セカイが終わるその日、ぼくらは永遠の環を結んだ

 私は独りで死ぬ。
 それでいい。
 寂しくない。
 誰かと一緒に終わりを迎えるなんて、そんな贅沢は望んじゃいけない――


 ――世界が滅ぶまで、あと三十日。

 八月一日。正午。
 いつでも死ねるからこそ、今日まで生きてしまった。
 でも、もう終わり。
 学校がその役割を失って、もう四ヶ月。
 肌を刺すような陽光が差し込む教室は明るく、開けっ放しの窓から入る風は冷夏ということもあって心地よい。肩まで伸びた黒髪が遊ぶように揺れていた。
 遠くからは、せいいっぱいに生きようとする蝉の声が届いている。
 普段はうるさい彼らの声も、最後だと思えば少し愛しくは……ならないか。
 整列された机とイス。
 座っているのは制服を着た私ひとり。
 視線の先、四ヶ月前に校庭にできた巨大なクレーターが、今でも日常の違和感として残っていた。
 でも、見渡してもなにも感じない。
「そろそろ死ぬか」
 学生カバンから水筒を机に出し、スカートのポケットから銀色のシートを取り出した。
 錠剤を押し出すための、冷たく光る薄いアルミの包装。そこに青いインクで印字されている文字は――
 ――尊厳死誘導剤。
 通称、“白昼夢”。
 麻薬成分が入っていて、飲むと幸せな夢を見ながら死ねるらしい。
 昨年の夏、巨大隕石“アビス”の飛来によって地球が破壊され、人類の歴史は終わると各国政府が公表した。
 終焉の日は八月三十一日。今から一ヶ月後だ。
 発表以来、小さな隕石群が次々と襲来した。
 家を壊す程度のものから、都市を丸ごと破壊するものまで。
 いくつもの大都市が滅び、原発のメルトダウン、インフラの崩壊、略奪や暴動が始まった。
 日本政府は「人としての最後の尊厳を守るため」という建前で、各自治体を通じて薬を配布した。
 それが“白昼夢”。
 国家公認の安楽死剤だ。
 昼間に見る儚い夢のように、苦痛なく消えられる。
 身分証明書と引き換えに手渡された、一人一錠のセーフティネット。
 そして、渡されるやいなや多くの人が飲んだ……らしい。
 当時かろうじて動いていたテレビやSNSは、誰それが飲んだという話ばかりだった。
 配布段階で人口の四割が飲んだというニュースもあったほどだ。
 怖くて、痛くて、孤独な最期を迎えるくらいなら、愛する人と手を繋いで痛みのない夢へ逃げ込みたい。
 文明が崩壊していくカウントダウンに、誰も耐えられなかった。
 私には、手を繋ぐ相手すらいないけれど――
 みんなが飲むから私も飲む、と同調圧力に押されるようにして飲んだクラスメイトもいた。
 一人だけ取り残され、みじめに焼け死ぬ恐怖に耐えられる人は少ない。みんな、右へ倣えで綺麗に死んでいった。
 だけど――私は、その“みんな”の中にすら入れなかった。
 誰かに必要とされたかった。せめて誰か一人の世界で、自分の人生で主役になりたかった。そんな見苦しい執着が、私に薬を飲むのをためらわせた。
 いつでも終わりにできるからこそ、未練がましく今日まで生きてしまったのだ。
 八月一日。
 蝉の声だけが響く教室で、モブにもなれなかった私は、まだ終われない物語のなかに取り残されている。
 どうせ死んでも誰も困らない。
 この教室が賑やかだった頃だって、私はクラスの一軍女子たちから都合よく扱われていた。
「花奈ぁ、ちょっとこの動画撮って!」
「ああもう! 画角下手。もう一回!」
 アップされたSNSに、私の姿だけがどこにもない。まるで透明人間だ。
 画面の端にでも写っていれば、まだモブになれた。けれど私は、カメラの向こう側で息を殺しているだけの、ただのレンズだった。
 でも、それは私のせいだ。損な役回りばかり引き受けて周りに合わせすぎた結果、自分が何者かわからなくなってしまった。
 まぶしすぎるSNSで誰かの特別な存在になって輝く人たちを見るたび、飢餓感を抱いた。
 誰かに評価され、承認され、必要とされたいという飢え。
 どうせ私は誰の物語にも登場しない存在。
 ただの背景、名もなきエキストラですらない。
 ましてや主人公や重要ポジションのキャラクターでもない。
 たった一人でいいから、私の価値を認めて、世界の中心として選んで欲しかった。
「わかってる。それも高望みだったって」
 だって、両親ですら私を見捨てたのだから。
 警官の父と看護師の母は困っている人がいると仕事へ出たきり、同じ日に帰ってこなくなった。どこかで誰かを助けているのか、とっくに死んでいるのかもわからない。
 連絡の手段もない。
 誰かを助けるために家を出て帰らない両親にとって、私の存在なんてその程度だったのだ。
 自分の人生で主役になれず、両親にすら捨てられる。それが私――鈴木花奈だ。
 だから、誰にも気づかれないうちにログアウトするだけ。地球が滅ぶ前に。
 無機質に光る銀色のシートを見つめ、裏のアルミフィルムに爪を立てる。
 指先に少し力を込めれば、パキッと乾いた音とともに真白な薬が零れ落ちるはずだ。
 机の上には薄緑の水筒。
 口に放り込んで水で流し込むだけで、この世界とおさらばできる。
 ――これで、終われる。
 親指を深く食い込ませた瞬間、窓ガラスがガタガタと震えはじめた。
 まさか――隕石?
 世界が一瞬、音を失う。
 そして――
 窓の外が白く光った。
 視界が塗りつぶされ、遅れて耳をつんざく爆発音と爆風が押し寄せる。
 割れた窓ガラスとともに、私は机ごと廊下側へ吹き飛ばされた。
 肩と背中が痛い。耳の奥がキーンと鳴る。
 鼓膜が破れたのかと思うほど、世界が遠ざかった。
 ――なんで?
 どうして、こんなときだけ邪魔されるの?
 生きたい人は簡単に死んでいくのに、どうして私は死ぬことすらできないの?
 最後くらい、ちゃんと終われると思ったのに。
「……その程度なんだ、私の人生って」



『セカイが終わるその日、ぼくらは永遠の環を結んだ』



 涙がにじむ。
 悔しい――むかつく――なにかを呪いたくなる。
 わけのわからない理不尽さから解放されたかったのに。
 “白昼夢”は、衝撃で手から吹き飛んで見当たらない。
 そんな私に――
「大丈夫か!?」
 声が降ってきた。
 痛む身体を起こそうとする私に、声の主が手を貸してくれる。
「出血は……なさそうだな」
 背中に手を添えてくれたのは、陽の光をすべて吸いこむような、柔らかく癖のある黒髪の少年だった。
 ところどころに影が落ちる色合いが、彼の澄んだ横顔によく似合っている。
「強い痛みを感じるところはないか?」
 この学校の制服を着ている。でも、うちのクラスにいたかな?
 ……あ、一学期の始業式のあと、すぐ学校に来なくなった星加昴くんだ。
 なんでここにいるんだろう?
「起き上がれるか?」
 星加くんは私の手をそっと握っている。本質的に優しい人なのだろう。
 立ち上がろうとしたとき、瓦礫の隙間に小さく光る四角い銀色のシートを見つけた。すぐに拾い上げ、制服のポケットへねじ込む。間違いなく、私が飲もうとしていたあの薬だ。
 彼に手を引かれ、ゆっくりと立ち上がる。
「ん……怪我とかはないみたい」
「運がよかったな」
「逆だけどね」
「へ?」
 優しげだった顔が、ぽかんと間の抜けた表情に変わる。
「今さら運がよくたって意味ないよ。もうすぐ全人類が滅ぶんだから」
「そりゃあそうだけどさ。日常生活の、そういうのって大事だろ?」
 日常生活……ね。
 そんなものは、一年前になくなった。
「ひとりで、なにをしてたんだ?」
 星加くんが心配そうに尋ねてくる。
「自殺しようとしてました」
 なんて言えないので、
「家にいてもすることないから学校に来たの」
 と誤魔化した。
「夏休みなのにか?」
「自主的登校日ってことで」
「それなら、あっちの校舎で騒いでる連中に混じれば? めちゃくちゃ楽しそうな声がしてたぞ?」
 コンビニでかっぱらってきた酒を飲んで騒いでいる生徒たちが別の校舎にいる。享楽的に過ごして、欲望を発散しているのだろう。
「ああいうのは趣味じゃないから」
「ああいうのって……ああっ!」
 どうやら騒いでいる連中がなにをしているのか察したらしく、彼はまずい質問をしてしまった……という顔になった。
「星加くんこそ、参加すれば?」
「わぁ!」
 彼はもの凄く嬉しそうな驚きの声をあげ、にっこりと笑った。
「俺のこと、知ってるんだ!」
「名前くらいは。顔も、今日会って思い出した」
「そっかー。そうなのかー!」
 ますます嬉しそうに笑う彼を見ていると、少しだけ気持ちが引っ張られる。
 さっきまで死のうとしていた私の心も、その熱に触れた。
 かと思えば、彼の頬がほんのり赤くなり、視線が泳ぐ。
「あー……最初で最後だと思うから、頼みがひとつあるんだ」
「なに? 最初で最後ってどういうこと?」
「俺のこと、下の名前で呼んで欲しい」
 ああ、そういうこと。
 もうすぐ地球が滅ぶからと、キスやその先をお願いされるのかと思った。
「私なんかに呼ばれても嬉しくないと思うけど?」
「そんなことない! 絶対に嬉しい。頼むよ」
「じゃあ、さっき助け起こしてくれたお礼ってことで」
 すっと彼を見上げる。
 吸い込まれそうな黒い瞳。もっと近づけば、きっと私の生気のない顔が映っている。
 それじゃあ、まあ――
「昴くん」
「うおっ、いいっ! 凄くいいな! うんうん!」
「なにが?」
「女子に下の名前を呼んでもらうの、夢だったんだ。旅する前に夢がひとつ叶ったよ。ありがとな!」
 小さくてどうでもいい夢だなと思ったけれど、まぶしい笑顔でお礼を言われて悪い気はしなかった。
「ええと、えっと……お前の名前……ごめん」
「私はいてもいなくても同じだから。空気みたいなものだよ。気にしないで」
「でも、空気って生きるのに絶対必要じゃん?」
「じゃあ、私は石ころかなにかで」
「自分のことをそんな言い方しなくても……」
 昴くんはしょんぼりとうつむいた。
 単純にいい人なんだな。
「おーい、大丈夫かー?」
 瓦礫だらけで机とイスが吹き飛んだ教室に、担任の草彅先生が入ってきた。
 優しくて穏やかで、芯の通った四十代の男性教諭。
「すみません、草彅先生。無理言って……」
「なに言ってるんだ、星加。声をかけてくれて嬉しかったぞ」
 草彅先生が教卓を起こす。
 昴くんも慌てて、転がっていた机を二台起こした。
「今から先生がめっちゃいい授業をしてくれるんだ。つき合ってくれよ。せっかくだし」
「……はぁ。まあ、いいけど」
 死ぬこともできなかった私に、やりたいこともやるべきこともない。
 だから、そう返事をした。
「ありがとな! 女子と一緒だなんて思ってなかったから、すっげぇ嬉しいよ」
 昴くんがイスを引いてくれたので、私はそこへ腰かけ、机に肘を乗せて前を向く。
「女子と机をくっつけて……ってのは、さすがに馴れ馴れしいよな。やっぱちょっと離れるわ」
 昴くんは机ひとつ分ほど距離を置き、イスを並べて座った。
「それでは倫理の特別授業をはじめる――」
「うおー! 待ってましたー!」
 昴くんが全力で拍手をする。
「ほら」
 昴くんにうながされ、面倒だなと思いつつ私も軽く手を叩いた。
「授業前に拍手をもらえるなんて、先生史上初めてだ。そりゃ、地球も滅びるか。ハハ!」
 快活に笑いながら、草彅先生は黒板に向かう。
 さっきの爆発が嘘のように、静かでリズミカルなチョークの音。
 遠くから蝉の声が聞こえ、生き残ったカーテンが夏風に揺れる。
 昴くんの横顔はとても楽しそうで、夏みたいに眩しい。
 黒板には短い言葉が書かれていた。なにかの名言らしい。
「じゃあ、星加……いや、せっかくだから、ふたりでこれを読んでくれ」
「えーっ……」
 思わず声が漏れる。
「めっちゃいい言葉だから! ふたりで読も? な!?」
「……はぁ。まあ、いいけど」
 面倒くさくて、さっきと同じ返事になった。
「じゃあ、読むぞ!」

「「明日世界が滅びるとしても、今日私はリンゴの木を植える」」

「ぷっ。あははっ! めっちゃ合ってないな、俺たち!」
「そりゃそうでしょ……」
 リズムもテンションもばらばらだった。
 ただ……不思議と心に残る。
「これは宗教改革者マルティン・ルターの言葉として知られている――」
 昴くんの表情が、驚くほど真剣になった。
 さっきまであんなに騒いでいたのに。
 夏の光の中、その横顔がふっと揺れたような気がして、胸がざわついた。
「世界が終わるとわかっていても、人は自らの意思でなにかを選ぶ。結果がどうあろうとその選択には価値がある。そして、“どう生きたいか”という意志が残る」
「…………」
 草彅先生の語り口に引き込まれる。
「絶望の中でも人は希望を持つ。たとえ明日が来ないとしても、今日の自分の行動には意味がある。そこに自分の意思があるなら、なおさらだ」
「はい、先生!」
「ほい、星加昴くん」
「行動の価値は、結果じゃなくて選択……っていうか、意思! 意思にあるってことですか?」
「その通りだ」
 けっこう難しい内容なのに、昴くんは本質を理解している。
 草彅先生は少しだけ笑った。
「誰かのためにリンゴの木を植える。それは世界の終わりに抗う、一番静かで強い行動だと先生は思う」
「あと、一番優しくて、一番かっこいい! 俺はそう思います」
「それな。優しい行動でもあるし、格好いい行動でもある」
 理解できない。
 だって、私とは真逆の言葉だから。
 まだ世界は滅んでいないのに死のうとしている私と――
「なぁ、お前はどう思う?」
 昴くんに話題を振られてしまった。
「え、私……?」
「正解なんてない。自分が思ったことを話してくれればいい」
 草彅先生にもうながされる。
「り、リンゴの木……私は……やっぱり意味がないって……思います」
 今さら顔色をうかがう必要もないので、正直に答えた。
「ただ、ちょっとだけ興味があります……」
「おお、詳しく」
 隣の昴くんが身を乗り出してくる。
「リンゴの木を植える人の気持ち……どんなのかなって……」
 私の心にはない感情だから、少しだけ気になった。
「理解できない、だから知りたい。健全な好奇心だよ。もっと自信を持っていい」
 死のうとしている私に優しくしても意味ないよ、草彅先生。
「よし。こんなところでいいか、星加?」
「くぅ~~~! やっぱこのエピソード、最高ですよ!」
 昴くんは立ち上がり、ぐっと拳を握りしめた。
「喜んでもらえるなんて、先生冥利に尽きるよ」
 草彅先生は教壇から降り、昴くんの前に立つ。
「行くんだな?」
「――はい」
 昴くんの表情が、再び驚くほど真剣になった。
「……がんばれよ」
「草彅先生も」
 ふたりが力強く握手を交わす。映画のワンシーンみたいに綺麗な光景だった。
 手が離れ、草彅先生は名残惜しそうに教室を去っていった。
「んじゃ、行くか」
 昴くんは大きなリュックを肩にかけた。
「どこへ行くの?」
「聞きたい?」
「じゃあ、いいです」
「あ、ごめん、ウソ。聞いて」
 ため息をつくと、昴くんが自分から口を開いた。
「――父母ヶ浜」
 行ったことはないけれど知っている。香川県の西側にある砂浜。ウユニ塩湖のように鏡映しの水面になって、空がふたつになる場所。
 世界遺産みたいに美しい光景が見られるらしい、お母さんの故郷の近く。
「あー……ここでかぁ。さっきの爆発で心臓がびびったからだな……」
 昴くんが呻き、胸を押さえた。そのまま床に膝をつき、うずくまる。
「えっ、待って。どうしたの?」
「大丈夫だ……こういうの、慣れてる……」
「慣れてるって、どういうこと?」
「小三のときに一度死にかけて……」
 死にかけた!?
「……水……リュック……」
「水を出せばいいの!?」
 かすかな頷きを見て、遠慮なくリュックを開ける。
 取り出したペットボトルのフタを即座に開けた。
 昴くんはポケットからピルケースを取り出す。
 五、六種類に分けられた錠剤の中から一錠をつまみ、私が渡した水で喉の奥へと流し込んだ。
「……ごめん……こんなところ見せて……三十分くらいしたら、落ち着く、から……ほんとごめん……」
 申し訳なさそうに何度も謝る昴くん。
「びっくりしただけだから、気にしないで」
 私はそっと彼の背中をさすり続けた。


「――拡張型心筋症」
 二十分ほどで落ち着いた昴くんは、淡々と話し始めた。
「ようするに心臓病なんだ、俺」
 心臓の筋肉が薄く伸びてポンプの役目を果たせなくなる病気だ。
 いつとまってもおかしくない。うちの祖父も同じだった。
「あと一ヶ月。世界と一緒にコイツももってくれればいいんだけどな」
 昴くんはぽんぽんと自分の胸を叩く。
「四月になってすぐ学校を休んだのは……悪化したから?」
「まあな。でも、最近はずっと調子がいいんだぞ」
「……そんな身体で父母ヶ浜へ行くの?」
「最初からそう言ってるだろ?」
 自信満々に笑う彼にあきれてしまう。明らかに無謀だ。
 八月三十一日に地球を粉々に破壊する巨大隕石アビス。
 それに先んじて一年前から飛来する無数の隕石で、すでに文明は壊滅している。
 電気もガスも水道も通信も死に、警察も消防も機能していない。いつ誰に襲われてもおかしくない世界だ。それに、このリュックに一ヶ月分の食料が入っているとは思えない。
 ここは群馬の南端。目的地は四国の香川県。
 心臓病の男子高校生が徒歩で目指すなんて――
「心配してくれてありがとな。でも、俺は必ず父母ヶ浜にたどり着いてみせる」
「綺麗な風景を見ながら死にたいの? それならこのあたりにもあるよね」
「いや、父母ヶ浜じゃなきゃだめなんだ」
 また、あの真剣な横顔になる。
「父母ヶ浜は、家族で旅行した思い出の海なんだ。まだ父さんと母さんも仲が良くて、すごく幸せで……」
 昴くんは遠く――父母ヶ浜のある南西へ視線を向けた。
「想い出こみで、あの海が大好きなんだ。だから、セカイで一番好きな海で死にたい」
 そう言って、昴くんはまた明るく笑う。
「家にいれば地球最後の日まで生きられると思う。でも、それって死んでるのと同じだろ? 俺は最後くらい思うとおりに生きたいんだ」
 死ぬかもしれないのに、どうしてこんなに楽しそうなのだろう。
 死のうとしていた私と違い、彼は生きようとしている。
 ポケットの中の“白昼夢”に触れる。四角いシートの角が指先に当たった。
 死ぬのはいつでもできる。なら、この人がどこまで行くのか見てみたい。
 ――リンゴの木を植える人の気持ち……どんなのかなって……。
 私には何もないけれど、彼にはある。
 なら、彼の“生きる理由”を少しだけ借りてもいいかもしれない。
「私も一緒に行く」
「はぁあああぁぁ!?」
「……声、大きい」
「いや、無理だろ! 女子は足手まといだって!」
 ……ほう。足手まとい、ときましたか。
「どうやって香川まで行くの?」
「歩いて、途中で自転車があれば拾っていく」
「瀬戸内海はどうやって渡るの?」
「橋があるだろ? 明石とか岡山とか」
「明石海峡大橋は隕石で落ちた。瀬戸大橋も崩れて渡れないって噂だし……残るしまなみ海道だって、無事かどうかわからない」
「それなら、泳ぐか? ……水泳選手でも無理だよな」
「潮流が複雑だから自殺行為だよ」
「それでも、俺は行く。俺は――諦める理由を探したくない」
 ……本気なんだ。真剣な横顔に、ますます興味がわく。
「山道は避けて東海道を進むのがいいよ。東京、横浜、静岡、名古屋、京都、大阪へ」
「お、おお?」
「橋がダメなら尾道で漁師を探して船を出してもらう。徒歩で橋を渡るよりずっと速い。渡ることができれば四国、愛媛の今治市にたどり着ける。そこから国道を進んで香川県へ入れば、父母ヶ浜へ着くよ」
 私が使える人材だとプレゼンするように、次々とプランを並べた。
「お前、すげーな……」
「家の地図とコンパスを持っていく。メモ帳もペンも。日傘や帽子、携帯コンロにレトルト食品も必要ね。旅先でコンビニを見つけたら、その地方の地図があるだろうからゲットしておく」
「……地球が滅ぶまでに間に合うと思うか?」
「徒歩のみだと仮定して、歩く速度と昴くんの体力を考えると一日二十五から三十キロ。距離は約八百五十から九百五十キロだから、約三十日かかる」
 そして、今日は八月一日。
「今すぐ出発してギリギリ。なるべく自転車で時間を稼ぎたい」
「…………」
「私がいないと、昴くん、途中で死ぬよ」
「……本当にいいのか? 出会ったばかりの男とふたり旅なんて……」
「襲われる心配をしてるの? 別にいいよ、襲っても」
 どうせ死ぬつもりだったのだから。
 だが、昴くんは私の額をつんと小突いた。
「……っ、いた」
「女の子がそんなこと言うな。もっと自分を大事にしろ」
「……もうすぐ世界が滅ぶのに?」
「それでもだ。全く、最近の女子高生はどうなってんだ……」
 本気で怒っている。
 やっぱり、いい人なんだ。
「――わかった! 連れて行ってやる! 引き返す選択肢はないから覚悟しろよ?」
 死ぬ覚悟をしていた私に、できない覚悟などない。
「……はぁ。本当に変わったやつだな、お前」
「鈴木花奈。私の名前」
「すずき……はな。字も教えてくれ。覚えたい」
「草花の花に、奈良の奈。名字は普通の鈴木」
「いい名前だな。少なくとも俺とはいい相棒になれる」
 彼の名前“昴”とは冬の夜空に優しく輝くプレアデス星団の和名だ。
「夜空の星と、地上の花ってこと? 安直だよ」
「俺は気に入ったけどな! 楽しい旅にしような。よろしく、鈴木」
 ……名前を呼ばれた瞬間、心の輪郭が少しだけ浮かび上がった気がした。
「んじゃ……」
 差し出された無骨な手を前に、少し躊躇する。
 手を握れば、それなりの責任が生まれる。でも、どうせ世界は滅ぶのだ。
 私は彼の手を握り返した。温かい。ちゃんと生きている人の手だった。
「よろしくね、昴くん。じゃあ、うちに来て。準備するから」
 私はこの人を支えながら旅をする。
 地球が滅ぶ最後の一ヶ月。
 セカイの終わりに――

 * * * *

「じょ、女子の家だぁ……また夢が叶った……へへ……」
 ごく普通の一軒家のリビング。
 ソファーに座った昴くんが、所在なさげにきょろきょろしている。
 毎日それなりに掃除しておいてよかった。
「お、お待たせ……! ふぅっ!」
 私はぱんぱんに膨らんだボストンバッグを床に置いた。
「鈴木の荷物、多過ぎだろ!?」
「全部……必要なものなの……」
 息を整えながら反論する。
「ボストンバッグの中身を見せてくれ」
「別にいいけど、開けるのは私」
「なんでだよ?」
「下着とか入ってるから」
「そ、そっか……! なんかごめん……いや、下着とかいらないだろ?」
「私は死ぬまで、人としての尊厳を保っていたいの」
「途中の店で探せばいいだろ?」
「時間のロスになってもいいの? 父母ヶ浜までタイムリミットぎりぎりなのに」
「うっ……俺が悪かったです」
「わかればよろしい」
 バッグを開け、地図、ノート、コンパスを取り出す。
 続いてカセットコンロ、ボンベ、レトルト食品。携帯浄水器に折りたたみ水タンク。
 ライター、懐中電灯、救急セット、虫よけスプレー、タオル、寝袋……。
「おお、使えるものばかり……ってか、鈴木も制服で行くんだな」
 予備のセーラー服とスカートを見て、昴くんが尋ねる。
 暴漢対策には男物の長袖長ズボンが安全だろうが、父の作業着はサイズが合わず動きにくいし、夏の私服は連日の野宿や洗濯に耐えられそうにない。
 三年間着倒す前提の制服なら丈夫で乾きやすく、生き残った大人たちに「ただの学生」だと警戒を解かせる身元証明にもなる。
「昴くんも制服だね。いいと思う」
「薄くて軽いから予備の制服もリュックに入ったよ。……ん、バッグの底に敷いてるの、なんだ?」
「本」
「ほん?」
 私は、しぶしぶ取り出して床に並べる。
「『大災害サバイバル術』『初心者向け キャンプの楽しみ方』『子供向け 怪我の手当のお勉強』……」
「必要でしょ?」
「役に立ちそうだけど……あとは『はじめての妊娠出産安心ブック』……? 鈴木、妊娠してんの?」
「してない!」
「じゃあ、なんで?」
「旅の途中で妊婦さんに出会うかもしれないでしょ?」
「……変なヤツだな」
「今さらどう思われてもいい」
 他にも『武術の身体の使い方』や『ローマの歴史大全』など。文庫本サイズだから邪魔にはならない。
「本の知識は本当に大事なんだから」
「それ、ダジャレか?」
「……本気で怒る」
「悪かったよ! でも、ローマの歴史は絶対に必要ないと思うぞ……」
 最後に、もう一冊取り出す。
「……あ、『名医が教える心臓の教科書』。こんな本、どうして……」
「お爺ちゃんが昴くんと同じ病気だったの。旅の休憩中に読んでおくから」
「……そっか。なんかごめんな……」
 謝るようなことじゃないのに。
「昴くんこそ見せてよ、持っていくもの」
「おう」
 昴くんが広げたリュックの中身は――携帯ゲーム機、スマホ、イヤホン、モバイルバッテリー、ぼろぼろになった銀河系の写真の下敷き……。
「……父母ヶ浜、本気で行く気あるの?」
「ああ本気だ」
「ゲーム機なんて数日で電池切れると思うけど」
「一日一分、画面を眺めるだけにするからいいんだよ」
「……銀河系の下敷きは? 勉強でもする気?」
「いる! 俺の心の潤いに絶対必要なの!」
「……スマホはいらないでしょ? ネット使えないのに」
「スマホは青春の象徴だから」
 胸を張って笑う昴くん。小さくて軽いし……もういいか。
 あとはサマーパーカー、Tシャツ、寝袋、サバイバルナイフ。実用的なものもちゃんとあった。
「このナイフ、かっこいいだろ? ベルトの後ろにつけられるんだぞ」
 男の子だなぁ……。
 そして、いくつものピルケースが出てきた。
「薬のこと教えて。常備薬と発作時の頓服薬、二種類あるよね?」
「こっちが常備薬で四種類。こっちは胸が苦しくなったり動悸がしたときに飲む緊急用だ」
 服薬量を聞き、お爺ちゃんのものと比較する。
「飲む量は、お爺ちゃんより少ないね。よかった」
「俺は軽度から中程度の間だから、無理しなければ死ぬことはないんだ」
「……でも、その無理を今からするんでしょ?」
「ちゃんと心臓の様子を確認しながらな……」
 昴くんは胸元をぎゅっと握ってうつむいた。
 表情に落ちた影は一瞬で、
「まあ、ペース配分するさ!」
 すぐに明るい顔に戻る。強がらなくてもいいのに。
「食事は塩分控えめがいいよね?」
「鈴木が作ってくれるのか!?」
「昴くん、料理できるの?」
「無理。まじ無理」
「じゃあ私の役目。塩分控えめで作るね」
「味は濃いめが好きなんだけどなぁ」
「心臓、大事にして」
「へーい」
 ペース配分やルート設定は私の役目だ。しっかりと彼をサポートしよう。
「で、宿はどうするんだ、鈴木? 野宿、できるか?」
「したことないけど必要なら。でも、今は避難区域がたくさんあるから」
「避難区域ってあれだよな?」
「住民が家から離れて体育館などに集まっている区域。空き家が多いはずだから使わせてもらおう」
「待ってくれ。なら、みんながいる場所に泊まればいいんじゃないか?」
「人が集まる場所は避けたいの。どこに悪意が潜んでいるかわからないから」
 警察も消防も機能していない世界。悪いひとはやりたい放題だ。幸い、そういった悪意に出会ったことはないけれど。
「悪意、か。確かにな。鈴木もいるしな」
「私を襲おうなんて奇特な人はいないよ」
「なに言ってんだ。鈴木は充分かわいいだろ?」
「はいはい。お世辞でもありがと」
 昴くんは照れくさそうに視線を泳がせながら、「お世辞じゃないんだけどなぁ」と小さく呟いた。
 無神経だけど、いい人でもある。
「人がいないのを確認して家に入る」
「どうやって入るんだ?」
「窓にガムテープを貼って叩き割る。大きな音もしないし破片も飛び散らないから」
「へぇ、詳しいな。泥棒やったことあんの?」
「ほんとばか!」
 妊娠だの泥棒だの、私をなんだと思っているのだろう。
「映画で観ただけ! どうしても空き家が見つからず野宿するときは交代で見張りね」
「夜更かしは得意だ」
「……苦しくなったら絶対に私を起こして」
「大丈夫、任せとけって」
 なんだか彼は無理しそう。だから、できるだけ野宿は避けよう。
「ん、これなに、昴くん?」
 ポケットサイズの小さなフォトアルバムに手を伸ばす。
「それはだめだ!」
 昴くんに奪われてしまった。
「勝手に見るなよ」
「見られたくないものなの?」
「……気が向いたら教えてやる」
 なら無理に見る必要もない。
 広げた荷物をそれぞれバッグへしまい込む。
「どうする、昴くん? もう夕方だし明日の朝に出発するのが無難だけど」
「俺は今すぐ出たい。でも、鈴木は急だったろ? 最後にこの家で一晩過ごしてからでもいいぞ?」
 ……気を遣ってくれているんだ。
 でも、もともと死ぬつもりで昼前に出た家だ。今さら未練はない。
「ううん。日数はギリギリだから今すぐ行こう」
「……そっか。ありがとな」
 立ち上がり、昴くんが先に靴を履いて外へ出た。
 私も靴を履き、家の中を振り返る。
 昼前は何とも思わなかったのに――
 薄暗い玄関から見上げる廊下の先。
 父の部屋、母の部屋、寝室、二階の私の部屋。
 そして、リビングのテーブルの上には、置き去りにされた母の手帳があった。
 開かれたページに走る見慣れた走り書き。
『広域災害医療支援(DMAT)要請先:瀬戸内・観音寺ブロック』
 看護師の母は医療チームとして招集され、娘よりも見知らぬ誰かを助けることを選んで遠い街へ行った。
 私を置いて。
 自分はその程度の存在だったのだ。
 なのに――育った家を見つめていると、不意に切なさがこみ上げる。
 節分の日に父が作った鬼の仮面が怖くて大泣きしたこと。
 遠足に行きたくなくて母の足にしがみついていたこと。
 初めて母と大喧嘩した翌日、母は私の大好きな少し甘めの厚焼き玉子を作ってくれたこと。
 私が反抗期になってしまって、家族イベントは減ってしまったけれど。
 大学生になれば、また家族でお祝いできる未来が来ると思っていた。
 そんな思い出も、地球と一緒に砕け散る。

 ――ここには、もう戻らない。
 戻れない、じゃない。
 戻らない。

「……ありがとう。さよなら」
 そして、私は玄関を出た――