「俺がソファで寝るから、お前はベッド使えよ」
シャワーと天海の部屋着を借りて、リビングで首にかけたタオルで髪を拭いていると、寝室と思しき個室から出てきた天海にそう言われた。
「え。いいよ。家主がベッドで寝ろよ」
自分の髪の毛から、甘酸っぱいにおいがする。
さっき、玄関で天海から香ってきたシトラスの香り、シャンプーだったんだ。
お揃い……という言葉が浮かんできて、狼狽える。無意識に自分の髪の毛の先なんて摘んで、なにを考えてるんだよ俺は。
「いや、自分の脚のこと考えてから、もの言えって。怪我人はちゃんとしたとこで寝ろよ」
俺の家に泊まって、膝が悪化したら嫌なんだよと言われると言葉に詰まる。
ソファで寝ると抵抗したものの、うるさいだの面倒臭えだの言われて、最終的には寝室に押し込まれた。
リビングがあれだけ綺麗なら、寝室が私室扱いで散らかっているのかと思いきや、ここも物があまりない。
洋服なんかは造り付けの収納に入っているのか壁には何も掛かっていないし、家具はベッドと机、椅子だけ。机の上には参考書やノートパソコン、タブレットがあるが、それだけ。
どういう人間が住んでいるのか像を結ばない、なんだか寂しい部屋だ。
それでもふかふかのベッドに横になると急に眠気が襲ってきて、ぐっすりと寝てしまった。
目が覚めると、明るさを抑えたオレンジ色の光にぼんやりと照らされた天井が目に入ってきた。
どこだここ? こんなダウンライト、見覚えないとぼんやり考えてから、思い出す。
俺、天海の家に泊めてもらってたんだった。それで脚によくないからって、ベッドを借りてたんだ。
意識が覚醒してきたら、リビングの方から話し声が聞こえてきた。天海の声だ。
こんな遅くに誰と話してるんだろう? 聞き耳を立てたわけじゃないけれど、真夜中の部屋は静かで、自然と話している内容が耳に届いてしまう。
「はい。お会いしました。……大丈夫です」
俺と話す時よりも、少し低くて硬い、よそいきの声だ。
「由利子さんは、お元気ですか? ……はい……はい。ありがとうございます」
そこで電話は終わったみたいで、リビングから少し物音が聞こえてきた後に、深夜のしんとした空気が寝室を包む。
天海、ずいぶん畏まった話し方をしてたけど、誰と話してたんだろう。ユリコさんって聞こえた気がするけど、目上の女の人と話してたのかな。どことなく声が緊張していた気がする。
あ。もしかして、食事の時に話してた、好きな人……とか?
そこまで考えたら、どうしてか胸骨の奥あたりがじわっと痛んだ。チェストトラップを失敗した時や打撲とは違う、正体不明のじくじくした痛みだ。
忘れたくて足掻いたけど、その人のことしか考えられないくらい好きだって、見てるだけでもいいって、言ってた。
電話相手の人は年上っぽいけれど、なんとなく天海みたいには、同級生よりも少し年上の女の人の方が似合う気がする。
勝手な想像をしていたら、じくじくが喉のあたりまで広がってきた。
寝よ、寝よ。壁に向かって寝返りを打ってみたけれど、それでも天海がいるリビングから意識が逸れなくて、俺は掛け布団を頭から被った。
翌朝。六時前に起きてリビングに行くと、天海は床で寝転がっていて、横にはたこちゃんがぴったりとくっついていた。
カーテンから早朝特有の白っぽい光が差し込んでいて、薄茶色の天海の髪の毛が透けるようにキラキラしている。
昨日、誰と話してたんだろう……。
天海の寝顔を見ていると、悲しいとも悔しいともつかない、ドロドロした気持ちが込み上げてきて、目を逸らす。
そうしたら新たに視界に入ってきたのは、床にできた水たまりだった。
たこちゃん……ご丁寧にペットシーツをどかしてから、おしっこをしている。そういえば、昨日も同じ場所にしていたような……?
嫌な予感がする。もしかしてたこちゃんてば、ここをトイレにすると決めたんじゃなかろうか。
天海が買ってきてくれた飼育本を捲って『トイレの場所を覚えよう』という項目を確認すると、犬は自分の排泄物のにおいがついている場所をトイレと認識するらしいことがわかった。あと、トイレを覚えるまでは室内を自由に歩き回らせないほうがいいとか。
今さら、自由を奪うのはかわいそうな気がする。でも、このままってわけにもいかない。
とりあえず俺は、ティッシュにたこちゃんのおしっこを少しつけてから、母さんがやっていたよなと思い出しながら、薄めた中性洗剤で念入りに床を掃除をした。
それからペットシーツを敷いて、その上におしっこのついたティッシュを置き、何度かシーツに擦り付ける。
さすがに、臭うな。キッチンから見える場所にこれがあることに対して、天海は嫌悪感を持つかもしれない。でも、何度も失敗をされるよりはマシだろう。
洗面所で手を洗っていると、カツッカツッという、犬の爪が床を叩く軽やかな音がリビングから聞こえてきた。
「たこちゃん? おはよう」
手を拭いてから戻ってみると、案の定たこちゃんは起きていて、ペットシーツの上のティッシュのにおいを嗅いでいた。
どうだろう。黙って見守る。すると、たこちゃんはティッシュを中心にしてくるくる回ってから、シーツの上でおしっこをしてくれた。
「や……ったあああ!」
思わず、大きめの声が漏れる。やっぱり賢いよ、この子。
「えらいね、えらい、いい子! たこちゃん、天才!」
トイレを終えたたこちゃんの顔を、もみくちゃに撫でて褒める。
「んあ……なに、騒いでんだよ……ぃく……」
あ。大きな声を出してしまったせいで、天海が起きてしまった。
上半身だけ起こして、大あくびをしながら乱暴に頭を掻いている。日中のすました顔とは全然違う、寝起きの悪さ全開って感じのだらしない姿に、笑いが込み上げる。
「お前さあ、髪ボッサボサだし、涎垂れてんぞ」
だっせえ。笑っていると、天海が「うっせえ」と睨んできた。はは、照れて耳が赤いから、全然迫力ねえの。
あれ……? そういえばさっき、天海、俺の名前呼んだ? 〝いく〟って……。
いや、聞き間違い、だよな。あくびかなんかが、偶然、俺の名前に聞こえただけだ。
「たこちゃん、おしっこ成功したんだぞ! ほれ、ほれ」
本当に名前、呼んでくれてもいいのに。って、なにを考えてるんだよ、俺は。
昨日から時折感じる変な気分を振り払いたくて、乱暴に天海の首根っこを掴むと、水分を吸って真ん中が濃い水色に変わったトイレシーツを見るように促す。
「おお、すげえ。どうして成功したんだ?」
ふふん、目を丸くして素直に驚く天海を見られて、実に気分がいい。俺は胸を反らして、自慢げにトイレのについて語った。
「だから、ここにペットシーツを置いとく必要があるんだけど、飯食ってると目に入る場所なんだよね。おっきいほうやった時とか、ちょっとキツイかもしれないけど、だいじょぶそ?」
「俺は、まあ構わねえけど。けど、たこは飼い主が出てこなかったら新しく飼ってくれる人を探すことになるから、その場合は……」
「え……どっかに、やっちゃうのか……? ここで暮らすんじゃダメなのか?」
「あのなあ、現実的に考えろよ。一時的に面倒をみるならともかく、一人暮らしで高校生の俺のとこにいるより、なんかあった時に対応できる大人がいる家で暮らしたほうが、たこだって幸せだろ」
そっか……そうだよな。可愛い、一緒にいたいだけじゃ、だめなんだ……。
もう、子供と甘やかしてもらえる年齢を卒業しつつあるのに、俺はそんなことにさえ思い至っていなかった。
自分の気持ちより、たこちゃんの幸せを考えてあげないといけないんだ。
シャワーと天海の部屋着を借りて、リビングで首にかけたタオルで髪を拭いていると、寝室と思しき個室から出てきた天海にそう言われた。
「え。いいよ。家主がベッドで寝ろよ」
自分の髪の毛から、甘酸っぱいにおいがする。
さっき、玄関で天海から香ってきたシトラスの香り、シャンプーだったんだ。
お揃い……という言葉が浮かんできて、狼狽える。無意識に自分の髪の毛の先なんて摘んで、なにを考えてるんだよ俺は。
「いや、自分の脚のこと考えてから、もの言えって。怪我人はちゃんとしたとこで寝ろよ」
俺の家に泊まって、膝が悪化したら嫌なんだよと言われると言葉に詰まる。
ソファで寝ると抵抗したものの、うるさいだの面倒臭えだの言われて、最終的には寝室に押し込まれた。
リビングがあれだけ綺麗なら、寝室が私室扱いで散らかっているのかと思いきや、ここも物があまりない。
洋服なんかは造り付けの収納に入っているのか壁には何も掛かっていないし、家具はベッドと机、椅子だけ。机の上には参考書やノートパソコン、タブレットがあるが、それだけ。
どういう人間が住んでいるのか像を結ばない、なんだか寂しい部屋だ。
それでもふかふかのベッドに横になると急に眠気が襲ってきて、ぐっすりと寝てしまった。
目が覚めると、明るさを抑えたオレンジ色の光にぼんやりと照らされた天井が目に入ってきた。
どこだここ? こんなダウンライト、見覚えないとぼんやり考えてから、思い出す。
俺、天海の家に泊めてもらってたんだった。それで脚によくないからって、ベッドを借りてたんだ。
意識が覚醒してきたら、リビングの方から話し声が聞こえてきた。天海の声だ。
こんな遅くに誰と話してるんだろう? 聞き耳を立てたわけじゃないけれど、真夜中の部屋は静かで、自然と話している内容が耳に届いてしまう。
「はい。お会いしました。……大丈夫です」
俺と話す時よりも、少し低くて硬い、よそいきの声だ。
「由利子さんは、お元気ですか? ……はい……はい。ありがとうございます」
そこで電話は終わったみたいで、リビングから少し物音が聞こえてきた後に、深夜のしんとした空気が寝室を包む。
天海、ずいぶん畏まった話し方をしてたけど、誰と話してたんだろう。ユリコさんって聞こえた気がするけど、目上の女の人と話してたのかな。どことなく声が緊張していた気がする。
あ。もしかして、食事の時に話してた、好きな人……とか?
そこまで考えたら、どうしてか胸骨の奥あたりがじわっと痛んだ。チェストトラップを失敗した時や打撲とは違う、正体不明のじくじくした痛みだ。
忘れたくて足掻いたけど、その人のことしか考えられないくらい好きだって、見てるだけでもいいって、言ってた。
電話相手の人は年上っぽいけれど、なんとなく天海みたいには、同級生よりも少し年上の女の人の方が似合う気がする。
勝手な想像をしていたら、じくじくが喉のあたりまで広がってきた。
寝よ、寝よ。壁に向かって寝返りを打ってみたけれど、それでも天海がいるリビングから意識が逸れなくて、俺は掛け布団を頭から被った。
翌朝。六時前に起きてリビングに行くと、天海は床で寝転がっていて、横にはたこちゃんがぴったりとくっついていた。
カーテンから早朝特有の白っぽい光が差し込んでいて、薄茶色の天海の髪の毛が透けるようにキラキラしている。
昨日、誰と話してたんだろう……。
天海の寝顔を見ていると、悲しいとも悔しいともつかない、ドロドロした気持ちが込み上げてきて、目を逸らす。
そうしたら新たに視界に入ってきたのは、床にできた水たまりだった。
たこちゃん……ご丁寧にペットシーツをどかしてから、おしっこをしている。そういえば、昨日も同じ場所にしていたような……?
嫌な予感がする。もしかしてたこちゃんてば、ここをトイレにすると決めたんじゃなかろうか。
天海が買ってきてくれた飼育本を捲って『トイレの場所を覚えよう』という項目を確認すると、犬は自分の排泄物のにおいがついている場所をトイレと認識するらしいことがわかった。あと、トイレを覚えるまでは室内を自由に歩き回らせないほうがいいとか。
今さら、自由を奪うのはかわいそうな気がする。でも、このままってわけにもいかない。
とりあえず俺は、ティッシュにたこちゃんのおしっこを少しつけてから、母さんがやっていたよなと思い出しながら、薄めた中性洗剤で念入りに床を掃除をした。
それからペットシーツを敷いて、その上におしっこのついたティッシュを置き、何度かシーツに擦り付ける。
さすがに、臭うな。キッチンから見える場所にこれがあることに対して、天海は嫌悪感を持つかもしれない。でも、何度も失敗をされるよりはマシだろう。
洗面所で手を洗っていると、カツッカツッという、犬の爪が床を叩く軽やかな音がリビングから聞こえてきた。
「たこちゃん? おはよう」
手を拭いてから戻ってみると、案の定たこちゃんは起きていて、ペットシーツの上のティッシュのにおいを嗅いでいた。
どうだろう。黙って見守る。すると、たこちゃんはティッシュを中心にしてくるくる回ってから、シーツの上でおしっこをしてくれた。
「や……ったあああ!」
思わず、大きめの声が漏れる。やっぱり賢いよ、この子。
「えらいね、えらい、いい子! たこちゃん、天才!」
トイレを終えたたこちゃんの顔を、もみくちゃに撫でて褒める。
「んあ……なに、騒いでんだよ……ぃく……」
あ。大きな声を出してしまったせいで、天海が起きてしまった。
上半身だけ起こして、大あくびをしながら乱暴に頭を掻いている。日中のすました顔とは全然違う、寝起きの悪さ全開って感じのだらしない姿に、笑いが込み上げる。
「お前さあ、髪ボッサボサだし、涎垂れてんぞ」
だっせえ。笑っていると、天海が「うっせえ」と睨んできた。はは、照れて耳が赤いから、全然迫力ねえの。
あれ……? そういえばさっき、天海、俺の名前呼んだ? 〝いく〟って……。
いや、聞き間違い、だよな。あくびかなんかが、偶然、俺の名前に聞こえただけだ。
「たこちゃん、おしっこ成功したんだぞ! ほれ、ほれ」
本当に名前、呼んでくれてもいいのに。って、なにを考えてるんだよ、俺は。
昨日から時折感じる変な気分を振り払いたくて、乱暴に天海の首根っこを掴むと、水分を吸って真ん中が濃い水色に変わったトイレシーツを見るように促す。
「おお、すげえ。どうして成功したんだ?」
ふふん、目を丸くして素直に驚く天海を見られて、実に気分がいい。俺は胸を反らして、自慢げにトイレのについて語った。
「だから、ここにペットシーツを置いとく必要があるんだけど、飯食ってると目に入る場所なんだよね。おっきいほうやった時とか、ちょっとキツイかもしれないけど、だいじょぶそ?」
「俺は、まあ構わねえけど。けど、たこは飼い主が出てこなかったら新しく飼ってくれる人を探すことになるから、その場合は……」
「え……どっかに、やっちゃうのか……? ここで暮らすんじゃダメなのか?」
「あのなあ、現実的に考えろよ。一時的に面倒をみるならともかく、一人暮らしで高校生の俺のとこにいるより、なんかあった時に対応できる大人がいる家で暮らしたほうが、たこだって幸せだろ」
そっか……そうだよな。可愛い、一緒にいたいだけじゃ、だめなんだ……。
もう、子供と甘やかしてもらえる年齢を卒業しつつあるのに、俺はそんなことにさえ思い至っていなかった。
自分の気持ちより、たこちゃんの幸せを考えてあげないといけないんだ。
