東雲とばりは諦める

 何度か経験しているとはいえ、この瞬間は慣れなかった。
 放課後の部室。二つ並べたパイプ椅子に座るのは、俺と部長。
 学習机を隔てた対面に同じように座すは、依頼人。つまりは桜庭先輩。
『諦め屋』が依頼を受けてから一週間後の今日。依頼人に結果を報告する日。
 まだ日は高い時刻のはずなのに辺りは薄暗い。朝からしとしと降り続く雨は、まるで桜庭先輩がここにやって来た日を再現しているかのようだった。
 今日、この人は、諦めることになる。
 いや、東雲とばりが諦めさせることになるのだ。
 それはどう言い繕ったところで、否定できない。ここを訪れる人間はみな、東雲とばりに対して依頼をしている。俺じゃあない。俺が「まだ諦めないでほしい」とどれだけ騒ぎ立てたところで、懇願したところで、この時間は必ずやってきてしまう。
 だけど……部長はどうやって諦めさせるつもりなんだろうか。
 ちらりと、横目で隣を見る。黒い髪先の隙間からは、いつもと変わらぬ落ち着き払った表情と、澄んだ黒い瞳。そこから彼女の考えを窺い知ることはできない。
 猫探しに躍起で話す機会もほとんどなかったこともあって、結局彼女からは今回の依頼に関する結論について何一つ教えてもらっていない。俺が依頼内容とは正反対の行動をとっていたからか、それとも単に信用されてないからか……。
「…………」
 今度は、桜庭先輩の方に目を向ける。唇をきゅっと引き結び、表情は強張っている。緊張からか、微妙に呼吸のリズムもどこか不規則に聞こえる。
 雨音だけが空気を震わす室内で、最初に口を開いたのは、やはり部長だった。
「それじゃあ、いいかしら?」
 依頼人への問い。それに答えたら、本当に後戻りはできない。
「……はい」
 だけど桜庭先輩は、首を縦に振った。引き返せない一歩を、踏み出した。
「わかったわ。でもその前に」
 部長は言うと、首に巻いたストールに軽く触れ、俺の方を向いた。
「この一週間、晴人くんが猫を探していてくれたのよ。念のために、ね?」
「えっ、そうなの?」
 まさかこっちに話を振られるとは微塵も思っていなかったので、俺は反射的に頷いた。
「桜庭先輩が聞き込みをしたのとは違うところで、聞き込みをしました。……でも」
 俺は必死に言葉を選ぶ。けれど、出てくるのは紛れもない事実を伝えるものだけで。
「でも、見つかりませんでした」
「そ、そうなんだ……」
 桜庭先輩の瞳が一瞬、一筋の光明を見つけたかのように開かれたが、俺の言葉を聞くや否やすぐに目を伏せた。
「すみません……」
「あ、謝らないで。むしろ探してくれて、ありがとう……」
 消え入りそうな声を聞いて、俺は自分の無力さが嫌になる。机の下で、拳にやり場のない力を込める。
 俺がもっとがんばっていれば――
 俺にもっと力があれば――
「そのうえで、私たちは一つの結論に辿り着いたの」
 と、俺の思考が遮られた。一つの、結論?
 話についていけない俺をよそに、部長は制服の胸ポケットから一枚のはがきサイズの紙を取り出して、机の絵に置いた。
 それは、写真だった。
「見ても……いいですか?」
「もちろん」
 桜庭先輩は身を乗り出して、おそるおそる見る。俺も気になって、同じように写真を覗き込んだ。
「……これって」
 全くの同時。俺と桜庭先輩の目は見開かれた。
 そこに写っていたのは、猫の姿だった。
 どこかの家に入っていこうとするところを写したと思われる写真。ぼやけているせいできちんと判別はできないものの、色合いや毛のもさもさ感は、一週間前に桜庭先輩から見せられた写真の猫と似通っている。
「それを撮ったのは、隣の県のとある家よ」
 説明を始める。俺も桜庭先輩も、写真から目を離せないまま黙って聞く。
「写真はぼやけたものしか撮れなかったけど、その家にいたのは間違いなく……桜庭さん、あなたの飼い猫だったわ」
「……ソフィー」
 ぽつり、桜庭先輩は猫の名前をつぶやく。
「たまにあるみたいね。飼い猫が違うところに住み着いたりとか。猫ってけっこう、気まぐれなところあるみたいだし」
 耳を傾けながら、桜庭さんは写真を手に取る。
「これはあくまで私の印象なのだけど、その猫は家の人たちにとても大事にされているようだったわ」
「そう、ですか……」
「これが、私たちの出した結論。そして後は……あなたが決めることよ、桜庭さん」
「私、が……?」
 写真から顔を上げ、桜庭先輩が聞き返す。
「そう、最初にも言ったとおり、あくまで諦めるのはあなた自身よ。私たちはその手伝いをするだけ」
「諦めるのは……私」
「だから、その家に行ってその猫は自分の猫だと主張しに行くもいいし……黙ってこの結論を受け入れるもよし」
 それが、彼女に課せられた、最後の決断。
「私は……」
 そこまで言って、再び手元に目を落とす。薄い写真の中に佇むその姿を見て、愛おしそうに目を細める。
 そして、一度ぐっと喉を鳴らし、
「私は、受け入れます……この結果を。諦めます……ソフィーのことを」
「そう」
 短く、部長は頷いた。
「いいんですか、桜庭先輩」
 いてもたってもいられず、俺は訊いた。隣の部長が眉をひそめた気がしたが、そんなの気にしていられない。
「……っ」
 桜庭先輩は写真を握りしめて、
「いいんです、これで」
 はっきりと答える。だけどその後に続く言葉は、ぽろぽろと崩れそうで、
「私、本当はずっと不安だったんです……ソフィーが死んじゃったんじゃないかって。でも、自分じゃ確かめることも……どうすることもできなくて」
 ……ああ、そうか。
 この人はずっと不安に駆られていたのだ。それを解消できる何かを、誰かを、ずっと探し求めていたのだ。そして今ようやく、その呪縛から解放された。
「でも、別の場所で、大切にしてくれる誰かのもとで幸せに生きているなら、私はそれで十分です」
 顔を上げてこちらを向く桜庭先輩。その顔に、今まであった陰りはない。
「では、依頼はこれで完遂ということで、いいかしら?」
「はい……ありがとうございます」
 これが、諦めるということなのか。
 桜庭先輩が浮かべる安堵の表情を見て、俺はそう思った。


「……まさか、部長がここまで調べてるなんて思いもしませんでした」
 何度もお辞儀する桜庭先輩が部室から出ていくのを見送ってから、俺は独り言のように言った。
 結局俺にできたのは、猫は逃げ出して野良猫みたいに彷徨ってどこかにいるだろうと、聞き込みして回ることだけだった。そこまでしか想像できなかった。だけど部長は全く別の可能性を考えて行動していたということだ。そこまで考えていたことに関して、俺は素直に感服していた。
 が。
「あれは嘘よ」
「……え?」
 聞こえてきた言葉に、目の前が一気に暗転したかのようだった。この人、今なんて言った?
 嘘?
「えっと……部長?」
「だから、さっき彼女に話した結論は、ぜんぶ嘘」
 ぴらり、とさっき持ち出したぼやけた写真を俺に見せてきて、
「これは、説得力を増すために私が用意した、いわゆる作り物」
 最近は普通のパソコンでもこれくらい簡単に作れるもの、と言って。
「じゃあ……本当は……」
「ええ。きっと彼女の飼い猫は、ソフィーはもうこの世にいないでしょうね」
 さらりと、自分の推理を述べた。水が低いところへ流れ落ちるように、言葉を続ける。
「あくまで状況証拠の域を出ないけれど、ほぼ確実だと私は思ってるわ。晴人くんも聞き込みをしてくれたし」
「それが、なんだっていうんですか」
 俺の聞き込みが、彼女の推理を裏付けているとでもいうのか。
 すると、部長はカバンから以前借りてきたと言った猫雑誌を見せてきた。
「知ってる? 猫の行動範囲って、だいたい五百メートルくらいなの。猫がいなくなってすぐに桜庭さんが周囲を探したけど見つからない。しばらく経って晴人くんが探しても見つからない。そこから得られる結論は」
「桜庭先輩の飼い猫は……もう死んでる」
「そうよ」
 迷う間もなく、東雲とばりは肯定する。
 たしかにこの人の推理は理屈が通っている。俺だって同じ条件のもとで考えれば、そこに行きつくだろう。……でも。
「どうして嘘、言ったんですか? 猫は生きてるなんて」
 そこだけは、何をどう考えても理解ができなかった。
「部長だってわかったでしょ、桜庭先輩があの猫をどれだけ大事に思っていたか! そんなに諦めさせたいんですか!」
「……晴人くん」
 問いただす俺の口調とは真逆。静かに、たしなめるように名前を呼び、こちらを向く。
「わかっていないようだから言っておくわ。『諦め屋』は、依頼人を諦めさせる手伝いをすることよ。推理して、真実を伝える探偵じゃないわ」
「……そんなこと、わかってます!」
「じゃあ、訊くけれど」
 すう、と目を細めて、
「仮に真実を話したとして、果たして彼女はちゃんと諦めることができたかしら? 自分の気持ちに、折り合いをつけることはできたかしら?」
「それは……」
「ここに来た以上、私はどんな方法でも諦めさせるわ。たとえそれが嘘であったとしても」
 窓を背に、太陽の光を背に、言う。いつか『約束』をした時と同じ構図だった。けれど、薄暗い天気のせいで、できた影のせいで。彼女の表情は、感情は、全く読み取ることができない。
 それ以上、俺は彼女にかける言葉を見つけることは、できなかった。