幼馴染でも友達でもない、いけすかない男と可愛いあの子

「と、いうわけで。今日、たこを動物病院に連れてこうと思うんだけど、一緒に行かれるか?」
「あ、うん。もちろん。早く診てもらったほうが安心だもんな。近くにあるのか?」
「昨日、お前が寝てから調べてみた。んで、トリミングもやってもらえるらしいから、ここがいいかなって思うんだけど……」 
 隣に来た天海のスマホを覗き込む。一番上に、緑色の丸みのあるフォントで『犬堂動物病院』とあり、スクロールすると診察可能な動物、院長の略歴と挨拶、お知らせ、と情報が続く。
「すげえな。院長の名前が犬堂だって。獣医になるべくしてなった感じじゃん」
 院長・犬堂 賢至(いんどう けんし)という名前の横に、フレームのないスクエア型の眼鏡をかけた三十代半ばくらいの優しそうな男の人の写真がある。
「な。俺も思った。家からも近いし、口コミの評判もいいから九時になったら電話してみよっかなって」 
「うん。いいと思う!」
 ここから歩いて二十分くらいで着きそうな場所にあるし、たこちゃんの負担になるような距離ではない。
 たこちゃんはかなり汚れていて獣臭がするんだけど、毛玉も多いし、皮膚に傷があったらまずいからとシャンプーもできずにいる。だから、トリマーさんがいるのもありがたい。
「じゃあ、飯食ったら電話だな」 
 そうしようと頷いてから、はたと気づく。電話、電話か。真夜中の電話のこと、聞いてみようかな。
 何度か唇を擦り合わせてから、思い切って口を開く。
「ねえ、天海。昨日の夜、誰かと話してなかった?」
「あ……? 話してる内容、聞こえたのか?」
「あ、ううん! なにを話してるのかはわかんなかったけど、声が聞こえたから……」
「母親だよ。母親から電話があっただけ」
 嘘つけ。ユリコさんって呼んでたじゃん。ベタな嘘をついてまで隠したいなんて、やはり特別な相手なのだろう。
 母親なわけねえだろ。そう思っても、口に出す権利なんて、俺にはない。
 この嘘を責める権利があるのは恋人くらいだろうし、気安く揶揄って許されるのはごく親しい友達だろう。
 俺と天海は、どちらでもない。苦い胸の痛みには気づかないふりをして、俺は「ふうん」とだけ、言った。
 興味がないように、努めてそっけなく振る舞ったつもりだけど、唇はみっともなく震えていたかもしれない。
 
 犬堂動物病院は、まるで小児科のように可愛らしい内装の、明るい雰囲気の動物病院だった。
 白く、柔らかいリノリウムの床は今の俺の脚にも優しくて、待合室の壁には犬と猫が追いかけっこをしている大きなウォールステッカーが貼ってある。待合室から見える明るい水色の診察室のドアは、肉球の形の窓がついていて、オープンな印象だ。
 俺たち以外にも、三組ほどキャリーバッグを抱えた飼い主さんが待合室にいて、受付の電話もよく鳴っているから、人気なことがうかがえる。
 本当なら、事前の予約もなしに今日診てもらうのは難しかったのかもしれない。
 しかし、九時ぴったりに天海が電話をして「昨日、保護したばかりで痩せている」と説明したところ、スタッフさんが院長の犬堂先生に代わってくれて、「すぐに診せにきて」と言ってもらえたのだ。
 俺たちは今、人間だけで犬堂動物病院の待合室にある、黄色いソファに座っている。たこちゃんは奥で血液検査などを受けていて、結果を待っているのだ。
 たこちゃんてば、なかなか診察室に行きたがらなくて、大変だった。
 病院に到着して受付をしていると、すぐに犬堂先生が出てきてくれた。犬堂先生は紺色のスクラブを着ていて、人の良さを現したような笑い皺が特徴的な好人物だ。
 先生は待合室でたこちゃんの耳や脚、胴体などを簡単に確認すると「外耳炎になってますね。先に奥で、フィラリアの検査と口の中の診察をしましょう。じゃあたこちゃん、一緒に行こうか」と言って、たこちゃんを二、三回ぽんぽん撫でてから、診察室に連れて行こうとした。
 ここまでは、いい子だったのだ。しかし、天海が犬堂先生にリードを渡すと、たこちゃんはパニックになったようにガウガウ吠えて、前脚で天海の脚にしがみついて離れなくなってしまったのだ。
 これまで小さな声で、「くん」とか「きゅう」とかしか鳴かなかったから、まず本気で吠えるたこちゃんの声の大きさに驚いたし、天海にしがみつく力の強さにも驚いた。
 結局、犬堂先生のほかに若い男性の看護師さんが二人も協力してくれて、たこちゃんは、天海から引き剥がされた。
 そうして文字通り引きずられるようにして診察室に入っていったのだが、こちらを見る悲しげな瞳が忘れられない。
 なぜ裏切るのか、自分を見捨てるのかと言いたげな瞳だった。
 大騒ぎしてしまったことを待合室にいるほかの人たちに謝ると、みんなニコニコしながら「うちの子も病院は怖いから」「先生は優しいから、大丈夫よ」と言ってくれたのが、せめてもの救いである。
「たこちゃん、大丈夫かな」
「ああ。何もないといいんだけどな……」
 天海と並んでベンチに座って、診察室の扉をじっと見る。
 待合室にいるほかの犬や猫も、キャリーバッグの中で不安げだったり不満げだったりする声をあげていて、病院が苦手な様子だ。
 ちゃんと診察を受けられているのか、大きな病気はないか、たこちゃんが心配でたまらず、無意識に隣に座る天海のTシャツの裾を握ってしまう。
 天海はちらっと俺の方を見てが、何も言わずにそのままにさせてくれた。
「天海さーん、お入りください」
 どのくらい待っただろうか。ようやく診察室のドアがガチャリと開いて、看護師さんが顔を出す。俺たちは少し緊張して、診察室に入った。 
「結果からお伝えすると、フィラリア、陽性でした」
 犬堂先生はそう言って『大切な家族のためのフィラリア予防』というリーフレットを俺たちに渡し、病気について説明をはじめる。
 しかし、俺はリーフレットの表紙に赤字で大きく書かれた『フィラリアは命に関わる危険な病気』という文字しか頭に入らなくて、不躾を承知で先生の話を遮り、声を荒らげた。
「命に関わるって……どういうことなんですか? 治らないんですかっ?」
 たこちゃんは診察台の上で伏せをして、不思議そうに俺を見ている。
 死んじゃうのか? この子が? 元気に見えるのに、なにも悪いことをしていないのに……!
「落ち着いて。軽度だから、今からきちんと投薬を続ければ、命に関わるようなことはにはなりませんよ。この子はたぶん、老犬と言っていい年齢に差し掛かっていると思うんだけど、身体も大きいし体力もある。急に悪化する危険性は、低いと思ってもらって大丈夫だからね」 
 唾を飛ばすほどの勢いで食ってかかってしまった俺に、犬堂先生は宥めるように優しく、ゆっくり説明してくれた。
 犬堂先生が悪いわけではないのに、責めるような言い方をした自分が恥ずかしくて「ごめんなさい……」と謝ると、先生は眦を下げる。
「いえ、心配してくれる人に見つけてもらえて、キミは幸せだね」
 それから、犬堂先生はたこちゃんの背中をゆっくり撫でる。
 単純かもしれないけど、その声音と手つきだけで、俺の中で先生に対する信頼が深まった。
 病気と治療法の説明の続きをした後、「なにか、質問はありますか?」という先生に対して、今まで黙って話を聞いていた天海が口を開く。
「たこは何歳くらいだと予想されますか? 食事の様子を見ていて、高齢なんじゃないかとは思っていたんですが、普段の生活で気をつけたほうがいいことは、あるんでしょうか?」
 冷静に質問をする天海を見て、俺は小さく「おお……」と声をあげてしまう。
 やっぱり、こいつってしっかりしてるよなあ。大人相手でも物怖じしないし。すぐに取り乱す俺とは全然違う。
「まず、この子の大きさなら、七歳くらいからがシニア期です。たこちゃんはおそらく七、八歳で、元気ではあるんだけど、寝る時間が長くなったり、ご飯の消化がうまくできないことがあったり、少しずつ変化が出てくる年齢だと思います」
 七、八歳。俺たちの半分くらいしか生きていないのに、老犬なのか……。そして老犬なのに、外で、ひとりぼっちでいたのか。
 どんなに、心細かっただろう。
 診察台の上であくびをしているたこちゃんを見て、胸が苦しくて、涙が出そうになる。
 天海も、思うことがあるのだろう。黙ってたこちゃんの頭を、優しく撫でている。
「気をつけることとしては、なるべく段差を避けてあげること。ふらついたりして踏み外すと、それが原因で歩けなくなることもあるからね。あとは、ご飯。運動量も代謝も落ちるから、太らないようにシニア用のものを与えてほしい。あ、今は太ったほうがいいから、カロリーの高いフードでもいいよ。食事の回数を増やして、多めに食べさせてあげてね」
 説明の後、普段のお世話で聞きたいことがあったら、いつでも電話してくれいいからね、と犬堂先生は言ってくれた。
 いい先生でよかったね。そんな気持ちで横にいる天海を見上げる。すると、少し考えごとをしていた様子の天海が、真っ直ぐ先生を見て尋ねた。
「わかりました。あと、もうひとつ。俺たちには、こいつの面倒をずっとみてやることは、できません。命に責任が取れるような立場にいないし、親の協力もそこまでは期待できないから、飼ってくれる人を探したいと思っています。高齢の犬の里親って、見つかるものなんでしょうか?」
 どきりとした。それを、今聞くんだ。そんなにはっきりと。
 でも、でも大切なことだ。たこちゃんは、お年寄りの犬なのだ。飼い主さんが探していなかった場合、少しでも早く、ずっと安心して暮らせる温かい家を見つけてあげたほうがいい。
 本当は、俺たちがそうなってあげたいけれど。でも天海が言う通り、未成年の俺たちは命に責任が取れる立場にいない。
 質問を受けた犬堂先生は、少し目を見開いてから、顎に拳をあてて「そっか、そっか」と呟いた。
「ううん……難しい質問だね。正直なところ、成犬でフィラリア陽性となると、里親に手を挙げる人は決して多くないと思う。でもね、逆に生半可な気持ちで、この子をお迎えしたがる人はいないとも言えるから。うん、僕も協力するから、この子が幸せになれるお家を探そう」
 やっぱり、難しいよな。でも、先生もこう言ってくれているし、頑張ってたこちゃんを幸せにしないと。
 ほかに質問はないかと尋ねられ、俺も天海も首を振った。