セカイが終わるその日、ぼくらは永遠の環を結んだ

 ――本当の終末は突然訪れた。

 八月三十一日。十二時二十七分。
「ミカンジュース、うめええぇぇ!」
 懐かしい制服に戻った昴が子どもみたいに叫んで、私は思わず笑ってしまった。
 ちなみに、私も懐かしい女子高生スタイル。ゴールはこの服で、と昨日話し合ったのだ。
「ほんと、おいしいね」
 ひとくち飲むと、柑橘の香りがふわっと広がって、喉の奥に甘酸っぱさがすとんと落ちていく。
 この味が、今日で終わるなんて信じられない。
 防波堤に腰掛けて、スカイブルーの海を見ながら、オレンジ色のミカンジュースをごくごくと飲む。
 とろりとした濃い甘さが、乾いた喉をキュッと心地よく締めつける。
 波は穏やかで、風は涼しい。
「……夏の味だな、これ」
 二リットルも入っている大きな瓶を、私は両手で、彼は片手で持ち上げて、また飲む。
 昴の横顔が太陽に照らされて金色に見えた。
 愛媛のミカンジュースは甘いだけじゃない。
 つぶつぶの果肉が舌に触れて、少しだけ苦味があって、でも最後に残るのは“もう一口飲みたい”って思わせる優しい後味。
「ねぇ、昴。私、この味、忘れない」
「俺も絶対忘れない。地球最後の日に、花奈と飲んだ味だから」
 ……もう、地球最後の日でも、そういうこと言うんだから。
 嬉しくて、胸の奥がぎゅうっと痛い。
「全部、飲んでやった!」
 昴は空を見上げる。
 どこまでも青い。
 この空があと数時間で燃えるなんて、誰も思わない。
「花奈。今日が最後でも……俺は今、めちゃくちゃ幸せだよ」
 胸がぎゅっと鳴る。
 でも、涙は出ない。
 今日は泣く日じゃない。
 私はミカンジュースをもう一口飲んだ。
 柑橘の甘さが、太陽みたいに広がる。
「……私も幸せだよ、昴」
 私は昴に肩を寄せる。
 ふたりの影が、防波堤の上で寄り添って揺れる。
 夏を舞台にした清涼飲料水のCM、そのワンシーンみたいに。


 ――とうとう父母ヶ浜まで、徒歩で四時間という場所までたどり着いた。
 隕石が落ちてくるのは夕方六時頃だと言われている。
 今はお昼。二時間ほどの余裕がある。充分、間に合う。
 あれからいくつかの総合病院へ立ち寄ったけれど、薬を得ることはできなかった。
 まさみさんが教えてくれた『香川で最後まで治療を続けている災害拠点病院』についても、出会った人に聞いてみたけど有力な情報は得られなかった。
 日数にはまだ余裕があったので、休憩時間を多めにとりながら、発作が起こらないよう気を配りつつ、歩みを進めた。
 途中で何度か自転車を見つけることができたし、なにより私たちをお遍路さんだと思った地元の人達が食べ物や水、宿まで提供してくれて、だから昴を消耗させることなく、ここまで来られた。
 私たちはずっと人の温かさに助けられてきた。
 地球が滅ぶとわかっていても心を失わない。
 柳のようにしなやかな強さを持っている人達の、なんと多いことか。
 そういう人達と触れあって、私はちょっと恥ずかしかった。旅立つ前、死のうとしていた私。なんていうか、ちょっと冷静じゃなかった。ちょっと、ね。


 オレンジ色のジュースを飲み干した昴は、次に水筒を手にする。
 ピルケースから薬を取り出して、水と一緒にこくんと流し込む。
「今のが最後だ」
 常備薬がとうとう切れた。
 そして、発作が起こったときに飲む頓服も、もうない。
「……昴」
「そんな顔すんな。父母ヶ浜まで、あと少しなんだろ?」
 私はうなずく。
 この長かった一ヶ月の旅のゴールまで、あと少し。
 今日は晴天。きっと美しく滅びの時を迎えることができるだろう。
「ここまで来られたのは花奈のおかげだ。薬を飲む量、歩く速度、ペースの配分、作ってくれる料理……全部花奈が俺のために……ありがとな」
「当然だよ。私は昴のお嫁さんだから」
「それでもお礼は言うものだろ?」
「そうだけど、まだ早い。父母ヶ浜に着いてからね」
「父母ヶ浜に着いたら、お礼を言いまくるぞ」
「……それもいいけど、好きって、たくさん言って」
 ふんわりと昴が笑う。真夏の太陽みたいなひとなのに、ときどき春のそよ風みたいに優しくなる。
「好きも愛してるも全部言う。覚悟してろよ、花奈」
「期待してる」
 ああ、私たちって世界で一番おめでたい夫婦だ。
 でも、それでいい。地球が終わるその瞬間まで、ずっとそうでありたい。
「花奈!」
 昴が空を見上げる。白く輝く無数の隕石。
 テレビのニュース映像で見た、空を埋め尽くすミサイルの群れそのものだった。
「こっちに向かってきている! 逃げるぞ!」
 昴が私の手を握り、住宅の影に入る。
 その直後、大地が揺れた。耳をつんざくような轟音。周囲の住宅が一瞬で瓦礫と化す。
 私が教室で体験した爆風よりもすさまじい。
 住宅の影に隠れていなければ死んでいた。
 音が、やんだ。
「昴、ケガはない!?」
「……ない。けど、くっ、そっ……こんな、ときに……最後の、最後で……」
「昴!」
 嫌な予感はしていた。昴の発作は彼が元気なときにも発症している。その原因って、やっぱり――
 ――隕石落下。
 私たちが旅立つ前、校庭に隕石が落ちた。その直後、昴は発作に苦しんだ。
 しまなみ海道を渡る前、隕石が因島大橋を破壊した。その直後、昴は発作に苦しんだ。
 隕石のショックが、彼の発作を引き起こしている。
 彼にとって、隕石こそが天敵なんだ。
 空を見上げると、隕石が次々とミサイルみたいに飛来している。
 この周辺だけじゃない。
 瀬戸の海の向こう側、本州のほうにも、私たちが旅をしてきた関西、東海のほうにも、九州のほうにも。
 日本中……いや、世界中に降り注いでいるんだ。
 こんなにも綺麗な日だったのに。
 私たちの最後の時間だったのに……!
「ふざけるな……! ここまで来て、こんなところで絶対に終わらせない……!」
「……は、花奈?」
「私は、隕石なんかに絶対に負けない! 昴のお嫁さんなんだから!」
 再び爆音が響く。一発、二発、三発、まだ続く。
 そんな中、私は地図を広げる。揺れでよく読めないけど、下調べはすんでいる。
 この先、観音寺の南部に大きな総合病院がある。
 今度こそ、薬を手に入れてみせる。
 周囲を見渡して、動かせる足を探す。
「あった!」
 民家の車庫に残された、一台の電動アシスト自転車。鍵は刺さったままだ。電源を入れると、液晶のバッテリー表示が点灯した。
「昴、つかまって!」
 息も絶え絶えの昴の身体を荷台に座らせる。意識が混濁しかけていて、自力で座るのがやっとといった様子だ。
 私は迷わず、一ヶ月間ずっと背負ってきたボストンバッグの太いショルダーストラップをカラビナから外した。
 ポケットの中には――かつて、“白昼夢”の入っていたそこには、お婆さんがくれたかんざし、未来たちが作ってくれた未花のぬいぐるみ、夏祭りで昴が買ってくれた小さな鈴つきのストラップ、そしてミカちゃんがくれた貝殻をすべて押し込む。
 どんな御守りよりも、ずっと強力だ。
 ボストンバッグを見下ろす。
 ――ありがとう。さようなら。
 私はショルダーストラップを昴の胸と私の腰に幾重にも回し、車庫にあった荷締めベルトも使って、ふたりの身体をぎゅっと強固に固定した。
「……花奈、重いだろ……ごめ……いや、ありがとう、花奈……」
 昴がちゃんと“ありがとう”って言ってくれた。嬉しい。私にますます力がみなぎる。
「私は昴のお嫁さんだから。このくらい当然でしょ。じゃあ、しっかり私に抱きついてて!」
 昴が力を振り絞り、私の背中に細い腕を回して額を押しつけてくる。
 背中に伝わる、激しく乱れた苦しげな鼓動。
 電源を入れ、アシストを一気に強にする。
「行くよ、昴。私が、絶対に助けてあげる!」
 次々と落ちてくる隕石の落下爆発に巻き込まれながら、私は狂ったようにペダルを踏み抜いた。
 モーターが悲鳴のような唸りを上げ、瓦礫の散らばるアスファルトを突き進む。
 背中から伝わる熱い息と、必死にしがみつく昴の温もり。
 ポケットの中で、鈴がちりんと鳴る。
 だから、絶対に間に合う。私は彼を連れて、病院までたどり着いてみせる!


 空はいつの間にか薄暗い灰色の雲に覆われていた。
「はぁ、はぁ、はぁ――……!」
 眼前には、廃墟となった街にたたずむ崩壊した大病院が、見ているこちらの心が折れそうなほど無残に建っていた。
 まるで巨大な力で斜めにえぐり取られたように崩れている。壁はぼろぼろで窓もほとんど破壊されている。近くに隕石が落ちて、吹き飛ばされたんだ。
 雲を破って落ちてくる隕石が、いたるところに落下している。爆音や振動が絶え間なく響いていた。
 自転車をエントランス前で滑らせるようにとめ、固定していたベルトを外す。
「昴っ、起きてる、昴!?」
「………………」
 返事がない。荒い息のまま、完全に意識を手放してしまっていた。
 このままだと本当に――地球よりも先に――
「違う! 私が昴を守るんだから!」
 私は脱力した昴の腕を肩に回し、必死に身体を支え、引きずるようにして廃墟になった病院の中へ向かっていった。
 薄暗い。壁が破壊されて部屋に設置されていたであろう寝台が廊下に転がっている。
 細かい瓦礫だらけで、足元が危うい。
 絶対に転んじゃだめだ。ここで転んだら、昴の命を落としてしまう。私が守るって決めたんだから。
「薬剤部……薬品庫……あった!」
 一階にあってくれてよかった。
 私はいったん昴を、薬剤部の前の床へそっと横たえる。
 かつて電子ロックだったであろうドアを、両手で引っ張る。
「っ……く……っ! ……開いてっ……お願いだから……!」
 開いた。
 でも、部屋が――なかった。
「そんな……」
 巨大な力で根こそぎ薙ぎ払われたかのように、床も壁も虚空へとえぐり取られていた。
 ぽっかりと空いた大穴の向こうに、鈍色の空が広がっている。
 隕石落下の爆風で吹き飛ばされたんだ……。
「ここまで来たのに……!」
 私は廊下に倒れている昴の心臓に触れる。
 鼓動が弱々しい。リズムがおかしい。
「昴! お願い! 返事して! お願い……だからぁ!」
 ぼろぼろと涙がこぼれる。
 嗚咽で顔がぐちゃぐちゃになる。
 このままだと本当に、昴、死んじゃう。
「お願い……誰か助けて……私の昴を助けてよぉ!」
「――誰かいるの!?」
 女性の声。
 振り返る。
 目が合う。
 私の人生で一番見た顔――
「……お母、さん……?」
「――花奈!? 花奈なの!?」
 どうして、とか、なんでここに、なんて考える余裕は一ミリもなかった。
「……助けて、お母さん。昴、死んじゃう……」
 お母さんはすぐに看護師の顔になった。
 すぐに膝を突いて、昴の手首に触れる。
「……脈が細い。血圧も落ちてる。病名、わかる?」
「かくちょうせい……しんきんしょう……」
 ひっく、ひっく……としゃくりあげながら、私は答える。
 お母さんの前だと、強がりなんて意味がないから、私の弱い部分が全部出ちゃう。
「この脈の触れ方……昴くん、相当つらかったでしょう。がんばったのね」
 大好きな昴の心臓にお母さんが触れて、彼をねぎらってくれた。
「……そうなの……ぐすっ……昴は、すっごくすっごくがんばって……ここまできたの……セカイでいちばん、がんばり屋さんの心臓と一緒に……」
「……そう。だったら助けてあげなきゃね。薬、取ってくるから、しっかり手、握っててあげて」
 私はお母さんに言われたとおり、昴の手をぎゅっと握った。
 神様……どうか、お願い……私の命なんていくらでも差し出すから。彼を、昴を助けて……!
 お母さんはすぐに戻ってきた。注射器と、二本の小さなガラス瓶を持って。
「花奈。昴くんの二の腕をぎゅっと握って」
 すぐ理解した。採血のときに巻くあのゴムの紐。血管を浮き上がらせるあれと同じだ。
「……よし。私が合図したら、ぱっと手を離してね。心臓の負担を減らす薬と、リズムを整える薬を打つから。じゃあ、昴くん、ちょっと痛いわよ……」
 慣れた手つきで、お母さんは昴の腕に注射針を刺した。
「花奈、離して」
 私は言われたとおり、ぱっと力を抜いた。
 薬が……昴を救う命の薬が……少しずつ注入されていく。
 そのとき大きな爆発が起こって、少し離れたところの壁が吹き飛ばされた。
 私は驚いて、びくっとなる。
 でも、注射を打っている真っ最中のお母さんは微動だにしない。
「お母さんはね、内戦やってる国でも看護師をやってたんだから。……隕石ごときに、負けてたまるもんですか」
 ……ああ。思い出した。
 私はずっとこうやって守られて生きてきたんだ。
 お父さんやお母さんとの想い出が鮮やかによみがえる。
 ――花奈は、ちゃんと気づけたんだ。それって、すごく大事なことだ。
 昴の温かい言葉がよみがえる。
 こんな大事なことを忘れて、死のうとしていた私、ほんとばか。
 でも、気づけた。みんなのおかげで。
「奥の処置室へ移動して、回復を待ちましょ」


 小さな病室のベッドに昴が寝かされている。
 窓が破壊されているけれど、それ以外はけっこう綺麗だ。
 それでも外は隕石の嵐で、爆音や震動が地獄のように響いていた。
 薄いカーディガンに黒いパンツという軽装のお母さんが昴の脈に触れている。
 懐かしいショートカットの横顔に、少しずつ安堵の気持ちが私の心に浸透してきた。
「……大丈夫。効いてきてる」
「……よかった。大丈夫だって、昴」
 私は彼の髪を撫でる。
「まだ脈が弱いし、心臓のリズムも整ってないわ。三十分くらい様子を見ましょ」
「……昴、起きる?」
「看護師として、安易な楽観論を言いたくないけど……」
 そう前置きして、お母さんはお母さんの顔になって、
「私の直感が、ちゃんと目を覚ますと言ってるわ」
「お母さん……ありがとう……」
「花奈っ!」
 突然、隣に座るお母さんにぎゅっと抱きしめられた。
「……ああ、神様っ! 最後の最後で娘に会えるなんて! お大師様にもお礼を言わなきゃ!」
「……お母さん!」
 ああ、また私の顔があっという間に、ぐちゃぐちゃになった。
「お母さんに聞いて欲しいの……私たちの旅……」
 もうすぐ世界が滅ぶ。
 三十分だけの、お母さんと最後の時間――
「私ね……学校にいたんだけど、そこで昴がね……」
 死のうとしていたことを話すと、お母さんは自分を責めちゃうから、それは伏せて、昴との旅をお母さんに語る。
 昴と一緒に、廃墟の新宿で泳いだこと。
 昴と一緒に、お爺さんとお婆さんのバーベキューをごちそうしてもらったこと。
 昴と一緒に、ドライブデートしたこと。
 昴と一緒に、出産を手伝ったこと。
 お母さんはお母さんの顔で、興味深く聞いてくれた。私も話していて楽しくなった。
 もしもここにコーヒーとコンビニスイーツがあれば、かつてのリビングそのものだ。
「出産!? すごい経験をしたのねぇ!」
 褒められた。へへ。
 夏祭りに参加して、しまなみ海道を漁船と自転車で渡って、お遍路さんと間違われて、そして……ここ。
「本当に……がんばったのね」
 また、ぎゅっと抱きしめられた。
 なんだか赤ちゃんに戻ってしまいそう。
「……どうして、お母さんがここにいるの?」
 ずっと聞きたかったことを尋ねると、お母さんは悲しそうに眉を下げた。
「あのメモ……覚えてる? 瀬戸内・観音寺ブロックへのDMAT要請。あの日、本当は断るつもりだったの。こんな終末だからこそ、花奈のそばにいたかった……」
 ……そう、だったんだ。私は捨てられたんじゃなかったんだ。
「でも、病院には助けを求める人が溢れていて、『この処置が終わったら帰るから』って引き延ばしているうちに、暴徒の集団が押し寄せてきて……」
 お母さんの声が震える。
「お父さんたち警官隊が必死に食い止めてくれたけど、数が多すぎて……。お父さんはどうなったかわからないけど、きっともう……」
 ……お父さん。
「お母さんも頭を殴られて怪我をして、気がついたら香川へ向かう医療避難の車に押し込められていたの。通信も道路も完全に寸断されて、群馬の自宅周辺も火の海になったって聞かされて……」
 目尻を、お母さんは強くぬぐった。
「花奈はもう死んでしまったんじゃないかって、絶望で狂いそうだった。でも、目の前には怪我人が溢れていて……ここで命を救い続けることでしか、自分を保てなかったの」
 お母さんの瞳から、ひとすじの雫がこぼれた。
「……私は結局、あなたを一番に選べなかった。最低の母親よ。ごめんなさい、花奈……」
「最低なんかじゃない!」
 私はお母さんを強く抱きしめ返した。
「お母さんがここで諦めずに戦ってくれたから、今、私の大好きな昴が助かったんだよ。お母さんの看護師としての命がけの時間が、巡り巡って私の宝物を救ってくれたの。私、お母さんを心から誇りに思ってるよ!」
「……花奈……っ」
 お母さんの涙が、私の肩を濡らす。
 まさみさんが言っていた『最後まで治療を続ける災害拠点病院』は、ここだったのだ。
 何日か前にここも隕石で壊滅し、生き残った人々とともに避難したものの、薬が底をついて命がけで回収に戻ってきた――そこで、私と再会した。
 点と点が、奇跡のように一本の線で繋がっていく。
「……お母さんもすごい旅をしてきたんだね」
 お母さんは目をぱちぱちしながら、私を見つめる。
「……なんだか変わったわね、花奈」
「成長期だからね」
「ふふっ。中身の話をしてるのよ?」
 お母さんと笑い合う。ああ、この雰囲気が切ないくらい懐かしい。
「あ、そうだ、お母さん。出産した未来がね、赤ちゃんに名前をつけたんだけど、“未花”って名前にしたの。私の漢字を使わせてって」
「“花奈”って名付けたお母さんにとっても嬉しい話だわ」
 そこで疑問が生まれた。そう言えば聞いたことがなかった気がする。
「お母さんは、どうして私を“花奈”って名前にしたの?」
「美しく咲き誇って欲しいからよ」
「……そうなんだ。じゃあ、今の私は、その名前に……少しは近づけたかな」
「お母さんの目には、世界一綺麗な花に見えるわ」
 お母さんは私の頭をくしゃくしゃと両手で撫でてくれた。
 あははっ、これも懐かしい。
 それからも母娘トークは続き、気づけば三十分が経過していた。
 お母さんは昴の手首にそっと指を当てて、脈をみている。
「脈も戻った。心臓のリズムもオッケー。強い薬を使ったから、深い眠りに入っているだけ。命に別状はないし、じきに意識も戻るわ」
「……よかったぁ」
 私はへなへなと安堵の息を吐き出した。でも、すぐに気持ちを切り替える。
「じゃあ、私、昴と一緒に父母ヶ浜へ行く」
 目覚めるのを待っている時間は、もうない。
「でも、花奈。ここから父母ヶ浜までは十キロ以上あるのよ。昴くんを連れて行くなんて無理よ。ここで最後の時を過ごすのは……」
「連れて行くの。私が絶対に」
 お母さんは私の強い瞳を見て、ふっと微笑んだ。
「わかったわ。待ってて」
 お母さんが資材置き場から引っ張り出してきたのは、防災用の担架付きリヤカーだった。頑丈なアルミのフレームに、患者を乗せる担架がそのまま固定できる救護用の台車だ。
「これに昴くんを乗せましょ。担架ごと固定できるから、揺れても大丈夫。さっきの電動自転車で引っ張れば、一時間ちょっとで行けるはずよ」
 お母さんとふたりでリヤカーの台車を先に外のエントランスへ運び出し、すぐに病室へ取って返す。
 ベッドの昴を抱え上げ、そっと担架へ移す。
 そして、散らばる瓦礫を避けながら、急いで病院の外へと運び出した。


 病院の外は、来たとき以上に廃墟になっていた。
 けれど見上げれば、頭上には皮肉なほど透き通る青空が広がっている。その青のキャンバスを切り裂くように、今も無数の隕石が尾を引いて流れ落ちていた。
 私とお母さんはエントランス前に停めてあったリヤカーのフレームへ担架を載せ、ロックをかけて安全ベルトでしっかりと固定した。毛布をかけて、揺れで落ちないように処置を施す。
 自転車の荷台と担架付きリヤカーの持ち手を頑丈なロープで幾重にも繋ぐ。
 そして、お母さんは原付スクーターのエンジンをかけた。
「……花奈。最後の瞬間、一緒にいられなくてごめんなさい」
「お母さんを必要としているひとがいるんでしょ? 行ってあげて。私は同じ空の下で、お母さんと一緒に死ねるだけで充分だよ」
 お母さんの綺麗な瞳に、ふわっと涙が浮かぶ。
 そして、私はぎゅっと抱きしめられた。母の愛に包み込まれた。
「お母さんはね、あなたを産んで本当に良かった! 花奈と出会えたおかげで、世界で一番幸せな人生だったの! それはお父さんも同じよ!」
「……お母さん!」
 ああ、だめだ……また顔が一瞬でぐちゃぐちゃになる。
「私も、お母さんが私のお母さんでよかった!」
 ……いつまでも、こうしていたかった。
 けれど、母の腕が名残惜しそうに、ゆっくりと離れていく。
 肌から離れても、その確かな温もりは私の中に残り続けていた。
「昴くん。素敵な息子ができて嬉しいわ。うちの娘をよろしくね」
 お母さんは眠る昴の頭をそっと撫でた。
「それじゃあね、花奈」
「うん。行ってきます、お母さん」
 ヘルメットを被ったお母さんは、患者たちの待つ避難所へ向けてスクーターで軽快に去って行った。
 私は自転車にまたがり、ペダルに足を乗せる。
 そのとき、頭上をひときわ大きな隕石が流れ落ちていった。
 お母さんが走って行った方向に――
 直後、背後からすさまじい爆音と衝撃波が襲いかかってきて、自転車ごと吹き飛ばされそうになる。
 ぎりぎりで踏ん張ったけれど、振り返った視界の先、立ちのぼる猛烈な黒煙。
「お母さん!!」
 足が、すくんだ。
 見に行きたい、怪我をしてるなら手当てしたい、生きてるなら助けたい――
 でも、でも――
「……っ……あああぁぁぁっ!」
 涙を振り払って見上げた北西の空は、昼の青を塗りつぶすように、見たこともない色へ染まり始めていた。
 透き通るような青銀と、怪しく揺らめくエメラルドの極光――大気を焼き尽くしながら、地球を滅ぼす絶対的な破滅が宇宙の彼方から迫っているのだと、肌を焦がす気配で分かった。
 ――昴、お願いだから生きていて。最後の瞬間まで。
 身を引き裂かれるような慟哭を飲み込み、私は前を向いた。
 担架付きリヤカーを引く電動アシスト自転車のペダルへ、全身全霊の力を込めて踏み込む。
 私はもう、立ち止まらない。
 昴を連れて、ふたりで約束した父母ヶ浜へ――世界が終わる海へ向かって、爆風と砂塵が吹き荒れる中を駆け抜けていった。