「お前んちの母ちゃんっていつも優しいのに、そんなことあったんだ」
「ほんとだよ、すごい怖かったんだから」
あのことがあってから初めての土曜日。午前中は塾でみっちりしごかれたあと、塾近くの勉強特化型カフェに来た。周りはゆったりした音楽とカリカリとノートに書き込む人ばかりだからひそひそ声で話す。目の前にいるこの爽やかで高身長のイケメン友達は幼馴染の仁科礼司だ。小学校高学年のときに礼司が引っ越してきて(元々お父さんがこのあたりで単身赴任していたらしいけど、勤務地が安定したからお母さんとこの街に引っ越してきたみたい)礼司の親も俺と同じように熱心な教育熱心を持っているらしく、気づけば小学校高学年から高校まで同じ所に通っている。ちなみに今年になってから初めて同じクラスになれたから家族よりも一緒にいるのかもしれない。
「なぁれーじ、この前の塾の模試の順位いくつだったんだよ」
「んー、まぁいつもと同じだったよ」
「まじかよ、一位?お前なら江戸大学の医学部狙えるんじゃない?」
「そんなそんな、たまたまヤマはったところばっかり出たから運だよ」
「お前のそういう良い奴なところにどんだけ救われてきたことか」
礼司は今の高校でも学年トップの成績で、生徒会に入っている超がつく優等生だ。今は学業に専念したいらしいから部活をしていないけれど、中学時代はバレー部でミドルブラッカーをやっていたはずだ。中学の時から周りに比べて身長が高く、ニ回くらいバレーボールの雑誌に載ったと聞いた。それほど運動神経が抜群で、おまけ優しく、万人受けする日本男児の顔をしているから毎年数え切れない女子から告白される。だけど、礼司が告白を承諾したことは一度もない。
「蒼はどうだったの?」
「俺は・・・29位かな」
「でも志望大学の慶実大学は狙えるんじゃない?」
「んー、だけどギリギリだし、さすがにこのままキープは怖いからもう少しがんばる」
「俺も慶実大学志望だから蒼とこれからも頑張れたらいいなって思ってるよ」
こんな風に爽やかイケメンにそう言われて嬉しくないやつがどこにいるんだろう。俺が男だったらよかったものの、女子だったら拗らせてどうなっていたのかわからない。うーん、多分礼司は何人かの女子を骨抜きにしてきたに違いない。初めて会ったときからすれた感じも見せなかったから。
「んー?」
「蒼、俺の顔をじっと見たりして。なんかあった?」
「こんなイケメンなお前ってもしかして裏でSNS活動とかしてたりしないの?実は恋リアに出てますとか」
「いきなり何言い出すのかと思ったよ、俺がSNS上手く活用できるように見えるか?」
「確かにお前SNS全然やってないもんな。なんかさ恋リアに出てる人ってさ普通に生活してるのかなとか、実は隠れてるけど身近にいるとか考えだしたらきりがないんだよね」
「蒼の元カノ恋リア好きで有名だったよね、それで振られたんだっけ」
「う、うん」
俺が恋リアが好きで振られたことは、礼司にも言えていない。元カノは正直友達感が強かったけれど、中学の時毎年同じクラスで、付き合う前は礼司と俺と元カノとあと一人、今も同じ学校に通う女子の4人で仲が良かった。俺にとっては礼司の次くらいに仲良かった友達という感覚。彼女は本当は恋リアのことじゃなくて、いつまでも触れ合えない俺にしびれを切らしていたのかも知れない。それに恋リア中毒というレッテルがついたんだからそれが俺を振るきっかけになったのだろう。
高校生の恋愛は中学の時とは違って触れ合うことすらも視野に入れるというのにずっと手をつなぐくらいしかできなかった俺は、初対面の人と恋をする恋リアの高校生よりもウブだ。
「俺の予想だと、そういった恋リアに出てるような高校生は芸能高校とかに通ってそうなイメージがあるんだよね。しかもあの子が進学した高校は結構難関な高校だし、勉強に忙しいと思うんだよね」
「んー、そうかなぁ」
俺が怪訝そうな顔を浮かべたら、礼司は考え込むようにペンを参考書の間に置いて、考え込み始めた。その様子がなんだか新鮮で俺もペンを机に置いて見てしまう。
「もし超がつく進学校で芸能活動してたとしたら」
「してたとしたら?」
「まず進学校に入る時点で親か本人が勉強熱心だから、空き時間に必死に勉強して」
「して?」
「俺だったら、んー変装するかな」
「変装?なんで?」
「学校の雰囲気を乱したくないし」
「おー、生徒会らしい」
「それに変装は自分を守るためでもあると思うんだよね、プライバシーって大事だからさ」
「うーん、確かに、ずっと授業中とか見られている可能性もあるからな」
「高校では同じクラスになってないからわからないけど、中学のとき蒼めっちゃ寝てたもんね」
「う・・・それは言うなよ・・・」
「そういう風に授業中とかご飯食べてるときとか、見られてたら俺は嫌かな。だからここみたいに少しだけ栄えている街には誰が見ているかわからないから変装していたり、芸名を使っていたりする子が実は裏では影響力ある高校生として名を馳せているのかもね」
礼司はそう言って笑うと、参考書の所に置いていたシャープペンシルをまた手に持ち、サラサラと文字を書き出した。それを見ていたら、俺の携帯のバイブレーションではない揺れを感じた。机の上に置かれた携帯が犯人で、その画面を盗み見たらバレー部と書かれていた。
「忘れてた、これからバレー部の助っ人で試合に出ないと行けないんだっけ」
「おま!早く行けよ!お前のこと頼りにしてる人がいるってことなんだから!あ、コーヒ代あとで送金しておくわ」
そう言うと、礼司は目を細めて笑った。そして慌てて荷物をまとめると、じゃ、と小声で言って席から離れていく幼馴染をゆるく手を振って見送ると、早速スマホを開いて礼司の欄にコーヒー代を送金した。
実は一緒のタイミングでカフェに来たんじゃなくて、俺が塾に忘れ物をしたから先に礼司に席とコーヒーを取ってもらうようにお願いしていたんだよな。このカフェはタイミングを逃さないと入れない。なぜなら普通のカフェよりも勉強や仕事目的の人ばかりだから回転率が悪いのである。人件費を削ぐために店員さんはいなくセルフサービスなのが運営の方針らしい。
頭が良いとこういう経営を打ち立てられるんだろうか。俺ももっと頑張って賢く生きないといかないといけないな。一口コーヒーを飲み、次の塾の日に出さなきゃいけない課題に一念発起して取り組み始めた。
__課題は半分くらい終わった頃だろうか。近くの進学高の講習も終わったのか、カフェは見渡すと満席状態となっていた。俺の座っている席は出入り口に近いから、入って来る人がよく見える。さっきカップルで入店してきた子たちがカウンターに渋々座ったのを見ると次に来る人は多分入れないんだろうな、と少し同情する。そんな中、グレーの学ラン姿の男が入ってきた。俺がガッと首を挙上しなければ顔が見れないほど高い身長に、このあたりトップの制服であるグレーの男子校の学ランをまとい、前髪が目に掛かりそうなほど全体に伸びた頭で店内をキョロキョロと見渡す男。
「(あの制服、俺が受けたかったけど両親や学校と塾の先生に止められた学校だ)」
ぼーっと見ていると、彼は店内を見渡すと空いている席がないと察知したのか出入り口へと踵を返す。その様子がやけにスローモーションに見えて、気づけばあの憧れの学ランの裾を掴んでいた。
「もしよかったら一緒に勉強しない?」
彼は眼鏡越しにびっくりしたように目を丸くしたけれど、このカフェを諦めかけていたところでいきなりの誘いが来たものだから反射的に返事をしたように見えた。
「えっと、よろこんで・・・?」
どのくらい時間が経ったのだろうか。おそらく俺のタスクの進捗は完了までおよそ8割といったところだろうか。んー、と声を出さずに背伸びをし、参考書越しに彼を見る。一切休みなくペンを走らせる姿は、尊敬に値するものだった。俺だったらちょっと勉強したら多めに休憩とっちゃうし、そのあとやる気なんて全く無くなるから。その姿を見ながらコーヒーを飲もうとしたら、すでにもう空で。
「(あー、コーヒー足りないし入れてこなきゃ)」
そう思って席を立とうと腰を浮かせたけれど、ドリンクバーのところは人だかりができていてなかなかすぐには汲んでこれない。
俺の右手に目の前の相手からの手が捕まれる。びっくりして彼を見ると、大きめの付箋にさらさらと反対側の手で何かを書き、それを重ねられていた俺の右手に貼る。それを左手で取って読むと、息を飲んでその送り主の顔を見てしまう。
「もう帰っちゃうんですか?」
達筆で流れるように書かれたその文字が綺麗すぎて、小声で綺麗な字だね、と意気揚々に伝えると、眼鏡の彼は口角を少し上げてくれた。俺も筆箱から大きめの正方形の付箋を取り出し、さらさらと今行うことを書いてから彼の見ていた英語の参考書の1ページのど真ん中にそれを貼った。
「コーヒー取りに行くだけだから」
彼はそれを見てから俺を見上げると、少しだけ恥ずかしそうに笑った。
***
コーヒーを取りに行ったあと、俺の広げていた塾のワークのど真ん中に大きく付箋が貼られていた。
「いつもこのカフェにいるんですか?」
遠慮がちに先程よりも小さく綺麗な字で書かれた文字を見て、その下に同じくらいの大きさで返答を書いた。それを彼の参考書に貼り付ける。彼は先程から集中できていないらしく、ちらっと彼の手元の参考書を見るとまだ同じページをぎゅっと見ていた。
「たまーにね、普段はこの辺の塾の自習室にこもってるんだけど、今日は入塾テストが午後にあったから追い出されたの」
そう書いて彼の目線のクリティカルな場所にその付箋を貼ると、嬉々として新しい付箋を取ろうとする彼の腕をぎゅっと掴んで、小さい声でこう言った。
「俺邪魔してるみたいだからもう帰るね」
筆箱にペンやら消しゴムやらを詰め、参考書を雑にトートバッグに筆箱と一緒に入れてからコーヒーを持って席に立つ。
歩きながらワイヤレスイヤフォンをつけて、英語のリスニングのために大人気の女性シンガーがタッグを組んだ歌をスマホで操作して聞く。割と好きな曲調だ。こんな漢字で英語がすんなり耳に入ってくれればいいのに、と思ったら右腕をぐっと掴まれた。
「え?」
歩きながら急いでつけたイヤフォンはその衝撃で一斉に両耳から離れた。イヤフォンが地面に落ちたのが明白な軽く乾いた音が二回地面から聞こえる。
「あ、「俺が拾います」
拾わなきゃ、と思ったらすぐさまその音の方へ動く頭が見えた。その長すぎる髪は、さっきまで座っていたカフェで何回も見た頭で。びっくりした俺の顔の前にひざまずき、俺の右手首をそっと掴んで手のひらに小さいイヤフォンを二つ乗せた。
「お礼全然言えなかったので、直接言おうと思ったらいきなり帰られるのでびっくりしました。でも今も驚かせちゃったみたいですごく申し訳なかったです」
そう言って目にかかった長い前髪を左手でかきあげた彼。髪をかきあげると目を覆うのはびっくりするくらい太いフレームの眼鏡だけなんだけど、それすらも通り越してわかるくらい横に綺麗に伸びた美しい目と、左耳に見えるキラッとしたもの。注視して見ると、シルバーのピアスだった。特徴的な十字架のピアスは、少し前までほぼ毎日画面で見ていたあるカップルの彼氏のものだった。高校生だとしたらすぐには手がせないほどの値段のものに後退りしてしまう。
そのピアスは、たつあやカップルのたつきくんが高校生になってある決意を立てたときに買ったと言っていたハイブランドのピアスと同じものだった。そのピアスの話をあやりちゃんにしているたつきくんの凛々しさと言ったら公式で切り抜かれて何百万再生もされた大バズピアスだ。
そのときにあらためて気付かされる。自分の成績が悪かったせいで大好きなたつあやが見られないこと。この前成立したばかりなんだから動画での供給が多いはずなのにそれを一再生でも回す歯車にすらなれない自分が不甲斐なくてこの場にいたたまれなくなって逃げた。
「ちょ、」
そのまま最寄りの地下鉄の駅まで走った。ハァハァと倒れそうになりながら改札に定期をタッチさせてゆっくりと息を吐いて吸って自分を取り戻す。息を取り戻せば目に浮かぶたつあやのラブラブモーメント。新しい供給がしばらく(最短でも3ヶ月は見られない)配給されないことに嘆く。もうたつあやのことを一旦置いておかないとこのままこのスマホすら没収されて、同級生との連絡すら糸電話になるかもしれない。
「(それはいやだ)」
そう考えながらホームであやりちゃんが好きなドリンクを自動販売機で何回か無心で買っていたら偶然横を通りかかった駅員さんに話しかけられた。
「君、大丈夫!?」
「いえ、だいじょ「まさか線路にそのまま行こうとしてないよね!?そのジュースよりもあったかいお茶用意するから着いてきて」
「いやいいで「いいから!」
そこから1時間拘束され悩みのことを根掘り葉掘り聞かれたこともいつかは笑い話になるのだろうか。
***
「うぅ、結局週末はずっと勉強していたな」
結局家に帰ってからも塾の課題、日曜日は学校の予習をしていたら寝ようと思って布団に潜り込んでもあんまり眠れた気がしなくて、いつもより1時間も早い電車に乗ってしまった。早く成績を上げてスマホのフィルタリングを解除してもらうかパソコンを返してもらわないと廃人になってしまう気がした。
学校の最寄り駅を降り、清々しい朝の空気をいっぱい吸い込む。授業中寝てしまうかという緊張感をスパイスに、同じ道なのにいつもより景色が違う通学路が楽しい。いつもは道路でうずくまっちゃう柴犬のしば郎をなだめる佐藤さんがいないとか、会計事務所の前でラジオ体操をしているお姉さんとか、
「おはよう仲見くん」
俺に話しかけてくれる黒髪の男の子がいるとか。
「ん?」
声の方向を見ると、あの自発光式なんじゃないかってくらいオーラが違うように見えるグレーの学ランに、うちの学校だったら生活指導くらいそうなほど長くて黒い髪の毛。間違いない、土曜日に会った進学校の学生だ。朝早すぎて寝ぼけているのかと思ったけれど何度手を右目に往復させてもあの子だった。
「いつもこんなに早いの?ってか覚えてる?土曜日にカフェで相席してたやつなんだけど」
「さ、さぁ・・・人違いだと思いますけれど・・・」
ごまかしてそのまま学校へと歩こうとしたら、目の前に立たれた。くそう、最初に見たときに身長高いと思ったけれど足のリーチすらも叶わないのか。堪忍して彼を見上げると、彼は顔の横に見たことがある・・・というか見覚えがありすぎるIDをちらちらとさせた。
「あ!それ!」
「これ、ないと困るんじゃないんですか?」
纏っている真面目な雰囲気に似合わないあっかんべーの顔をしてみせた。そのIDは俺が通っている塾に入るための言わば入場許可証みたいなものだ。顔写真と名前と生年月日、そして通っている学校が書いてある個人情報オンパレードのものだ。
確か土曜日はあの勉強用カフェに行く道中に塾に筆箱を忘れたことに気づいて、塾のIDがあればあのカフェは割引が効くから礼司に俺のIDを渡して席取りをお願いした。多分礼司のことだから俺が帰ってきたら渡すつもりで机の上に置いていたけれど、俺がカフェにたどり着く頃にはすごい疲れてたからあとでIDを返そうとしたところに予期せぬ部活の出動要請がきたものだから俺のもとにはIDは帰ってきていない。おそらく俺が気づかぬうちに消しゴム使ってる時とかでIDを机の下に落としてしまい、それをこの人が拾ったんだろう。
「あの、ありがとうございます。わざわざ朝早く来てくださってすみま「もちろんタダでは返さないです」
顔の近くでヒラヒラさせているIDを何回かジャンプして取ろうにも相手が上手なのか取れない。彼の言葉にきっと睨みつけると、彼は片側の口角だけにぃと釣り上げると拍子抜けしてしまいそうな言葉を俺の耳元に届けてきたのだった。
「返す条件は、俺と友達になってください」
「は?いやいやいや・・・」
「俺この予備校のIDのこと知ってるよ、お金持ってる人が多いからIDなくしたら再発行手数料でぼろ儲けしようとしてることも。確か・・・1万はするよね?まぁお金持ちの学生なら再発行手数料なんかすぐ払えるよね?」
「う・・・」
言えない、成績が下がってお小遣いが僅少になって一万なんか払えないし、塾のIDもなくしたと母に言ったらそれこそ日本から追い出されかねないということを。俺が何も言えないでいると、悪魔の笑みを浮かべたやつは一言俺に残して去っていった。
「じゃあ、放課後、うーんとあそこのカフェで待ってるからちゃんと来てよね?」
「で、俺のID返してくれませんか、今日は予備校の授業入ってないんですけど明日は授業あるので返してくれないと困ります」
放課後、当然のように学校の外で待っている彼になすすべなくうちの学校の近くのチェーン店のカフェに入って話をすることになった。
「仲見くんさ、俺と友達になる気本当にある?」
「は、はぁ?あるわけないでしょ一方的にこんなことされて」
「君って自分が置かれている立場わかってる?」
彼は俺の塾のIDを人差し指と中指で挟むと、席の近くの窓を開けてIDを投げ捨てるために肘を上げ、投げるように振りかぶった。
「ま!まって!なるから!それはしないでもらえると・・・」
「わかったよ、じゃあ友達になってくれるんだよね?」
圧のある表情にぐぬぬ、と口に出しながらも「友達になりましょう」とそっぽを向きながら言うと、頬に両手を添えられて強制的に目の前を向かされた。じっと見るけれど推しに似ても似つかない。目は分厚い眼鏡で印象が小さく、鼻は推しのたつきくんはすっと流れる忘れ鼻のような形だけれど、決して忘れ鼻ではない、存在感のある鼻だ。それなのに、どうしてか目を向けたくなるような雰囲気が目の前の人間にはある。
「わかったよ・・・」
そう言うと優しく顔から手を離されて、ニコニコとした胡散臭い笑みを向けられる。待ってましたと言わんばかりの態度に俺の気分は更に悪くなる。くそ今日も放課後家で勉強しようと思ったのにこの時間は一旦何なんだろう。彼はその言葉に満足したのか、これ返すね、と俺の目の前にIDを置いた。それをもうとられまいと瞬時に拾い上げてブレザーの中にしまうと、彼はくすくすと余裕がありそうに笑った。その表情すら俺の腹をぐつぐつと煮えたぎらせる。
「じゃあ今から自己紹介していこっか。俺は瀬名高校の匂坂美月といいます」
「さぎ、さか?初めて聞いたかも。どうやって書くの?」
「指出して」
好奇心のあまりに素直にすっと目の前に人差し指を立てた状態でいると、目の前の彼がふっと笑った。
「何が面白いんだよ」
「いや、さっきまで俺のこと疑っていたやつが大人しく話し聞いてくれてるのちょっとおもしろいなって」
なんだよ、と言うと彼は俺の手を上から握ると、自身のスマホの上に俺の人差し指の先端をなぞらせ始めた。自分は生きていて手が小さいと思ったことはないのに、すっぽりと上から覆われるくらいには彼の手は大きく、少し冷たく感じた。
「これで、さぎさかって読むのか」
「そう、結構珍しい苗字でしょ」
「へー、じゃあ匂坂で美月なんだ。匂坂の名前ってなんか口に出して読みたくなる名前かも。語感良い」
さぎさかみつき、さぎさかみつき、と何回か繰り返して呼ぶと、少し手で口を覆いながら目線を逸らす匂坂がいた。何か頬が赤く見える気がする。
「おーい匂坂、どうしたの?」
「なんか恥ずかしいかも…」
「なんでそんなに照れてんの!?」
「だって俺、仲見くんのことが好きだから」
その瞬間、世界が止まったような気がした。小学生たちがはしゃぎながら自転車を漕ぐ音…は聞こえるな。マスターが卵サンドを焼いているあの優しい香りも…嗅げるな。俺の分の飲み物である、ホイップが沈みつつあるキャラメルマキアートも…味するな。甘くほろ苦い味だ。何が言いたいかと言うと、衝撃のある言葉だったけれど両手で受け止めればなんてことないくらいの威力の口撃だった。
「えっと、今なんとおっしゃいました?」
「俺仲見くんが好き!ひと目見たときから好きだったし、2回目も偶然会えたときは運命だと思ったんだよ」
「は、はぁ!?2回目はそっちが学校で待ち伏せしてたんだろうが!」
「ん?えへへ、まぁ付き合いを前提として友達になってよ仲見くん」
「無理、俺好きな人いるし」
推しを好きな人と言っていいのかわからないけれど、今のこの状況でニアイコールくらいは許してほしい。このよくわからない男を振り切るためにもやむを得ない。ごめんねたつきくん、そしてそんなたつきくんを使うことを許さないであろうあやりちゃんも。
「な、ななな仲見くん好きな人がいるの?」
「そう、だから俺のこと諦めてほしい。友達になるのはいいけど、付き合うのが最終目的なら達成できないのは明白だろうし。もういいか?俺帰って勉強しないといけないし」
そう言って財布からキャラメルマキアート代の500円を置くと、席を立って歩き始めた。さすがにほんの少しだけ追いかけてこないか警戒するため、最寄り駅に入る前に一度後ろを振り向いた。いたのは同じ学校の生徒ばかりでグレーの学ランはいない。その様子を確認し、駅の方へと一歩ずつ進みだした。
好きとかってもっとあやりちゃんとか、例えばYNRL(Young N Rich or Loveの略)の伝説のモテ女子のもえぎちゃんみたいな魅力的な人間に向けるべき感情であって、俺みたいななんでもない人間に差し出されるほどのものではない。
「(あ、そういえばピアスのこと聞きたかったかも。高校生なのになんでそんなの持てるのかとか。見た目と好きなピアスにギャップあるんだよなあいつ。まぁもう会うこともないだろうしいいか」
電車に揺られながらそんなことを思った。電車の広告にはあのモテ女子である谷津もえぎちゃんが化粧品の広告のモデルをしているものがあった。そういえば、あやりちゃんもカラーコンタクトレンズのモデルに抜擢されたことを思い出した。しかもかなり人気のインフルエンサープロデュースだったから話題性を掻っ攫うことができるのは確実だ。あやりちゃんの様子やSNSの情報を追えないのは淋しいという気持ちに尽きるけれど、見れないのは仕方がない。それに我慢した分見られたときには喜びもより大きいだろう。
そんなこんなですっかりあの告白のことをすっかり忘れた次の日の夜。
「蒼、帰ろう」
「だなあー、疲れたよ今日も」
予備校の日。同じ授業を受けた礼司が俺の席に来て帰ろうと促してきた。俺も丁度荷物を整理し終えたところだからそのまま席を立つ。学校とさほど遜色がなさそうに見える広い廊下を通る先生に挨拶しながら歩いていく。電源を落としていたスマホを起動させると、時間はもうそろ警察が未成年補導をギラつかせるタイムリミットまで近づくほど遅い。いつもと同じくらい時間だけれど、今日も課題を大量に出されたから家に帰ってやるしかない、と足が重くなる。
お互い疲れるからこうやって歩いてるときはついつい無言になりがちだ。学校では完璧王子とか言われている礼司もさすがに疲れているのかさっきからあくびを何回かしている。俺もつられて一回する。こんなに疲れているんだから帰り道はどうか事故が起こらないでほしいと願うほかない。
「そういえば蒼って昨日うちの学校じゃない人と会ってなかった?」
玄関口まで近づくと
「え?」
「朝。なんか瀬名高の制服来てた人だった気がしてさ。蒼って瀬名高に知り合いっていたっけ?」
「いやいないけど・・・」
スリッパを脱いで自分の靴を取り出す。お互い別のところに入れたからこの瞬間だけは顔を見られなくて助かる。見られていたら焦っている表情がもろ丸わかりだから。
「だよね、小学校の時の友達も大半公立だし、中学から瀬名高に受験した人いなかったし。俺の見間違いかも」
「あはは・・・」
いらないこと一つ二つ言えば何があったのかと詰め寄られるだろうし、ここは流すしかない。流したら礼司はそこまで深追いはしてこなかった。このまま何事もなく家に帰りたい。
「ねぇ見た!?さっきの休憩時間にお菓子買いに言ったらさこの塾の門の前でリムジン停まってたんだけど!」
「マジ?高級車ならわかるけどリムジンって何事よ」
リムジンって普段乗らないから使い勝手悪くない?と、制服を見るに名門お嬢様学校の生徒たちが話しているのが目に入った。リムジンか。確かに派手なパーティ向きな車だから現実すぎる予備校の送迎には向かないと思う。俺自身はリムジンに憧れはないけれど、そういえばYNRLで誰かがライトがやかましすぎるリムジンで意中の女子を迎えに行った話しがあったな。近隣住民からの苦情でリアタイではそのまま放送されていたけれど、そのあとの配信ではその部分がカットされていた気がする。それほど派手な世界でしか見ない、聞かないものなのだリムジンは。
「よし、蒼行こう」
「おう、疲れたわー今日も」
そう言って昇降口から礼司と一緒に出ると、目の前でいきなりライトが光った。驚くほどに白く広く輝くライトでつい顔を背ける。
「ちょ、は!?なにこれ」
「蒼大丈夫?」
「おう・・・なんとか。礼司も大丈夫か」
それもかなり強い光で目を開けるのが難しい。両腕で目をガードするけれど、それでも隙間から漏れてくる光が眩しすぎて動けない。一体誰なんだよ。本当に迷惑極まりない。真っ暗でもうすぐ夜中に移りゆくこの時間に一体全体誰がこんな仕業をしているんだ。
「なか、蒼くん!」
声が聞こえた途端、ライトが少し弱まってなんとかガードをしなくても目が開けられるようになった。その光の中からは昨日俺に告白してきた男がいた。いつものグレーの学ランではなく、なぜかぴっちりと整えられたジャケットスタイルで、俺の前に膝をついてきた。
「蒼くん、俺と付き合ってくれませんか」
そう言って俺の手を取って下からこちらを見上げてくる匂坂・・・このアングルで見たことある、そういえばたつあやが成立するシーズンの一個前のYNRLで、たつきくんと恋のライバルになったかいとくんが女の子にやっていたアピールと一緒だ。そのかいとくんが苦情で番組スタッフにこってりと怒られていたのも印象に残っている。ではなくて!
「お前!また来たのかよ」
「ごめんなさい!やっぱりなか、じゃなくて蒼くんのことが好きだから諦められなくて!」
「もうどこまでついてくるんだよ!」
「蒼、つきまとうってどういうこと?」
「こいつ昨日朝と夕方に俺のこと待ち伏せしててさ」
俺の言葉を聞いた瞬間、礼司は俺の手を匂坂の手から話し、俺の腰を掴んで二歩後ろに下げてくれた幼馴染。
匂坂のことを険しい表情で睨んでいる。いつもの優しい笑顔はどこに行ったんだろうと思うくらいに眉間を歪ませながら。その迫力に匂坂は降参するのかと思ったけれど、意外にも食いつく。
「俺は蒼くんのこと「あなたもしかして昨日蒼と一緒にいた人ですか?今蒼は勉強で追われているのにこうやってまた蒼の時間を奪うんですか?」
礼司のカウンターに顔を背けると、礼司ははぁとため息を吐いた。そのまま俺の腰に当てていた手を俺の肩にまで上げると、俺の頬に片手を添えると、顔を近づけた。びっくりして目をぎゅっと瞑ると、礼司はそのまま俺の肩を抱いて歩き始めた。
「俺達こんな関係なんで、もう入ってこないでくださいね」
歩きながら礼司はちらっと後ろを振り向いてそう言った。礼司は俺のためにやってくれていたけれどなんだか後ろをが気になって匂坂の方を向けようとしたけれど、そんな俺を感じ取ったのか礼司は肩に置いていた手を今度は下にし、俺の腕を掴んで走り出した。
「もうすぐ電車行っちゃうから!さっさと帰りたいでしょ」
礼司はいつも俺の気持ちを汲んでくれる。今この時だって俺が帰りたいという気持ちをわかってそういうことをしてくれているのがわかる。それでもあいつがほんの少しだけ気になってしまう。鬱陶しいと思っているのにどうしてこんなにモヤモヤしてしまうんだろうか。
あのあと、帰り道は普通に学校の授業に対する話をして終わった。あいつは誰なのかとか、いつから付きまとわれているのかとか礼司は聞きたくても聞かなかったんだと思う。お互い疲れていたし、もうそれ以上あのことにエネルギーをリソースを割きたくなかったんだとも感じた。
次の日、学校に待ち伏せされているかとほんの少し考えちゃったけれど、それも杞憂だった。いつも通りの風景で、いつも通り授業を受け、礼司と一緒に塾に向かって夜遅くに帰る。このまま成績を上げていけば、たつあやカップルに奮闘できる日が戻ってくるんだと信じてがんばるんだ。
「ほんとだよ、すごい怖かったんだから」
あのことがあってから初めての土曜日。午前中は塾でみっちりしごかれたあと、塾近くの勉強特化型カフェに来た。周りはゆったりした音楽とカリカリとノートに書き込む人ばかりだからひそひそ声で話す。目の前にいるこの爽やかで高身長のイケメン友達は幼馴染の仁科礼司だ。小学校高学年のときに礼司が引っ越してきて(元々お父さんがこのあたりで単身赴任していたらしいけど、勤務地が安定したからお母さんとこの街に引っ越してきたみたい)礼司の親も俺と同じように熱心な教育熱心を持っているらしく、気づけば小学校高学年から高校まで同じ所に通っている。ちなみに今年になってから初めて同じクラスになれたから家族よりも一緒にいるのかもしれない。
「なぁれーじ、この前の塾の模試の順位いくつだったんだよ」
「んー、まぁいつもと同じだったよ」
「まじかよ、一位?お前なら江戸大学の医学部狙えるんじゃない?」
「そんなそんな、たまたまヤマはったところばっかり出たから運だよ」
「お前のそういう良い奴なところにどんだけ救われてきたことか」
礼司は今の高校でも学年トップの成績で、生徒会に入っている超がつく優等生だ。今は学業に専念したいらしいから部活をしていないけれど、中学時代はバレー部でミドルブラッカーをやっていたはずだ。中学の時から周りに比べて身長が高く、ニ回くらいバレーボールの雑誌に載ったと聞いた。それほど運動神経が抜群で、おまけ優しく、万人受けする日本男児の顔をしているから毎年数え切れない女子から告白される。だけど、礼司が告白を承諾したことは一度もない。
「蒼はどうだったの?」
「俺は・・・29位かな」
「でも志望大学の慶実大学は狙えるんじゃない?」
「んー、だけどギリギリだし、さすがにこのままキープは怖いからもう少しがんばる」
「俺も慶実大学志望だから蒼とこれからも頑張れたらいいなって思ってるよ」
こんな風に爽やかイケメンにそう言われて嬉しくないやつがどこにいるんだろう。俺が男だったらよかったものの、女子だったら拗らせてどうなっていたのかわからない。うーん、多分礼司は何人かの女子を骨抜きにしてきたに違いない。初めて会ったときからすれた感じも見せなかったから。
「んー?」
「蒼、俺の顔をじっと見たりして。なんかあった?」
「こんなイケメンなお前ってもしかして裏でSNS活動とかしてたりしないの?実は恋リアに出てますとか」
「いきなり何言い出すのかと思ったよ、俺がSNS上手く活用できるように見えるか?」
「確かにお前SNS全然やってないもんな。なんかさ恋リアに出てる人ってさ普通に生活してるのかなとか、実は隠れてるけど身近にいるとか考えだしたらきりがないんだよね」
「蒼の元カノ恋リア好きで有名だったよね、それで振られたんだっけ」
「う、うん」
俺が恋リアが好きで振られたことは、礼司にも言えていない。元カノは正直友達感が強かったけれど、中学の時毎年同じクラスで、付き合う前は礼司と俺と元カノとあと一人、今も同じ学校に通う女子の4人で仲が良かった。俺にとっては礼司の次くらいに仲良かった友達という感覚。彼女は本当は恋リアのことじゃなくて、いつまでも触れ合えない俺にしびれを切らしていたのかも知れない。それに恋リア中毒というレッテルがついたんだからそれが俺を振るきっかけになったのだろう。
高校生の恋愛は中学の時とは違って触れ合うことすらも視野に入れるというのにずっと手をつなぐくらいしかできなかった俺は、初対面の人と恋をする恋リアの高校生よりもウブだ。
「俺の予想だと、そういった恋リアに出てるような高校生は芸能高校とかに通ってそうなイメージがあるんだよね。しかもあの子が進学した高校は結構難関な高校だし、勉強に忙しいと思うんだよね」
「んー、そうかなぁ」
俺が怪訝そうな顔を浮かべたら、礼司は考え込むようにペンを参考書の間に置いて、考え込み始めた。その様子がなんだか新鮮で俺もペンを机に置いて見てしまう。
「もし超がつく進学校で芸能活動してたとしたら」
「してたとしたら?」
「まず進学校に入る時点で親か本人が勉強熱心だから、空き時間に必死に勉強して」
「して?」
「俺だったら、んー変装するかな」
「変装?なんで?」
「学校の雰囲気を乱したくないし」
「おー、生徒会らしい」
「それに変装は自分を守るためでもあると思うんだよね、プライバシーって大事だからさ」
「うーん、確かに、ずっと授業中とか見られている可能性もあるからな」
「高校では同じクラスになってないからわからないけど、中学のとき蒼めっちゃ寝てたもんね」
「う・・・それは言うなよ・・・」
「そういう風に授業中とかご飯食べてるときとか、見られてたら俺は嫌かな。だからここみたいに少しだけ栄えている街には誰が見ているかわからないから変装していたり、芸名を使っていたりする子が実は裏では影響力ある高校生として名を馳せているのかもね」
礼司はそう言って笑うと、参考書の所に置いていたシャープペンシルをまた手に持ち、サラサラと文字を書き出した。それを見ていたら、俺の携帯のバイブレーションではない揺れを感じた。机の上に置かれた携帯が犯人で、その画面を盗み見たらバレー部と書かれていた。
「忘れてた、これからバレー部の助っ人で試合に出ないと行けないんだっけ」
「おま!早く行けよ!お前のこと頼りにしてる人がいるってことなんだから!あ、コーヒ代あとで送金しておくわ」
そう言うと、礼司は目を細めて笑った。そして慌てて荷物をまとめると、じゃ、と小声で言って席から離れていく幼馴染をゆるく手を振って見送ると、早速スマホを開いて礼司の欄にコーヒー代を送金した。
実は一緒のタイミングでカフェに来たんじゃなくて、俺が塾に忘れ物をしたから先に礼司に席とコーヒーを取ってもらうようにお願いしていたんだよな。このカフェはタイミングを逃さないと入れない。なぜなら普通のカフェよりも勉強や仕事目的の人ばかりだから回転率が悪いのである。人件費を削ぐために店員さんはいなくセルフサービスなのが運営の方針らしい。
頭が良いとこういう経営を打ち立てられるんだろうか。俺ももっと頑張って賢く生きないといかないといけないな。一口コーヒーを飲み、次の塾の日に出さなきゃいけない課題に一念発起して取り組み始めた。
__課題は半分くらい終わった頃だろうか。近くの進学高の講習も終わったのか、カフェは見渡すと満席状態となっていた。俺の座っている席は出入り口に近いから、入って来る人がよく見える。さっきカップルで入店してきた子たちがカウンターに渋々座ったのを見ると次に来る人は多分入れないんだろうな、と少し同情する。そんな中、グレーの学ラン姿の男が入ってきた。俺がガッと首を挙上しなければ顔が見れないほど高い身長に、このあたりトップの制服であるグレーの男子校の学ランをまとい、前髪が目に掛かりそうなほど全体に伸びた頭で店内をキョロキョロと見渡す男。
「(あの制服、俺が受けたかったけど両親や学校と塾の先生に止められた学校だ)」
ぼーっと見ていると、彼は店内を見渡すと空いている席がないと察知したのか出入り口へと踵を返す。その様子がやけにスローモーションに見えて、気づけばあの憧れの学ランの裾を掴んでいた。
「もしよかったら一緒に勉強しない?」
彼は眼鏡越しにびっくりしたように目を丸くしたけれど、このカフェを諦めかけていたところでいきなりの誘いが来たものだから反射的に返事をしたように見えた。
「えっと、よろこんで・・・?」
どのくらい時間が経ったのだろうか。おそらく俺のタスクの進捗は完了までおよそ8割といったところだろうか。んー、と声を出さずに背伸びをし、参考書越しに彼を見る。一切休みなくペンを走らせる姿は、尊敬に値するものだった。俺だったらちょっと勉強したら多めに休憩とっちゃうし、そのあとやる気なんて全く無くなるから。その姿を見ながらコーヒーを飲もうとしたら、すでにもう空で。
「(あー、コーヒー足りないし入れてこなきゃ)」
そう思って席を立とうと腰を浮かせたけれど、ドリンクバーのところは人だかりができていてなかなかすぐには汲んでこれない。
俺の右手に目の前の相手からの手が捕まれる。びっくりして彼を見ると、大きめの付箋にさらさらと反対側の手で何かを書き、それを重ねられていた俺の右手に貼る。それを左手で取って読むと、息を飲んでその送り主の顔を見てしまう。
「もう帰っちゃうんですか?」
達筆で流れるように書かれたその文字が綺麗すぎて、小声で綺麗な字だね、と意気揚々に伝えると、眼鏡の彼は口角を少し上げてくれた。俺も筆箱から大きめの正方形の付箋を取り出し、さらさらと今行うことを書いてから彼の見ていた英語の参考書の1ページのど真ん中にそれを貼った。
「コーヒー取りに行くだけだから」
彼はそれを見てから俺を見上げると、少しだけ恥ずかしそうに笑った。
***
コーヒーを取りに行ったあと、俺の広げていた塾のワークのど真ん中に大きく付箋が貼られていた。
「いつもこのカフェにいるんですか?」
遠慮がちに先程よりも小さく綺麗な字で書かれた文字を見て、その下に同じくらいの大きさで返答を書いた。それを彼の参考書に貼り付ける。彼は先程から集中できていないらしく、ちらっと彼の手元の参考書を見るとまだ同じページをぎゅっと見ていた。
「たまーにね、普段はこの辺の塾の自習室にこもってるんだけど、今日は入塾テストが午後にあったから追い出されたの」
そう書いて彼の目線のクリティカルな場所にその付箋を貼ると、嬉々として新しい付箋を取ろうとする彼の腕をぎゅっと掴んで、小さい声でこう言った。
「俺邪魔してるみたいだからもう帰るね」
筆箱にペンやら消しゴムやらを詰め、参考書を雑にトートバッグに筆箱と一緒に入れてからコーヒーを持って席に立つ。
歩きながらワイヤレスイヤフォンをつけて、英語のリスニングのために大人気の女性シンガーがタッグを組んだ歌をスマホで操作して聞く。割と好きな曲調だ。こんな漢字で英語がすんなり耳に入ってくれればいいのに、と思ったら右腕をぐっと掴まれた。
「え?」
歩きながら急いでつけたイヤフォンはその衝撃で一斉に両耳から離れた。イヤフォンが地面に落ちたのが明白な軽く乾いた音が二回地面から聞こえる。
「あ、「俺が拾います」
拾わなきゃ、と思ったらすぐさまその音の方へ動く頭が見えた。その長すぎる髪は、さっきまで座っていたカフェで何回も見た頭で。びっくりした俺の顔の前にひざまずき、俺の右手首をそっと掴んで手のひらに小さいイヤフォンを二つ乗せた。
「お礼全然言えなかったので、直接言おうと思ったらいきなり帰られるのでびっくりしました。でも今も驚かせちゃったみたいですごく申し訳なかったです」
そう言って目にかかった長い前髪を左手でかきあげた彼。髪をかきあげると目を覆うのはびっくりするくらい太いフレームの眼鏡だけなんだけど、それすらも通り越してわかるくらい横に綺麗に伸びた美しい目と、左耳に見えるキラッとしたもの。注視して見ると、シルバーのピアスだった。特徴的な十字架のピアスは、少し前までほぼ毎日画面で見ていたあるカップルの彼氏のものだった。高校生だとしたらすぐには手がせないほどの値段のものに後退りしてしまう。
そのピアスは、たつあやカップルのたつきくんが高校生になってある決意を立てたときに買ったと言っていたハイブランドのピアスと同じものだった。そのピアスの話をあやりちゃんにしているたつきくんの凛々しさと言ったら公式で切り抜かれて何百万再生もされた大バズピアスだ。
そのときにあらためて気付かされる。自分の成績が悪かったせいで大好きなたつあやが見られないこと。この前成立したばかりなんだから動画での供給が多いはずなのにそれを一再生でも回す歯車にすらなれない自分が不甲斐なくてこの場にいたたまれなくなって逃げた。
「ちょ、」
そのまま最寄りの地下鉄の駅まで走った。ハァハァと倒れそうになりながら改札に定期をタッチさせてゆっくりと息を吐いて吸って自分を取り戻す。息を取り戻せば目に浮かぶたつあやのラブラブモーメント。新しい供給がしばらく(最短でも3ヶ月は見られない)配給されないことに嘆く。もうたつあやのことを一旦置いておかないとこのままこのスマホすら没収されて、同級生との連絡すら糸電話になるかもしれない。
「(それはいやだ)」
そう考えながらホームであやりちゃんが好きなドリンクを自動販売機で何回か無心で買っていたら偶然横を通りかかった駅員さんに話しかけられた。
「君、大丈夫!?」
「いえ、だいじょ「まさか線路にそのまま行こうとしてないよね!?そのジュースよりもあったかいお茶用意するから着いてきて」
「いやいいで「いいから!」
そこから1時間拘束され悩みのことを根掘り葉掘り聞かれたこともいつかは笑い話になるのだろうか。
***
「うぅ、結局週末はずっと勉強していたな」
結局家に帰ってからも塾の課題、日曜日は学校の予習をしていたら寝ようと思って布団に潜り込んでもあんまり眠れた気がしなくて、いつもより1時間も早い電車に乗ってしまった。早く成績を上げてスマホのフィルタリングを解除してもらうかパソコンを返してもらわないと廃人になってしまう気がした。
学校の最寄り駅を降り、清々しい朝の空気をいっぱい吸い込む。授業中寝てしまうかという緊張感をスパイスに、同じ道なのにいつもより景色が違う通学路が楽しい。いつもは道路でうずくまっちゃう柴犬のしば郎をなだめる佐藤さんがいないとか、会計事務所の前でラジオ体操をしているお姉さんとか、
「おはよう仲見くん」
俺に話しかけてくれる黒髪の男の子がいるとか。
「ん?」
声の方向を見ると、あの自発光式なんじゃないかってくらいオーラが違うように見えるグレーの学ランに、うちの学校だったら生活指導くらいそうなほど長くて黒い髪の毛。間違いない、土曜日に会った進学校の学生だ。朝早すぎて寝ぼけているのかと思ったけれど何度手を右目に往復させてもあの子だった。
「いつもこんなに早いの?ってか覚えてる?土曜日にカフェで相席してたやつなんだけど」
「さ、さぁ・・・人違いだと思いますけれど・・・」
ごまかしてそのまま学校へと歩こうとしたら、目の前に立たれた。くそう、最初に見たときに身長高いと思ったけれど足のリーチすらも叶わないのか。堪忍して彼を見上げると、彼は顔の横に見たことがある・・・というか見覚えがありすぎるIDをちらちらとさせた。
「あ!それ!」
「これ、ないと困るんじゃないんですか?」
纏っている真面目な雰囲気に似合わないあっかんべーの顔をしてみせた。そのIDは俺が通っている塾に入るための言わば入場許可証みたいなものだ。顔写真と名前と生年月日、そして通っている学校が書いてある個人情報オンパレードのものだ。
確か土曜日はあの勉強用カフェに行く道中に塾に筆箱を忘れたことに気づいて、塾のIDがあればあのカフェは割引が効くから礼司に俺のIDを渡して席取りをお願いした。多分礼司のことだから俺が帰ってきたら渡すつもりで机の上に置いていたけれど、俺がカフェにたどり着く頃にはすごい疲れてたからあとでIDを返そうとしたところに予期せぬ部活の出動要請がきたものだから俺のもとにはIDは帰ってきていない。おそらく俺が気づかぬうちに消しゴム使ってる時とかでIDを机の下に落としてしまい、それをこの人が拾ったんだろう。
「あの、ありがとうございます。わざわざ朝早く来てくださってすみま「もちろんタダでは返さないです」
顔の近くでヒラヒラさせているIDを何回かジャンプして取ろうにも相手が上手なのか取れない。彼の言葉にきっと睨みつけると、彼は片側の口角だけにぃと釣り上げると拍子抜けしてしまいそうな言葉を俺の耳元に届けてきたのだった。
「返す条件は、俺と友達になってください」
「は?いやいやいや・・・」
「俺この予備校のIDのこと知ってるよ、お金持ってる人が多いからIDなくしたら再発行手数料でぼろ儲けしようとしてることも。確か・・・1万はするよね?まぁお金持ちの学生なら再発行手数料なんかすぐ払えるよね?」
「う・・・」
言えない、成績が下がってお小遣いが僅少になって一万なんか払えないし、塾のIDもなくしたと母に言ったらそれこそ日本から追い出されかねないということを。俺が何も言えないでいると、悪魔の笑みを浮かべたやつは一言俺に残して去っていった。
「じゃあ、放課後、うーんとあそこのカフェで待ってるからちゃんと来てよね?」
「で、俺のID返してくれませんか、今日は予備校の授業入ってないんですけど明日は授業あるので返してくれないと困ります」
放課後、当然のように学校の外で待っている彼になすすべなくうちの学校の近くのチェーン店のカフェに入って話をすることになった。
「仲見くんさ、俺と友達になる気本当にある?」
「は、はぁ?あるわけないでしょ一方的にこんなことされて」
「君って自分が置かれている立場わかってる?」
彼は俺の塾のIDを人差し指と中指で挟むと、席の近くの窓を開けてIDを投げ捨てるために肘を上げ、投げるように振りかぶった。
「ま!まって!なるから!それはしないでもらえると・・・」
「わかったよ、じゃあ友達になってくれるんだよね?」
圧のある表情にぐぬぬ、と口に出しながらも「友達になりましょう」とそっぽを向きながら言うと、頬に両手を添えられて強制的に目の前を向かされた。じっと見るけれど推しに似ても似つかない。目は分厚い眼鏡で印象が小さく、鼻は推しのたつきくんはすっと流れる忘れ鼻のような形だけれど、決して忘れ鼻ではない、存在感のある鼻だ。それなのに、どうしてか目を向けたくなるような雰囲気が目の前の人間にはある。
「わかったよ・・・」
そう言うと優しく顔から手を離されて、ニコニコとした胡散臭い笑みを向けられる。待ってましたと言わんばかりの態度に俺の気分は更に悪くなる。くそ今日も放課後家で勉強しようと思ったのにこの時間は一旦何なんだろう。彼はその言葉に満足したのか、これ返すね、と俺の目の前にIDを置いた。それをもうとられまいと瞬時に拾い上げてブレザーの中にしまうと、彼はくすくすと余裕がありそうに笑った。その表情すら俺の腹をぐつぐつと煮えたぎらせる。
「じゃあ今から自己紹介していこっか。俺は瀬名高校の匂坂美月といいます」
「さぎ、さか?初めて聞いたかも。どうやって書くの?」
「指出して」
好奇心のあまりに素直にすっと目の前に人差し指を立てた状態でいると、目の前の彼がふっと笑った。
「何が面白いんだよ」
「いや、さっきまで俺のこと疑っていたやつが大人しく話し聞いてくれてるのちょっとおもしろいなって」
なんだよ、と言うと彼は俺の手を上から握ると、自身のスマホの上に俺の人差し指の先端をなぞらせ始めた。自分は生きていて手が小さいと思ったことはないのに、すっぽりと上から覆われるくらいには彼の手は大きく、少し冷たく感じた。
「これで、さぎさかって読むのか」
「そう、結構珍しい苗字でしょ」
「へー、じゃあ匂坂で美月なんだ。匂坂の名前ってなんか口に出して読みたくなる名前かも。語感良い」
さぎさかみつき、さぎさかみつき、と何回か繰り返して呼ぶと、少し手で口を覆いながら目線を逸らす匂坂がいた。何か頬が赤く見える気がする。
「おーい匂坂、どうしたの?」
「なんか恥ずかしいかも…」
「なんでそんなに照れてんの!?」
「だって俺、仲見くんのことが好きだから」
その瞬間、世界が止まったような気がした。小学生たちがはしゃぎながら自転車を漕ぐ音…は聞こえるな。マスターが卵サンドを焼いているあの優しい香りも…嗅げるな。俺の分の飲み物である、ホイップが沈みつつあるキャラメルマキアートも…味するな。甘くほろ苦い味だ。何が言いたいかと言うと、衝撃のある言葉だったけれど両手で受け止めればなんてことないくらいの威力の口撃だった。
「えっと、今なんとおっしゃいました?」
「俺仲見くんが好き!ひと目見たときから好きだったし、2回目も偶然会えたときは運命だと思ったんだよ」
「は、はぁ!?2回目はそっちが学校で待ち伏せしてたんだろうが!」
「ん?えへへ、まぁ付き合いを前提として友達になってよ仲見くん」
「無理、俺好きな人いるし」
推しを好きな人と言っていいのかわからないけれど、今のこの状況でニアイコールくらいは許してほしい。このよくわからない男を振り切るためにもやむを得ない。ごめんねたつきくん、そしてそんなたつきくんを使うことを許さないであろうあやりちゃんも。
「な、ななな仲見くん好きな人がいるの?」
「そう、だから俺のこと諦めてほしい。友達になるのはいいけど、付き合うのが最終目的なら達成できないのは明白だろうし。もういいか?俺帰って勉強しないといけないし」
そう言って財布からキャラメルマキアート代の500円を置くと、席を立って歩き始めた。さすがにほんの少しだけ追いかけてこないか警戒するため、最寄り駅に入る前に一度後ろを振り向いた。いたのは同じ学校の生徒ばかりでグレーの学ランはいない。その様子を確認し、駅の方へと一歩ずつ進みだした。
好きとかってもっとあやりちゃんとか、例えばYNRL(Young N Rich or Loveの略)の伝説のモテ女子のもえぎちゃんみたいな魅力的な人間に向けるべき感情であって、俺みたいななんでもない人間に差し出されるほどのものではない。
「(あ、そういえばピアスのこと聞きたかったかも。高校生なのになんでそんなの持てるのかとか。見た目と好きなピアスにギャップあるんだよなあいつ。まぁもう会うこともないだろうしいいか」
電車に揺られながらそんなことを思った。電車の広告にはあのモテ女子である谷津もえぎちゃんが化粧品の広告のモデルをしているものがあった。そういえば、あやりちゃんもカラーコンタクトレンズのモデルに抜擢されたことを思い出した。しかもかなり人気のインフルエンサープロデュースだったから話題性を掻っ攫うことができるのは確実だ。あやりちゃんの様子やSNSの情報を追えないのは淋しいという気持ちに尽きるけれど、見れないのは仕方がない。それに我慢した分見られたときには喜びもより大きいだろう。
そんなこんなですっかりあの告白のことをすっかり忘れた次の日の夜。
「蒼、帰ろう」
「だなあー、疲れたよ今日も」
予備校の日。同じ授業を受けた礼司が俺の席に来て帰ろうと促してきた。俺も丁度荷物を整理し終えたところだからそのまま席を立つ。学校とさほど遜色がなさそうに見える広い廊下を通る先生に挨拶しながら歩いていく。電源を落としていたスマホを起動させると、時間はもうそろ警察が未成年補導をギラつかせるタイムリミットまで近づくほど遅い。いつもと同じくらい時間だけれど、今日も課題を大量に出されたから家に帰ってやるしかない、と足が重くなる。
お互い疲れるからこうやって歩いてるときはついつい無言になりがちだ。学校では完璧王子とか言われている礼司もさすがに疲れているのかさっきからあくびを何回かしている。俺もつられて一回する。こんなに疲れているんだから帰り道はどうか事故が起こらないでほしいと願うほかない。
「そういえば蒼って昨日うちの学校じゃない人と会ってなかった?」
玄関口まで近づくと
「え?」
「朝。なんか瀬名高の制服来てた人だった気がしてさ。蒼って瀬名高に知り合いっていたっけ?」
「いやいないけど・・・」
スリッパを脱いで自分の靴を取り出す。お互い別のところに入れたからこの瞬間だけは顔を見られなくて助かる。見られていたら焦っている表情がもろ丸わかりだから。
「だよね、小学校の時の友達も大半公立だし、中学から瀬名高に受験した人いなかったし。俺の見間違いかも」
「あはは・・・」
いらないこと一つ二つ言えば何があったのかと詰め寄られるだろうし、ここは流すしかない。流したら礼司はそこまで深追いはしてこなかった。このまま何事もなく家に帰りたい。
「ねぇ見た!?さっきの休憩時間にお菓子買いに言ったらさこの塾の門の前でリムジン停まってたんだけど!」
「マジ?高級車ならわかるけどリムジンって何事よ」
リムジンって普段乗らないから使い勝手悪くない?と、制服を見るに名門お嬢様学校の生徒たちが話しているのが目に入った。リムジンか。確かに派手なパーティ向きな車だから現実すぎる予備校の送迎には向かないと思う。俺自身はリムジンに憧れはないけれど、そういえばYNRLで誰かがライトがやかましすぎるリムジンで意中の女子を迎えに行った話しがあったな。近隣住民からの苦情でリアタイではそのまま放送されていたけれど、そのあとの配信ではその部分がカットされていた気がする。それほど派手な世界でしか見ない、聞かないものなのだリムジンは。
「よし、蒼行こう」
「おう、疲れたわー今日も」
そう言って昇降口から礼司と一緒に出ると、目の前でいきなりライトが光った。驚くほどに白く広く輝くライトでつい顔を背ける。
「ちょ、は!?なにこれ」
「蒼大丈夫?」
「おう・・・なんとか。礼司も大丈夫か」
それもかなり強い光で目を開けるのが難しい。両腕で目をガードするけれど、それでも隙間から漏れてくる光が眩しすぎて動けない。一体誰なんだよ。本当に迷惑極まりない。真っ暗でもうすぐ夜中に移りゆくこの時間に一体全体誰がこんな仕業をしているんだ。
「なか、蒼くん!」
声が聞こえた途端、ライトが少し弱まってなんとかガードをしなくても目が開けられるようになった。その光の中からは昨日俺に告白してきた男がいた。いつものグレーの学ランではなく、なぜかぴっちりと整えられたジャケットスタイルで、俺の前に膝をついてきた。
「蒼くん、俺と付き合ってくれませんか」
そう言って俺の手を取って下からこちらを見上げてくる匂坂・・・このアングルで見たことある、そういえばたつあやが成立するシーズンの一個前のYNRLで、たつきくんと恋のライバルになったかいとくんが女の子にやっていたアピールと一緒だ。そのかいとくんが苦情で番組スタッフにこってりと怒られていたのも印象に残っている。ではなくて!
「お前!また来たのかよ」
「ごめんなさい!やっぱりなか、じゃなくて蒼くんのことが好きだから諦められなくて!」
「もうどこまでついてくるんだよ!」
「蒼、つきまとうってどういうこと?」
「こいつ昨日朝と夕方に俺のこと待ち伏せしててさ」
俺の言葉を聞いた瞬間、礼司は俺の手を匂坂の手から話し、俺の腰を掴んで二歩後ろに下げてくれた幼馴染。
匂坂のことを険しい表情で睨んでいる。いつもの優しい笑顔はどこに行ったんだろうと思うくらいに眉間を歪ませながら。その迫力に匂坂は降参するのかと思ったけれど、意外にも食いつく。
「俺は蒼くんのこと「あなたもしかして昨日蒼と一緒にいた人ですか?今蒼は勉強で追われているのにこうやってまた蒼の時間を奪うんですか?」
礼司のカウンターに顔を背けると、礼司ははぁとため息を吐いた。そのまま俺の腰に当てていた手を俺の肩にまで上げると、俺の頬に片手を添えると、顔を近づけた。びっくりして目をぎゅっと瞑ると、礼司はそのまま俺の肩を抱いて歩き始めた。
「俺達こんな関係なんで、もう入ってこないでくださいね」
歩きながら礼司はちらっと後ろを振り向いてそう言った。礼司は俺のためにやってくれていたけれどなんだか後ろをが気になって匂坂の方を向けようとしたけれど、そんな俺を感じ取ったのか礼司は肩に置いていた手を今度は下にし、俺の腕を掴んで走り出した。
「もうすぐ電車行っちゃうから!さっさと帰りたいでしょ」
礼司はいつも俺の気持ちを汲んでくれる。今この時だって俺が帰りたいという気持ちをわかってそういうことをしてくれているのがわかる。それでもあいつがほんの少しだけ気になってしまう。鬱陶しいと思っているのにどうしてこんなにモヤモヤしてしまうんだろうか。
あのあと、帰り道は普通に学校の授業に対する話をして終わった。あいつは誰なのかとか、いつから付きまとわれているのかとか礼司は聞きたくても聞かなかったんだと思う。お互い疲れていたし、もうそれ以上あのことにエネルギーをリソースを割きたくなかったんだとも感じた。
次の日、学校に待ち伏せされているかとほんの少し考えちゃったけれど、それも杞憂だった。いつも通りの風景で、いつも通り授業を受け、礼司と一緒に塾に向かって夜遅くに帰る。このまま成績を上げていけば、たつあやカップルに奮闘できる日が戻ってくるんだと信じてがんばるんだ。
