キミがためのシェイクスピア〜天才による天才のための青春エチュード〜

 神野洸太は、馬鹿だ。
 しかし、天才でもある。

 それが証明されたのは高校一年生の秋であった。

「——このバケモノめッ!!」

 涼しさが肌寒さに変わりかけてきた頃の放課後。
 洒落たメガネをかけた男が廊下に飛び出してきた。

 教室から出てきたソイツは僕の肩にぶつかりかける。
 ひょいと避けたらそのまま壁に激突。
 そして奇声を上げながら走り去っていく。

「……なんだ、アイツ?」

 僕は男が消えた方向を睨みつける。
 すると男が飛び出してきたドアから神野が現れた。

「あ……久城、これから部活か?」
「そうだよ。お前の教室から飛び出してきたの何?」

 神野はきょとんとした顔で僕と同じ方向を見つめる。
 それから苦笑いして答えた。

「ああ、あれは文芸部の逆井だ」
「……文芸部?」

 僕はピクリと眉を動かす。

「文芸部がお前の教室で何をやってたんだ?」

 神野と稽古場に向かいながら僕はさらに尋ねた。

 文芸部と言えば、神野が入りたかった部活だ。
 そして、とある理由で入部を断念した部活である。

 僕専属スパイである南田(本人は否定しているが、神野に関することを逐一僕に報告してくるのでそう呼んでいる)から聞いた話では、神野は文芸部に未練があるわけでないらしい。

 それでも文芸部のやつがわざわざ神野に絡みに来るということは何かあるに違いない。

「また余計なことを言ったんじゃないだろうな」

 僕は隣の男へ疑いの眼差しを向ける。
 しかし、神野は不思議そうに肩を竦めた。

「さぁ? 話しかけられたが、よく分からない」
「何か変なことを言われたのか」
「変なこと……ではないと思うが……」
「神野?」

 僕は誤魔化そうとする神野を嗜める。
 すると神野は早々に白旗を上げた。

「俺の〝実績〟が気に食わないらしい」

 その答えに、僕は妙に納得する。

「……なるほど。お前が表彰されたことをやっかまれたのか」

 僕が頷くと神野は気まずそうに目を細めた。

 ——結論から言おう。

 新人公演の台本修正を先輩たちに聞き入れてもらうべく、神野が挑んだ実績作り。

 あれは、間に合わなかった。

 台詞は修正されることなく、本番を迎えた。

 だが、その本番で神野はミスを犯す。
 なんと書き直した台詞を口にしてしまったのだ。

 その台詞を聞いた途端に固まる僕。
 舞台上で動かなくなる神野。
 そして、絶句する舞台裏。

 もしや諦めきれずに強行手段に出たのか!?

 ——と、一瞬疑いかけたが、神野の方を見たらこの世の終わりのような顔をしていた。
 おそらく単純に言い間違えたのだろう。

 ただ、台本通りではなく神野が書き直した台詞が出た時点で、シーンの流れは変わってしまっていた。

 元の台詞では誤魔化せるわけもない。
 だからこそ、僕はこうするしかなかった。

『——そうとも、僕は英雄だからね』

 元の台詞ではなく、神野が書いた台詞で繋げる。
 シーンごと台詞を変えてしまったのだ。

 この判断は新人公演を失敗から救った。
 しかし、叱責からは助けてくれなかった。

 僕と神野は、もちろん先輩から叱られた。
 特に神野はかなりキツく言われていた。

 僕はフォローに回った側だが、神野は自分の出番の台詞を全部変えてしまったからだ。
 
 この件のせいで神野は周りから避けられた。
 実際、新人公演後も神野に構っていたのは僕と南田くらいだ。

 せっかく神野が演劇部に馴染めていたというのに、新人公演での失敗で神野の部活生命が絶たれるところだった。

 ところが、秋になって神野の立場は一転することになる。

『一年、神野洸太さん。壇上に上がってください』
「は、はい……」

 夏休みが終わって始業式の日。
 僕らは、壇上に呼ばれる神野の姿を見ていた。

 神野は全校生徒の前で表彰された。

 実は練習の傍らで神野は大量の脚本を書いていた。
 それらを学生向けの賞や短編シナリオのコンクール、地方のラジオドラマ募集などに送りつけたのである。

 成果が出たのが、夏の終わりから秋頃。
 つまり、二学期の頭だ。

 担任も顧問も教頭も表彰状の数に顔を見合わせた。
 無関係のはずの国語教師と、校長は満面の笑み。

 始業式では神野の輝かしい功績が称えられた。
 その名は校内中に轟くことになる。

 この神野の実績作りの影響は、さらに広がる。

「え……俺の脚本を、文化祭で?」
「そうだ、職員会議で決まった」

 笑顔で伝える顧問に部員たちはざわついていた。

 なんと文化祭の脚本を神野が担当することになったのである。

「でも大ホールでの公演はどうするんですか!?」

 聞き返したのは、本来の文化祭の演出担当だ。
 それに対して顧問は淡々と答える。

「もちろんそれも上演するが、また別にイベントステージで神野の脚本を披露してもらいたい」
「二箇所で別の作品を公演するってことですか?」
「ああ。急な話だと思うが、文化祭は十月だ。行けるよな?」

 顧問の無茶振りに先輩たちは頭を抱える。
 一方で、僕は密かにほくそ笑んでいた。
 
 演劇部では一年のうちに四つの舞台——春の新入生歓迎公演、夏の新人公演、秋の文化祭公演、冬の最終公演——がある。

 そのうち最も規模が大きいのが文化祭。
 毎年、大ホールで行われる。

 しかしこの年は顧問からの指示でイベントステージでも短い劇を公演することになった。

 その脚本は神野が書いた作品——学生向けの戯曲賞を受賞したものだ。

 学校側として在校生徒の活躍を披露するのは当然。
 それこそが文化祭の真髄だろう。

 先輩たちも苦々しい顔はしても、文句を言うことは出来ない。

 そして、これは僕にとっても大きな転機となった。

「——主演は、久城蒼」

 その名前が呼ばれた瞬間、僕は思わず神野を見た。
 そして、目と目が合った瞬間に、笑ってしまった。

 どうやら天才から天才へのご指名らしい、と。

 イベントステージでの追加公演は夏休み明けに急に決まった。

 本来なら文化祭公演は新人公演と並行して夏から練習が始まる。

 しかし、今回は練習できる期間がかなり短い。
 多く見積もっても、一ヶ月ちょっとだろう。

 二十分ほどのショートドラマとはいえ時間がない。
 出来るだけ効率よく練習を進める必要がある。 

 そのため、オーディションは無し。
 顧問の指示で演出が決められた。
 役者も完全指名制。

 大ホールでのメイン公演に関わっていない部員たちの中から、顧問と演出と脚本がキャストを選出した。

 それで主演に選ばれたのが——この僕だった。

 僕は心から嬉しく思っていた。

 主役以外は演る気はないという宣言を違わずに済んだことも。
 神野が主演に僕を選んだことも。

 本来なら僕は主役ではなかったから。

 もちろん文化祭でも僕は主役を演じるつもりだった。
 でもこの年は主演になれないとも思っていた。

 なぜなら、中等部の頃から僕の容姿やルーツについて気に食わないと裏でコソコソ悪口を言っていた先輩がこの年の文化祭公演の演出に決まっていたからだ。

『久城って別に大したことなくね?』
『あんなのただの外人顔じゃん』
『マジで顔良かったらテレビに出てるはずだろ』
『部活程度ででイキリやがってムカつくよな』

 こういうことを言われるのは慣れていた。
 問題はそういう輩が部内で権力を持っていること。

 僕が中等部で主役を演じられたのは、この手の奴らから庇ってくれていた先輩たちがいたからだった。
 そんな先輩たちは卒業してしまって、もういない。
 
 だからこの年は確実に主役から外されると予想していたのだ。

 これに僕以上に憤慨していたのは神野だった。


「——明らかに久城の方が上手いのに!?」

 時をさらに遡って、夏の終わり。
 文化祭公演のキャストが発表された瞬間。
 大声で叫んだ神野の口を南田が塞いだ。
 しかし、間に合わなかった。

 部員たちの視線が僕と、神野と、南田に集中した。
 中には気まずそうに視線を逸らす者もいる。

 僕への扱いが理不尽だと気付いている部員はいた。

 それでも、誰も文句は言わない。

 ——神野以外は。

「久城が主演に選ばれないなんてあり得ない!」

 このときの神野と言ったら、面倒臭かった。
 僕のことが気に食わない先輩たちの前で大騒ぎ。

 南田と僕が神野を無理やり稽古場から引き摺り出した後も、ずっと文句を言っていた。

「いい加減にしろって、神野! 新人公演のこともあんのにこれ以上悪目立ちしてどうすんだよ!」

 南田がツッコミを入れても神野は聞いちゃいない。

「信じられない……久城以外を選ぶなんて……」

 あまりのショックの受けように、僕も戸惑う。
 僕が主演に選ばれないだけで僕より落ち込むなんて。

 同情や哀れみとは違うと理解しつつも複雑だった。

 でも、神野が騒いだところで現実は変わらない。

「南田の言う通りだ。この程度の理不尽をいちいち気にしていたら演劇なんて出来ないよ」
「お前はお前で割り切りすぎだけどな……?」
 
 南田のツッコミが僕にも向けられるが、無視する。

 とにもかくにもこの馬鹿を落ち着かせなければ。
 また以前のように暴れる。

 天才というのはこうも面倒なものなのか。

「熱くなりすぎんなって! 落ち着け、な?」
「いいや、これは断固として抗議すべきだ!」
「先輩たちの判断だ。後輩はそれに従うべきだろう」

 この馬鹿に僕は年功序列を解こうとする。
 日本の悪しき風習でも部活という縦社会ではそうなのだ。

 だが、そんなものはコイツには通用しなかった。

「関係ない! 久城こそ主役を演じるべきなのに!」

 真っ直ぐにそう言い切られて、僕は言葉を失う。

 そしてまた学習能力皆無の脚本馬鹿は、先輩のところへ直談判に行こうとして南田に必死に止められる。

「クソ! 離せ、南田!」
「離すかよ! お前はもう下手なことすんなって!」
「俺は下手だが、久城が一番上手い!」
「そういう話じゃねえ! 日本語ヘタクソぉ!」

 大暴れする神野とそれを羽交締めにする南田。
 二人の前で、僕はただ茫然としている。

 南田と一緒に止めないといけなかったのに全く動けなかった。

 ——どうして僕のことを信じられるのだろう。

 ずっと僕は主役しか演じないと言い切っていた。
 でも心のどこかで、諦めていた。

 いろんな理由で、スポットライトから遠ざけられてきたから。

『ハーフかぁ、ちょっと使いにくいんだよねぇ』

 学校の外、部活の外でずっと言われてきた言葉。
 大ホールの舞台から降りれば、僕はただの少年。
 整った顔立ちの、ハーフの男の子。

 僕の代わりに選ばれるのは平凡な顔の純日本人。

『主役ならもっと親しみがある顔立ちがいいな』
『悪役なら似合うよね、綺麗な顔してるし』
『英語を話す役なら空いてるよ? それでいい?』

 溜まっていく落選通知に、同情してくれる両親。

『私たちのせいだね、ごめんね』

 金髪に青い目をした父親。
 誰からも美人だねと言われる母親。

 生まれたときから全てを持っていると思っていた。

 でも、実際には違う。

 持って生まれても本当に欲しいものが手に入るわけじゃない。

『ごめんよ、蒼。パパのせいで……』
『蒼はこんなに演技が上手なのにね』

 愛する家族に、謝って欲しいわけじゃなかった。
 彼らのせいじゃない。
 僕のせいでもない。
 
 ただ、この世界が理不尽なだけ。

『その髪染めてんの?』
『カラコンかと思ったわ』
『へえ、日本語上手だね……あ、日本人?』
『俺もハーフならモテたと思うんだよなぁ』
『イギリス人なの? アメリカ人なの?』
『オーストラリア? ……なんか微妙』
『空気読めないなら国に帰れよ』
『結局はさぁ、日本に合わないんじゃね?』

 この世界が僕にも優しくないだけ。

 それでも諦めたくはなかった。
 どうしても舞台に立ちたかった。

 だから本当は——こう言って欲しかった。

「久城を主役にしないなんてクソ喰らえだ!」

 ……いや、これは言い過ぎかもしれないが。

「俺が潰してやる……」
「おい馬鹿、闇堕ちするな!」
「台本を分解してページをごちゃごちゃにしてやる!」
「やることが思ったより地味ぃ〜!!」

 その大きな怒りをとてつもなく小さな嫌がらせで表現しようとする神野と、呆れながらも止めようとする南田に、僕は笑うしかなかった。

 でも、こんなくだらないことが僕には救いだった。

 僕に降りかかる理不尽に一緒に怒って欲しかった。
 きっと僕に必要なことだった。

 それを与えてくれたのが——。

「先輩のジャージの表裏を反対にしてやる!」
「その小心者過ぎる反抗はなんなんだよ!」
「こっそり台詞の助詞を微妙に書き換えてやる!」
「もはやクソガキの悪戯だろ! 久城も止めろよ!」

 南田は叫び過ぎて声が枯れてきている。

 僕への理不尽に怒り狂い、小さな理不尽を生み出そうする神野を止めるには僕が動くしかないようだ。

 本音では放っておきたかった。

 神野が僕のためにどんな悪行を働いてくれるのか気になったから。

 しかし、この時はまだ新人公演の直後。
 あの失敗で、神野が部内で浮いていた頃だ。
 下手なことをすれば、神野の居場所はなくなる。
 
 神野を先輩のところへ行かせるわけにはいかない。

 とはいえ、神野洸太がそう簡単に諦めるやつではないと僕はもう知っていた。
 
 だから、こうした。

「——ああ、本当に糞食らえだよ」

 僕は色素の薄い前髪を掻き上げると鼻で笑った。

「あんな台本、僕が演じる価値もないね」

 ツンと澄まして、神野を見下ろす。

 神野は目を丸くして僕を見つめ返す。

 それに、僕は勝ち気に微笑みかける。

「お前が書きなよ、神野」
「え……?」

 神野の惚けた顔を覗き込み、目を細める。
 アドリブは、得意だった。

 特に高飛車で横暴な天才の役は誰より上手い。

「僕に相応しい主役をお前が作れって言ってるの」

 僕は肩に優しく触れて、徐々に力を込める。

 圧をかけて脅すように。
 問答無用と言わんばかりに。

「分かる?」

 そして、耳元で怪しげに囁く。

 僕は、もう知っている。
 神野がこれになんて答えるか。

 だって神野は天才で——。

「——分かった! 」

 ——どうしようもない馬鹿だから。

「俺がお前を主役にして見せる!」

 神野は高らかに宣言する。
 それに僕は満足気に頷く。

 ——よし、やっぱり馬鹿だ。

 しかも凄まじく前向きな馬鹿だ。
 コイツが馬鹿で本当に良かった。

「おまえら、マジで馬鹿だろ……」

 そんな僕らに南田が失礼なことをぼやいていた気がする。
 しかし、心が広い僕は聞かなかったことにしてやった。

 こうして神野は夏休み明けに素晴らしい実績と僕を主役に当て書きした脚本を抱えてきたのである。

 それは僕を先輩のやっかみとこの世界の理不尽から救い、小さな舞台の上へと連れていくことになった。

 そして文化祭当日。
 イベントステージでの公演は大成功。

 なんなら、大ホールでのメイン公演よりも評判が良く、後夜祭でも取り上げられることになった。

 それは僕を主演から外した先輩への実に素晴らしい意趣返しとなり、風見ヶ丘学園での僕らの立場を定めた。
 
 今では久城蒼と神野洸太の名前を知らない者は風見ヶ丘学園にいない。


 しかし、これだけ目立てば面白くないと思う奴らも出てくる。

 そのうちのひとりが文芸部の逆井宗一郎だった。

 シナリオとはいえ、それもまた文芸。
 文芸部を差し置いて演劇部の一年が表彰され、文化祭でも目立ちまくったことが逆井のプライドを大いに刺激したのだろう。

 ただでさえ神野は文芸部に因縁があるのだから。

「文芸部の凡人たちはお前の才能に恐れを成したか」

 秋の放課後の廊下。
 僕はスキップしたくなるのをグッと我慢した。
 それに対して神野は背中を丸めてノロノロと歩く。

「恐れているかは知らないが、また怒らせてしまったらしい」
「これできっと卒業まで出禁だな?」

 僕は揶揄うようにニヤリと口角を上げる。
 神野の顔色が一気に悪くなる。

「その話はするなと言っているのに!」
「あはははッ!」

 必死になる神野が面白くて僕は笑って駆け出した。
 そんな僕を神野も走って追いかけてくる。

「お前、出禁のくせに意外と足速いな!」
「うるさい!」
「運動神経は悪いのにね!」
「黙れ! 言っていい事実と悪い事実がある!」
「はは! なんだよ、それ!」
「いいから一発殴らせろ!」
「いいぞ、追いつけたらな!」
「久城ッ〜!」
「んははは!」

 廊下は走っちゃいけません、なんて注意は久城蒼と神野洸太の耳には入らなかった。