どうして私が美里のフリをしているのか。こんな理由、誰が分かってくれると言うのか。
私が私の人生を手放したあの日から、まるで生まれ変わったみたいだった。不安がなかったわけではない。それでも必ずうまくやってみせると覚悟を決めた。
私たちは仲のいい双子だった。幼い頃の記憶の殆どを忘れている中で、なんでも色違いで着させられていたことだけを覚えている。美里がピンクで私が水色。双子なのに私は生まれた時から髪の色素が薄く、茶髪だった。美里は綺麗な黒髪。それは顔が瓜二つである私たちの唯一の見分け方だった。
物心ついた時くらいから、私は生活の殆どを家の中で過ごすようになった。小学校に行かないといけないのに、体が、心が動かない。精神障害を抱えていた私は美里とは違う小学校に通うことになった。その頃から、母は私に冷たくなった。美里と違う小学校に通うことになったのも、私を想ってのことじゃない。美里が変な目で見られないようにと考えたんだと思う。それは数年でエスカレートして行き、母の中では出来損ないの私は居ないものとされていた。それでも、美里は私と仲良くしてくれた。私の部屋にお菓子を持って遊びにきてくれて、母に知られると怒られるから、「内緒ね」とよく言っていた。そんなキラキラした美里が私は好きだった。双子なのに、こんなにも中身が違うなんてと、ため息が出る日がなかったわけではない。美里になれたらと思ったこともあった。それでも、美里は私の憧れで、大好きなの姉だった。それなのに、あの日から全てが変わった。
ガシャン!!!
食器が割れる音がした。その大きな音はリビングから聞こえた。手が滑って落としたのかな、なんて言う私の思いは簡単に裏切られ、次々に割れていく食器たち。もしかして強盗でも入ったんじゃないかと思い、恐る恐る部屋を出てリビングのドアの隙間から覗くと、そこには母の姿をした怪物がいた。一瞬で恐怖に苛まれ、体が動かなかった。怪物の標的は美里だった。やめてと泣き叫ぶ美里の声なんて聞こえていないみたいだ。暴走している。助けないと。でもどうする?私も叩かれるかもしれない。どうする?とグルグル頭の中で考えていると、美里と目が合った。息が詰まる思いだった。ガクガク震える体を抑えながらも、美里から目を逸らせなかった。すると、美里は自分の首を横に振った。「来ないで」と口パクで私に訴えている。どうして?助けないと、美里の腕から血が出ているのに。そんな私の思いとは裏腹に、体は一歩も動かなかった。
次の日の放課後。母が買い物に出掛けてから、美里は私の部屋を訪ねてきた。
「怖いところ、見せてごめんね」
そう私に謝ってきた。
「どうして謝るの?私何もできなかった、こ、怖くて何も…」
「いいんだよ、美晴は何もしないで。ほら、余計にお母さん怒るかもしれないでしょう?」
「そうだけど……」
「実はちょっと前からこう言うのあったんだよね。お父さん、日曜日にゴルフに出かけるようになったでしょう?」
「うん、確か仕事の……」
「そうなんだけど、お母さんは浮気してるって思ってるみたいなの。最初は私の言葉に敏感になったくらいだったんだけど、今では自分でも制御できないほどになってるみたい」
「そんなの、知らなかった……ずっと家にいるのに私は……」
「いいんだよ、妹を怖い目に合わせたい姉はどこにもいないよ?」
「妹って、私たち双子じゃん」
「妹は妹なの!私の方が先に生まれたんだから!」
美里は笑っていた。昨日あんな目にあって、腕はあざだらけなのに、いつもと変わらない笑顔で笑っていた。
「どうして笑ってるの?逃げようよ、私も一緒に行くから」
「……ううん、私はお母さんのそばに居る。お母さんもわかっていると思うんだよね、やってはいけないことをしたって。いつも最後にはごめんねって私に謝るの。許して、愛してるって言うの。自分じゃなくなるくらい、お父さんのことが好きってことでしょ?別に悪いことじゃないと思うんだよね、その気持ちは」
「でも!何があっても、暴力はだめだよ……そうでしょう?」
「そうだけど、きっと今だけだから。すぐ元のお母さんに戻るよ。そしたらお母さんに、私にしてきたこと黙ってるから、美晴と一緒にお出かけしたいってお願いするの」
「……私のため?」
「ううん、自分のため。やっぱり美晴も家族だからさ!私、家族みんなで出かけたいんだ!遊園地でも、水族館でも、無理なら公園でもいいや!一緒に出掛けて、写真が撮りたい!」
「……美里はどうしてそんなに前向きでいられるの?こんな酷い目に遭ってるのに」
「うーん、いつも前向きで、馬鹿みたいに明るくて、正義感溢れる人を知ってるからかな」
美里は誰かを思い浮かべて、普段とは違う満ち足りた微笑みを浮かべていた。
「……好きなの?その人のこと」
「え?まあ、うん、好きかな……内緒だよ?誰にも言ってないんだから!」
それから美里は嬉しそうにその彼のことを話してくれた。和泉碧と言う名前を私はそこで初めて知った。顔写真も見せてくれて、なかなかにイケメンだと思った。写真に写っている笑顔から、「馬鹿みたいに明るい人」と美里が言っていたことがなんとなく伝わった。
中学一年生になった時には、お母さんの暴走は落ち着いていた。美里もあまり打たれなくなって、学校に休まず行くようになったけど、相変わらず私は家の中にいた。
ある日、リビングに行くと、お母さんが何かぶつぶつ言いながら携帯を見ていた。
「お母さん…?」
母が私の声に反応し振り向いたのは久しぶりだった。いつもいないものとされて生活していたからか、振り向いたその姿が嬉しかった。なんて気持ちはまた簡単に裏切られる。
ーパリンッ!!
大きな音にびっくりして音の先を見ると、私の足元で花瓶が割れていた。チクッとした痛みを感じて足を見ると、ガラスが当たったのか、ふくらはぎから血が流れていた。花瓶を投げたのは、目の前の母だった。
すると、逃げる時間もないまま、母に体を押され倒れ込んだ。
「どうして私じゃダメなの!なんでなの!」
そう言いながら、私は打たれ続けた。怪物になった母が、私の上にのしかかる。美里はいつもこれを見ていたんだ。そう思ったら、いつの間にか気絶していた。
「ごめん……ごめん……」
と私の手を握り、泣いている母の声で目が覚めた。時間にしたらそんなに経っていないようだけど、母の豹変っぷりはとんでもなかった。
「ごめんね……美里」
母の声に私の全身が凍った。母は私を美里だと思って打っていたんだ。あんなにも凶暴な顔で、あんなにも怒鳴りながら。
お母さんの中には、やはり私は存在すらしていなかったんだ。そう思ったら、全てがどうでもなった。初めて感じた感覚だった。
どうやら、父は本当に浮気をしていたみたいだった。母は探偵を雇い、調査結果を受け取ったところだったらしい。携帯を見てぶつぶつ何かを話していたのはそのことだったみたいだ。
家の中はその日から最悪だった。毎日父と母が口論していて、私と美里はいつもそれを聞いていた。束縛が激しい母の相談をしていたら、そう言う関係になってしまったと、父は言っていた。父は別に最低な人ではない。それは娘である私と美里は口が揃えて言えるほどだった。目の敵にされていた私でも、父はいつも優しかった。好きなおもちゃもお菓子も洋服も買ってくれて、父がいるから生活ができたと言っても過言ではない。もちろん、美里が打たれていることなんて知らない呑気な人でもあったけど。
そして、あの日がやってきた。丁度その日は美里が学校をずる休みして、リビングに居づらいからと、私の部屋で過ごしていた。母と二人、のんびりリビングで映画を見ていた父は、仕事の接待で有休消化中なのに呼び出された。それは確かに仕事の呼び出しだったけれど、その時の母の目には、あの女のところに逃げる旦那としか写っていなかったに違いない。
父が私たちに「行ってくるね」と部屋のドアから顔を出した。私たちは揃ったトーンで「行ってらっしゃーい」と答えた。
そして美里と二人で動画を見ていると、リビングの方から口論する声が聞こえた。
「はあ……」
とその時に美里がため息をついたのを覚えている。
「お父さんまだ行ってなかったんだ」
「確かに、何かあったのかな」
そんな会話をしたのも覚えている。
二人で手を繋ぎリビングのドアを少しだけ開けると、父と母は揉み合いになっていて、次の瞬間、父が母を突き飛ばした。
「…!!!」
私たちは驚き、互いの手を強く握った。
「ああもう、面倒くさいんだよそう言うのが!お前になくてあいつにあるものを教えてやろうか。余裕だよ、余裕!妻なら堂々と、夫の帰りを家で待ってろよ!なんで毎日、今日も疑われてんのかとか無駄なこと考えて帰ってこないといけないんだよ!ストレスなんだよ!仕事でも頭下げて、家でも信じてもらうために頭下げろってのか?」
「……」
「……俺たちそろそろ離婚を考えよう。お互い無理して生活続けても、あれだろ…」
「……」
「子供の親権は話し合おう。大事な娘だ。俺は引き取りたいと思ってる」
母はぐったりと座って、放心状態になっていた。私たちは互いに目を合わせた。美里の目には涙が溜まっていて、嬉しそうだった。離婚……そうか、離婚して親権が母に渡らなかったら、こんな生活から抜け出せるんだ。「大事な娘」やっと言ってくれた父の言葉がすごく嬉しかった。きっと美里はその言葉に一番涙を浮かべていたんだと思う。私たちが嬉しさのあまり抱き合った直後だった。
「ううっ……お前何して……」
ガタンと何かが倒れる音がして、思わずリビングのドアを二人で開けて入ると、父が血まみれになって倒れていた。母の手には包丁があり、それは赤い血で染まっていた。ゆっくりこちらに振り向く母は、あの時見た怪物の顔になっていた。
「あんたのせいで……」
母はぶつぶつと何かを言っていた。ゆっくり近づいてくる母に、怖くて足が動かない。包丁から血がポタポタと床に落ちていて、今にも襲ってきそうだった。気が動転している母と目が合ってしまったのは、美里ではなく私だった。
「や、やだ。来ないで……」
思わず出てしまった言葉は母を余計にイライラさせた。腰が抜けて動けない。私の目の前で母が包丁を振りあげた瞬間、私は咄嗟に目を閉じた。
「あんたなんて!産まなきゃ……」
私が一番聞きたくなかった言葉が、途中で途切れたことに違和感を覚え、目を開けると、血の雨が降っていた。
ドサッと音を立てて倒れ込み、首から血を流している。そんな母の隣に佇んでいたのは血まみれのカッターナイフを持った美里だった。絨毯が血に染まっていく。その光景に、私たちはしばらくの間何も話せなかった。
「ああ……うっ、ど、どうしよう」
我に戻ったのか、美里が泣き出した。カッターナイフは床に打ち付けられ、力が抜けたように座り込んだ。
「美里……」
「ど、どうしよう美晴……私が私じゃないみたいだった、こんなのいつものお母さんと一緒、怖い、怖いよ」
血がついている両手を見ながらヒクヒク泣いている美里を私は抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫」
私が美里を宥めている時、玄関から声がした。
「美里ー?玄関あいてたんだけどー?大丈夫ー?」
私が……誰?と思ったのとほぼ同時に、「栞ちゃん?!」と美里がひどく焦った表情でつぶやいた。
「友達?」
「うんそう。どうしよう、入ってきちゃう」
「とりあえず、美里が対応して。私じゃあれだし、手は後ろで隠して、そこのドアからなんでもないよーって廊下に顔出して」
「わ、わかった」
美里の顔についた血を、私の着ていた服で拭き取り、美里は小走りで栞ちゃんと言う友達のところへ行った。その時の私は、どうしてだか母を殺した美里よりも落ち着いていたように思う。美里を守る方法を必死に考えていた。
「ま、待って栞ちゃん!!」
美里の大きな声がして振り向くと、あの写真の和泉碧の隣に写っていた女の子が立っていた。
「何……これ……」
血まみれのリビングと、倒れている父と母に驚くのと同時に、私の存在にも驚いているようだった。
「栞ちゃん、こ、これはね。えっと」
「初めまして美里の双子の妹の美晴です」
「双子……」
「言うタイミング逃して、そう言えば双子だって言ってなかったね……ごめん」
いや、言い忘れていたんじゃない。きっと母親から口止めされていたんだろう。困らせたくなかった美里はそれを守っていただけに過ぎない。
「そんなことより、これは……どう言うこと……?」
「これは……」
「説明すると長くなりそうだから簡潔に言うと、お父さんを刺したお母さんを私が殺したってこと」
自分でも不思議なくらいに、淡々と言葉が出てくる。栞ちゃんと言う子も、もっと驚いてもいいのに、肝が座っていた。顔色ひとつ変えずに、私の言葉を受け入れた。なんだか、私はそれが気に入らなかった。
「美晴何言ってんの、私が……!」
「違う!私がやったの。いい?美里、私がやったの」
美里を犯罪者にさせたくないと言う気持ちが栞ちゃんに届いたのか、「ああ、そう言うこと……」とぼそっと呟いていた。
「と、とりあえず警察に電話する?」
慌てながら受話器を握ろうとする美里。
「いや、指紋とか状況とかで美里が母親を殺したことがバレるよ」
栞ちゃんは冷静な口調で言った。この時、私と同じ気持ちなんだと確信した。
「いっそのこと二人も傷ついて、私が発見したことにする?そしたら、生き残った可哀想な娘たちになれるかも」
この状況を私たちに有利に持っていくにはどうしたらいいんだ。私たち三人は考えた。どうしようと考えている中、本棚に置いてあるキャンドルが目についた。それからは何かが私を蝕むように、頭の中が変になった。
「火を放とう」
気がついたら、そう口に出ていた。
「火?」
「でもそんなことしたら下手したら他の住人も危ないんじゃ……」
眉を八の字にしながら弱弱しく口にする美里。
「私だってそんな大きな炎を作るつもりはないよ。事故に見せれたらいいの。そこのキャンドルが倒れて、火が燃え上がったってことにしよう。あ、あと、お母さんがお父さんを刺したのは警察に話そう。それで気が動転して気絶してたお母さんは火が燃え上がったことに気が付かなかった。私たちは部屋にいて、煙たい匂いがしたからリビングに行くともうどうすることも出来ない状況だった。逃げようとしたけど間に合わなかった。煙を吸って、意識が飛んだ。そしたら私と美里はその火事に巻き込まれて、運良く生き残った娘たちになれる」
息を吸う間もないくらいに次々と言葉が出てきた。美里は驚いている顔をしているのに、やはり栞ちゃんは肝が座っていた。
「うん。そのシナリオいいかも。炎が大きくなる前に私が通報すればいいし。焼死した人って解放ができなくて死因がわからないことが多いってテレビで見たことある。お母さんの死因はあくまで焼死ってことにできそう」
「で、でもいいのかな、私がこの手で殺ったのに……」
「大丈夫。あれは、私を助けるために殺ったんでしょう?美里は悪者じゃないよ。私を助けてくれたヒーローだよ。じゃないと今頃、私がああなってたかもしれないし……」
もうきっと息はないのに、母の今にも動き出しそうな姿に背筋がゾッとした。父は……どう見ても助けられない。ピクリとも動かないし……。
「わかった。美晴の言うとおりにする」
美里は私の手を握った。握る強さが強くて、今後起こるであろう出来事に対する覚悟が滲みでいていた。
「でも、栞ちゃんは全く関係ないふりをして。通報する時も、名乗らないで」
「え?でも……」
「お願い」
「確かにそっちの方がいいかもしれない。たまたま起こった火事にたまたま友達が居合わせるのは不自然かも」
「……そう。分かった。名乗らず通報する」
「ありがとう」
美里の友達を巻き込みたくない気持ちが私の心に突き刺さった。美里に友達がいることは知っていたけれど、こんな場面に遭遇してもこんなにも動揺することなく、自分を守ろうとしてくれる友達だなんて知らなかった。ただの友達じゃない。余程深い関係なんだろうと思った。私にはそれがすごく羨ましかった。
さあ、どうしようかと三人の目の前にキャンドルとチャッカマンを置いた。うまく燃え上がるように、ストーブの灯油をリビングに撒き散らした。灯油の匂いが鼻を突き刺して、吐き気が込み上げてきそうな感覚があった。
「二人とも、ちゃんと火が回らないところにいてよね。煙を吸ったってことだけで十分なんだから」
「分かってる。上手くやるよ」
「栞ちゃん……ほんと巻き込んでごめんなさい……このこと、和泉くんには言わないで」
「分かってる、言わない。私は、美里を見捨てたりしないからさ。早めに通報するし、すぐ消防が来ると思うからその後は……頼んだよ、美晴ちゃん」
「うん任せて」
栞ちゃんは私と美里を気にしながらも、玄関を出ていった。もちろん、火をつけるのは私の役目だと思った。母から私を守ってくれた美里を、次は私が守る番だと思っていたからだ。
「やるよ……」
「本当に、うまくいくよね。大丈夫だよね」
「大丈夫。私たちは可哀想な娘たちだよ」
震えている美里の手を握り返すと、視界の隅で何かが動いた感覚があった。
「み、みさと…」
そう微かな声を出していたのは、あの母親だった。大量の血を流しているにも関わらず、息があったみたい。かといって、立ち上がりそうにはない。それでも私たちは酷く驚き、なんとかその場に立つことが出来ていた足が震えた。私も美里も息が上がった。この母親は、最後まで「みさと」なんだ。そう思うと頭に血が上る。
私は今までこの人に何をされた?
まるでいない人間みたいに扱われて、存在を否定された。
私も娘なのに。 私だって心があるのに。
私だって、本当は可愛がられたかったー……。
それからは、自分でも記憶が朦朧としている。確実なのはその時、次は私が怪物になったと言うことだ。急いでキャンドルに火をつけて、母親目掛けて力一杯投げた。灯油のかかった母親の体は一気に燃え上がり、絨毯やソファーにも一気に燃え移り、びくともしない父親も火に包まれた。
目の前に広がったオレンジの光の中で、唸るような声が響いた。この時の光景が私と美里を後に苦しめることになるとは、満ち足りた気持ちになっていたこの時の私は一ミリも思わなかった。これで全て終わると、そう思った。
ふと美里を見ると、私とは正反対な表情をしていて、そこで我に返った感覚があった。煙が一気に部屋に充満し、美里の手を引いてリビングを出た。目の前がぐらつき、意識が遠のく中、私はこれからの未来のことを考えた。
もちろん、目の前に広がっていたのは、美里と二人で笑って暮らせる未来だった。和泉碧にも、必ず会いたいと思ったー…。
次に目を開けた時には、病院にいた。隣にはまだ寝ている美里がいて、心の底から安心した。
「美里ちゃん……大丈夫?!」
病室に入ってきたのはお父さんの妹夫婦で、私を美里と間違えているみたいだった。最後に会ったのは何年前だろうと、思い返すこともできないくらいに随分前だ。私が頷くと、「よかった、目を覚ましてくれて」と安心した表情を見せた。その後両親の話を聞くと、言いづらそうに焼死したことを教えてくれた。
どうやら、私たちの計画は上手くいったようだ。警察に話を聞かれたけれど、シナリオ通り答えた私たちは見事に、「可哀想な娘たち」になることができた。
一つ誤算だったのは、美里が目を覚まさなくなったこと。事件のショックから、自身の中に閉じこもってしまったのかもしれない。美里自身の思いで、目を覚ますことを拒んでいるのかもしれない。と、医者が言っていた。
いくら声をかけても美里は起きなかった。体に異常は見当たらないのに、目を覚まさないなんて、私と栞ちゃんのシナリオにはこんなことは書かれていない。
心優しい美里が、耐えられなかった現実を、私はもうどうすることもできなかった。最後に見た美里の怯えている表情だけが、何度も夢に出てくる。
そんな時、栞ちゃんからある提案をされた。
「え?今なんて?」
「だから、あんたが美里として生きるんだよ」
「……?」
「美晴はいいの?美里の人生がこれで終わっても。こんな病院で一生寝たまま暮らすことになってもいいの」
「それは……よくないけど」
「だったら、美里が目を覚まして退院した時に、普通の生活に戻れるように、それまで美晴が美里になって普通の生活を生きるの」
「でも、美里はそれを望んでるのかな、第一、美里と私は双子でも性格が全然違くって……あと、上部だけ美里が普通の生活をしてるってことにして意味あるのかな」
「あるんだよ……あの事件以来、美里はあんなんでしょ……。人生諦めてる。ていうか、きっと頭の中で、いつ死んでもいいって思ってる。だってそうでしょ、ショックで目を覚ましたくないなんて……私は、美里にそんな風に思ってほしくないし、美里がそうなってるって周りに知られるのも嫌なの。特に碧。知ってるでしょ和泉碧。あいつは美里のことが好きで好きで仕方がないんだよ。そんな相手がこんな状態だって知ったらショックだと思うし、美里も知られたくないと思うの……だからお願い……美里として生きて」
栞ちゃんが和泉碧の名前を出した時、なぜかパズルが綺麗にハマったような感覚になった。私は、あの母親のせいで生きているのか分からない状態で生活してきた。周りも、私がいることを知っている人は少ない。この状態がこんなにも好都合だと思ったことが過去にあっただろうか。きっと、美里が目を覚ましたら、「どうして自分の人生を生きなかったの」と怒られそうだ。でも、私は自分の人生より、美里の人生が崩れ落ちる方が、許せない。この時、本気でそう思ったのだ。
「わかった。美里の人生を生きるよ」
「……ありがとう、ありがとう美晴」
「うん、私も美里守りたいから」
「……秘密は、一つの嘘じゃ足りない、嘘に嘘を重ねてそれを真実にしていくしかない。美晴、一緒に頑張ろう」
「うん」
栞ちゃんは私を優しく抱きしめた。そして、強く握手をし、計画を練るために歩き出した。背中を向けて歩き出した栞ちゃんは、まっすぐ前しか見ない。私の顔色は伺わない。それでもいい。だって私たちは美里を救うための完璧なシナリオを考え、嘘を吐き続ける共犯者なのだから。
私たちの計画は完璧だった。
事件後、私は施設で暮らすことになったけれど、誰にも引き取られなかったことがむしろ好都合のように、美里になりすました。そこにいた子たちはみんな、私を「みさちゃん」と呼んで親しんでくれた。人と話すことに慣れていない私でも、月日を重ねるごとに人と関わることの楽しさを覚えていった。そして、美里として生きることへの満足感が増していった。私としてじゃなくて、美里だったら……と考えて行動すると、気持ちがいい。人に優しくできるし、野良猫にも笑いかけられる。たまに会いにきてくれていた栞ちゃんにも、「美里みたいになってきた」と褒められた。
美里として生きていた高校2年の冬。街中で偶然、和泉碧を見かけた。写真でしか見たことがなかったけれど、何故かすぐに彼だと分かった。楽しそうに友達と談笑をしている。中には女もいて、親しげだ。いや、むしろ、女からの好意がダダ漏れと言ったところだった。
その姿を見て、奥歯を噛み締めることを辞められなかった。美里がこれを見たらどう思うか、そんなこと考えるまでもない。いても経ってもいられなくなった私は、計画にはなかった「転校」をすることにした。髪を黒く染めてみると、鏡の中に映った私は美里そのものだった。まだまだ不器用な笑顔を、美里っぽくできるように何度も練習をした。
そうして迎えた転校初日。かつて美里と同級生だった子達や、一番近くにいたであろう和泉碧までも、私を美里と思い疑わなかった。むしろ、和泉碧に至っては、私を酷く意識しているようだった。突然居なくなったかつて仲が良かった子が、偶然転校してくるなんて、ドラマでしか見たことがない。自分をドラマの主人公だと思っているだろう、そうだ、それでいい。そのまま美里を和泉碧の中でヒロインにしてくれ、と願った。
なかなか話しかけてこないから、私から和泉碧の元へ行くことにした。美術の先生がいなくなった隙を見て教室へ入ると、和泉碧が驚いた顔で私を見つめた。美里ならなんて言うだろう。無言はきっと違う。そう思った末、「和泉くん……」と、私としては初めて口にする、彼の名前を呼んでみた。名前を呼んだだけなのに、和泉碧は初心な反応を見せた。つい笑ってしまいそうになり、手で口元を隠した。
それからは美里だったら考え、今まで通り美里を演じた。「どこにいたの?」という質問の答えは用意してあった。栞ちゃんと考えたシナリオだ。「施設にいると言ったら、碧だったら絶対見にくるから禁句」栞ちゃんがそう言っていたことを思い出した。
美里として和泉碧と関わっていくにつれて、徐々に私としても彼に惹かれていることに気がついた。それはきっと、美里に向けられた彼の優しい眼差し、自然と守ろうとする行動がそうさせたんだと思う。だから、私に向けたものではないと何度も思い込んだ。これは美里だからしてくれている行動だと、強くそう思っても酔いしれていく自分がいた。
同時に、自分がとんでもないことをしている事に気がつき始めた。これから私として、彼に想いを伝えたり、会うことは許されない。じゃあ今芽生えてしまったこの感情はどこへいくの?美里が目を覚ましたら、私はどうなるの?また、家に閉じこもって過ごすの?
どうしよう、全て彼に言ってしまいたい。全て打ち明けて、楽になりたい。
和泉碧と過ごすうちに、美晴として私を見てほしいと思ってしまった。美里が一番大事で、美里のために始めたこのシナリオが、こんな風に崩れそうになるなんて思わなかった。とっくに、自分の感情なんて捨てたと思っていたのに。和泉碧の真っ直ぐな目が、私をこうさせた。
栞ちゃんに会った夏休み、無断で転校したことに彼女は怒っていた。
「美晴、あんたなんでわざわざ碧がいる学校に転校すんのよ……色々都合が悪いと思って違う学校へ行かせたのに……」
「勝手してごめん……でも美里も和泉くんと同じ学校へ通いたいかなって思って」
「まあ、こうなったならしょうがないけどさ、気をつけてよ?碧は美里のことになると熱くなってしつこいんだから」
「うん、普通に過ごしてるよ」
「そう、ならいいけど」
「でも……」
「でも?」
「私、和泉くんの事……」
「ちょ、ちょっと待って、やだ、やめてよね、まさか好きになったとか言わないよね?」
「……」
「ま、まあいいや、そうよね、美里としてだったら好きになるわよ、美里も碧のこと好きだったんだし?でも、そこまで演じなくても……」
「違う、私として。美晴として好きになったの」
「……」
「ごめん、シナリオに無いことして」
栞ちゃんは黙っていた。怒られる覚悟はできている。私たちは美里を守るための共犯者だ。それなのに、勝手な行動をしているんだ、怒られて当然。
「双子ってすごいね……だから違う学校にしたのに」
独り言のように呟いた栞ちゃんは、怒っていると言うよりかは、悲しんでいるようだった。
「和泉くんに全部話してもいいかな」
恐る恐るそう言葉にした私を、栞ちゃんはものすごい勢いで睨みつけた。
「は?ダメに決まってんじゃん。何急に、碧のこと好きになって、美里として生きてる自分がしんどくなった?」
「そう……じゃないけど……やっぱりこんなことおかしいのかもって」
「いやいやいや、私たちあの時共犯者になったんだよ?決めたよね、美里が目を覚ました時に普通の生活ができるようにするって、美里の人生を守るって」
「そうだけど、和泉くんを騙すのは違う気がして」
「え、でも。その選択を勝手にしたのは美晴だよ?こんな計画、私たちにはなかったのに、勝手に転校して、好きになって、しんどくなって……。美晴、碧が好きなのは美里なんだよ。あんたが本当のことを言ったところで、軽蔑されるのがオチ。美里はどこだ!って騒ぎ出すわよ」
「そんなの分かってる、けどこれ以上和泉くんに嘘つくの辛い……だから全部言って分かってもらえばー……」
「だからダメだって!!!!」
栞ちゃんが声を荒げた後、和泉碧が突然現れて、私たちはすぐにその場を後にしたけれど、その後も栞ちゃんからは、「美里の人生のことを考えて」と説得のメールが届いた。
確かに、私が自ら選んで始めたことなのに、和泉碧に全てうち明けてしまえば、彼自身も巻き込むことにもなってしまう。
でも、美里ならどうしただろう。あの事件のことを、和泉碧に黙っていられただろうか。あんなに仲が良く、互いを求め合っていた相手に、嘘がつけるのだろうか。美里は心が優しい人間で、私なんかとは違う。平気で嘘をつけるはずがない。全て打ち明けたいと願うだろう。
あの母親にされてきた事を、正直に話したら、和泉碧は美里の味方になってくれただろうか。彼の性格は、私が過ごしたこの短い期間でも良く理解できた。いつも明るくクラスの中心であり、人の悪口を言っているところを見た事が無い。美里が言っていた「いつも前向きで、馬鹿みたいに明るい人」と言う言葉がぴったりな、正義感溢れるただの好青年だ。
ただ、彼の正義感溢れる性格が、母親の首を切った美里や隠蔽をした私をどう思うだろうか。中学生だとは言え、罪は罪だと、そんなつまらないことを言ってくるのだろうか。それとも、美里の為に秘密を共有し、嘘をつき続けてくれるのだろうか。
美里の全てを知った上で、彼はどう行動するのだろう。見てみたい、そう思うようになった。栞ちゃんには止められているけれど、言ってしまいたい。
ちょうどその時、私が全校生徒の前で発表した作文が、学校の裏掲示板で話題になっていたと言うことを、トイレで女子生徒が話している所に遭遇した。裏掲示板の存在を全く知らなかった私は、その女子生徒を問い詰め、見せてもらうことにした。
「七瀬美里が両親を殺した」
私はその言葉に焦りを覚え、ひどく動揺した。最近、誰かに見られている気がしていたのはこれのせいだったのか……。
「七瀬さん、気を悪くしないでね。こんなのただの書き込みっていうか……ほら、もうこの話題に触れてる人殆どいないし……裏掲示板なんてそんなもんだからさ」
気まずそうにしながらも見せてくれた女子生徒が私にそう言った。確かに、今は先生と生徒の恋愛事の方が面白おかしく書き込みされている。施設に帰ってから調べてみると、美里の事も馬鹿にしたような口調や怯えているような内容が書き込まれていた。中には、昔の美里を知っている人で、美里の事を援護する投稿をしている人もいる。
『美里ちゃんは昔、もっと明るくて優しくて、元気な子だった。ショックで変わってしまっただけ』
『誰だって、ああなる。七瀬は人がいい。そんな事をするはずがない』
見れば見るほど、美里がどれだけ人望があったのか思い知った。そして、私はまだ美里になりきれていないんだとも思った。
「もっと明るくて優しくて、元気な子か……」
美里と和泉碧は、『お似合い』だったのだろうと、二人の姿を想像した。
そして同じ頃、私に「味方する」と言う人が現れた。相田咲人だ。
「僕、君の秘密知ってるよ」
放課後の帰り道、相田は私にそう言って近づいてきた。
「え?秘密なんて、ないよ」
「七瀬さんはどこにいるの?」
「……何言ってるの、私はここに」
「本物の七瀬美里の方だよ」
「……!」
「あれ以来姿を見ていないから、家で引きこもってる?あ、遠くに引っ越しちゃったのかな。それとも……病院で眠ったまま、とか?」
なんで知ってるの?私と栞ちゃんだけの秘密なのに。
「……あんた、なんなの」
「まあまあそんなに睨まないでよ。美人が怒ると怖いんだから」
「からかってないで、本当になんなの」
「僕はー、あの日あの場所に居た」
「え……?」
「君たち二人を助けたって言ってもいいかも。救急車と消防が来る前に、気を失っている君たちを外に出した」
「そんな……」
そんな展開、私たちが書いたシナリオにはもちろん無い事だった。認めるべき?しらばっくれてもまだ間に合うかな……。そう動揺している私に、相田は言った。
「僕は味方だよ、そんな怯えないで」
「味方?」
「君の秘密を誰かに言おうとか、そんなこと考えてないから安心してよ」
「そんなの、どうやって信じろって言うのよ」
「……僕はただ、栞ちゃんに楽になって欲しいだけなんだ」
「栞ちゃん?栞ちゃんはあんたがあの場所に居たこと、知ってるの?」
「ああ、ついこないだ話したよ。二人が公園で言い合ってた後に」
「それで栞ちゃんは何て?」
「邪魔しないでってそれだけ」
「……そう、そう言うことだよ。味方とか要らないから。私たちは二人で美里の人生を守るために……」
「栞ちゃんは、普通の人だった」
そう言った相田の顔は寂しそうだった。そして、まるで私に縋るように言葉にした。
「栞ちゃんを、元に戻して欲しいんだ。あの事件以来、彼女は変わった。僕なんかにも笑顔で話しかけてくれるちょっと変わった子だったけど、普通じゃ無い事を、普通だって言う子ではなかった」
私の存在を初めて知ったであろうあの日、栞ちゃんは妙に肝が据わっていて、目の前が血だらけでも動揺しなかった。どう見ても普通の家庭で起こり得ない事が起きていたのに、動揺する美里を宥める言葉すらかけていた。私はてっきり、栞ちゃんは何か家庭に問題があったり、性格的に闇があると思っていたのに、『普通の人』だった……?あの事件が栞ちゃんを変えてしまったの……?
最近の栞ちゃんは私でも怖いと思う時がある。美里の人生を続けさせようと必死だ。実際に美里として生きているのは、私なのに、美里が現在を『生きている』と言うことに執着している。
「どうやったら、元に、戻るの……」
「それは簡単だよ」
「簡単?」
「和泉くんに全て話すんだよ」
「え……でも栞ちゃんはダメだって」
「大丈夫。入れ替わってることを話したらダメなんだよ。事件のことは話していいと思う」
「なんで?なんでそれが栞ちゃんを元に戻すことになるの?もしかしたら凄く怒るかもしれないのに」
「背負いすぎてるから。和泉くんは栞ちゃんのいとこでしょ。二人の仲の良さは小学生の頃から見てきてるから知ってる。そんな相手にも嘘をついて、抱え込んでいるものが大きすぎる。栞ちゃんはきっとあの日、自分を一気に大人にしたんだ。七瀬さんを守るために。それでおかしくなった ……だって、君に七瀬さんの人生を生きてなんて、そんなこと言い出すの、どう考えてもおかしいでしょう?」
「……」
「君だって、薄々そう思ってたでしょ。何してるんだろうって、私の美晴としての人生はどこに行ったんだろうって」
「……うるさい、分かったようなこと言わないでよ!あの時はそうするしか美里を守れないと思った。当事者でも無いくせに……」
「ああ、分からないよ。君の気持ちも、栞ちゃんの気持ちも、他人の気持ちなんて所詮分かんないんだよ。だから、和泉くんがどう思うとか、七瀬さんがどう思うとかそんなこと考えずに、君として行動してよ。本当は、打ち明けたいんでしょ、和泉くんに」
「……」
「あの作文、そう言うことでしょう」
図星だ……。あの作文は、私の心の底からの叫びだ。和泉碧に向けて書いたと言ってもいい。もしもこの先、本当の事を知ったとしても、貴方だけは美里と、そして私から離れていかないでと願って書いた。
「試してみてよ、和泉くんが君たちが隠してる秘密を知ったらどうなるか。僕興味があるんだ」
「なにそれ……そんな遊び感覚で言わないでよ」
「やだな、違うよ。人一倍の正義感を持つ和泉くんが、自分の好きな人が犯罪者だって知ったらどうなるか、本当は君も興味あるんでしょ?君の気持ちを代弁したつもりだったんだけど……違った?」
次から次へと私の心を読んでくる相田は、少し奇妙だった。同じクラスに居るけれど、いつも一人でいるし、前に女子たちが「気持ち悪い」と悪口を言っていたのを聞いたことがある。あながち間違ってはいないかもと思った。どこか奇妙で、気味が悪い。
「……分かった。私のタイミングで、和泉くんには話す。それで栞ちゃんが少しでも楽になるなら、話すよ」
「良かった。ありがとう。それと……和泉くんはきっと君から離れて行かないと思うよ」
「なんでそう言い切れるのよ」
「だって和泉くんは昔から七瀬さんの『ナイト』だから。じゃ、僕は行くね」
相田は、簡単に私の言葉を信じて帰って行った。あの公園で咄嗟に「和泉くんにはちゃんとしたいから」と言ってしまった手前、もちろん言わないととは思っていた。でもまさか、相田に急かされてしまうなんて。それほど相田は栞ちゃんを守りたいと思っているんだろう。栞ちゃんが美里を守りたいと思っているのと同じくらいに。
『ナイト』くさい言葉だけれど、憎たらしいくらいに羨ましい。美里はいつも和泉くんに守られてきたんだ。あの時、美里が和泉くんの話をしていた時も、とても幸せそうな顔をしていた。満足気で、私には出来ない表情。同じ顔をしているのに、全然違う。……悔しい。私は和泉碧に秘密を話そうと決意し始めた。
それからはもう、怒涛の日々だった。和泉くんに話す為に屋上へ行き、ついに伝える日が来た時、なんとも言えない達成感と、焦りと、不安で、気分が悪くなりそうだった。
そして、相田が言ったように、和泉くんは私を守ると言ってくれた。持ち前の正義感で、犯罪者を毛嫌いしていると昔栞ちゃんが言っていたけれど、どうやらその犯罪者が美里となれば別の話らしい。それは私が生きている美里が、信用されている証拠でもあった。
和泉くんは私を抱きしめた。初めて異性に抱きしめられて、心臓が鳴り止まなかった。心臓の音が聞こえていないか不安だった。栞ちゃんにどれだけ怒られてもいいと思った。この幸福感だけで、やり過ごせると本気で思った。
本当は美里じゃないって言いたかった。そんな事を言ったら、和泉くんはもっとすごい顔をするんだろうけれど、美里が見た事のない彼の顔を見てみたくなった。けれど、それは出来ない。伝えて軽蔑された時のショックに私は耐えられない。美里が好きなんだと目の前で言われたら、きっと私は……。
私にとって初めての幸せな日々が訪れると思っていたのに、予想外なことが起きた。あの裏掲示板にまた書き込みをされてしまった。それもあの秘密を打ち明けた瞬間の映像まで。誰がやったんだとなる前に、みんなは私を物凄く軽蔑した目で見つめた。いつかこうなる日が来るのかもしれないと、頭の片隅にはもちろんあったはずなのに、私は和泉くんとの未来を勝手に想像して今を見ることを忘れていたのだ。
慌てる和泉くんの背中を見ると、どうも頼りない。怯えている小動物だ。あんなにもいつも明るくて、女子から人気で、クラスの中心で信頼されている彼が、今はクラス中から変な目で見られている。普段和泉くんに色目を使っている女子たちも、軽蔑している目で見ている。人は、一瞬で変わる。今までのことが嘘かのように、姿を変える。私はその事を、よく知っている。
私は教室から逃げ出した。そして、和泉くんからも逃げた。もしこれで、彼が姿を変えてしまったら、私は生きてはいけない。本来の計画は崩れ、美里の人生が台無しだ。美里が犯罪者扱いをされて、みんなから白い目で見られて……仕事に就いてもクビになり、仕舞いには和泉くんまでいなくなる。
私はそこで自分のしてしまったことの重大さに気がついた。栞ちゃんの言う通りに、和泉くんにも言うんじゃなかった。言わなかったら、動画なんて撮られなかったのに……。私は泣きながら栞ちゃんに電話をした。すると栞ちゃんは、次の日に日本に帰国し、私のいる施設まで会いに来た。
そうして、私たちは次のシナリオを考え始めた。私は全て栞ちゃんの言う通りにすることにした。和泉くんには連絡を返さず静かに過ごし、転校先が決まったら、学校に連絡をした。和泉くんにも、「引っ越すことになった」と伝えた。
離れたくない。顔が見たい。美里のままでいいから側に居たい。でも迷惑はかけたくない。笑顔を奪いたくない。私の「ナイト」を私が守りたい。
私は栞ちゃんの言う通り、和泉くんから離れる事を選んだ。もう会えないかもしれない。そう思っても、本来の目的を見失わないように、美里の顔だけ思い出した。和泉くんの言葉が、胸を刺してくる。それでも私は美里だから。美里ならきっと和泉くんの笑顔は奪えないって言うから。そう必死に心で唱えて、振り払った。そうやって、あっという間に私と和泉くんは会わなくなった。
―八年後
「まだお腹痛いんです〜」
「とか言って今日ずっとここにいるわよ?佐々木さん」
「だって先生と話してる方が楽しいんだもん」
「それは嬉しいけど、授業に出ることも大切よ?単位取れなかったらどうするのよ〜」
「そん時は女神の力でどうにかしてよ!」
「何バカなこと言ってんの、ほらもう痛くないでしょ!教室行きなさい!」
「は――――い」
遠のく足音を確認してから、コーヒーを淹れる。いい香りが部屋に漂い、至福の時間だ。
養護教諭になって二年。たった二年でも沢山の子供達を見てきた。中学生は難しい年頃。授業がつまらない、教室に居づらい、特に何もないけどだるい。毎日色んな生徒がここへ来る。ピークの時には、三つあるベッドが全部埋まり、本当に体調不良になった生徒が寝られないと言う事態になったこともあるくらいだ。
窓から見える運動場では今日も元気に生徒達が体育をしている。子供は無限に元気があっていい。走り回って、転んで、それで学べばいい。可能性は無限大なのだから。
「保健室の先生って基本暇そうだよね」
生徒にそう言われたことがある。正直、私も学生の頃はそう思っていた側だ。いつ行っても話し相手をしてれるし、呼び出されたらすっ飛んでくる。でもいざ養護教論になってみると、健康診断の資料作りや、アレルギーがある子の給食依頼、視力検査の先生とのやり取り、その他諸々の資料作りで意外と忙しくしている時もある。勿論、暇な時がないと言うわけではない。他の教論達に比べたら、緩い業務かもしれないが、生徒の相談相手になるのも、なかなかに体力を使うのだ。
そして、相談に来るのは生徒だけではない。もっとも深刻な悩みを打ち明けに来るのは教論達だ。たまにプライベートな話も相談に来る人もいる。私はただの養護教論に過ぎないのにも関わらず、なんでも解決してくれる神様のように思われているのだ。
一人一人の相談に親身になり、いくつかの選択肢を用意すると、意外とそれが解決への糸口になることが多い。でも基本、話を聞いてほしいだけの人が多いから、「うんうん」と頷くだけでも解決したと錯覚しやすいのだ。数々の相談を解決してきた私は、いつからか「女神」と呼ばれるようになった。
今日の晩御飯何食べようかな。そんなことを考えるくらいに暇な日。昨日魚を食べたから、今日はお肉にしよう。最近食べていない生姜焼きにしてみるか。お味噌汁はなめこのお味噌汁にしよう。あれ、レタス家にあったかしら。ついこの間買ったような、買ってないような。……最近やたらと物忘れが多い気がする。
「女神先生〜」
弱った声でノックも無しに入ってきたのは国語教論の早乙女莉央先生だ。彼女は私と同い年で、親友ってわけではないけど、仲が良い方だ。基本いつも、一方的に彼女が話している。
「あーもうその呼び方……」
「聞いてください。昨日例の彼と食事に行ったんですけど、三千円でいいよって言われたんです〜」
「三千円?割り勘ってこと?」
「いいや?お会計が二人で八千円くらいだったんですよ。それで三千円で良いよって、そんなの無くないですか?!」
「コーヒー飲む?あ、えっと、と言うと?」
「飲みます!だって、割り勘だと四千円じゃないですか、それで三千円で良いよって……私には千円しか払う価値ないってことですよね?!それだったらきっちり半分払うんですけどって話じゃないですか〜ていうかそもそも、奢ってもらう気なんてなかったんです私は!」
「うん、確かに。千円奢られてもね」
「そうなんです。もうそこから一気に萎えちゃって。二件目誘われたんですけど、断って帰ってやりました!」
「お!それは正しい判断」
「ですよねですよね〜あー昨日の時間無駄だった――――」
「はい、コーヒー」
「ありがとうございます!わー良い匂い!」
「その人ってアプリで出会って人だっけ」
「そうです。また探さなきゃ〜」
最近は恋愛を始めるのに携帯を使うらしい。それはここ数年で一気に普及したように思える。恋愛事はよく分からないけれど、少し前まではそれを使っている人の方が変だという風潮にあった。
「美里先生はやらないんですか〜?アプリ」
「私はいいよ〜」
「今どき珍しいですよ?彼氏いなくてアプリやってない人」
どうやら大人になると出会いの場が激減し、恋愛に進む方法が分からなくなるらしい。だからアプリを通して恋愛をしたい人が、同じく恋愛をしたい人を探し求める。確かに物凄く合理的な方法だ。
「先生って彼氏いたことあります?」
痛いところを突かれた。
「あるよ?そりゃ」
「へ〜先生の彼氏とか見てみたかったな〜絶対大人でかっこいいんだろうな〜」
私はあれからたくさん嘘をついて生活をしてきた。今では何も考えずに、悠々と嘘が吐ける。店長に嘘を吐き年齢を誤魔化してバイトをして、お金を稼いだ。そこで出会った人に、両親がいないことを生まれつきだと言い、人間の良心に漬け込んだこともある。
和泉くんと会わなくなってから八年。私はあの頃よりも酷い人間になった。真っ当に生きるように、養護教論の資格をとり、バイトで知り合った人に紹介してもらい学校の校長先生にアポイントを取った。そうやって、生きてきた。栞ちゃんとは相変わらず連絡は取っている。いつでも簡単に会えるわけではないけれど、私が美里として生きている事を一番理解してくれている人だから、味方が一人でもいると安心する。
和泉くんがいなくても、なんとかやってこれた。それは美晴としての夢が出来たからだと思う。
キーンコーンカーンコーン
「あ、やば、次授業だった。あ、先生に紹介したい人いるんです!また話しに来ますね!
それじゃ美里先生またあとで!」
「うん?はーーい」
数十分ぶりに静まり返った室内。急に冷房の強さを感じ、設定温度を一度下げた。 私には恋愛なんて必要ない。私はやっと見つけた。絶望からの光を、私は見つけた。目の前の手帳を開き一番後ろに挟んでいる古びた作文用紙を手で摩った。そして机の中にしまってある一冊のノートを取り出す。ここには調べた内容がずっしりと書かれている。
・加賀真人(十五)父:文徳(四十八) 母:聡子(四十)
・加賀医院創立三十周年
・加賀文徳…病院経営、昨年から医院長
・加賀聡子…専業主婦
数々のメモと、写真。三年四組の加賀真人。彼と言う私のやるべき目標を見つけたのだ。
ガラン
ノックもなしに開かれたドアの音に心臓が昂るくらいには驚いた。見覚えのある顔と「加賀」の名札が目に入った。
「せんせー頭痛いんで寝ていいっすか」
「う、うん勿論こっちどうぞ」
仕切りのカーテンを途中まで閉める。
「薬あるけど、飲む?」
「いや、寝れば治るからいい」
「そう、じゃあ時間になったら声かけるわね」
「ふぁーい」
あくびが混じった情けない返事をし、加賀くんは背中を向けた。
カーテンを閉めて、椅子に腰を掛ける。慌てて閉まったノートをもう一度開く。資料の最後のページにある自分で書いた文字を見つめた。
[背中に無数の痣…虐待?家庭内暴力?]
そしてカーテンの向こうを透視するように、眠っているはずの加賀くんを見た。
夜十時。「加賀」の表札を掲げている大きな一軒家の周りをぐるっと一周する。すると、ガシャンとお皿が割れる音が聞こえた。
「父さんもう辞めてってば!」
「うるせー!俺がいないと何もできないくせに!」
根太い声が耳を澄ますと聞こえてくる。
「最近多いのよ〜こういうの」
声のする方に振り向くと、犬の散歩途中のおばさんが大きな一軒家を眺めながら突っ立っていた。
「ここ、よく通るんですか」
「そうよ、うちの子の散歩コースなの」
うちの子とは、今必要に私を見つめ、息を漏らしているフレンチブルドッグだろう。
「病院の経営ってストレス溜まるのかしらね〜」
「こう言うのが始まったのは最近ですか」
「うーん多分ね〜私も最近気づいたのよ。この前なんて食器の割れる音でうちの子吠えちゃって〜」
「ああ……」
「でもご主人普段はすごくいい人なのよ〜うちの旦那が病気した時とかほんっとよくしてくれてね〜おまけに格好いいでしょ」
「……そうなんですか」
「ストレスなんだと思うわ。でもまあ奥さんも食わせてもらってるんだから辛抱よね。男は色々あるから。あと、ここだけの話、ここらじゃ奥さん不人気なのよ。いっつも憎たらしい笑顔ばかり振り撒いて、医院長のことも唆したって噂もあるしね」
捨て台詞のように吐き出し、おばさんは歩いて行った。私はしばらく塀に背中をつけて、今夜の暴音に耳を澄ました。見上げると、満月の光にうっすらと雲がかかっている。光が雲隠れしていてまるで私みたいだ。
目を閉じると、美里が脳裏に現れた。私は笑っている美里に向かって、願う。「どうか許してね」そう願うと、美里はさらに笑う。喜んでいるように見える。私が選んだ選択は、間違っていないみたいだ。
ただ美里の人生を真面目に生きて、いつもと変わらない日々を繰り返していくうちに、養護教論をしながら終わりの見えない迷路に迷い込んだような気分になっていた。美里はいつまで経っても目を覚まそうとしないし、これでは私としての人生が勿体無いのではないかと思うようになった。そう思っていた矢先、加賀真人の背中にある痣を見た。
あれは先月の二十五歳の誕生日の日だった。次が体育だと言いながら保健室に来て、颯爽にベッドのカーテンを閉めた。
「ちょっと、またサボり〜?はい駄目です!ちゃんと出席してくだ…さ、い…」
カーテンを勢いよく開けると、てっきり寝ているもんだと思っていた加賀くんは体操着に着替えている途中で、チラッと背中の痣が見えた。ちょっとぶつけた程度では着くはずのない色と範囲。
「あ、ちょっとやめてよ。先生変態じゃん!」
「加賀くんそれ……」
「あ、やべあと五分じゃん。じゃ行ってきまーす」
「ね、ねえ!」
私が引き止めると、加賀くんはピタッと足を止め、くるっと華麗に振り向いた。
「先生」
「え、ん?」
「……誕生日おめでと」
今までに見たことのない大人に向ける笑顔だった。好かれようとするような、媚を売るような笑顔だったように思える。見たものを忘れろ、そしてこれ以上聞こうとするな。そう言われているようだった。
加賀くんが今いる立ち場は、聞かずとも分かる。今の加賀くんは昔の私だからだ。体育の度に保健室に来る頻度が増えて、夏なのにジャージを着たりするようになってから、どうやら私の奥底に眠っていた微力な正義感が、目を覚ましたらしい。助けたい・何かしてあげたいそう思うようになった。別にヒーローになりたいわけでもなく、正義の味方になりたいわけでもなかったけれど、見過ごすことがどうしてもできなかった。それは加賀くんに対して、可哀想だと思っているわけではなく、「やっと見つけた」そう感じたからだ。
養護教論になってから二年。教師になってから初めて、自分と同じ境遇の人は滅多にいないと言う事を知った。
世界は広い。親から受けた愛で苦しんだのは、私達だけではない。あの頃の私たちと同じ歳で同じ境遇の人は必ずいるはずだ。私は心のどこかでそう思って生きてきた。
一人でバスを待ってるあの子も、家に帰ったら美里のように殴られているのかもしれない。暑いのに長袖を着ている人は、傷口を隠したいのかもしれない。笑っているあの子も、俯いているあの子も、家には怪物がいるのかもしれない。バイトをし始めて、世界が広くなったからなのか、そうやって私はいつの間にか探し求めていた。
見つけてどうしたいとか、どうなりたいとかを放ってしまうくらいに、ただ漠然と探した。私達だけじゃないと思いたかったからだ。
同じ中学生で、両親から暴力を受けて苦しみ、でもそれを受け止めてしまっている人。嫌だと言えない。逃げられない。親は親。大事な人。
だからこそ中学校の養護教論になった。普通科の教論より、詳しく家庭内の状況を聞いても不思議ではないし、こちらが聞かずとも生徒の噂が流れてきて、より自由に生徒が集まる場所だからだ。
でも私の期待は裏切られ、三学年の全てと言ってもいい生徒を二年間も見てきたのに、私と同じ境遇の子はいなかった。それなのに、突如として現れたのが加賀真人だ。あの傷口を見た瞬間から、この子を救いたい。どんな手を使ってでも。とそう思った。これは誰にも相談していない。栞ちゃんは、ただ真面目に美里としての人生を歩んでほしいと思っているだけだ。こんな事を話したところで、きっと止められる。
「先生〜怪我した〜」
体育を終え戻ってきた加賀くんは唇から血を流していた。
「え、ちょっと何したの」
「……喧嘩」
ガーゼで治療をしながら、ジャージを着たままの加賀くんの手当てをする。
「喧嘩ってまた……どうしたの?」
「ジャージ脱がされそうになったから抵抗しただけ」
「……そっか」
「先生……もう気づいてるんでしょ」
上目遣いで聞いてくる加賀くんは、やはりほんの十五歳の少年だ。
「先生だけしつこく聞いてこないから居心地良くてさ、いつもここで着替えてたわ。あ、別に可哀想とか思わないでよ。別に俺は平気だし、父さん酔っ払うと手が出るってだけで、手に負えないわけじゃないし。俺だって一応男だしね。ほらっ」
まだまだ細身の腕の力こぶを布越しにアピールしてきた。
「可哀想、なんて思ってないわ。ただ……」
「先生手止まってる。早く絆創膏貼ってよ、チャイム鳴るよ」
「助けてあげる」
「……ん?」
「先生に任せて」
「えっと……それはー……」
私の顔を見て、加賀くんは息を呑んだ。後から聞いた話だが、どうやら私は、酷く憎しみに満ちた顔をしていたらしい。そしてその時の彼は、そんな私に、自分の考えを全て見透かされているようで焦っていたらしい。
「俺もういくわ」
絆創膏も貼らずに、加賀くんは私から逃げるように保健室を出て行った。
それから一週間、加賀くんは保健室に来なかった。廊下ですれ違っても、わざと教室を訪れてみても、私は明らかに警戒されていた。誰かから必要に警戒をされている状況は久しぶりだった。
加賀くんとちゃんと話さないと。軽蔑され続けても、話は続かない。きっかけになることが起きる前に話さないと。私を頼りたいと、私に助けてと言わざるを得なくなる前に、話さないと思っていたのに。事は起こってしまった。
ある日の朝、登校してきたその足で加賀くんは保健室に来た。
「どうしたのこんな朝から」
私が声をかけても黙ったまま突っ立っていた。すると、加賀くんは黙っていきなり制服を脱ぎ始めた。ハッと察した私は窓のカーテンと、ドアの鍵を閉める。そして振り向くと、傷だらけの身体が露わになっていた。
骨折を疑うほどの青紫の痣と、無数の火傷の跡。私はこの火傷の跡を知っている。美里の腕にもあったはずだ。息苦しくなった私は、自身の腕を摩った。
タバコの火だ。この小さな丸の火傷はタバコだ。そして、加賀くんの腕にはリストカットの跡が一つ。私はゆっくり近づき、手を取った。そして腕の切り傷をなぞった。
「これ、俺がやったんじゃないんだ。母ちゃんおかしくなっちゃって、一緒にって。俺、何も言えなかった。母ちゃんの気持ち、すごく分かるから」
加賀くんは一筋の涙を流した。魂の消えたような表情で、そして、怒りさえ失った表情で静かに泣いた。まだほんの十五歳なのに、大人びた表情だった。まるであの頃の美里だ。そっくりだ。私は静かに加賀くんを抱きしめた。すると小さな声で、「助けて」と呟いた。「うん。よく頑張ったね。よく言えたね」と、私が背中を摩りながら言うと、声を出しながら泣いた。
落ち着いてから話をしようとしたが、チャイムが鳴ってしまい、放課後に会う約束をして加賀くんは教室に戻っていった。泣いたことに気づかれずにいるだろうか。茶化されていないだろうか。私は一日不安で仕方なかった。
放課後、加賀くんは再び保健室を訪れた。私は誰も入ってこないようにと、鍵をかける。
「みんなが、俺を変な人だって言うんだ。こんなクソ熱い日になんで長袖着てんだよって。俺だって脱ぎたいよ。でも脱いでこの醜い体が顕になったら、俺はたちまち可哀想な子に転落する。だったらまだ、変な人って思われてた方がマシじゃん」
「うん」
私は静かに相槌だけを打つ。
「先生、俺って結構ネットで勝ち組なんだ。親ガチャ当たって羨ましいとか、その顔に生まれたかったとか。みんなが俺になりたいって思ってんだ」
「うん」
「笑っちゃうっしょ。上部だけの笑顔にみんな騙されてやんの。あんな父親の息子なんて、変われるもんなら変わるっての」
病院の跡取り息子として、加賀くんがちょっとした有名人だと言うことは、この学校に勤務をしていたら嫌でもわかる。両親の間に出来た待望の子供。私の資料にも書かれている。当時、親戚中が喜び、その祝いのプレゼントは相当な物だったと。
「先生、俺考えたんです。先生が助けるって言ってくれたのは嬉しかったけど、どう考えてもあの父親に勝つ術がない。家を出れたらいいけど、悔しいけどまだ一人じゃなにも出来ないし、母ちゃんだっているしさ……いっその事母ちゃんと死んだ方がマシなのかも」
「そんなことない……」
悪魔を野放しにして自分が人生を終わらすなんてそんなことしてはダメ。
「これは、タバコの火。これはバッドで殴られた時のやつ。これはー……」
加賀くんは服の上からあらゆる痣を見せながら、どうして出来たのかと、丁寧に説明をし始めた。男女の差なのだろうか。肝が据わっている。私があの頃外に出ていたら、あの出来事をこんな流暢に話をすることなんてできなかったはずだ。加賀くんの話す口を見ていたら、急に眩暈に襲われた。
―あんたなんかに!あんたなんかに私の気持ちなんて分かるわけないでしょう!!!!
―熱いよ……痛いよ……ママやめて!ママなんでもするから!
―私が体弱いのもねぇ。あんたのせいなんだよ!!あんたを産んだからなんだよ!!!あの人が私に愛想尽かしたのもねぇ。元はと言えば全部あんたのせいなんだよ!!…ほらこっちへ来なさい!
―ごめんなさい!ごめんなさい!なんでも言うこと聞くから許してください!いやぁあああああああ
腕を引っ張られ、到底太刀打ちができる状況ではない。いつも陥る『逃げられない』絶望。そのまま真っ暗な暗闇へと押し込まれていく。
―怖い!ママ怖いよぉ。うっうっ
目の前がぐるぐると回る。これは……私の記憶?あれ、これは美里なの……?……息ができない。
―はぁ…はぁ…息が、苦しい…助けて。助けて。助けて!!!
「まあたまたま事故ったり?通り魔に刺されたりして死んでくれたらいいけど、そんな都合のいいことなんてないしさ、いっそのこと殺せたらいいけどそんなことはー…って、え?」
下を向いて話していた加賀くんが私の表情を見て口を止めた。そしてギョッと青ざめた表情を浮かべている。
「……本気で父親、殺したい?」
「先生……?」
加賀くんはゴクリと唾を飲んだ。
「私が殺してあげる」
あの日の、母親が動いていると知っていながら火を放った私がここにいる気がした。自分でも分からない。でも物凄く、この子を助けたいと強く思う。
「先生……?」
加賀くんの声でふと我に返ると、目の前には目をまん丸にして驚いている加賀くんがいた。
「えっと、そのー……」
なんて言えば、どう説明したら分かるのだろうか。これを話すには少し時間がかかる。いや、物凄くかかってしまう。私の過去を話す相手は加賀くんなのだろうか。加賀くんでいいのだろうか。
「先生も、もしかして俺と一緒なの?」
何かに気がついたような表情で、加賀くんは真っ直ぐ私の中に入り込もうとしてきた。
「ううん、違うよ」
見え見えな嘘をつくのはむず痒い。嘘はほんのちょっとの真実を混ぜなければ、成立しないからだ。
「でも……」
「先生は、加賀くんとは違う」
「先生……もしかして……」
その後に続く言葉を、言わせてはいけない気がした。
「先生はね、人を殺したことがある」
加賀くんの瞳孔が開く。驚いている証拠だ。人殺しはそうそう身直にいない。驚いて同然だ。
「驚いた?」
「え。ま、まじ?」
「うん本当」
「え、えっっと、……どうやって?」
このカミングアウトにどうやってと聞く人は、きっと殺したい誰かが居る人しかいない。やはり、加賀くんは父親を殺そうとしていたのか。
「オレンジの光。息が苦しくなる匂い。目の前を覆う燻んだ雲」
そう言うと加賀くんは少し考えて
「……炎?」
と口にした。私は静かに頷く。そうすると、それだと言わんばかりの表情で、加賀くんはまたゴクリと唾を飲んだ。
それからはもう、言うまでもない。私と、加賀くんの意思が、そうさせたと言うまで。
私はまず父親からの一番の被害者であろう母親に会った。加賀くんが大まかには事前に話してくれていたみたいで、楽だった。母親は酷く衰退していた。顔にも痣ができ、満足に食事をしていないようだった。
私が自分の事情とこれからすることを大まかに話すと、母親は泣いて喜んだ。自分の夫が死ぬと言うのに、こんなにも泣いて喜ぶなんて、よほど日頃から殺したいと思っていたんだろうと思った。
私も、人を殺すことはダメなことだと知っている。一度殺しているから二度なんて同じだ、なんてことは思っていない。私も大人になり、法律を知った。警察に相談すれば、きっと味方になってくれるだろう。
でも、苦しめられている人が必死に耐えて、死にたいとまで思っているのに、警察に突き出しただけで、それは終わったことになるのだろうか。この世に存在している限り、恐怖は拭えない。ただでさえ、記憶に残っている限り自分が死ぬまで離してもらえないと言うのに。捕まって、刑期が終わったら出てくるなんて、甘ったるいったらありゃしない。そんなこと、あってはならない。私が加賀くんを解放するんだ。
私がした行動は全てがその思い故だった。それは、和泉くんと再会しても、変わらなかった。運命なのか、偶然なのか、再会したときはもちろん嬉しかったけれど、同時に、私の計画の邪魔はしないでと願っていた。
和泉くんは相変わらずで、今の私からしたら眩しくて見られなかった。普通の人間と普通じゃない人間はやはり違う。たくさん嘘をついてきているのに、あの頃と変わらない目で私を見つめてくる和泉くんに、どうも思ったように話せない。
私は、和泉くんが好きだった。美晴としてちゃんと好きだった。けれどもう、その思いは無いに等しいかもしれない。なぜなら、それ以上にやるべき事を見つけてしまったから。それ以上に、私を求めている人を知ってしまったから。
もう、和泉くんを私と、そして美里から解放しようと思った。だから、私は栞ちゃんに言われた通り、手帳を置いた。
そして、私もこの世と別れを告げようと決めた。美晴として全て解放されたいと、願ってしまったから。秘密は守る。嘘もつく。それらを簡単にやって遂げたけれど、やはりそれらは確実に体力を削った。心を無くした。美里が眠りから醒めないみたいに、私も、眠ってしまおうと決意した。
そんな私に栞ちゃんは、「そんなことしたら、私一生許さないから」と怒っていたけれど、栞ちゃんも、和泉くんも、好きなのは「美里」でしょう。美里が目を覚ますかは分からないけれど、本物の美里は生きているじゃない。私がいなくなった所で、美里の罪が消えるだけ。
私は、美里の人生を生きている、双子の妹の美晴。加賀くんを助けることができたら、美晴の人生は終わりよ。あとは、せいぜい美里が好きな人達で、楽しく過ごせばいい。私はもう、疲れた。もう、解放されたいの。
私が私の人生を手放したあの日から、まるで生まれ変わったみたいだった。不安がなかったわけではない。それでも必ずうまくやってみせると覚悟を決めた。
私たちは仲のいい双子だった。幼い頃の記憶の殆どを忘れている中で、なんでも色違いで着させられていたことだけを覚えている。美里がピンクで私が水色。双子なのに私は生まれた時から髪の色素が薄く、茶髪だった。美里は綺麗な黒髪。それは顔が瓜二つである私たちの唯一の見分け方だった。
物心ついた時くらいから、私は生活の殆どを家の中で過ごすようになった。小学校に行かないといけないのに、体が、心が動かない。精神障害を抱えていた私は美里とは違う小学校に通うことになった。その頃から、母は私に冷たくなった。美里と違う小学校に通うことになったのも、私を想ってのことじゃない。美里が変な目で見られないようにと考えたんだと思う。それは数年でエスカレートして行き、母の中では出来損ないの私は居ないものとされていた。それでも、美里は私と仲良くしてくれた。私の部屋にお菓子を持って遊びにきてくれて、母に知られると怒られるから、「内緒ね」とよく言っていた。そんなキラキラした美里が私は好きだった。双子なのに、こんなにも中身が違うなんてと、ため息が出る日がなかったわけではない。美里になれたらと思ったこともあった。それでも、美里は私の憧れで、大好きなの姉だった。それなのに、あの日から全てが変わった。
ガシャン!!!
食器が割れる音がした。その大きな音はリビングから聞こえた。手が滑って落としたのかな、なんて言う私の思いは簡単に裏切られ、次々に割れていく食器たち。もしかして強盗でも入ったんじゃないかと思い、恐る恐る部屋を出てリビングのドアの隙間から覗くと、そこには母の姿をした怪物がいた。一瞬で恐怖に苛まれ、体が動かなかった。怪物の標的は美里だった。やめてと泣き叫ぶ美里の声なんて聞こえていないみたいだ。暴走している。助けないと。でもどうする?私も叩かれるかもしれない。どうする?とグルグル頭の中で考えていると、美里と目が合った。息が詰まる思いだった。ガクガク震える体を抑えながらも、美里から目を逸らせなかった。すると、美里は自分の首を横に振った。「来ないで」と口パクで私に訴えている。どうして?助けないと、美里の腕から血が出ているのに。そんな私の思いとは裏腹に、体は一歩も動かなかった。
次の日の放課後。母が買い物に出掛けてから、美里は私の部屋を訪ねてきた。
「怖いところ、見せてごめんね」
そう私に謝ってきた。
「どうして謝るの?私何もできなかった、こ、怖くて何も…」
「いいんだよ、美晴は何もしないで。ほら、余計にお母さん怒るかもしれないでしょう?」
「そうだけど……」
「実はちょっと前からこう言うのあったんだよね。お父さん、日曜日にゴルフに出かけるようになったでしょう?」
「うん、確か仕事の……」
「そうなんだけど、お母さんは浮気してるって思ってるみたいなの。最初は私の言葉に敏感になったくらいだったんだけど、今では自分でも制御できないほどになってるみたい」
「そんなの、知らなかった……ずっと家にいるのに私は……」
「いいんだよ、妹を怖い目に合わせたい姉はどこにもいないよ?」
「妹って、私たち双子じゃん」
「妹は妹なの!私の方が先に生まれたんだから!」
美里は笑っていた。昨日あんな目にあって、腕はあざだらけなのに、いつもと変わらない笑顔で笑っていた。
「どうして笑ってるの?逃げようよ、私も一緒に行くから」
「……ううん、私はお母さんのそばに居る。お母さんもわかっていると思うんだよね、やってはいけないことをしたって。いつも最後にはごめんねって私に謝るの。許して、愛してるって言うの。自分じゃなくなるくらい、お父さんのことが好きってことでしょ?別に悪いことじゃないと思うんだよね、その気持ちは」
「でも!何があっても、暴力はだめだよ……そうでしょう?」
「そうだけど、きっと今だけだから。すぐ元のお母さんに戻るよ。そしたらお母さんに、私にしてきたこと黙ってるから、美晴と一緒にお出かけしたいってお願いするの」
「……私のため?」
「ううん、自分のため。やっぱり美晴も家族だからさ!私、家族みんなで出かけたいんだ!遊園地でも、水族館でも、無理なら公園でもいいや!一緒に出掛けて、写真が撮りたい!」
「……美里はどうしてそんなに前向きでいられるの?こんな酷い目に遭ってるのに」
「うーん、いつも前向きで、馬鹿みたいに明るくて、正義感溢れる人を知ってるからかな」
美里は誰かを思い浮かべて、普段とは違う満ち足りた微笑みを浮かべていた。
「……好きなの?その人のこと」
「え?まあ、うん、好きかな……内緒だよ?誰にも言ってないんだから!」
それから美里は嬉しそうにその彼のことを話してくれた。和泉碧と言う名前を私はそこで初めて知った。顔写真も見せてくれて、なかなかにイケメンだと思った。写真に写っている笑顔から、「馬鹿みたいに明るい人」と美里が言っていたことがなんとなく伝わった。
中学一年生になった時には、お母さんの暴走は落ち着いていた。美里もあまり打たれなくなって、学校に休まず行くようになったけど、相変わらず私は家の中にいた。
ある日、リビングに行くと、お母さんが何かぶつぶつ言いながら携帯を見ていた。
「お母さん…?」
母が私の声に反応し振り向いたのは久しぶりだった。いつもいないものとされて生活していたからか、振り向いたその姿が嬉しかった。なんて気持ちはまた簡単に裏切られる。
ーパリンッ!!
大きな音にびっくりして音の先を見ると、私の足元で花瓶が割れていた。チクッとした痛みを感じて足を見ると、ガラスが当たったのか、ふくらはぎから血が流れていた。花瓶を投げたのは、目の前の母だった。
すると、逃げる時間もないまま、母に体を押され倒れ込んだ。
「どうして私じゃダメなの!なんでなの!」
そう言いながら、私は打たれ続けた。怪物になった母が、私の上にのしかかる。美里はいつもこれを見ていたんだ。そう思ったら、いつの間にか気絶していた。
「ごめん……ごめん……」
と私の手を握り、泣いている母の声で目が覚めた。時間にしたらそんなに経っていないようだけど、母の豹変っぷりはとんでもなかった。
「ごめんね……美里」
母の声に私の全身が凍った。母は私を美里だと思って打っていたんだ。あんなにも凶暴な顔で、あんなにも怒鳴りながら。
お母さんの中には、やはり私は存在すらしていなかったんだ。そう思ったら、全てがどうでもなった。初めて感じた感覚だった。
どうやら、父は本当に浮気をしていたみたいだった。母は探偵を雇い、調査結果を受け取ったところだったらしい。携帯を見てぶつぶつ何かを話していたのはそのことだったみたいだ。
家の中はその日から最悪だった。毎日父と母が口論していて、私と美里はいつもそれを聞いていた。束縛が激しい母の相談をしていたら、そう言う関係になってしまったと、父は言っていた。父は別に最低な人ではない。それは娘である私と美里は口が揃えて言えるほどだった。目の敵にされていた私でも、父はいつも優しかった。好きなおもちゃもお菓子も洋服も買ってくれて、父がいるから生活ができたと言っても過言ではない。もちろん、美里が打たれていることなんて知らない呑気な人でもあったけど。
そして、あの日がやってきた。丁度その日は美里が学校をずる休みして、リビングに居づらいからと、私の部屋で過ごしていた。母と二人、のんびりリビングで映画を見ていた父は、仕事の接待で有休消化中なのに呼び出された。それは確かに仕事の呼び出しだったけれど、その時の母の目には、あの女のところに逃げる旦那としか写っていなかったに違いない。
父が私たちに「行ってくるね」と部屋のドアから顔を出した。私たちは揃ったトーンで「行ってらっしゃーい」と答えた。
そして美里と二人で動画を見ていると、リビングの方から口論する声が聞こえた。
「はあ……」
とその時に美里がため息をついたのを覚えている。
「お父さんまだ行ってなかったんだ」
「確かに、何かあったのかな」
そんな会話をしたのも覚えている。
二人で手を繋ぎリビングのドアを少しだけ開けると、父と母は揉み合いになっていて、次の瞬間、父が母を突き飛ばした。
「…!!!」
私たちは驚き、互いの手を強く握った。
「ああもう、面倒くさいんだよそう言うのが!お前になくてあいつにあるものを教えてやろうか。余裕だよ、余裕!妻なら堂々と、夫の帰りを家で待ってろよ!なんで毎日、今日も疑われてんのかとか無駄なこと考えて帰ってこないといけないんだよ!ストレスなんだよ!仕事でも頭下げて、家でも信じてもらうために頭下げろってのか?」
「……」
「……俺たちそろそろ離婚を考えよう。お互い無理して生活続けても、あれだろ…」
「……」
「子供の親権は話し合おう。大事な娘だ。俺は引き取りたいと思ってる」
母はぐったりと座って、放心状態になっていた。私たちは互いに目を合わせた。美里の目には涙が溜まっていて、嬉しそうだった。離婚……そうか、離婚して親権が母に渡らなかったら、こんな生活から抜け出せるんだ。「大事な娘」やっと言ってくれた父の言葉がすごく嬉しかった。きっと美里はその言葉に一番涙を浮かべていたんだと思う。私たちが嬉しさのあまり抱き合った直後だった。
「ううっ……お前何して……」
ガタンと何かが倒れる音がして、思わずリビングのドアを二人で開けて入ると、父が血まみれになって倒れていた。母の手には包丁があり、それは赤い血で染まっていた。ゆっくりこちらに振り向く母は、あの時見た怪物の顔になっていた。
「あんたのせいで……」
母はぶつぶつと何かを言っていた。ゆっくり近づいてくる母に、怖くて足が動かない。包丁から血がポタポタと床に落ちていて、今にも襲ってきそうだった。気が動転している母と目が合ってしまったのは、美里ではなく私だった。
「や、やだ。来ないで……」
思わず出てしまった言葉は母を余計にイライラさせた。腰が抜けて動けない。私の目の前で母が包丁を振りあげた瞬間、私は咄嗟に目を閉じた。
「あんたなんて!産まなきゃ……」
私が一番聞きたくなかった言葉が、途中で途切れたことに違和感を覚え、目を開けると、血の雨が降っていた。
ドサッと音を立てて倒れ込み、首から血を流している。そんな母の隣に佇んでいたのは血まみれのカッターナイフを持った美里だった。絨毯が血に染まっていく。その光景に、私たちはしばらくの間何も話せなかった。
「ああ……うっ、ど、どうしよう」
我に戻ったのか、美里が泣き出した。カッターナイフは床に打ち付けられ、力が抜けたように座り込んだ。
「美里……」
「ど、どうしよう美晴……私が私じゃないみたいだった、こんなのいつものお母さんと一緒、怖い、怖いよ」
血がついている両手を見ながらヒクヒク泣いている美里を私は抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫」
私が美里を宥めている時、玄関から声がした。
「美里ー?玄関あいてたんだけどー?大丈夫ー?」
私が……誰?と思ったのとほぼ同時に、「栞ちゃん?!」と美里がひどく焦った表情でつぶやいた。
「友達?」
「うんそう。どうしよう、入ってきちゃう」
「とりあえず、美里が対応して。私じゃあれだし、手は後ろで隠して、そこのドアからなんでもないよーって廊下に顔出して」
「わ、わかった」
美里の顔についた血を、私の着ていた服で拭き取り、美里は小走りで栞ちゃんと言う友達のところへ行った。その時の私は、どうしてだか母を殺した美里よりも落ち着いていたように思う。美里を守る方法を必死に考えていた。
「ま、待って栞ちゃん!!」
美里の大きな声がして振り向くと、あの写真の和泉碧の隣に写っていた女の子が立っていた。
「何……これ……」
血まみれのリビングと、倒れている父と母に驚くのと同時に、私の存在にも驚いているようだった。
「栞ちゃん、こ、これはね。えっと」
「初めまして美里の双子の妹の美晴です」
「双子……」
「言うタイミング逃して、そう言えば双子だって言ってなかったね……ごめん」
いや、言い忘れていたんじゃない。きっと母親から口止めされていたんだろう。困らせたくなかった美里はそれを守っていただけに過ぎない。
「そんなことより、これは……どう言うこと……?」
「これは……」
「説明すると長くなりそうだから簡潔に言うと、お父さんを刺したお母さんを私が殺したってこと」
自分でも不思議なくらいに、淡々と言葉が出てくる。栞ちゃんと言う子も、もっと驚いてもいいのに、肝が座っていた。顔色ひとつ変えずに、私の言葉を受け入れた。なんだか、私はそれが気に入らなかった。
「美晴何言ってんの、私が……!」
「違う!私がやったの。いい?美里、私がやったの」
美里を犯罪者にさせたくないと言う気持ちが栞ちゃんに届いたのか、「ああ、そう言うこと……」とぼそっと呟いていた。
「と、とりあえず警察に電話する?」
慌てながら受話器を握ろうとする美里。
「いや、指紋とか状況とかで美里が母親を殺したことがバレるよ」
栞ちゃんは冷静な口調で言った。この時、私と同じ気持ちなんだと確信した。
「いっそのこと二人も傷ついて、私が発見したことにする?そしたら、生き残った可哀想な娘たちになれるかも」
この状況を私たちに有利に持っていくにはどうしたらいいんだ。私たち三人は考えた。どうしようと考えている中、本棚に置いてあるキャンドルが目についた。それからは何かが私を蝕むように、頭の中が変になった。
「火を放とう」
気がついたら、そう口に出ていた。
「火?」
「でもそんなことしたら下手したら他の住人も危ないんじゃ……」
眉を八の字にしながら弱弱しく口にする美里。
「私だってそんな大きな炎を作るつもりはないよ。事故に見せれたらいいの。そこのキャンドルが倒れて、火が燃え上がったってことにしよう。あ、あと、お母さんがお父さんを刺したのは警察に話そう。それで気が動転して気絶してたお母さんは火が燃え上がったことに気が付かなかった。私たちは部屋にいて、煙たい匂いがしたからリビングに行くともうどうすることも出来ない状況だった。逃げようとしたけど間に合わなかった。煙を吸って、意識が飛んだ。そしたら私と美里はその火事に巻き込まれて、運良く生き残った娘たちになれる」
息を吸う間もないくらいに次々と言葉が出てきた。美里は驚いている顔をしているのに、やはり栞ちゃんは肝が座っていた。
「うん。そのシナリオいいかも。炎が大きくなる前に私が通報すればいいし。焼死した人って解放ができなくて死因がわからないことが多いってテレビで見たことある。お母さんの死因はあくまで焼死ってことにできそう」
「で、でもいいのかな、私がこの手で殺ったのに……」
「大丈夫。あれは、私を助けるために殺ったんでしょう?美里は悪者じゃないよ。私を助けてくれたヒーローだよ。じゃないと今頃、私がああなってたかもしれないし……」
もうきっと息はないのに、母の今にも動き出しそうな姿に背筋がゾッとした。父は……どう見ても助けられない。ピクリとも動かないし……。
「わかった。美晴の言うとおりにする」
美里は私の手を握った。握る強さが強くて、今後起こるであろう出来事に対する覚悟が滲みでいていた。
「でも、栞ちゃんは全く関係ないふりをして。通報する時も、名乗らないで」
「え?でも……」
「お願い」
「確かにそっちの方がいいかもしれない。たまたま起こった火事にたまたま友達が居合わせるのは不自然かも」
「……そう。分かった。名乗らず通報する」
「ありがとう」
美里の友達を巻き込みたくない気持ちが私の心に突き刺さった。美里に友達がいることは知っていたけれど、こんな場面に遭遇してもこんなにも動揺することなく、自分を守ろうとしてくれる友達だなんて知らなかった。ただの友達じゃない。余程深い関係なんだろうと思った。私にはそれがすごく羨ましかった。
さあ、どうしようかと三人の目の前にキャンドルとチャッカマンを置いた。うまく燃え上がるように、ストーブの灯油をリビングに撒き散らした。灯油の匂いが鼻を突き刺して、吐き気が込み上げてきそうな感覚があった。
「二人とも、ちゃんと火が回らないところにいてよね。煙を吸ったってことだけで十分なんだから」
「分かってる。上手くやるよ」
「栞ちゃん……ほんと巻き込んでごめんなさい……このこと、和泉くんには言わないで」
「分かってる、言わない。私は、美里を見捨てたりしないからさ。早めに通報するし、すぐ消防が来ると思うからその後は……頼んだよ、美晴ちゃん」
「うん任せて」
栞ちゃんは私と美里を気にしながらも、玄関を出ていった。もちろん、火をつけるのは私の役目だと思った。母から私を守ってくれた美里を、次は私が守る番だと思っていたからだ。
「やるよ……」
「本当に、うまくいくよね。大丈夫だよね」
「大丈夫。私たちは可哀想な娘たちだよ」
震えている美里の手を握り返すと、視界の隅で何かが動いた感覚があった。
「み、みさと…」
そう微かな声を出していたのは、あの母親だった。大量の血を流しているにも関わらず、息があったみたい。かといって、立ち上がりそうにはない。それでも私たちは酷く驚き、なんとかその場に立つことが出来ていた足が震えた。私も美里も息が上がった。この母親は、最後まで「みさと」なんだ。そう思うと頭に血が上る。
私は今までこの人に何をされた?
まるでいない人間みたいに扱われて、存在を否定された。
私も娘なのに。 私だって心があるのに。
私だって、本当は可愛がられたかったー……。
それからは、自分でも記憶が朦朧としている。確実なのはその時、次は私が怪物になったと言うことだ。急いでキャンドルに火をつけて、母親目掛けて力一杯投げた。灯油のかかった母親の体は一気に燃え上がり、絨毯やソファーにも一気に燃え移り、びくともしない父親も火に包まれた。
目の前に広がったオレンジの光の中で、唸るような声が響いた。この時の光景が私と美里を後に苦しめることになるとは、満ち足りた気持ちになっていたこの時の私は一ミリも思わなかった。これで全て終わると、そう思った。
ふと美里を見ると、私とは正反対な表情をしていて、そこで我に返った感覚があった。煙が一気に部屋に充満し、美里の手を引いてリビングを出た。目の前がぐらつき、意識が遠のく中、私はこれからの未来のことを考えた。
もちろん、目の前に広がっていたのは、美里と二人で笑って暮らせる未来だった。和泉碧にも、必ず会いたいと思ったー…。
次に目を開けた時には、病院にいた。隣にはまだ寝ている美里がいて、心の底から安心した。
「美里ちゃん……大丈夫?!」
病室に入ってきたのはお父さんの妹夫婦で、私を美里と間違えているみたいだった。最後に会ったのは何年前だろうと、思い返すこともできないくらいに随分前だ。私が頷くと、「よかった、目を覚ましてくれて」と安心した表情を見せた。その後両親の話を聞くと、言いづらそうに焼死したことを教えてくれた。
どうやら、私たちの計画は上手くいったようだ。警察に話を聞かれたけれど、シナリオ通り答えた私たちは見事に、「可哀想な娘たち」になることができた。
一つ誤算だったのは、美里が目を覚まさなくなったこと。事件のショックから、自身の中に閉じこもってしまったのかもしれない。美里自身の思いで、目を覚ますことを拒んでいるのかもしれない。と、医者が言っていた。
いくら声をかけても美里は起きなかった。体に異常は見当たらないのに、目を覚まさないなんて、私と栞ちゃんのシナリオにはこんなことは書かれていない。
心優しい美里が、耐えられなかった現実を、私はもうどうすることもできなかった。最後に見た美里の怯えている表情だけが、何度も夢に出てくる。
そんな時、栞ちゃんからある提案をされた。
「え?今なんて?」
「だから、あんたが美里として生きるんだよ」
「……?」
「美晴はいいの?美里の人生がこれで終わっても。こんな病院で一生寝たまま暮らすことになってもいいの」
「それは……よくないけど」
「だったら、美里が目を覚まして退院した時に、普通の生活に戻れるように、それまで美晴が美里になって普通の生活を生きるの」
「でも、美里はそれを望んでるのかな、第一、美里と私は双子でも性格が全然違くって……あと、上部だけ美里が普通の生活をしてるってことにして意味あるのかな」
「あるんだよ……あの事件以来、美里はあんなんでしょ……。人生諦めてる。ていうか、きっと頭の中で、いつ死んでもいいって思ってる。だってそうでしょ、ショックで目を覚ましたくないなんて……私は、美里にそんな風に思ってほしくないし、美里がそうなってるって周りに知られるのも嫌なの。特に碧。知ってるでしょ和泉碧。あいつは美里のことが好きで好きで仕方がないんだよ。そんな相手がこんな状態だって知ったらショックだと思うし、美里も知られたくないと思うの……だからお願い……美里として生きて」
栞ちゃんが和泉碧の名前を出した時、なぜかパズルが綺麗にハマったような感覚になった。私は、あの母親のせいで生きているのか分からない状態で生活してきた。周りも、私がいることを知っている人は少ない。この状態がこんなにも好都合だと思ったことが過去にあっただろうか。きっと、美里が目を覚ましたら、「どうして自分の人生を生きなかったの」と怒られそうだ。でも、私は自分の人生より、美里の人生が崩れ落ちる方が、許せない。この時、本気でそう思ったのだ。
「わかった。美里の人生を生きるよ」
「……ありがとう、ありがとう美晴」
「うん、私も美里守りたいから」
「……秘密は、一つの嘘じゃ足りない、嘘に嘘を重ねてそれを真実にしていくしかない。美晴、一緒に頑張ろう」
「うん」
栞ちゃんは私を優しく抱きしめた。そして、強く握手をし、計画を練るために歩き出した。背中を向けて歩き出した栞ちゃんは、まっすぐ前しか見ない。私の顔色は伺わない。それでもいい。だって私たちは美里を救うための完璧なシナリオを考え、嘘を吐き続ける共犯者なのだから。
私たちの計画は完璧だった。
事件後、私は施設で暮らすことになったけれど、誰にも引き取られなかったことがむしろ好都合のように、美里になりすました。そこにいた子たちはみんな、私を「みさちゃん」と呼んで親しんでくれた。人と話すことに慣れていない私でも、月日を重ねるごとに人と関わることの楽しさを覚えていった。そして、美里として生きることへの満足感が増していった。私としてじゃなくて、美里だったら……と考えて行動すると、気持ちがいい。人に優しくできるし、野良猫にも笑いかけられる。たまに会いにきてくれていた栞ちゃんにも、「美里みたいになってきた」と褒められた。
美里として生きていた高校2年の冬。街中で偶然、和泉碧を見かけた。写真でしか見たことがなかったけれど、何故かすぐに彼だと分かった。楽しそうに友達と談笑をしている。中には女もいて、親しげだ。いや、むしろ、女からの好意がダダ漏れと言ったところだった。
その姿を見て、奥歯を噛み締めることを辞められなかった。美里がこれを見たらどう思うか、そんなこと考えるまでもない。いても経ってもいられなくなった私は、計画にはなかった「転校」をすることにした。髪を黒く染めてみると、鏡の中に映った私は美里そのものだった。まだまだ不器用な笑顔を、美里っぽくできるように何度も練習をした。
そうして迎えた転校初日。かつて美里と同級生だった子達や、一番近くにいたであろう和泉碧までも、私を美里と思い疑わなかった。むしろ、和泉碧に至っては、私を酷く意識しているようだった。突然居なくなったかつて仲が良かった子が、偶然転校してくるなんて、ドラマでしか見たことがない。自分をドラマの主人公だと思っているだろう、そうだ、それでいい。そのまま美里を和泉碧の中でヒロインにしてくれ、と願った。
なかなか話しかけてこないから、私から和泉碧の元へ行くことにした。美術の先生がいなくなった隙を見て教室へ入ると、和泉碧が驚いた顔で私を見つめた。美里ならなんて言うだろう。無言はきっと違う。そう思った末、「和泉くん……」と、私としては初めて口にする、彼の名前を呼んでみた。名前を呼んだだけなのに、和泉碧は初心な反応を見せた。つい笑ってしまいそうになり、手で口元を隠した。
それからは美里だったら考え、今まで通り美里を演じた。「どこにいたの?」という質問の答えは用意してあった。栞ちゃんと考えたシナリオだ。「施設にいると言ったら、碧だったら絶対見にくるから禁句」栞ちゃんがそう言っていたことを思い出した。
美里として和泉碧と関わっていくにつれて、徐々に私としても彼に惹かれていることに気がついた。それはきっと、美里に向けられた彼の優しい眼差し、自然と守ろうとする行動がそうさせたんだと思う。だから、私に向けたものではないと何度も思い込んだ。これは美里だからしてくれている行動だと、強くそう思っても酔いしれていく自分がいた。
同時に、自分がとんでもないことをしている事に気がつき始めた。これから私として、彼に想いを伝えたり、会うことは許されない。じゃあ今芽生えてしまったこの感情はどこへいくの?美里が目を覚ましたら、私はどうなるの?また、家に閉じこもって過ごすの?
どうしよう、全て彼に言ってしまいたい。全て打ち明けて、楽になりたい。
和泉碧と過ごすうちに、美晴として私を見てほしいと思ってしまった。美里が一番大事で、美里のために始めたこのシナリオが、こんな風に崩れそうになるなんて思わなかった。とっくに、自分の感情なんて捨てたと思っていたのに。和泉碧の真っ直ぐな目が、私をこうさせた。
栞ちゃんに会った夏休み、無断で転校したことに彼女は怒っていた。
「美晴、あんたなんでわざわざ碧がいる学校に転校すんのよ……色々都合が悪いと思って違う学校へ行かせたのに……」
「勝手してごめん……でも美里も和泉くんと同じ学校へ通いたいかなって思って」
「まあ、こうなったならしょうがないけどさ、気をつけてよ?碧は美里のことになると熱くなってしつこいんだから」
「うん、普通に過ごしてるよ」
「そう、ならいいけど」
「でも……」
「でも?」
「私、和泉くんの事……」
「ちょ、ちょっと待って、やだ、やめてよね、まさか好きになったとか言わないよね?」
「……」
「ま、まあいいや、そうよね、美里としてだったら好きになるわよ、美里も碧のこと好きだったんだし?でも、そこまで演じなくても……」
「違う、私として。美晴として好きになったの」
「……」
「ごめん、シナリオに無いことして」
栞ちゃんは黙っていた。怒られる覚悟はできている。私たちは美里を守るための共犯者だ。それなのに、勝手な行動をしているんだ、怒られて当然。
「双子ってすごいね……だから違う学校にしたのに」
独り言のように呟いた栞ちゃんは、怒っていると言うよりかは、悲しんでいるようだった。
「和泉くんに全部話してもいいかな」
恐る恐るそう言葉にした私を、栞ちゃんはものすごい勢いで睨みつけた。
「は?ダメに決まってんじゃん。何急に、碧のこと好きになって、美里として生きてる自分がしんどくなった?」
「そう……じゃないけど……やっぱりこんなことおかしいのかもって」
「いやいやいや、私たちあの時共犯者になったんだよ?決めたよね、美里が目を覚ました時に普通の生活ができるようにするって、美里の人生を守るって」
「そうだけど、和泉くんを騙すのは違う気がして」
「え、でも。その選択を勝手にしたのは美晴だよ?こんな計画、私たちにはなかったのに、勝手に転校して、好きになって、しんどくなって……。美晴、碧が好きなのは美里なんだよ。あんたが本当のことを言ったところで、軽蔑されるのがオチ。美里はどこだ!って騒ぎ出すわよ」
「そんなの分かってる、けどこれ以上和泉くんに嘘つくの辛い……だから全部言って分かってもらえばー……」
「だからダメだって!!!!」
栞ちゃんが声を荒げた後、和泉碧が突然現れて、私たちはすぐにその場を後にしたけれど、その後も栞ちゃんからは、「美里の人生のことを考えて」と説得のメールが届いた。
確かに、私が自ら選んで始めたことなのに、和泉碧に全てうち明けてしまえば、彼自身も巻き込むことにもなってしまう。
でも、美里ならどうしただろう。あの事件のことを、和泉碧に黙っていられただろうか。あんなに仲が良く、互いを求め合っていた相手に、嘘がつけるのだろうか。美里は心が優しい人間で、私なんかとは違う。平気で嘘をつけるはずがない。全て打ち明けたいと願うだろう。
あの母親にされてきた事を、正直に話したら、和泉碧は美里の味方になってくれただろうか。彼の性格は、私が過ごしたこの短い期間でも良く理解できた。いつも明るくクラスの中心であり、人の悪口を言っているところを見た事が無い。美里が言っていた「いつも前向きで、馬鹿みたいに明るい人」と言う言葉がぴったりな、正義感溢れるただの好青年だ。
ただ、彼の正義感溢れる性格が、母親の首を切った美里や隠蔽をした私をどう思うだろうか。中学生だとは言え、罪は罪だと、そんなつまらないことを言ってくるのだろうか。それとも、美里の為に秘密を共有し、嘘をつき続けてくれるのだろうか。
美里の全てを知った上で、彼はどう行動するのだろう。見てみたい、そう思うようになった。栞ちゃんには止められているけれど、言ってしまいたい。
ちょうどその時、私が全校生徒の前で発表した作文が、学校の裏掲示板で話題になっていたと言うことを、トイレで女子生徒が話している所に遭遇した。裏掲示板の存在を全く知らなかった私は、その女子生徒を問い詰め、見せてもらうことにした。
「七瀬美里が両親を殺した」
私はその言葉に焦りを覚え、ひどく動揺した。最近、誰かに見られている気がしていたのはこれのせいだったのか……。
「七瀬さん、気を悪くしないでね。こんなのただの書き込みっていうか……ほら、もうこの話題に触れてる人殆どいないし……裏掲示板なんてそんなもんだからさ」
気まずそうにしながらも見せてくれた女子生徒が私にそう言った。確かに、今は先生と生徒の恋愛事の方が面白おかしく書き込みされている。施設に帰ってから調べてみると、美里の事も馬鹿にしたような口調や怯えているような内容が書き込まれていた。中には、昔の美里を知っている人で、美里の事を援護する投稿をしている人もいる。
『美里ちゃんは昔、もっと明るくて優しくて、元気な子だった。ショックで変わってしまっただけ』
『誰だって、ああなる。七瀬は人がいい。そんな事をするはずがない』
見れば見るほど、美里がどれだけ人望があったのか思い知った。そして、私はまだ美里になりきれていないんだとも思った。
「もっと明るくて優しくて、元気な子か……」
美里と和泉碧は、『お似合い』だったのだろうと、二人の姿を想像した。
そして同じ頃、私に「味方する」と言う人が現れた。相田咲人だ。
「僕、君の秘密知ってるよ」
放課後の帰り道、相田は私にそう言って近づいてきた。
「え?秘密なんて、ないよ」
「七瀬さんはどこにいるの?」
「……何言ってるの、私はここに」
「本物の七瀬美里の方だよ」
「……!」
「あれ以来姿を見ていないから、家で引きこもってる?あ、遠くに引っ越しちゃったのかな。それとも……病院で眠ったまま、とか?」
なんで知ってるの?私と栞ちゃんだけの秘密なのに。
「……あんた、なんなの」
「まあまあそんなに睨まないでよ。美人が怒ると怖いんだから」
「からかってないで、本当になんなの」
「僕はー、あの日あの場所に居た」
「え……?」
「君たち二人を助けたって言ってもいいかも。救急車と消防が来る前に、気を失っている君たちを外に出した」
「そんな……」
そんな展開、私たちが書いたシナリオにはもちろん無い事だった。認めるべき?しらばっくれてもまだ間に合うかな……。そう動揺している私に、相田は言った。
「僕は味方だよ、そんな怯えないで」
「味方?」
「君の秘密を誰かに言おうとか、そんなこと考えてないから安心してよ」
「そんなの、どうやって信じろって言うのよ」
「……僕はただ、栞ちゃんに楽になって欲しいだけなんだ」
「栞ちゃん?栞ちゃんはあんたがあの場所に居たこと、知ってるの?」
「ああ、ついこないだ話したよ。二人が公園で言い合ってた後に」
「それで栞ちゃんは何て?」
「邪魔しないでってそれだけ」
「……そう、そう言うことだよ。味方とか要らないから。私たちは二人で美里の人生を守るために……」
「栞ちゃんは、普通の人だった」
そう言った相田の顔は寂しそうだった。そして、まるで私に縋るように言葉にした。
「栞ちゃんを、元に戻して欲しいんだ。あの事件以来、彼女は変わった。僕なんかにも笑顔で話しかけてくれるちょっと変わった子だったけど、普通じゃ無い事を、普通だって言う子ではなかった」
私の存在を初めて知ったであろうあの日、栞ちゃんは妙に肝が据わっていて、目の前が血だらけでも動揺しなかった。どう見ても普通の家庭で起こり得ない事が起きていたのに、動揺する美里を宥める言葉すらかけていた。私はてっきり、栞ちゃんは何か家庭に問題があったり、性格的に闇があると思っていたのに、『普通の人』だった……?あの事件が栞ちゃんを変えてしまったの……?
最近の栞ちゃんは私でも怖いと思う時がある。美里の人生を続けさせようと必死だ。実際に美里として生きているのは、私なのに、美里が現在を『生きている』と言うことに執着している。
「どうやったら、元に、戻るの……」
「それは簡単だよ」
「簡単?」
「和泉くんに全て話すんだよ」
「え……でも栞ちゃんはダメだって」
「大丈夫。入れ替わってることを話したらダメなんだよ。事件のことは話していいと思う」
「なんで?なんでそれが栞ちゃんを元に戻すことになるの?もしかしたら凄く怒るかもしれないのに」
「背負いすぎてるから。和泉くんは栞ちゃんのいとこでしょ。二人の仲の良さは小学生の頃から見てきてるから知ってる。そんな相手にも嘘をついて、抱え込んでいるものが大きすぎる。栞ちゃんはきっとあの日、自分を一気に大人にしたんだ。七瀬さんを守るために。それでおかしくなった ……だって、君に七瀬さんの人生を生きてなんて、そんなこと言い出すの、どう考えてもおかしいでしょう?」
「……」
「君だって、薄々そう思ってたでしょ。何してるんだろうって、私の美晴としての人生はどこに行ったんだろうって」
「……うるさい、分かったようなこと言わないでよ!あの時はそうするしか美里を守れないと思った。当事者でも無いくせに……」
「ああ、分からないよ。君の気持ちも、栞ちゃんの気持ちも、他人の気持ちなんて所詮分かんないんだよ。だから、和泉くんがどう思うとか、七瀬さんがどう思うとかそんなこと考えずに、君として行動してよ。本当は、打ち明けたいんでしょ、和泉くんに」
「……」
「あの作文、そう言うことでしょう」
図星だ……。あの作文は、私の心の底からの叫びだ。和泉碧に向けて書いたと言ってもいい。もしもこの先、本当の事を知ったとしても、貴方だけは美里と、そして私から離れていかないでと願って書いた。
「試してみてよ、和泉くんが君たちが隠してる秘密を知ったらどうなるか。僕興味があるんだ」
「なにそれ……そんな遊び感覚で言わないでよ」
「やだな、違うよ。人一倍の正義感を持つ和泉くんが、自分の好きな人が犯罪者だって知ったらどうなるか、本当は君も興味あるんでしょ?君の気持ちを代弁したつもりだったんだけど……違った?」
次から次へと私の心を読んでくる相田は、少し奇妙だった。同じクラスに居るけれど、いつも一人でいるし、前に女子たちが「気持ち悪い」と悪口を言っていたのを聞いたことがある。あながち間違ってはいないかもと思った。どこか奇妙で、気味が悪い。
「……分かった。私のタイミングで、和泉くんには話す。それで栞ちゃんが少しでも楽になるなら、話すよ」
「良かった。ありがとう。それと……和泉くんはきっと君から離れて行かないと思うよ」
「なんでそう言い切れるのよ」
「だって和泉くんは昔から七瀬さんの『ナイト』だから。じゃ、僕は行くね」
相田は、簡単に私の言葉を信じて帰って行った。あの公園で咄嗟に「和泉くんにはちゃんとしたいから」と言ってしまった手前、もちろん言わないととは思っていた。でもまさか、相田に急かされてしまうなんて。それほど相田は栞ちゃんを守りたいと思っているんだろう。栞ちゃんが美里を守りたいと思っているのと同じくらいに。
『ナイト』くさい言葉だけれど、憎たらしいくらいに羨ましい。美里はいつも和泉くんに守られてきたんだ。あの時、美里が和泉くんの話をしていた時も、とても幸せそうな顔をしていた。満足気で、私には出来ない表情。同じ顔をしているのに、全然違う。……悔しい。私は和泉碧に秘密を話そうと決意し始めた。
それからはもう、怒涛の日々だった。和泉くんに話す為に屋上へ行き、ついに伝える日が来た時、なんとも言えない達成感と、焦りと、不安で、気分が悪くなりそうだった。
そして、相田が言ったように、和泉くんは私を守ると言ってくれた。持ち前の正義感で、犯罪者を毛嫌いしていると昔栞ちゃんが言っていたけれど、どうやらその犯罪者が美里となれば別の話らしい。それは私が生きている美里が、信用されている証拠でもあった。
和泉くんは私を抱きしめた。初めて異性に抱きしめられて、心臓が鳴り止まなかった。心臓の音が聞こえていないか不安だった。栞ちゃんにどれだけ怒られてもいいと思った。この幸福感だけで、やり過ごせると本気で思った。
本当は美里じゃないって言いたかった。そんな事を言ったら、和泉くんはもっとすごい顔をするんだろうけれど、美里が見た事のない彼の顔を見てみたくなった。けれど、それは出来ない。伝えて軽蔑された時のショックに私は耐えられない。美里が好きなんだと目の前で言われたら、きっと私は……。
私にとって初めての幸せな日々が訪れると思っていたのに、予想外なことが起きた。あの裏掲示板にまた書き込みをされてしまった。それもあの秘密を打ち明けた瞬間の映像まで。誰がやったんだとなる前に、みんなは私を物凄く軽蔑した目で見つめた。いつかこうなる日が来るのかもしれないと、頭の片隅にはもちろんあったはずなのに、私は和泉くんとの未来を勝手に想像して今を見ることを忘れていたのだ。
慌てる和泉くんの背中を見ると、どうも頼りない。怯えている小動物だ。あんなにもいつも明るくて、女子から人気で、クラスの中心で信頼されている彼が、今はクラス中から変な目で見られている。普段和泉くんに色目を使っている女子たちも、軽蔑している目で見ている。人は、一瞬で変わる。今までのことが嘘かのように、姿を変える。私はその事を、よく知っている。
私は教室から逃げ出した。そして、和泉くんからも逃げた。もしこれで、彼が姿を変えてしまったら、私は生きてはいけない。本来の計画は崩れ、美里の人生が台無しだ。美里が犯罪者扱いをされて、みんなから白い目で見られて……仕事に就いてもクビになり、仕舞いには和泉くんまでいなくなる。
私はそこで自分のしてしまったことの重大さに気がついた。栞ちゃんの言う通りに、和泉くんにも言うんじゃなかった。言わなかったら、動画なんて撮られなかったのに……。私は泣きながら栞ちゃんに電話をした。すると栞ちゃんは、次の日に日本に帰国し、私のいる施設まで会いに来た。
そうして、私たちは次のシナリオを考え始めた。私は全て栞ちゃんの言う通りにすることにした。和泉くんには連絡を返さず静かに過ごし、転校先が決まったら、学校に連絡をした。和泉くんにも、「引っ越すことになった」と伝えた。
離れたくない。顔が見たい。美里のままでいいから側に居たい。でも迷惑はかけたくない。笑顔を奪いたくない。私の「ナイト」を私が守りたい。
私は栞ちゃんの言う通り、和泉くんから離れる事を選んだ。もう会えないかもしれない。そう思っても、本来の目的を見失わないように、美里の顔だけ思い出した。和泉くんの言葉が、胸を刺してくる。それでも私は美里だから。美里ならきっと和泉くんの笑顔は奪えないって言うから。そう必死に心で唱えて、振り払った。そうやって、あっという間に私と和泉くんは会わなくなった。
―八年後
「まだお腹痛いんです〜」
「とか言って今日ずっとここにいるわよ?佐々木さん」
「だって先生と話してる方が楽しいんだもん」
「それは嬉しいけど、授業に出ることも大切よ?単位取れなかったらどうするのよ〜」
「そん時は女神の力でどうにかしてよ!」
「何バカなこと言ってんの、ほらもう痛くないでしょ!教室行きなさい!」
「は――――い」
遠のく足音を確認してから、コーヒーを淹れる。いい香りが部屋に漂い、至福の時間だ。
養護教諭になって二年。たった二年でも沢山の子供達を見てきた。中学生は難しい年頃。授業がつまらない、教室に居づらい、特に何もないけどだるい。毎日色んな生徒がここへ来る。ピークの時には、三つあるベッドが全部埋まり、本当に体調不良になった生徒が寝られないと言う事態になったこともあるくらいだ。
窓から見える運動場では今日も元気に生徒達が体育をしている。子供は無限に元気があっていい。走り回って、転んで、それで学べばいい。可能性は無限大なのだから。
「保健室の先生って基本暇そうだよね」
生徒にそう言われたことがある。正直、私も学生の頃はそう思っていた側だ。いつ行っても話し相手をしてれるし、呼び出されたらすっ飛んでくる。でもいざ養護教論になってみると、健康診断の資料作りや、アレルギーがある子の給食依頼、視力検査の先生とのやり取り、その他諸々の資料作りで意外と忙しくしている時もある。勿論、暇な時がないと言うわけではない。他の教論達に比べたら、緩い業務かもしれないが、生徒の相談相手になるのも、なかなかに体力を使うのだ。
そして、相談に来るのは生徒だけではない。もっとも深刻な悩みを打ち明けに来るのは教論達だ。たまにプライベートな話も相談に来る人もいる。私はただの養護教論に過ぎないのにも関わらず、なんでも解決してくれる神様のように思われているのだ。
一人一人の相談に親身になり、いくつかの選択肢を用意すると、意外とそれが解決への糸口になることが多い。でも基本、話を聞いてほしいだけの人が多いから、「うんうん」と頷くだけでも解決したと錯覚しやすいのだ。数々の相談を解決してきた私は、いつからか「女神」と呼ばれるようになった。
今日の晩御飯何食べようかな。そんなことを考えるくらいに暇な日。昨日魚を食べたから、今日はお肉にしよう。最近食べていない生姜焼きにしてみるか。お味噌汁はなめこのお味噌汁にしよう。あれ、レタス家にあったかしら。ついこの間買ったような、買ってないような。……最近やたらと物忘れが多い気がする。
「女神先生〜」
弱った声でノックも無しに入ってきたのは国語教論の早乙女莉央先生だ。彼女は私と同い年で、親友ってわけではないけど、仲が良い方だ。基本いつも、一方的に彼女が話している。
「あーもうその呼び方……」
「聞いてください。昨日例の彼と食事に行ったんですけど、三千円でいいよって言われたんです〜」
「三千円?割り勘ってこと?」
「いいや?お会計が二人で八千円くらいだったんですよ。それで三千円で良いよって、そんなの無くないですか?!」
「コーヒー飲む?あ、えっと、と言うと?」
「飲みます!だって、割り勘だと四千円じゃないですか、それで三千円で良いよって……私には千円しか払う価値ないってことですよね?!それだったらきっちり半分払うんですけどって話じゃないですか〜ていうかそもそも、奢ってもらう気なんてなかったんです私は!」
「うん、確かに。千円奢られてもね」
「そうなんです。もうそこから一気に萎えちゃって。二件目誘われたんですけど、断って帰ってやりました!」
「お!それは正しい判断」
「ですよねですよね〜あー昨日の時間無駄だった――――」
「はい、コーヒー」
「ありがとうございます!わー良い匂い!」
「その人ってアプリで出会って人だっけ」
「そうです。また探さなきゃ〜」
最近は恋愛を始めるのに携帯を使うらしい。それはここ数年で一気に普及したように思える。恋愛事はよく分からないけれど、少し前まではそれを使っている人の方が変だという風潮にあった。
「美里先生はやらないんですか〜?アプリ」
「私はいいよ〜」
「今どき珍しいですよ?彼氏いなくてアプリやってない人」
どうやら大人になると出会いの場が激減し、恋愛に進む方法が分からなくなるらしい。だからアプリを通して恋愛をしたい人が、同じく恋愛をしたい人を探し求める。確かに物凄く合理的な方法だ。
「先生って彼氏いたことあります?」
痛いところを突かれた。
「あるよ?そりゃ」
「へ〜先生の彼氏とか見てみたかったな〜絶対大人でかっこいいんだろうな〜」
私はあれからたくさん嘘をついて生活をしてきた。今では何も考えずに、悠々と嘘が吐ける。店長に嘘を吐き年齢を誤魔化してバイトをして、お金を稼いだ。そこで出会った人に、両親がいないことを生まれつきだと言い、人間の良心に漬け込んだこともある。
和泉くんと会わなくなってから八年。私はあの頃よりも酷い人間になった。真っ当に生きるように、養護教論の資格をとり、バイトで知り合った人に紹介してもらい学校の校長先生にアポイントを取った。そうやって、生きてきた。栞ちゃんとは相変わらず連絡は取っている。いつでも簡単に会えるわけではないけれど、私が美里として生きている事を一番理解してくれている人だから、味方が一人でもいると安心する。
和泉くんがいなくても、なんとかやってこれた。それは美晴としての夢が出来たからだと思う。
キーンコーンカーンコーン
「あ、やば、次授業だった。あ、先生に紹介したい人いるんです!また話しに来ますね!
それじゃ美里先生またあとで!」
「うん?はーーい」
数十分ぶりに静まり返った室内。急に冷房の強さを感じ、設定温度を一度下げた。 私には恋愛なんて必要ない。私はやっと見つけた。絶望からの光を、私は見つけた。目の前の手帳を開き一番後ろに挟んでいる古びた作文用紙を手で摩った。そして机の中にしまってある一冊のノートを取り出す。ここには調べた内容がずっしりと書かれている。
・加賀真人(十五)父:文徳(四十八) 母:聡子(四十)
・加賀医院創立三十周年
・加賀文徳…病院経営、昨年から医院長
・加賀聡子…専業主婦
数々のメモと、写真。三年四組の加賀真人。彼と言う私のやるべき目標を見つけたのだ。
ガラン
ノックもなしに開かれたドアの音に心臓が昂るくらいには驚いた。見覚えのある顔と「加賀」の名札が目に入った。
「せんせー頭痛いんで寝ていいっすか」
「う、うん勿論こっちどうぞ」
仕切りのカーテンを途中まで閉める。
「薬あるけど、飲む?」
「いや、寝れば治るからいい」
「そう、じゃあ時間になったら声かけるわね」
「ふぁーい」
あくびが混じった情けない返事をし、加賀くんは背中を向けた。
カーテンを閉めて、椅子に腰を掛ける。慌てて閉まったノートをもう一度開く。資料の最後のページにある自分で書いた文字を見つめた。
[背中に無数の痣…虐待?家庭内暴力?]
そしてカーテンの向こうを透視するように、眠っているはずの加賀くんを見た。
夜十時。「加賀」の表札を掲げている大きな一軒家の周りをぐるっと一周する。すると、ガシャンとお皿が割れる音が聞こえた。
「父さんもう辞めてってば!」
「うるせー!俺がいないと何もできないくせに!」
根太い声が耳を澄ますと聞こえてくる。
「最近多いのよ〜こういうの」
声のする方に振り向くと、犬の散歩途中のおばさんが大きな一軒家を眺めながら突っ立っていた。
「ここ、よく通るんですか」
「そうよ、うちの子の散歩コースなの」
うちの子とは、今必要に私を見つめ、息を漏らしているフレンチブルドッグだろう。
「病院の経営ってストレス溜まるのかしらね〜」
「こう言うのが始まったのは最近ですか」
「うーん多分ね〜私も最近気づいたのよ。この前なんて食器の割れる音でうちの子吠えちゃって〜」
「ああ……」
「でもご主人普段はすごくいい人なのよ〜うちの旦那が病気した時とかほんっとよくしてくれてね〜おまけに格好いいでしょ」
「……そうなんですか」
「ストレスなんだと思うわ。でもまあ奥さんも食わせてもらってるんだから辛抱よね。男は色々あるから。あと、ここだけの話、ここらじゃ奥さん不人気なのよ。いっつも憎たらしい笑顔ばかり振り撒いて、医院長のことも唆したって噂もあるしね」
捨て台詞のように吐き出し、おばさんは歩いて行った。私はしばらく塀に背中をつけて、今夜の暴音に耳を澄ました。見上げると、満月の光にうっすらと雲がかかっている。光が雲隠れしていてまるで私みたいだ。
目を閉じると、美里が脳裏に現れた。私は笑っている美里に向かって、願う。「どうか許してね」そう願うと、美里はさらに笑う。喜んでいるように見える。私が選んだ選択は、間違っていないみたいだ。
ただ美里の人生を真面目に生きて、いつもと変わらない日々を繰り返していくうちに、養護教論をしながら終わりの見えない迷路に迷い込んだような気分になっていた。美里はいつまで経っても目を覚まそうとしないし、これでは私としての人生が勿体無いのではないかと思うようになった。そう思っていた矢先、加賀真人の背中にある痣を見た。
あれは先月の二十五歳の誕生日の日だった。次が体育だと言いながら保健室に来て、颯爽にベッドのカーテンを閉めた。
「ちょっと、またサボり〜?はい駄目です!ちゃんと出席してくだ…さ、い…」
カーテンを勢いよく開けると、てっきり寝ているもんだと思っていた加賀くんは体操着に着替えている途中で、チラッと背中の痣が見えた。ちょっとぶつけた程度では着くはずのない色と範囲。
「あ、ちょっとやめてよ。先生変態じゃん!」
「加賀くんそれ……」
「あ、やべあと五分じゃん。じゃ行ってきまーす」
「ね、ねえ!」
私が引き止めると、加賀くんはピタッと足を止め、くるっと華麗に振り向いた。
「先生」
「え、ん?」
「……誕生日おめでと」
今までに見たことのない大人に向ける笑顔だった。好かれようとするような、媚を売るような笑顔だったように思える。見たものを忘れろ、そしてこれ以上聞こうとするな。そう言われているようだった。
加賀くんが今いる立ち場は、聞かずとも分かる。今の加賀くんは昔の私だからだ。体育の度に保健室に来る頻度が増えて、夏なのにジャージを着たりするようになってから、どうやら私の奥底に眠っていた微力な正義感が、目を覚ましたらしい。助けたい・何かしてあげたいそう思うようになった。別にヒーローになりたいわけでもなく、正義の味方になりたいわけでもなかったけれど、見過ごすことがどうしてもできなかった。それは加賀くんに対して、可哀想だと思っているわけではなく、「やっと見つけた」そう感じたからだ。
養護教論になってから二年。教師になってから初めて、自分と同じ境遇の人は滅多にいないと言う事を知った。
世界は広い。親から受けた愛で苦しんだのは、私達だけではない。あの頃の私たちと同じ歳で同じ境遇の人は必ずいるはずだ。私は心のどこかでそう思って生きてきた。
一人でバスを待ってるあの子も、家に帰ったら美里のように殴られているのかもしれない。暑いのに長袖を着ている人は、傷口を隠したいのかもしれない。笑っているあの子も、俯いているあの子も、家には怪物がいるのかもしれない。バイトをし始めて、世界が広くなったからなのか、そうやって私はいつの間にか探し求めていた。
見つけてどうしたいとか、どうなりたいとかを放ってしまうくらいに、ただ漠然と探した。私達だけじゃないと思いたかったからだ。
同じ中学生で、両親から暴力を受けて苦しみ、でもそれを受け止めてしまっている人。嫌だと言えない。逃げられない。親は親。大事な人。
だからこそ中学校の養護教論になった。普通科の教論より、詳しく家庭内の状況を聞いても不思議ではないし、こちらが聞かずとも生徒の噂が流れてきて、より自由に生徒が集まる場所だからだ。
でも私の期待は裏切られ、三学年の全てと言ってもいい生徒を二年間も見てきたのに、私と同じ境遇の子はいなかった。それなのに、突如として現れたのが加賀真人だ。あの傷口を見た瞬間から、この子を救いたい。どんな手を使ってでも。とそう思った。これは誰にも相談していない。栞ちゃんは、ただ真面目に美里としての人生を歩んでほしいと思っているだけだ。こんな事を話したところで、きっと止められる。
「先生〜怪我した〜」
体育を終え戻ってきた加賀くんは唇から血を流していた。
「え、ちょっと何したの」
「……喧嘩」
ガーゼで治療をしながら、ジャージを着たままの加賀くんの手当てをする。
「喧嘩ってまた……どうしたの?」
「ジャージ脱がされそうになったから抵抗しただけ」
「……そっか」
「先生……もう気づいてるんでしょ」
上目遣いで聞いてくる加賀くんは、やはりほんの十五歳の少年だ。
「先生だけしつこく聞いてこないから居心地良くてさ、いつもここで着替えてたわ。あ、別に可哀想とか思わないでよ。別に俺は平気だし、父さん酔っ払うと手が出るってだけで、手に負えないわけじゃないし。俺だって一応男だしね。ほらっ」
まだまだ細身の腕の力こぶを布越しにアピールしてきた。
「可哀想、なんて思ってないわ。ただ……」
「先生手止まってる。早く絆創膏貼ってよ、チャイム鳴るよ」
「助けてあげる」
「……ん?」
「先生に任せて」
「えっと……それはー……」
私の顔を見て、加賀くんは息を呑んだ。後から聞いた話だが、どうやら私は、酷く憎しみに満ちた顔をしていたらしい。そしてその時の彼は、そんな私に、自分の考えを全て見透かされているようで焦っていたらしい。
「俺もういくわ」
絆創膏も貼らずに、加賀くんは私から逃げるように保健室を出て行った。
それから一週間、加賀くんは保健室に来なかった。廊下ですれ違っても、わざと教室を訪れてみても、私は明らかに警戒されていた。誰かから必要に警戒をされている状況は久しぶりだった。
加賀くんとちゃんと話さないと。軽蔑され続けても、話は続かない。きっかけになることが起きる前に話さないと。私を頼りたいと、私に助けてと言わざるを得なくなる前に、話さないと思っていたのに。事は起こってしまった。
ある日の朝、登校してきたその足で加賀くんは保健室に来た。
「どうしたのこんな朝から」
私が声をかけても黙ったまま突っ立っていた。すると、加賀くんは黙っていきなり制服を脱ぎ始めた。ハッと察した私は窓のカーテンと、ドアの鍵を閉める。そして振り向くと、傷だらけの身体が露わになっていた。
骨折を疑うほどの青紫の痣と、無数の火傷の跡。私はこの火傷の跡を知っている。美里の腕にもあったはずだ。息苦しくなった私は、自身の腕を摩った。
タバコの火だ。この小さな丸の火傷はタバコだ。そして、加賀くんの腕にはリストカットの跡が一つ。私はゆっくり近づき、手を取った。そして腕の切り傷をなぞった。
「これ、俺がやったんじゃないんだ。母ちゃんおかしくなっちゃって、一緒にって。俺、何も言えなかった。母ちゃんの気持ち、すごく分かるから」
加賀くんは一筋の涙を流した。魂の消えたような表情で、そして、怒りさえ失った表情で静かに泣いた。まだほんの十五歳なのに、大人びた表情だった。まるであの頃の美里だ。そっくりだ。私は静かに加賀くんを抱きしめた。すると小さな声で、「助けて」と呟いた。「うん。よく頑張ったね。よく言えたね」と、私が背中を摩りながら言うと、声を出しながら泣いた。
落ち着いてから話をしようとしたが、チャイムが鳴ってしまい、放課後に会う約束をして加賀くんは教室に戻っていった。泣いたことに気づかれずにいるだろうか。茶化されていないだろうか。私は一日不安で仕方なかった。
放課後、加賀くんは再び保健室を訪れた。私は誰も入ってこないようにと、鍵をかける。
「みんなが、俺を変な人だって言うんだ。こんなクソ熱い日になんで長袖着てんだよって。俺だって脱ぎたいよ。でも脱いでこの醜い体が顕になったら、俺はたちまち可哀想な子に転落する。だったらまだ、変な人って思われてた方がマシじゃん」
「うん」
私は静かに相槌だけを打つ。
「先生、俺って結構ネットで勝ち組なんだ。親ガチャ当たって羨ましいとか、その顔に生まれたかったとか。みんなが俺になりたいって思ってんだ」
「うん」
「笑っちゃうっしょ。上部だけの笑顔にみんな騙されてやんの。あんな父親の息子なんて、変われるもんなら変わるっての」
病院の跡取り息子として、加賀くんがちょっとした有名人だと言うことは、この学校に勤務をしていたら嫌でもわかる。両親の間に出来た待望の子供。私の資料にも書かれている。当時、親戚中が喜び、その祝いのプレゼントは相当な物だったと。
「先生、俺考えたんです。先生が助けるって言ってくれたのは嬉しかったけど、どう考えてもあの父親に勝つ術がない。家を出れたらいいけど、悔しいけどまだ一人じゃなにも出来ないし、母ちゃんだっているしさ……いっその事母ちゃんと死んだ方がマシなのかも」
「そんなことない……」
悪魔を野放しにして自分が人生を終わらすなんてそんなことしてはダメ。
「これは、タバコの火。これはバッドで殴られた時のやつ。これはー……」
加賀くんは服の上からあらゆる痣を見せながら、どうして出来たのかと、丁寧に説明をし始めた。男女の差なのだろうか。肝が据わっている。私があの頃外に出ていたら、あの出来事をこんな流暢に話をすることなんてできなかったはずだ。加賀くんの話す口を見ていたら、急に眩暈に襲われた。
―あんたなんかに!あんたなんかに私の気持ちなんて分かるわけないでしょう!!!!
―熱いよ……痛いよ……ママやめて!ママなんでもするから!
―私が体弱いのもねぇ。あんたのせいなんだよ!!あんたを産んだからなんだよ!!!あの人が私に愛想尽かしたのもねぇ。元はと言えば全部あんたのせいなんだよ!!…ほらこっちへ来なさい!
―ごめんなさい!ごめんなさい!なんでも言うこと聞くから許してください!いやぁあああああああ
腕を引っ張られ、到底太刀打ちができる状況ではない。いつも陥る『逃げられない』絶望。そのまま真っ暗な暗闇へと押し込まれていく。
―怖い!ママ怖いよぉ。うっうっ
目の前がぐるぐると回る。これは……私の記憶?あれ、これは美里なの……?……息ができない。
―はぁ…はぁ…息が、苦しい…助けて。助けて。助けて!!!
「まあたまたま事故ったり?通り魔に刺されたりして死んでくれたらいいけど、そんな都合のいいことなんてないしさ、いっそのこと殺せたらいいけどそんなことはー…って、え?」
下を向いて話していた加賀くんが私の表情を見て口を止めた。そしてギョッと青ざめた表情を浮かべている。
「……本気で父親、殺したい?」
「先生……?」
加賀くんはゴクリと唾を飲んだ。
「私が殺してあげる」
あの日の、母親が動いていると知っていながら火を放った私がここにいる気がした。自分でも分からない。でも物凄く、この子を助けたいと強く思う。
「先生……?」
加賀くんの声でふと我に返ると、目の前には目をまん丸にして驚いている加賀くんがいた。
「えっと、そのー……」
なんて言えば、どう説明したら分かるのだろうか。これを話すには少し時間がかかる。いや、物凄くかかってしまう。私の過去を話す相手は加賀くんなのだろうか。加賀くんでいいのだろうか。
「先生も、もしかして俺と一緒なの?」
何かに気がついたような表情で、加賀くんは真っ直ぐ私の中に入り込もうとしてきた。
「ううん、違うよ」
見え見えな嘘をつくのはむず痒い。嘘はほんのちょっとの真実を混ぜなければ、成立しないからだ。
「でも……」
「先生は、加賀くんとは違う」
「先生……もしかして……」
その後に続く言葉を、言わせてはいけない気がした。
「先生はね、人を殺したことがある」
加賀くんの瞳孔が開く。驚いている証拠だ。人殺しはそうそう身直にいない。驚いて同然だ。
「驚いた?」
「え。ま、まじ?」
「うん本当」
「え、えっっと、……どうやって?」
このカミングアウトにどうやってと聞く人は、きっと殺したい誰かが居る人しかいない。やはり、加賀くんは父親を殺そうとしていたのか。
「オレンジの光。息が苦しくなる匂い。目の前を覆う燻んだ雲」
そう言うと加賀くんは少し考えて
「……炎?」
と口にした。私は静かに頷く。そうすると、それだと言わんばかりの表情で、加賀くんはまたゴクリと唾を飲んだ。
それからはもう、言うまでもない。私と、加賀くんの意思が、そうさせたと言うまで。
私はまず父親からの一番の被害者であろう母親に会った。加賀くんが大まかには事前に話してくれていたみたいで、楽だった。母親は酷く衰退していた。顔にも痣ができ、満足に食事をしていないようだった。
私が自分の事情とこれからすることを大まかに話すと、母親は泣いて喜んだ。自分の夫が死ぬと言うのに、こんなにも泣いて喜ぶなんて、よほど日頃から殺したいと思っていたんだろうと思った。
私も、人を殺すことはダメなことだと知っている。一度殺しているから二度なんて同じだ、なんてことは思っていない。私も大人になり、法律を知った。警察に相談すれば、きっと味方になってくれるだろう。
でも、苦しめられている人が必死に耐えて、死にたいとまで思っているのに、警察に突き出しただけで、それは終わったことになるのだろうか。この世に存在している限り、恐怖は拭えない。ただでさえ、記憶に残っている限り自分が死ぬまで離してもらえないと言うのに。捕まって、刑期が終わったら出てくるなんて、甘ったるいったらありゃしない。そんなこと、あってはならない。私が加賀くんを解放するんだ。
私がした行動は全てがその思い故だった。それは、和泉くんと再会しても、変わらなかった。運命なのか、偶然なのか、再会したときはもちろん嬉しかったけれど、同時に、私の計画の邪魔はしないでと願っていた。
和泉くんは相変わらずで、今の私からしたら眩しくて見られなかった。普通の人間と普通じゃない人間はやはり違う。たくさん嘘をついてきているのに、あの頃と変わらない目で私を見つめてくる和泉くんに、どうも思ったように話せない。
私は、和泉くんが好きだった。美晴としてちゃんと好きだった。けれどもう、その思いは無いに等しいかもしれない。なぜなら、それ以上にやるべき事を見つけてしまったから。それ以上に、私を求めている人を知ってしまったから。
もう、和泉くんを私と、そして美里から解放しようと思った。だから、私は栞ちゃんに言われた通り、手帳を置いた。
そして、私もこの世と別れを告げようと決めた。美晴として全て解放されたいと、願ってしまったから。秘密は守る。嘘もつく。それらを簡単にやって遂げたけれど、やはりそれらは確実に体力を削った。心を無くした。美里が眠りから醒めないみたいに、私も、眠ってしまおうと決意した。
そんな私に栞ちゃんは、「そんなことしたら、私一生許さないから」と怒っていたけれど、栞ちゃんも、和泉くんも、好きなのは「美里」でしょう。美里が目を覚ますかは分からないけれど、本物の美里は生きているじゃない。私がいなくなった所で、美里の罪が消えるだけ。
私は、美里の人生を生きている、双子の妹の美晴。加賀くんを助けることができたら、美晴の人生は終わりよ。あとは、せいぜい美里が好きな人達で、楽しく過ごせばいい。私はもう、疲れた。もう、解放されたいの。



