幼馴染でも友達でもない、いけすかない男と可愛いあの子

 四限目の授業を終えた放課後。期末試験の結果も出て、あとは終業式と夏休みの始まりを待つだけの教室には、浮かれたムードが漂っている。
 なるべく荷物を軽くしたくて持ち帰るものを吟味していたら、後ろから手が伸びてきて、誰かが抱きついてきた。その拍子に机が揺れる。
 俺は慌てて、机に立てかけた松葉杖が倒れそうになるのを押さえた。
「イクー、お前、今日ヒマ? 時間ある?」
「ない。これからリハビリだっつの」
「マジか。大変だな。実はさあ、バイト先の子にお前のこと紹介してって頼まれちゃってさあ。うちのサッカー部のSNS見たらしくて、小動物系の可愛い顔と脚の筋肉のギャップがいいんだと。じゃあ、明日は? 土曜じゃん」
 そっけなく返したのにお構いなしに話し続けているのは、友人の木原 大輝(きはら だいき)だ。
 帰宅部のこいつは、友好関係が部活に固定されがちなスポーツ特待生の俺にとって、数少ない普通の友達である。いい奴ではあるのだが、こういった話を頻繁に持ちかけてくるのがややウザい。
「無理。この脚で、お前のバイト先まで行くのキツいって」
 椅子に座ったまま、脚を斜め前に伸ばした。ハーフパンツから出た俺の左脚は、太股からすねまで黒いギプスで覆われている。プレー中に捻ったことが原因で、怪我をしたのだ。
 半月板損傷。本格的に練習に復帰できるまでに、三ヶ月から半年かかると診断されている。
 半年——プロチームのスカウトは、だいたいが二年の夏から三年の夏までの間にくる。
 だが、スカウトマンは一回の試合の得点力やアシストだけを見ているわけではないし、一年の時から実力を売り込んでおきたい。それは、うちみたいなサッカー強豪校の選手なら、全員が思っていることだ。
 半年で治るのか、三ヶ月で復帰できるのかは俺にとっては死活問題だったし、とても知らない女の子と笑って楽しめるような心の余裕はなかった。
「やっぱダメ? お前紹介して、代わりにその子の友達紹介してもらう約束なんだよ。せっかく部活休めんだから、遊んどけよー」
 食い下がってくる木原を、「ダメ」「いらん」といなしながら窓の外を見る。
 校庭でストレッチを始めているサッカー部の奴らが目に入った。すぐ練習ができるように、早弁をしたのだろう。俺だって、ついこの前までは弁当を二個作ってもらって、午前に一個、午後に一個食べてた。
 なんとなく居心地の悪さを覚えて顔を上げると、七月だというのに薄い雲に覆われた空は灰色で、太陽がやけに遠く感じられた。
 
 風越(かざこし)記念病院は、俺が通う高校から各駅停車で七駅離れた場所にある。松葉杖をつきながら通うには少し遠いが、専門的なリハビリが受けられるから、ここに通っている。
「いつから部活に復帰できますか?」
「雪村君、気持ちは分かるけれど焦りは禁物だよ。相模原城南(さがみはらじょうなん)のスポーツ特待生だとプレッシャーも感じるんだろうけど、まだ君は一年生だ。いくらでもチャンスがあるんだから、早く治すことより、しっかり治すことを考えないと」
 整形外科の診察室。食い気味に質問をすると、MRI画像をモニターに映しながら説明をしていた担当医の先生が、困った様子で眉を下げた。隣で看護師さんも気遣わしげな目で俺を見て、頷いている。
 完治が優先。そんなこと、わかっている。けれど今欲しいのは正論じゃないから、担当医の言葉に唇を噛んだ。
 この怪我が原因で、インターハイにはどうやったって出られない。なら、選手権は? 地区大会の決勝までには復帰できる? 
 試合に出られるかはわからない。それでもなんとか選手権が終わるまでに、練習には参加したい。
 だけど結局、今日の診察でも俺が望んだ「よくなっている」という言葉はなく、早く松葉杖を取りたくて痛くないふりをしたけど、それも見破られた。「雪村君、嘘は感心しない」と、怒られただけだった。
 診察とリハビリを終えて、とぼとぼと松葉杖をついて会計を済ませる。
 そして、次回の予約もお願いして帰ろうとしたところで、ふと視線を感じた。
 なんだろう? 俺は見えない糸に引っ張られるようにして、診察室へと続く廊下の方へ振り返った。
 
 じっとこちらを見ている、同年代の男と目が合う。
 灰色のドロップショルダーシャツに黒いテーパードパンツという私服姿の、背の高い、男だ。
 ——え。こいつ……
 相手の姿をとらえた瞬間、俺の目は自分でも分かるほどはっきり見開いていった。相手も同じようで、色素の薄い黒目の中心で、瞳孔が開いたのがわかった。
 
 時間が止まったように感じられたけれど、実際はきっとほんのわずかな間、俺たちは無言で視線を絡ませた。
 運動公園で、校庭で、いがみ合いながら練習をした日々の記憶が一気に俺の頭を埋め尽くす。
 あのころの俺は、自分より少し先を行く、薄茶色のふわふわとした頭を必死に追いかけていた。
「雪村……?」
「……あまみ……」
 先に声を出したのは、相手の方だった。つられるようにして、俺の口からも相手の名前がこぼれる。
 間違いない、こいつは天海 雄飛 (あまみ ゆうひ)だ。
 初対面で俺に「俺がお前だったら、諦めるけどね」などと言ってきた、あいつ——
 だって、瞳にひまわりが咲いている。
 こんな、夏の記憶を閉じ込めたみたいなノスタルジックで不思議な色彩の持ち主、俺は一人しか知らない。
 切れ長の目に付け根から高い鼻、左目の下にある泣きぼくろ……子供の頃は美少年だったけど、成長した天海は男でも憧れるような男前だ。
 そいつが、大股でこちらに近づいてくる。俺はぼんやり、鮮明になる天海の姿を視界の中心に捉えたまま、動けずにいた。
 あっという間に目の前にまで来た男を見上げる。こいつ、ガキの頃からデカかったけど、今でも背が高ぇな。一八〇は軽くありそうで、ムカつく。
 なんだその、トレンドだが挑戦していいのはイケメンに限る、みたいなふわふわしたサイドパートのヘアスタイルは。おまけに色も透明感があるライトブラウン。子供の頃から髪の毛が薄茶色だったから、染めずにこんなに綺麗な色なんだろう。
「お前、脚どうしたんだ? それ診せに来たのか?」
「あー……ちょっと試合で。半月板やっちゃった。天海は? どっか悪いの?」
 五年ぶりに会ったとは思えない気安さで話しかけられて、久しぶり、とかそんな挨拶抜きで俺も返してしまう。
「うにゃ、どこも悪くねえよ? 父親に会いに来ただけ」
「え……天海のお父さん、入院してんのか……?」
「元気だよ。今も仕事中だし。俺の父親、ここの院長なの」
 ……まじか。
 思わず首を回して、あたりを見渡す。白を基調にした清潔感溢れる広々としたロビー。待合用のソファにはほとんど空きがなく、自動精算機にも患者が列を作っている。天井は吹き抜けになっていて、二階と三階にも診察室やら処置室やらの扉が整然と並ぶ。
 改めて見るとこの病院……デカいな。天海はこの病院のご子息なワケか。なるほど、我が子の練習に付き添ってきていたお母さん方が、こいつの噂をしてたのも納得だ。
「試合ってことは、雪村はまだサッカーやってるってこと? 相変わらずチビなのに、頑張ってんのね」
 半口を開けてキョロキョロしていたら、頭上からバカにしたような声が響いてきた。
「うっせえよ。サイドバックだし、そんなに身長はいらねンだよ! あと、チビじゃねえし! もうちょいで一七〇だし、平均身長だから!」
 チビ。気にしていることを言われて、反射的に声を荒らげてしまってから、ここが病院だったことを思い出して顔が赤くなる。
 目の前では天海が嫌味ったらしく、唇の前に立てた人差し指をつけて「しぃー」なんて言ってやがる。
 笑ってんじゃねえよ、くそ。人差し指の後ろで、口の片方が吊りあがってんの見えてんだぞ。
「ふうん。今もサイドバックやってんだ」
「お前が言ったんだろ。自分の武器を活かせって。って、お前は? 続けてんだろ、サッカー」
 こいつのユニフォームには、いつもエースナンバーの10がプリントされていた。得点力が群を抜いていたから。
 懐かしいな、なんて感傷にひたりつつ、現在の話が聞きたくてうずうずしてしまう。
 中学受験をして、県内随一の偏差値を誇る中高一貫の進学校である星霜学園(せいそうがくえん)に行ったって噂は聞いていたけど、こいつならどんな学校に行ったって、きっとサッカーは続けているはずだ。
 選手として名前を聞かないのは、星霜学園が中学も高校もサッカー部が非常に弱いからで、ブロック予選で勝ち上がってくることもなければ、メディアに取り上げられるような活躍をもしていないからだろう。
 もったいないな。こういうの、鶏群の一鶴っていうんだっけ? そう思って、愚痴のひとつも聞いてやる気で話を振った。
 しかし、天海から返ってきた言葉は予想外で、そっけないものだった。
「うにゃ。サッカーは小四でジュニアチーム辞めた時に卒業した。もうやってない」
「え……うそだろ……? お前、あんな上手かったのに……だし、好きだったじゃん。なんで、なんで辞めてんだよ」
「お前とは生きてる世界が違えの」
 この話は終わり、とばかりに溜め息混じりに天海が言う。
 なんだよ……その言い方。昔みたいに、同じ熱さで盛り上がれると思っていた俺が、バカみたいじゃないか。
 お前のこと、お前に言われたこと、お前とやったサッカーのこと……ずっと忘れられずにいた俺が、バカみたいじゃないか。
「庶民とは違うってか? は、久しぶりに会っても相変わらず嫌な奴。じゃあな」
 天海の言葉ひとつで下へ下へと沈んでいく心が許せなくて、そう吐き捨てて出口に向かおうとする。
 後ろから「おい、待てよ」という声がしたが、もう話すことなんてない。
 無視をして進もうとしたところで、後ろから腕を掴まれた。バランスを崩して後ろに倒れそうになったところを、すかさず天海が後ろから支える。
 思わず「ありがとう」と言いかけて、ハッとする。天海が俺の腕を掴んできたせいで、倒れそうになったんだった。
「あっぶね! なにすんだよ。杖ついてんの、見えるよな?」 
「悪ぃ……けど、お前が勝手に帰ろうとするから……」
 天海が口をへの字にして、不満げにボソボソ呟く。なんだこいつ? 不審に思っていたら、ぐるぐるきゅーという間の抜けた音が響いた。
「ははっ。雪村、腹減ってんのかよ」
「う、うるせえな! 昼飯食ってねえんだから、仕方ねえだろっ」
「おけおけ、じゃあ、メシ食いに行こうぜ。お前、家までそこそこかかるだろ?」
 天海は何が楽しいのか、しつこくクスクス笑っている。意地悪な笑い方じゃないから俺も断りきれなくて、オススメだというラーメン屋に行くことになった。