久城蒼は、神野洸太のことが好きだ。
この事実を久城蒼は受け入れられなかった。
——というより、受け入れている暇がなかった。
「やることが多過ぎるッ!!」
南田から衝撃の事実を突きつけられてから一ヶ月。
僕は、恐ろしく多忙な日々を送っていた。
高校二年生の夏がうちの部では一番忙しい時期だ。
他の部活のように大会には出なくとも、やることはある。
夏の新人公演では一年生を指導しつつも裏方として動かなくてはならないし、それに並行して文化祭に向けても練習を始める。
それらは二年生が主導で行われていた。
部長などの重要な役職は三年生の先輩が担ってくれるが、彼らにとって進路を決める大事な時期でもあり、内部進学者も含めて三年生は部活以外のことで忙しくなる。
だから部活は僕らが引っ張っていくことになる。
台本を覚えて演技をしていればいいわけではない。
「久城、今年の予算はこんな感じなんだが——」
「は!? 少なすぎませんか?」
「久城、衣装が見つからないから私服でいい?」
「ダメに決まって……待て、悪くないな」
「久城〜! なんか大道具がぶっ壊れた〜!」
「はぁ〜? 手が空いてるやつを集めて作り直せ!」
「久城! 一年が台詞を覚えるのが苦手って——」
「知るか! 覚えるまで繰り返し音読させろ!」
大声で叫び返し、僕は稽古場を飛び出す。
文化祭公演のオーディションに向けての準備もままならないというのに、僕がホールに走るのは音響と照明を確認するためだ。
なにせ、僕は新人公演の演出なので。
本来なら、演出を担当するのは三年生の先輩のはずだった。
しかし、去年の文化祭に引き続いて神野が脚本を担当することになった直後に、先輩が演出を降りたのだ。
受験勉強が忙しくなるからと言い訳していたが、それは嘘だ。
その先輩は内部受験でそのまま付属大学に上がると他の先輩が話していたから。
おそらく神野が書いた脚本を演出する自信がないのだろう。
こんな展開があれば鈍い男でも察してしまう。
「俺の脚本は……わかりにくいのかもしれないな……」
台本を握りしめながら俯く神野に僕は言い返した。
「そんなわけがあるか!」
「そうだろうか……」
「そうだ! お前の脚本は素晴らしい!」
「でも俺の脚本だと演出をやりたがる人もいないみたいだし、他の脚本の方が——」
「黙れ! 黙れ! 黙れぇ!」
僕は神野のパーカーの紐を思い切り引っ張った。
被っていたフードが一気に閉まってホラー映画に出てくるクリーチャーのような見た目になった神野に僕は舌打ちをする。
傷付いている神野を見ていると僕はイライラする。
神野を傷付けた無能な凡人共を全員殴りたくなる。
でもそんなことをしたって何の解決にもならない。
だから、つい叫んでしまった。
「僕が演出をやってやるから、泣くな!」
「な、泣いてはいないが……え?」
こうして新人公演の演出に久城蒼が収まったというわけだ。
しかし、この選択を後になって後悔した。
だって本当に忙し過ぎるのだ。
ひとつの舞台を完成させるための工程は多い。
具体的に言うと、脚本を選んで、オーディションをして、キャスティングをして、読み合わせして、立ち稽古をして、リハーサルをして——その裏で、メイクと衣装を決め、大道具を作り、小道具を用意し、音響を選び、照明のプランを決め、舞台設営や暗転中の道具や背景の配置を裏方に指示し、場合によってはチラシやポスターを作って宣伝までする。
……流石は、総合芸術というべきか。
こうやって書き出しているだけでもうんざりする。
しかし、現実はもっと厳しい。
「久城、効果音が合わない気がするんだが……」
「なに? 試しに聞かせて見せろ」
「久城〜! 照明のタイミングが分かんねえ!」
「確認するから少し待て!」
「久城、用意した衣装のサイズがミスった」
「ああ……何とか縫い直せないか?」
「くっじょう〜! ポスターってこれでいいのか?」
「見せてくれ……上演場所と上演日時がないぞ!」
「久城先輩……自信がなくなってきちゃいました……」
「新人公演だ! 失敗してもどうとでもなる!」
なぜこの僕が一年生のメンタルケアまでやらなきゃならないのか。
納得はいかない。
でもこれも演出の仕事だと割り切るしかない。
それにしたって——。
「久城!」
「なんだ!」
「久城ー!」
「どうした!」
「久城……!!」
「今行くから!」
「久城先輩!」
「待ってろ!」
「久城様ッ〜〜!」
「だからなんだよ!」
——どいつもこいつも僕を頼り過ぎじゃないか!?
「ああああああッ!!!」
もはや発狂寸前まで追い詰めらて頭を抱える。
僕が役者だけではなく裏方としても優秀なばかりに!
でも、そろそろ我慢の限界だった。
「く、久城——」
「うるさい! 僕に頼るな! 自分の頭で考えろ!」
またもや声をかけられた僕は反射的に叫び返す。
視界の端で小動物みたいな影がビクッと揺れた。
「す……すまない……」
その正体は——神野洸太だった。
フードを被って震える神野を前に、僕は青褪める。
「あ、いや、大丈夫だ! なにかな!?」
慌てて取り繕おうとしても、もう遅い。
「い、いいんだ。ただでさえ演出を引き受けてくれたのに久城を頼ろうとした俺が悪い……」
「大丈夫だ! 少しイラついていただけで——」
「脚本のくせに空気が読めなくて本当にすまないッ——!」
「か、神野ッ〜!!」
灰色のパーカーを着込んだ小鼠が走り去る。
運動神経は悪いくせに相変わらず逃げ足だけ早い。
僕は片手を伸ばした哀れなポーズのまま固まる。
その背後から現れるのは、やはりコイツだ。
「……馬鹿じゃねーの?」
「うううッ!!」
このときばかりは僕も言い返すことも出来なかった。
——僕は、馬鹿だ。
「好きな相手を威嚇するとかなにやってんだよ」
「威嚇してないし、好きだと決まったわけでは……」
南田のツッコミに語尾を濁らせながら僕は俯く。
部活終わり。
寮へ歩きながら僕らは会話を交わしていた。
議題はもちろん、例の衝撃の事実について。
「神野が好きだってまだ認めてねえの?」
「まともに考える時間がないんだ! 忙し過ぎて!」
「なら演出なんて引き受けなきゃよかっただろ?」
「それじゃ神野が可哀想だろう!」
「そんで神野に怒鳴り返してたら元も子もないぜ?」
「うぐぐ……」
南田の言うことは正しい。
神野の脚本を生かすために演出を引き受けたが、それで余裕をなくして神野に当たってしまったら意味がない。
本末転倒にも程がある。
それでも僕がこんな選択をしてしまったのは——。
「オマエ、怖いんだろ」
南田が淡々とした声で告げる。
「神野が好きだって気持ちを認めたくなくて、わざと忙しくしてんじゃねえの」
「…………」
図星を突かれると無言になるのは僕の悪い癖だ。
「現実逃避すんのも悪いことじゃねえと思うけどさ」
オレもオマエが自覚してねーとは思わず口滑らせちまったし?と付け加えながら南田がこちらを見る。
「別に逃げなくたっていいんじゃね」
静かな声が校舎から寮へと続く道に響く。
そこには僕ら以外、ほとんど誰もいない。
「オマエはずっと神野のことが好きだろ」
西陽が地平線の下に潜り込む。
はみ出したオレンジ色の光が僕らを照らしている。
南田の痛んだ金髪が夕日を遮りながら光っている。
それは絵になるくらい綺麗だった。
けれども僕はその光景を前に別のことを考える。
太陽に照らされても、影の中に必死に溶け込もうとするアイツのことを。
「——好きだよ」
その一言は僕の口からすんなりと出た。
ギリギリまで注がれたグラスからついに中身が溢れるように。
「好きだけど、本当に好きなんだろうか」
グラスの側面を伝っていくのは抑えられない感情。
不安定で、不確かで、捨ててしまいたいもの。
「神野が好きだ」
「でもそれは神野が天才だからだろう」
ずっと考え続けていたことを僕は吐露する。
「神野の脚本が好きだ」
「神野の才能が好きだ」
「神野の創作への執着やひたむきさが好きだ」
流れるようにその言葉たちを紡ぐことができる。
まるで心に染み込んだ台詞みたいに。
「でもそれって神野のことが好きなのかな」
知らず知らずのうちに目の淵が熱くなっていく。
辛いんだろうか。
悲しいんだろうか。
怒っているんだろうか。
自分の感情なのに、なにひとつ分からない。
「僕は演劇が好きだから、神野が好きなんじゃないかな」
その台詞を搾り出した途端、喉が苦しくなる。
舞台にひとり取り残されたみたいな気持ち。
僕は無理やり口を開く。
「神野が僕を主役にしてくれるから」
胸が痛くて、吐きそうになる。
「神野が僕を天才にしてくれるから」
酸欠みたいに頭がクラクラする。
「そんなの、神野が好きって言えないだろう」
震えた声の語尾が静寂に溶けた。
寮へ続く道の真ん中で僕らは立ち止まっている。
僕の台詞の続きは、ない。
これが、僕が出した結論だったから。
僕は神野が好きだ。
でも、それは純粋な好意じゃない。
打算的で、醜い、自己愛の延長線にある恋だ。
そんなもの、今すぐにでも捨ててしまった方が——。
「マジで馬鹿なんだな……」
「は?」
僕の情緒を吹き飛ばしたのは南田の呆れた声だった。
真横を見れば腐れ縁がドン引きした顔をしている。
「な、なんだと……?」
僕は無礼な態度をとる南田を睨みつける。
けれども南田は全てを見透かしたような目をこちらに向けた。
「オマエ、神野が初恋なの?」
「は、はぁ!?」
その指摘に僕の声が裏返る。
南田は納得したように頷く。
「意外。その顔だし、恋愛経験ぐらいあると思ってた」
「なにを言って——」
「ロマンチストっつーか恋愛に夢見てるタイプか」
「なんの話をしてる!?」
動揺し過ぎて声を掠れさせる。
そんな僕を南田は鼻で笑った。
「恋はオマエが考えてるほど特別なもんじゃない」
……特別じゃない?
思考が追いつかないうちに南田は芝居がかった動きで語る。
「一目惚れだって恋だし、優しくされたから好きになっちまうのも恋だ」
南田は立ち尽くす僕の前に回り込む。
この動きは見たことがある。
舞台上で何度も。
僕が主演なら、南田は常に脇役だった。
ただし、その舞台に必要不可欠な名脇役。
「オマエは難しく考えすぎなんだよ」
ビシッと僕の顔に向けて指をさす。
それから南田はニヤリと笑う。
「オレらはまだ学生で、そんでもって男はチョロい」
南田の指が僕の胸をちょんちょんと突いた。
「オマエが神野に惚れるのも当然ってわけ」
そして背を向けた南田を僕は追いかける。
「そ、そんな単純な話でいいわけないだろう!」
南田の正面に回り込んだ僕は行き先を遮るように仁王立ちする。
「僕の感情は打算的だ。神野が天才で、脚本を書けたからこそ成立している!」
今度は僕が南田の顔へ指をさし返した。
「これが恋だって言えるか!?」
「言える」
澱みのない即答に僕は呆然とする。
また南田が僕を追い越して、前に立つ。
「恋なんて単純だ」
南田は偉そうに胸の前で腕を組んだ。
まるでいつもの僕みたいに。
「ロミオだってジュリエットに一目惚れだし、その前に別の女に振られて落ち込んでるところから始まるだろ」
「そ、そうだが……」
「つまりジュエットがブスだったら成立しない!」
「ぐう……!」
シェイクスピアの作品を挙げられた僕は唸った。
言われてみればそうだ。
世界で最も有名な恋愛劇ですら、恋に落ちた理由は一目惚れ。
もしも、ジュリエットが優れた容姿ではなかったら、あの悲劇は起こり得なかった。
「恋愛に『もしも』なんて仮定はいらねえ!」
「でも……」
「そもそも打算的で何が悪いんだよ」
南田は僕の言い訳を遮って、告げる。
「オマエは演劇と同じくらい神野が好きなんだ」
そのまっすぐな声が僕から逃げ場を奪う。
「だからオマエは神野の脚本を裏切らない」
「やったこともねえ演出を引き受ける」
「神野のことを傷付けないように必死になる」
南田の手が僕の胸ぐらを掴んだ。
「とっくに打算なんて超えてんだ」
これ以上、現実から目を背けさせないように。
「本当はオマエだって分かってんだろ」
——分かってるさ。
僕は心の中で叫びながら唇を噛み締めた。
分かっているけど、認めたくないんだ。
これを認めたら何かが台無しになる気がして。
だから僕は世界一ダサい嘘を吐く。
「——僕は神野のことなんて好きじゃない!」
「あ、おい!」
南田の手を振り払うと僕は勢いよく走り出す。
それから何度も何度も自分に言い聞せた。
好きじゃない! 好きじゃない! 好きじゃない!
そんなことをしたって無駄だと知っているのに。
「好きじゃないんだ!」
久城蒼は、神野洸太のことが好きだ。
この事実を久城蒼は受け入れられなかった。
受け入れた瞬間、何かを失う気がしたから。
この事実を久城蒼は受け入れられなかった。
——というより、受け入れている暇がなかった。
「やることが多過ぎるッ!!」
南田から衝撃の事実を突きつけられてから一ヶ月。
僕は、恐ろしく多忙な日々を送っていた。
高校二年生の夏がうちの部では一番忙しい時期だ。
他の部活のように大会には出なくとも、やることはある。
夏の新人公演では一年生を指導しつつも裏方として動かなくてはならないし、それに並行して文化祭に向けても練習を始める。
それらは二年生が主導で行われていた。
部長などの重要な役職は三年生の先輩が担ってくれるが、彼らにとって進路を決める大事な時期でもあり、内部進学者も含めて三年生は部活以外のことで忙しくなる。
だから部活は僕らが引っ張っていくことになる。
台本を覚えて演技をしていればいいわけではない。
「久城、今年の予算はこんな感じなんだが——」
「は!? 少なすぎませんか?」
「久城、衣装が見つからないから私服でいい?」
「ダメに決まって……待て、悪くないな」
「久城〜! なんか大道具がぶっ壊れた〜!」
「はぁ〜? 手が空いてるやつを集めて作り直せ!」
「久城! 一年が台詞を覚えるのが苦手って——」
「知るか! 覚えるまで繰り返し音読させろ!」
大声で叫び返し、僕は稽古場を飛び出す。
文化祭公演のオーディションに向けての準備もままならないというのに、僕がホールに走るのは音響と照明を確認するためだ。
なにせ、僕は新人公演の演出なので。
本来なら、演出を担当するのは三年生の先輩のはずだった。
しかし、去年の文化祭に引き続いて神野が脚本を担当することになった直後に、先輩が演出を降りたのだ。
受験勉強が忙しくなるからと言い訳していたが、それは嘘だ。
その先輩は内部受験でそのまま付属大学に上がると他の先輩が話していたから。
おそらく神野が書いた脚本を演出する自信がないのだろう。
こんな展開があれば鈍い男でも察してしまう。
「俺の脚本は……わかりにくいのかもしれないな……」
台本を握りしめながら俯く神野に僕は言い返した。
「そんなわけがあるか!」
「そうだろうか……」
「そうだ! お前の脚本は素晴らしい!」
「でも俺の脚本だと演出をやりたがる人もいないみたいだし、他の脚本の方が——」
「黙れ! 黙れ! 黙れぇ!」
僕は神野のパーカーの紐を思い切り引っ張った。
被っていたフードが一気に閉まってホラー映画に出てくるクリーチャーのような見た目になった神野に僕は舌打ちをする。
傷付いている神野を見ていると僕はイライラする。
神野を傷付けた無能な凡人共を全員殴りたくなる。
でもそんなことをしたって何の解決にもならない。
だから、つい叫んでしまった。
「僕が演出をやってやるから、泣くな!」
「な、泣いてはいないが……え?」
こうして新人公演の演出に久城蒼が収まったというわけだ。
しかし、この選択を後になって後悔した。
だって本当に忙し過ぎるのだ。
ひとつの舞台を完成させるための工程は多い。
具体的に言うと、脚本を選んで、オーディションをして、キャスティングをして、読み合わせして、立ち稽古をして、リハーサルをして——その裏で、メイクと衣装を決め、大道具を作り、小道具を用意し、音響を選び、照明のプランを決め、舞台設営や暗転中の道具や背景の配置を裏方に指示し、場合によってはチラシやポスターを作って宣伝までする。
……流石は、総合芸術というべきか。
こうやって書き出しているだけでもうんざりする。
しかし、現実はもっと厳しい。
「久城、効果音が合わない気がするんだが……」
「なに? 試しに聞かせて見せろ」
「久城〜! 照明のタイミングが分かんねえ!」
「確認するから少し待て!」
「久城、用意した衣装のサイズがミスった」
「ああ……何とか縫い直せないか?」
「くっじょう〜! ポスターってこれでいいのか?」
「見せてくれ……上演場所と上演日時がないぞ!」
「久城先輩……自信がなくなってきちゃいました……」
「新人公演だ! 失敗してもどうとでもなる!」
なぜこの僕が一年生のメンタルケアまでやらなきゃならないのか。
納得はいかない。
でもこれも演出の仕事だと割り切るしかない。
それにしたって——。
「久城!」
「なんだ!」
「久城ー!」
「どうした!」
「久城……!!」
「今行くから!」
「久城先輩!」
「待ってろ!」
「久城様ッ〜〜!」
「だからなんだよ!」
——どいつもこいつも僕を頼り過ぎじゃないか!?
「ああああああッ!!!」
もはや発狂寸前まで追い詰めらて頭を抱える。
僕が役者だけではなく裏方としても優秀なばかりに!
でも、そろそろ我慢の限界だった。
「く、久城——」
「うるさい! 僕に頼るな! 自分の頭で考えろ!」
またもや声をかけられた僕は反射的に叫び返す。
視界の端で小動物みたいな影がビクッと揺れた。
「す……すまない……」
その正体は——神野洸太だった。
フードを被って震える神野を前に、僕は青褪める。
「あ、いや、大丈夫だ! なにかな!?」
慌てて取り繕おうとしても、もう遅い。
「い、いいんだ。ただでさえ演出を引き受けてくれたのに久城を頼ろうとした俺が悪い……」
「大丈夫だ! 少しイラついていただけで——」
「脚本のくせに空気が読めなくて本当にすまないッ——!」
「か、神野ッ〜!!」
灰色のパーカーを着込んだ小鼠が走り去る。
運動神経は悪いくせに相変わらず逃げ足だけ早い。
僕は片手を伸ばした哀れなポーズのまま固まる。
その背後から現れるのは、やはりコイツだ。
「……馬鹿じゃねーの?」
「うううッ!!」
このときばかりは僕も言い返すことも出来なかった。
——僕は、馬鹿だ。
「好きな相手を威嚇するとかなにやってんだよ」
「威嚇してないし、好きだと決まったわけでは……」
南田のツッコミに語尾を濁らせながら僕は俯く。
部活終わり。
寮へ歩きながら僕らは会話を交わしていた。
議題はもちろん、例の衝撃の事実について。
「神野が好きだってまだ認めてねえの?」
「まともに考える時間がないんだ! 忙し過ぎて!」
「なら演出なんて引き受けなきゃよかっただろ?」
「それじゃ神野が可哀想だろう!」
「そんで神野に怒鳴り返してたら元も子もないぜ?」
「うぐぐ……」
南田の言うことは正しい。
神野の脚本を生かすために演出を引き受けたが、それで余裕をなくして神野に当たってしまったら意味がない。
本末転倒にも程がある。
それでも僕がこんな選択をしてしまったのは——。
「オマエ、怖いんだろ」
南田が淡々とした声で告げる。
「神野が好きだって気持ちを認めたくなくて、わざと忙しくしてんじゃねえの」
「…………」
図星を突かれると無言になるのは僕の悪い癖だ。
「現実逃避すんのも悪いことじゃねえと思うけどさ」
オレもオマエが自覚してねーとは思わず口滑らせちまったし?と付け加えながら南田がこちらを見る。
「別に逃げなくたっていいんじゃね」
静かな声が校舎から寮へと続く道に響く。
そこには僕ら以外、ほとんど誰もいない。
「オマエはずっと神野のことが好きだろ」
西陽が地平線の下に潜り込む。
はみ出したオレンジ色の光が僕らを照らしている。
南田の痛んだ金髪が夕日を遮りながら光っている。
それは絵になるくらい綺麗だった。
けれども僕はその光景を前に別のことを考える。
太陽に照らされても、影の中に必死に溶け込もうとするアイツのことを。
「——好きだよ」
その一言は僕の口からすんなりと出た。
ギリギリまで注がれたグラスからついに中身が溢れるように。
「好きだけど、本当に好きなんだろうか」
グラスの側面を伝っていくのは抑えられない感情。
不安定で、不確かで、捨ててしまいたいもの。
「神野が好きだ」
「でもそれは神野が天才だからだろう」
ずっと考え続けていたことを僕は吐露する。
「神野の脚本が好きだ」
「神野の才能が好きだ」
「神野の創作への執着やひたむきさが好きだ」
流れるようにその言葉たちを紡ぐことができる。
まるで心に染み込んだ台詞みたいに。
「でもそれって神野のことが好きなのかな」
知らず知らずのうちに目の淵が熱くなっていく。
辛いんだろうか。
悲しいんだろうか。
怒っているんだろうか。
自分の感情なのに、なにひとつ分からない。
「僕は演劇が好きだから、神野が好きなんじゃないかな」
その台詞を搾り出した途端、喉が苦しくなる。
舞台にひとり取り残されたみたいな気持ち。
僕は無理やり口を開く。
「神野が僕を主役にしてくれるから」
胸が痛くて、吐きそうになる。
「神野が僕を天才にしてくれるから」
酸欠みたいに頭がクラクラする。
「そんなの、神野が好きって言えないだろう」
震えた声の語尾が静寂に溶けた。
寮へ続く道の真ん中で僕らは立ち止まっている。
僕の台詞の続きは、ない。
これが、僕が出した結論だったから。
僕は神野が好きだ。
でも、それは純粋な好意じゃない。
打算的で、醜い、自己愛の延長線にある恋だ。
そんなもの、今すぐにでも捨ててしまった方が——。
「マジで馬鹿なんだな……」
「は?」
僕の情緒を吹き飛ばしたのは南田の呆れた声だった。
真横を見れば腐れ縁がドン引きした顔をしている。
「な、なんだと……?」
僕は無礼な態度をとる南田を睨みつける。
けれども南田は全てを見透かしたような目をこちらに向けた。
「オマエ、神野が初恋なの?」
「は、はぁ!?」
その指摘に僕の声が裏返る。
南田は納得したように頷く。
「意外。その顔だし、恋愛経験ぐらいあると思ってた」
「なにを言って——」
「ロマンチストっつーか恋愛に夢見てるタイプか」
「なんの話をしてる!?」
動揺し過ぎて声を掠れさせる。
そんな僕を南田は鼻で笑った。
「恋はオマエが考えてるほど特別なもんじゃない」
……特別じゃない?
思考が追いつかないうちに南田は芝居がかった動きで語る。
「一目惚れだって恋だし、優しくされたから好きになっちまうのも恋だ」
南田は立ち尽くす僕の前に回り込む。
この動きは見たことがある。
舞台上で何度も。
僕が主演なら、南田は常に脇役だった。
ただし、その舞台に必要不可欠な名脇役。
「オマエは難しく考えすぎなんだよ」
ビシッと僕の顔に向けて指をさす。
それから南田はニヤリと笑う。
「オレらはまだ学生で、そんでもって男はチョロい」
南田の指が僕の胸をちょんちょんと突いた。
「オマエが神野に惚れるのも当然ってわけ」
そして背を向けた南田を僕は追いかける。
「そ、そんな単純な話でいいわけないだろう!」
南田の正面に回り込んだ僕は行き先を遮るように仁王立ちする。
「僕の感情は打算的だ。神野が天才で、脚本を書けたからこそ成立している!」
今度は僕が南田の顔へ指をさし返した。
「これが恋だって言えるか!?」
「言える」
澱みのない即答に僕は呆然とする。
また南田が僕を追い越して、前に立つ。
「恋なんて単純だ」
南田は偉そうに胸の前で腕を組んだ。
まるでいつもの僕みたいに。
「ロミオだってジュリエットに一目惚れだし、その前に別の女に振られて落ち込んでるところから始まるだろ」
「そ、そうだが……」
「つまりジュエットがブスだったら成立しない!」
「ぐう……!」
シェイクスピアの作品を挙げられた僕は唸った。
言われてみればそうだ。
世界で最も有名な恋愛劇ですら、恋に落ちた理由は一目惚れ。
もしも、ジュリエットが優れた容姿ではなかったら、あの悲劇は起こり得なかった。
「恋愛に『もしも』なんて仮定はいらねえ!」
「でも……」
「そもそも打算的で何が悪いんだよ」
南田は僕の言い訳を遮って、告げる。
「オマエは演劇と同じくらい神野が好きなんだ」
そのまっすぐな声が僕から逃げ場を奪う。
「だからオマエは神野の脚本を裏切らない」
「やったこともねえ演出を引き受ける」
「神野のことを傷付けないように必死になる」
南田の手が僕の胸ぐらを掴んだ。
「とっくに打算なんて超えてんだ」
これ以上、現実から目を背けさせないように。
「本当はオマエだって分かってんだろ」
——分かってるさ。
僕は心の中で叫びながら唇を噛み締めた。
分かっているけど、認めたくないんだ。
これを認めたら何かが台無しになる気がして。
だから僕は世界一ダサい嘘を吐く。
「——僕は神野のことなんて好きじゃない!」
「あ、おい!」
南田の手を振り払うと僕は勢いよく走り出す。
それから何度も何度も自分に言い聞せた。
好きじゃない! 好きじゃない! 好きじゃない!
そんなことをしたって無駄だと知っているのに。
「好きじゃないんだ!」
久城蒼は、神野洸太のことが好きだ。
この事実を久城蒼は受け入れられなかった。
受け入れた瞬間、何かを失う気がしたから。
