幼馴染でも友達でもない、いけすかない男と可愛いあの子

たこちゃんのトライアルの開始日はあっという間に決まり、犬堂先生から連絡が来た一週間後には、マンションに妹さん一家が来ることになった。
「あ! 雪村だ!」
 晴れた土曜日の午後。たこちゃんを連れて、エントランスで犬堂先生と妹さん一家を待っていたら、小学校二、三年生くらいの小柄な男の子が、興奮気味に走って来る。
「すげえ、本人だ。やっぱ、あんま大きくないんだ。うちのクラスの先生より小さい。俺もサッカーやってるんだけど、雪村みたく……」 
「こら! 湊(みなと)、雪村選手でしょ。すみません、失礼なことを……」 
「あはは、いいっすよ。湊くんね。よろしく」
 俺には妹しかいないから小学生の男子と話すのは新鮮だけど、ずいぶん天真爛漫というか、ガンガン来るな。
 練習を頑張っているのであろう日焼けした肌色と、お母さんから止められてもお構いなしに話しかけてこようとする前のめりさが、昔の自分と少し被って好ましく感じられ、雄飛と顔を見合わせて笑ってしまう。
「初めまして、黒沢(くろさわ)といいます。今日は時間をつくっていただき、ありがとうございます。この子が、たこちゃんですか? 可愛いなあ」
「うん! 可愛い。思ったより大きい」
 お父さんが頭を下げると、湊くんもたこちゃんの顔を見た。湊くんは、期待と少しの不安が入り混じった笑顔を浮かべている。
 たこちゃんに触ってみたい、仲良くなりたい、でもうまくできるかわからない、そんな気持ちがそのまま出ている表情だ。
 湊くんのその顔に、優しそうな黒沢さん夫婦に、このお家に引き取られて幸せに暮らしているたこちゃんの姿が容易に想像できた。
「初めまして、たこちゃん。仲良くしてもらえるかな?」 
 お母さんが手の甲をそっと差し出すと、たこちゃんはにおいを嗅いで、ゆったり尻尾を振る。
 それを見て、お父さんと湊くんが「尻尾振ってる!」と小声で言いながら嬉しそうに顔を見合わせた。
「大丈夫そうですね」
 雄飛の言葉に、たこちゃんとの別れを感じて視界が少し歪む。泣いちゃダメ、今はまだ泣いちゃダメだと、奥歯を噛む。 
「行、いい?」
 雄飛が気遣わしげに俺に視線を送ってきた。一番世話をしていた雄飛こそ別れが辛いはずなのに、俺を気にしてくれる。
「うん。お願いしよう。たこちゃん、いい子にね」
 だから俺も、たこちゃんのふかふかの頭をいつもより少し強めの力でゆっくり撫で、黒沢さん一家に向かって頭を下げた。
「よかったら、家まで一緒に来てもらうこともできるんだよ?」
「いいえ。ここで、見送ります」
 犬堂先生がそう言ってくれたけど、行かなくてもわかる。素敵なお家だと。前もって飼育用品を揃えているという話も聞いているし、先生もいるし、心配なことなどない。
 別れを惜しむ時間が長くなるほど、俺は寂しさを隠しきれなくなって、みんなを、たこちゃんを困らせる。それがわかっているから、ここで離れなきゃ。
 雄飛と犬堂先生が二人がかりでたこちゃんを抱き上げて、車内に用意してある真新しいクレートに入れる。クレートの中には、タコの形をした赤い犬用のぬいぐるみが入っていた。その隣にそっと、タコの柄のタオルを置く。
 たこちゃんはぬいぐるみとタオルを両方とも咥えて、不思議そうに雄飛と俺の顔を見ている。
 ああ、おめでとう、たこちゃん。きっと、ずっと、大切にしてもらえる。
 だからもう、さよならだ。たこちゃんがあの部屋に帰ってくることは、ない。
 バックドアが閉まり、たこちゃんの姿が見えなくなる。
 これでよかった、これ以上ないほど、よかった。そう自分に言い聞かせて、小さくなっていく車を見送り、俺たちは部屋に戻った。
 
「たこちゃん、行っちゃったね……」
「……そうだな」 
「トライアル、うまくいくよね。幸せになれるよね、きっと」
 いつも寝ていたソファに、たこちゃんの姿はない。
 たこちゃんが歩く時に鳴っていた、爪が床を叩くカツッ、カツッという音も、もうしない。
 キッチンカウンターからリビングを見ても、丸くて真っ黒な瞳と目が合うこともない。
 たこちゃんのお皿に、水とご飯を入れることも、もうない——
 もう、たこちゃんはいないんだと思ったら一気に涙が溢れて来て、喉の奥から潰れたような変な声が漏れる。
 俺、雄飛の前では泣いてばかりだ。試合中に痛みで吐くほどの怪我をした時だって泣かなかったのに、こいつの前では、なぜか取り繕えない。
「頑張ったな、行」
 雄飛が包むように俺を抱きしめて、背中をぽんぽんと叩く。それから、優しい声で言い聞かせるように、俺の耳元で話す。
「なあ、行。俺たち大人になって、そしたら一緒に暮らして、犬を迎えよう。たこみたいな、家を探している子」
「ゆうひ……」
「俺、ちゃんと勉強して医者になる。自分の意志で決めた。お前のリハビリ手伝って、犬堂先生を見て、医者になりたいって心から思えた」
 雄飛の胸に手をついて、そっと距離をとる。
「だから勉強してたんだ……でもお前、あの病院継ぐなら、ちゃんと結婚しなきゃじゃん」
 たこちゃんが、より幸せになれる場所に行ったように、雄飛もいつかは、俺と一緒にいるより幸せになれる場所に行ってしまう。
 犬堂先生からトライアルの話があった夜、雄飛と一緒に観たドラマを思い出す。
 恋の行く末だけを考えて右往左往している主人公たちを、俺はしらけた気分で観てたじゃないか。人はそれだけでは生きていかれないのにって、思ったじゃないか。
 雄飛と俺だって、お互いの気持ちだけじゃ生きていかれない。
 俺は、いい。サッカーしか取り柄のない普通の高校生で、夢はプロになることだから。
 けれど雄飛は違う。医者になるということは、あの病院を継ぐということで、俺と離れて大きなものを背負うということだ。
 雄飛は賢いから、そんなことわかったうえで、医者になる道を選んだんだろう。
 バカだな、なにが恋愛脳だよ。お前は利口な現実主義者じゃねえかよ。
 そう揶揄ってやりたいのに、心臓を掴まれているみたいに苦しくて、喉がつかえて言葉が出ない。
 うまく気持ちを偽れずに俯いたしまった俺を、雄飛がもう一度、抱き寄せた。
「構わねえよ。そんなもん。俺だって、風越の家の外にできた子供だ」
 言ったろ、俺は恋愛脳なんだよ、と耳元で雄飛が囁く。
「先のこと考えられるようになったの、お前と、たこのおかげだよ。行と会えなかったら、俺はずっとダメなままだった。だから、周りに口出されないで済むように頑張るから、俺」
 俺を抱きしめる雄飛の腕に、力が込もる。
「俺さ、お前と離れてから、諦めぐせがついてた。環境のせいにして、なにに対しても真面目に向き合えないのは俺の弱さだって、変えなきゃって認められたのは、ガキの頃から変わらない、バカみてえに真っ直ぐなお前のおかげだよ。ずっと一緒にいてよ、行……お前だけはどこにも行かないで」
 普段と変わらなく聞こえるけど、ほんの少し、不安を滲ませた声。
 ああ、雄飛も寂しいんだ。いや、夏休みが終わったら、俺も帰ってこの広い部屋で一人きりになるから、雄飛のほうがずっと寂しいんだ。そのことに、ようやく気づく。
「泣くなよ、俺はどこも行かないから」
 ダメだな、俺。また、自分のことしか考えてなかった。雄飛が俺のことを必要としてくれてるって、わかってなかった。
「約束な。お前は勉強、俺はサッカー。お互い夢を叶えて、そんでいつか一緒に暮らして、犬を飼おう」
 わざと憎たらしい口調で絶対守れよ、と言ってぎゅうぎゅう抱きしめ返したら、怒った雄飛に耳を噛まれる。
「もう、お前、噛むなよー。たこちゃんだってそんなこと、しなかったぞ」 
 雄飛から逃げようとゲラゲラ笑って、笑いすぎて出た涙に紛れて、少しだけ泣いた。

 大好き、たこちゃん。幸せになって。
 大好き、雄飛——幸せになろうね。