セカイが終わるその日、ぼくらは永遠の環を結んだ

 ――この地球は、滅びない。

 九月一日。朝。
 眠い目を擦りながら掃き出し窓のカーテンを引くと、寄り添うように昇るふたつの太陽が、住宅街の屋根の向こうから澄んだ薄金色の光を投げかけてきた。
 清涼な風が吹き抜ける九月一日。白い主星と柔らかな橙の伴星に照らされ、吸い込まれそうな夏の青空には、ふたつの光を受けて立体的な陰影を帯びた白い入道雲が、光の峰のように高く高く湧き立っている。
 寄り添い合う夫婦のような連星は、夕暮れになると重なって優しいひとつの光へと溶け合う――天文学で『太陽の結婚式』と呼ばれる特別な一日。
 フローリングの床に落とす私の影は、淡くピントのずれた二重の輪郭を描きながら、穏やかな世界の始まりを告げていた。
 ――そう、告げているのだが。
「ふわぁ……あと五分……」
 私は大あくびをしながら柔らかなベッドへ身体を再び沈めた。
 その直後――勢いよく部屋のドアが開いた。
「寝坊禁止!」
 ああ……微睡みを楽しむ時間が一瞬で終わってしまった……。
「今日から二学期でしょ? 食っちゃ寝する夢のような夏休みは終わり。ほら起きた起きた!」
 看護師のお母さんが私の腰に巻き付けたタオルケットを無情にも剥ぎ取った。
 仕方がないので上半身を起こす。
「朝ご飯は、あんたの大好きな少し甘めの厚焼き玉子だよ」
「厚焼き玉子!」
 ふわふわとろとろの味が口の中で再生されて、眠気は頭の中から押し出された。
 お母さんがゆっくりとドアを閉めて部屋から去り、私はベッドから降りる。
 ……あ、あれ? なんだか身体が重い。
 そういえば起きた瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚があった。
 ――懐かしくて、切なくて、泣きたくなるほどあたたかい、とても長い夢。
 カーテンを開けた瞬間、その輪郭は朝の光の中に溶けて消えてしまったけれど、まぶたの裏に焼きついた熱だけが、まだ微かに残っている。
「……なんだろう?」
 私はなぜか自分の心臓に触れた。
 規則正しい、トクン、トクンという鼓動。この音が、どうかしたんだろうか?
 考え込んでいると、スマホにメール着信の通知が表示されていることに気づいた。
「件名が、空白? アドレスも……知らない」
 なんだか今朝は起きてから奇妙なことばかりだ。
「間違いメールかな。消しとこ」
 ……指がとまった。なんとなく。
「花奈ー! 遅刻するわよー!」
 階下からお母さんの声が届く。
 確認は後回しにして、私はクローゼットを開いた。


 リビングではお母さんの厚焼き玉子が私の分だけ多めに並べられていた。
「あ、お父さん。新しい財布プレゼントするから、マジックテープの財布は捨ててね」
「ん」
 ぶっきらぼうな返事。寡黙な警察官のお父さん。でも、街の人から慕われていて、私の誇りでもある。
「……絶対捨てないわよ。最高のお守りだっていってたから」
 お母さんは具だくさんのお味噌汁を私、お父さん、と順番に並べる。
「んもう」
 なんだかとっても恥ずかしい。でも、嬉しい。
 少し耳を赤くしたお父さんが、「いただきます」と小さく呟いて熱々の味噌汁をすする。
 お母さんが着席したので、私もそれに倣って、いただきますと手を合わせた。
「……花奈」
「なに、お父さん?」
「……好きな人ができたら教えてくれ。お父さん、覚悟しておくから」
「えっ!? なに突然!?」
「昨日見たドラマの影響よ」
 お母さんとお父さんは今でもラブラブで、夜一緒にドラマを観たりする。
「安心して、お父さん。そんなひと、いないから」
 自分で言っててむなしくなった……。
 テレビからは女子アナウンサーが、オーロラ速報を嬉しそうに語っていた。
「夕方、『太陽の結婚式』と呼ばれる天体現象のとき、東の空では盛大なオーロラを見ることができるでしょう。とっても美しい光景です。楽しみですね」
 夏の終わりから冬にかけて、空にはオーロラが浮かぶ。
 今年は少し早い。いつもは9月半ばなのに。
 なにか特別なイベントでもあるのかもしれない。


「いってきまーす」
 玄関を出て、ごく普通の住宅街を歩きながら、二学期初日の学校へ向かう。
 久しぶりのセーラー服が、なんだか懐かしかった。
 あれ? つい最近まで着ていたような……?
 ふたつの太陽から放たれる日差しを手で遮って、遙かにそびえ立つ入道雲を見上げる。
 よくわからない感情になっているのは、きっと夏休みが終わった寂しさからだろう。
 不思議なデジャヴをごまかしていると、茶髪ロングのヤンキー風少女が前からベビーカーを押して近づいてきた。
「命の恩人ちゃんや! おはよーさん!」
「だ、だから、それはおおげさだってば、未来……」
 私は産気づいている未来のそばで救急車を呼んだだけなのに、彼女は私を恩人扱いする。
「なに言うーとん? 救急車が来るまでの間、パニクるウチの背中、ずっとさすって『大丈夫、大丈夫だから』って手を握り続けてくれたやん」
 未来は強い瞳で、まっすぐに私を見つめる。
「救急隊の人が来るまで、ウチ、花奈ちゃんがおらんかったら怖くて泣き叫んでたわ。すっごい心強かってん。でもな……」
 未来は私の手を取ると、さっきまでの強気な目元をふっと緩ませ、泣き出しそうなほど弱々しい色を浮かべた。
「……ごめん、花奈。アタシが力いっぱい爪立ててしもたから、まだ手に傷が……」
「気にしないで。これ、私の勲章だから」
 未来を慰めるためじゃなく、私は本気でそう思っている。
 この傷跡は私が誰かを助けることができた証。
「それにちょっとずつ治ってるから。お母さんもそのうち消えるって言ってた」
「ホンマ!? ……よかった……本当に」
 未来は心から安堵する。荒々しいヤンキーっぽい見た目に反して、とっても繊細。そして優しい。
 私は彼女にまた笑って欲しくて、話題を変えることにした。
「未花ちゃん、おはよ」
 恩義を感じた未来は私の名前の『花』と未来の『未』を取って、この子を『未花』と名付けた。
「あー」
「わっ、返事してくれた! かわいー」
「やろ~? うちの娘が世界で一番かわいいわ!」
 想定通り、未来に笑顔が戻った。
「おっと。女子トークもここまでや。ほな、夜勤明けのダンナを迎えに行ってくるわ!」
 元気を取り戻した未来は、ベビーカーを押して近所のバス停へ向かっていった。


 学校までだいたい三十五分。渡良瀬川の土手道を進み、このあと橋を渡って巨大な校舎が並ぶ高校へ向かう。
 下の道路では、仲良く手をつないで老夫婦が歩いていた。
 私が小さい頃から仲良くしてくれるお爺ちゃんとお婆ちゃん。
 こないだの夏祭りでは、藤の花のかんざしを私にプレゼントしてくれた。
 藤の花の浴衣を着て、そのかんざしを差し、デート……なんて話はなく、焼きそば、たこ焼き、リンゴ飴と定番の味を楽しんだ。
 そして、食っちゃ寝の成果は、見事数字となって現れていた。
「ダイエットを兼ねて徒歩通学にしたけど……やっぱり申請出して、明日から自転車にしよっかなぁ……」
 でも、お母さんの厚焼き玉子、おいしくて朝からご飯を二杯も食べちゃったし……。
「あっ」
 カバンにつけていた鈴のストラップが外れて土手の斜面へ転がり落ちてしまった。
 幸い、落ちた場所はしっかりと視認できたので、足場を確かめながら降りていく。
 しゃがんで鈴のストラップをつかんだ。
「……あっ。四つ葉のクローバーだ」
 私は根元から摘み取って、そっとほぐす。
 柔らかくなったところで、茎を輪っかにした。
 四つ葉のクローバーの指輪が完成した。
「花言葉は……“幸せ”だっけ」
 せっかくだから、ちょうど空っぽになったフリスクの薄いスライドケースへ大切にしまい込んだ。
「あ、やばっ。遅刻……!」


 一ヶ月半ぶりの教室は、これから二学期が始まるのかと思うと懐かしいとは思えなかった。
 でも、仲のよい友達の笑顔は嬉しい。
「おはよー、花奈」
「おはよー」
「花奈、久しぶりー。恋したー?」
「したわけないじゃん。食っちゃ寝するだけの夏休みだったよ」
 我ながら言っていて、むなしくなる。
 推し、SNS、いいねの数。そんな話を手短にかわして、私は自分の座席に着いた。
 二階の教室だから、夏の終わりの空が広く感じる。
 綿飴みたいな雲の間からは、ふたつの太陽がまぶしさを競い合うように並んでいる。
 夕方には重なり合ってひとつになる、夫婦の星。
「……私にもそういう人が現れないかなぁ」
 実際、心の中に、ずっと誰かを待っているようなぽっかりとした穴がある。
 意を決して友達に話したら、恋に飢えすぎじゃない? って笑われたけど。


 四時間目のチャイムが鳴り、教室が昼休みのざわめきに包まれる。
 私は窓辺へ歩み寄り、吹き抜ける涼風に髪を揺らしながら空を見上げた。
 澄み渡る九月の青空の中央、白銀の主星と柔らかな橙の伴星が仲睦まじく並んでいる。
 一日のなかで最も距離を広げた二連星のあいだを、銀色の旅客機がすうっと一本の白い飛行機雲を引いて横切っていった。
 遠くの地平に湧き立つ入道雲も、ふたつの光を受けて立体的な峰を浮かび上がらせている。
 ぼうっと眺めていると、ブブッ、とポケットに入れているスマホが震えた。
 取り出して画面を見るとメールの着信通知が表示されていた。
 件名が空白になっている。今朝と同じだ。
「……また?」
 念のため、アドレスを見てみる。
「……すばる、ほしか……?」
 知らない名前。でも気になった。
 私は、とんとんと画面をタップしてメールを開いてみる。
 そして、朝に届いたメールと、今届いたメールを続けて確認する。
『俺の相棒はすごい。頼りになる。本当は心細かった。相棒に出会えてよかった。これからの旅が楽しみだ』
『クラスメイトの女の子と一緒に旅をしている。とても俺を助けてくれていて嬉しい。でも、できれば朝、もう少し寝かせて欲しい』
 ――制服を着た男子高校生の後ろ姿、帽子、リュック……青空の下、廃線を歩いている……私はその後ろを……。
「えっ?」
 ……今のなんだろう? ……白昼夢?
 今朝、長い夢を見たっぽいから、その名残かな。
「花奈ー、一緒にお昼食べよー」
「あ、うん」
 私は自分を納得させて、スマホをポケットへしまい、お弁当を持って友達の机へ移動した。


「二学期初日にテストは法律で禁止にして欲しい……」
 数日前から復習をしたけれど感触は、いまいちだ。
 成績にうるさい両親じゃなくてよかった。
 窓の外はすでに夕暮れ。
 寄り添い合うふたつの太陽が西の稜線へと傾き、琥珀と薄紫が溶け合う長い黄昏が世界を優しく染め上げていた。
 見惚れていると、ポケットの中でスマホが立て続けに震えた。
 画面を見ると……やっぱり件名が空白のメール。アドレスも昼休みに確認したものと同じ。
 私は困惑しつつ、画面をタップして文面を表示した。
『渋谷の海でクラスメイトの女の子と海水浴をした。女子と海で遊ぶ!という夢が叶った! これも鈴木のおかげだ。水着、めっちゃかわいかった』
「……鈴木? 私!?」
 ――すっっっげぇかわいい!! めっちゃ似合ってる!
 ――髪もくくったんだな! それもすごく似合ってる! めっちゃいいっ! 最高じゃん!
「……なに、今の?」
 水着姿の男子がすごく褒めてくれていた。相手は……私?
「……なに、これ」
 意味がわからない。でも――
「……懐かしい?」
 遠く、霞がかかった記憶。でも、狂おしいほど大切な――
 私は次のメールの文面を確認する。
『鈴木が出産を手伝って、無事に赤ちゃんが産まれた。ほんとすげぇ……。鈴木は誰かの脇役なんかじゃない、ちゃんと誰かを守れる主人公だ』
 脇役じゃない……主人公……。
「ねぇ、鈴木花奈ー?」
 突然、声をかけてきたのは、いつも教室の中心で大きな声で笑っているグループの女子だった。
 教室の真ん中に陣取って、クラスの空気を支配しているいわゆる一軍の子たち。
「動画を撮りたいからカメラマンやって」
「どうせ暇なんでしょ?」
 私は一学期もこんな感じで、彼女たちに利用されていた。
 けれど、それじゃだめだと瞬時に思って――
「ごめん。今、それどころじゃないから」
 とはっきり断った。
「えー……なんか花奈、いつもと違う……」
 いつもと違う私の気迫に気圧されたのか、彼女たちはバツが悪そうに離れていった。
 ……あ、あれ? どうして断ることができたんだろう?
 今までなら、嫌だなぁと思いつつ、笑顔を取りつくろってカメラマンをやってたのに。
 自分に自信がわいてきたというか……断らないと、あの人にふさわしい自分になれないっていうか……。
 でも……あの人って……。
「どうしたの、花奈?」
「帰らないのー?」
 いつも一緒に帰っている友人たちが声をかけてくれた。
「ごめん、先に帰ってて」
 私はスマホを持ったまま、早歩きで廊下に出た。
 教室を出て帰ろうとしているひとたちの間を、逆方向に進んでいく。
 思い出せそうで思い出せない。
 甘くて切なくて、苦しくて涙が出そうになる。
 でも、絶対に忘れてはいけない記憶――
 そんな気がするのに……。
 気づけば、誰もいなくなっていた。
 ――ブブッ、ブブッ、ブブッ。
 メールが三通、届いた。
 私はすぐに中身を確認する。
『また夢が叶った! 浴衣を着た女子と夏祭りデート。浴衣を着たあいつは本当にかわいかった。俺は、好きなのかもしれない、花奈のことが』
 ――これって、完全に浴衣デートだよな……?
 夏祭り……藤の花のかんざし……鈴のストラップ……夏の色の花火……甘く切ない夏の夜の記憶。
『こんな俺に恋人ができた。俺の心臓を好きだと言ってくれた花奈。世界で一番かわいいお嫁さん。四つ葉のクローバーの指輪、一生大切にする。残りの時間を花奈と一緒に生きたい』
 ――四つ葉のクローバーの指輪。
「……えっ? 朝、私が作った……」
 そして、震える指で開いた最後のメール。
 そこに刻まれていた日付と文字に、息がとまった。


 8月31日
 花奈と一緒に、父母ヶ浜に着いた
 静かな海に空が映って、信じられないくらい綺麗だ

 花奈
 俺の旅に付き合ってくれて、ありがとう
 俺を、世界一幸せな旦那様にしてくれてありがとう

 花奈と出会えて、俺の人生は満点だった
 セカイで一番大好きだ


 渋谷の109、富士山のふもとのバーベキュー、ドライブデート、未来の出産、地球最後の夏祭り、しまなみ海道の告白、四つ葉のクローバーのプロポーズ、そして――
「父母ヶ浜……!」
 ――星加、昴。
 ……私の大切な人……恋人……旦那様……!
「ああぁ……ああぁぁぁ……!!」
 ――昴、昴……昴!
 今すぐ会いたい。
 会いたくて会いたくて胸が苦しい。
 息ができない。
 立っていられない。
 すとんと廊下に膝をつく。
 昴を求める気持ちが全身をかけめぐる。
 身体と心と、すべてが昴を求めている。
 苦しい……苦しいよ、昴ぅ……。
 前の地球ではクラスメイトだった。
 でも、今の私のクラスの名簿に『星加』なんて名前はない。
 ……じゃあ、別のクラス? 学年違い? それとも――
「どこ……どこにいるの、昴――!」
 そうだ、メールに返信すれば……ううん、だめ。
 このメールは滅びた地球から送られたメール。
 なぜ、私のスマホに届いてるのかわからない。
 けど、私がこうして“太陽がふたつある地球”に生まれ変わることができたのだから、このメールも私の知らない物理法則によって届いてるんだ。
 なら、返信しても、太陽がふたつあるこの地球の昴には届かない。
「今すぐ会いたい……会いたいよ、昴……」
 スマホを抱いて、廊下にうずくまる。
 涙が……涙がとまらない……。
 ――ブブッ。
 通知を見ると件名は空白、メールアドレスには見覚えのあるアルファベット――subaru_hoshikaの文字が。
「……えっ? ……なんで?」
 私の記憶だと、さっきのメールは父母ヶ浜へついてからのメールだから最後のはず……。
 なのに、どうして?
 困惑する気持ちをすぐに追いやり、私はメールの文面を表示した。
『屋上で待ってる。このメールを見たらすぐに来てくれ』
 ……そうだ。
 しまなみ海道を渡ったあと、お遍路さんと間違われて、空き家でゆったりとした時間を過ごしていたとき――

 ――告白するなら、しまなみ海道じゃなくて……やっぱり学校の屋上がいいな。
 ――屋上? ありきたりじゃない?
 ――いいんだよ、青春なんだから。放課後の夕焼けの中で、フェンスの横で「好きです、付き合ってください」って言うの。良くない?

「――昴!!」
 私は悲鳴のように叫んで、立ち上がる。
 そして、全力で屋上を目指す。
「はぁ、はぁ、はぁ!」
 途中で、男性教諭とすれ違った。
「鈴木ー、廊下は走っちゃだめだぞー」
「ごめんなさい! あとでお説教でもなんでも聞きますから、草彅先生!」


 かつての私は、誰でもない透明人間だった。
 教室の隅で、誰の特別にもなれず、自分の人生の主役にすらなれなくて、消えてしまいたかった。
 けれど、あの日々が私を変えてくれた。
 ――次に生まれ変わったときも、私は“私”がいい。
 あの人の隣で笑って、泣いて、好きだって伝える――そんな自分が、世界で一番好きだから。
 だから、私はここにいる。
 私という存在で、もう一度あなたに出会うために――


 重い鉄の扉を押し開けた瞬間、生温い夕風とともに、圧倒的な光の洪水が視界を埋め尽くした。
 山吹色に溶けていく夏の終わりの夕暮れ。
 西の地平低く傾いたふたつの太陽が、街並みのすべてをあたたかな琥珀色へと染め上げている。
 白銀だった主星は、白金を帯びた淡い琥珀に。
 柔らかな橙の伴星は深く沈んだ濃い茜色に。
 そのふたつの星が今、互いの引力に引かれるようにゆっくりと重なり合おうとしていた。
 見上げる東の空では、夜を迎え始めた深い群青を背景に、翡翠色のオーロラが薄い絹のカーテンのように音もなく揺らめいている。
 泣けるほどに美しい空の下――
「……もうちょい、こう……あっ! できた! なんとか指輪の形になったぞ……」
 制服姿の男子高校生が、地べたに座って震えながら背中を丸めていた。
「……はぁ。気づいてくれるかなぁ、花奈? まさか変質者扱いされてないよなぁ……やっぱりメール、送るんじゃなかったかなぁ……」
 不安げにつぶやくと彼は立ち上がり、自分のズボンをぱんぱんと払った。
「……花奈。頼む。思い出してくれ、花奈……頼む……!」
 ――たとえ身体が原子に砕かれたとしても、絶対にまた出会える。
 あの時昴が言ってくれた言葉が、胸の中で蘇る。
 ああ……あれからどのくらいの時間を、どのくらいの距離を原子の私と昴は旅してきたのだろう……。
 あまりに懐かしい……私の素敵な旦那様――
「昴ぅ――!!」
 呼ぶと、愛しの旦那様はこちらへ振り返った。
 でも、涙のせいでその姿ははっきり見えない。
「……花奈? 花奈なのか!?」
 もっとはっきりとその姿をとらえたくて、私は駆け出す。
「昴……昴っ……!」
「花奈!」
 屋上の中央で、昴は私を包むように受けとめてくれた。
「俺がわかるか、花奈!?」
「うん……うん! わかるよ! でも、気づくのが遅れてごめんなさい……!」
「ばか。こういうときは、先に気づいてくれてありがとう、だろ?」
 私は息を呑む。
 心臓病のせいで謝ってばかりの昴に「ごめんは聞きたくない。ありがとうって言って」と私が伝えたことを、彼は覚えていてくれたのだ。
「……うん。思い出してくれてありがとう、昴」
「ああ、やっと会えた。俺の恋人……俺のお嫁さんだ」
 愛おしむように、懐かしむように昴は私にほおずりをする。何度も、何度も。
 だから、ちょうど私の目の前には、彼の――心臓。
 ……ああ、生きてる。昴の心臓が、ちゃんと動いてる……!
 弱々しく震えていたあの鼓動じゃない。
 温かくて、力強くて……セカイで一番、素敵な心臓の音……!
「昴、心臓……苦しくない? 大丈夫なの?」
「ああ、全然平気だ。……花奈のことが好きすぎて、ちょっとうるさいくらいだけどな」
「もう……。私も昴の心臓が大好きだよ」
「両想いだな。へへ……」
 再会の喜びの中、私は昴を見上げて尋ねる。
「昴は、いつ思い出したの?」
「俺はさ……八月三十一日の夜に、全部思い出したんだ。俺たちが灰になったのは八月三十一日の夕方だからかもしれない」
 そう……私たちは八月三十一日の夕方、あの地球で幸せな灰になった。
「そうだ、昴! あの地球の昴から、時空を超えてメールが届いたの!」
「……そ、それは、花奈に届けばいいなって思って、俺が今朝から送り続けてたんだ……」
 とっても申し訳なさそうに昴は後頭部に手を当てながら語る。
「……あの地球で花奈が使ってたメールアドレス、教えてもらったことがあっただろう? それも思い出したから、もしかして今も使ってるかもって……」
「高校に入ってスマホを新しくしたとき、アドレスの文字列が、なぜかそれ以外思いつかなくて……」
「でも、どんな内容のメールを送ればいいかって、めっちゃ悩んで……結局、あの旅で俺が“違う地球の自分”宛てに送ってた日記の内容を、必死に思い出して打ってみたんだ。さすがに一言一句同じってわけじゃないけどな」
「そう、だったんだ……」
「だから、メールが宇宙を超えて、時間も超えて、届いたわけじゃないんだ」
「……私、前の地球から届いたんだって思ってた」
 メールに返信すれば、すぐに昴に会えたんだ。
 なんだか急に力が抜けた。
「ははっ。それ、どんなオカルトだよ」
 昴は小馬鹿にするんじゃなくて、楽しげに笑う。
「私の台詞を取られた……。でも、それって時空を超えてるのと同じじゃない?」
 私も笑いながら反論する。
 結果的に、あのメールはいくつもの宇宙を超えた時空のタイムカプセルだ。
「まあな。無限の引力で、俺たちは引き合ってるからな!」
 私はうなずくと同時に昴の胸にこつんと額を当てた。
 すると、昴は、はぁ~っと息を吐いた。
「……ほんと、思い出してくれてよかったぁ! あのメール、無視されるかもしれない、いや変質者扱いされるかもしれないって、めっちゃ怖かったんだ!」
「普通なら変質者扱いだよね」
「だろ~? だから、めちゃくちゃ不安だったんだ……ああいうメールを送るの。でも……直接会いに行って『誰ですか?』って言われたら、俺、立ち直れないと思ったから……!」
 ああ、昴だ……無邪気で、無垢で、こんなふうに私のことを、せいいっぱい想ってくれる昴だ。
「でもさ、花奈が来てくれたタイミング、ばっちりだよ。ほら、見て。さっき作ったんだ」
 昴はポケットからピルケースを取り出した。
「えっ? 薬? でも、元気なんじゃ……?」
「へへ。見てくれ」
 ピルケースを開ける。そこにあったのは――みずみずしい“四つ葉のクローバーの指輪”。
 枯れていない、鮮やかな生命の輝きを放つ四つ葉のクローバーの指輪だった。
「あっ、私も!」
 私はポケットに手を入れる。
 丸みを帯びた角の感触。
 ふと、銀色のシートを思い出した。
 私とともに旅をした“もうひとり”の仲間。
 それが今、プラスチックのフリスクのスライドケースになっている。
「実は私も……」
 ポケットからフリスクの薄いスライドケースを取り出す。
 カチリとふたを開けると、そこには――
 それを覗き込んだ昴が、ぽかんと目を丸くした。
「……四つ葉のクローバーの指輪……俺が作ったのより綺麗だ……」
「まあね。ふふっ」
 ――これが、俺たちがお互いを見つけるための目印だ。違う宇宙へ行っても、絶対に手放すなよ。
 ――……うん。うん……! 絶対に見つける。私が昴を見つける……!
「あのとき……結婚指輪をはめるのは、次の世界だって言ったよな」
 昴が私の左手を取る。
 その薬指に、みずみずしい青葉の輪が、あたたかな感触とともに滑り込んできた。
「俺たち、ちゃんと次の世界でお互いを見つけたぞ、花奈」
 視界が滲んで、夕暮れの光がこぼれ落ちる。
 今度は私が、昴の震える左手を取った。
 彼の薬指に、私の編んだクローバーの指輪をはめる。
「……うん。見つけたよ。私の、世界一の旦那様」
 あの日、父母ヶ浜。
 枯れてしまっていた指輪の約束は、今、みずみずしい緑の命を宿して、私たちの指先を結んでいた。
「大人になったら、ちゃんとタキシード着て、花奈にウェディングドレス着せて、本物の結婚式を挙げる。絶対に約束する」
 昴は私の両手を包み込み、まっすぐに瞳を覗き込んできた。
「だから――これは、俺たちだけの、世界一早い結婚式だ」
 翡翠色のオーロラが、まるで空から降りてきたウェディングヴェールのように、私たちの頭上で優しく揺らめく。
「花奈。……俺のお嫁さんになってくれますか」
「……はい! 喜んで……っ!」
 空には沈みかけているふたつの太陽が、綺麗に重なってひとつになる。『太陽の結婚式』だ。
「あっ」
 昴が、折れそうなほど強く私を抱きしめる。
「もう二度と離さない……」
「うん。私も」
 骨がきしむほど強く、強く抱きしめ合う。
 彼の胸元から、力強く脈打つ、セカイで一番愛しい心臓の音が聞こえる。
「花奈。……花奈。花奈!」
 何度も、何度も、私に命をくれるように名前を呼んでくれる。
 もう私は、教室の隅の透明人間なんかじゃない。この人の世界の、たったひとりの主人公だ。
 ――明日、地球が滅ぶとしても、今日リンゴの木を植える。
 かつて教室で聞いたあの言葉の意味が、いま、胸の奥にすとんと落ちていく。
 滅びの白光を見つめていたあの日々を越えて、私たちは今日、この世界に確かに未来を植えたのだ。
 今日は九月一日。
 この地球は今日も、そして明日も滅びない。
 太陽は昇り、世界は続き、私たちは笑いながら一緒に生きていく。
「大好きだよ、昴」
「俺もセカイで一番大好きだ、花奈」
 ひとしきり抱きしめ合ったあと、私たちは少しだけ身体を離す。
 重ね合わされた左手の薬指で、ふたつのクローバーがみずみずしく息づいている。
 ふと視線を落とせば、足元に伸びていたふたつの影が、ゆっくりと輪郭を溶かし合い、やがてたったひとつの濃い影へと重なり合っていた。
 仰ぎ見た西の稜線では、ふたつの太陽が溶け合い、世界を優しい祝福の光で染め上げている。
 反対側の群青の空には、翡翠色のオーロラがどこまでも揺れていた。



 光と光がひとつに重なる世界で、私たちは無限の引力に抱かれながら、永遠の明日へ歩き出す――