久城蒼と神野洸太は、いい友人だった。
少なくとも久城蒼はそう思い込んでいた。
久城蒼も神野洸太と同じく天才であり、馬鹿だったから。
真実を思い知ったのは、いつか。
おそらく高校二年の春だろう。
その日も僕らが出会った春の日の空を彷彿とさせるような晴天だった。
「洸太せんぱ〜い! 基礎練教えてくださぁ〜い」
脚本・神野洸太、主演・久城蒼。
そんな新入生歓迎公演も終えた頃。
順風満帆だったはずの僕らを邪魔する不届者が現れた。
それこそが僕と同じ名前を持つ、ド凡人である。
「日野、俺じゃなくて久城に教えてもらったらどうだ?」
「僕は洸太先輩がいいんです〜。ダメですかぁ?」
「別にダメではないが——」
「やった〜! じゃあよろしくお願いしま〜す!」
鼻につく猫撫で声で神野に媚びる新入部員。
染めているのか地毛なのか分からない珈琲色の髪。
くっきり二重に、大きな瞳。
平均よりも高く、整った鼻筋。
柔らかい雰囲気の砂糖顔。
アイドルグループなら、まさしくセンター。
ただし、よく見れば目が笑っていない。
そして、一年のくせに神野よりも高い身長。
その男こそ——日野葵。
「洸太せんぱ〜い! 背中押してくださぁ〜い」
「ああ……」
「僕、体が硬いのでやさし〜くしてくださいね?」
「ど、努力しよう……」
甘える日野の背中を神野がぎこちない手つきで押している。
その様子を僕らは遠巻きに眺めていた。
「殺していいか?」
「ダメに決まってんだろ」
南田が冷静に僕に突っ込んだ。
進級した南田はツッコミの精度と速度が上がった。
役者としても友人としても喜ばしいことだ。
しかし、僕はそれどころではない。
「なんなんだ、あの一年」
稽古場に派手な舌打ちが響く。
隣で足を開き、手を伸ばしていた南田が応える。
「日野な。妙に神野に懐いてるみてぇだけど」
「僕の許しもなく、うちの神野とベタベタと……」
「別にオマエの許しはいらねえだろ」
「いるよ、僕の脚本家だぞ」
「オマエじゃなくて、うちの部の脚本担当だっつの」
「すなわち僕のだろう?」
「ちげえっての。神野はオマエのじゃ——イテテ!」
「おやおや。やさし〜く押したのに」
「オマエは頭が硬えんだよ! 八つ当たりすんな!」
日野への苛立ちを柔軟の途中の南田にぶつけた。
そうでもしなきゃやってられない。
それくらいに腹立たしい。
「あのクソガキめ……」
僕がこんなに汚い言葉を使うことは滅多にない。
少なくとも高等部に進学してからは。
しかし、あの後輩の存在は僕の心を荒れさせる。
思い返せば、初対面からムカつくやつだった。
「日野葵です! よろしくお願いしま〜す!」
「……久城蒼だ、よろしく」
元気のいい挨拶に、明るい笑顔。
まるで後輩の鑑のような態度。
それが妙に胡散臭い。
ライトブラウンの虹彩は美しい。
でも目に光がない。
これがただの人懐っこい後輩であるはずがない。
そんな僕の勘は見事に的中した。
「久城先輩って〜、去年の文化祭で主役やってましたよね〜?」
「ああ、そうだね」
「わ〜! やっぱり! 僕、見てました! 面白かったです!」
「それはどうも」
どうやら日野は去年の文化祭——すなわち僕らが一年だった頃の文化祭で、神野が脚本を担当したイベントステージでの公演を見て、演劇部に入部することを決めたらしい。
神野と同じく高等部からの外進生。
体験入部をすっ飛ばして入部届を出した新入部員だ。
ビジュアルもいいし、中学での演劇経験もある。
まさしく期待の新星だろう。
しかし——。
「あれって洸太先輩が脚本を書かれたんですよね〜?」
「……洸太先輩?」
聞き慣れない呼び方を聞き返すと日野は笑った。
「あ、僕ぅ〜、尊敬する先輩は苗字じゃなくてお名前で呼ぶことにしてて〜」
「へえ?」
僕は自分の声が冷えていくのが分かった。
僕や南田ですら神野を苗字で呼んでいるのに。
なんだコイツ。
「それって神野に許可取ってるの?」
「え?」
「だって神野って君の先輩でしょ?」
僕もこういう縦社会の慣習は好きではない。
だが、今回ばかりは利用させてもらうことにした。
「勝手に先輩を名前で呼ぶって失礼じゃないのかな?」
僕はニッコリと微笑む。
すると日野はわざとらしく口元に手を当てた。
「あ、そうですよね〜。洸太先輩は、久城先輩と比べて心が広いので気にしないと思いますけど、一応聞いておきますね〜?」
「……は?」
それは人生で最も低い声が出た瞬間だった。
しかし、日野は全く怯まない。
それどころか追撃してくる。
「ていうか、久城先輩って文化祭だけじゃなくて、新入生歓迎会でも主演してて、すごいです〜!」
「……ありがとう」
僕が警戒しながら礼を言うと日野は目を細める。
まるで獲物を捉えようとする狡猾な獣のように。
「あれも洸太先輩が当て書きされたんですか?」
「そうだけど」
「やっぱり〜!」
日野はキャハッと声をあげて笑った。
「不思議に思ってたんです。久城先輩が主役で」
「それってどういう意味かな?」
身も心も凍るような恐ろしい声で僕は問い返す。
それでも日野は笑顔で答えた。
「だって久城先輩みたいにお顔立ちが派手な人って意外と主役に向いてないじゃないですかぁ〜?」
「……は」
その台詞に僕は固まった。
僕が最も言われたくない台詞。
それが日野の口から紡がれる。
「どちらかというと僕みたいに親しみがある役者の方が主役って向いてると思いませんかぁ〜?」
堂々と胸に手を当てた日野がこちらを見上げた。
ニコニコとしている。
声は蕩けるように甘く、柔らかい。
ただし、それに包まれているのは、明確な敵意。
「でもいいなぁ、久城先輩」
日野は笑っていた。
「洸太先輩に主役にしてもらえて!」
でも、目は笑っていない。
狐のように細めた目の奥から僕を睨む。
「僕もいつか洸太先輩に脚本を書いてもらおう〜っと!」
その不敵にもほどがある宣言に、僕は絶句する。
神野以外を相手して言葉を失ったのは久々だった。
ここまで露骨に無礼な態度を取られたのも。
僕は拳を握り締め、日野を見つめ返す。
そして、自分がすべきことを理解する。
「……そうだね。書いてもらえるといいね」
日野を真似るように僕も笑った。
ニッコリ。
でも、もちろん——ただの笑顔じゃない。
「まあ、神野は僕にしか書かないだろうけどね」
僕はそれだけ告げて、踵を返した。
背後から「は?」という声が聞こえても無視。
後輩との挨拶を終えた僕は稽古場の隅に戻る。
そこには、ずっと様子を伺っていた男がいた。
「……オマエがマウントされて負けてるの初めて見たわ」
何やら驚いている南田を僕は鼻で笑う。
「負けてないよ」
「逃げてきたじゃねえか」
「逃げじゃない。戦略的撤退だ」
僕は南田に向けて手のひらを差し出す。
それを見た南田が一瞬で引き攣った顔になった。
「……訂正する。戦略的撤退だな」
「だろう?」
僕が静かに頷く。
するとタイミングがいいのか悪いのか。
そこへ神野が通りかかった。
「久城、次の新人公演の脚本なんだが——」
神野はうっかり僕の手のひらを見た。
そして、固まる。
「く、久城!? 手から血が出てるぞ!?」
慌てふためく神野を前に僕は微笑んだ。
「そうだね」
「そうだね、じゃない! どうしたんだ?」
「ああ、なんつーか……それは久城の理性の証っていうか……」
「頑張ったから褒めてくれ」
「どういうことなんだ!?」
動揺しながらも神野は自分の鞄を引っ掻き回した。
なんとか見つけ出した絆創膏を僕の手のひらの傷——爪の形の傷の上から丁寧に貼り付ける。
一年の頃と比べて縮まった距離に僕は先ほどとは違った自然な微笑みを浮かべた。
「ええと……久城は握力が強いんだな」
褒めてくれと言ったからか、なんとか褒めようとする神野。
僕の荒んだ心が僅かに慰められる。
だからちょっとだけ調子に乗ってみる。
「ありがとう、神野。もっと抽象的に褒めてくれる?」
「す、すごいな……」
「もう一声」
「え、えらいぞ?」
「お前に褒めてもらえるなんて我慢した甲斐があった」
「はぁ……?」
神野は状況を理解できないまま怪訝な顔をした。
でも、実際は単純な話だった。
僕が日野を殴らないために我慢しただけ。
拳を握りしめ、それこそ血が出るまで。
南田は心配と呆れが混ぜたような表情をしていた。
「頼むから暴力沙汰は卒業してからにしてくれよ」
僕の心を見透かしたような忠告に笑った。
腐れ縁の南田は僕の怒りっぽさを知っている。
この血だらけの手のひらを見てゾッとしたことだろう。
日野葵は、殴られて然るべきだった。
僕の地雷原の上でタップダンスしておいてあの顔が無事で済んだのは、奇跡だ。
中等部の頃の僕だったら確実に殴っていた。
でもアイツは神野の脚本の良さを分かっていた。
主演に当て書きされている僕を妬むほどに。
日野葵は、神野洸太が天才だと知っている。
それだけは評価に値した。
……だから、しばらくは生かしておいてやろう。
「善処するよ」
僕の爽やかな笑顔に南田は溜息を吐いた。
とにもかくにも、日野葵との初対面は最悪だった。
この後輩と同じ名前であることすら忌々しい。
しかし、この日野葵の存在が久城蒼と神野洸太の関係に大きな影響を与えることになる。
正確には、久城蒼が秘めていた心に気付くきっかけを作った。
さらに正しく言えば、僕も自力で気付いたわけではなく——。
「洸太せんぱ〜い、次は僕が押してあげますね!」
「ええっと……」
「ちょっと」
僕はダラダラと柔軟を続ける日野たちに声をかけた。
新入部員とはいえ、基礎練に時間をかけ過ぎだ。
明らかに日野がわざと引き伸ばしている。
しかし、そんな小細工は僕に通じない。
「一年はもう集まってるよ。いつまでやってるの?」
僕はいつものように胸の前で腕を組む。
すると日野はわざとらしく眉を下げて、神野は顔を青くする。
「あ、ごめんなさぁ〜い」
「す、すまない……」
「神野はいいから。日野は柔軟終わったならあっち」
僕は一年生が集まっている稽古場の隅を顎で示す。
けれども日野はその場から動かない。
「でも洸太先輩の柔軟がまだ終わってなくてぇ〜」
そう言いながら神野の背中に手を伸ばす。
……全く小賢しい生き物だ。
だが、この程度なら僕の敵ではない。
「それなら僕が引き継ぐから」
「え……」
「先輩の指示が聞こえなかったかな?」
冷たく言い放つと日野は笑顔のまま固まる。
今日ほど、縦社会に感謝したことはない。
これで僕もイヤな先輩デビューだ。
それなのに後悔どころか清々しい気分である。
「早く行って?」
先輩の圧に負けた後輩が渋々と神野から離れた。
「……洸太先輩、基礎練ありがとうございました〜」
「こ、こちらこそ?」
日野は神野に笑顔を向けてから、僕を振り返る。
恐ろしいほどの真顔だった。
しかも通りすがりに舌打ちまで聞こえた。
気のせいではないだろう。
ここまでの変わり身。
役者としては見事と言うしかない。
「久城……」
取り残された神野が縋るような目で僕を見上げる。
「あの、柔軟——」
「分かってるよ」
僕は食い気味に返事をした。
もちろん神野が何も悪くないことも分かっている。
でも日野と仲良い姿を見せられて苛立つ。
ムカムカしてどうしようもない気持ちに襲われる。
神野のとぼけた顔が憎らしい。
こういうとき、僕は我慢しないタイプだ。
「足を開け」
「え?」
「柔軟だろ、足を開け。九十度に」
「あ、ああ……」
「遅い! こうだろ!」
「イテテテッ!」
僕が神野の足を掴んで容赦なく開く。
すると甲高い悲鳴が上がる。
うん、聞き心地のいい叫び声だ。
それでようやく少し溜飲が下がってくる。
「久城! もっと優しくしてくれ!?」
しかし、神野の情けない声に再び苛立ちが戻る。
僕が日野よりも優しくないみたいじゃないか。
……なんだか、本気でムカついてきた。
「やさし〜くだって? 舐めた言い方だな!」
「そんな言い方してない!?」
慌てる神野に僕は不敵に笑う。
「僕はやさし〜くしてなんかやらないからな!」
「イタタタ! 久城! それ以上は開かない!」
「僕らで人体の限界に挑戦してみるってのはどう?」
「断固としてことわる!」
「そう遠慮しなくていいよ?」
「遠慮じゃない! み、南田ぁ〜!!」
限界を迎えて助けを呼ぶ神野に舌打ちした。
一年を経て神野が僕と仲良くなったということは、南田とはさらに仲良くなったということだ。
こうやって助けを求められるぐらいに。
「久城! 八つ当たりはやめろっつってんだろ」
数秒も経たずに神野専属SPが駆けつけてくる。
元々は僕の世話係だったくせに。
いざとなったら神野の味方をする。
僕は神野の足を離し、お節介男と相対する。
「八つ当たりじゃないさ、スキンシップだよ」
「これのどこがスキンシップなんだよ!」
「見て分からない? 天才ならではの密接的交流が」
「わかるか! 詭弁にもほどがあんだろ!」
「ハッ! これだからプレミアム凡人は……」
「その貶してるのか褒めてるのか分かんねー呼び方はやめろ!」
こうして僕らが言い争う間に神野は消えていた。
どうやら南田を囮に使ったらしい。
全くずる賢いヤツである。
それでも言い争いは終わらない。
「神野が悪いのさ。日野なんかにいい顔するから」
「普通に先輩してるだけだろ。やきもち妬くな」
「やきもち? 僕は友人として心配しているだけだよ」
「嘘つけ、馬鹿」
南田はすっかり呆れた顔で告げた。
まるでこの世の真理みたいに。
「オマエにとって神野はただのダチじゃねえだろ」
「……は?」
僕の顔が引き攣る。
しかし、南田は気付いていない。
それどころか憐れむような目を向けて言い放つ。
「——オマエってマジで神野のこと好きだよな」
その言葉に僕は固まった。
なんなら日野のマウントよりも衝撃的だった。
世界がひっくり返るくらいに。
「……え?」
稽古場のフローリングは、ベージュ。
天井の色は、オフホワイト。
照明の代わりにLEDが光る。
窓からは傾きかけた夕陽のオレンジ。
南田のジャージに、ネイビーのライン。
神野のパーカーは、地味なグレー。
そして瞳の色は、黒。
よくみると限りなく黒に近いダークブラウン。
そこに僕が映し出される瞬間が最も煌めく。
風に揺れる黒髪はいつまでも見ていられた。
——いや、まさか。
そんなわけがない。
そんなはずがないんだ。
「……僕って、神野のことが好きなのか?」
「はぁ?」
僕の間抜けな声に、間抜けな南田の声が被さる。
「自覚ねえの!?」
久城蒼と神野洸太は、いい友人だった。
少なくとも久城蒼はそう思い込んでいた。
「う、嘘だろ……?」
だが、それだけではなかったらしい。
少なくとも久城蒼はそう思い込んでいた。
久城蒼も神野洸太と同じく天才であり、馬鹿だったから。
真実を思い知ったのは、いつか。
おそらく高校二年の春だろう。
その日も僕らが出会った春の日の空を彷彿とさせるような晴天だった。
「洸太せんぱ〜い! 基礎練教えてくださぁ〜い」
脚本・神野洸太、主演・久城蒼。
そんな新入生歓迎公演も終えた頃。
順風満帆だったはずの僕らを邪魔する不届者が現れた。
それこそが僕と同じ名前を持つ、ド凡人である。
「日野、俺じゃなくて久城に教えてもらったらどうだ?」
「僕は洸太先輩がいいんです〜。ダメですかぁ?」
「別にダメではないが——」
「やった〜! じゃあよろしくお願いしま〜す!」
鼻につく猫撫で声で神野に媚びる新入部員。
染めているのか地毛なのか分からない珈琲色の髪。
くっきり二重に、大きな瞳。
平均よりも高く、整った鼻筋。
柔らかい雰囲気の砂糖顔。
アイドルグループなら、まさしくセンター。
ただし、よく見れば目が笑っていない。
そして、一年のくせに神野よりも高い身長。
その男こそ——日野葵。
「洸太せんぱ〜い! 背中押してくださぁ〜い」
「ああ……」
「僕、体が硬いのでやさし〜くしてくださいね?」
「ど、努力しよう……」
甘える日野の背中を神野がぎこちない手つきで押している。
その様子を僕らは遠巻きに眺めていた。
「殺していいか?」
「ダメに決まってんだろ」
南田が冷静に僕に突っ込んだ。
進級した南田はツッコミの精度と速度が上がった。
役者としても友人としても喜ばしいことだ。
しかし、僕はそれどころではない。
「なんなんだ、あの一年」
稽古場に派手な舌打ちが響く。
隣で足を開き、手を伸ばしていた南田が応える。
「日野な。妙に神野に懐いてるみてぇだけど」
「僕の許しもなく、うちの神野とベタベタと……」
「別にオマエの許しはいらねえだろ」
「いるよ、僕の脚本家だぞ」
「オマエじゃなくて、うちの部の脚本担当だっつの」
「すなわち僕のだろう?」
「ちげえっての。神野はオマエのじゃ——イテテ!」
「おやおや。やさし〜く押したのに」
「オマエは頭が硬えんだよ! 八つ当たりすんな!」
日野への苛立ちを柔軟の途中の南田にぶつけた。
そうでもしなきゃやってられない。
それくらいに腹立たしい。
「あのクソガキめ……」
僕がこんなに汚い言葉を使うことは滅多にない。
少なくとも高等部に進学してからは。
しかし、あの後輩の存在は僕の心を荒れさせる。
思い返せば、初対面からムカつくやつだった。
「日野葵です! よろしくお願いしま〜す!」
「……久城蒼だ、よろしく」
元気のいい挨拶に、明るい笑顔。
まるで後輩の鑑のような態度。
それが妙に胡散臭い。
ライトブラウンの虹彩は美しい。
でも目に光がない。
これがただの人懐っこい後輩であるはずがない。
そんな僕の勘は見事に的中した。
「久城先輩って〜、去年の文化祭で主役やってましたよね〜?」
「ああ、そうだね」
「わ〜! やっぱり! 僕、見てました! 面白かったです!」
「それはどうも」
どうやら日野は去年の文化祭——すなわち僕らが一年だった頃の文化祭で、神野が脚本を担当したイベントステージでの公演を見て、演劇部に入部することを決めたらしい。
神野と同じく高等部からの外進生。
体験入部をすっ飛ばして入部届を出した新入部員だ。
ビジュアルもいいし、中学での演劇経験もある。
まさしく期待の新星だろう。
しかし——。
「あれって洸太先輩が脚本を書かれたんですよね〜?」
「……洸太先輩?」
聞き慣れない呼び方を聞き返すと日野は笑った。
「あ、僕ぅ〜、尊敬する先輩は苗字じゃなくてお名前で呼ぶことにしてて〜」
「へえ?」
僕は自分の声が冷えていくのが分かった。
僕や南田ですら神野を苗字で呼んでいるのに。
なんだコイツ。
「それって神野に許可取ってるの?」
「え?」
「だって神野って君の先輩でしょ?」
僕もこういう縦社会の慣習は好きではない。
だが、今回ばかりは利用させてもらうことにした。
「勝手に先輩を名前で呼ぶって失礼じゃないのかな?」
僕はニッコリと微笑む。
すると日野はわざとらしく口元に手を当てた。
「あ、そうですよね〜。洸太先輩は、久城先輩と比べて心が広いので気にしないと思いますけど、一応聞いておきますね〜?」
「……は?」
それは人生で最も低い声が出た瞬間だった。
しかし、日野は全く怯まない。
それどころか追撃してくる。
「ていうか、久城先輩って文化祭だけじゃなくて、新入生歓迎会でも主演してて、すごいです〜!」
「……ありがとう」
僕が警戒しながら礼を言うと日野は目を細める。
まるで獲物を捉えようとする狡猾な獣のように。
「あれも洸太先輩が当て書きされたんですか?」
「そうだけど」
「やっぱり〜!」
日野はキャハッと声をあげて笑った。
「不思議に思ってたんです。久城先輩が主役で」
「それってどういう意味かな?」
身も心も凍るような恐ろしい声で僕は問い返す。
それでも日野は笑顔で答えた。
「だって久城先輩みたいにお顔立ちが派手な人って意外と主役に向いてないじゃないですかぁ〜?」
「……は」
その台詞に僕は固まった。
僕が最も言われたくない台詞。
それが日野の口から紡がれる。
「どちらかというと僕みたいに親しみがある役者の方が主役って向いてると思いませんかぁ〜?」
堂々と胸に手を当てた日野がこちらを見上げた。
ニコニコとしている。
声は蕩けるように甘く、柔らかい。
ただし、それに包まれているのは、明確な敵意。
「でもいいなぁ、久城先輩」
日野は笑っていた。
「洸太先輩に主役にしてもらえて!」
でも、目は笑っていない。
狐のように細めた目の奥から僕を睨む。
「僕もいつか洸太先輩に脚本を書いてもらおう〜っと!」
その不敵にもほどがある宣言に、僕は絶句する。
神野以外を相手して言葉を失ったのは久々だった。
ここまで露骨に無礼な態度を取られたのも。
僕は拳を握り締め、日野を見つめ返す。
そして、自分がすべきことを理解する。
「……そうだね。書いてもらえるといいね」
日野を真似るように僕も笑った。
ニッコリ。
でも、もちろん——ただの笑顔じゃない。
「まあ、神野は僕にしか書かないだろうけどね」
僕はそれだけ告げて、踵を返した。
背後から「は?」という声が聞こえても無視。
後輩との挨拶を終えた僕は稽古場の隅に戻る。
そこには、ずっと様子を伺っていた男がいた。
「……オマエがマウントされて負けてるの初めて見たわ」
何やら驚いている南田を僕は鼻で笑う。
「負けてないよ」
「逃げてきたじゃねえか」
「逃げじゃない。戦略的撤退だ」
僕は南田に向けて手のひらを差し出す。
それを見た南田が一瞬で引き攣った顔になった。
「……訂正する。戦略的撤退だな」
「だろう?」
僕が静かに頷く。
するとタイミングがいいのか悪いのか。
そこへ神野が通りかかった。
「久城、次の新人公演の脚本なんだが——」
神野はうっかり僕の手のひらを見た。
そして、固まる。
「く、久城!? 手から血が出てるぞ!?」
慌てふためく神野を前に僕は微笑んだ。
「そうだね」
「そうだね、じゃない! どうしたんだ?」
「ああ、なんつーか……それは久城の理性の証っていうか……」
「頑張ったから褒めてくれ」
「どういうことなんだ!?」
動揺しながらも神野は自分の鞄を引っ掻き回した。
なんとか見つけ出した絆創膏を僕の手のひらの傷——爪の形の傷の上から丁寧に貼り付ける。
一年の頃と比べて縮まった距離に僕は先ほどとは違った自然な微笑みを浮かべた。
「ええと……久城は握力が強いんだな」
褒めてくれと言ったからか、なんとか褒めようとする神野。
僕の荒んだ心が僅かに慰められる。
だからちょっとだけ調子に乗ってみる。
「ありがとう、神野。もっと抽象的に褒めてくれる?」
「す、すごいな……」
「もう一声」
「え、えらいぞ?」
「お前に褒めてもらえるなんて我慢した甲斐があった」
「はぁ……?」
神野は状況を理解できないまま怪訝な顔をした。
でも、実際は単純な話だった。
僕が日野を殴らないために我慢しただけ。
拳を握りしめ、それこそ血が出るまで。
南田は心配と呆れが混ぜたような表情をしていた。
「頼むから暴力沙汰は卒業してからにしてくれよ」
僕の心を見透かしたような忠告に笑った。
腐れ縁の南田は僕の怒りっぽさを知っている。
この血だらけの手のひらを見てゾッとしたことだろう。
日野葵は、殴られて然るべきだった。
僕の地雷原の上でタップダンスしておいてあの顔が無事で済んだのは、奇跡だ。
中等部の頃の僕だったら確実に殴っていた。
でもアイツは神野の脚本の良さを分かっていた。
主演に当て書きされている僕を妬むほどに。
日野葵は、神野洸太が天才だと知っている。
それだけは評価に値した。
……だから、しばらくは生かしておいてやろう。
「善処するよ」
僕の爽やかな笑顔に南田は溜息を吐いた。
とにもかくにも、日野葵との初対面は最悪だった。
この後輩と同じ名前であることすら忌々しい。
しかし、この日野葵の存在が久城蒼と神野洸太の関係に大きな影響を与えることになる。
正確には、久城蒼が秘めていた心に気付くきっかけを作った。
さらに正しく言えば、僕も自力で気付いたわけではなく——。
「洸太せんぱ〜い、次は僕が押してあげますね!」
「ええっと……」
「ちょっと」
僕はダラダラと柔軟を続ける日野たちに声をかけた。
新入部員とはいえ、基礎練に時間をかけ過ぎだ。
明らかに日野がわざと引き伸ばしている。
しかし、そんな小細工は僕に通じない。
「一年はもう集まってるよ。いつまでやってるの?」
僕はいつものように胸の前で腕を組む。
すると日野はわざとらしく眉を下げて、神野は顔を青くする。
「あ、ごめんなさぁ〜い」
「す、すまない……」
「神野はいいから。日野は柔軟終わったならあっち」
僕は一年生が集まっている稽古場の隅を顎で示す。
けれども日野はその場から動かない。
「でも洸太先輩の柔軟がまだ終わってなくてぇ〜」
そう言いながら神野の背中に手を伸ばす。
……全く小賢しい生き物だ。
だが、この程度なら僕の敵ではない。
「それなら僕が引き継ぐから」
「え……」
「先輩の指示が聞こえなかったかな?」
冷たく言い放つと日野は笑顔のまま固まる。
今日ほど、縦社会に感謝したことはない。
これで僕もイヤな先輩デビューだ。
それなのに後悔どころか清々しい気分である。
「早く行って?」
先輩の圧に負けた後輩が渋々と神野から離れた。
「……洸太先輩、基礎練ありがとうございました〜」
「こ、こちらこそ?」
日野は神野に笑顔を向けてから、僕を振り返る。
恐ろしいほどの真顔だった。
しかも通りすがりに舌打ちまで聞こえた。
気のせいではないだろう。
ここまでの変わり身。
役者としては見事と言うしかない。
「久城……」
取り残された神野が縋るような目で僕を見上げる。
「あの、柔軟——」
「分かってるよ」
僕は食い気味に返事をした。
もちろん神野が何も悪くないことも分かっている。
でも日野と仲良い姿を見せられて苛立つ。
ムカムカしてどうしようもない気持ちに襲われる。
神野のとぼけた顔が憎らしい。
こういうとき、僕は我慢しないタイプだ。
「足を開け」
「え?」
「柔軟だろ、足を開け。九十度に」
「あ、ああ……」
「遅い! こうだろ!」
「イテテテッ!」
僕が神野の足を掴んで容赦なく開く。
すると甲高い悲鳴が上がる。
うん、聞き心地のいい叫び声だ。
それでようやく少し溜飲が下がってくる。
「久城! もっと優しくしてくれ!?」
しかし、神野の情けない声に再び苛立ちが戻る。
僕が日野よりも優しくないみたいじゃないか。
……なんだか、本気でムカついてきた。
「やさし〜くだって? 舐めた言い方だな!」
「そんな言い方してない!?」
慌てる神野に僕は不敵に笑う。
「僕はやさし〜くしてなんかやらないからな!」
「イタタタ! 久城! それ以上は開かない!」
「僕らで人体の限界に挑戦してみるってのはどう?」
「断固としてことわる!」
「そう遠慮しなくていいよ?」
「遠慮じゃない! み、南田ぁ〜!!」
限界を迎えて助けを呼ぶ神野に舌打ちした。
一年を経て神野が僕と仲良くなったということは、南田とはさらに仲良くなったということだ。
こうやって助けを求められるぐらいに。
「久城! 八つ当たりはやめろっつってんだろ」
数秒も経たずに神野専属SPが駆けつけてくる。
元々は僕の世話係だったくせに。
いざとなったら神野の味方をする。
僕は神野の足を離し、お節介男と相対する。
「八つ当たりじゃないさ、スキンシップだよ」
「これのどこがスキンシップなんだよ!」
「見て分からない? 天才ならではの密接的交流が」
「わかるか! 詭弁にもほどがあんだろ!」
「ハッ! これだからプレミアム凡人は……」
「その貶してるのか褒めてるのか分かんねー呼び方はやめろ!」
こうして僕らが言い争う間に神野は消えていた。
どうやら南田を囮に使ったらしい。
全くずる賢いヤツである。
それでも言い争いは終わらない。
「神野が悪いのさ。日野なんかにいい顔するから」
「普通に先輩してるだけだろ。やきもち妬くな」
「やきもち? 僕は友人として心配しているだけだよ」
「嘘つけ、馬鹿」
南田はすっかり呆れた顔で告げた。
まるでこの世の真理みたいに。
「オマエにとって神野はただのダチじゃねえだろ」
「……は?」
僕の顔が引き攣る。
しかし、南田は気付いていない。
それどころか憐れむような目を向けて言い放つ。
「——オマエってマジで神野のこと好きだよな」
その言葉に僕は固まった。
なんなら日野のマウントよりも衝撃的だった。
世界がひっくり返るくらいに。
「……え?」
稽古場のフローリングは、ベージュ。
天井の色は、オフホワイト。
照明の代わりにLEDが光る。
窓からは傾きかけた夕陽のオレンジ。
南田のジャージに、ネイビーのライン。
神野のパーカーは、地味なグレー。
そして瞳の色は、黒。
よくみると限りなく黒に近いダークブラウン。
そこに僕が映し出される瞬間が最も煌めく。
風に揺れる黒髪はいつまでも見ていられた。
——いや、まさか。
そんなわけがない。
そんなはずがないんだ。
「……僕って、神野のことが好きなのか?」
「はぁ?」
僕の間抜けな声に、間抜けな南田の声が被さる。
「自覚ねえの!?」
久城蒼と神野洸太は、いい友人だった。
少なくとも久城蒼はそう思い込んでいた。
「う、嘘だろ……?」
だが、それだけではなかったらしい。
