神野洸太は、運動神経が悪い。
けれども、逃げ足が凄まじく速い。
それを久城蒼は思い知らされた。
「——待てと言っただろう!」
「ひぃんッ!!」
怒涛の逃走劇の末、神野は捕まった。
パーカーのフードを後ろから掴まれて。
体感時間はおおよそ三十分。
今日ほど、神野が小汚いパーカーを着ていてくれたことに感謝した日はない。
「すまない……すまない……死にます……」
「死ぬな、馬鹿」
壁際に追い詰めた神野を見下ろしながら僕は荒い息を吐いた。
さて、ここからどうすればいいのか。
最悪のタイミングで目撃されたことは間違いない。
ただ、どこから見られていて、何を聞かれたのかが問題だ。
もしも、僕が神野の夢を見ていたことを知られたのだとしたら——うん、潔く死のう。
そんな覚悟を決めた僕は口を開く。
「何を……見た……?」
——僕はシリアルキラーか?
自分でも突っ込みたくなるような聞き方だった。
これが映画なら返答によって神野は消される。
しかし、この場で消えるべきなのは僕だ。
「だ、誰にも言わないから……」
——なのに何故殺されそうな台詞を言うんだ??
あまりに被害者が似合い過ぎる神野に頭を抱える。
「そうじゃない! ああ、もう!」
「ご、ごめん……」
「謝らなくていいから! 何を聞いた!?」
「え……?」
「答えろ!」
パニックなりながらもなんとか聞き出そうとする。
本当に殺人鬼になったような気分だ。
すると目撃者は震えながら答える。
「久城が……俺を好きじゃないって……」
——よりにもよってそこか!
最悪の展開は免れたが、面倒なことになってきた。
僕は舌打ちをする。
「誤解だ」
「ごかい……?」
弱々しく聞き返してくる神野に僕は押し通す。
「……好きじゃなくはない」
明らかにおかしい日本語だ。
でもこう言うしかない。
「ふ、普通だ……」
我ながら苦し過ぎる。
それでも神野はその言葉にあからさまに表情を緩めた。
「そうか、普通……」
どうやら僕に嫌われていなかったことに神野は安堵しているらしい。
……どこをどう見たら嫌われていると思うんだ!?
南田じゃないが突っ込みたくなった。
しかし、変な誤解を与えたのは僕だ。
つまり、悪いのも僕。
「すまなかった」
僕は誤魔化さずに神野に頭を下げた。
廊下で他人が自分の名前を出していたら、しかも好きじゃないとかなんとか喚いていたら、不安になるのは当然のことだ。
逃げ出したくもなる。
僕は神野から一歩離れた。
「誤解を解くためとはいえ追いかけ回したのも悪い」
「あ、ああ……」
「怖かっただろう?」
「まあ……うん……」
「ごめん」
神野の目を見て、しっかりと謝る。
今はプライドなんてどうでもよかった。
そもそも神野より優先されるプライドなんてない。
だからこそ僕は必死に言葉を紡ぐ。
「ただ僕がお前の陰口を言うことはない。だから——」
「分かってる」
しかし、そんな僕の言い訳を神野が遮る。
今度は震えていない声で。
「それは絶対にしないって俺も分かってる」
神野はまっすぐ僕を見つめていた。
「久城は、そういうやつじゃない」
ダークブラウンの虹彩に僕が映っている。
神野の瞳の中にいる僕はキラキラと輝いていた。
僕ですら眩しくなるくらいに。
「だから、俺の話をしているのは何か事情があるんだと思って——だとしても俺に聞かれたくないだろうから、タイミングが悪くて申し訳なくて——」
神野の声が聞こえる。
ちゃんと聞こえている。
だけど、もう何も言えなかった。
だって僕は気付いてしまったんだ。
もうコイツから逃げられないってことを。
——ああ、好きだな。
その気持ちがストンと胸の真ん中に落ちてくる。
そして、僕の心を満たした。
「南田に抱きついていたのも理由が……え、久城?」
神野が戸惑った顔をして尋ねた。
「どうして泣いてるんだ?」
その優しい声に僕は笑うしかなかった。
「——怖い夢を見たんだ」
「怖い夢?」
「そう、神野が出てきた」
「俺が……?」
「うん」
怪訝な顔をする神野に僕はアドリブを続けた。
この舞台を終わらせないための、アドリブを。
「だからちょっと南田に慰めてもらってた」
ただ、それだけなんだよと僕は告げる。
それに神野は静かに頷き、問い返した。
「俺じゃダメだったか?」
差し出されるハンカチはぐちゃぐちゃ。
しかも皺だらけ。
それでも神野の匂いがした。
「……ダメじゃないよ」
ハンカチに涙を吸わせながら笑う。
「今度からはお前に泣きつこうかな?」
そう答えるので精一杯だった。
——その日から、久城蒼の人生は変わった。
久城蒼は、神野洸太が好きだ。
それはもう覆されることがない事実である。
ならば神野洸太に関することを譲る気はない。
それこそが僕の恋だから。
「久城! 音響の調節ってこれで——」
「いいわけないだろ。もう一度やり直せ」
「久城? リハだとスポットライトがズレて——」
「キャストに声を掛けて合うまで練習しろ」
「久城、衣装が破れて——」
「安全ピンで止めて無理なら別のものに切り替えろ」
「くじょう〜! チラシが余って——」
「いいから全部配るまで戻ってくるな」
「久城先輩……緊張して本番で不安——」
「おや、失敗なんて許されるわけないだろう?」
僕がニッコリと微笑む。
部員たちが一斉に震え上がる。
「神野の脚本だ。もちろん完璧に演じなければね?」
硬く丸めた台本を片手に僕は次々に指示を出す。
本番はもちろん成功しかあり得なかった。
万雷の拍手を舞台袖で聞きながら僕は微笑む。
隣に立ったのは新人公演の主役——日野葵。
「……なんか久城先輩って変わりましたよね」
洸太先輩と何かありました?と露骨に探ってくる日野に僕は表情を緩ませる。
——だって負ける気がしないから。
「君に教える筋合い、ある?」
そう答えれば、日野は笑顔のまま固まる。
イヤな先輩が最高にイヤな先輩にランクアップした瞬間だ。
実に清々しい気持ちで、僕は胸を張る。
「今年の文化祭も神野が脚本で僕が主演だから」
「え、オーディションはまだですよね……?」
「オーディション?」
僕は鼻で笑った。
「僕が勝つに決まってるだろう?」
勝気な笑みを残して僕は立ち去る。
公演終わりの余韻に浸ることもない。
「——神野!」
視線の先にいる相手は変わらない。
僕は舞台袖の陰に隠れる男を引っ張り出す。
「カーテンコールだぞ、何をしてる」
「いや、俺は脚本担当で……」
「逃げるな、行くぞ」
「ひぃい……!!」
悲鳴を上げる神野を無理やり連れ出す。
そして真っ赤な緞帳の前に並ばせる。
「せめて端にしてくれ!」
「そうか、ならここだな」
「久城の隣じゃないか!?」
「僕の隣が不満かな?」
「不満というか……」
モニョモニョと言い訳をする神野に僕は微笑む。
「うるさい」
「え?」
「黙って僕の隣にいろ」
——そこがお前の相応しい場所なんだから。
「分かった?」
僕は誰もが凍りつくような笑みを浮かべた。
もちろん、神野すらも。
「わ、かった……」
しかしカテコを済ませると神野はいなくなっていた・
誰に聞いても行方を知らない。
南田ですら肩を竦める。
「……また逃げたな」
僕は舌打ちをした。
もはや誰もが聞き慣れているであろう。
そしてこれからも聞き続けることになる。
神野洸太は、運動神経が悪い。
けれども、逃げ足が凄まじく速い。
それを久城蒼はよく知っている。
——だが、逃す気はない。
「絶対に捕まえてやる」
それこそが久城蒼の恋だった。
けれども、逃げ足が凄まじく速い。
それを久城蒼は思い知らされた。
「——待てと言っただろう!」
「ひぃんッ!!」
怒涛の逃走劇の末、神野は捕まった。
パーカーのフードを後ろから掴まれて。
体感時間はおおよそ三十分。
今日ほど、神野が小汚いパーカーを着ていてくれたことに感謝した日はない。
「すまない……すまない……死にます……」
「死ぬな、馬鹿」
壁際に追い詰めた神野を見下ろしながら僕は荒い息を吐いた。
さて、ここからどうすればいいのか。
最悪のタイミングで目撃されたことは間違いない。
ただ、どこから見られていて、何を聞かれたのかが問題だ。
もしも、僕が神野の夢を見ていたことを知られたのだとしたら——うん、潔く死のう。
そんな覚悟を決めた僕は口を開く。
「何を……見た……?」
——僕はシリアルキラーか?
自分でも突っ込みたくなるような聞き方だった。
これが映画なら返答によって神野は消される。
しかし、この場で消えるべきなのは僕だ。
「だ、誰にも言わないから……」
——なのに何故殺されそうな台詞を言うんだ??
あまりに被害者が似合い過ぎる神野に頭を抱える。
「そうじゃない! ああ、もう!」
「ご、ごめん……」
「謝らなくていいから! 何を聞いた!?」
「え……?」
「答えろ!」
パニックなりながらもなんとか聞き出そうとする。
本当に殺人鬼になったような気分だ。
すると目撃者は震えながら答える。
「久城が……俺を好きじゃないって……」
——よりにもよってそこか!
最悪の展開は免れたが、面倒なことになってきた。
僕は舌打ちをする。
「誤解だ」
「ごかい……?」
弱々しく聞き返してくる神野に僕は押し通す。
「……好きじゃなくはない」
明らかにおかしい日本語だ。
でもこう言うしかない。
「ふ、普通だ……」
我ながら苦し過ぎる。
それでも神野はその言葉にあからさまに表情を緩めた。
「そうか、普通……」
どうやら僕に嫌われていなかったことに神野は安堵しているらしい。
……どこをどう見たら嫌われていると思うんだ!?
南田じゃないが突っ込みたくなった。
しかし、変な誤解を与えたのは僕だ。
つまり、悪いのも僕。
「すまなかった」
僕は誤魔化さずに神野に頭を下げた。
廊下で他人が自分の名前を出していたら、しかも好きじゃないとかなんとか喚いていたら、不安になるのは当然のことだ。
逃げ出したくもなる。
僕は神野から一歩離れた。
「誤解を解くためとはいえ追いかけ回したのも悪い」
「あ、ああ……」
「怖かっただろう?」
「まあ……うん……」
「ごめん」
神野の目を見て、しっかりと謝る。
今はプライドなんてどうでもよかった。
そもそも神野より優先されるプライドなんてない。
だからこそ僕は必死に言葉を紡ぐ。
「ただ僕がお前の陰口を言うことはない。だから——」
「分かってる」
しかし、そんな僕の言い訳を神野が遮る。
今度は震えていない声で。
「それは絶対にしないって俺も分かってる」
神野はまっすぐ僕を見つめていた。
「久城は、そういうやつじゃない」
ダークブラウンの虹彩に僕が映っている。
神野の瞳の中にいる僕はキラキラと輝いていた。
僕ですら眩しくなるくらいに。
「だから、俺の話をしているのは何か事情があるんだと思って——だとしても俺に聞かれたくないだろうから、タイミングが悪くて申し訳なくて——」
神野の声が聞こえる。
ちゃんと聞こえている。
だけど、もう何も言えなかった。
だって僕は気付いてしまったんだ。
もうコイツから逃げられないってことを。
——ああ、好きだな。
その気持ちがストンと胸の真ん中に落ちてくる。
そして、僕の心を満たした。
「南田に抱きついていたのも理由が……え、久城?」
神野が戸惑った顔をして尋ねた。
「どうして泣いてるんだ?」
その優しい声に僕は笑うしかなかった。
「——怖い夢を見たんだ」
「怖い夢?」
「そう、神野が出てきた」
「俺が……?」
「うん」
怪訝な顔をする神野に僕はアドリブを続けた。
この舞台を終わらせないための、アドリブを。
「だからちょっと南田に慰めてもらってた」
ただ、それだけなんだよと僕は告げる。
それに神野は静かに頷き、問い返した。
「俺じゃダメだったか?」
差し出されるハンカチはぐちゃぐちゃ。
しかも皺だらけ。
それでも神野の匂いがした。
「……ダメじゃないよ」
ハンカチに涙を吸わせながら笑う。
「今度からはお前に泣きつこうかな?」
そう答えるので精一杯だった。
——その日から、久城蒼の人生は変わった。
久城蒼は、神野洸太が好きだ。
それはもう覆されることがない事実である。
ならば神野洸太に関することを譲る気はない。
それこそが僕の恋だから。
「久城! 音響の調節ってこれで——」
「いいわけないだろ。もう一度やり直せ」
「久城? リハだとスポットライトがズレて——」
「キャストに声を掛けて合うまで練習しろ」
「久城、衣装が破れて——」
「安全ピンで止めて無理なら別のものに切り替えろ」
「くじょう〜! チラシが余って——」
「いいから全部配るまで戻ってくるな」
「久城先輩……緊張して本番で不安——」
「おや、失敗なんて許されるわけないだろう?」
僕がニッコリと微笑む。
部員たちが一斉に震え上がる。
「神野の脚本だ。もちろん完璧に演じなければね?」
硬く丸めた台本を片手に僕は次々に指示を出す。
本番はもちろん成功しかあり得なかった。
万雷の拍手を舞台袖で聞きながら僕は微笑む。
隣に立ったのは新人公演の主役——日野葵。
「……なんか久城先輩って変わりましたよね」
洸太先輩と何かありました?と露骨に探ってくる日野に僕は表情を緩ませる。
——だって負ける気がしないから。
「君に教える筋合い、ある?」
そう答えれば、日野は笑顔のまま固まる。
イヤな先輩が最高にイヤな先輩にランクアップした瞬間だ。
実に清々しい気持ちで、僕は胸を張る。
「今年の文化祭も神野が脚本で僕が主演だから」
「え、オーディションはまだですよね……?」
「オーディション?」
僕は鼻で笑った。
「僕が勝つに決まってるだろう?」
勝気な笑みを残して僕は立ち去る。
公演終わりの余韻に浸ることもない。
「——神野!」
視線の先にいる相手は変わらない。
僕は舞台袖の陰に隠れる男を引っ張り出す。
「カーテンコールだぞ、何をしてる」
「いや、俺は脚本担当で……」
「逃げるな、行くぞ」
「ひぃい……!!」
悲鳴を上げる神野を無理やり連れ出す。
そして真っ赤な緞帳の前に並ばせる。
「せめて端にしてくれ!」
「そうか、ならここだな」
「久城の隣じゃないか!?」
「僕の隣が不満かな?」
「不満というか……」
モニョモニョと言い訳をする神野に僕は微笑む。
「うるさい」
「え?」
「黙って僕の隣にいろ」
——そこがお前の相応しい場所なんだから。
「分かった?」
僕は誰もが凍りつくような笑みを浮かべた。
もちろん、神野すらも。
「わ、かった……」
しかしカテコを済ませると神野はいなくなっていた・
誰に聞いても行方を知らない。
南田ですら肩を竦める。
「……また逃げたな」
僕は舌打ちをした。
もはや誰もが聞き慣れているであろう。
そしてこれからも聞き続けることになる。
神野洸太は、運動神経が悪い。
けれども、逃げ足が凄まじく速い。
それを久城蒼はよく知っている。
——だが、逃す気はない。
「絶対に捕まえてやる」
それこそが久城蒼の恋だった。
