「風越……雄一?」
風越記念病院って、院長一族の苗字からつけた病院名だったのか。けど、どういうこと? 天海とお父さん、なんで苗字が違うんだ……?
「俺の父親と母親は、結婚してねえんだ。学生時代に付き合ってたらしいんだけど、父親には親が決めた婚約者がいて、結婚はできなかったんだと」
テレビが消えて、静かになった部屋に天海の声だけが静かに響く。
そう……だったんだ。そう返したけれど、実のところ天海が俺なんかに話してくれたことには驚いたものの、話の内容には、あまり衝撃を受けなかった。
なんとなく、天海の家が複雑な事情を抱えていそうなのは、察していたから。
「えと、じゃあ、ご両親が付き合ってた頃に生まれたのが天海ってこと……?」
天海は、こちらを振り返らない。
立ち入った質問だと思ったけれど、俺は聞かずにいられなかった。
だって今を逃したら、天海の心には触れられない気がしたから。
「いや。父親が結婚してからもずるずる関係が続いてて、不倫の果てに生まれたのが俺。そんだけなら、まだよかったんだけど、父親と奥さんの間には子供ができなくてさ。結局、父親の血をひいてて、医者になれるのは俺しかいないんだとさ」
「天海の、お母さんは? 今どこにいるの?」
どこまで聞いていいのか、探り探り、慎重に言葉を選んで質問をする。
天海に言われた通り、俺はズボラだ。繊細なタイプではないし、思ったことを口に出しがちな自覚がある。しかも、顔が見えないから、天海の気持ちもよくわからない。
詰める距離を見誤るな。薄氷を踏む思いで、少しずつ近づかないと。布巾を握る手のひらに汗が滲んだ。
「今は東京で暮らしてるらしい。けど、詳しい住所は知らねえ。中学に入ってからは、会ってねえし。電話も、向こうからかかってくるだけだし」
「えと、天海はさ、子供の頃はお母さんと一緒に暮らしてたのか? で、星霜に受かったら、お父さんと暮らすようになった……ってこと?」
「そんな感じ。父親の奥さんの家の方がいろいろ言ってきたみたいで、子供の頃から、俺は外を母さんと歩いたりとか、あんまりできなかったんだけどね。知らされてなかったんだけど、かなり早くから、俺が期待通りの成長をしたら風越の家に入れる話がついてたらしくてさ。入学式とかも、父親が寄越した知らない人が来てた」
あ……母さんも言ってた。天海の両親は、試合も観に来てなかったって。
そりゃ、小学校の中学年にもなる頃には、親より友達、むしろ親が学校や試合に来ていることが恥ずかしいくらいだったけど、幼稚園児の頃は俺だって母さんが世界一好きだった。
サッカーも母さんが応援してくれることが嬉しくてたまらなくて、練習が終わると母さんに駆け寄って「見てた? 見てた?」とまとわりついていた。
天海は、そんな俺たちにとって普通の日常を、何を思って見ていたんだろう——
「それでも俺、幸せだったよ。家も狭かったけど、母さんがいたし。母さんには、愛してもらえたと思ってる。けど、風越の家に行ってからは、ほんと……キツかった。ずうっと切れなかった不倫相手の子なんだから、憎まれて当然なんだけど」
天海の肩が、わずかに震える。
いつの間にかソファの上に移動していたたこちゃんが、ゆっくりと起き上がって、天海の横に歩いていく。そして、そのままぴったりと天海の脚に寄り添って座る。
俺も、拭いていたお皿をそっとカウンターに置いて、静かに天海に近づく。
「中学卒業まで風越の家で暮らしたんだけど、結局馴染めなくて。それで眠れなくなって成績も下がったら、父親と奥さんが喧嘩するようになってさ。結局、俺がいるせいで家が壊れるってなって、父親からこのマンションに住むように言われた。あの時は嬉しかったな。母さんが一緒に住んでくれるんじゃないかと思って、食器も二個ずつ買ったんだ」
天海の声が不安定に揺れる。俺が真後ろまで来ても、振り向いてはくれない。
「でも、母さんは来てくれなかった。それどころか、『もう、あなたの母親は私じゃない。私のことはお母さんじゃなくて、由利子って名前で呼ぶように』って、さ。言われちゃった」
「え……」
由利子さん。あの夜に聞いた名前だ。本当にお母さんだったなんて……。
天海と一緒にいて感じた小さな違和感、母さんの話——ちょっとずつ集めた情報が、全部、繋がっていく。
「母さんだけは、家族でいてくれると、思ったんだけどなあ……」
天海はたぶん、俺に話しかけてるんじゃない。自分の気持ちを、ただ、空間に吐き出している。
今まで誰にも辛いと言えなくて、天海自身も悲しいという自分の気持ちを、蔑ろにしてきたのかもしれない。
かける言葉なんて見つからなくて、けれど黙って立っていることもできなくて、俺は天海の背中に向かって手を伸ばした。
それからゆっくり、逃げられないように慎重に天海の身体に腕を回して、後ろから抱き締める。
「お前みたいに、なりたかった」
「……うん」
「ほんとは、母さんと暮らして、ずっとサッカーやりたかった……」
「……うん」
「あのままで、なんにも、変わりたくなかった……っ」
天海の声が、大きく揺らぐ。
俺は、天海のことをなにも知らなくて、なにもわかってなかった。
なんでもできるから俺とは違うんだなんて、呑気なことを思って、あまつさえサッカーを辞めていたことに苛立ちまで覚えた。
再会したばかりの時に言われた「お前とは違う」っていう言葉に、こんな意味があるなんて考えもしなかった。
俺が、天海にできることって、なんだろう。
好きな人が泣いている姿を前にして、俺はただただ、一緒に泣くことしかできない。
お前を笑わせたいよ。ガキの頃から馴染みがある、スカした笑顔でも、意外なほど幼い笑顔でも、なんでもいいから笑わせたい。けど、なにもできない。
無力さが、歯痒かった。
風越記念病院って、院長一族の苗字からつけた病院名だったのか。けど、どういうこと? 天海とお父さん、なんで苗字が違うんだ……?
「俺の父親と母親は、結婚してねえんだ。学生時代に付き合ってたらしいんだけど、父親には親が決めた婚約者がいて、結婚はできなかったんだと」
テレビが消えて、静かになった部屋に天海の声だけが静かに響く。
そう……だったんだ。そう返したけれど、実のところ天海が俺なんかに話してくれたことには驚いたものの、話の内容には、あまり衝撃を受けなかった。
なんとなく、天海の家が複雑な事情を抱えていそうなのは、察していたから。
「えと、じゃあ、ご両親が付き合ってた頃に生まれたのが天海ってこと……?」
天海は、こちらを振り返らない。
立ち入った質問だと思ったけれど、俺は聞かずにいられなかった。
だって今を逃したら、天海の心には触れられない気がしたから。
「いや。父親が結婚してからもずるずる関係が続いてて、不倫の果てに生まれたのが俺。そんだけなら、まだよかったんだけど、父親と奥さんの間には子供ができなくてさ。結局、父親の血をひいてて、医者になれるのは俺しかいないんだとさ」
「天海の、お母さんは? 今どこにいるの?」
どこまで聞いていいのか、探り探り、慎重に言葉を選んで質問をする。
天海に言われた通り、俺はズボラだ。繊細なタイプではないし、思ったことを口に出しがちな自覚がある。しかも、顔が見えないから、天海の気持ちもよくわからない。
詰める距離を見誤るな。薄氷を踏む思いで、少しずつ近づかないと。布巾を握る手のひらに汗が滲んだ。
「今は東京で暮らしてるらしい。けど、詳しい住所は知らねえ。中学に入ってからは、会ってねえし。電話も、向こうからかかってくるだけだし」
「えと、天海はさ、子供の頃はお母さんと一緒に暮らしてたのか? で、星霜に受かったら、お父さんと暮らすようになった……ってこと?」
「そんな感じ。父親の奥さんの家の方がいろいろ言ってきたみたいで、子供の頃から、俺は外を母さんと歩いたりとか、あんまりできなかったんだけどね。知らされてなかったんだけど、かなり早くから、俺が期待通りの成長をしたら風越の家に入れる話がついてたらしくてさ。入学式とかも、父親が寄越した知らない人が来てた」
あ……母さんも言ってた。天海の両親は、試合も観に来てなかったって。
そりゃ、小学校の中学年にもなる頃には、親より友達、むしろ親が学校や試合に来ていることが恥ずかしいくらいだったけど、幼稚園児の頃は俺だって母さんが世界一好きだった。
サッカーも母さんが応援してくれることが嬉しくてたまらなくて、練習が終わると母さんに駆け寄って「見てた? 見てた?」とまとわりついていた。
天海は、そんな俺たちにとって普通の日常を、何を思って見ていたんだろう——
「それでも俺、幸せだったよ。家も狭かったけど、母さんがいたし。母さんには、愛してもらえたと思ってる。けど、風越の家に行ってからは、ほんと……キツかった。ずうっと切れなかった不倫相手の子なんだから、憎まれて当然なんだけど」
天海の肩が、わずかに震える。
いつの間にかソファの上に移動していたたこちゃんが、ゆっくりと起き上がって、天海の横に歩いていく。そして、そのままぴったりと天海の脚に寄り添って座る。
俺も、拭いていたお皿をそっとカウンターに置いて、静かに天海に近づく。
「中学卒業まで風越の家で暮らしたんだけど、結局馴染めなくて。それで眠れなくなって成績も下がったら、父親と奥さんが喧嘩するようになってさ。結局、俺がいるせいで家が壊れるってなって、父親からこのマンションに住むように言われた。あの時は嬉しかったな。母さんが一緒に住んでくれるんじゃないかと思って、食器も二個ずつ買ったんだ」
天海の声が不安定に揺れる。俺が真後ろまで来ても、振り向いてはくれない。
「でも、母さんは来てくれなかった。それどころか、『もう、あなたの母親は私じゃない。私のことはお母さんじゃなくて、由利子って名前で呼ぶように』って、さ。言われちゃった」
「え……」
由利子さん。あの夜に聞いた名前だ。本当にお母さんだったなんて……。
天海と一緒にいて感じた小さな違和感、母さんの話——ちょっとずつ集めた情報が、全部、繋がっていく。
「母さんだけは、家族でいてくれると、思ったんだけどなあ……」
天海はたぶん、俺に話しかけてるんじゃない。自分の気持ちを、ただ、空間に吐き出している。
今まで誰にも辛いと言えなくて、天海自身も悲しいという自分の気持ちを、蔑ろにしてきたのかもしれない。
かける言葉なんて見つからなくて、けれど黙って立っていることもできなくて、俺は天海の背中に向かって手を伸ばした。
それからゆっくり、逃げられないように慎重に天海の身体に腕を回して、後ろから抱き締める。
「お前みたいに、なりたかった」
「……うん」
「ほんとは、母さんと暮らして、ずっとサッカーやりたかった……」
「……うん」
「あのままで、なんにも、変わりたくなかった……っ」
天海の声が、大きく揺らぐ。
俺は、天海のことをなにも知らなくて、なにもわかってなかった。
なんでもできるから俺とは違うんだなんて、呑気なことを思って、あまつさえサッカーを辞めていたことに苛立ちまで覚えた。
再会したばかりの時に言われた「お前とは違う」っていう言葉に、こんな意味があるなんて考えもしなかった。
俺が、天海にできることって、なんだろう。
好きな人が泣いている姿を前にして、俺はただただ、一緒に泣くことしかできない。
お前を笑わせたいよ。ガキの頃から馴染みがある、スカした笑顔でも、意外なほど幼い笑顔でも、なんでもいいから笑わせたい。けど、なにもできない。
無力さが、歯痒かった。
