キミがためのシェイクスピア〜天才による天才のための青春エチュード〜

 神野洸太が久城蒼とまともに会話したのは夏だ。
 
 それも新人公演の練習の真っ最中。

「こ、この台詞——なんかちがう、よな?」

 神野から話しかけられた僕は完全に固まっていた。
 あまりに突然のことで脳が処理出来ない。
 急に小鳥や蝶が肩に止まったとか、そんな感覚。

 神野洸太が僕の人生に落雷の如く現れたとするなら、神野洸太と僕がまともに会話する機会は夕立の如くやってきた。

 それは高校一年生の初夏。
 神野が入部してから二ヶ月も経たないうちに、いきなり僕への警戒は解かれたのである。

「……へえ、どれ?」

 僕は涼しい顔をして神野の台本を覗き込む。
 だが、実際には僕の心の中は嵐だ。

 ——いったい、何をきっかけに僕への警戒が解けたんだ!?
 
 直前の行動を振り返ってみる。
 だが、特に変わったことはない。

 いつも通り基礎練をして配られたばかりの台本の読み合わせをしようとしていたところだった。

 高等部の新人公演でも僕は主演に選ばれた。

 それに対して神野は端役。
 目立ちたくない本人たっての希望らしい。

 それならなんで演劇部に来たんだという話だが、南田からは「本当は文芸部に入りたかったが、自分には合わなかったので、演劇部で脚本が書きたい」という妙に胡散臭い理由を聞き及んでいる。

 文芸部に合う合わないなんてあるか?
 何かしらの作品を書くだけだろう?
 ——と、思ってしまうのは僕の横暴だろうか。

 ……いや、横暴かもしれないな。
 僕も演劇部を「ただ演技するだけの部活だろ」と言われたら、キレる自信がある。

 だから神野も文芸部で何かしら自分に合わない空気を感じ取ったのだろうと無理やり納得させる。

 それよりも今は、神野との初会話だ。

 あの訳の分からない三秒のやりとりは会話にはカウントしないことにして、僕は背筋を伸ばした。

「ここの台詞なんだが……」

 神野の細い指が示す場所に視線を落とす。
 そこには神野が演じる端役と、僕が演じる主役の短いやりとりがある。

 神野の役と僕の役の関係は、幼馴染だ。

 いずれ英雄となるために旅に出る主役。
 そして臆病で村から出られない端役。

 台本を読んで妙にハマり役だと納得した。
 その一方でこのふたりのやりとりはおかしいと僕も思っていたところだった。

「……ああ、分かるよ。なんか違うよね」

 神野が指摘する違和感。
 それは主役が端役との会話をきっかけに村を出る場面にある。

 端役は主役の向こう見ずな性格を揶揄し、主役は端役の臆病さを非難するというありがちなやりとり。

 しかし、変だ。

 旅立つ前に幼馴染へ心無い言葉をぶつける主役。

 ——なんだかキャラがブレているような気がする。

 幼馴染とお互いに憎み合っていたわけでもない。
 むしろ村の厄介者として扱われていた主役と、唯一仲良くしていたのが端役だ。

 端役が密かに主役へのコンプレックスを抱いていたとしても、こんな形で追い出すようなことをするだろうか?

 それに対して英雄になるはずの主役が幼馴染を酷い言葉でなじるだろうか?

 こう考えてみると、主役に村から旅立つきっかけを与えるために強引に書いたシーンのように思える。

 いわゆる、ご都合展開というやつだ。

 棘のある台詞による派手なやりとりは盛り上がる。
 見ている側も演じている側もドーパミンが出る。

 だからこそ一年生が演じる新人公演にもってこいのシーンなのかもしれない。

 でも、やっぱりおかしい。

「そうだよな! コイツはこんなことは言わないと思うんだ!」

 僕が違和感に同意すると神野は一気に饒舌になる。

「こっちも見てくれ。村を出た後に、共に旅する仲間が主人公を鬱陶しがるシーン」
「……ふむ」
「ここで主人公は酷い言葉を使わずに、それを受け止めている。これが村を出た頃との対比で成長を表しているならいいんだが、他のシーンでも主人公の善性が一貫しているところを見ると主人公の成長を描いているのではないと思うんだ」

 他のシーンでの台詞も確認しながら説明する。

 僕は驚いた。

 いつもはオドオドしている神野が台本のことになるとめちゃくちゃ喋ることもそうだが、なんとなく違和感を持つだけじゃなくて、きちんと根拠を元に役に対する解釈を深めた上で、問題点を指摘したことだ。

 たしか神野は演劇初心者のはずだ。
 それなのに論理立てて役への理解を深めている。

「……神野、お前はたしか高校から演劇部に入ったんだよね?」

 ふと疑問に思って尋ねる。
 すると神野は困惑を表情に滲ませながら頷く。

「ああ、うちの中学に演劇部はなかった。それがどうした?」
「いや、なんでもない」

 反射的に誤魔化したが、なんでもないわけがない。

 ——なぜ神野は主役を理解出来ているのだろう。
 自分の役でもないのに。

 僕が違和感に気付いたのは神野に言われてからだ。
 台本を何度も読み返していたはずなのに。

 僕より僕の役を理解しているやつなんていないと思っていた。

 神野に対する畏れと悔しさが同時にやってくる。

 ……もっと読み込んでおくべきだった。
 まさか演劇未経験者遅れを取るなんて。

 苛立ちに飲まれた僕は無意識に台本を丸めた。

 だが、分厚い紙の束がみちみちと鳴る音に気付いてすぐに手を緩める。

 ゆっくりと息を吐いた。
 冷静さを取り戻すために。

 ……いや、落ち着け。読み込んだところで神野しか気付かなかったことかもしれないじゃないか。

 僕が自分を責める必要はない。

 そうやって言い聞かせている間にも現実では状況が進む。

「——久城、読んでくれ」
「ん?」

 再び僕の目の前に差し出された台本。
 そこには新たな台詞が赤字で書き加えられていた。

「……おや」

 ひと通り読んでみたが、かなりしっくりくる。
 むしろ、こっちの台詞回しのほうがいい。

 神野が改稿した台本は整合性が取れていた。

 幼馴染である端役は、主人公へのコンプレックスを匂わせつつもわざと憎まれ役を演じて主人公を村から追い出そうとする。

 主人公がこんな村で燻っているような人間ではないと信じているからだ。

 そんな思惑を主人公も察しながらも幼馴染の台詞に応える。

 特に幼馴染がわざと嫌味なことを言った後の主人公の台詞がいい。

『——そうとも、僕は英雄だからね』

 彼ならこう言うだろう。
 主役を演じる者として完全に納得してしまった。

「……これ、すごくいいな」

 僕がぼそりと呟く。
 すると神野の顔色がパッと明るくなる。

「そうか! じゃあ先輩に相談してくる」
「え?」

 止める間も無く、神野の背中が遠のいていく。
 その向かう先にいるのは、演出担当の先輩。

「ま、待て——ッ!!」

 僕が必死に追いかけるが、間に合わない。

「先輩、すみません。台本のことでご相談が——」
「ん?」
「あ゛ああああッ!」

 意気揚々と先輩に相談し始める神野に僕は潰れた蛙のような声を絞り出す。

「……あいつら、なにやってんだ?」

 その様子を遠巻きに眺めていた南田が呆れたように呟いたが、もちろん神野の暴挙に頭を抱える僕の耳には届かない。

 久城蒼は神野洸太に振り回されるようになった。
 それは、高校一年生の夏からだった。