡がない。
窓枠のサッシに指を滑らせれば、うっすらと灰色の埃。ここ数ヶ月、誰もこの窓を開けていない証拠だ。
「よし、ここなら誰もいない」
「なあ、鈴木。お前、本当に泥棒やったことないんだよな?」
「……そんなに野宿したいなら、昴くんひとりでどうぞ」
「わ、悪かったよ!」
冷たく返すと、慌てて両手を振る昴くん。
でも、緊張感のない彼のせいで恐怖が紛れるのも確かだった。
リビングに面した掃き出し窓の鍵の周りに、ガムテープを何重にも貼る。
タオルで包んだ小石でテープの上を小突くように叩くと、鈍く小さな破砕音が鳴った。
蜘蛛の巣状に割れたガラスをテープごと押し込み、手が入る隙間を作る。
漏れ出てきたのは、カビと湿気、積もった埃の冷たい匂い。生活の気配は消え失せていた。
「本当に音がしないもんだな……」
「映画で観た通り。……開けるね」
クレセント錠を回して静かに窓を開け、懐中電灯を灯して室内へ上がる。
「……誰かいませんかー? いたらすぐ出て行きます」
努めて柔らかい声で呼びかけた。
「あのー、俺ら一泊したいだけ……」
声を張ろうとした昴くんの口を、とっさに手で塞ぐ。
「んぐっ!?」
「喋らないで。男の人の低い声は強い警戒心を抱かせるから。怯えた人が中から襲いかかってくるかもしれないでしょ」
目を丸くして頷くのを確認し、手を離す。
「鈴木って、たまに警察の突入班みたいだな……」
「用心してるの。安心して休みたいでしょ? 昴くんは少しでも疲れを取らなきゃいけないんだから」
「鈴木も、だぞ?」
口元に指を立てると、昴くんは素直に口をつぐんだ。
息を殺して耳を澄ます。返事はない。
昴くんを後ろに従え、リビング、キッチン、風呂場、そして二階の寝室まで扉を一枚ずつ開けて確認した。
誰もいない。この家は放棄された、ただの生活の残骸だった。
リビングに戻ると、どっと疲労が押し寄せてきた。
発光部分にハンカチをまきつけた懐中電灯の薄明かりを頼りに、ボストンバッグから栄養調整食品を取り出す。ふたり無言でかじり、水筒のぬるい水で流し込んだ。
食事はこれで終了。次はお風呂だけど、そんな贅沢なものは、とっくになくなっている。
キッチンへ移動し、貴重な水を数滴垂らしたタオルで首筋と顔の汗をぬぐう。制服のまま気になるところも拭いた。水道がとまっている以上、これが精一杯だ。昴くんも同じように汗を拭った。
幸い今年はかなりの冷夏。エアコンがなくても眠れる。
続けて、父の遺品である防犯センサーを設置する。ふたつのセンサーの間を横切れば警告音が鳴る仕組みだ。
「完璧だな、鈴木。特殊部隊みたいだ」
「用心するに越したことはないでしょ。昴くんはソファーで寝て。私は床に寝袋を敷くから」
「逆だ、逆。女子がソファーだろ」
「体力の回復が最優先なのは昴くんでしょ?」
「ソファーは女子が使うもんだ。俺は床で十分!」
昴くんはソファーから一番遠い部屋の隅に寝袋を広げた。
無神経なところもあるけれど、やっぱりいいひとだ。
「じゃあ、使わせてもらうね」
ソファの上で横になり、小さく丸くなる。
ふと見ると、部屋の隅の昴くんがリュックからモバイルバッテリーを取り出していた。
スマホにケーブルを差し込むと、液晶がぽっと青白く光り、充電マークが浮かぶ。
電波なんて届かないのに、そのかすかな光は、まだ「昨日までの日常」と繋がっている唯一の証拠に見えた。
「バッテリー、大事に使ってよね」
「わかってるって。一日一分、画面を眺めるだけにするから」
そう言って画面を伏せた昴くんだったが、すぐに持ち直して親指を動かし始めた。
ポチポチと操作音が響く。
「なにやってるの?」
「メール打ってんの」
「……ネットも死んでるのに?」
「いいの。送信ボタンを押すことに意味があるんだから」
満足そうに画面をタップする昴くん。
「よし、送信完了」
「誰に送ってるの、届きもしないメール……」
「へへっ、未来の俺の嫁さん! ……なんてな。届くわけないよな」
「……オカルト?」
「どうせどこにも届かないんだから、何書いたって自由だろ」
「なにそれ……。無駄遣い禁止って言ったそばから」
「無駄じゃないって。はい、今度こそおしまい!」
パチンと懐中電灯が消え、遮光カーテンを閉め切った部屋は深い夜の闇に沈んだ。
センサーが壁の隅でかすかに赤く点滅している。薄紅色の光を放つ蛍がとまっているみたいに。
その灯りが照らす天井を、ぼんやりと見上げる。
カーテンを閉め切っているし、このくらいの薄明かりなら外には漏れていないだろう。
少し離れた場所から、寝袋のカサカサという擦れる音が聞こえた。
「……なぁ、鈴木」
闇の向こうから、ぽつりと声が降ってきた。
「なに?」
「今日、助けてくれてありがとな。準備もルート決めも、お前がいなかったら初日で詰んでた」
「……お礼なんていいよ。暇つぶしについてきたようなものだし」
強がってみせる私に、昴くんが小さく笑った。
「ふたりで自転車漕いでるとき、ちょっとだけワクワクしたんだ。変だよな」
「……変。大変な旅なのに」
「あはは、だよな。でも、本当なんだよ」
闇の中でも昴くんは明るい。
でも、彼の心臓は爆弾を抱えている。
「……ねえ、昴くん。胸が苦しくなったら、我慢しないで言ってね。倒れられるのが一番困るから」
「わかってるって。鈴木こそ変な物音とかしたらすぐ起こせよ。俺、これでも一応男だからさ」
昼間は頼りなく見えたのに、暗闇の声は低く、妙な意地が混ざっていた。
「はいはい。頼りにしてます」
あしらいながら寝返りを打ち、彼の方を向く。
「……おやすみ、昴くん」
「ん。おやすみ、鈴木」
やがて規則正しい寝息が響き始めた。
いつとまるかわからないという彼の心臓。暗闇の中で耳を澄まし、呼吸を確かめる。
――ちゃんと、生きてる。
昼過ぎまで独りで死のうとしていたのに、見知らぬ空き家で誰かの息遣いを聞きながら明日を待っている。
不思議な夜だった。
ポケットに手を入れて、小さな四角い銀色のシートに触れる。
指先に当たる冷たいアルミの感触と、尖った角の小さな痛み。
いつでも逃げ出せるその薬を手放せないまま、私は静かにまぶたを閉じた。
八月二日。
洗面所で貴重な水を数滴タオルに垂らし、顔を拭く。
化粧水もファンデーションも家に置いてきた。
いつもは校則に怒られない程度のすっぴん風メイクをしていたけれど、命がけの旅にそんな余裕はない。
首筋と頬に日焼け止めを塗り、薬用リップを唇に滑らせる。
ほんのり桜色に色づく保湿リップだけが、私の日常に残された唯一の欠片だった。どうせ死ぬつもりだったのだから、すっぴんで上等だ。
ボストンバッグに荷物を詰め込み、寝袋で心地よさそうに眠る彼の肩を揺さぶる。
「昴くん、起きて。朝だよ。出発しないと」
声をかけるのはこれで三度目だ。
「……ラジオ体操? 無理……寝る……」
朝六時。陽はとっくに昇っている。
陽が出ているうちに進み、沈めば休むペースを守りたいのに。
「もう。昴くん?」
「……ん、おはよ」
苛立ちを込めて呼ぶと、やっと目を覚ました。
「これからは寝坊禁止」
「朝ご飯は?」
「寝坊したからなし」
ウソだけど。彼にはしっかり食べてもらわないと困る。
「えーっ! そんなぁ……」
「大事なことだからもう一回言うね。寝坊禁止!」
でも、きっと今後も寝坊するのだろう。
そういうところは本当に子供なんだから。
* * * *
昨日と同じように、私たちは自転車で南へと進んだ。
幹線道路を走り続け、やがて利根川にたどり着く。
しかし大きな橋は途中で折れ曲がり、赤茶けた鉄骨が無残に水へと沈んでいた。
上流へ大きく迂回するルートを選んだが、荒れた坂道が続くにつれて昴くんの呼吸が荒くなっていく。
息を吸うたびに肩が揺れ、見ているだけで胸がざわついた。
それでも彼の体調を最優先に考え、木陰でこまめに休憩を取りながらペダルを漕ぐ。
埼玉を抜ける頃にはすっかり陽が落ち、その夜も街道沿いの空き家に身を寄せた。
防犯センサーを仕掛け、ぬるい水で栄養調整食品を流し込み、互いの呼吸の音を確かめるようにして眠りに落ちた。
八月三日。
陽が高く昇り始めた午前中、私たちは予定通りのペースで、ついに東京・渋谷へとたどり着いた。
「完全に廃墟だな、東京は……」
帽子を被り、リュックを片掛けにした昴くんが頬の汗をぬぐう。
――半年前、小規模の隕石群が都心を破壊した。
テレビなどの情報網が使えなくなり、私たちは世界から分断された。
終末が始まった瞬間だった。
「人の気配が全然ないね……」
廃墟となった渋谷の街は、眩しい夏の光に白く溶けていた。
道玄坂の緩やかな下り坂は海へと沈み、透き通った青い海水がアスファルトを浸している。
崩壊したビル群の向こう、抜けた青空の下に、ぽっきりと折れた東京タワーが見えた。
街の象徴だった109のビルさえ、水底の残骸となって見当たらない。
道路を埋め尽くすコンクリートの塊と、ひしゃげた鉄骨の瓦礫。
自転車が走れる路面ではない。ここまで乗ってきた二台の相棒をビルの陰に乗り捨てた。
荷物をまとめ直し、ここからは自分たちの足だけで進む。
足元を満たす青い水面は、風が止むと鏡のようになり、夏の空と並び立つ私たちの姿を映し出した。
埃をかぶった半袖セーラー服に、肩に斜め掛けしたパンパンのボストンバッグと白い日傘。
その隣には、着古した制服姿に大きなリュックを背負い、キャップを目深に被った昴くん。
どこからどう見ても場違いな高校生ふたり。
滅びゆく世界に放り出された、あまりにも頼りなくちっぽけな姿だった。
けれど、その頼りなさすら、私たちにとっては唯一の確かな輪郭のように思えた。
「……あーっ!」
「わっ」
突然の大声が廃墟に吸い込まれていく。
「もう。誰か来たらどうするの?」
「んー、仲良くなる」
「悪いやつかもしれないでしょ? 食料を狙われたら困るんだから」
「そっか。あまり人に会わないほうがいいもんな。……で、こっからどこへ向かうんだ?」
「品川から東海道に入る。平地が多くて宿場町もあるし、物資を探しやすいと思う。一本道だから迷いにくいし、道が塞がっていても迂回路を選びやすいから」
「とにかく、歩きやすいってことだな!」
「……まあ、そういうこと」
昴くんの理解度についてはスルーして、私たちは品川方面へ向かって歩き出す。
湿り気を帯びた風が吹き、落ちた看板が揺れて金属音が響いた。
その音で、文明の音が全くしないんだなと気づかされる。
世界がやけっぱちになって眠っているかのようだ。
「なぁ、鈴木……」
日傘を持ち直し、スカートの裾を少し持ち上げて海水に浸る足を冷やす。
「どしたの?」
発作の様子ではない。でも、休みたいなら休憩にしよう。
「泳ぎたい」
「はっ?」
思わず立ち止まる。
「……今、なんて言った?」
「泳ごうぜ。せっかくだし」
「……拡張型心筋症って実はウソなの?」
「ち、違う! ガチで心臓病だって! ただ、せっかく海の水が来てるんだし、そこから砂浜みたいに徐々に深くなっていってるし……」
「いってるし?」
「渋谷の廃墟で泳ぐなんて終末じゃないとできないだろ? 浮き輪でぷかぷか浮かぶだけなら負担にならないしさ!」
「……意味わかんない」
「だから、ぷかぷか浮くだけ! 心臓に負担かけないように浅瀬で浮かんでるだけだから!」
「水温で冷えたりしたらどうするの?」
「日差しが強いから平気、平気!」
本当に父母ヶ浜へ行く気があるのかな、このひとは。
突っ込もうとした私の前で、昴くんは表情に影を落とし、ぽつぽつと喋り出した。
「……俺、学校の体育も見学だったし。夏休みのプールも海も、ぜんぶ禁止だったんだ。病気になる前のプールの記憶も、もう忘れた。だから……夏の水に、ぷかぷか浮かんでみたいんだ」
俯きがちに漏らされた声に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
そういう理屈は反則だ。
「ここは海って感じじゃないけど、それでも……な?」
うかがうように見上げてくる瞳から逃げるように、日傘を傾けて視線を遮った。
「……ずるい」
「えっ?」
息を吐き、日傘を再び肩にかける。
「いいよ。海水浴、しよ?」
「やったっ! ありがとな、鈴木! んじゃ、早速そこのぶっ壊れてるデパートで水着を探そうぜ!」
「ううっ、こんな水着しか残ってなかったなんて……」
物陰で着替えたものの、昴くんの前に出られない。
「鈴木ー! 早く来いよー!」
まさかセクシー系のビキニタイプしか残っていなかったなんて――
Tシャツを着る? でも、いつ洗濯できるかわからないから、使わないでおきたいし……。
「……まさか、熱中症で倒れてるのか!?」
昴くんが駆けてくる足音が聞こえる。
心臓病なんだから走っちゃだめなのに。本当にいいひとなんだけど、今は裏目に出ている。
「鈴木!」
「あっ――」
昴くんが固まる。ほら、やっぱり似合ってない。
「すっっっげぇかわいい!! めっちゃ似合ってる!」
「はっ? えっ?」
「髪もくくったんだな! 最高じゃん!」
身体中が一気に沸騰する。
「ばか、見ないで、見るなー!」
「あ、ごめん! じろじろ見るのは失礼だよな……! でも、ほんとかわいいから……」
頬を朱色に染め、視線を泳がせる昴くん。
ああ、もう、この胸のばくばくをどうしてくれよう……。
全部、彼のせいだ。
「冷たっ! 海の水ってこんな冷たいのか……」
「まあ、冷夏だしね」
青空と真夏の太陽。崩壊しても輝き続ける恒星が、誰もいない廃墟の渋谷を照らす。
生きているのは私と昴くんと、風と光だけ。胸がきゅっとなる静けさがあった。
「不思議。海水なのに、すごく透き通ってる……」
「終末だしな。いろいろあるんだろ」
「夜空にオーロラが浮かぶくらいだしね」
「ほら、鈴木。浮き輪」
「いらない。私は泳げるから。昴くんが使って」
昴くんは浮き輪をそばの瓦礫に引っかけた。
ふたりでラジオ体操して水に入る。
「また夢が叶ったよ、鈴木」
「へぇ。どんな夢?」
「水着の女子と水遊び。ほら!」
「きゃあ」
昴くんが足を蹴り上げ、水しぶきが私を濡らした。
「ははっ! 冷たいだろ!?」
「心臓病だと思って遠慮してたら……もう!」
太ももまで浸かり、勢いよく水をすくい上げる。
「うっわっ! 冷てぇ!」
ちょっと腹が立ったので、遠慮なく冷たい海水をぶっかける。
「ごめん、俺の負け!」
「わかればよろしい」
お互いプールに入る前のシャワーみたいになって、ちょうどよかった。
「俺はこのあたりでのんびり浮いてるよ」
「ん。ちょっと泳いで戻ってくる」
「俺から見えないところへ行かないでくれよ?」
「それはこっちの台詞。じゃあね」
首にかけていた水中メガネを着け、じゃぽっと潜り込んだ。
風の音が消え、世界が遠ざかる。
ここなら、すべてがどうでもよくなる気がした。
水底まで透き通り、ビルの影から差し込む光が水中のオーロラのようだ。
深く潜ると外界との繋がりが消え、自分だけの世界に入り込めるから泳ぐのは好きだ。
振り返ると、ぷかぷかと浮いている昴くんの足が見えた。
ぱたぱたと動いていて、かわいらしい。
水面で息を継ぎ、再び潜って先へ進む。
底が崖のように深くなった先で、沈んだビルの輪郭が見えてきた。
渋谷の象徴、109だ。
まるで夢の中の街。息を呑む。
水の中で“109”の数字がゆらゆら揺れている。
もう一度息を吸い、深く潜ってその看板に触れた。
かつて高くそびえていたビルの頂上。
現実なのに現実じゃないみたいだ。
……そっか。人類、滅ぶんだ。
有史以前、積み上げてきた遥かな文明があと一ヶ月で終わる。
「…………」
急に昴くんに会いたくなった。
水中でぱたぱたと動く彼の足を目指し、急いで泳いだ。
水面に出て息を吸うと、世界が戻ってくる。
昴くんは聞いたことのある流行歌を口ずさみながら浮かんでいた。
このひと、いつも楽しそう。
終末なのに人生を楽しむひと。
無邪気で……もうすぐ死んでしまう人。
まあ、それは私もか。
そっと彼に近づき、真後ろから、とんと浮き輪を押した。
「うっひゃあっ! な、なんだよ!?」
「ぷっ、あははっ」
楽しくなってさらに押す。
「強く押すなー! 怖い!」
彼は気づいていない。
昴くんの身長なら足が届くということに。
「どうしようかなー?」
「…………」
昴くんがきょとんと私を見つめた。
「……鈴木って、そんなふうに笑うんだな」
「はっ?」
一瞬で顔が熱くなる。
「笑っているところ、初めて見たかも」
それは包まれたくなるくらいの優しい微笑み。
「ばか、見るな!」
「うわぁっ! 落ちる! 怖い!」
足が届くこと、ずっと黙っていてやる。
水没した渋谷に私たちの声が吸い込まれていく。
今、この世界には私と昴くんだけ。
泳ごうと言ってくれたことに、少しだけ感謝した。
八月一日。夕方。
私と昴くんは、自転車に乗って一時間ほど幹線道路を進んだ。
アスファルトがひび割れ隆起していたけれど、走行に支障はない。
日が傾き、街が濃い橙から紫へと沈んでいく中、私たちは初めての夜を過ごす宿を探すことにした。
閑静な住宅街。
ヒグラシの声がかすかに届くだけで、あとは自転車の軋む音しか響かない。
「実際どうするんだ、鈴木? 適当な家に突撃すんのか?」
「住人が避難して完全に空き家になっている家を探すの」
ボストンバッグから取り出した『どろぼうの手口、すべて教えます』を片手に、一軒のモダンな住宅の前で足をとめた。
門扉を押し開け、敷地に足を踏み入れる。
「ここに泊まるのか?」
「……静かにして」
庭の雑草には踏み倒された跡がない。
窓枠のサッシに指を滑らせれば、うっすらと灰色の埃。ここ数ヶ月、誰もこの窓を開けていない証拠だ。
「よし、ここなら誰もいない」
「なあ、鈴木。お前、本当に泥棒やったことないんだよな?」
「……そんなに野宿したいなら、昴くんひとりでどうぞ」
「わ、悪かったよ!」
冷たく返すと、慌てて両手を振る昴くん。
でも、緊張感のない彼のせいで恐怖が紛れるのも確かだった。
リビングに面した掃き出し窓の鍵の周りに、ガムテープを何重にも貼る。
タオルで包んだ小石でテープの上を小突くように叩くと、鈍く小さな破砕音が鳴った。
蜘蛛の巣状に割れたガラスをテープごと押し込み、手が入る隙間を作る。
漏れ出てきたのは、カビと湿気、積もった埃の冷たい匂い。生活の気配は消え失せていた。
「本当に音がしないもんだな……」
「映画で観た通り。……開けるね」
クレセント錠を回して静かに窓を開け、懐中電灯を灯して室内へ上がる。
「……誰かいませんかー? いたらすぐ出て行きます」
努めて柔らかい声で呼びかけた。
「あのー、俺ら一泊したいだけ……」
声を張ろうとした昴くんの口を、とっさに手で塞ぐ。
「んぐっ!?」
「喋らないで。男の人の低い声は強い警戒心を抱かせるから。怯えた人が中から襲いかかってくるかもしれないでしょ」
目を丸くして頷くのを確認し、手を離す。
「鈴木って、たまに警察の突入班みたいだな……」
「用心してるの。安心して休みたいでしょ? 昴くんは少しでも疲れを取らなきゃいけないんだから」
「鈴木も、だぞ?」
口元に指を立てると、昴くんは素直に口をつぐんだ。
息を殺して耳を澄ます。返事はない。
昴くんを後ろに従え、リビング、キッチン、風呂場、そして二階の寝室まで扉を一枚ずつ開けて確認した。
誰もいない。この家は放棄された、ただの生活の残骸だった。
リビングに戻ると、どっと疲労が押し寄せてきた。
発光部分にハンカチをまきつけた懐中電灯の薄明かりを頼りに、ボストンバッグから栄養調整食品を取り出す。ふたり無言でかじり、水筒のぬるい水で流し込んだ。
食事はこれで終了。次はお風呂だけど、そんな贅沢なものは、とっくになくなっている。
キッチンへ移動し、貴重な水を数滴垂らしたタオルで首筋と顔の汗をぬぐう。制服のまま気になるところも拭いた。水道がとまっている以上、これが精一杯だ。昴くんも同じように汗を拭った。
幸い今年はかなりの冷夏。エアコンがなくても眠れる。
続けて、父の遺品である防犯センサーを設置する。ふたつのセンサーの間を横切れば警告音が鳴る仕組みだ。
「完璧だな、鈴木。特殊部隊みたいだ」
「用心するに越したことはないでしょ。昴くんはソファーで寝て。私は床に寝袋を敷くから」
「逆だ、逆。女子がソファーだろ」
「体力の回復が最優先なのは昴くんでしょ?」
「ソファーは女子が使うもんだ。俺は床で十分!」
昴くんはソファーから一番遠い部屋の隅に寝袋を広げた。
無神経なところもあるけれど、やっぱりいいひとだ。
「じゃあ、使わせてもらうね」
ソファの上で横になり、小さく丸くなる。
ふと見ると、部屋の隅の昴くんがリュックからモバイルバッテリーを取り出していた。
スマホにケーブルを差し込むと、液晶がぽっと青白く光り、充電マークが浮かぶ。
電波なんて届かないのに、そのかすかな光は、まだ「昨日までの日常」と繋がっている唯一の証拠に見えた。
「バッテリー、大事に使ってよね」
「わかってるって。一日一分、画面を眺めるだけにするから」
そう言って画面を伏せた昴くんだったが、すぐに持ち直して親指を動かし始めた。
ポチポチと操作音が響く。
「なにやってるの?」
「メール打ってんの」
「……ネットも死んでるのに?」
「いいの。送信ボタンを押すことに意味があるんだから」
満足そうに画面をタップする昴くん。
「よし、送信完了」
「誰に送ってるの、届きもしないメール……」
「へへっ、未来の俺の嫁さん! ……なんてな。届くわけないよな」
「……オカルト?」
「どうせどこにも届かないんだから、何書いたって自由だろ」
「なにそれ……。無駄遣い禁止って言ったそばから」
「無駄じゃないって。はい、今度こそおしまい!」
パチンと懐中電灯が消え、遮光カーテンを閉め切った部屋は深い夜の闇に沈んだ。
センサーが壁の隅でかすかに赤く点滅している。薄紅色の光を放つ蛍がとまっているみたいに。
その灯りが照らす天井を、ぼんやりと見上げる。
カーテンを閉め切っているし、このくらいの薄明かりなら外には漏れていないだろう。
少し離れた場所から、寝袋のカサカサという擦れる音が聞こえた。
「……なぁ、鈴木」
闇の向こうから、ぽつりと声が降ってきた。
「なに?」
「今日、助けてくれてありがとな。準備もルート決めも、お前がいなかったら初日で詰んでた」
「……お礼なんていいよ。暇つぶしについてきたようなものだし」
強がってみせる私に、昴くんが小さく笑った。
「ふたりで自転車漕いでるとき、ちょっとだけワクワクしたんだ。変だよな」
「……変。大変な旅なのに」
「あはは、だよな。でも、本当なんだよ」
闇の中でも昴くんは明るい。
でも、彼の心臓は爆弾を抱えている。
「……ねえ、昴くん。胸が苦しくなったら、我慢しないで言ってね。倒れられるのが一番困るから」
「わかってるって。鈴木こそ変な物音とかしたらすぐ起こせよ。俺、これでも一応男だからさ」
昼間は頼りなく見えたのに、暗闇の声は低く、妙な意地が混ざっていた。
「はいはい。頼りにしてます」
あしらいながら寝返りを打ち、彼の方を向く。
「……おやすみ、昴くん」
「ん。おやすみ、鈴木」
やがて規則正しい寝息が響き始めた。
いつとまるかわからないという彼の心臓。暗闇の中で耳を澄まし、呼吸を確かめる。
――ちゃんと、生きてる。
昼過ぎまで独りで死のうとしていたのに、見知らぬ空き家で誰かの息遣いを聞きながら明日を待っている。
不思議な夜だった。
ポケットに手を入れて、小さな四角い銀色のシートに触れる。
指先に当たる冷たいアルミの感触と、尖った角の小さな痛み。
いつでも逃げ出せるその薬を手放せないまま、私は静かにまぶたを閉じた。
八月二日。
洗面所で貴重な水を数滴タオルに垂らし、顔を拭く。
化粧水もファンデーションも家に置いてきた。
いつもは校則に怒られない程度のすっぴん風メイクをしていたけれど、命がけの旅にそんな余裕はない。
首筋と頬に日焼け止めを塗り、薬用リップを唇に滑らせる。
ほんのり桜色に色づく保湿リップだけが、私の日常に残された唯一の欠片だった。どうせ死ぬつもりだったのだから、すっぴんで上等だ。
ボストンバッグに荷物を詰め込み、寝袋で心地よさそうに眠る彼の肩を揺さぶる。
「昴くん、起きて。朝だよ。出発しないと」
声をかけるのはこれで三度目だ。
「……ラジオ体操? 無理……寝る……」
朝六時。陽はとっくに昇っている。
陽が出ているうちに進み、沈めば休むペースを守りたいのに。
「もう。昴くん?」
「……ん、おはよ」
苛立ちを込めて呼ぶと、やっと目を覚ました。
「これからは寝坊禁止」
「朝ご飯は?」
「寝坊したからなし」
ウソだけど。彼にはしっかり食べてもらわないと困る。
「えーっ! そんなぁ……」
「大事なことだからもう一回言うね。寝坊禁止!」
でも、きっと今後も寝坊するのだろう。
そういうところは本当に子供なんだから。
* * * *
昨日と同じように、私たちは自転車で南へと進んだ。
幹線道路を走り続け、やがて利根川にたどり着く。
しかし大きな橋は途中で折れ曲がり、赤茶けた鉄骨が無残に水へと沈んでいた。
上流へ大きく迂回するルートを選んだが、荒れた坂道が続くにつれて昴くんの呼吸が荒くなっていく。
息を吸うたびに肩が揺れ、見ているだけで胸がざわついた。
それでも彼の体調を最優先に考え、木陰でこまめに休憩を取りながらペダルを漕ぐ。
埼玉を抜ける頃にはすっかり陽が落ち、その夜も街道沿いの空き家に身を寄せた。
防犯センサーを仕掛け、ぬるい水で栄養調整食品を流し込み、互いの呼吸の音を確かめるようにして眠りに落ちた。
八月三日。
陽が高く昇り始めた午前中、私たちは予定通りのペースで、ついに東京・渋谷へとたどり着いた。
「完全に廃墟だな、東京は……」
帽子を被り、リュックを片掛けにした昴くんが頬の汗をぬぐう。
――半年前、小規模の隕石群が都心を破壊した。
テレビなどの情報網が使えなくなり、私たちは世界から分断された。
終末が始まった瞬間だった。
「人の気配が全然ないね……」
廃墟となった渋谷の街は、眩しい夏の光に白く溶けていた。
道玄坂の緩やかな下り坂は海へと沈み、透き通った青い海水がアスファルトを浸している。
崩壊したビル群の向こう、抜けた青空の下に、ぽっきりと折れた東京タワーが見えた。
街の象徴だった109のビルさえ、水底の残骸となって見当たらない。
道路を埋め尽くすコンクリートの塊と、ひしゃげた鉄骨の瓦礫。
自転車が走れる路面ではない。ここまで乗ってきた二台の相棒をビルの陰に乗り捨てた。
荷物をまとめ直し、ここからは自分たちの足だけで進む。
足元を満たす青い水面は、風が止むと鏡のようになり、夏の空と並び立つ私たちの姿を映し出した。
埃をかぶった半袖セーラー服に、肩に斜め掛けしたパンパンのボストンバッグと白い日傘。
その隣には、着古した制服姿に大きなリュックを背負い、キャップを目深に被った昴くん。
どこからどう見ても場違いな高校生ふたり。
滅びゆく世界に放り出された、あまりにも頼りなくちっぽけな姿だった。
けれど、その頼りなさすら、私たちにとっては唯一の確かな輪郭のように思えた。
「……あーっ!」
「わっ」
突然の大声が廃墟に吸い込まれていく。
「もう。誰か来たらどうするの?」
「んー、仲良くなる」
「悪いやつかもしれないでしょ? 食料を狙われたら困るんだから」
「そっか。あまり人に会わないほうがいいもんな。……で、こっからどこへ向かうんだ?」
「品川から東海道に入る。平地が多くて宿場町もあるし、物資を探しやすいと思う。一本道だから迷いにくいし、道が塞がっていても迂回路を選びやすいから」
「とにかく、歩きやすいってことだな!」
「……まあ、そういうこと」
昴くんの理解度についてはスルーして、私たちは品川方面へ向かって歩き出す。
湿り気を帯びた風が吹き、落ちた看板が揺れて金属音が響いた。
その音で、文明の音が全くしないんだなと気づかされる。
世界がやけっぱちになって眠っているかのようだ。
「なぁ、鈴木……」
日傘を持ち直し、スカートの裾を少し持ち上げて海水に浸る足を冷やす。
「どしたの?」
発作の様子ではない。でも、休みたいなら休憩にしよう。
「泳ぎたい」
「はっ?」
思わず立ち止まる。
「……今、なんて言った?」
「泳ごうぜ。せっかくだし」
「……拡張型心筋症って実はウソなの?」
「ち、違う! ガチで心臓病だって! ただ、せっかく海の水が来てるんだし、そこから砂浜みたいに徐々に深くなっていってるし……」
「いってるし?」
「渋谷の廃墟で泳ぐなんて終末じゃないとできないだろ? 浮き輪でぷかぷか浮かぶだけなら負担にならないしさ!」
「……意味わかんない」
「だから、ぷかぷか浮くだけ! 心臓に負担かけないように浅瀬で浮かんでるだけだから!」
「水温で冷えたりしたらどうするの?」
「日差しが強いから平気、平気!」
本当に父母ヶ浜へ行く気があるのかな、このひとは。
突っ込もうとした私の前で、昴くんは表情に影を落とし、ぽつぽつと喋り出した。
「……俺、学校の体育も見学だったし。夏休みのプールも海も、ぜんぶ禁止だったんだ。病気になる前のプールの記憶も、もう忘れた。だから……夏の水に、ぷかぷか浮かんでみたいんだ」
俯きがちに漏らされた声に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
そういう理屈は反則だ。
「ここは海って感じじゃないけど、それでも……な?」
うかがうように見上げてくる瞳から逃げるように、日傘を傾けて視線を遮った。
「……ずるい」
「えっ?」
息を吐き、日傘を再び肩にかける。
「いいよ。海水浴、しよ?」
「やったっ! ありがとな、鈴木! んじゃ、早速そこのぶっ壊れてるデパートで水着を探そうぜ!」
「ううっ、こんな水着しか残ってなかったなんて……」
物陰で着替えたものの、昴くんの前に出られない。
「鈴木ー! 早く来いよー!」
まさかセクシー系のビキニタイプしか残っていなかったなんて――
Tシャツを着る? でも、いつ洗濯できるかわからないから、使わないでおきたいし……。
「……まさか、熱中症で倒れてるのか!?」
昴くんが駆けてくる足音が聞こえる。
心臓病なんだから走っちゃだめなのに。本当にいいひとなんだけど、今は裏目に出ている。
「鈴木!」
「あっ――」
昴くんが固まる。ほら、やっぱり似合ってない。
「すっっっげぇかわいい!! めっちゃ似合ってる!」
「はっ? えっ?」
「髪もくくったんだな! 最高じゃん!」
身体中が一気に沸騰する。
「ばか、見ないで、見るなー!」
「あ、ごめん! じろじろ見るのは失礼だよな……! でも、ほんとかわいいから……」
頬を朱色に染め、視線を泳がせる昴くん。
ああ、もう、この胸のばくばくをどうしてくれよう……。
全部、彼のせいだ。
「冷たっ! 海の水ってこんな冷たいのか……」
「まあ、冷夏だしね」
青空と真夏の太陽。崩壊しても輝き続ける恒星が、誰もいない廃墟の渋谷を照らす。
生きているのは私と昴くんと、風と光だけ。胸がきゅっとなる静けさがあった。
「不思議。海水なのに、すごく透き通ってる……」
「終末だしな。いろいろあるんだろ」
「夜空にオーロラが浮かぶくらいだしね」
「ほら、鈴木。浮き輪」
「いらない。私は泳げるから。昴くんが使って」
昴くんは浮き輪をそばの瓦礫に引っかけた。
ふたりでラジオ体操して水に入る。
「また夢が叶ったよ、鈴木」
「へぇ。どんな夢?」
「水着の女子と水遊び。ほら!」
「きゃあ」
昴くんが足を蹴り上げ、水しぶきが私を濡らした。
「ははっ! 冷たいだろ!?」
「心臓病だと思って遠慮してたら……もう!」
太ももまで浸かり、勢いよく水をすくい上げる。
「うっわっ! 冷てぇ!」
ちょっと腹が立ったので、遠慮なく冷たい海水をぶっかける。
「ごめん、俺の負け!」
「わかればよろしい」
お互いプールに入る前のシャワーみたいになって、ちょうどよかった。
「俺はこのあたりでのんびり浮いてるよ」
「ん。ちょっと泳いで戻ってくる」
「俺から見えないところへ行かないでくれよ?」
「それはこっちの台詞。じゃあね」
首にかけていた水中メガネを着け、じゃぽっと潜り込んだ。
風の音が消え、世界が遠ざかる。
ここなら、すべてがどうでもよくなる気がした。
水底まで透き通り、ビルの影から差し込む光が水中のオーロラのようだ。
深く潜ると外界との繋がりが消え、自分だけの世界に入り込めるから泳ぐのは好きだ。
振り返ると、ぷかぷかと浮いている昴くんの足が見えた。
ぱたぱたと動いていて、かわいらしい。
水面で息を継ぎ、再び潜って先へ進む。
底が崖のように深くなった先で、沈んだビルの輪郭が見えてきた。
渋谷の象徴、109だ。
まるで夢の中の街。息を呑む。
水の中で“109”の数字がゆらゆら揺れている。
もう一度息を吸い、深く潜ってその看板に触れた。
かつて高くそびえていたビルの頂上。
現実なのに現実じゃないみたいだ。
……そっか。人類、滅ぶんだ。
有史以前、積み上げてきた遥かな文明があと一ヶ月で終わる。
「…………」
急に昴くんに会いたくなった。
水中でぱたぱたと動く彼の足を目指し、急いで泳いだ。
水面に出て息を吸うと、世界が戻ってくる。
昴くんは聞いたことのある流行歌を口ずさみながら浮かんでいた。
このひと、いつも楽しそう。
終末なのに人生を楽しむひと。
無邪気で……もうすぐ死んでしまう人。
まあ、それは私もか。
そっと彼に近づき、真後ろから、とんと浮き輪を押した。
「うっひゃあっ! な、なんだよ!?」
「ぷっ、あははっ」
楽しくなってさらに押す。
「強く押すなー! 怖い!」
彼は気づいていない。
昴くんの身長なら足が届くということに。
「どうしようかなー?」
「…………」
昴くんがきょとんと私を見つめた。
「……鈴木って、そんなふうに笑うんだな」
「はっ?」
一瞬で顔が熱くなる。
「笑っているところ、初めて見たかも」
それは包まれたくなるくらいの優しい微笑み。
「ばか、見るな!」
「うわぁっ! 落ちる! 怖い!」
足が届くこと、ずっと黙っていてやる。
水没した渋谷に私たちの声が吸い込まれていく。
今、この世界には私と昴くんだけ。
泳ごうと言ってくれたことに、少しだけ感謝した。
