しかし、現実というのは非情なものだ。
いくら逃げたところで逃げ切れない。
ここぞとばかりのタイミングで襲いかかってくる。
——恐ろしい悪夢に姿を変えて。
「嘘だろ……?」
僕は薄暗い部屋の中で頭を抱えた。
それは、とある夏の夕暮れ。
新人公演の練習も大詰め。
本番まで残り一週間だった。
相変わらず僕に頼りまくる部員に応え、生意気な後輩を指導し、裏方の仕事もまとめ上げて、ようやくここまで来た。
僕は疲労困憊で、限界を迎えていた。
部活を終えて帰寮する頃には体力が尽きている。
ベッドに倒れ込むと気絶するように眠る。
それがもはやルーティンとなっていた。
その日も、そうだった。
柔らかいマットレスに疲れ切った体を受け止めてもらって目を閉じる。
次の瞬間には、夕食の時間を知らせるアラームが鳴っている。
夢なんて見ない。
見ないはずだったのに——。
「うわぁああああ!」
目覚めたばかりの僕が寮の廊下に飛び出す。
他の寮生たちが怪訝な顔で振り返るが、そんなことを気にしている場合じゃない。
「おい、どうし——」
「南田ッ!!」
部屋から出てきたばかりの南田の胸ぐらを掴んだ。
そして血走った目をひん剥きながら頼み込む。
「僕を殺してくれ」
「はぁ!?」
「せめて介錯を……」
「嫌だっつの!!」
「いいから殺せッ〜!」
「マジで何ぃ〜!?」
急に殺害を依頼される南田は実に哀れだろう。
でも、今の僕の方がずっと哀れだ。
「好きじゃない……好きじゃないんだ……」
「な、泣いてる……!?」
それから僕の涙が止まるまで五分以上かかった。
「いったいどうしたんだよ……」
僕は南田が押し付けてきた高級なタオルで顔を拭く。
演技でもないのに人前で泣くなんて小学校以来だ。
でも今日ばかりは泣かせてほしい。
「僕は、性加害者になってしまった……」
「は?」
「本人の同意もなく、あんな夢を見るなんて……」
——神野に申し訳ない。
——僕は死んだ方がいい。
そんなようなことを僕はボソボソと呟く。
「あ〜……」
南田は全てを察したように天井を仰いだ。
いつものようなツッコミもない。
やはり南田もこんな僕を見放しただろうか。
「それなら世の中の男子高校生は全員犯罪者だろ……」
しかし、南田は自己嫌悪で死にそうになっている僕を宥めた。
「そうか……?」
「そうだよ。オレらの年頃なら生理現象だろ」
「生理現象……」
僕は辿々しく繰り返した。
そして南田は片手で顔を覆う。
「こんなことぐらいで大騒ぎすんなよなぁ……」
「こんなことだと!? 大事なことだろう!」
「なにが? お前が神野のエロい夢を見たことが?」
「ぬぁあーーー!」
ひたすらに言及を避けていたというのにそれを口にした南田に思わず手が出た。
「なんてことを言うんだ、この破廉恥め!!」
「オマエがな!?」
僕を落ち着かせてくれたことには感謝する。
だが、それとこれとは別の話だ。
役者の命である顔は避けたのは僕の温情である。
さて、ここで話は終わりかと思いきや。
南田は殴られた腹をさすりながらニヤリと笑う。
「はあ……でもここまで来たら逃げられねえよな」
「何がだ?」
「オマエがマジで神野が好きだって話だよ」
「なッ——!」
僕はもう一発喰らわせようと構えた。
しかし、南田は怯むどころかやり返してくる。
「さもなきゃオマエは変態だ」
「変態!?」
「そりゃそうだろ。好きな奴をそういう目で見んのは仕方ねえ。けど、ただのダチ相手だったら——」
そう言われて、僕はたちまち理解する。
僕に残された道はふたつだ。
ただの友人に劣情を向けるド変態に成り下がるか。
神野のことが好きだから夢を見たと認めるか。
どちらにしろ、何かしらを失う。
その何かしらが何なのかまでは分からないが。
「だ、黙れッ——!!」
「おわぁッ!?」
南田の胸ぐらを引っ掴むとガクガク揺さぶる。
「僕は神野を性的な目で見たことなんてない!」
「久城ッ!!」
「僕は決して神野のことなんて好きじゃない!」
「お、落ち着けって!!」
「そもそも僕は神野のことを友人とすら——」
「久城ッ——!! 後ろッ——!!」
……後ろ?
ほぼ首を絞められた状態でも必死に叫ぶ南田。
その声に従って僕は振り返る。
「…………あ」
そして、絶望した。
「す……すまない……本当にすまない……」
廊下の端に佇み、僕らを眺めるひとりの男。
それが神野洸太であったことに。
「本気で空気が読めなくてすまないッ——!」
「か、神野ッ——!」
またもや逃げ出す神野に、僕は叫ぶ。
いったいどこから聞いていた!?
というか、いつから見ていたんだ!?
その答えが出ないまま南田に突き飛ばされる。
「走れッ〜〜〜!!」
南田が言うことはいつも正しい。
だから迷わず僕も走り出す。
「待ってくれ!! 神野!!」
演劇部の天才による大声量が廊下に響き渡る。
「違うんだ——!!」
逃げ足が速過ぎる神野洸太を必死に追う久城蒼。
それは久城蒼の人生で最も情けない姿だった。
いくら逃げたところで逃げ切れない。
ここぞとばかりのタイミングで襲いかかってくる。
——恐ろしい悪夢に姿を変えて。
「嘘だろ……?」
僕は薄暗い部屋の中で頭を抱えた。
それは、とある夏の夕暮れ。
新人公演の練習も大詰め。
本番まで残り一週間だった。
相変わらず僕に頼りまくる部員に応え、生意気な後輩を指導し、裏方の仕事もまとめ上げて、ようやくここまで来た。
僕は疲労困憊で、限界を迎えていた。
部活を終えて帰寮する頃には体力が尽きている。
ベッドに倒れ込むと気絶するように眠る。
それがもはやルーティンとなっていた。
その日も、そうだった。
柔らかいマットレスに疲れ切った体を受け止めてもらって目を閉じる。
次の瞬間には、夕食の時間を知らせるアラームが鳴っている。
夢なんて見ない。
見ないはずだったのに——。
「うわぁああああ!」
目覚めたばかりの僕が寮の廊下に飛び出す。
他の寮生たちが怪訝な顔で振り返るが、そんなことを気にしている場合じゃない。
「おい、どうし——」
「南田ッ!!」
部屋から出てきたばかりの南田の胸ぐらを掴んだ。
そして血走った目をひん剥きながら頼み込む。
「僕を殺してくれ」
「はぁ!?」
「せめて介錯を……」
「嫌だっつの!!」
「いいから殺せッ〜!」
「マジで何ぃ〜!?」
急に殺害を依頼される南田は実に哀れだろう。
でも、今の僕の方がずっと哀れだ。
「好きじゃない……好きじゃないんだ……」
「な、泣いてる……!?」
それから僕の涙が止まるまで五分以上かかった。
「いったいどうしたんだよ……」
僕は南田が押し付けてきた高級なタオルで顔を拭く。
演技でもないのに人前で泣くなんて小学校以来だ。
でも今日ばかりは泣かせてほしい。
「僕は、性加害者になってしまった……」
「は?」
「本人の同意もなく、あんな夢を見るなんて……」
——神野に申し訳ない。
——僕は死んだ方がいい。
そんなようなことを僕はボソボソと呟く。
「あ〜……」
南田は全てを察したように天井を仰いだ。
いつものようなツッコミもない。
やはり南田もこんな僕を見放しただろうか。
「それなら世の中の男子高校生は全員犯罪者だろ……」
しかし、南田は自己嫌悪で死にそうになっている僕を宥めた。
「そうか……?」
「そうだよ。オレらの年頃なら生理現象だろ」
「生理現象……」
僕は辿々しく繰り返した。
そして南田は片手で顔を覆う。
「こんなことぐらいで大騒ぎすんなよなぁ……」
「こんなことだと!? 大事なことだろう!」
「なにが? お前が神野のエロい夢を見たことが?」
「ぬぁあーーー!」
ひたすらに言及を避けていたというのにそれを口にした南田に思わず手が出た。
「なんてことを言うんだ、この破廉恥め!!」
「オマエがな!?」
僕を落ち着かせてくれたことには感謝する。
だが、それとこれとは別の話だ。
役者の命である顔は避けたのは僕の温情である。
さて、ここで話は終わりかと思いきや。
南田は殴られた腹をさすりながらニヤリと笑う。
「はあ……でもここまで来たら逃げられねえよな」
「何がだ?」
「オマエがマジで神野が好きだって話だよ」
「なッ——!」
僕はもう一発喰らわせようと構えた。
しかし、南田は怯むどころかやり返してくる。
「さもなきゃオマエは変態だ」
「変態!?」
「そりゃそうだろ。好きな奴をそういう目で見んのは仕方ねえ。けど、ただのダチ相手だったら——」
そう言われて、僕はたちまち理解する。
僕に残された道はふたつだ。
ただの友人に劣情を向けるド変態に成り下がるか。
神野のことが好きだから夢を見たと認めるか。
どちらにしろ、何かしらを失う。
その何かしらが何なのかまでは分からないが。
「だ、黙れッ——!!」
「おわぁッ!?」
南田の胸ぐらを引っ掴むとガクガク揺さぶる。
「僕は神野を性的な目で見たことなんてない!」
「久城ッ!!」
「僕は決して神野のことなんて好きじゃない!」
「お、落ち着けって!!」
「そもそも僕は神野のことを友人とすら——」
「久城ッ——!! 後ろッ——!!」
……後ろ?
ほぼ首を絞められた状態でも必死に叫ぶ南田。
その声に従って僕は振り返る。
「…………あ」
そして、絶望した。
「す……すまない……本当にすまない……」
廊下の端に佇み、僕らを眺めるひとりの男。
それが神野洸太であったことに。
「本気で空気が読めなくてすまないッ——!」
「か、神野ッ——!」
またもや逃げ出す神野に、僕は叫ぶ。
いったいどこから聞いていた!?
というか、いつから見ていたんだ!?
その答えが出ないまま南田に突き飛ばされる。
「走れッ〜〜〜!!」
南田が言うことはいつも正しい。
だから迷わず僕も走り出す。
「待ってくれ!! 神野!!」
演劇部の天才による大声量が廊下に響き渡る。
「違うんだ——!!」
逃げ足が速過ぎる神野洸太を必死に追う久城蒼。
それは久城蒼の人生で最も情けない姿だった。
