東雲とばりは諦める

「宵山君、ちょっといいかしら」
 降り続く雨もようやく陰りを見せ始めた日の放課後。天体観測ができる季節になって少しばかり勇み足で部室に急ぐ俺に、背後からの声がブレーキをかけた。
「どうかしたんですか? 七海(ななみ)先生」
 はやる気持ちを抑えるようにリノリウムの床がきゅっと鳴って、振り返る。すぐ後ろには、スーツをかっちりと着込んだ小柄な女性教諭――七海かすみ先生。
 身長の低さや幼い顔立ちのせいで他の生徒からはしょっちゅう「かすみちゃん」とあだ名でからかわれているが、俺も同じようにあだ名で呼ぶわけにはいかない。なにせこの人は、天文部の顧問なのだ。
 七海先生は、申し訳なさそうに眉根を寄せて、訊いてくる。
「天文部の様子はどうかなと思って。最近、吹奏楽部の方が忙しくて天文部にも美術部にも顔を出せてなかったから」
 真面目だなあ。部活の顧問なんて、興味のない先生からしてみれば面倒事以外の何物でもないだろうに。しかも複数の顧問を掛け持ちしている。吹奏楽部の顧問だけでもきっと大変に違いない。それなのに気にかけてくれるのはおそらく、この人がまだ熱意あふれる新米教師に分類される教師だからだろう。
 そんな風に心配してくれる先生が顧問なんだ。俺も誠意をもって答えないと。
「はい、順調ですよ」
 もちろん嘘だった。
 碌に活動出来てません。なんなら部長が率先して関係ない活動をしてます。なんて口が裂けても言えなかった。真面目な七海先生のことだ。もしバレたら部活動の休止、部費削減、最悪の場合は廃部なんてことにもなりかねない。
「そう? ならいいんだけど……部長の東雲さんに聞いても『問題ありません』って素っ気ない返事がくるだけだから」
 はは、そりゃそうでしょうね。
「何かあったら先生にいつでも言ってね。あんまり力にはなれないけど、顧問として精一杯がんばるから」
 七海先生は左右で握り拳をふたつ作る。
「かすみちゃーん。ばいばーい」
「こらー! 先生って呼びなさいっていつも言ってるでしょー!」
「あははー、ごめんごめーん」
 すれ違いざまに手を振ってくる女子生徒を叱るが、全く効果はないようで女子生徒は笑ってその場から離れていった。教師業も楽じゃなさそうだ。
「まったくもー……あ、そうだった。それで、今から天文部の様子も見に行こうと思うの」
「え」
 なんだって?
「ほら、さっきも言ったとおり、ぜんぜん部室に行ってないでしょ? 顧問として、ほったらかしはよくないもの」
 七海先生はふんす、と意気込む。顧問の責任感からか、やる気に満ちている。
 まずい。今来られたら色々と面倒なことになる。どうせ部長は今日も悠々自適に過ごしているだろう。部室で優雅にお茶しながら読書に耽っている天文部なんて、到底見せられたものではない。
「い、いやいや。先生もお忙しいでしょうし、無理して俺たちに気を回すことないですよ」
「でも顧問だし、そういうのはちゃんとしておかないと……」
 七海先生も中々引き下がらない。まったく、部長がもう少しうまいこと言っておけばこの人も心配することなんてなかっただろうに。
「そ、それより先生、そのストラップ、かわいいですね」
 これ以上話していると押し切られそうだったので、先生のポケットから顔を出していたサメのストラップを見て適当に話題を変えた。この間夕月の家で見たクッションと同じキャラクターだ。
 すると七海先生は途端に表情を輝かせて、
「宵山君、『しゃーく君』知ってるの!?」
「え、まあ……」
 まったく知らない。名前も聞いたこともない。自分で言っておいてなんだが、あんまりかわいいとも思えない。部活のことと言い、さっきから嘘ばかり言ってるからなんだか罪悪感が芽生えてきた。
「これ、限定品で手に入れるのすっごい大変だったんだよー」
「へ、へえー」
「まさか宵山君が知ってるだなんて、先生うれしいなー。あ、実は他にも持っててね? これなんだけど――」
 しまった。そう思った時には無邪気な笑顔に捕まり逃れることはできなかった。


「そろそろちゃんとした活動、しておかないとな」
 十分以上におよぶ七海先生の熱いトークからやっと解放された後。部室に向かいながら俺はつぶやいた。
 今はまだ七海先生を誤魔化せているからいいとしても、いつまでも活動成果がないのを隠し通せる気がしない。せめて何か形にしておかないと。
 だけど、部長があの調子じゃあな……。
 あの人が真面目に天文部の活動に取り組む様子が、どうがんばっても想像できない。とはいえ部長にも参加してもらわないことには部としての体裁を保てない。となると。
 やっぱり、『約束』で俺が勝つしかないよな。
 結局はそこに収束する。『諦め屋』の活動を終わらせるためにも、天文部のあるべき形を取り戻すためにも、それは必要で、達成しないといけない条件。
 俺が勝てば部長も大人しく天文部の一員として一緒に活動してくれるだろう。それこそ初めて会った屋上の時みたいに、一緒に天体観測だってしてくれるはずだ。
 そうとも。部長だって夜に屋上で星を見るくらいには星を好きなんだから、あとは俺が勝つだけでいい。
「ん?」
 と、部室を目前にしたところでポケットが震える。スマホのメッセージアプリに新着メッセージが入っていた。
「部長……?」
 東雲とばり:悪いけど、部室に来るのもう少し後にしてもらえない?
「は?」
 宵山晴人:どういうことですか?
 東雲とばり:いいから、諦めて適当に時間をつぶしておいて
「……」
 文字を打つ手が止まる。なんだいきなり。それも一方的に。
 何かあったのか。いや待て。この文章……諦めて、って書いてあるな。
 まさか、これで俺を諦めさせようとしてるんじゃあ。
 そんな危機感が頭に浮かんだ俺は、部室に行くスピードを速めた。これで俺が部長の返事が来るまで待っているうちに俺の負け、なんてかっこ悪いにもほどがある。
 考えているうちに、部室の前までたどり着く。部長がどういうつもりでこのメッセージを送ってきたのかはわからないけど、まだ『約束』は途中だ。それに俺だって天文部の一員。部室に入るのに部長の許可を得る必要なんてない。
「部長、どういうつもりかは知りませんけど――」
 問いただそう、そう思って勢いよく扉を開くと、
「えっ……?」
「ん?」
「きゃっ」
 目の前の光景に、硬直した。というか状況を脳内で処理できずにフリーズした。
 室内にいたのは、部長と夕月。そこまではいい。
 問題なのは、二人とも下着姿だったことだ。
 普段の部室の風景よりも、肌色が占める割合が大きい。おかしいな、視力は落ちてないはずなんだけど。
 夕月が身に着けていたのは、リボンのあしらわれたピンクのかわいらしいデザインの下着。前にチラ見したのとは違うやつだな。隣にいる部長のは……無地の黒。彼女の白い肌のおかげで、やけに映える。さすが年上、大人っぽいのをつけてるんだな。
「えーっと……」
「……っっ」
 目をぱちくりさせながら、俺の存在を認識する夕月。途端に、顔が茹でだこみたいに赤くなる。
「ハルの……バカァ――――――ッ!!」
 世界中に響くんじゃないかというほどの、夕月の怒号。
 というか、現状を飲み込めずに思考停止していても、眼前の映像は視神経を経由して脳にと届くんだな。人体って不思議だな、まったく。
 なんてことを考えたのが最後。
 そこから数分間のことは、よく覚えていない。


 気が付けば俺は、部室の床に正座していた。いや、させられていた。
「さあ~て~?」
 眼前で腕組みしながら仁王立ちする夕月。当然ながら制服をちゃんと着ている。けれど顔はまだ真っ赤なままだ。対照的に、部長は普段と変わらず落ち着き払っている。それはそれでどうかと思うが。
「乙女の着替えを覗いたこの変態、どうしてくれようかなー」
「ちょっと待てって。そもそもなんでここで着替えてたんだよ」
 いつからここは女子更衣室になったというのだ。
「ああ、それはね」
 部長はいつもの癖でストールをいじりながら、
「あれを運ぶのを手伝ってもらうために、体操服に着替えていたのよ」
 指さした先――部室の隅には、昨日までなかった小さめの白い箱。冷蔵庫だった。
「なんですか、あれ」
「用務員室のものを取り換えるらしくてね。処分する予定だったのをもらったのよ」
「いや、それをなんでこの部屋に置く必要が」
「それはもちろん、来るべき夏に備えて冷たいものを常備しておく必要があるからよ」
 はい?
「この間までは梅雨で涼しかったけれど、これからどんどん暑くなるじゃない? 依頼人に出す飲み物も冷たくしないと」
 得意げに己の理論を話した。ほんと、この人は『諦め屋』のことに対しては行動力がすごいな。これを少しでも天文部本来の活動にも向けてくれればいいのに。そうすれば七海先生に変に心配されることもないだろうに。心底そう思った。
「そもそも、君が私のメッセージどおりにしてくれていたら、こんな悲劇は生まれなかったのに、ねえ星宮さん?」
「そうだよ! ハルが悪いんだから!」
 夕月が再び憤慨の声を上げ、話は俺への糾弾へと戻った。
「乙女を恥ずかしがらせた罪、どうやって償ってもらおうかな~?」
「待て、まずは弁護人をつけさせてくれ」
 怪しく目を光らせる夕月。後ろで部長はくすくす笑っているだけだ。完全に面白がってるなこの人。
「……あのー」
「ここでは私が法律だよ! ハルに弁明の権利はなし!」
「ひどすぎるだろそれ!」
 声高に主張したい。被告人にも人権を!
「あのー!」
「え」
「あ」
 と、声量の大きさの中に幾ばくかの心苦しさがこもった声に引き寄せられ、俺たちは一斉に入口の方を振り向いた。
「え……っと」
 開いたドアに立つのは、猫背気味の男子生徒。さっきの大きな声の主は彼のはずなのに、次に何を言うべきか逡巡している様子だ。
 が、彼はこちらに強張った顔を向けて、言った。
「お取込み中すみません。ここって『諦め屋』で合ってます、よね……?」