秘密の囚人

……。
誰も言葉を発しない。栞の言葉がただ重く沈んでいく。
理解が追い付かないのは僕だけじゃない。目の前にいる美晴、いや、美里も、ただ立ち尽くしていた。
「ごめん、美晴。私間違ってたんだよ。美里も美晴も守りたかった。美里の人生を守りたかった。だから嘘をついたし、ずっと秘密にしてきた。でも、いくら守りたいからって、こんな嘘は間違ってたの」
栞は床に崩れ落ちた。
「ああ、……っうう」
その瞬間、美里が頭を抱えて苦しみだす。
「美里……?!」
僕から出た声は、やっぱり情けない声で、正義感だけはあってここへ来たのに、目の前で起きた真実にまだ頭が追い付いていなかった。
「違う、違う。美里はいる、私もいる。だって、あんなに一緒に耐え抜いたのよ。美里は私のために打たれてた。助けに行こうとしたとき、来ないでって私を守ってくれた」
「ええ、そうかもしれない。でも、あんたは美里なの。きっと、美里は誰かの代わりに打たれてるって思わないと耐えられなかったのよ。その傷も、私は美里の身体で何度も見たわ」
肘まで服をたくし上げているから、火傷の跡がしっかりと見える。僕は、初めて見る傷跡に、ここへ入ってきたとき、思わず息が止まりそうになった。言葉を完全に失った。あの笑っていた美里の中に、こんな傷があったなんて知らなかった。知ろうともしていなかった。
「ねえ……」
かすれた声で、美里がつぶやく。
「じゃあ、私は……なんなの」
その声は、今までのどの声とも違った。美晴でもない、美里でもない、そんな壊れかけの声。
「私は存在していないってことでしょ……あんなに守りたかった美里を、私は私で閉じ込めてるの……?」
ぐらりと身体が揺れる。包丁を持つ手も震えていた。
「全部、全部、今までのこと全部。美里を守るためだったのに、私は、私は……全部無駄な事ばかり……」
「違う!!」
気が付けば、僕は叫んでいた。
「違わない!!」
悲鳴のような声で美里は叫び返す。僕を睨むその顔は、美里だとはとても思えなかった。
「無駄なんかじゃないよ」
今度は落ち着いた声で言った。ゆっくり、美里へと一歩を踏み出す。
「美晴がいたから、美里は生きてこれたんだろ」
びくりと、彼女の肩が揺れた。
「一人じゃ耐えられなかったことを、二人で耐えてきた。あの火事の秘密も、美晴がいるから、美里は眠ることで身を守れた。それって、無駄じゃないだろ」
「……っ」
「でもさ」
喉が詰まりそうになる。それでも、言わなきゃいけない。
「誰かを傷つけて守るのは、やっぱり違う」
きっと美晴も分かってる。今自分がしていることが、どれだけ危険で、どれだけいけないことが。あんな作文をかけて、読める人だ。踏みとどまらなきゃいけない線をとっくに超えているからと言って、もう一度超えてもいい事にはならないこと、自分でもよく分かっているはずだ。
「それは、美里も、美晴も、栞も、あと俺だって、望んでいない」
沈黙が流れる。彼女が持っている包丁が微かに揺れた。
「じゃあ、どうすればいいの。私は、あの子を助けたいのよ」
弱い声、美里の目線の先には、硬直した加賀くんがいる。僕らのことを、ただ真っ直ぐ見つめる彼の姿。美晴の問いに、僕は一瞬答えに詰まった。正解なんて分からない。でもこれだけは言える。
「一人で解決しようとするな。俺もいる、栞もいる。……頼ってくれよ」
栞は立ち上がり、僕の横に来る。
「そうよ、美晴。一人で背負わなくてもいいの」
栞は優しい声で囁いた。その瞬間、カラン、と音がした。包丁が、床に落ちた音だった。彼女の膝が崩れ落ちる。
「……もう、つかれた」
ぽつりと呟いた。それは、十三年分の重さを含んだ一言だった。

あの後、彼女は栞に連れられて加賀家を出て行った。僕は、ただ立ち尽くしている加賀くんに声をかける。
「君が苦しんでいるのは分かっているから、あとは大人に任せてほしい」
そういうと、加賀くんは泣き出した。
「で、でも……母ちゃん守らないと……」
「うん、守ろう。でもやり方はこれじゃない。君は、君の『ナイト』の存在に気が付いているか?」
「……ナイト?」
僕は玄関を指さした。その先には、舞花ちゃんの姿。彼女は涙ぐみながら加賀くんに駆け寄り、抱きしめた。
「っ、よかった無事でよかった……私が、守るよ。私を頼って、加賀くん」
「……っ」
加賀くんは少し驚きながら、でも顔を赤らめていた。


警察署の前で、僕は一人立ち止まった。加賀くんに付き添い舞花ちゃんは一緒に入っていく。これで、一時的に保護はされるだろう。この件が、これで終わったなんて思わない。でも、こういうのはやはり、彼らの年齢では、大人に頼るしか術がないんだ。
「これで、よかったのかな」
思わず、そんな言葉が漏れる。法律的に正しいことをしたのに、胸の奥がずっと重い。
「わかんないよ」
隣に立った栞が、小さく答えた。車の助手席に座っている彼女は、小さい子供のように、背中を丸めていた。
「こうやって、あの頃の美里や、私ができてたら、何か変わっていたのかな」
栞は加賀くんの背中を見つめている。その目には、もう涙は流れていなかった。
「わかんないよ」
僕は栞の言葉を真似して答えた。
「ほんと、何もかも分かんない世の中だー」
栞は腕を広げて嘆いた。
「でもなんか、嘘辞めたからかな、身体が、軽くなった」
「十三年も、よく続いたよね」
少しだけ笑うその顔は、どこか疲れていて、でも昔の栞の面影を感じた。
「……なあ」
僕は、ゆっくりと口を開く。
「もしさ、美里が目を覚ましたら」
「うん」
「全部、話そう。今までの事、全部。美里は傷つくかもしれいけど、隠さず話そう」
栞は一瞬驚いたようなに目を見開いて、それから静かに頷いた。
「うん、そうだね」
助手席にいる彼女を見ると、疲れたのか、眠っていた。彼女も、十三年、美里として精一杯生きてきたんだ。嘘を、どれだけ吐いただろう。
これからは、もう何も知らなかったあの頃の僕とは違う。何も言えなかった僕でもない。ちゃんと彼女と向き合い、話し合おう。彼女の中から、嘘を、秘密を、無くそう。そして、隠すことで守るんじゃない。共に歩むことで守りたい。彼女の寝顔をみて、そう心に誓った。


「碧、どうしよう」
栞から焦った声で電話がかかってきたのは、それから三日後だった。あれから彼女は、仕事は辞めたくないと言い、相変わらず養護教諭として働いていて、あんなことがあったとは思えないほど普通の生活を送っていたはずだった。
「なに、どうした」
「明日、記事が出る」
「記事って、なんの」
「美里の、あの火事の日の……」
「いや、ただの一般人のことが記事になるか?しかも十三年前だそ」
「うっさい!出所は私も分からないけど、記事になるの、もしかしたらニュースにもなるかも……うちの出版社、上に掛け合ってみたけど止められなかった……」
それからあっという間に、美里の十三年前の火事の真相が世の中に明らかになった。

突然の出来事に頭がついていかない。エンストを起こしたかのように、テレビのニュースを見ながら、身動きが取れなかった。
『なんと当時、彼女が母親を殺したのではないかという噂が流れていたみたいですね』
『同じ高校に通っていた二名の方に話を聞きました』
そう言って出てきたのは顔にモザイクと声も変えられていて、本当に僕らと同じ高校に通っていたのかすら怪しい人物達だった。

―会社員 男性
『彼女ははっきり言って暗い子でした。当時彼女が発表した作文なんてよく覚えてますよ。とても印象的でしたから」
『その作文というのはどのようなものだったんですか?』
『いや〜それがまた怖くて。まるで犯罪者は悪くないと言っているような内容でしたね。何年も前で詳しくは覚えてませんが、そこだけは覚えてます。とても驚きましたし、当時その作文を聞いてみんなが思ったと思います、両親を殺したのは彼女なのではないかって。まああくまで噂でしたけど』
『なるほど。今回また年月を越えて同じ噂が騒がれていますが、その件についてどう思われますか?』
『それがね、当時その噂が流れてからすぐ、彼女引っ越しちゃったんですよ。もちろんみんなの目線とかで居づらくなって転校してったんでしょうけど、僕は絶対に図星だったからなんだろうなって思ってました。彼女の持つ独特な雰囲気はいい意味でも悪い意味でも人を惹きつける魅力がありましたからね。怪しいな〜ってそんくらいです』
『では当時追求する人はいなかったんですね?』
『んー、いなかったと思いますね。みんな聞きたくても本人は居ないわけですから、あれから特別彼女について触れる人はいなかった気がします。あ、でも彼女にしつこく付き纏っていた男は一人いましたね』
『その男というのは七瀬さんとどういう仲だったんですか?』
『いや〜きっとあいつは彼女のこと好きだったんだと思います。二人でよくいるの見かけてましたし、彼女もそいつの前ではよく笑うんです。あの二人お似合いで周りの奴らが入る隙なんて無かったんで。まあこれは嫉妬ですけど、人気者同士の恋愛ってうざいじゃないですか?だからよく思ってなかった人もいたと思いますよ。この記事を見て、顔隠れてますけど、これはきっとあいつだろうなと僕は思いますね。まあ知りませんけど』

―アパレル店員 女性
『彼女は、静かな子でしたね。ヘッドホンとかよく付けてて、話しかけたくてもかけづらい感じでした。作文、勿論覚えてます。私、いつも隣の子と喋ってたんです。そういう集会とかだるいんで。でもあの日だけは、なんか彼女に引き付けられたというか、静かに聞いちゃいましたね。正直彼女のことあまり好きではなかったんです。私の好きな人と仲良かったんで。でもなんかあれはみんな静かに聞き入ってましたね』
『この男性に見覚えはありますか?』
『あー!やっぱり彼です!私、ずっと好きだったんで分かります!えー、まだ関係続いてたんですね〜ちょっと妬けるな〜。まるで運命の二人って感じですね』
『彼は、彼女の共犯という事でしょうか?』
『んー、彼女も彼もそういうことをする人ではないと私は思いますけどね。当時は憎かったですけど、彼女も良い人でしたし、彼もとても優しくて人気者でしたから。誰がどう見てもお似合いな二人で、当時から運命って感じでした。でも、彼が彼女の共犯者なら、それはそれである意味「運命」って感じがしてうらやましいですね~あはは』

テレビの音が、やけに遠く聞こえる。まるで他人事みたいに語られる「彼女」の話が、現実感を失わせていく。なんでこんなことになってんだよ。やっと、嘘をつかず、前を向いて歩いていこうとしているのに。
「……なんだよ、これ」
独り言を言わないとやっていけない。事実なんてどこにもないのに。ただの憶測と、勝手な解釈と、都合のいい物語が、まるで“真実”みたいに、どんどん世の中に流れていく。美里はただの一般人だ。こんなこと、あっていいのかよ……。
スマホが鳴った。栞からの通知だ。
『あの子、電話に出ない』
その文字を見て、急いで美晴の電話にかける。何度かけても出てくれることはなかった。
学校に向かうと、校門の前にはたくさんの記者が集まっていた。とても近づけそうにない。
「七瀬先生は、学校に来てないよ」
振り向くと、加賀くんが立っていた。四日ぶりに会う彼は、なんだか少し大人びて見える。
「そうか、分かったありがとう」
その場を後にしようとすると、加賀くんが僕の腕を引っ張った。
「探してほしくないかもよ」
「え?」
「俺、先生の気持ち、わかる。もしあのまま、俺が父さんを殺していて、こうやって世の中にバレて、目の敵になったら、俺は舞花に迷惑をかけないように逃げると思う」
「……うん。それは俺も想像がつくよ。でもね、俺はもう彼女を手放すわけにはいかないんだよ。三度目にはさせない。俺の前から勝手にいなくなるのなんて、絶対に許さない」
僕は加賀くんの手を放し、その場を後にした。

どこに行く。どこへ逃げる。彼女の性格なら、人目につかない場所を選ぶはず。けど、今の彼女は、完全に姿を消すほど冷たい人間でもないはずだ。そう考えながら走っていると、栞から着信があった。
『なに、今ちょっと急いでるんだけど』
『記事、リークした人分かったの。こんな何年も前の事件が、こんなにも強い権力で掘り起こされるのおかしいと思ったから調べたら、速水咲良だった』
『……え?』
『私、咲良に碧と別れてほしくて、少し話したの、あの火事の事。全部じゃない、碧は事件に巻き込まれやすくてって話しただけ。あとはきっと、彼女が調べたんだと思う。それか、どこかで私たちの会話を聞いていたのかも。彼女、碧に執着してたでしょ。だから……』
『もういい、分かった。俺が話す』
『……うん、あの子の居場所は?分かったの?』
『ああ、今向かってる』
『そう……碧、あの子の事、よろしくね』
『ああ。必ず、連れて帰る』
栞との電話を切ってそのまま咲良にかける。すると、ワンコールもしないくらいで咲良は勢いよく声を出した。
『碧!よかったーかけてくると思ってたからずっと携帯持ってたの。あ、何も話さないで。初めて出会ったあのイタリアンのお店に来て。そこで話そう』
咲良は一方的にそう言い、電話を切った。僕は美晴の元へ向かっていた足を、あのイタリアンのお店に向けた。
「……咲良。記事、取り下げてくれないか」
足を組み、平然と座って僕を待っていた咲良に頭を下げた。
「えー?無理だよ、もうこんなにも世間に知れ渡ってるんだもん、私もこんなにひどく言われるとは思ってなかったな~」
声が弾んで聞こえる。どれだけのことをしたのか、何もわかっていないみたいだ。
「なんのために、こんなこと……」
「碧のためだよ?」
「……っ、咲良お前、おかしいぞ。そんなことする奴じゃ……」
「おかしいのは碧と栞ちゃんでしょ?!十三年前のことだから、水に流そうって?犯罪者なのに?!」
「……っ」
「なんでそんな人と、一緒にいること選ぶの?なんで私じゃなくて、よりにもよって犯罪者なのよ!栞ちゃんはもっとおかしいわよ!その現場にいたのに、黙ってたなんて……共犯者じゃない!知り合いの好で記事には書かなかったけど、二人とも、どうしてそんなにあの女に拘るの?!どうして、私はあの女に負けるのよ」
咲良の目には涙が浮かんでいる。そうか、元をたどると、こうなったのは僕のせいだ。美里への気持ちがあるまま、咲良と付き合った。咲良を抱いた。愛しているフリをして、彼女を傷つけた。僕は、一番ついてはいけない嘘を、いつの間にか吐き続けていたんだ。
「咲良……」
「やめて、そんな目で見ないでよ。優しくしないで、もっと軽蔑してよ」
「……っ、軽蔑なんてできるわけないだろ。確かに、俺はおかしい」
咲良の肩がピクリと動く。
「俺が中途半端な気持ちで咲良と向き合ったからこうなったんだよな。美里のこと忘れられないくせに、咲良と一緒にいること選んでた」
言葉にするたびに、自分がしてきたことがはっきりと形になっていく。
「傷つけたんだよな、ごめんな」
咲良は何も言わず、ただじっと僕を睨んでいた。
「でも、だからって、これは違う」
僕は咲良に一歩近づいた。
「誰かの過去を暴くことが、今を壊していい理由にはならない。これは美里だからじゃない。みんなに対して俺はそう思う」
「……っ」
「美里は、確かに罪を犯したかもしれない。でも、それは彼女一人で背負えるようなもんじゃなかっ」
言いながら、自分にも言い聞かせている気がした。
「俺も、栞も、逃げていたんだよ、向き合うべきものから」
咲良の視線が揺れる。
「だから、今、今度こそちゃんと向き合おうとしているんだ」
「なに、それ」
咲良が発した声は、絞りだ知ったような声だった。
「かっこつけてるつもり?お得意の正義感がそう思わせてるだけなんじゃない?」 
「そうかもな」
思わず、苦笑が漏れる。
「でも、もうそれでもいいんだ」
まっすぐ、咲良だけを見つめた。
「俺は、美里を見捨てない」
「……っ」
「咲良、お前のことも、逃げずにちゃんと終わらせる」
その言葉に、咲良の表情が崩れた。怒りでも、悲しみでもない。どうしようもないやるせない感情が混ざった顔だった。
「ほんと、最低。最低だよ、碧」
「……うん」
「おかしいよ、おかしいおかしい。幸せになる道が、私がいるのに」
「……ああ。分かってる。咲良は、素敵だと思うよ。俺にはもったいない」
「そうよ。私は素敵よ。いいの?まあもう別れてはいるんだけどさ」
「ああ。気持ちは、絶対に変わらない」
僕のその言葉に、咲良はため息をついた。
「これ以上は広げないように、動く」
「……え?」
「記事の事よ。……全部壊したいわけじゃないの。ただ、許せなかっただけ。碧が、片手間で私との別れ話したのが許せなかった。私のこと、見てなかったでしょあの時。私の後にいる、美里さんを見てた。それが、ただ許せなかったの」
咲良のその言葉は、本心からくるものだった。
「……ごめん」
少しの沈黙が流れる。こへきてから短いやり取りだったのに、やけに長い時間が流れた気がする。咲良は何も言わずに立ち上がった。「行くのか」と、声をかけると、こちらを振り向きもせずに、「ばいばい、碧」と小さな声で口にしてお店を出て行った。


きっと、あの場所に彼女はいる。そう信じて走った。電車で二時間の田舎町。久しぶりに戻ってきた地元の空気は、とても澄んでいた。
何度も通った帰り道。一緒に通った習字教室。何気ない会話をした公園。そして、一緒に見た夕陽。
息を切らしながらたどり着くと、
「……やっぱり」
そこに、彼女はいた。ベンチに座って、俯いている。近づく足音に気が付いたのか、ゆっくりと顔を上げた。
「……なんできたの」
その声は、どこか諦めたような、情けない声だった。
「来るに決まってるだろ」
間髪入れずに返す。
「よく、ここが分かったね」
「分かるよ、当たり前だ」
「……はは、さすが、和泉くん」
乾いた笑いが漏れた。
「全部、バレちゃった。美里の人生はもうおしまい。ってことは、私の人生も終わったのね」
「終わってないよ」
そう言って、彼女に近づいた。
「ううん、だって世間にバレたんだよ。私が何したかも、どういう人間かも、全部」
「違う」
僕はすぐに否定をした。
「違くないよ、何言ってんの」
彼女はまた乾いた笑顔を見せた。
「どうしよう、これから。……怖いの。あの高校の頃とは持ってるものが違った。仕事も、周りの人も、あの頃と比べたら大事なものが沢山あった。それが全部なくなる。私からみんな居なくなる。すごく怖い」
あの頃の彼女は、クラスの奴らに白い目で見られても表情ひとつ変えないほどで、僕の前から居なくなったあの日も、こんなにも傷ついた顔はしていなかった。僕が知らない彼女が生きた八年の年月は、ちゃんと彼女を人間にしたんだ。美晴という美里の心の拠り所として生まれた人格が、一人の人間として、きちんと成長した。その事実が、今の僕には嬉しく感じる。彼女は、美里は、この八年間ちゃんと生きて、成長したんだ。
「居なくならないよ」
「俺は、居なくならない。栞も、絶対居なくならない」
「……っ」
「もう一人にはさせない。……だから、勝手にいなくなるな」
あの時、あの屋上で、この言葉が言えてたら。あの火事があった日、無理にでも病院をつきとめて、この言葉を彼女に言えてたら。ずっと、ずっと彼女に言いたかったこと。
「……好きだ。何があっても、一緒にいる」
泣いている彼女を抱きしめた。彼女の華奢な体が、泣いている息遣いが、やっと触れられた感触が、愛おしい。
「……和泉くん」
彼女の声色が変わった。
「私も……一緒にいたい……」
僕の顔を見上げる表情が、目線が、笑い方が。あの頃の美里そのものだった。百合の花のように白い肌。綺麗な長い黒髪。可愛い笑顔。
「……美里」
僕の口からこぼれ出した声に、美里は眩しい笑顔で笑った。この瞬間を、僕は絶対に忘れたくないと思った。

秘密は、ひとつの嘘じゃ足りない。嘘に嘘を重ねて、それを真実にしていくしかない。
でも、その秘密や嘘の先にあったものから、目を逸らさずにいたいと思った。