キミがためのシェイクスピア〜天才による天才のための青春エチュード〜

 それはまさしく取り調べであった。

「何か申し開きがあるなら聞こう」
「ううう……」

 二人きりのホール。
 ゼロ人の観客の前で、俺は正座していた。

 舞台のど真ん中で久城が仁王立ちする

「ただ……日野に申し訳なくて……」
「はぁ?」
「ひッ……」

 物凄い低い声に俺はますます小さくなる。
 体感として久城がゴジラで俺がミジンコぐらいだ。
 実際の身長差は一〇センチあるかないかだが、今はそういう話ではない。 
 
「どうしてお前が日野に申し訳なく思うのかな?」

 久城は苛立ちを隠さずに片足でリズミカルに舞台を叩きながら尋ねた。

「だってオースティン役は、日野が演じるはずだったのに……」

 俺は素直に答える。
 久城は長く、深く、わざとらしい溜息を吐いた。

「お前ねぇ……」

 そして片手で顔を覆ったかと思えば、指の隙間から俺を睨む。

「——いい加減にしなよ?」

 ポスターみたいに絵になる構図だ。
 だが、その鋭い眼光が自分に向けられると恐ろしさに震え上がる。

 ……怖い。
 本当に怖過ぎる!

「ど、どうしてそんなに怒っているんだ? 後輩に脚本を書いてやるのは別に悪いことではないだろう?」

 あと、なんでお前はそんなに怒りっぽいんだ? 
 ……とは、聞かないでおいた。
 俺でもこの質問が即死トラップであると分かる。

 すると久城はこめかみに血管を浮かび上がらせた。
 
「悪いに決まっているだろう! この大馬鹿者!」

 観客席の最終列まで届く大声がホールに響き渡る。
 天才役者は肺活量までも凄まじい。
 耳の奥がキーンと鳴る。

「……どうしてお前は」

 そして打って変わって弱々しい声。
 それが途切れて聞こえた。

「久城……?」

 俺は伏せた顔をゆっくりと上げる。
 そこには真っ赤な顔をした久城がいた。

「悪しき前例でも作るつもりなのかな?」
「悪しき前例って……そんな大袈裟な……」
「日野のためにお前が脚本を書く? 努力不足で役を降ろされた役者のために、新たに選ばれた役者が? 詫びとして?」

 俺の頭が凄まじい勢いで回転し始めた。
 永遠とも思える沈黙の中で俺は思考する。
 そして、自分が何をしようとしていたのか気付く。

 脳内で結論に達した瞬間、一気に青褪めた。

「す、すまない……久城——」
「謝るくらいなら何が悪いのか言ってみろよ」

 久城の指先が俺の顎を掴み、顔を上げさせた。
 その振る舞いと低い声に俺の脚本の主役が重なる。
 だが、今はそんなことを考えている場合じゃない。

「さあ! 早く!」

 怒鳴るように急かされた俺は項垂れることもできずに答える。

「……日野は役を演じるために必要な条件を満たせなかったから降ろされた。つまり、日野に非があり、それを補うために俺が代わりにキャスティングされた。だから俺が詫びる必要はない」

 どんどんと胃が痛くなってくる。
 でも久城が俺を解放してくれる気配はない。
 当たり前だ。
 まだ肝心なことを言っていないのだから。

「それで?」

 瞳孔が開いたままの久城が俺を見下ろす。
 俺は口の中に溜まった唾をごくりと飲み込んだ。

「……もしも俺が詫びとして日野に脚本を書いてやったら、今後も誰かが役を降ろされる度に、代わりにキャスティングされた役者が降ろされた役者に詫びる必要があるという間違った前例が出来てしまう」

 そう、それこそが悪しき前例である。

 役者が代えられるとき、病気や怪我などのやむを得ない事情を除けば、大抵の場合で非があるのは降ろされた役者の方だ。

 特に今回は演出が事前に示した条件を役者が満たせなかったのだから、役を降ろされるきっかけを作ったのは日野になる。

 俺が役を奪ってしまったと罪悪感を抱いているだけ。
 そんな理由で俺が日野に詫びて、しかも脚本まで書いてやったら、他の部員たちに示しがつかない。

 そして、何より——。

「加えて……演出である久城の判断を蔑ろにすることになる」

 それを言い終わった時、あんなに湿っていた俺の舌は乾き切っていた。

 日野をオースティン役から降ろすこと。
 新たに俺をオースティン役に選ぶこと。
 そのどちらの判断も、久城が行った。

 横暴でもない。身勝手でもない。
 俺たちの最終公演をよりよいものにするために演出として責任を持って下した選択だった。

 それなのに俺はオースティン役を演じるには実力が足らないと怯えて、日野に罪悪感を持ってしまった。

 それは久城の判断を疑っていることと同義だ。
 俺はその疑いを日野への罪悪感にすり替え、詫びの脚本として形にしようとしたのである。

 久城にとって、これほどの侮辱もあるまい。

「ほ、本当にすまない……久城……俺はなんてことを……」

 あまりに情けなくて瞳が潤んでくる。
 だが、俺が泣ける立場ではないので必死に耐える。
 改めて自覚するといくらなんでも酷過ぎた。

 確かにキャストはやりたくない。
 準主役のオースティンなんて以ての外だ。

 だからといって、久城の判断を疑うべきではなかったし、日野に軽率に詫びるべきではなかった。

 冷静に考えれば分かることだ。
 なのに、どうして俺はこうなのだろう。
 
「謝って済むことではないと分かっているが、申し訳ない……」

 謝り続ける俺に久城は何も言わない。
 ただ、俯いているだけだ。
 目元に影が落ちて表情が読めない。

 それでも必死に久城を見上げながら、俺は一年生のときの新人公演を思い出していた。


 俺の配役は、最も出番の少ない端役。
 配られた台本の内容は全部覚えていた。
 ——そのはずが、自分の台詞の覚え間違え。
 致命的なミスで舞台の展開を変えてしまった。

 誰も思いつかないほどの失敗。
 何もかもが終わったと思った。

 そのときも久城はこうして俯いていた。
 
 強い照明のせいで、顔が見えない。
 俺の台詞の次は、久城の台詞。
 台本通りの台詞だったら繋がることはない。

 だけど——。

『——そうとも、僕は英雄だからね』

 久城は、見事に繋げてみせた。

 その瞬間、俺は救われた。

 本来なら台本に書かれていない台詞の応酬。
 それが終わると久城は主役として舞台に残る。
 そして俺は端役として舞台袖に消えた。

 あのとき、俺は確信した。

 久城こそ、最も長く舞台に立ち続けるべき男。
 俺が描くべき真の主役だと。

 ……それが今はどうだろう。
 恩を返すどころか仇ばかり押し付けている。

 あの日、台詞を間違えてから何も変わっていない。
 久城の足を引っ張ってばかり。
 何の役にも立たない。
 
 こんな俺なんて——。

「——ねえ、それだけ?」

 自己嫌悪の渦に嵌まりかけていた俺の意識を引き摺り上げたのは、苛立ちを隠さない男の声。

「……え?」

 見れば眉間に凄まじい皺を寄せている。
 絶世の美男子がやっちゃいけない顔である。

「『え?』じゃないよ。謝るのはそれだけか?」
「そ、それだけって……」

 あからさまに不機嫌な久城に問い詰められて戸惑う。

 俺が悪いと思った点や謝罪が必要なことについては、全て口にしたつもりだった。

 だが、久城の態度を鑑みるに俺は何か見落としているらしい。

 必死に考えを巡らせるが、まったく思いつかない。

 俺はいったい何をしでかしてしまったんだ!?

「ご、ごめん……」

 あらゆる意味での謝罪を三文字に詰め込んだ。
 もちろん、それで納得する久城ではない。

「——本当にお前ってやつは!」
「うわぁあああ!?」

 固く細く丸められた台本で、額を一発。

 ……いや、二発。
 さ、三発——四発、五発、六発。

「いてててッ! 久城! やめろ!」
「やめてたまるか、この裏切り者!」

 台本片手に俺を追い回す久城。
 舞台上を縦横無尽に逃げ回る俺。

 それは殺陣とも踊りとも言えない滑稽な掛け合い。

「裏切り者ってなんだ! 俺がいつ裏切った!?」

 久城が一閃。
 俺が避ける。

「身に覚えがないとはね! 脚本家は口先だけか!」

 久城がターンして追いかける。
 俺も逆回りに逃げる。

「脚本家は関係ないだろう!」

 久城の手が俺の首の後ろに伸びる。
 俺はギリギリでしゃがみ込んで回避する。

「関係あるさ! この嘘つきめ!」

 久城の足が俺の背中に向かって蹴り上がる。
 俺は大きく飛び退いてから体勢を立て直す。

「俺がいつ嘘なんて吐いた!?」

 俺が全力疾走で舞台袖に逃げ込もうとする。
 それを読んでいた久城に回り込まれる。

「言ったじゃないか! 覚えてないのか!?」

 大股で俺に向かって詰め寄ってくる久城。
 思わず後ろ歩きで後ずさっていく俺。

「だからなんだよ!!」

 ホールの上で、睨み合う。

 上手(かみて)——つまりは右側には、久城。
 下手(しもて)——つまりは左側には、俺。

 そして、久城が叫ぶ。

「僕のために脚本を書くって言ったじゃないか!」

 俺の胸ぐらを掴んで、引き寄せる。

「僕以外の、凡人のためになんか書くな!」

 青い瞳が、輝く。

 観客席からじゃ遠くて見えない。
 同じ舞台に立つ者しか知らない美しい蒼の宝石。

「お前は僕が世界で一番愛している天才だろうが!」

 その瞬間、俺の世界が壊れた。
 木っ端微塵に。

 鮮やかな色彩が照明の光と共に瞳になだれ込む。

 頭上に無数に走る、真っ黒なライトの骨組み。
 舞台袖に張り付いた深紅の袖幕。
 足元に広がる茶色の木目。

 紺と白のジャージ。
 少し乾いた薄桃色の唇。
 金に近いミルクティー色の髪。

 そして、海にも空にも喩えられる蒼の瞳。

 それが俺だけを見つめている。

 ——いや、まさか。
 そんなわけがない。

 そんなはずがないんだ。

「お……俺って、天才なのか!?」

 目の前にいる天才に俺は問う。

「——そっちじゃないだろッ!!!!」

 神野洸太が書き上げた台本が、久城蒼の手によって作者本人の頭に叩きつけられる。

「いってぇッ!!」

 スパーンッ、と一発。
 音響担当が聞いていたら笑顔になるほどいい音だった。