幼馴染でも友達でもない、いけすかない男と可愛いあの子

 犬堂動物病院のお客さんは、小型犬や猫の飼い主さんが多いらしく、俺たち以外はキャリーバッグを使っている。今日も俺たち以外に、リードで繋いだ犬を連れている人はいない。
 たこちゃんはキャリーバッグの中にいる子には反応しない。
 なので、たこちゃんの悪癖が出ることはなさそうだなと安心していたのだが、考えが甘かった。
「こんにちは。たこちゃん、元気そうだね。次だから、ちょっと待っててね」
 他の飼い主さんに薬を渡しに来た犬堂先生が、たこちゃんの頭を撫でる。
 たこちゃんは余裕のある様子で尻尾を振っている。
 しかし、いい子にしていると思った次の瞬間——奥の診察室の扉が開いて、活発そうなハスキー犬と、リードを引いたおじさんが現れた。
 そこからはもう、ひどいものだった。
 たこちゃんは犬堂先生を跳ね飛ばし、バウバウッ! と大きな声をあげてハスキー犬に飛びかかろうとする。
 ハスキー犬も飼い主のおじさんを引き倒さんばかりの勢いで身体を捻って暴れて、たこちゃんに飛びつこうとする。
「たこ、やめなさい! 遊びに来てるんじゃないぞ!」
「レオン、やめろ! このやんちゃ坊主が!」
 天海とおじさんの怒声と犬の吠える声、天海とおじさんのスニーカーがキュッキュッと音を立ててリノリウムの床を擦る音が、待合室の静けさを壊していく。周りからクスクス笑う声があがって恥ずかしい。
「レオン君、お会計は外でしましょうか。たこちゃんは診察室に連れてっちゃって」
 早口で犬堂先生にそう言われて、天海がたこちゃんを押さえ込んでいる間に、おじさんがハスキー犬を引っ張って出口に向かう。
「ごめんな、兄ちゃんたち」
「いえ、こちらこそ……」
 おじさんが申し訳なさそうに頭を下げる。俺もペコペコ頭を下げて、一件落着と安心したところで、待合室に大きな声が響いた。
「あの、すみません! 予約とかしていないんですが、この子を助けてほしくてっ」
 驚いて声がした方を見ると、体当たりをするような勢いでドアを開けて、俺の母さんより少し年下くらいの女の人が受付前に駆け込んできたところだった。
 女の人は何かを包んだバスタオルを大切そうに抱えていて、青ざめて震えている。
 タオルには血が滲んでいて、尋常ではない様子に待合室に戸惑いと静かなどよめきが広がった。
 あれだけ興奮していたたこちゃんとハスキー犬も、緊張した空気を察したらしく、大人しく座っている。
 そんななか、犬堂先生だけは冷静さを崩さず、女の人に近づくとタオルの中をそっと覗き込んだ。
「この子……」
 俺たちからは、タオルの中身は見えない。けれど、犬堂先生の強張った表情から、なにかの生き物が、深刻な状態にあることだけは伝わる。
「近所のゴミ捨て場に、紙袋に入って捨てられてて、カラスに囲まれてて……たす、助かりますか……?」
 待合室にいる全員の視線が、犬堂先生と女性、そして彼女の抱えたバスタオルに注がれた。
「先生、俺たちはいくらでも待つんで、その子を診てください」
 最初に声をあげたのは、天海だった。
 それに釣られて、待合室にいるほかの患者さんたちも口々に「そう、そう」「早く診てあげて」と声を上げる。
「わかりました。じゃあ、こちらに」
 犬堂先生はふらつく女性の方をそっと支えるようにして、診察室へと誘導する。
 女の人が横を通り過ぎた時に、タオルの中身が少しだけ、見えた。
 ——包まれていたのは、片手に乗りそうな小さな、小さな子猫で、片方の耳がちぎれかけて、まだ開いていない両方の目の周りが血だらけになっていた。
 正直、正視できないような酷い状態だ。でも目を逸らしたら頑張って生きている子猫に失礼な気がして、俺は口を真一文字に結んで女性の背中を見送った。
 俺たち、待合室に居合わせた面々は、それ以降はなにも話さずに、閉じた診察室のドアをただ見守っている。
 ハスキー犬とおじさんは、心配げに何度も診察室を振り返りながら、帰っていった。
 口に出さなくても、全員が小さな命が助かることを願っているのだと、痛いほど伝わる。
 しばらくして、女性だけが診察室から出てきた。人目を気にせず、涙を拭く余裕さえない彼女に、小型犬を連れた上品な雰囲気のお婆さんがそっとティッシュを差し出す。
「すみません、割り込んで、皆さんにご迷惑をおかけしてしまって……」
「なに言ってるの、誰も迷惑なんて思ってないわよ。ねえ」
 全員、頷く。
「あの子の体重だと、麻酔が使えないから……できる処置も限られるって……でも、やれることは全部やりましょうって……」
 女性はテッシュで鼻を覆って、ぼろぼろ涙をこぼした。
 
 かなり、待ったと思う。
 たこちゃんも何度かトイレと気分転換に外に出て行ったし、連れてきている動物のことを考えて、いったん帰宅を選ぶ人もいた。
 誰も、予定が狂ったことへの文句は言わない。受付のスタッフさんも協力しながら、今日予約を入れている人たちに診療時間が後ろ倒しになる旨の連絡を入れていたが、電話口で揉めている様子は見られなかった。
 そうしてやっと、診察室のドアが開いて犬堂先生が出てきた。
「大きな山は、越えたと思います。しばらく入院して経過観察が必要ですが……猫ちゃんは一生懸命頑張っていますから、助けましょう、僕たちで」
「明日も、見にきていいですか……? なにか、持ってきてあげた方がいいものとかは……ベッドとか、必要ですか?」
「もちろん、会いに来てあげてください。うーん、ベッドかあ。意外とね、猫ちゃんってベッドを使ってくれない子が多いんですよね。それでもよければ」
 二人の話を聞いて、その場にいた人は安堵の息をついたり、「よかった……」と呟いたりして、それぞれが子猫の無事を噛み締めている様子だ。
 俺も、無意識に震える指で天海の手を握っていた。
「助かったんだ……さっきの子」
「ああ、よかった……すげえな……犬堂先生」
 天海が、ズッと洟をすすって俺の手を強く握り返してきた。
「さて。待たせちゃって、ごめんね。二人も、たこちゃんも」
「あ、あ、はい! とんでもないです」
 急に犬堂先生がこちらを見てきたので、慌てて繋いでいた手を離した。 
 
 診察を終えて外に出たら、もうすっかり外は暗くなっていて、さっき入道雲があったあたりに、大きな月が浮かんでいた。
「遅くなっちゃったけど、たこちゃん、体重増えててよかったな」
「うん」
「猫ちゃん、早く元気になるといいな」
「うん」
「でもさ、猫ちゃん連れてきた人だけじゃなくて、ほかの人もみんな、優しかったよな」
「うん」
 うん、ばっかじゃん。そう思って見上げると、天海は遠くを見て、なにかを考えている様子だった。
 一方的に話しかけちゃったけど、たぶん今はそっとしておいて欲しいんだろう。
 子猫が助かったことで、俺はハイになっていたんだと思う。
 この勢いで、本当に言いたいことも伝えちゃおうかなと思ったけど、今はタイミングじゃないみたいだ。
 
 久しぶりにお前に会って、成り行きでこんなことになったけど、俺、お前と一緒に過ごせて本当によかった。

 だから、ありがとうって言いたかったんだ。
 お前がいないところでも、いろんなことがあって、いろんな人に会ったよ。
 けど、お前はやっぱり特別だよ。
 だって、天海と一緒じゃなかったら、たこちゃんとも会えなかったし、経験できなかったことばかりだから。
 そう伝えたかったけど、それはまた今度でいいや。