箱庭の呪縛


 だけど……頭では分かっている。この怒りを当事者達にぶつけたい思いに駆られながらも、僕はその場を踏み止まるしかなかった。
「こんなことして恥ずかしくないのか!」
「お前ら間違ってるだろ!」
 そんなセリフが一つでもあれば、こんなくだらない空気をぶち壊すきっかけくらいにはなったのかもしれない。
 正論を突き付けることが、必ずしも正解だとは限りない。ここで僕が怒りの感情に身を任せ、波風を立ててしまえばどうなるか……。火に油を注ぎ、嫌がらせがさらに過激化してしまう可能性は極めて高い。正義感を振りかざすことが、結果としてカズを追い詰める凶器になり得るのだと思うと……前に踏み出すことが怖くなった。

 スクールカーストという、目には見えない異様な支配力。学校全体が驚異的な序列で抑圧され、カーストのトップとその取り巻きである生徒には逆らえない歪んだ雰囲気。カズがこんなに酷い目に遭わされていても、他の生徒は揃って見て見ぬふりを決め込んでいる。それがまるで、正しい世界線かのよう。
 声を上げれば、次は自分が標的にされる。高校という狭い箱庭で平穏に生きる為には、悪い意味で影響力を持つ生徒に見つからないよう世渡りすることが求められる。だからみんな、それぞれが持つ健全なコミュニティーを大切にする。面倒事には首を突っ込まない。
 そんな周りの反応を見ていると、自分はどうなんだ? と自問自答せずにはいられなくなる。
 カズのことは何とかしたい。だけど、次の標的になることは怖くてたまらない。惨めな自分に対する苛立ちと、一向に収まらない現状へのストレスは、日に日に僕の心を蝕(むしば)んでいった。部活中もどこか集中しきれず、大好きなハンドボールをしている時間でさえ、胸の重荷が降りることはなかった。

 そして、ある日の放課後。
 部活を終えて下校しようとした時、僕はスマホを教室の机に忘れたことに気づき、部活のメンバーと別れて一人で校舎へ戻った。オレンジ色の夕日が差し込む教室のドアを開けると、部活に入っていないクラスメイトが三人ほど、自分の机の近くで談笑していた。
「あれ、透じゃんお疲れ~。部活終わり?」
「うん、今終わったとこ。ちょっとスマホ忘れちゃってさ」
 そう言いながら自分の席へ向かい、机の引き出しからスマホを取り出す。談笑していたクラスメイトの一人が、特に深い意味もなく「ハンド部って今大変なの?」と声をかけてきた。
 普段の自分であれば、「まぁボチボチかな」と適当に受け流せただろう。だけどこの時の僕は、積もり積もった鬱憤(うっぷん)が限界を迎えていたのかもしれない。普段から言葉を交わしているクラスメイトだと気が緩み、抑え込んでいた本音が漏れ出してしまった。
「……なぁ、みんな。ちょっと聞いてくれよ」
 スマホを取り出してすぐに帰ろうとしていたのに、僕はいつの間にか三人の輪に入るように席に座っていた。
「蓮根達のあのSNSの投稿、いくらなんでも酷すぎないか?」
「あぁ~、うん──。俺達も見たよ」
 囁くような小さな声で不満を吐露する。
「一生懸命部活やってるカズをバカにして……何がそんなに面白いんだよって話だよな。自分らより凄い生徒が羨ましくて、どうせ妬(ねた)んでんだよ。マジでいい加減にしてほしいわ」
 軽い世間話のつもりだったのに、ストッパーが外れるとどんどん言葉が出てきてしまう。最初は相槌を打ってくれていた三人も、僕が蓮根の名を出してから、徐々に表情が強張(こわば)っていった。気まずそうにお互いの顔を見合わせ、一人が口を開く。
「まぁ……確かに酷いとは思うけどさ」
「透、あんまりデカい声で言わない方がいいぞ。蓮根に見つかったら面倒なことになるから」
 引きつった苦笑いを浮かべながら、濁したような返事が返ってくるだけだった。誰も僕の意見に深く同意しようとしない。彼らが蓮根を恐れているのは、僕から見ても一目瞭然だった。
「そ、そうだよな……悪かった。じゃあ僕もう行くわ」
 そう言って席を立ち、三人を置いて教室を後にした。
 僕はこの時、自分の愚痴が誰も救わないどころか、周囲を困惑させているだけだと痛感した。「はぁ~」と重く長い溜め息を零して、重い足取りで廊下を進み続けた。

   *

 そして……抑えきれずに吐き出してしまった愚痴が、僕の運命を大きく変えてしまうことになる。
 翌日の昼休みだった。一人で廊下を歩いていると、曲がり角の先で待ち構えていたかのように、見慣れない人影が僕の前に立ち塞がった。
「よぉ、お前が上杉って奴か」
 低く唸るような声。見上げると、そこには取り巻きを何人も従えた蓮根が立っていた。貼り付いたような薄笑いを浮かべて、鋭い視線で僕を見下ろしている。
「お前、昨日教室で俺達のことグチグチ言ってたんだって? 影でコソコソ陰口とか、ダサくね?」
 まるで相手を脅すような口調に、心臓がドクンと大きく跳ね上がる。
 昨日のクラスメイトの誰かが蓮根に密告したのか、それとも偶然その会話が聞かれてしまったのか──。どのようにして奴らの耳に届いたのかは分からない。背中に冷や汗が吹き出し、喉の奥がカラカラに渇いていく。
「べ、別に……陰口じゃなくて、事実を言っただけだ」
 必死に声の震えを抑えて言い返す。だけど、蓮根は底意地の悪い笑みをさらに深めながら口を開く。
「ははっ、威勢がいいねぇ。あの陸上バカ(・・・・)を庇(かば)ってヒーロー気取りか? あぁ?」
 蓮根はそう言って、僕の肩をぽんと叩いた。その手には、ずっしりとした威圧感が籠(こも)っていた。
 カズのことを面と向かって悪く言われ、ほんの少しだけ反抗心が芽生える。
「そ、そっちはどうなんだよ。カズのこと何も知らねぇくせに、あることないこと発信するのはダサくねぇのか?」
「へぇ──そんな虚勢も張れるわけねぇ、面白そうじゃん。次はお前がどうなるか、楽しみにしてろよ」
 その言葉を最後に、蓮根は取り巻きを引き連れて僕の後ろを歩いていった。

 周囲の生徒達が、遠巻きにこちらの様子を伺っている。だけど、誰も助けてはくれない。蓮根達が去った後、僕はその場に佇んだまま、自分の指先が微かに震えていることに気付いた。