久城蒼は、鬼である。
まさしく努力の鬼。
顔も良くて才能もあるのだから、そこにあぐらをかいていろよと思うのだが、久城はそんなことはしない。
途方もない努力。
それこそがあの絶対的な自信を支えていると言ってもいい。
だからこそ久城がいくら横暴でも文句を言えない。
アイツがどれだけ努力して舞台に立っているのか、俺たちは知っているから。
天才に努力されたら敵うはずない。
誰もがそう思っている。
そして、俺もそのひとり。
「し、死ぬッ……!」
やっと久城から解放された俺は、なんとか食堂へ逃げてきた。
稽古場に戻ったところで俺の居場所がないし、廊下をウロウロしていたら余計に怪しまれる。
その点、放課後の食堂はいい。
暇を持て余して自販機のジュース片手にたむろってるやつか、図書館まで行くのがダルくてここで勉強している奴らばかりだ。
隅の方でペットボトルにしがみつきながら突っ伏している俺に注目するやつなんていない。
物好き以外に。
「くたばってんなぁ〜?」
その物好きこそ南田絢斗だ。
南田は、食堂のテーブルに突っ伏す俺を覗き込みながら、隣の椅子にどっかりと腰を下ろす。
「随分とシゴかれちまったみてえで」
この令和の世でいまだにジャージで腰パンをしているのは、おそらく南田だけだろう。まさに絶滅危惧種。
しかし、そんな絶滅危惧種が俺にとって唯一の味方だった。
「アイツは、鬼か悪魔か……?」
「両方だろ」
軽口を叩きながら南田は、パックジュースにストローを突き刺した。ズズズッと派手な音を立てながら中身を吸い込んでいく。
「お、これ美味え」
実に気楽そうな南田に俺は恨みがましい目を向ける。
「冒頭のセリフだけで百回はやらされた……」
「マジかよ」
「もう一度、もう一度ってアイツの声が頭の中で響く……」
「そりゃ重症だな」
そうとも。俺はすっかり満身創痍で重症だ。
ふたりきりのホールで俺がどんな目に遭ったのか、南田にも味わってもらいたい。
少なくとも皆が久城の容姿から想像するようなロマンチックなエスコートなどは一切なかった。
王子というより、魔王である。
「うわぁあッ! また噛んだ! 舌打ちされるッ!!」
「お、おい! 落ち着け! 幻聴だ! そもそもアイツの舌打ちなんてオレらは聞き慣れてんだろ!?」
「……たしかに」
「それで納得するのもどうかと思うけどよ」
相変わらず見事なツッコミに俺も平静を取り戻す。
テーブルに頬を擦り付けたままペットボトルを握り締めれば、環境に配慮した柔らかいプラスチックがベコリと凹む。
目を閉じれば、不機嫌そうな久城の顔が浮かんだ。
耳の奥では、ため息、舌打ち、罵倒のフルコース。
『はあ……もう一度』
『チッ、また噛んだね』
『やる気あるの、お前?』
俺が上手くできないことなんて分かっていたはずなのに、久城は容赦がない。妥協する気もない。
本気で俺を自分と同じところまで引き上げようとしているのだ。
そんなことは無理に決まっているのに。
久城と俺では才能が違う。
「南田、頼みがある……」
「断る」
思った通り、即答された。
長年、俺と久城に挟まれてきたからだろうか。
察しがいいのも考えものだ。
「明日から卒業まで昼飯を奢ろう。これでどうだ?」
「バイトもしてねえのにお前の飯代はどうすんだ」
「最近、食える雑草を図書館で調べた」
「そこらの草食うなら、その覚悟を別んとこで使えよ」
それこそ久城の相手役を演じ切る覚悟とかさぁ……と呆れたように言い返され、俺は小さく呻く。
そんな覚悟を決められるはずがない。
南田だって分かっているだろうに。
「……久城は俺のことが嫌いなのかもしれない」
弱りきった俺がぼそりと呟く。
すると南田がジュースを吹き出しかけた。
「はぁ? 何言ってんだ、オメー?」
「だって俺はただの脚本家だ。役者なんて無理だ」
遠慮なく弱音を吐く俺に、逆に南田は溜息を吐く。
「一年の頃に役者も一度やったろ?」
「散々な結果だった」
「それでもなんとかなった」
「久城がなんとかしたからだ」
「今回だって久城がいるだろ?」
「その久城の最終公演だぞ!?」
俺は勢いよく顔を上げた。
椅子の背もたれにだらしなく寄りかかる南田を睨む。
そして、テーブルに両手を叩きつけた。
「俺なんかが足引っ張っていいわけない!!」
「……お、おう」
俺の剣幕に気圧された南田は椅子からずり落ちそうになっていた。
手すりを掴んで座り直すと頭をボリボリと掻く。
「つってもよお、久城がお前に任せたんだからお前がやらかしたとしても久城の責任だろ?」
「そういう話じゃないだろう」
「いや、そういう話じゃね?」
南田は、鼻で笑うと偉そうに腕を組む。
まるで久城の癖を真似するみたいに。
「オレとしちゃあ、アイツは最初からお前にその役をやらせたかったんだと思うね」
「……俺は脚本だぞ?」
「何度も言わなくても分かってるつーの」
南田はわざとらしく肩を竦めると食堂の高い天井を見上げながらパックジュースの残りを啜った。
「つか冗談でも久城に嫌われてるとか言ってやんなよ」
「はぁ?」
「アイツが可哀想だろ」
「どういう意味だ?」
南田の言いたいことが全く分からず俺は首を傾げる。
すると南田はニヤニヤしながら身を乗り出してきた。
「お前が思ってる以上に、アイツはお前のことが好きだぜ?」
そのセリフに俺の思考が完全に停止した。
「……久城が、俺のことを好き?」
眼球を上に向けて、今までの久城を振り返ってみる。
この三年間、久城の俺への態度と言えば——。
『僕がフォローしてあげたことを感謝してほしいね』
『そうだね、お前は一生脚本でも書いているといいよ』
『……その小汚いパーカーはなに?』
『僕に相応しい主役をお前が作れって言ってるの』
『ねえ、僕の話を聞いてる? お前って耳ついてる?』
——あまりにも酷い。
記憶を掘り起こしたせいで、ますます南田の言うことを信じられなくなってしまった。
俺に対する久城といえば、塩対応どころか激辛対応。
どう考えたって好ましい相手に向けるような態度ではない。
そもそも役者でもない俺に久城は見向きもしていなかったはずだ。自ら絡んでいたのは、それこそ共演が多い南田ぐらい。
やはり久城が好んでいるとしたら南田の方だろう。
それなのに無自覚に揶揄ってくる南田に苛立つ。
「……適当なことを言うな」
「マジだって、お前ホントにわかんねえの?」
呆れる俺に、南田は怪訝な表情を浮かべて食い下がってくる。
「お前は久城に好かれてるんだって!」
そして必死に訴えかける。
しかし、俺は分かっていた。
南田は、久城ほどではないにしろ、名役者だ。
久城の我儘を通すため、俺を丸め込もうしているに違いない。
部内の調和を保とうとするのは、部長として最善の行動なのだろうが、わざわざ演技までして俺を騙そうだなんてタチが悪い。
俺は肺の奥から深い息を吐き出した。
だったらこっちもやり返してやる。
俺はニヤリと笑って南田に問い返した。
「ふうん——それは性的な意味で?」
「ゴホッ——!」
南田は激しく咽せて呼吸困難に陥った。
どうやらジュースが気管に入ったらしい。
「お、おい、大丈夫か?」
まさかこんな激しいリアクションが返ってくるとは思わなかったので、俺は慌てふためいた。
本気で苦しそうに咳き込んでいる南田の背中を申し訳程度に撫でてみたが、振り払われる。
「ふざけんな、マジで!」
「冗談のつもりだったんだが……」
「言っていい冗談と悪い冗談があるだろうが!?」
「ダメだったか?」
「ダメつーか……」
南田は、軽い咳をしてから額に手を当てた。
何やら唸りながら頭を悩ませている。
南田が部長になってからはよく見る仕草だ。
たしかに俺がこういう冗談をぶっ込むのは珍しい。
でも、最初に仕掛けてきたのは南田だ。
久城が俺を好きだなんてどんな意味でもありえない。
それに疲れているからこそ出てくる冗談もある。
俺だって健全な男子高校生。きわどいジョークの一つや、二つ——と心の中で言い訳していると不意に南田が固まった。
そして、俺の肩越しに何かを見つけると露骨に視線を逸らす。
「……南田?」
嫌な予感がする。
頼れる部長の名前を呼んでみるが、返事はなかった。
代わりに返ってきたのは——。
「——へえ、僕が神野を好き?」
ゾッとするほど冷たい声。
それとは対照的に血が通った感触が肩に乗る。
「しかも、性的な意味でね」
「く、久城……」
俺はすぐさま振り返ろうとした。
しかし、先に相手が上から覗き込んでくる。
「さて、そういう展開も今後は検討すべきかな?」
「冗談だ……」
「お前は冗談が下手だね、神野」
俺の肩がギュッと掴まれる。
その力と言ったら凄まじいものだ。
大きな怪鳥のかぎ爪で掴まれたような感触がした。
人間としての本能的な恐怖が湧き上がってくる。
「演技も、冗談も、全部僕が教えてあげようか?」
捕食者と、被捕食者。
おおよそ同族では発生し得ないはずの関係性が、久城蒼と神野洸太の間に構築された瞬間だった。
まさしく努力の鬼。
顔も良くて才能もあるのだから、そこにあぐらをかいていろよと思うのだが、久城はそんなことはしない。
途方もない努力。
それこそがあの絶対的な自信を支えていると言ってもいい。
だからこそ久城がいくら横暴でも文句を言えない。
アイツがどれだけ努力して舞台に立っているのか、俺たちは知っているから。
天才に努力されたら敵うはずない。
誰もがそう思っている。
そして、俺もそのひとり。
「し、死ぬッ……!」
やっと久城から解放された俺は、なんとか食堂へ逃げてきた。
稽古場に戻ったところで俺の居場所がないし、廊下をウロウロしていたら余計に怪しまれる。
その点、放課後の食堂はいい。
暇を持て余して自販機のジュース片手にたむろってるやつか、図書館まで行くのがダルくてここで勉強している奴らばかりだ。
隅の方でペットボトルにしがみつきながら突っ伏している俺に注目するやつなんていない。
物好き以外に。
「くたばってんなぁ〜?」
その物好きこそ南田絢斗だ。
南田は、食堂のテーブルに突っ伏す俺を覗き込みながら、隣の椅子にどっかりと腰を下ろす。
「随分とシゴかれちまったみてえで」
この令和の世でいまだにジャージで腰パンをしているのは、おそらく南田だけだろう。まさに絶滅危惧種。
しかし、そんな絶滅危惧種が俺にとって唯一の味方だった。
「アイツは、鬼か悪魔か……?」
「両方だろ」
軽口を叩きながら南田は、パックジュースにストローを突き刺した。ズズズッと派手な音を立てながら中身を吸い込んでいく。
「お、これ美味え」
実に気楽そうな南田に俺は恨みがましい目を向ける。
「冒頭のセリフだけで百回はやらされた……」
「マジかよ」
「もう一度、もう一度ってアイツの声が頭の中で響く……」
「そりゃ重症だな」
そうとも。俺はすっかり満身創痍で重症だ。
ふたりきりのホールで俺がどんな目に遭ったのか、南田にも味わってもらいたい。
少なくとも皆が久城の容姿から想像するようなロマンチックなエスコートなどは一切なかった。
王子というより、魔王である。
「うわぁあッ! また噛んだ! 舌打ちされるッ!!」
「お、おい! 落ち着け! 幻聴だ! そもそもアイツの舌打ちなんてオレらは聞き慣れてんだろ!?」
「……たしかに」
「それで納得するのもどうかと思うけどよ」
相変わらず見事なツッコミに俺も平静を取り戻す。
テーブルに頬を擦り付けたままペットボトルを握り締めれば、環境に配慮した柔らかいプラスチックがベコリと凹む。
目を閉じれば、不機嫌そうな久城の顔が浮かんだ。
耳の奥では、ため息、舌打ち、罵倒のフルコース。
『はあ……もう一度』
『チッ、また噛んだね』
『やる気あるの、お前?』
俺が上手くできないことなんて分かっていたはずなのに、久城は容赦がない。妥協する気もない。
本気で俺を自分と同じところまで引き上げようとしているのだ。
そんなことは無理に決まっているのに。
久城と俺では才能が違う。
「南田、頼みがある……」
「断る」
思った通り、即答された。
長年、俺と久城に挟まれてきたからだろうか。
察しがいいのも考えものだ。
「明日から卒業まで昼飯を奢ろう。これでどうだ?」
「バイトもしてねえのにお前の飯代はどうすんだ」
「最近、食える雑草を図書館で調べた」
「そこらの草食うなら、その覚悟を別んとこで使えよ」
それこそ久城の相手役を演じ切る覚悟とかさぁ……と呆れたように言い返され、俺は小さく呻く。
そんな覚悟を決められるはずがない。
南田だって分かっているだろうに。
「……久城は俺のことが嫌いなのかもしれない」
弱りきった俺がぼそりと呟く。
すると南田がジュースを吹き出しかけた。
「はぁ? 何言ってんだ、オメー?」
「だって俺はただの脚本家だ。役者なんて無理だ」
遠慮なく弱音を吐く俺に、逆に南田は溜息を吐く。
「一年の頃に役者も一度やったろ?」
「散々な結果だった」
「それでもなんとかなった」
「久城がなんとかしたからだ」
「今回だって久城がいるだろ?」
「その久城の最終公演だぞ!?」
俺は勢いよく顔を上げた。
椅子の背もたれにだらしなく寄りかかる南田を睨む。
そして、テーブルに両手を叩きつけた。
「俺なんかが足引っ張っていいわけない!!」
「……お、おう」
俺の剣幕に気圧された南田は椅子からずり落ちそうになっていた。
手すりを掴んで座り直すと頭をボリボリと掻く。
「つってもよお、久城がお前に任せたんだからお前がやらかしたとしても久城の責任だろ?」
「そういう話じゃないだろう」
「いや、そういう話じゃね?」
南田は、鼻で笑うと偉そうに腕を組む。
まるで久城の癖を真似するみたいに。
「オレとしちゃあ、アイツは最初からお前にその役をやらせたかったんだと思うね」
「……俺は脚本だぞ?」
「何度も言わなくても分かってるつーの」
南田はわざとらしく肩を竦めると食堂の高い天井を見上げながらパックジュースの残りを啜った。
「つか冗談でも久城に嫌われてるとか言ってやんなよ」
「はぁ?」
「アイツが可哀想だろ」
「どういう意味だ?」
南田の言いたいことが全く分からず俺は首を傾げる。
すると南田はニヤニヤしながら身を乗り出してきた。
「お前が思ってる以上に、アイツはお前のことが好きだぜ?」
そのセリフに俺の思考が完全に停止した。
「……久城が、俺のことを好き?」
眼球を上に向けて、今までの久城を振り返ってみる。
この三年間、久城の俺への態度と言えば——。
『僕がフォローしてあげたことを感謝してほしいね』
『そうだね、お前は一生脚本でも書いているといいよ』
『……その小汚いパーカーはなに?』
『僕に相応しい主役をお前が作れって言ってるの』
『ねえ、僕の話を聞いてる? お前って耳ついてる?』
——あまりにも酷い。
記憶を掘り起こしたせいで、ますます南田の言うことを信じられなくなってしまった。
俺に対する久城といえば、塩対応どころか激辛対応。
どう考えたって好ましい相手に向けるような態度ではない。
そもそも役者でもない俺に久城は見向きもしていなかったはずだ。自ら絡んでいたのは、それこそ共演が多い南田ぐらい。
やはり久城が好んでいるとしたら南田の方だろう。
それなのに無自覚に揶揄ってくる南田に苛立つ。
「……適当なことを言うな」
「マジだって、お前ホントにわかんねえの?」
呆れる俺に、南田は怪訝な表情を浮かべて食い下がってくる。
「お前は久城に好かれてるんだって!」
そして必死に訴えかける。
しかし、俺は分かっていた。
南田は、久城ほどではないにしろ、名役者だ。
久城の我儘を通すため、俺を丸め込もうしているに違いない。
部内の調和を保とうとするのは、部長として最善の行動なのだろうが、わざわざ演技までして俺を騙そうだなんてタチが悪い。
俺は肺の奥から深い息を吐き出した。
だったらこっちもやり返してやる。
俺はニヤリと笑って南田に問い返した。
「ふうん——それは性的な意味で?」
「ゴホッ——!」
南田は激しく咽せて呼吸困難に陥った。
どうやらジュースが気管に入ったらしい。
「お、おい、大丈夫か?」
まさかこんな激しいリアクションが返ってくるとは思わなかったので、俺は慌てふためいた。
本気で苦しそうに咳き込んでいる南田の背中を申し訳程度に撫でてみたが、振り払われる。
「ふざけんな、マジで!」
「冗談のつもりだったんだが……」
「言っていい冗談と悪い冗談があるだろうが!?」
「ダメだったか?」
「ダメつーか……」
南田は、軽い咳をしてから額に手を当てた。
何やら唸りながら頭を悩ませている。
南田が部長になってからはよく見る仕草だ。
たしかに俺がこういう冗談をぶっ込むのは珍しい。
でも、最初に仕掛けてきたのは南田だ。
久城が俺を好きだなんてどんな意味でもありえない。
それに疲れているからこそ出てくる冗談もある。
俺だって健全な男子高校生。きわどいジョークの一つや、二つ——と心の中で言い訳していると不意に南田が固まった。
そして、俺の肩越しに何かを見つけると露骨に視線を逸らす。
「……南田?」
嫌な予感がする。
頼れる部長の名前を呼んでみるが、返事はなかった。
代わりに返ってきたのは——。
「——へえ、僕が神野を好き?」
ゾッとするほど冷たい声。
それとは対照的に血が通った感触が肩に乗る。
「しかも、性的な意味でね」
「く、久城……」
俺はすぐさま振り返ろうとした。
しかし、先に相手が上から覗き込んでくる。
「さて、そういう展開も今後は検討すべきかな?」
「冗談だ……」
「お前は冗談が下手だね、神野」
俺の肩がギュッと掴まれる。
その力と言ったら凄まじいものだ。
大きな怪鳥のかぎ爪で掴まれたような感触がした。
人間としての本能的な恐怖が湧き上がってくる。
「演技も、冗談も、全部僕が教えてあげようか?」
捕食者と、被捕食者。
おおよそ同族では発生し得ないはずの関係性が、久城蒼と神野洸太の間に構築された瞬間だった。
