「あれ、もうこんな時間か。電車混んでるから、その脚で帰るの大変だろ。泊まってくか?」
たこちゃんを撫で終えたのか、天海が立ち上がる。そういえば何時なのかとリビングの時計を見たら、もう十九時近かった。
確かに帰宅ラッシュの時間だ。正直、泊めてもらえると助かる。
「え? いいの?」
「明日、土曜だし。俺一人でたこを見るのも厳しいしな」
「あ。そっか……。天海、天海、俺、これからもここに来ていい? たこちゃんの世話、俺も手伝いたい」
「あ? あたりめえだろ。ってかお前、俺にたこを押し付けるつもりだったのかよ」
ムッとされてしまった。
「そんなことないけど……でも、俺さ、脚のせいで手伝えることも少ないし。むしろ邪魔かなって思ったり……」
「いや、お前がこいつを助けたいって言ったんだろ。フツーに役に立とうとしろ、責任取れ」
天海はそう言うと、すれ違いざまにくしゃっと俺の頭を撫でてきた。
(え、え、え、はあ?)
驚いて振り返ると、天海はまったく気にしていない様子で、買ってきた本のページをパラパラめくっている。
この野郎……気にしてるのは俺だけかよ。
別に、頭なんて部活の奴らにだって撫でられることはあるし、単なるスキンシップだ。
でも、他の奴にやられたって、こんなくすぐったくて胸がぎゅうっとするような、だけど不快ではない不思議な気持ちになったことなんかない。
「あー……そういえばさ、天海、学校は?」
どうにも座りが悪くて、誤魔化すように話題を振る。
「……もう休み」
「へえ。私立ってやっぱ違うんだな。俺さ、部活も出れないし、夏休み暇だから。いっぱいたこちゃんの世話するよ!」
「ふうん。じゃ、毎日来てもらおうかな。休みに入ったら、着替え持って泊まりに来い」
天海が首を傾げてにっこり笑う。
こいつ……たまにこういう、わざとらしい笑顔するよな。絶対、自分のツラのよさをわかってやってる。
「俺は別に、もともと毎日部活の予定だったのが空白になったから、いいけど……マジで言ってんの? 天海さ、彼女とかいねえの?」
「今はいない。雪村は?」
今は、ってなんだよ。前はいたってことかよ。まあ、そりゃいただろうけどさ。
俺が「いない。いたことない」と首を振ると、天海はニヤニヤしだした。
「社交辞令で聞いてみたけど、まあ、そうだろうな」
「はあ? なんだそのバカにしたような言い方。俺だって、ちょっとは告白っぽいことされたり、友達づてに会ってみたいとか言われたことはあんだからな!」
「そら、花形の部活に入っててレギュラーなら、どんな奴でもちょっとはモテるだろうよ。どうせボールばっか追いかけてて、浮いた話のひとつもないんだろ」
ふふん、と小馬鹿にしたように天海が顎を上げた。
なにか言い返したいが、言う通りなのでぐぬぬと歯軋りをする。正直、女の子と遊ぶ時間があるのなら練習したかったから、浮いた話なんてひとつもない。
「ま、雪村はそれでいいんじゃね? 顔もやってることも、ガキの頃から変わんなくて」
またしても溜め息混じりに言われ、喧嘩なら買ってやんよと口を開こうとして俺は固まった。
天海……すごく寂しそうな顔をしている。
見逃してしまうほど微かにだけど、唇が震えていて、泣いちゃうんじゃないかと思った。
なんて声をかけたらいいのかわからず、戸惑っていたら天海が怪訝な顔をする。
「なに? 変な顔して」
「あ……いや、別になんでもない……」
こいつ、自分があんなに心細げな表情してたの、気づいてないのか? わっかんねえ奴。
いや。わかんなくて当然なのか——
だって俺は、サッカーから離れた場所でこいつがどう過ごしていたのか、なにも知らない。
なんだか、嫌だな。もっと、こいつのことが知りたい。
同じ競技に泥臭く熱中していた頃の思い出だけじゃなくて、今、目の前にいる天海のことが知りたい。
「なあ、天海。お前、好きな食いもんってなに?」
「は? なんだよ。いきなり」
とりあえず、無難な質問から攻めるかと聞いてみると、天海が片眉を上げて困惑した表情になる。それにめげずに「いいから、いいから」と促すと、少し考えてからぼそっと答えてくれた。
「ラーメンと……豚の角煮、とか……」
意外だ。ラーメンは好きなんだろうなと思ったが、豚の角煮かあ。スフレオムレツとか、生ハムとフレッシュバジルのアーリオ・オーリオとか、カフェのメニューみたいなのが好きなのかと思った。
「お。いいな、角煮。卵にも味が染みてると最高だよなあ」
あ、想像しただけで涎が出そう……。
「なんだよ雪村、腹減ったのか? 飯、買ってくるか?」
「あ……そっか、夜ご飯の時間か……でもさ、たこちゃんて天海に懐いてるのに、俺と留守番ばっかりだとキツくない? 冷蔵庫にあるもんでカレーぐらいなら、俺でも作れるよ? あ、でも、ルーがないか」
「カレー……無理だな。野菜も肉も、米もない。もちろんルーもない」
「えっ! 米もないの? お前、なに食って生きてんの?」
「……別に、ラーメンとか、カップラーメンとか……」
ダメだこの男、なんとかしないと。
俺だって料理なんて、野菜どーん、肉どーん、火が通ったら市販のルーどーん、はい完成! っていう調理実習で習ったカレーしか作れないけど、スポーツをやってるから食事のバランスには気をつけている。
まあ、気をつけて食事を作ってくれているのは、母さんなんだけども。
「お前、そんな塩分過多な暮らししてたら、病気になるぞ。せめて米くらい炊けよ」
酷い食生活して、お母さん泣くぞ、と言いそうになってハッとなった。
こいつのお母さんって、息子がどういう生活してるかとか、全然気になんないのか? 別々に暮らしていても、風越記念病院の近くに住んでいるんだろうから、ご飯くらい作りにこれる距離だろうに。
センシティブな話題な気がして聞けないけど、天海の家ってやっぱり変わってる……よな。
「雪村……? どうした、ぼうっとして」
「あ、いや。晩飯どうするかって話だったよな。俺、買ってくるよ。天海は食いたいもんある?」
天海の声に我に返る。いけない、いけない。よその家庭事情なんて、勝手に想像するのは失礼すぎるだろ。慌てて胸の前で手を振って、俺は気持ちを切り替えた。
「いや、お前は歩き回らないほうがいいだろ」
「そんなことねえよ。過度な負荷がかからない程度には歩かないと、筋肉落ちちゃうし」
「じゃあ、前のコンビニまで一緒に行くか?」
「うん。あ、でも、たこちゃんどうしよう」
いつの間にか、たこちゃんはソファの後ろに戻っている。覗き込んでみると、さっきと同じようにタオルを抱えて寝ていた。
天海も背後から俺の両肩に手を置いて、同じように覗き込んで、たこちゃんが寝ているのを確認する。
「少しなら、出かけてきても気がつかねえんじゃねえの? 起きる前に行ってこようぜ」
うーん、大丈夫なのかな。でも、たこちゃんも静かなほうがよく眠れるかも。
そう思って、俺たちはマンションの前にあるコンビニへ買い物に出かけた。
たこちゃんを撫で終えたのか、天海が立ち上がる。そういえば何時なのかとリビングの時計を見たら、もう十九時近かった。
確かに帰宅ラッシュの時間だ。正直、泊めてもらえると助かる。
「え? いいの?」
「明日、土曜だし。俺一人でたこを見るのも厳しいしな」
「あ。そっか……。天海、天海、俺、これからもここに来ていい? たこちゃんの世話、俺も手伝いたい」
「あ? あたりめえだろ。ってかお前、俺にたこを押し付けるつもりだったのかよ」
ムッとされてしまった。
「そんなことないけど……でも、俺さ、脚のせいで手伝えることも少ないし。むしろ邪魔かなって思ったり……」
「いや、お前がこいつを助けたいって言ったんだろ。フツーに役に立とうとしろ、責任取れ」
天海はそう言うと、すれ違いざまにくしゃっと俺の頭を撫でてきた。
(え、え、え、はあ?)
驚いて振り返ると、天海はまったく気にしていない様子で、買ってきた本のページをパラパラめくっている。
この野郎……気にしてるのは俺だけかよ。
別に、頭なんて部活の奴らにだって撫でられることはあるし、単なるスキンシップだ。
でも、他の奴にやられたって、こんなくすぐったくて胸がぎゅうっとするような、だけど不快ではない不思議な気持ちになったことなんかない。
「あー……そういえばさ、天海、学校は?」
どうにも座りが悪くて、誤魔化すように話題を振る。
「……もう休み」
「へえ。私立ってやっぱ違うんだな。俺さ、部活も出れないし、夏休み暇だから。いっぱいたこちゃんの世話するよ!」
「ふうん。じゃ、毎日来てもらおうかな。休みに入ったら、着替え持って泊まりに来い」
天海が首を傾げてにっこり笑う。
こいつ……たまにこういう、わざとらしい笑顔するよな。絶対、自分のツラのよさをわかってやってる。
「俺は別に、もともと毎日部活の予定だったのが空白になったから、いいけど……マジで言ってんの? 天海さ、彼女とかいねえの?」
「今はいない。雪村は?」
今は、ってなんだよ。前はいたってことかよ。まあ、そりゃいただろうけどさ。
俺が「いない。いたことない」と首を振ると、天海はニヤニヤしだした。
「社交辞令で聞いてみたけど、まあ、そうだろうな」
「はあ? なんだそのバカにしたような言い方。俺だって、ちょっとは告白っぽいことされたり、友達づてに会ってみたいとか言われたことはあんだからな!」
「そら、花形の部活に入っててレギュラーなら、どんな奴でもちょっとはモテるだろうよ。どうせボールばっか追いかけてて、浮いた話のひとつもないんだろ」
ふふん、と小馬鹿にしたように天海が顎を上げた。
なにか言い返したいが、言う通りなのでぐぬぬと歯軋りをする。正直、女の子と遊ぶ時間があるのなら練習したかったから、浮いた話なんてひとつもない。
「ま、雪村はそれでいいんじゃね? 顔もやってることも、ガキの頃から変わんなくて」
またしても溜め息混じりに言われ、喧嘩なら買ってやんよと口を開こうとして俺は固まった。
天海……すごく寂しそうな顔をしている。
見逃してしまうほど微かにだけど、唇が震えていて、泣いちゃうんじゃないかと思った。
なんて声をかけたらいいのかわからず、戸惑っていたら天海が怪訝な顔をする。
「なに? 変な顔して」
「あ……いや、別になんでもない……」
こいつ、自分があんなに心細げな表情してたの、気づいてないのか? わっかんねえ奴。
いや。わかんなくて当然なのか——
だって俺は、サッカーから離れた場所でこいつがどう過ごしていたのか、なにも知らない。
なんだか、嫌だな。もっと、こいつのことが知りたい。
同じ競技に泥臭く熱中していた頃の思い出だけじゃなくて、今、目の前にいる天海のことが知りたい。
「なあ、天海。お前、好きな食いもんってなに?」
「は? なんだよ。いきなり」
とりあえず、無難な質問から攻めるかと聞いてみると、天海が片眉を上げて困惑した表情になる。それにめげずに「いいから、いいから」と促すと、少し考えてからぼそっと答えてくれた。
「ラーメンと……豚の角煮、とか……」
意外だ。ラーメンは好きなんだろうなと思ったが、豚の角煮かあ。スフレオムレツとか、生ハムとフレッシュバジルのアーリオ・オーリオとか、カフェのメニューみたいなのが好きなのかと思った。
「お。いいな、角煮。卵にも味が染みてると最高だよなあ」
あ、想像しただけで涎が出そう……。
「なんだよ雪村、腹減ったのか? 飯、買ってくるか?」
「あ……そっか、夜ご飯の時間か……でもさ、たこちゃんて天海に懐いてるのに、俺と留守番ばっかりだとキツくない? 冷蔵庫にあるもんでカレーぐらいなら、俺でも作れるよ? あ、でも、ルーがないか」
「カレー……無理だな。野菜も肉も、米もない。もちろんルーもない」
「えっ! 米もないの? お前、なに食って生きてんの?」
「……別に、ラーメンとか、カップラーメンとか……」
ダメだこの男、なんとかしないと。
俺だって料理なんて、野菜どーん、肉どーん、火が通ったら市販のルーどーん、はい完成! っていう調理実習で習ったカレーしか作れないけど、スポーツをやってるから食事のバランスには気をつけている。
まあ、気をつけて食事を作ってくれているのは、母さんなんだけども。
「お前、そんな塩分過多な暮らししてたら、病気になるぞ。せめて米くらい炊けよ」
酷い食生活して、お母さん泣くぞ、と言いそうになってハッとなった。
こいつのお母さんって、息子がどういう生活してるかとか、全然気になんないのか? 別々に暮らしていても、風越記念病院の近くに住んでいるんだろうから、ご飯くらい作りにこれる距離だろうに。
センシティブな話題な気がして聞けないけど、天海の家ってやっぱり変わってる……よな。
「雪村……? どうした、ぼうっとして」
「あ、いや。晩飯どうするかって話だったよな。俺、買ってくるよ。天海は食いたいもんある?」
天海の声に我に返る。いけない、いけない。よその家庭事情なんて、勝手に想像するのは失礼すぎるだろ。慌てて胸の前で手を振って、俺は気持ちを切り替えた。
「いや、お前は歩き回らないほうがいいだろ」
「そんなことねえよ。過度な負荷がかからない程度には歩かないと、筋肉落ちちゃうし」
「じゃあ、前のコンビニまで一緒に行くか?」
「うん。あ、でも、たこちゃんどうしよう」
いつの間にか、たこちゃんはソファの後ろに戻っている。覗き込んでみると、さっきと同じようにタオルを抱えて寝ていた。
天海も背後から俺の両肩に手を置いて、同じように覗き込んで、たこちゃんが寝ているのを確認する。
「少しなら、出かけてきても気がつかねえんじゃねえの? 起きる前に行ってこようぜ」
うーん、大丈夫なのかな。でも、たこちゃんも静かなほうがよく眠れるかも。
そう思って、俺たちはマンションの前にあるコンビニへ買い物に出かけた。
