こうして逆井宗一郎からの神野洸太への疑いは久城蒼によって晴らされることになった。
まさしく天才らしい立ち回りだ。
久城は他人を追い詰めるときですら、美しさに翳りのひとつも見えない。
それどころかあの冷たい瞳が美を引き立たせる。
流れるような弁舌は舞台に立った久城を俺が初めて見た時の感動を思い出させた。
最後の微笑みなど見惚れてしまう。
久城蒼という存在は俺の創作意欲を刺激する。
あいつこそ舞台の王様。
まさしく主演に相応しい男だ。
しかし、手放しで久城蒼を褒められるのはここまでである。
馬鹿と天才は紙一重というのは、言い得て妙だ。
久城蒼もまた馬鹿と天才を行き来している。
まるでメトロノームみたいに。
馬鹿、天才、馬鹿、天才、馬鹿、天才——。
「この馬鹿ッ——!」
南田の高らかな叫び声が響いた。
丸めた台本が久城の額にクリーンヒット。
「あぁ……?」
紙の束なので流石に吹っ飛びはしない。
しかしそれぐらいの勢いでしばかれた久城は不機嫌そうに呻き声を漏らす。
稽古場にいる部員はみな見て見ぬフリである。
俺もそうしたいが、当事者なので出来ない。
正座させられている久城の隣で体育座りだ。
「お前のせいで危うく公演中止になるところだったんだぞ!?」
台本を拾い上げた南田が、鼻息荒く糾弾する。
しかし、本人はそっぽを向いて澄ましていた。
「間違ったことをしたつもりはない。僕は部員を守っただけだ」
「それにゃ感謝してるよ! でもな、過剰防衛って知ってっか?」
ヤンキー座りで煽るように覗き込んでくる南田。
久城は鬱陶しそうに片眉を持ち上げた。
「正当防衛という言葉なら知っているが?」
「あれのどこが正当防衛だ、馬鹿野郎ッ——!」
再び南田が台本をぶん投げる。
その拍子に留め具が外れたのか、台本がバラバラになってしまった。
台詞が書かれた紙が宙に舞い、稽古場の床に座らされた不機嫌顔の美青年と、パーカーを被った地味男の頭上に降り注ぐ。
まるで雪のように。
……さて、こうなった経緯を説明しよう。
逆井との対立の翌日、つまりは今日。
俺たちは教師から注意された。
理由は、久城による暴言と脅迫である。
逆井からの不名誉な疑いを久城の冷静な対応によって跳ね除けたところまではよかった。
そこから先が問題だ。
久城に追い詰められた逆井は逃亡を試みた。
もはや言えることがなくなったのであろう。
つまり、逆井が負けを認めたことと同義だ。
だから俺は逆井を追いかけようとも思わなかった。
南田も卑怯な逃亡に思うところはあっただろうが、それ以上に大事にしたくなかったのか、黙って逆井の背中を見送ろうとしていた。
それを許さなかったのは久城である。
『待て』
俊敏な動きで逆井の背後に回り込むとその首根っこを掴む。
『うちの神野に対する暴言の撤回と謝罪を要求する』
久城は堂々と謝罪を求めた。
しかも、久城ではなく俺に対しての謝罪だ。
寝耳に水というか……信じられなかった。
確かに逆井は俺にあらぬ疑いをかけていたわけだが、それは久城によって払拭されたし、俺も謝罪までは求めていない。
けれどもなぜか俺ではなく、久城が怒髪天だったのである。
『いいから神野に謝りなよ——ねえ?』
『ヒィッ!』
最終的には壁ドンならぬ足ドンにまで至った。
久城の長い足が逆井の腕を掠め、食堂の柱に叩きつけられる。
『僕の声が聞こえないのかな?』
『ア、アア……』
『だから暴力沙汰は卒業してからって言ってんだろ!?』
腰を抜かした逆井に久城は脅迫を続けた。
それを南田が無理やり引き剥がしてようやく逆井は逃げることが出来たのである。
その場で呆然と立ち尽くしていた俺は当然ながら『お前も止めろよ!』と南田に叱られた。
でもこっちだってなんだかよく分かっていない。
久城が怒っている姿は見慣れている。
久城といえば喜怒哀楽の「怒」のイメージだ。
しかし、誰かのためにここまで怒りをあらわにしているところを見たことがない。
だからこそ感心してしまった。
久城って俺が思っていたより熱い男だったんだな。
部員のためにあんなに怒ってくれるなんて。
……だとしても、足ドンはやり過ぎだが。
案の定、逆井は逃げ出した後に教師にチクった。
そして、その翌日に俺たちは揃って職員室に呼び出されることになったのだ。
とはいえ、そもそも逆井の方から先に突っかかってきたのだ。
そのため、逆井が教師への密告で都合よく省略した部分を俺たちの証言によって補完し、結果としてはどちらにも非があったと認められた。
それはそれとして、久城が過激な脅迫をしたことに変わりない。
部員を守るためであっても、暴力はいけない。
それに主演であり、演出でもある久城がトラブルを起こすことは他の部員にも迷惑をかけることになる。
そんな至極もっともな注意を受けて、俺たち三人はようやく解放され、とぼとぼと放課後の稽古場に戻ってきたのだった。
そして今度は部長である南田からのお説教である。
南田は中等部の頃から久城を面倒を見ているらしいが、高三になっても喉を枯らす勢いで叫んでいるところを見ると心から不憫に思う。
南田も久城には及ばずともいい役者だ。
最終公演でも重要な役を担っている。
どうか喉も身体も心も大事にしてほしい。
……久城を止められなかった俺が言えた話ではないというのは棚に上げておこう。
「お前は神野のことになると見境ないのやめろよ!」
「うちの脚本家の名誉が穢されたのに見過ごせない」
「話はあそこで終わってただろうが!」
「終わっていた? 謝罪も受けていないのに」
「神野が謝れっつってねえのに、お前が脅すな!」
職員室を出てからというもの、ずっとこの調子だ。
まるで虎と大蛇の睨み合い。
それに挟まれた俺は哀れな小鼠。
「俺のために争わないで!」と健気なヒロインを演じて止めに入る勇気も、演技力もなく、ただただ縮こまるしかない。
「神野をあそこまで愚弄されて見逃すのか?」
「だからってあんな脅迫するなっつの!」
「おや、実に穏やかな話し合いだったじゃないか」
「はっ倒すぞ、テメー」
言い争いは終わりが見えるどころか激しさを増す。
俺はパーカーのフードを被って背中を丸める。
ああ、気まずい。
誰か助けてくれ。
「あの……洸太先輩、だいじょうぶですか?」
そこへ声をかけてくれた救世主。
俺が振り返れば、後輩と目が合う。
日野葵——うちの部の、もうひとりの「あおい」。
そして、本来なら久城の相手役だったはずの男。
「また久城先輩と南田先輩が喧嘩してるみたいで……洸太先輩も大変ですね」
「ああ……そうだな……」
いつもなら、おっとりとした口調に癒される。
しかし、この状況ではつい苦笑が漏れた。
ここからさらに気まずくなるとは思わなかった。
同じ名前を持ちながらも久城とは真逆の雰囲気。
そんな日野は、後輩の中でトップクラスで演技が上手い役者だ。
日野が後輩でありながらも久城の相手役に選ばれたときも誰も文句を言わなかったのは、部内でもその実力が周知されていたからである。
それがたった一週間で役を降ろされるなんて。
いったい誰が想像しただろうか。
日野にとっても青天の霹靂だったに違いない。
だが、台本を暗記しておくことがオースティン役の条件であったことも事実。
正当な理由での降板なので、日野も納得しているのかもしれない。
問題は、後任が新人公演以降は一度も舞台に立ったことがない脚本担当の神野洸太——すなわち俺であることだ。
「文芸部に絡まれたって聞きました。大丈夫でしたか?」
僕、すっごく心配で……と仔犬のように潤んだ瞳で見つめてくる後輩に俺は居た堪れなくなった。
俺だったら、演技においてはたいした実力もないくせに図々しくも自分の後釜に居座った先輩をこうして素直に思い遣ることは難しい。
だが、日野はこうして話しかけてくれた。
「あおい」という名前を持つ男はメンタル強者ばかりなのか。
「平気だ。俺なんかを心配してくれてありがとう」
「そんな謙遜なさらないでください! 僕、洸太先輩が書かれる脚本が大好きなので……!」
「そ、そうか……」
後輩から憧れの視線を向けられ、俺は頭を抱える。
……何ともやりにくい。
日野葵は入部した頃から俺を慕ってくれている。
入学前——すなわち俺が高校一年生だった頃の文化祭でたまたま演劇部の公演を観た日野は、俺の脚本をたいそう気に入ってくれたらしい。
入部した当初から人懐っこく、「僕は憧れている人のことを下の名前で呼ぶんです」と宣言した日野に、俺だけファーストネームで呼ばれ続けている。
久城は同じ名前なので呼びにくいのは分かる。
だが、南田とか他にも優秀な役者はいくらでもいるのに、なぜ俺だけ下の名前で呼ばれているんだ……?
しかも俺は脚本を書き終われば裏方として動いている俺は、役者チームの日野とほとんど関わりがない。俺の影が薄過ぎて無視する後輩もいるくらいだ。
それでも、日野は必ず声をかけてくれる。
もちろん感謝はしている。
ただ妙な居心地の悪さと微量の恐怖も感じている。
何よりもこの状況が本当に気まずい。
役を降ろされた役者とその役にあてがわれた役者。
申し訳なさからうっかり俺の口から謝罪が漏れた。
「本当にすまない、日野……」
日野は目を丸くした。
「え、何のことですか?」
珈琲色の髪が首を傾げた拍子にふんわりと揺れた。
わざと惚けてくれているのか。
それとも本気で気にしていないのか。
俺には判断がつかないが、ここで誤魔化して丸く収めるようとする物分かりの良さより、申し訳なさの方が勝ってしまった。
「お前の役を俺が奪ってしまうことになってしまって……」
そう発言してから、ふと気付く。
——もしかして俺が先に謝罪してしまったら、後輩である日野は許すしかなくなってしまうのでは?
しかし、時すでに遅し。
日野は困ったように微笑む。
「いえ、台本を暗記出来なかった僕が悪いので……」
——ああ、やっぱり言わせてしまった!
俺は思わず胸を押さえた。良心がジクジクと痛む。
どうして俺はこうもコミュニケーションが下手なのだろう。
脚本は書けても現実でまともな台詞が出てこない。
なんとかフォローしなくては……と気の利いた言葉を探すが、見つける前に日野に畳み掛けられる。
「でもオースティン役を演じられなくて残念です」
せっかく洸太先輩が書いてくださった脚本だったのに……と日野は悲しそうに呟く。
俺の心臓は罪悪感で握り潰されそうになった。
今からでも役を戻せないかと打診しかけた。
だが、それもそれで失礼だし、何よりも久城を怒らせるので言えない。
結局、俺は言葉を失うしかない。
なんと情けない先輩か。
すると日野はクスクスと大人びた笑みを溢した。
「死にそうな顔をしないでください。僕はまだ二年生です。来年も演じられる機会はありますよ」
「あ、ああ……そうだな……」
俺はなんとか相槌を搾り出す。
俺がフォローするどころか逆にフォローされてしまった。
それでも死人一歩手前の顔のまま戻らない。
「しかし、本当に申し訳なくて……俺なんかに出来ることがあるなら何でもやるんだが……」
この親切な後輩に報いるにはどうしたらいいのか。
俺は必死に考えを巡らせる。
そのせいで日野の瞳が輝く瞬間を見逃した。
「……あの、そんなに気にされているなら、ひとつだけお願いしてもいいですか?」
おずおずと申し出る日野にようやく顔色を戻した。
「ああ、なんでも言ってくれ」
「それじゃあ——」
日野はもったいぶるようにたっぷりと間を取って、それから告げた。
「僕のために脚本を書いてもらえませんか?」
にっこりと微笑む日野。
俺は拍子抜けする。
「そ、そんなことでいいのか……?」
聞き返すと日野は拗ねたように唇を尖らせる。
「洸太先輩の脚本が僕をここまで連れてきてくれたんですよ!? 僕のために脚本を書いてくださるなら死んでもいいです!」
「し、死なないでくれ……」
日野の勢いに押されつつも、俺は考え込んだ。
俺にとって脚本を書くことは、全く苦ではない。
むしろ最も楽しいことだ。
短いものなら一週間程度で仕上げられるだろう。
だがそれで許されてしまってもいいのか……?
俺はちらりと日野の顔を盗み見た。
そして、その表情に面食らう。
なんだかものすごくキラキラしている。
わずかな不安と多くの期待に満ち満ちているような……。
どうやら本気で俺に脚本を書いてほしいらしい。
……変わったやつだ。
「具体的な要望はあるか……?」
俺が恐る恐る尋ねる。
すると日野は待ってましたと食いついた。
「はい! もちろん!」
大きく頷くとその丸い目を輝かせる。
「僕を主演に当て書きをしてください!」
日野は満面の笑みを浮かべた。
一方で俺は惚けた顔になった。
「……日野に当て書きを?」
「はい、そうです」
日野はまっすぐに俺を見つめ返した。
「洸太先輩に僕だけの役を書いて欲しいんです」
降ろされた舞台の台本を日野は握り締める。
「久城先輩みたいに」
そう言い切った日野を前に俺は考え込んだ。
誰かを主演に当て書きをする。
今まで久城に対して俺がやってきたことだ。
そのため俺が書いてきた脚本の主役のほとんどが、久城が演じてこその役柄になっている。
ただし久城のためだけの脚本というわけでもない。
他の公演で別の役者が再演したこともあった。
日野は、そのうちのひとりである。
かつて久城が演じた役を新たな解釈を元に演じきった日野には感心させられた。
その一方でやはり久城ではないことに物足りなさもあっただろう。
日野もそれを自覚していたのかもしれない。
だからこそ自分だけの主役が欲しいと思ったのか。
俺はそこまで考えを巡らせてから頷いた。
日野から役を奪った俺が日野に役を与え直す。
これは実に理に適っているし、筋が通っている。
何より来年には卒業してしまう俺が、先輩として後輩に残してやれる唯一のものかもしれない。
納得した俺は改めて日野を見つめ返した。
「分かった。じゃあ——」
「——なにが分かったんだい?」
絶対零度の声が耳元で響いて俺は凍りついた。
——デジャヴ。
いや違う、これは誤用だ。
デジャヴとは、一度も経験したことがないはずの出来事に既視感を覚えることだ。
俺はすでにこれを経験したことがある。
「く、久城……」
呼び慣れた名前を溢しながら声が聞こえた方へ顔を動かす。
そこには笑顔があった。
氷の王子——いや、魔王の微笑み。
俺は死を確信した。
「違うんだ、久城! 俺は——」
「言い訳は署で聞こう」
「うわああああッ——」
「こ、洸太せんぱーいッ!!」
こうして神野洸太容疑者は久城蒼刑事によって逮捕され、署に連行されることになった。
「……やっぱり馬鹿だろ、あいつら」
目撃者である南田絢斗は静かに呟くと稽古場から遠のいていくふたりの姿を見送っていた。
まさしく天才らしい立ち回りだ。
久城は他人を追い詰めるときですら、美しさに翳りのひとつも見えない。
それどころかあの冷たい瞳が美を引き立たせる。
流れるような弁舌は舞台に立った久城を俺が初めて見た時の感動を思い出させた。
最後の微笑みなど見惚れてしまう。
久城蒼という存在は俺の創作意欲を刺激する。
あいつこそ舞台の王様。
まさしく主演に相応しい男だ。
しかし、手放しで久城蒼を褒められるのはここまでである。
馬鹿と天才は紙一重というのは、言い得て妙だ。
久城蒼もまた馬鹿と天才を行き来している。
まるでメトロノームみたいに。
馬鹿、天才、馬鹿、天才、馬鹿、天才——。
「この馬鹿ッ——!」
南田の高らかな叫び声が響いた。
丸めた台本が久城の額にクリーンヒット。
「あぁ……?」
紙の束なので流石に吹っ飛びはしない。
しかしそれぐらいの勢いでしばかれた久城は不機嫌そうに呻き声を漏らす。
稽古場にいる部員はみな見て見ぬフリである。
俺もそうしたいが、当事者なので出来ない。
正座させられている久城の隣で体育座りだ。
「お前のせいで危うく公演中止になるところだったんだぞ!?」
台本を拾い上げた南田が、鼻息荒く糾弾する。
しかし、本人はそっぽを向いて澄ましていた。
「間違ったことをしたつもりはない。僕は部員を守っただけだ」
「それにゃ感謝してるよ! でもな、過剰防衛って知ってっか?」
ヤンキー座りで煽るように覗き込んでくる南田。
久城は鬱陶しそうに片眉を持ち上げた。
「正当防衛という言葉なら知っているが?」
「あれのどこが正当防衛だ、馬鹿野郎ッ——!」
再び南田が台本をぶん投げる。
その拍子に留め具が外れたのか、台本がバラバラになってしまった。
台詞が書かれた紙が宙に舞い、稽古場の床に座らされた不機嫌顔の美青年と、パーカーを被った地味男の頭上に降り注ぐ。
まるで雪のように。
……さて、こうなった経緯を説明しよう。
逆井との対立の翌日、つまりは今日。
俺たちは教師から注意された。
理由は、久城による暴言と脅迫である。
逆井からの不名誉な疑いを久城の冷静な対応によって跳ね除けたところまではよかった。
そこから先が問題だ。
久城に追い詰められた逆井は逃亡を試みた。
もはや言えることがなくなったのであろう。
つまり、逆井が負けを認めたことと同義だ。
だから俺は逆井を追いかけようとも思わなかった。
南田も卑怯な逃亡に思うところはあっただろうが、それ以上に大事にしたくなかったのか、黙って逆井の背中を見送ろうとしていた。
それを許さなかったのは久城である。
『待て』
俊敏な動きで逆井の背後に回り込むとその首根っこを掴む。
『うちの神野に対する暴言の撤回と謝罪を要求する』
久城は堂々と謝罪を求めた。
しかも、久城ではなく俺に対しての謝罪だ。
寝耳に水というか……信じられなかった。
確かに逆井は俺にあらぬ疑いをかけていたわけだが、それは久城によって払拭されたし、俺も謝罪までは求めていない。
けれどもなぜか俺ではなく、久城が怒髪天だったのである。
『いいから神野に謝りなよ——ねえ?』
『ヒィッ!』
最終的には壁ドンならぬ足ドンにまで至った。
久城の長い足が逆井の腕を掠め、食堂の柱に叩きつけられる。
『僕の声が聞こえないのかな?』
『ア、アア……』
『だから暴力沙汰は卒業してからって言ってんだろ!?』
腰を抜かした逆井に久城は脅迫を続けた。
それを南田が無理やり引き剥がしてようやく逆井は逃げることが出来たのである。
その場で呆然と立ち尽くしていた俺は当然ながら『お前も止めろよ!』と南田に叱られた。
でもこっちだってなんだかよく分かっていない。
久城が怒っている姿は見慣れている。
久城といえば喜怒哀楽の「怒」のイメージだ。
しかし、誰かのためにここまで怒りをあらわにしているところを見たことがない。
だからこそ感心してしまった。
久城って俺が思っていたより熱い男だったんだな。
部員のためにあんなに怒ってくれるなんて。
……だとしても、足ドンはやり過ぎだが。
案の定、逆井は逃げ出した後に教師にチクった。
そして、その翌日に俺たちは揃って職員室に呼び出されることになったのだ。
とはいえ、そもそも逆井の方から先に突っかかってきたのだ。
そのため、逆井が教師への密告で都合よく省略した部分を俺たちの証言によって補完し、結果としてはどちらにも非があったと認められた。
それはそれとして、久城が過激な脅迫をしたことに変わりない。
部員を守るためであっても、暴力はいけない。
それに主演であり、演出でもある久城がトラブルを起こすことは他の部員にも迷惑をかけることになる。
そんな至極もっともな注意を受けて、俺たち三人はようやく解放され、とぼとぼと放課後の稽古場に戻ってきたのだった。
そして今度は部長である南田からのお説教である。
南田は中等部の頃から久城を面倒を見ているらしいが、高三になっても喉を枯らす勢いで叫んでいるところを見ると心から不憫に思う。
南田も久城には及ばずともいい役者だ。
最終公演でも重要な役を担っている。
どうか喉も身体も心も大事にしてほしい。
……久城を止められなかった俺が言えた話ではないというのは棚に上げておこう。
「お前は神野のことになると見境ないのやめろよ!」
「うちの脚本家の名誉が穢されたのに見過ごせない」
「話はあそこで終わってただろうが!」
「終わっていた? 謝罪も受けていないのに」
「神野が謝れっつってねえのに、お前が脅すな!」
職員室を出てからというもの、ずっとこの調子だ。
まるで虎と大蛇の睨み合い。
それに挟まれた俺は哀れな小鼠。
「俺のために争わないで!」と健気なヒロインを演じて止めに入る勇気も、演技力もなく、ただただ縮こまるしかない。
「神野をあそこまで愚弄されて見逃すのか?」
「だからってあんな脅迫するなっつの!」
「おや、実に穏やかな話し合いだったじゃないか」
「はっ倒すぞ、テメー」
言い争いは終わりが見えるどころか激しさを増す。
俺はパーカーのフードを被って背中を丸める。
ああ、気まずい。
誰か助けてくれ。
「あの……洸太先輩、だいじょうぶですか?」
そこへ声をかけてくれた救世主。
俺が振り返れば、後輩と目が合う。
日野葵——うちの部の、もうひとりの「あおい」。
そして、本来なら久城の相手役だったはずの男。
「また久城先輩と南田先輩が喧嘩してるみたいで……洸太先輩も大変ですね」
「ああ……そうだな……」
いつもなら、おっとりとした口調に癒される。
しかし、この状況ではつい苦笑が漏れた。
ここからさらに気まずくなるとは思わなかった。
同じ名前を持ちながらも久城とは真逆の雰囲気。
そんな日野は、後輩の中でトップクラスで演技が上手い役者だ。
日野が後輩でありながらも久城の相手役に選ばれたときも誰も文句を言わなかったのは、部内でもその実力が周知されていたからである。
それがたった一週間で役を降ろされるなんて。
いったい誰が想像しただろうか。
日野にとっても青天の霹靂だったに違いない。
だが、台本を暗記しておくことがオースティン役の条件であったことも事実。
正当な理由での降板なので、日野も納得しているのかもしれない。
問題は、後任が新人公演以降は一度も舞台に立ったことがない脚本担当の神野洸太——すなわち俺であることだ。
「文芸部に絡まれたって聞きました。大丈夫でしたか?」
僕、すっごく心配で……と仔犬のように潤んだ瞳で見つめてくる後輩に俺は居た堪れなくなった。
俺だったら、演技においてはたいした実力もないくせに図々しくも自分の後釜に居座った先輩をこうして素直に思い遣ることは難しい。
だが、日野はこうして話しかけてくれた。
「あおい」という名前を持つ男はメンタル強者ばかりなのか。
「平気だ。俺なんかを心配してくれてありがとう」
「そんな謙遜なさらないでください! 僕、洸太先輩が書かれる脚本が大好きなので……!」
「そ、そうか……」
後輩から憧れの視線を向けられ、俺は頭を抱える。
……何ともやりにくい。
日野葵は入部した頃から俺を慕ってくれている。
入学前——すなわち俺が高校一年生だった頃の文化祭でたまたま演劇部の公演を観た日野は、俺の脚本をたいそう気に入ってくれたらしい。
入部した当初から人懐っこく、「僕は憧れている人のことを下の名前で呼ぶんです」と宣言した日野に、俺だけファーストネームで呼ばれ続けている。
久城は同じ名前なので呼びにくいのは分かる。
だが、南田とか他にも優秀な役者はいくらでもいるのに、なぜ俺だけ下の名前で呼ばれているんだ……?
しかも俺は脚本を書き終われば裏方として動いている俺は、役者チームの日野とほとんど関わりがない。俺の影が薄過ぎて無視する後輩もいるくらいだ。
それでも、日野は必ず声をかけてくれる。
もちろん感謝はしている。
ただ妙な居心地の悪さと微量の恐怖も感じている。
何よりもこの状況が本当に気まずい。
役を降ろされた役者とその役にあてがわれた役者。
申し訳なさからうっかり俺の口から謝罪が漏れた。
「本当にすまない、日野……」
日野は目を丸くした。
「え、何のことですか?」
珈琲色の髪が首を傾げた拍子にふんわりと揺れた。
わざと惚けてくれているのか。
それとも本気で気にしていないのか。
俺には判断がつかないが、ここで誤魔化して丸く収めるようとする物分かりの良さより、申し訳なさの方が勝ってしまった。
「お前の役を俺が奪ってしまうことになってしまって……」
そう発言してから、ふと気付く。
——もしかして俺が先に謝罪してしまったら、後輩である日野は許すしかなくなってしまうのでは?
しかし、時すでに遅し。
日野は困ったように微笑む。
「いえ、台本を暗記出来なかった僕が悪いので……」
——ああ、やっぱり言わせてしまった!
俺は思わず胸を押さえた。良心がジクジクと痛む。
どうして俺はこうもコミュニケーションが下手なのだろう。
脚本は書けても現実でまともな台詞が出てこない。
なんとかフォローしなくては……と気の利いた言葉を探すが、見つける前に日野に畳み掛けられる。
「でもオースティン役を演じられなくて残念です」
せっかく洸太先輩が書いてくださった脚本だったのに……と日野は悲しそうに呟く。
俺の心臓は罪悪感で握り潰されそうになった。
今からでも役を戻せないかと打診しかけた。
だが、それもそれで失礼だし、何よりも久城を怒らせるので言えない。
結局、俺は言葉を失うしかない。
なんと情けない先輩か。
すると日野はクスクスと大人びた笑みを溢した。
「死にそうな顔をしないでください。僕はまだ二年生です。来年も演じられる機会はありますよ」
「あ、ああ……そうだな……」
俺はなんとか相槌を搾り出す。
俺がフォローするどころか逆にフォローされてしまった。
それでも死人一歩手前の顔のまま戻らない。
「しかし、本当に申し訳なくて……俺なんかに出来ることがあるなら何でもやるんだが……」
この親切な後輩に報いるにはどうしたらいいのか。
俺は必死に考えを巡らせる。
そのせいで日野の瞳が輝く瞬間を見逃した。
「……あの、そんなに気にされているなら、ひとつだけお願いしてもいいですか?」
おずおずと申し出る日野にようやく顔色を戻した。
「ああ、なんでも言ってくれ」
「それじゃあ——」
日野はもったいぶるようにたっぷりと間を取って、それから告げた。
「僕のために脚本を書いてもらえませんか?」
にっこりと微笑む日野。
俺は拍子抜けする。
「そ、そんなことでいいのか……?」
聞き返すと日野は拗ねたように唇を尖らせる。
「洸太先輩の脚本が僕をここまで連れてきてくれたんですよ!? 僕のために脚本を書いてくださるなら死んでもいいです!」
「し、死なないでくれ……」
日野の勢いに押されつつも、俺は考え込んだ。
俺にとって脚本を書くことは、全く苦ではない。
むしろ最も楽しいことだ。
短いものなら一週間程度で仕上げられるだろう。
だがそれで許されてしまってもいいのか……?
俺はちらりと日野の顔を盗み見た。
そして、その表情に面食らう。
なんだかものすごくキラキラしている。
わずかな不安と多くの期待に満ち満ちているような……。
どうやら本気で俺に脚本を書いてほしいらしい。
……変わったやつだ。
「具体的な要望はあるか……?」
俺が恐る恐る尋ねる。
すると日野は待ってましたと食いついた。
「はい! もちろん!」
大きく頷くとその丸い目を輝かせる。
「僕を主演に当て書きをしてください!」
日野は満面の笑みを浮かべた。
一方で俺は惚けた顔になった。
「……日野に当て書きを?」
「はい、そうです」
日野はまっすぐに俺を見つめ返した。
「洸太先輩に僕だけの役を書いて欲しいんです」
降ろされた舞台の台本を日野は握り締める。
「久城先輩みたいに」
そう言い切った日野を前に俺は考え込んだ。
誰かを主演に当て書きをする。
今まで久城に対して俺がやってきたことだ。
そのため俺が書いてきた脚本の主役のほとんどが、久城が演じてこその役柄になっている。
ただし久城のためだけの脚本というわけでもない。
他の公演で別の役者が再演したこともあった。
日野は、そのうちのひとりである。
かつて久城が演じた役を新たな解釈を元に演じきった日野には感心させられた。
その一方でやはり久城ではないことに物足りなさもあっただろう。
日野もそれを自覚していたのかもしれない。
だからこそ自分だけの主役が欲しいと思ったのか。
俺はそこまで考えを巡らせてから頷いた。
日野から役を奪った俺が日野に役を与え直す。
これは実に理に適っているし、筋が通っている。
何より来年には卒業してしまう俺が、先輩として後輩に残してやれる唯一のものかもしれない。
納得した俺は改めて日野を見つめ返した。
「分かった。じゃあ——」
「——なにが分かったんだい?」
絶対零度の声が耳元で響いて俺は凍りついた。
——デジャヴ。
いや違う、これは誤用だ。
デジャヴとは、一度も経験したことがないはずの出来事に既視感を覚えることだ。
俺はすでにこれを経験したことがある。
「く、久城……」
呼び慣れた名前を溢しながら声が聞こえた方へ顔を動かす。
そこには笑顔があった。
氷の王子——いや、魔王の微笑み。
俺は死を確信した。
「違うんだ、久城! 俺は——」
「言い訳は署で聞こう」
「うわああああッ——」
「こ、洸太せんぱーいッ!!」
こうして神野洸太容疑者は久城蒼刑事によって逮捕され、署に連行されることになった。
「……やっぱり馬鹿だろ、あいつら」
目撃者である南田絢斗は静かに呟くと稽古場から遠のいていくふたりの姿を見送っていた。
