怪我をした時の恐怖が、フラッシュバックする。試合中に方向転換で脚を捻り、膝がちぎれるんじゃないかという激痛に襲われて立てなくなった時のこと。
痛みに嘔吐して、全身を冷や汗が流れて、俺はもう走れないのかと絶望した時のことを思い出して、震えが止まらない。
今、この人に蹴られたら、せっかくここまで治したのに俺の膝は壊れる——
そう思い、ぎゅっと目を瞑った時だった。骨が肉を打つ鈍い音が響いて、のし掛かっていた先輩の重圧がなくなる。
「汚ねえ真似してんじゃねえよ。相模原城南のエースストライカー様」
誰かの呻き声に被さって、よく知った男の、聞いたことがないような怒気を孕んだ低い唸り声が、すぐ近くで聞こえる。
恐る恐る瞼を開けると、目の前にはここ最近ですっかり見慣れた広い背中があった。
「え……あまみ……なんで?」
「ごめん。お前、朝から様子がおかしかったから、ずっとつけてたんだけど、見失って遅くなった」
天海は俺を庇うようにして立っていた。俺がまだ震えていることに気づくと、ぎゅっと手を握って、落ち着かせるように親指で俺の手の甲を撫でてくれた。
それを見て、頬を赤く腫らした山城先輩が、傾いだ体勢を立て直しながら嘲笑うような声をあげる。
「きっしょ! お前、ホモなのかよ! オバさん相手に売春するわ、ホモだわで、終わってんなあ」
「マウントで後輩に手ェ出そうとする奴のが、よっぽどだせぇだろうがよ。知ってるか? 猿でも、マウント目的で同性間の交尾なんかしないらしいぜ」
そう天海が冷たく吐き捨てると、山城先輩は言い返す言葉が思い付かない様子で、唇をわななかせた。
「あんたがムカついてんのは、怪我をした雪村に対してじゃねえ、試合結果にでもねえ。てめえんとこの、監督に対してなんじゃねえのか?」
「あ……?」
「雪村、この前の試合見て、出たかったって、大泣きしてたぞ。あんたのことも、ほんとはもっとやれる人なんだって、すげえ人なんだって、言ってた」
天海の言葉に、山城先輩が小さく息を飲む。それから戸惑ったような表情で俺を見た。
「あんたが言った通り、俺は道を踏み外してる。だから、わかるんだよ。あんたがやんなきゃいけないことって、負い目があるこいつを甚振ることじゃないんじゃねえの?」
そこまで言うと、天海は俺に向き直って、乱暴に掴まれてボサボサになっていた髪の毛を優しく撫でて直してくれた。
「帰ろう、雪村」
さっきまでとは別人のような静かな声の天海に手を引かれて、表通りに出る。
明るい日差しと、行き交う人の話し声に、まるで溺れかけていた水の中から引き上げてもらったみたいな安心感を覚えた。
「天海、ありがと……」
「ん。尾行とか、キモいことしてごめんな」
人差し指で頬を掻いて、気まずそうに天海が言う。俺は黙って首を振った。
やっぱり、お前が好き。
誰がなにを言っても、大っぴらに言えないようなことをした過去があっても、変わらない。
ただ、先輩の話が本当なら、なんでそんなことをしたのかは、知りたい。俺がお前にできることはないのか、知りたい。
それからはお互い、なにも話さずに、ただ横に並んでゆっくりマンションへ向かって歩いた。
「天海、あのさ、山城先輩が言ってたことって、本当なのか……?」
帰ってすぐ、リビングに立ったまま、天海の背中にそう尋ねる。
しんとしたリビングに、エアコンが冷気を吐き出す音だけが響く。
天海の背中は一度、びくりと揺れたが、振り返った顔にはとくになんの感情も浮かんでいなかった。
「ママ活の話? ほんとだよ。高校入ってSNSで緩く始めたんだけど、なんか最初のお客さんが裕福な人で、その人に気に入られて、知り合いの人を紹介してもらってって感じで、金銭感覚がバグる程度には稼げた」
「なんで……そんなことしたんだよ。たこちゃんの面倒見て、俺まで居候させてくれてる今はともかく、その頃の天海に、お金が必要な理由なんてなかったんじゃないのか?」
あっさり認めた天海に、思わず責めるような言い方をしてしまう。俺は、なにかを言える立場にはないのに。
喧嘩をしていると思ったのか、たこちゃんが間に入ってきて不安げに俺たちの顔を見ている。
「うん。金が必要なわけじゃなかったんだけど、金があったら、なにか変わるのかなって、知りたくて」
「……どういう意味……?」
「俺、わかんなくてさ。母親と二人で普通に暮らせればよかったのに、それじゃダメだって大人は言う。みんな、俺のことなんか疎ましく思ってるくせに、病院を継ぐのが幸せだなんて言うんだよ。儲かるからって、名誉なことだって。儲かるって、じゃあ金があったら、なんか変わるのか? 金があれば、お前とサッカーしてた頃みたく、楽しくなれるのか? って、思って……」
天海の声も表情もすごく穏やかで、それがなんでか悲しく見えた。
「だから、手っ取り早そうな方法で、金稼いでみた。おかしいよな。知らない女の人と一緒に飯食ったり、頼まれたことするだけで、簡単に稼げてさ……でも、そうしたらますます虚しくて、なにがしたいのかわかんなくなっちまった」
天海が目を閉じて、細く息を吐く。たこちゃんが天海に近寄り、きゅうん、と小さく鳴いた。
「学校も、退学でいいと思ったんだ。退学になれば父親も俺のことを見限るし、もう、なにもかもがどうでもよくって。でも、よりによって父親が学校に話をつけて、停学止まり。違法なことしたのに、補導されただけでおしまい。なあんも、変わんなかったよ」
「天海、なんでそんなに、自分を雑に扱うんだよ……お前、たこちゃんや俺には優しいじゃん。どうして、自分のことは大事にしないんだよ。なんもなかったのなんて、結果論だろ? とんでもねえ犯罪に巻き込まれた可能性だってあったんだぞ? わかってんのかよ!」
運良く、度を越した要求をしてきたり、怪しい人間との関係をチラつかせて脅してくるような客がいなかっただけで、ひとつ間違えればどうなっていたかわからない。
その危険性に、賢い天海が気づかないはずがない。本当にどうでも、どうなってもよかったんだろう。
そうして稼いだお金にさえ興味がなくて、貯めたままだったから、今、こんなに自由にお金を使えているんだろう。
山城先輩に暴行されかけていた俺をあんなふうに助けてくれたこいつは、今もたこちゃんの頭を柔らかく撫でるこいつは、自分に対しては恐ろしく投げやりだ。
それだけは、どうしても改めて欲しかった。
俺が好きなお前のことを、お前にも好きになって欲しいんだよ。
「前にも言っただろ。俺にはお前とサッカーやってた時までが全部で、あれからはもう、消化試合なんだよ」
「じゃあ、じゃあ俺がいたら、お前は二度とそんなことしない? 俺がずっと、横で見張ってたら……」
天海は小学五年生を前にした春、俺の前から消えて、それからはずっと周りの大人の期待に応えて、でもずっと寂しくて。
俺と同じように、けど俺とは違った意味で、お前もあの五年間に囚われて生きてきたのなら、同じ時間を知っている俺がいたら少しは違う?
お前が一番一緒にいて欲しい人とは違っても、お前の好きな人じゃなくても、役に立てる?
天海の手に触れて繋ごうとする。が、天海は俺の指を避けて手を握り締めてしまった。
明確な拒絶に呆然とする俺の耳に、不安げに震える天海の声が届く。
「雪村。そういう優しさって。友達なら普通のことなのか? 俺、友達なんかいたことねえから、わかんねえよ」
「え……」
「なんてな。悪りぃ、無理だよ。お前とは、友達にはなれない。今さら幼馴染にも、なれない」
天海、笑っているみたいに目尻は下がっているんだけど、口元は頼りなく震えていて今にも泣き出しそう。
「俺、雪村のことが好きなんだよ。ずっと。だから、お前が望む関係には落ち着けそうにない。ごめんな」
痛みに嘔吐して、全身を冷や汗が流れて、俺はもう走れないのかと絶望した時のことを思い出して、震えが止まらない。
今、この人に蹴られたら、せっかくここまで治したのに俺の膝は壊れる——
そう思い、ぎゅっと目を瞑った時だった。骨が肉を打つ鈍い音が響いて、のし掛かっていた先輩の重圧がなくなる。
「汚ねえ真似してんじゃねえよ。相模原城南のエースストライカー様」
誰かの呻き声に被さって、よく知った男の、聞いたことがないような怒気を孕んだ低い唸り声が、すぐ近くで聞こえる。
恐る恐る瞼を開けると、目の前にはここ最近ですっかり見慣れた広い背中があった。
「え……あまみ……なんで?」
「ごめん。お前、朝から様子がおかしかったから、ずっとつけてたんだけど、見失って遅くなった」
天海は俺を庇うようにして立っていた。俺がまだ震えていることに気づくと、ぎゅっと手を握って、落ち着かせるように親指で俺の手の甲を撫でてくれた。
それを見て、頬を赤く腫らした山城先輩が、傾いだ体勢を立て直しながら嘲笑うような声をあげる。
「きっしょ! お前、ホモなのかよ! オバさん相手に売春するわ、ホモだわで、終わってんなあ」
「マウントで後輩に手ェ出そうとする奴のが、よっぽどだせぇだろうがよ。知ってるか? 猿でも、マウント目的で同性間の交尾なんかしないらしいぜ」
そう天海が冷たく吐き捨てると、山城先輩は言い返す言葉が思い付かない様子で、唇をわななかせた。
「あんたがムカついてんのは、怪我をした雪村に対してじゃねえ、試合結果にでもねえ。てめえんとこの、監督に対してなんじゃねえのか?」
「あ……?」
「雪村、この前の試合見て、出たかったって、大泣きしてたぞ。あんたのことも、ほんとはもっとやれる人なんだって、すげえ人なんだって、言ってた」
天海の言葉に、山城先輩が小さく息を飲む。それから戸惑ったような表情で俺を見た。
「あんたが言った通り、俺は道を踏み外してる。だから、わかるんだよ。あんたがやんなきゃいけないことって、負い目があるこいつを甚振ることじゃないんじゃねえの?」
そこまで言うと、天海は俺に向き直って、乱暴に掴まれてボサボサになっていた髪の毛を優しく撫でて直してくれた。
「帰ろう、雪村」
さっきまでとは別人のような静かな声の天海に手を引かれて、表通りに出る。
明るい日差しと、行き交う人の話し声に、まるで溺れかけていた水の中から引き上げてもらったみたいな安心感を覚えた。
「天海、ありがと……」
「ん。尾行とか、キモいことしてごめんな」
人差し指で頬を掻いて、気まずそうに天海が言う。俺は黙って首を振った。
やっぱり、お前が好き。
誰がなにを言っても、大っぴらに言えないようなことをした過去があっても、変わらない。
ただ、先輩の話が本当なら、なんでそんなことをしたのかは、知りたい。俺がお前にできることはないのか、知りたい。
それからはお互い、なにも話さずに、ただ横に並んでゆっくりマンションへ向かって歩いた。
「天海、あのさ、山城先輩が言ってたことって、本当なのか……?」
帰ってすぐ、リビングに立ったまま、天海の背中にそう尋ねる。
しんとしたリビングに、エアコンが冷気を吐き出す音だけが響く。
天海の背中は一度、びくりと揺れたが、振り返った顔にはとくになんの感情も浮かんでいなかった。
「ママ活の話? ほんとだよ。高校入ってSNSで緩く始めたんだけど、なんか最初のお客さんが裕福な人で、その人に気に入られて、知り合いの人を紹介してもらってって感じで、金銭感覚がバグる程度には稼げた」
「なんで……そんなことしたんだよ。たこちゃんの面倒見て、俺まで居候させてくれてる今はともかく、その頃の天海に、お金が必要な理由なんてなかったんじゃないのか?」
あっさり認めた天海に、思わず責めるような言い方をしてしまう。俺は、なにかを言える立場にはないのに。
喧嘩をしていると思ったのか、たこちゃんが間に入ってきて不安げに俺たちの顔を見ている。
「うん。金が必要なわけじゃなかったんだけど、金があったら、なにか変わるのかなって、知りたくて」
「……どういう意味……?」
「俺、わかんなくてさ。母親と二人で普通に暮らせればよかったのに、それじゃダメだって大人は言う。みんな、俺のことなんか疎ましく思ってるくせに、病院を継ぐのが幸せだなんて言うんだよ。儲かるからって、名誉なことだって。儲かるって、じゃあ金があったら、なんか変わるのか? 金があれば、お前とサッカーしてた頃みたく、楽しくなれるのか? って、思って……」
天海の声も表情もすごく穏やかで、それがなんでか悲しく見えた。
「だから、手っ取り早そうな方法で、金稼いでみた。おかしいよな。知らない女の人と一緒に飯食ったり、頼まれたことするだけで、簡単に稼げてさ……でも、そうしたらますます虚しくて、なにがしたいのかわかんなくなっちまった」
天海が目を閉じて、細く息を吐く。たこちゃんが天海に近寄り、きゅうん、と小さく鳴いた。
「学校も、退学でいいと思ったんだ。退学になれば父親も俺のことを見限るし、もう、なにもかもがどうでもよくって。でも、よりによって父親が学校に話をつけて、停学止まり。違法なことしたのに、補導されただけでおしまい。なあんも、変わんなかったよ」
「天海、なんでそんなに、自分を雑に扱うんだよ……お前、たこちゃんや俺には優しいじゃん。どうして、自分のことは大事にしないんだよ。なんもなかったのなんて、結果論だろ? とんでもねえ犯罪に巻き込まれた可能性だってあったんだぞ? わかってんのかよ!」
運良く、度を越した要求をしてきたり、怪しい人間との関係をチラつかせて脅してくるような客がいなかっただけで、ひとつ間違えればどうなっていたかわからない。
その危険性に、賢い天海が気づかないはずがない。本当にどうでも、どうなってもよかったんだろう。
そうして稼いだお金にさえ興味がなくて、貯めたままだったから、今、こんなに自由にお金を使えているんだろう。
山城先輩に暴行されかけていた俺をあんなふうに助けてくれたこいつは、今もたこちゃんの頭を柔らかく撫でるこいつは、自分に対しては恐ろしく投げやりだ。
それだけは、どうしても改めて欲しかった。
俺が好きなお前のことを、お前にも好きになって欲しいんだよ。
「前にも言っただろ。俺にはお前とサッカーやってた時までが全部で、あれからはもう、消化試合なんだよ」
「じゃあ、じゃあ俺がいたら、お前は二度とそんなことしない? 俺がずっと、横で見張ってたら……」
天海は小学五年生を前にした春、俺の前から消えて、それからはずっと周りの大人の期待に応えて、でもずっと寂しくて。
俺と同じように、けど俺とは違った意味で、お前もあの五年間に囚われて生きてきたのなら、同じ時間を知っている俺がいたら少しは違う?
お前が一番一緒にいて欲しい人とは違っても、お前の好きな人じゃなくても、役に立てる?
天海の手に触れて繋ごうとする。が、天海は俺の指を避けて手を握り締めてしまった。
明確な拒絶に呆然とする俺の耳に、不安げに震える天海の声が届く。
「雪村。そういう優しさって。友達なら普通のことなのか? 俺、友達なんかいたことねえから、わかんねえよ」
「え……」
「なんてな。悪りぃ、無理だよ。お前とは、友達にはなれない。今さら幼馴染にも、なれない」
天海、笑っているみたいに目尻は下がっているんだけど、口元は頼りなく震えていて今にも泣き出しそう。
「俺、雪村のことが好きなんだよ。ずっと。だから、お前が望む関係には落ち着けそうにない。ごめんな」
