箱庭の呪縛


「そんな小せぇ奴のことなんか気にしなくていい。仕返しする価値すら無い。もう高校は卒業したんだ──今は俺達がいる」
 江藤は腕を組み、ふっと優しい笑みを浮かべる。あまりにも真っ直ぐで温かいその言葉は、黒く塗り潰されていた僕の記憶を、一瞬にして明るく照らした。
「そうだぜ透! 次そんなことがあったら、俺達が絶対に許さねぇ!」
 さっきまで怒りで肩を揺らしていた小川が、身を乗り出して力強く胸を叩く。味方でいてくれる二人の熱量が、今の僕の心に深く染み渡った。

「だから、復讐なんて変なこと考えるな。例えば透がSNSで同じように悪口でも書いたら、それこそ蓮根って野郎と一緒になっちまうだろ。ましてや暴力なんてもってのほかだしな──なぁ秀介?」
 江藤はそう言いながら、冷ややかな目線を隣へ向ける。
「うっ……俺のこと言ってんのか。別に本気で言ったわけじゃねぇよ、悪かったよ……」
「どうだか……。秀介は一度突っ走るとブレーキ効かないからなぁ。見張ってないとこっちがヒヤヒヤするもんだ」
 再び腕を組んだ江藤が、呆れたように分かりやすく小さな溜め息を零す。小川は眉を八の字に下げ、何とも言えない気まずそうな表情を浮かべた。
「──ふふっ」
 その状況を目の当たりにし、思わずクスッと笑みが零れる。二人のやり取りを見ているだけで、ずっと僕を縛り付けていた暗い呪縛が、少しずつ解けていくのを感じる。

「まぁ、それは冗談として──。俺は本気で、透は偉い(・・)と思うよ」
「偉い?」
 不意に江藤から飛び出した言葉に、思わず間の抜けた口調で聞き返す。組んでいた腕をほどいた江藤は、ゆっくりと僕の方へ向き直った。
「逆に、だ。よく波風立てずに今まで耐えてきた。透が17歳を生きていた時、その復讐を実行に移さなくて俺達は心から安心してる。もし透が道を踏み外してたらって思うと……俺達は胸が痛いよ。だって、こうして出会えなかったかもしれないんだからな」
「江藤……」
「これからは俺達と、キャンパスライフを満喫しようじゃねぇか。よく言うだろ? 自分が幸せになることが、一番の復讐だって」

 ──自分が幸せになることが、一番の復讐。

 その言葉が、僕の胸を強く打った。
 ずっと自分の心にへばり付いて消えなかった感情。過去の深い傷と憎しみに囚われ、自分の人生を惨めなものだと呪い続けてきた。だけど──目の前にいる二人は、違った。そんな僕をこころよく受け入れてくれて、はっきりと「友達」と呼んでくれた。
 過去のトラウマを告白した時、怒り狂う小川が
「こんな陰湿なことしやがって、恥ずかしくねぇのか!」
「間違ってるに決まってるだろ!」
 と叫んだこの言葉。それは、僕が何年も心に溜め込み、結局最後まで吐き出せなかった本音だった。小川本人はそんな自覚は全く無かっただろうけど、彼はその本音を躊躇(ためら)い無く代弁してくれた。
 自分の生きている世界の全てだった、あの箱庭。数えきれないほどの理不尽をぶつけられても尚、その世界の常識として飲み込むことしかできなかった、17歳の僕。スクールカーストに対して胸の内に秘め続けていた本音は、決して間違っていなかったのだと二人が証明してくれた。

「あぁ、ヤバい……。ごめん、二人共……」
 視界が急に潤い始めて激しく歪み、熱いものが頬を伝って零れ落ちた。
「おいおい透! 何で急に泣いてんだよ!?」
「バカか秀介、そんな大声出すな──。透の気持ち、少しは考えろって言ったばかりだろ」
「ごめん、二人共……。ありがとう……本当に、ありがとう……」
 手の甲で何度も目を拭(ぬぐ)う。だけど、抑えようとしても一向に涙が止まらなかった。今までどんなに酷いことをされても、涙だけは出なかったのに……。今は自分で制御できないほど、涙がとめどなく溢れて出てくる。

 スクールカーストを振りかざして嫌がらせをした蓮根に、これほどまで本気で怒ってくれる人がいた。
 自分の不甲斐ない過去に本気で向き合い、真剣に考えてくれる人がいた。
 そして、僕の痛みをまるで自分のことのように捉え、「これからは俺達と、キャンパスライフを満喫しよう」と言ってくれる友達ができた。
 それだけで──それだけで。僕の傷だらけだったトラウマは、充分すぎるほど報われた気がした。

「なぁ、小川……江藤……」
 ようやく少しだけ涙が落ち着き、震えている口を二人の前で開く。「おぉ、どうした?」「ゆっくりでいいからな」と、二人は優しい言葉をかけてくれる。
「下の名前で呼んでもいいか……? 秀介と、純……」
 僕がそう言った瞬間、二人は豪快に吹き出し、大きな声を出して笑った。
「あははっ! 良いに決まってんだろ! 逆にずっと小川って呼ばれてる方がよそよそしいと思ってたぜ」
「こればっかりは秀介と同感だ。透、友達にそんな許可取りは要らない。気軽に純って呼べばいいさ」
「ありがとう──。本当に、ありがとう──」
 もう、秀介と純に余計な気遣いなんて必要ない。僕は二人がいれば、これからの人生を絶対に楽しくできる自信があった。
 本当は第三志望の大学で、最初は入学するつもりなんて少しもなかったのに──。僕はそんな場所で、奇跡的な出会いを見つけた。大袈裟ではなく、僕は胸を張ってそう言い切ることができる。

 スクールカーストのトップに虐(しいた)げられたら、復讐すべきか? 不毛な問いを胸に浮かべていた17歳の頃の自分に、僕は自信を持って正解を送ることができる。
 同じやり方で復讐するな。それは、虐げてきた相手と同じレベルになってしまうから。
 一番の復讐は──そんな奴の存在を忘れるほど、自分が幸せになることだ。


-完-