これは、セカイの終わりの中で、私と昴が必死に生きて、恋をした記憶――
――世界が滅ぶまで、あと三日。
八月二十八日。夕暮れ。
山吹色から夜の群青へと溶けていく空の境界を裂くように、淡い翡翠色のオーロラが揺らめいている。
世界が終わりに向かっている証拠なのに、不穏なまでに美しい。
息を呑んで視線を落とせば、凪いだ瀬戸の海が、沈みゆく夕日を浴びて茜色にきらめいていた。
潮の匂いを孕んだ海風が、ぼろぼろになった私の制服を揺らす。
アスファルトがめくれ上がり、小さな隕石のクレーターだらけになった壊れかけの世界で、海だけが信じられないくらい眩しかった。
この旅を通じて、私はすっかりこの海が好きになっていた。
腰掛けていたガードレールから、ミシッ、と鈍い軋み音が響いたのはその時だった。
「あっ」
「花奈!」
足場が崩れ、視界が傾く。
けれど、硬い地面に叩きつけられるより早く、私は温かい腕の中にすっぽりと包み込まれていた。
「……っ! ありがと、昴」
照れくさくて慌てて胸から離れようとしたけれど、背中に回された腕にぎゅっと引き戻される。ほんの少しの隙間さえ許さないように。
「昴……?」
驚いて顔を上げると、吐息のかかる距離に彼がいた。
泣きそうになるほど切なく細められた、宇宙の果てのように深くて静かな瞳。
「花奈を離したくないんだ」
「……じゃあ、離さないで。地球が滅んでもずっと一緒にいられるように、もっと強くぎゅってして」
私の言葉に応えるように、昴の腕にぎゅうっと力が込められる。
押しつぶされそうなほどの強さが、たまらなく愛おしい。
「こんな俺に、こんなにかわいい恋人が……お、お嫁さんができるなんて、今でも信じられないよ」
耳元でささやかれた低い声。
私の顔は一瞬にして、沈みゆく夕陽よりも赤く染まってしまった。両頬に集まる熱で嫌というほどわかる。
恥ずかしさに耐えかねてうつむくと、彼の手と重なり合う自分の左手が視界に入った。
薬指には、しおれかけた四つ葉のクローバーの指輪。
玩具でもイミテーションでもない、あの日ふたりで見つけた本物の生花だ。
私の手を包み込む昴の左手の薬指にも、同じものが填められている。
少し力を込めればちぎれてしまう、儚い草の輪。
だからこそ普段は彼のピルケースにしまっている指輪を、今、この時間だけは特別に。
「……信じられないのは、私の方だよ、昴」
何者にもなれなかった、モブですらなかった、ただみんなを見ているだけのレンズだった私に、こんな素敵な旦那様ができるなんて。
「でも、現実だ。この地球が滅びるのも、俺たちが夫婦になったのも」
昴はさらに腕を強め、耳元に顔を埋めるようにして、「かわいい……本当にかわいいなぁ……」と熱っぽい吐息混じりにつぶやいた。
「そんなこと言ってくれるの、この世界で昴だけだよ……」
私は彼の薄いシャツ越しに、そっと耳を押し当てた。
「……昴の心臓の音……好き……大好き」
胸元にすりすりと頬を寄せる。
白いシャツから香る、微かな汗と石鹸の匂いに頭が心地よく痺れそうになる。
――あの日、死に至る薬のシートをポケットの奥でぎゅっと握りしめていた私が、今は生きてこのひとの体温の中にいる。
「ははっ。くすぐったいよ、花奈」
昴と私は、北関東の田舎街からこの瀬戸の海辺まで旅をしてきた。
八月三十一日に直撃する巨大隕石によって、滅びを迎えるこの地球で――
「我慢して。私、これ、好きなんだから」
目を閉じ、彼の心臓が刻む音へ意識を集中させる。
トクントクンと、少し速いけれど力強く打ち鳴らしている奇跡の鼓動。
「ふぅー……」
昴が小さく息を吐き、静かに呼吸を整える気配が頭上から伝わってきた。
壊れ物に触れるように息を潜め、腕の中にある私の命を、かけがえのない宝物として抱きしめているかのよう。
「……俺も一緒に眺めるよ、海」
名残惜しそうに腕を解いた昴は、優しく微笑みながら、亀裂の入った防波堤へと腰を下ろした。
私もその隣にぴたりと肩を寄せて座る。
夕闇に霞んでいく瀬戸の島々をふたりで眺めていると、不意に隣から、小さな操作音が聞こえた。
昴がスマートフォンの画面を愛おしそうに見つめている。
「送信完了……っと」
満足そうに呟いて、彼は画面を暗転させた。
基地局もサーバーも機能を失い、ネットなんてとうに崩壊しているというのに。
……また送ってる。どこにも届かないのに。
けれど、私はなにも言わずにただ笑いかけた。
愛しい人の横顔があまりにも優しくて、胸の奥がじんわりと甘く痛む。
――世界が滅ぶまで、あと三日。
そんなときになって、ようやく私の世界に現れてくれた、私の大好きなひと。
並んで見上げる終末の夕空には、いっそう濃さを増したオーロラが揺らめいている。
夜の帳を裂いて波打つエメラルドグリーンは残酷で、神々しいまでに美しい。
世界を包み込もうとする死神のカーテンのようだ。
けれど、私たちの間に、絶望や悲壮感なんて一片もない。
旅の目的地である香川県の父母ヶ浜まで、誰よりも贅沢で素敵な時間を、私は彼と過ごす。
世界中の大人たちが投げ出した終末の中で、私たちは最後まで、ふたりで生きることを選んだ。
その選択が間違いじゃなかったってこと、私が証明してみせる――
……なんて、最初から思っていたわけじゃない。
あの日――
誰もいない、静まり返ったあの放課後の教室で、彼に手を引かれなければ、私は――
――世界が滅ぶまで、あと三日。
八月二十八日。夕暮れ。
山吹色から夜の群青へと溶けていく空の境界を裂くように、淡い翡翠色のオーロラが揺らめいている。
世界が終わりに向かっている証拠なのに、不穏なまでに美しい。
息を呑んで視線を落とせば、凪いだ瀬戸の海が、沈みゆく夕日を浴びて茜色にきらめいていた。
潮の匂いを孕んだ海風が、ぼろぼろになった私の制服を揺らす。
アスファルトがめくれ上がり、小さな隕石のクレーターだらけになった壊れかけの世界で、海だけが信じられないくらい眩しかった。
この旅を通じて、私はすっかりこの海が好きになっていた。
腰掛けていたガードレールから、ミシッ、と鈍い軋み音が響いたのはその時だった。
「あっ」
「花奈!」
足場が崩れ、視界が傾く。
けれど、硬い地面に叩きつけられるより早く、私は温かい腕の中にすっぽりと包み込まれていた。
「……っ! ありがと、昴」
照れくさくて慌てて胸から離れようとしたけれど、背中に回された腕にぎゅっと引き戻される。ほんの少しの隙間さえ許さないように。
「昴……?」
驚いて顔を上げると、吐息のかかる距離に彼がいた。
泣きそうになるほど切なく細められた、宇宙の果てのように深くて静かな瞳。
「花奈を離したくないんだ」
「……じゃあ、離さないで。地球が滅んでもずっと一緒にいられるように、もっと強くぎゅってして」
私の言葉に応えるように、昴の腕にぎゅうっと力が込められる。
押しつぶされそうなほどの強さが、たまらなく愛おしい。
「こんな俺に、こんなにかわいい恋人が……お、お嫁さんができるなんて、今でも信じられないよ」
耳元でささやかれた低い声。
私の顔は一瞬にして、沈みゆく夕陽よりも赤く染まってしまった。両頬に集まる熱で嫌というほどわかる。
恥ずかしさに耐えかねてうつむくと、彼の手と重なり合う自分の左手が視界に入った。
薬指には、しおれかけた四つ葉のクローバーの指輪。
玩具でもイミテーションでもない、あの日ふたりで見つけた本物の生花だ。
私の手を包み込む昴の左手の薬指にも、同じものが填められている。
少し力を込めればちぎれてしまう、儚い草の輪。
だからこそ普段は彼のピルケースにしまっている指輪を、今、この時間だけは特別に。
「……信じられないのは、私の方だよ、昴」
何者にもなれなかった、モブですらなかった、ただみんなを見ているだけのレンズだった私に、こんな素敵な旦那様ができるなんて。
「でも、現実だ。この地球が滅びるのも、俺たちが夫婦になったのも」
昴はさらに腕を強め、耳元に顔を埋めるようにして、「かわいい……本当にかわいいなぁ……」と熱っぽい吐息混じりにつぶやいた。
「そんなこと言ってくれるの、この世界で昴だけだよ……」
私は彼の薄いシャツ越しに、そっと耳を押し当てた。
「……昴の心臓の音……好き……大好き」
胸元にすりすりと頬を寄せる。
白いシャツから香る、微かな汗と石鹸の匂いに頭が心地よく痺れそうになる。
――あの日、死に至る薬のシートをポケットの奥でぎゅっと握りしめていた私が、今は生きてこのひとの体温の中にいる。
「ははっ。くすぐったいよ、花奈」
昴と私は、北関東の田舎街からこの瀬戸の海辺まで旅をしてきた。
八月三十一日に直撃する巨大隕石によって、滅びを迎えるこの地球で――
「我慢して。私、これ、好きなんだから」
目を閉じ、彼の心臓が刻む音へ意識を集中させる。
トクントクンと、少し速いけれど力強く打ち鳴らしている奇跡の鼓動。
「ふぅー……」
昴が小さく息を吐き、静かに呼吸を整える気配が頭上から伝わってきた。
壊れ物に触れるように息を潜め、腕の中にある私の命を、かけがえのない宝物として抱きしめているかのよう。
「……俺も一緒に眺めるよ、海」
名残惜しそうに腕を解いた昴は、優しく微笑みながら、亀裂の入った防波堤へと腰を下ろした。
私もその隣にぴたりと肩を寄せて座る。
夕闇に霞んでいく瀬戸の島々をふたりで眺めていると、不意に隣から、小さな操作音が聞こえた。
昴がスマートフォンの画面を愛おしそうに見つめている。
「送信完了……っと」
満足そうに呟いて、彼は画面を暗転させた。
基地局もサーバーも機能を失い、ネットなんてとうに崩壊しているというのに。
……また送ってる。どこにも届かないのに。
けれど、私はなにも言わずにただ笑いかけた。
愛しい人の横顔があまりにも優しくて、胸の奥がじんわりと甘く痛む。
――世界が滅ぶまで、あと三日。
そんなときになって、ようやく私の世界に現れてくれた、私の大好きなひと。
並んで見上げる終末の夕空には、いっそう濃さを増したオーロラが揺らめいている。
夜の帳を裂いて波打つエメラルドグリーンは残酷で、神々しいまでに美しい。
世界を包み込もうとする死神のカーテンのようだ。
けれど、私たちの間に、絶望や悲壮感なんて一片もない。
旅の目的地である香川県の父母ヶ浜まで、誰よりも贅沢で素敵な時間を、私は彼と過ごす。
世界中の大人たちが投げ出した終末の中で、私たちは最後まで、ふたりで生きることを選んだ。
その選択が間違いじゃなかったってこと、私が証明してみせる――
……なんて、最初から思っていたわけじゃない。
あの日――
誰もいない、静まり返ったあの放課後の教室で、彼に手を引かれなければ、私は――
