キミがためのシェイクスピア〜天才による天才のための青春エチュード〜

「僕だったら恥ずかしくて舞台に立てないけどね」

 稽古場は、静まり返った。
 いつもホールで響き渡る声は、ここでもよく通る。
 しばらくの沈黙の後、聞こえたのは啜り泣き。

「ひ、酷い……」
「酷い? 自分のこと? それとも僕?」

 泣いている相手を前にしても冷静に切り返す久城に黙って見守っていた周りの奴らも思わず口を挟む。

「お、おいやめろよ!」
「泣いてるじゃん……」
「そうだね、この涙が舞台の上でも出せれば名優なんだけどな」

 久城は、誰に責められても態度を改めることはない。
 自分が正しいと信じているからだ。
 その自信は、恵まれた容姿だけではなく、弛まない努力と才能に由来していた。

 だからこそ、この状況が許せない。

「稽古が始まってから何日経ってる?」
「ま、まだ一週間で……」
「もう一週間だよ」
「うう……」
「それなのに台詞が入ってないってどういうこと?」
「それは……」 
「君は僕の相手役だよね。台詞も覚えずにまともな演技が出来るの?」

 止まらない口撃に、相手が黙り込む。
 握り締められている台本は三週間前に配られた。
 二週間前にはオーディション、そして一週間前にはキャストが決まって稽古が始まった。
 久城の言う通り、時間は充分にあった。
 でも久城以外に台詞を全て覚えている役者はいない。

 ……いや、もう一人だけいる。

「もういいや。君には期待しない」
「く、久城先輩……」
「——神野」
「おわぁッ!?」

 いきなり、自分の名前を呼ばれて変な声が出た。
 パーカーのフードを被ったまま稽古場の隅にいた俺は、思わず顔を上げる。

「え、あ、な、なに?」
「お前がやれ」
「……はい?」

 急な展開を理解出来ずに聞き返す。
 すると久城はわざとらしく溜息を吐いた。

「聞こえなかった? お前が僕の相手役を演れって言ったの」
「な、なんで!?」
「なんでって……」

 久城は呆れ顔でこちらに向かってくると偉そうに腕を組んで俺を見下ろした。

「お前ならもう全部覚えてるでしょ?」
「何を……」
「だから、セリフ!」

 久城が苛立ったように叫べは、俺は慌てて頷いた。

「そりゃ、そうだが……」
「じゃあ、お前でいいね」
「いやいやいや、そりゃ待てよ!」

 久城の決断に、部長の南田が異議を唱えた。

「こいつは、役者じゃねえ! 脚本だぜ?」
「だから何?」

 食い気味に答えた久城は、冷ややかな目線を南田に送ってから、稽古場の床に座り込んだ俺を見つめる。

「主演であり、演出でもある僕が決めたことだ」

 その宣言に稽古場にいた全員が呆気に取られる。
 もちろん、俺を含めて。

「文句は言わせない」

 その一言を最後に、稽古は十五分の休憩に入った。

 本来なら、久城の相手役のはずだった後輩は泣き崩れていて、同期や仲の良い先輩に慰められている。
 俺は、あまりの気まずさにパーカーのフードをさらに深く被り直して、背中を丸めようとした。
 
 けれども、視界がいきなりパッと開けた。
 光が影を貫いてまばゆい輝きが俺の瞳に入ってくる。

「ボーッとするな、神野」
「え?」
「いいから来い」

 至近距離で覗き込んでくる久城は、強引に俺の腕を掴んで立たせるとそのまま稽古場の外へ向かう。

「ど、どこ行くんだ!?」
「ホールだ。僕とお前で改めて演技を組み立て直す」
「なんでホール?」
「ここじゃ雑音が多過ぎる」

 久城は、色素の薄いミルクティー色の髪を揺らしながら俺を引っ張っていく。
 その細く見える腕のどこにそんな力があるのか。
 痛いくらいに掴まれていて逃げれそうにない。
 俺は伸びた前髪の裏から久城を見つめ返した。

「俺じゃなくてもいいだろう」
「お前じゃなきゃダメだ」

 即答した久城が立ち止まる。

「お前が一番マシだ」

 そして再び歩き出した久城にズルズルと引き摺られながら俺は窓の外を見た。

 晴天。
 うっとおしいくらいの青。

「……最悪だ」

 それが久城蒼と、神野洸太の青春の始まりだった。